2018年01月12日

『わたしたちが孤児だったころ』を読んで

cf81f7a6.jpg真生会館の講座のひとつ、森司教との読書会に参加しました。今回の課題図書は、カズオ・イシグロ著『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫)、ノーベル文学賞作家となった同氏の作品を読むのは、初めての体験です。多作ではないと聞いていますが、そのことで丁寧な作品つくりとなって表れているようのではないでしょうか。全体として、手際よく構成がなされていると感じました。作品を通じて、記憶という人間の精神的な営みについて、問いかけられています。人の記憶は実は、正確に出来事を記録するというよりも、自分に都合よく再構成されていることも多々あるのではないかと思わされます。読みながら感じたことですが、極端な言い方になりますが、自分に都合よく解釈された記憶という可能性もあります。

この作品は、7章で構成され、それぞれに日付と場所が表示されています。例えばPART1は1930年7月24日ロンドンと記されています。この日時、場所がどんな意味があるのか、読み始めた当初は、わかりませんでした。しかも、文章が、「1923年の夏のことだった。」から始まっています。どうも、この記録は、時間をかけてつづられたものであり、記述した日が記されているのですが、それはその日だけでなく数日間の出来事に及んでいます。最初の章に書かれていた1923年はケンブリッジを卒業した年のことで、寄宿学校時代の古い友人のオズボーンに出会ったことがきっかけになって出来事を伝えようとしています。通読したあとで読み直してみたのですが、もしかしたらこの出会いは偶然ではなかったのかもしれないと、考えさせられます。しかし、あくまでも一人称で語られるこの箇所は、1930年7月24日時点における書き手である「名探偵クリストファー・バンクス」の認識を記すもののようです。時代が幾重にも入れ子状態になっていることが、この最初の章を読んでいるとわかってきます。オズボーンの出会いは、過去の記憶を呼び覚ますとともに、将来において重要な関係性が生じるサラとの出会いを演出します。サラとは、当初はぎくしゃくした関係が続きますが、両親の庇護を受けていなかった共通点があることは、二人の関係における縁と言えるのでしょう。

PART2は、1931年5月15日 ロンドンとあります。この作品と直接関係はしていませんが、日本と中国の歴史上、記憶にとどめたいのは1931年9月18日に柳条湖事件(関東軍による南満洲鉄道の線路爆破)が起きていることです。作品では、上海時代の思い出が綴られます。我が家の思い出と隣に住む日本人「アキラ」との交流です。主人公クリストファーの住む家は、父親の勤めるモーガンブルック&バイアット社の社宅でした。時折、会社によって衛生検査が行われていたのですが、検査に対して批判的だった母の行動を主人公は思い出しています。検査官は山東省出身の中国人従業員を監視しており、それに対して母は従業員たちを守り抜こうとしていました。山東省はアヘン汚染地域だというのが、検査官の言い分です。それに対し母は「こんなおぞましい冨の配分を受けていながら、どうして良心を安らかに保てるの?」と詰問したのです。実はモーガンブルック&バイアット社こそがアヘンの輸入で利益を上げている会社であり、そのことでは父は母から責められていたと記憶していました。両親のいさかい、母がとても美人であったこと、などが語られていますが、クリストファーの両親は、父そして母の順に失踪してしまいました。記述の中に、真実を示すヒントが含まれていますが、読んでのお楽しみです。とにかく、語りが上手なので読みごたえがあります。

PART3は1937年4月12日 ロンドン この日付に意味があるかはわかりませんが、歴史の事実として認識していることは、この年7月7日、日中戦争の導火線となったといわれる盧溝橋事件が勃発しています。バンクスには養女ジェニファーと暮らしていることがわかります。孤児となったジェニファーを引き取った経緯が語られています。ジェニファーは気丈な娘でした。カナダから船便で送られたトランクが紛失したというのに、あきらめが早いということをクリストファーは気にしています。しかしこの時、ずいぶんジェニファーを気遣ったクリストファーは、今、ジェニファーをロンドンに残して、上海に向かおうとしていました。両親を探すために。それは、クリストファー自身が望んでいるというより、背中を押されるように周囲から求められているように感じられていたからです。サラも上海に行くことを知ります。世界中に緊張が高まっているというのに、自分はロンドンでぐずぐずしていていいのだろうか。ついに、“大蛇を滅ぼすために”、上海に行くのだという使命感に燃えた瞬間がやってきたのでした。

PART4〜7については省略します。現実なのかクリストファーの幻想が含まれているか、不明な記述も続きますが、最終的に両親の失踪の謎は解き明かされます。以前、『また、桜の国で』の感想を書きましたが、ワルシャワ蜂起の渦中に飛び込んでいく主人公と違って、両親を探してほぼ無防備のまま戦闘地域を進むクリストファーが、帰還できたのは奇跡のようです。

森司教は、この作品からいくつかのポイントを読み解かれました。主人公クリストファーが友人から送られた拡大鏡を使って調査することが示しているのは、心の奥に隠されているものを明確に整理することで、心が解放されるということを意味しているようです。人は知らず知らず、自分自身ではつかみきれない過去を背負っているのですが、ありのままの自分が見えてくることで、他人と対等に向き合えるようになると理解できる。また、登場人物の一人であるサラについて言及されました。有名人を追いかけてはパートナーにするという生き方をしてきたわけですが、必ずしも満たされないで、次々に相手を変えていくことになっていきます。ついにはクリストファーが、救いを求められたのですが、結果としてサラに取り込まれないままに終わります。この作品は、誰しもが体験する生きづらさを、丁寧に描いていると評価されました。クリストファーの母親はアヘンに対する批判を社会運動=イデオロギーとして、行動していますが、このことで夫婦関係は壊れてしまっています。ところが、最後には、イデオロギーを貫き通すことではなく、クリストファーへの愛を優先したということが描かれています。森司教の作品解説をうかがって、イシグロ作品をさらに読んでみたくなりました。

sawarabiblog at 16:25│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字