2017年06月21日

『夜と霧』が伝える人間の尊厳

c48a0b65.jpg戦前と全く同じことが起こるとは思えませんが、戦後70年を否定的に評価して、戦争の時代に後戻りさせようとする権力意思が露骨な世の中になってきました。人権の尊重や、思想・信条の自由に制約が求められているようです。歴史を振り返る必要をあらためて感じます。

突然ですが、アウシュビッツ強制収容所には、旅行で訪れて強烈なインパクトを受けました。最近いくつかの読書体験をしたこともあり、ナチ・ドイツ時代を学習しながら思いを記します。

「ホロコースト」は、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表わす言葉として知られています。1978年にアメリカで放映されたテレビドラマのタイトルに由来しているということです。しかし、この言葉は旧約聖書の「神への供え物」の意味が含まれているので「、イスラエルでは好まれずヘブライ語で破局・破滅を意味する「ショア―」が用いられています。(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』、講談社現代新書、2015)

およそ600万人のユダヤ人が殺戮されたと言われます。しかし、ヒトラーやナチ幹部たちが最初から大量殺戮を目論んでいたわけではないようです。そこが、問題だと思います。戦争の混迷に伴い、ホロコーストに行き着くのです。歴史に学ぶ意味があります。

「帝国水晶の夜事件」と言われる、反ユダヤ主義暴動、迫害が勃発したのは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてのこと。ドイツの各地でユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火されたものです。暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊(SS)は傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、ホロコーストへの転換点の一つとなります。

1941年3月3日、ヒトラーは国防軍統合司令部へ秘密の指示を出します。「ユダヤ=ボリシェビキ知識人は国民のこれまでの「抑圧者」として除去しなければばらない。」ソ連侵攻はヒトラー個人の意思にとどまらず、犯罪的な戦時法規を軍が実施することを意味していました。(芝健介『ホロコースト』、中公新書、2008)

同年6月、ドイツはソ連に侵攻、ユダヤ人の集団虐殺が行われます。12月にはポーランドにヘウムノ収容所が出来ますが、人間の殺害のみを目的とした絶滅収容所です。ユダヤ人たちは「ガス・トラック」に乗せられ殺害されました。また9月1日、ドイツ国内のユダヤ人には黄色い星着用義務が科せられています。

ヴィクトール・E・フランクルが逮捕されたのは、こうした状況においてのことでした。非ドイツ国民で党と国家に反逆の疑いのあるものは、家族ごと捕縛して収容所に拘引せよという、極めて非人道的な荒業が国家意思として行なわれていたのです。

いうまでもなく、フランクルの書いた『夜と霧』(みすず書房、新訳は2002年発行)は、人間の尊厳について考えさせられます。最近、文庫化された、河原理子さんの『フランクル『夜と霧』への旅』(朝日文庫、2017)を手に取ったことも、より深く考える手がかりを与えてくださいました。ちなみに同著は、『夜と霧』が人々のどのように受けとめられたか、その影響力の広がりを伝えて興味がさらに深まるキュメントです。著者は「取材し、人に会い、たくさんの本を読み、フランクルに近づいていく過程は、自分がいかに知らないかを知る過程でもあった。一本棒のようなやせた認識が、少しづつふくらんで、私は解きほぐされていった。」と書いておられます。

1941年のある朝、フランクルは、軍司令部に出頭を命ぜられます。いったんゲシュタポ管理下のユダヤ人病院の精神科へ勤務することになり、いわば執行猶予が与えられますが、1942年9月頃になって、こと、両親ならびに新婚の妻ともどもテレージエンシュタット収容所に送られます。2年間の猶予期間が与えられたものの、ついに1944年10月、フランクル夫妻はアウシュビッツに移されます。妻も希望して同行しました。アウシュビッツ到着後の「選別」で、生き延ビルことが許されたフランクルは、数日後にダッハウ収容所の支所に移送されます。フランクルは、ダッハウで戦闘機工場建設のために強制労働させられることになったのです。妻とは離れ離れになりました。運命に翻弄される日々の始まりです。妻や両親とは死別を余儀なくされてしまったのですが、さまざまな運命のいたずらで、フランクル自身は生を全うすることができたのです。

よく知られている場面なのですが、アウシュビッツで貨車を降りたあと、親衛隊の高級将校の前に整列させられて、その男の人差し指の動きが生死の境目だったのでした。生き延びる知恵を、アウシュビッツで運よく出会った知り合いから教えられます。「毎日髭を剃り、働ける状態であることを示せ」ということでした。

フランクルは、収容所での心理状態の変化を伝えてくれています。最初はショックを受けて、そこから脱出できないものは死を恐れなかったという。そして収容が長期化し、内面化が進むと感情が麻痺してきます。懲罰を受けている被収容者を見ても何も感じずに眺めるようになっている。しかしこれは精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムであったと言うのです。

自由についても、述べています。フランクルが人間への信頼を宣言している箇所です。
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。」

すべてを奪われても、人はあたえられた環境での振るまいに、「最後の自由」を奪われることはないと言われます。人間としての尊厳を守れるかどうか、決定権は自分自身だということです。

河原理子さんも引用していますが、強制収容所において病気で息を引き取った若い女性のエピソードは美しい。自らの運命に感謝しつつ、病室の窓から見えるマロニエの木に話しかけます。木は「わたしは、ここにいるよ、わたしは命、永遠の命」と答えている。
死と向き合う中で「いのち」を深めることはできる、と河原さんは希望として受け止め、そして記述したおられます。

ナチ・ドイツの蛮行が許容された世界が地球上に存在した意味を見つめ直すとともに、同様な蛮行が現代世界からも根絶されていないことから目を逸らすことができませんね。

sawarabiblog at 17:55│Comments(0)TrackBack(0)

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