February 09, 2009

自分だけの歴史

水しぶきとともに弾ける歓声に苛立ち、子供達をホテルのプールから引き出した。日がな一日泳ぐと宣言する息子と娘。痺れを切らした母は、「せっかくの旅行でしょ」と口を尖らせ、車を走らせる。かつて住んでいたこの街には、母校のロースクールがある。「ママの卒業した学校、見せてあげるよ」。抑揚に欠けた声が後部席から響く。「どうでもいいよ、ベンゴシの学校なんて」。

静寂に包まれた晩夏のキャンパスを予想していたのに、月曜日の駐車場は車で溢れている。百科事典のごとく厚い判例集を脇に抱え闊歩する学生達の姿が目につく。既に新学年が幕を切ったのだ。新入生歓迎会と銘打って特別行事が催され、お祭りめいた気分で高揚するのも束の間、週末明けの授業開始と同時に歯を食いしばるような日々が待ち受ける。ストレスから不眠症に陥った私が医者通いを始めたのも一回生の秋だった。

不思議だ。あの怒涛のような日々でさえ、想い出という光にかざす瞬間、煌いて映る。民事訴訟法の教授の大声に怯えた教室。模擬裁判に向け特訓をした教室。級友と試験勉強をしたラウンジ。懸命に疾走した日々が、季節の移ろいを越えて甦る。肩に降り注ぐ霧雨のように温かな感情が心を充たす。

「先生、私も二児の母になりました」。数人の恩師を研究室に訪ね、子供達を紹介した。我が子同伴で母校に戻ろうとは夢にも思わなかった。在学中に出産を体験した友もいたが、全くの他人事でしかなかった。流れた日々の中で私も変わったのだ。感傷に浸る母親の傍らで、息子と娘は無表情だ。親の母校など彼らにとっては面白くもない。後ろ髪を引かれつつ、緑滴るキャンパスに別れを告げた。

そして、悟る。誰もが世界で唯一の歴史を携えて生きているのだと。かつて私の胸を焦がした想い。夜ごと、日記帳を埋めた文字たち。カセットが擦り切れるまで聞いた歌。涙を流しながら家路についた早春の午後。幾多の偶然が絡まり合い成立した出逢いと、切ない別離。来た道を振り返ると、セピアがかった想い出たちが静かに煌く。誰のものでもない、私だけの道。愛しい家族でさえも共有は出来ない世界がそこにはある。そして、独り旅は死ぬまで続く。息子と娘も、既にそれぞれの歴史を紡ぎ始めた。Go.Make your own history.連載を始めたばかりのコラムで、私はこの言葉を子供達に贈った。あれから三年分の成長を遂げた我が子らの背に、改めてこの言葉を呟きたい。彼らが兄妹で初めて同じ学校に通学を始めたこの秋は、私にとっても新たな出発点となる。

読者の皆様、長い間のお付き合いをありがとうございました。今後は新連載の雇用法コラム、そしてブログwww.lovelindy.wordpress.com を通してお目にかかりましょう。



sayakakandajp at 07:24|この記事のURL

小さなデビュー

テーブルの向こう側から彼が身を乗り出して言う。「君もブログをやれば」。私はフォークを持つ手を休めもせず生返事を返した。同業者の男友達と食事中の短い会話だ。彼は人気を誇るブログを持つ。私だって過去にサイトやブログを立ち上げた経験はある。だが根が怠慢だけに定期的な更新が苦痛で、再開する意欲を失った。

インターネット自体の醍醐味が自分の中で色褪せたこともある。ネットサーフィンに費やす時間への空しさが募り、「そんな暇があれば、小説のひとつでも読めるのに」と考え始めた。それなのに、男友達とのさりげない会話が深味を帯びて心に響いたのは、息子との親子喧嘩が絶えず、苦々しい感情に満たされた夏休みの最中だった。ママとブログを作ろうか。提案した途端、息子の目が輝いた。二人三脚のプロジェクトが幕を切った。

子供をネットの世界へと誘導する事への躊躇があったのは否めない。昨年の夏、息子は「リンドバーグのぼうけん」なる本を拙い日本語で書き、数冊を知人に贈った。だが、ネットを使えば、数人どころか不特定多数の読者が対象になる。それに、下書きや写真撮影を息子に委ねることにより、彼自身はPCを操らなくてもブログ作成に貢献出来る。

飛行が二人の共通の趣味だから、ブログのテーマは即座に決定した。敬愛する飛行士リンドバーグについて貪るように本を読んできたが、更に歴史的資料を入手すべくUWの図書館を訪れ、英雄の大西洋飛行が世界を騒然とさせた1920年代の新聞記事を収集した。七月の昼下がり、人影のない静かな図書館での宝探しのようなリサーチを、息子は充分に堪能したようだ。「また来ようね」。キャンパスを闊歩しながら繰り返した。繋いだ手と手に力がこもった。

こうして立ち上がった親子ブログ。飛行、そして碧空への憧憬を土台にした上で、多彩な話題を扱う。デビュー前夜、リンクを貼ったメールを知人に送った。「見たよ」。「頑張ってね」。校長先生や担任の先生、友達のお母さんなどから声援が寄せられた。憧れのパイロットから返事が届いた時は、息子以上に私が飛び上がって喜んだ。七歳の夏、母子で共有した時間が小さくも実を結び、かけがえのない想い出が創れた事に感謝している。いつか息子自身が空へと翼を広げる日を思い描き、ひそかに応援もしながら、Soaring Skywardと名づけたこのブログが一歩ずつ成長していくことを願っている。(ブログのURL: www.lovelindy.wordpress.com)


だいすきよ、まま


てんとう虫の模様がついた鉛筆を、娘が一心不乱に走らせる。「はい、どうぞ」。誇らしげに差し出す「おてがみ」には拙い平仮名が踊る。だいすきよ、まま。すてきよ、まま。「すてき」に程遠い事実は百も承知ながら、相好を崩す母は無言で彼女を抱き締める。かつて、息子も同じようなラブレターを贈ってくれた。それをコラムに書いた時、娘は2歳だったと記憶する。当時は日本語が苦手だった彼女も、4歳の今では覚えたての字を駆使し「おてがみごっこ」に精を出す。

「アメリカで育つ子に日本語をわざわざ教える意義は何ですか?」そんな質問を(時には咎めるような口調で)ぶつける人が多いのには驚く。私はバイリンガル教育に熱心ではない。通信教育だの体験入学(夏休みに日本の小学校に入れること)だのには無関心だ。子供には日本語で話しかけた方がいいと知りつつ、「仕事では英語一本槍なのだから口馴らしに」などという自分勝手な理由から、英語を使うこともある。買い込んだワークブックも、親のズボラ振りを反映して埃を被る一方だ。それでも子供達は何とか日本語を使いこなしてきた。日本で生まれ育った同年齢の子と比較すれば、語彙には限りがある。(私がこの原稿を書く傍らで息子は日本語の日記を書いているが、「ねえ、stormってどう言うの?」と訊いてきたばかりだ。)優先すべきは英語だから、気楽に構えている。

では、なぜ「日本語をわざわざ教える」のか? 国際人になって欲しいから、などと気取った発言はしたくない。(大体、国際人なんぞという意味不明の言葉自体、どこかの国の英会話学校の広告を飾る謳い文句としか思えない。)上記の質問に正直に答えるとすれば、「楽しいから」という一言に尽きる。日本語が話せるからこそ友達の輪が拡がる。「かさこじぞう」や「一休さん」が読める。「しゃぼん玉、飛んだ」と三人で合唱が出来る。先日は、さだまさしの歌に挿入されたユーモアに、親子で涙が出るほど笑い転げた。(こんな時、一人で爆笑する母を横目に、子供達は意味を解さずキョトンとしているとしたら寂しい。)日本語が話せるお陰でこんなに楽しいよ!と叫びたい程だ。

平仮名を書く作業に熱中する娘は、「ドはドーナツのドー」と声を張り上げつつ、今日も懸命に鉛筆を走らせる。息子は日本語のブログ作成という大プロジェクトに取り組む。兄と妹、それぞれの夏が時を刻んでいる。だいすきよ、まま。すてきよ、まま。胸に沁み入る言葉を散りばめたラブレター。後生大事にしまい、成長した娘に見せてやる日を楽しみにしている。


それぞれの物語

オレンジのスカートを翻して娘が飛び跳ねる。目を細め、大きく息を吸い込む。パイクプレースマーケットの外に拡がる公園を散策し、随所で織り成される人間模様を観察する。ベンチに胡坐をかきテイクアウトのチャイニーズに舌鼓を打つ青年。日光浴よろしく帽子で顔を覆い芝生に寝転ぶカップル。おもむろにハーモニカを吹き出す男性。鳩にパン屑を投げる老女と孫。カメラに向かいV サインを掲げる日本人学生の一団。トーテムポールがそびえる公園は躍動感に溢れる。眼下では、ピア52 を発ったフェリーが、水面の碧いベールに白い飛沫で優美なラインを描きながらエリオット湾を滑っていく。まだ肌寒いが、頬を撫でる風に生まれたての夏が仄かに薫る。

八月生まれのくせに夏が嫌いだった。もったりと澱んだ空気や、気だるく廻る扇風機。手をつけないままの読書感想文やワークブックに焦燥感を駆り立てられつつ深夜放送を聴く。そんな日々の中に埋もれるように誕生日があった。緑滴る五月のような季節に誕生日を迎える人が羨ましかった。ところがどうだ、この地に居を構えて以来、夏の誕生日が楽しみにさえなった。どこまでも碧い空や透明な光。瑞々しい一日が私の「新年」を彩ってくれるからだ。

「Happy Birthday」が世界一よく歌われる歌だという。この歌を口ずさむ時、私の想いは駆け巡る。山と積まれた贈り物の向こうでポニーテールを揺らせキャンドルの灯を吹き消す少女。生まれたばかりの子に頬ずりを繰り返し囁くように歌う母親。仕事の帰りにケーキを二切れ買い求め、アパートの階段を駆け上るシングルマザー。そこには大なり小なりそれぞれの物語が眠る。うだるように暑い八月の正午過ぎ、泣き声を上げる元気さえ無いままに誕生した未熟児も彼女だけのささやかな物語を紡いできたのだ。

親になった途端、我が子の誕生日会には心を砕く一方で自分の誕生日は記憶からすり抜ける。それでは寂し過ぎる。どんなにささやかであろうと世界に唯一の自分の物語を大切にしてやりたい。欠点を百も承知の上で自分という人間を慈しんでやりたい。そんな想いを込めて、毎年何日も前から「ママの誕生日よ」と声高らかに宣言し、家族とのディナーに加え何かしら自分の好きな事をすると決めている。昨年の夏は、お気に入りの本屋でゆっくりと新書を吟味して廻った。それだけだが私にとっては贅沢な時間だ。光踊る季節が再び到来した。いつかは一人旅でもしたいと夢を見つつ、今年も本屋巡りが精一杯かと苦笑を洩らす。昼下がりの公園で、くるりと踵をかえす娘の笑みが白い陽を浴び映える。微かな初夏の匂いを逃すものかともう一度、深呼吸をした。


女たちの夏

車窓の外に拡がる五月の空に視線を泳がせた。三時前。そろそろ息子の学校では建物から出て来た生徒達が列をなして、いつもの喧騒の中、迎えに来る親を辛抱強く待つことだろう。苦い想いを噛み締めながらハンドルを握る。読み終えたばかりの本の余韻がわだかまり、自分の中に巣食う焦燥感を目前に突きつけられたようで痛みが胸をよぎる。

故・森瑤子さんのエッセイ集には、三十代半ばを過ぎ作家としてデビューを飾るまでの心の軌跡が鮮明に描写されている。平穏な日々を享受していた三児の母が「全世界に闘いを挑む」覚悟で小説を世に出したのはなぜか。青春の煌きを喪失した事実を空しく凝視し、このままで老いるのは厭だと心で叫び声をあげたからだ。髪振り乱した「団地のおばさん」になってしまうのは「厭だった、絶対に厭だった」。そう彼女は繰り返す。「x ちゃんのママ」だけではあまりにも空しい。一人の人間としての生き方を追求したい。そんな切望で胸を焦がす女性は多いだろう。これは、女性誌で性懲りもなく取り上げられる「主婦か、キャリアウーマンか」という二者択一の問題とは異なる。エプロンをスーツに着替えた途端に揺るぎない世界が確立する訳ではない。もっと奥行きが深い内面の問題なのだ。

娘達が遊ぶビーチで森さん自身は本の世界に埋没していたという。私にも子供を公園で遊ばせながら小説に身を浸していた、いや、浸さずにいられなかった日々があった。生きるも独り、死ぬも独り。時おり私は心の中で呟く。妻として母として至福の家族ドラマに身を置いていたとしても、その心地よい温もりに馴れすぎたあまりに人は皆独りだという事実を忘れたくないと自分に言い聞かせる。孤独から目をそらしたいとは思わない。むしろ孤独を正面から見据え生涯の友として付き合って生きたい。子供に夢を託す生き方は選びたくない。

夏が、終わろうとしていた。森瑤子さんのデビュー作「情事」はこの文で幕を開ける。彼女の心の叫びが凝縮されているようで、この一文を反芻せずにいられない。秋には秋のよさがあるのよ。そう言い切れるほど私は人間ができていない。仄かに甘い薫りを含んだ碧い風や緑が零れ落ちそうな木々の間から放たれる白い光の矢に彩られた夏はあまりにも美しい。一生青春などという使い古された表現を声高に叫ぶ気は無いが、心では常に瑞々しい夏の風と光を輝かせていたい。ほとばしる想いに胸を熱くしながら車の窓を開け、友達とはしゃぐ息子に手を振った。



June 12, 2008

すくいあげる光

「おしごとがむずかしいとママはいいます」。ミミズの這ったような字がノートに躍る。「でも、ぼくにはむずかしくみえません」。覗き込んで思わず口元がほころんだ。息子が下手な日本語で書く日記である。

無理もない、と肩をすくめる。目下、被告企業側弁護団の一員として訴訟の仕事に携わっている。と書けば如何にも「キャリアウーマンでござい」と豪語するかのようだ。きりりとスーツを着こなし法廷で議論を展開する姿を彷彿とさせるかもしれない。だが現実はどうだ。議論どころか一語も発しはしない。寡黙にコンピューターを睨みクリックを繰り返す。それが「ママのおしごと」なのだ。裁判に先がけ文字通り何千にも及ぶ書類を速読し分析する。地味極まりない作業が延々と続く。

グラビアを飾るキャリアウーマン達は鮮やかな笑みを浮かべ、「自己表現」だの「社会に貢献」だの優等生的表現を散りばめながら職業観を語る。だが現実に目を戻せば大半の人は「食べる」為に働く訳だから、「キャリア」なる洗練された響きの言葉よりも「労働」という方がしっくりくるかもしれない。淡々とした、 そして時には重くのしかかる日常の底で見え隠れする一瞬の光を丹念にすくいあげる。仕事の喜びとは往々にしてそんなものだろう。

夜更けの居間でコンピューターに向かう。四時過ぎ、床につく。タイミングが悪いことに当日は息子の学校で日本文化紹介をする予定だ。三時間弱の仮眠を貪り、欠伸を噛み殺しながらハンドルを握ること約半時間。あたふたと教室に駆け込み、甚平を着た息子と「どんどんひゃらら」と「村祭り」を歌い、小川未明の童話を元にした紙芝居をする。拍手の渦に気をよくしつつ今度は娘の幼稚園へと車を走らせる。ランチには適当に詰めた残り物のパスタを先生に温めてもらう。 娘がねだる可愛い型抜きのお握りを作る余裕など無かった。家庭と仕事の両立なんて不器用な私には無理だ。それを承知の上で職を手放すものかと躍起になる自分に苦笑がもれる。

「ベンゴシにはならない」。そう宣言する息子は将来どの世界で光をすくいあげるのだろう。彼の本棚にはリンドバーグやライト兄弟の本が並ぶ。飛行士として飛び立つ夢を育む息子がまさに大空を舞う日が来たら、彼の操縦する飛行機で私も同じきらめきに身を委ねよう。空への憧憬を語る彼の澄んだ瞳に吸い寄せられるように、未来の眩しい滑走路を母は心に映し出していた。


あけましておめでとう

旅は十一歳の春に始まった。小銭を握り締め駄菓子屋へと続く道を駆けたり、自転車を漕いで書道教室に通ったりするのが放課後の精一杯の行動範囲だった少女にしてみれば、独りでバスに揺られ進学塾に通い、数々の小学校から集まった受験生達と机を並べる事は心が奮い立つ経験となった。十二歳の春には旅の深みが増した。薄桃色の花びらやら紺が匂い立つような制服やら、お馴染みの小道具が出揃った舞台に向かって意気揚々と第一歩を踏み出した春。改札口で定期券を取り出す時には小さなプライドが胸をくすぐる。ラケットを抱えて立つホームに七時二十六分の電車が滑り込む。経済紙を広げる会社員や流行のファッションに身を包むOL。そこはかとなく緊張感の漂う通学電車で小一時間も吊革に掴まると、一足飛びに大人の世界への仲間入りを果たしたかのような錯覚さえ覚えた。 

みずみずしい息吹に包まれ別れと出会いが交差する三月と四月。入学式の服を買ったり学用品に名前をつけたりと日本の母親は希望に胸を膨らませつつ準備にいそしむ頃だろう。アメリカの春は学年末にあたるから疲れの方が大きい。息子の制服も随分とくたびれてきた。車での送り迎えに疲労困憊の母は夏休みまでの日々をひそかに数えている始末だ。

だが海外滞在が如何に長くなろうと、三月の声をきく頃には弥生なる美しい言葉が脳裏に響き、「仰げば尊し」が口をつく。そして華やかな四月の到来。中学受験という試練を経て辿り着いた世界が今も色褪せることなく目前に拡がる。透明な光が降り注ぐ朝、同じようにぎこちない制服姿で談笑する少女達の輪に加わる。「前を見て!」 幾つもの目が急に真剣になって正面を凝視する。桜吹雪が舞う中、シャッターを切る音が響く。

春風とともに胸をよぎる物語がある。凡庸な恋愛小説で話の筋こそ記憶に無いが結末は鮮明な余韻を心に残していった。青年が喧嘩別れをした恋人にあてて便りをしたためる。桜の木の下、自転車を止めて彼女を待ち手紙を渡す。そこにはこう書いてあった。学生である僕達にとって四月は新たな年の始まり。あけましておめでとう、と。学生であってもなくても日本人なら誰もが今の季節に馳せる想いが巧みに凝縮されている。

特許訴訟の仕事に埋もれる午後、専門用語が踊るノートから視線を上げ窓の外を彩る弥生の色を堪能する。抜けるような空の下、子供達は校庭で外遊びを愉しんでいるだろうか。また年が明けようとしている。心の中で呟く。家族に、そして私自身に。あけましておめでとう。


七月のクレープ

薄く薄く生地をのばす。フライパンに拡がる輪を凝視するうちに記憶が疼く。陰鬱な冬空の下、遠い日に浴びた白い光が再び降り注ぐような錯覚さえ覚える。想い出に閉じ込められたモノクロームの世界が鮮やかな色彩を帯び始め、静止した人物や時間に息が吹き込まれる。

生まれたての夏が仄かに甘く薫る季節だった。学校帰りに立ち寄った小屋のような店で十九歳の私とT子は向き合いクレープを頬張っていた。「おいしいね」。「自分でも作れるようになりたいね」。屈託のない会話を交わしながら。その頃の私は若い女性にありがちな悩みを抱え、その重みにたじろいでいた。そしてT子もまた同じように苦しんでいた。お互いの痛みを充分に悟りながら、それでも敢えてそこから視線を外すように二人は他愛のない談笑に身を委ねていた。

やがて会話も途切れがちになり気まずい沈黙が続いた後、私は呟いた。緑が匂い立つような昼下がりになぜ私は癒えない痛みを胸にぶらさげたままなのだろう、と。人から見れば取るに足らない悩みだと嘲笑されるかも知れないのに依然として悶々としている自分に愛想がつきる、と。その時だった。テーブル越しにカッと目を見開いたT子が言った。「なぜ取るに足らないなんて言うの。小さく見えることが実はとても大切なんじゃないの」。人生は小さなものの集積だ。悩みに真っ向から向き合うことも大切なのだ。自らに言い聞かせるかのように彼女は淡々と語った。アルバイトで化粧品の販売をしており、担当教授にさえお愛想を振りまいた挙句に男性用化粧品をちゃっかりと売りつけてしまう茶目っ気たっぷりのT子はそこにはいなかった。私は言葉を失い、ただ彼女の顔を見つめていた。

子供達にせかされクレープを焼く夕暮れ時、あの七月の景色を心に映し出す。いつしかT子との交流も途絶えた。一方であの眩しかった日の余韻は未だに私の中で息をしている。青春はとっくに遠ざかったというのに、私は相変わらず立ちすくんだり唇を噛んだりと不器用な旅を続けている。そして、あの十九歳の夏と同じように痛みがチクリと胸を刺す時、T子の真摯な瞳を脳裏に浮かべるのだ。

いつか息子と娘も彼らなりに悩みを抱え苦悶する日が来るだろう。先輩風を吹かせ的確な助言を与える自信など無い。だが苦しみから目をそらさない勇気も時には必要なのだと祈るような気持ちで彼らの背中に語りかけることだろう。二月の台所で初夏の風に頬を撫でられながら、バターの香ばしい匂いの中で想う。


May 09, 2008

バイオリンが泣く夜

きりりとネクタイを締めた息子の手を握り、彼以上に頬を上気させて舞台を凝視していた時だ。オーケストラがバッハの曲を奏で始めた瞬間、私は声をあげて泣き出したい衝動にかられた。家では生後間もない娘が夫と共に待っている。そう、彼女は生き延びたのだ。

娘は生後三日目にしてバクテリア感染により生死の境をさまようこととなった。以前にも書いたので詳細は省略するが、数人の医師がチームを組み治療にあたるという重々しさだった。家庭での投薬治療はまだ続くが、辛うじて峠を越え退院の運びとなった。小さな戦士の体に繋がれていた無数のチューブが外された時、憔悴しきった家族の顔に初めて笑みが戻った。保育園に預けっ放しにされていた三歳の息子にとっても闘いが終わったのだ。せめてホリデーシーズンの高揚感を彼と分かち合いたいと切望し、眩しい色彩を放つ街へ母子で繰り出した。師走の空の下、コンサートホールの外では、光溢れる路上を人々が冬の冷気を物ともせず意気揚々と闊歩している。戦場と化した病室の片隅で私が溜息をついてるうちに季節は移ろい、一年で最も華やかな時期が訪れていた。

オーケストラの演奏を聴きながら一人の赤ん坊へと想いを馳せる。彼か彼女か判らない。名前も知らない。唯一つ知っているのは娘と同時期に同じ病気と闘い天国へ旅立った事だ。私達が退院を喜び沸き立っていた頃、もうひとつの家族は冷たくなった体を抱き別れの言葉を噛み締めていたのだろうか。何が二人の新生児の運命を真っ二つに引き裂いたのか。「神よ、なぜ人生は不公平なのですか」。私なら慟哭の叫び声をあげつつ天を仰いだことだろう。世界中でどれだけ多くの人が怒りと悲しみをこめて同じ疑問をぶつけてきたことだろう。これ以上に切実な魂の叫びがあろうか。どんなに偉大な宗教家が丁重に言葉を重ねたところで空しく響くだけだ。人はやるせない現実と向き合い生きていくしかないのか。

私は自分に言い聞かせる。心に刻みつけておこう、と。薄暗い病室の片隅で押し寄せる不安の波に呑まれそうになりながら涙を流した日々。平穏な日常に身を委ねる一方であの日々を記憶に封印してはならないのだ。はかなく消えた命を想う時、私は娘が生き延びたという事実を厳粛に受け止め頭を下げるしかない。

「Twinkle, Twinkle…」。あれから四度目の冬、娘は十六分の一のサイズのバイオリンで「キラキラ星」を弾くようになった。いつか彼女もバッハを奏でる日が来るだろうか。夜中の居間で音声を絞りバッハのCDに耳を傾ける。忘れられない曲が響く。ああ今夜はバイオリンが泣いているように聴こえてならない。


January 06, 2008

亀の湯へ行こう

Y ちゃん、と呼びかけたい衝動にかられた。つややかな長髪が脳裏に浮かぶ。お風呂上りに髪をアップにした彼女の大人のような美しさには4 年生の私でも息を呑んだ。彼女と肩を並べ銭湯通いした日々があった。夕闇が街を包む頃、洗面器を抱え家路につく私達は担任教師とばったり出くわした。「まあ、いい髪をして」。先生は彼女を褒めた。傍らの私には一瞥もくれず一言も無いままに。そんな遠い日が蘇る。Y ちゃん、今はどうしているの。声にならない声を響かせながらページを繰った。脱衣所で喉を潤したラムネ。壁を飾る漫才師のポスター。濡れた髪を冷風にさらし歩を早めた冬空の下(そんな夜は食卓に牡蠣フライがのぼったりすると嬉しかった)。想い出のかけらがポロポロと零れ落ちてくる。

私は親子で銭湯通いをするのが好きだ。昨晩も亀の湯に行って来た。実を明かせば亀の湯は息子と娘が大好きな絵本「おふろやさん」の中に存在する。あっちゃんという女の子が家族と連れ立って銭湯の暖簾をくぐる。服を脱ぎガラガラと戸を開けると白い湯気の向こうには懐かしい空間が拡がる。湯船で泳ぐ少年達にお説教をする老人。刺青に背を覆われた青年(そう、小さなあっちゃんはお父さん第39 回と男湯に入るのだ)。湯上りには体重計に上がり、イチゴ牛乳を飲む。「いいお湯だったね」。そんな声が聞こえそうだ。

この本には文章が存在しない。だからこそ細やかな絵を隅々まで堪能し想像を膨らませる喜びがある。壁の富士山の絵から外に立つ焼き芋の屋台までイラストは手がこんでいる。「おふくろの味・だるま食堂」やら「理容こけし」やら、亀の湯の随所でつつましく存在を知らせる広告を眺めるのも愉しみのひとつだ。殊にだるま食堂は私のお気に入りである。ここだと美味しい牡蠣フライ定食に舌鼓を打てそうだ。お皿にこんもりと山を作る黄金色のフライの優しい味は全身にしみわたるだろうか。

昨夜の私はやるせない苛立ちに心を覆われていた。理不尽としか思えない出来事に遭遇したからだ。でも親子で湯船につかり背中を流し合ううちに心がほぐされていった。シャンプーの香りを放つ洗い立ての髪のように。「明日はいい事あるよね」。星空を仰ぎつつ帰路につく。家々の灯りが漏れる中、歌謡曲が流れ出す。どこかで置き去りにした風景を心に映し出してくれる「おふろやさん」はほっこりと温かい絵本だ。さあ、今夜も洗面器を抱えて暖簾をくぐろうか。


助 走

ピンクの鞄を肩に娘が教室に入る。「頑張ってね」。声をかける母を振り向きもしない。肩をすくめ車に戻る。東海岸の企業と仕事をしているから時差が気になって仕方がない。Free Wi-Fiと謳うカフェを見つけるなり車を止め、後生大事にラップトップを抱えて中に駆け込む。インターネットに接続するまでの時間、ラテを片手にガラス越しの世界を散策する。この季節には珍しく抜けるような空。唇に淡い微笑が浮かぶ。

九月、三歳の娘は幼稚園に入園した。息子が通う学校には付属幼稚園があり、大半の家庭は下の子をそこへ入れる。私と夫もその選択を考慮したが、結論としては別の所に入れることにした。その決断に後悔は無いが、送り迎えに費やす時間的負担は一挙に増えた。日に幾度も高速を走り、時には渋滞に苛立ちの声もあげる。お稽古事のある日には車内で卵サンドを頬張ったり宿題を広げたりする羽目となる。

一方で私はひそかな喜びも味わっているのだ。「僕の学校」。「私の学校」。兄と妹がそれぞれ異なる世界で自分の居場所を耕し始めた姿は、親馬鹿なのだろうが私の目には眩しく映る。彼らを迎えに行くのも心待ちにする日課となった。「全校集会でこんな話を聞いたよ」。「お誕生日会でケーキを食べたの」。快活な報告を小耳に挟みつつ帰路につくのは楽しい。

いずれ兄妹で同じ学校に通うようになれば親の負担も軽くなる。私も自分のキャリアについて再考する時期が幕を開けつつあるのだろう。ワーキングマザーの国として日本の女性誌に謳われがちなアメリカだが、子供が幼いうちは「デイケアに依存したくないから」と家庭に入る母親が少なくない。だが彼女達の多くも下の子の小学校入学を契機として職場へと復帰していく。それを反映して、主婦の再就職をテーマとした記事は女性誌のみならずタイムやニューズウィークといった一般誌でも取り上げられる。離乳食を温めながら、洗濯物をたたみながら、目を皿のようにして記事を読む母親達の姿が目に浮かぶ。子供が居場所を耕し始めたら次は親が新たな居場所を探す番だ。再び全速力で疾走する季節が私にも訪れるのだろうか。だとすれば今は助走の時期だ。

「メール受領済み」。東海岸からの返信が届く。ほっとしてラテを飲み干す。暫くはゆったりと走るのも悪くはない。空を彩る雲の織りなす模様に息を呑んだり、どこか郷愁を誘う夕暮れ時の空気の匂いに胸を熱くしたりしながら。さあ息子の学校へボランティアに出向く時間だ。PCの入った鞄を肩に店を出る。深まる秋の匂いに鼻先をくすぐられつつ車のドアにキーを差し込しんだ。


December 14, 2007

リンドバーグへの恋文

地上に足を下ろした瞬間、波が押し寄せてきた。幾千もの群集が一目散に疾走してくる。「人の海に溺れる」、彼はそう錯覚した。パリの灯りの中、半時間もの間、彼は肩車でかつぎ廻された。英雄の誕生を全世界が狂喜して迎えた。ベルギーの国王からミズーリの酒場で賭けをする男達まで、誰もが息を殺し勝利の瞬間を待ち構えていたのだ。

チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークからパリまで単独無着陸飛行に成功した。1927年、飛行自体が危険だった時代に多くの冒険家が大西洋横断に挑み命を落とした。飛行に費やしたのは33時間半。「一人で飛ぶとは無謀だよ」。人は彼の愚かさを危ぶんだ。だが無名の航空郵便士は睡魔との格闘を続けながら単独で操縦を続け、遂にエッフェル塔を目のあたりにしたのだ。

「翼よ、あれがパリの灯だ」。リンドバーグ自身が著したこの飛行回想録に11 歳の少女は没頭した。それから長い歳月を経て母となった私とパイロットを志す息子、二人にとってリンドバーグは英雄となった。息子のクラスでは生徒各自が希望の職業についてリサーチを重ね研究発表を行った。 それを契機に息子はリンドバーグ家と縁の深いパイロット、スペンス・キャンベル氏を訪ね、彼と共にシュミレーターでの飛行操縦を体験する機会にも恵まれた。

「歴史は一夜にして創られた」。一挙に有名人となったリンドバーグの偉業について多くの人がそう語る。だが息子と私はかぶりを振る。翼が空に舞う瞬間よりもずっと前に歴史は幕を開けていたのだ。飛行の資金集めに奔走した時。飛行機の機体構造を細かく指定した時。25歳の青年は緻密で完璧な計画を立て飛行に挑んだ。成功とはプロセスの段階で始まるものなのだ。

リンドバーグは「チェックリストの人」として知られる。飛行のみならず5 人の子供の育児においても重要事項を書き出し幾度も慎重に見直すのが彼の方針だった。いや、それが彼の生き方そのものだったのかも知れない。「リンドバーグのチェックリストを忘れないで!」バイオリンを弾き始める息子に私が声を投げかける。「小指は硬くない?」「肘は上がっていない?」リストの一つ一つを再確認させる。「離陸!」6 歳の飛行家は空に舞い上がる。

母子で空を仰ぐ時、パリの灯を浴びたシルバーの小型飛行機、スピリット・オブ・セントルイス号が眩しく映る。そして、それを操る青年飛行士の澄んだ瞳も。ああリンドバーグ、息子と私はこれからも貴方へのラブレターを大空へと飛ばし続けることだろう。


October 01, 2007

一人きりの同窓会

車のキーを掴みホテルを後にする。初めて訪れた観光地で家族と離れドライブをするなど以前の私なら考えられなかった。でも今は一人になって心に風を運ぶ時間が欲しい。

「Tは特許専門事務所のパートナーに昇格」。「Jは家族法弁護士として独立開業」。ロースクールの機関誌で目にした文が脳裏に浮かぶ。母校から定期的に届く冊子で最も興味をそそられるのが「卒業生の近況」だ。近況報告に添えられた写真を眺めるのは特に楽しい。真冬でも短パンを履いていた元ドラマー。犬同伴で登校した動物愛護運動家。皺を刻んだり額が広くなったりと過ぎ去った歳月をそれぞれに映しながら、懐かしい顔たちが微笑んでいる。ネクタイが少し窮屈そうだ。

彼らと共に闘った日々が甦る。試験前夜、半泣きで机に張り付いていた自分がいる。ロースクールの試験は独特だった。皆が一斉に試験を受けるのではなく、各自が事務室でタイムカードを押し自ら選択した教室に入る。(喫煙者専用の教室等、数種類の部屋から選べる。) 人に迷惑をかけない限り何をしても自由だから、コーラを飲んだりバナナを食べたりする学生もいる。と書くとリラックスしているようだが現実は厳しい。成績が一定基準を割れば強制退学が待ち構える。

闘いを生き延びた自分の肩を叩いてやりたい気もする。反面、もっと貪欲に多くのことを吸収出来た筈だという悔いが尾を引く。いずれにせよ、ひたむきに駆け抜けた日々が愛しい。あれほど一途に何かを追い求めることが今の私にあるだろうか。宿題に着手しない息子やバイオリンの練習を嫌がる娘に叱責の声を飛ばす。「もっと一生懸命にやろうよ」。対象が何であれ真摯に取り組むことの大切さを学んで欲しい。そんな親心が届かないことに苛立つ。だが、母親自身がどこか投げやりでいい加減な生活に埋もれているではないか。

新生児に授乳をしながら授業に出ていたM。検事を志し歯科医を辞めて復学したE。新鮮な出会いに満ちた法学生時代。あのピンと張り詰めた緊張感みなぎる世界に還りたい。車窓の外を彩る夕陽に視線を奪われる傍ら、心の中で遠い日々を散策する。甘ったるい感傷に浸るだけなら思い出は要らない。でも、無表情に過ぎる日々にみずみずしい息吹を僅かでも吹き込む契機になるのであれば、過去を辿るのも悪くはない。再会することはないかも知れない旧友達に「ありがとう」という言葉を贈り、家族が待つ部屋へと急ぐ。ほのかに秋が香る風の中、一人きりの同窓会が静かに幕を閉いた。


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September 16, 2007

ロックに夢中

いつしか主役は子供達から私自身へと変っていた。高まる熱気に包まれ火照る体を揺すり、拳を振り上げ叫ぶ。「イェーイ!」この躍動感。この解放感。だからロックが大好きだ。

「子供向け」と銘打ったこのコンサートに足を運んだ時には何の期待感も無かった。人気のあるバンドらしいが名前さえ知らない。夏休みのひとときを子供達に楽しんでもらえたら十分としか思わなかったのだ。前日に行った別のコンサートでは、柔らかな笑みを浮かべた女性歌手がクマさんだのカメさんだのをテーマに歌い、ほのぼのとした雰囲気の中で私は眠りかけ椅子から落ちそうだった。だが今日は違う。息子や娘より身を乗り出し手拍子を打っている。前方では多くの子供や大人が踊っている。その輪に加わる衝動に駆られつつも変なプライドが邪魔をするのが悔しい。

懐かしいビートが遠い日々の記憶を連れてきた。紺の制服で電車通学をしていた頃、私は某英国ロックバンドに熱中していた。男性でありながら化粧をしていたバンドである。その手のアーティストは昨今の日本では珍しくもない。だが当時はかなりの過激派と受け止められていた。男女平等を唱えるバンドのリーダーが「女性も自立すべき」と主張した雑誌記事を目を皿のようにして読んだものだ。ジリツとは中学生には少し重い言葉ではあったが、それでも「夫に寄りかかって生きたくはない」という意識を漠然とながら抱き、その為にはどんな道を選ぶべきかと私なりに模索を始めた頃だった。

長い歳月を経て一人前に母となった今でも、どこかで私はあの日々を引き摺っているのだろうか。分別やら常識やらが時として重く感じられてならない。「ママ、あのおじさん変だね。ポニーテールしてるよ」。路上で息子が声をひそめ同意を求める。「えっ? ちっとも変じゃないよ」。私はあっさりと答える。そういうポーズをとっているのではない。心底から「変じゃない」と思っているのだ。男らしさだの女らしさだのといった境界線は大の苦手である。男性への逆差別を含めて性差別に関する記事も随分と書いてきた。

バイオリンでバッハを奏でる息子に、「ほら、小指に注意して」と偉そうに(自分は弾けもしないくせに)叱る私だが、ひそかな夢がある。彼にはずっとバイオリンを続けて欲しい。その一方でいつかロックバンドでも始めるのはどうだろう。クラシックとロック、双方の世界で自己表現出来る男の子なんて素敵じゃないか。そして彼がステージでギターをかき鳴らす時には、最前列中央に陣取り、誰よりも大きな声を張り上げ「イェーイ!」と叫んでやろうと決めている。


駆ける季節

生まれたてだと思っていた夏が成熟していくのを肌に感じるのは切ない。透明の光を浴びて濃い匂いを放つ夏草に胸が締めつけられる。何やら肩を叩く気配に振り向くと、蝉取りに駆け回る自分やら、炎天下の校庭でラケットを振る自分やらが次々に浮かんでは消える。夏は終わらないと信じていた日々が甦る。

日本の夏休みは短い。その上、宿題やクラブ活動が重なると、学校と家庭の境界線も消えないままに眩しい季節が疾走する。それなのに、あの頃は夏が永遠に続くような錯覚にとらわれた。いや、正確にいうと青春そのものに終わりがないと信じていたのだ。他の誰もが大人になり、台所でネギを刻んだり、通勤電車で新聞を広げたりしても、自分だけは鳥のごとく大空を飛び続けるのだと不遜にも思い込んでいた。

「ママ!」ふと我に返る。水遊びを中断した娘が、黄色のリボンに彩られたポニーテールを揺らしながら歩み寄る。「お兄ちゃんがいじめた」。 涙声での訴えを打ち消すかのように息子が叫ぶ。「だって僕のオモチャを返さないんだよ!」 また兄妹喧嘩だ。溜息をもらしつつ昨夕の電話を思い出す。ヘッドハンターからフルタイムの仕事の紹介が入った。すぐにでも始められるかと問う。受話器を握り締め答えに窮した。ここ暫く私はフリーランスの仕事のみ手がけてきたからだ。息子の学校の送り迎えにナニーを雇いたくはない。娘を水曜の朝のサッカー教室に連れて行きたい。親子で作るお菓子のレパートリーを増やしたい。そんな願いが強いからこそ仕事も選んできた。一方で専業主婦には向かないとも自覚している。キャリアウーマンでもなければ主婦でもない、どっちつかずの人間でしかないのか。

一応は悩む振りをしても、実は既に答えは出ている。夏が翼をたたみ初秋の風が吹き始めるように、空を飛び回ることを夢見た少女が大人になるように、全ての物語は幕を下ろすのだ。四つの澄んだ瞳が視線を一直線に母へと投げかける日々も足早に駆け抜ける。弁護士は掃いて捨てる程いる。だが息子と娘の母は世界で私一人だ。あと二、三年はフリーランスのままで結構。子供達の水遊びを眺める傍ら商法の判決文に目を通す生活だって悪くはない。そう心の中で呟きながら提案をする。「ババロア作ろうか?」 たちまち歓声があがる。

七月の台所で三重奏が始まる。窓の外では緑が映える。さらさらと風のように流れる季節を、これでもかとばかりに堪能し尽くしてやろう。鮮やかな笑顔がモノクロームの写真の中で色褪せていく前に。


愛しい時間

BGMにクイーンの曲を選ぶ。こんな夜はiPodが欠かせない。腕まくりをするような気分で、いきおいPCにへばりつく。「A社とB社の間には有効な契約が成立したか」。契約書と判例に目をやりながら文章を紡いでいく。

ふと顔を上げ窓越しに眠る濃い闇を心の中で散策する。子供部屋では息子と娘がそれぞれ大の字になって寝息を立てていることだろう。透明な光。飛び散る水しぶき。帽子の下で弾ける笑い声。ガラス器の中で艶やかに輝くチェリーたち。そんなものに彩られた饒舌な一日に句読点が打たれようとしている。華やかなパーティが幕を閉じ甘美な余韻をいつくしむ。そんな解放感に満たされながら独りの時間を堪能する。「妻」や「母」から「私」へと還る贅沢な時間だ。

突如として訴訟の仕事が舞い込んだ。埃をかぶっていた本をひもとき契約法やら商法やらに取り組むうちに遠い日々が甦る。法学生時代はこんな夜が無数にあった。試験前夜ともなれば、おびただしい判例やルールと格闘し、時には歯をくいしばりながら机にはりついていたものだ。徹夜明けの目に染みる仄かに蒼い空を仰ぐ朝が今では懐かしい。疾風怒濤の当時に比べれば今の生活はずっと楽だと自分に言い聞かせる。

手に職をつけていてよかった。子供に夢を託すような生き方はしたくない。めざましい成長を遂げる彼らを後ろからゆったりと眺めるだけではなく、貪欲に独りの世界を追い求めていきたい。外向的とはいえない息子と娘だが幸い自立心は旺盛だ。親が老婆心からプレイデートのお膳立てなどしなくても、自力で友達の輪を拡げ集団生活を堪能している。学校へ迎えに行くと、制服姿も板についた息子は科学クラブの実験に熱中し、手を振る母の姿を見ても無表情だ。「ママ、おしごとして」。3歳の娘までもが、すずしい顔で懇願する。来年には兄妹で同じ学校に通うことになる。私の出番も減る一方だ。

今日と明日が溶け合う時間。休憩がてらに同業の男友達にメールを打つ。「君、こんな時間に何してるの?」打てば響くテンポで返事が届く。「お互いさま」。ニンマリと呟く。彼も二児の父だ。

早起きは出来そうにもない。朝食には残り物のマフィンを温めヨーグルトでも添えようか。罪滅ぼしに、刻んだ果物をいっぱいに散らした杏仁豆腐を午後のおやつに作ろう。一瞬だけ母の顔に戻ると、再び背筋をピンと伸ばし契約書に視線を落とす。こんな時間を私は愛している。






グリーンカード

少しずつ加速度を増し春が夏を目がけて助走を続ける。この季節が好きだ。オーブンで膨らむ抹茶クッキーの香ばしい匂いに包まれながら、窓の外を彩る緑の濃さに目を奪われる。真近に迫る夏休みに心も躍る。高速を飛ばして学校の送り迎えをする日々から解放されるのだ。それにも増して、ゆったりと流れる時の中で子供達と向き合えるのが嬉しい。

この国で過ごす夏はこれで幾度目になるだろう。咄嗟には思い出せない。その分だけアメリカの生活が長くなったということか。再び日本に住むことはないだろう。それが悲しいとも思わない。一方で私は日本国籍を保持してきた。アメリカ暮らしが板についた素振りをしながら、実はアメリカ人になりきれない。グリーンカードは「準市民」の私の心情を映し出すかのようだ。

「グリーンカードで滞在だと不利ですか? 市民権を取った方がいいですか?」職業柄、そんな質問を受ける機会は多い。グリーンカードをテーマにした記事も頻繁に書いてきた。私自身に限っていえば、市民権を取らなかったことで損をしたことはない。連邦政府の職員として働いた経験もある。アメリカの国家公務員を務めるには米国籍が必須だと指摘する声もあるが、私は問題なく就職したのだ。また、外国籍だと政治活動に参加不可能といわれるが、これも不正確である。選挙で一票を投じることが唯一の政治活動ではないのだ。社会に自らの声を反映させたいというのが真摯な願いであれば、キャンペーンや地域活動に参加するなり積極的な方法は無数にある。投票という行為自体は象徴的な意義しか持たないと有名な裁判官も述べている。

私が日本国籍維持の意義を痛感するのは、子供達に二重国籍という贈り物ができたことだ。いや、それだけではない。パスポートに記された日本国という文字に安堵感をおぼえる自分がいる。形ばかりの母国となった日本が恋しくはないと呟く傍ら、やはり私は私なりに海の彼方から静かな愛情を注ぎ続けていくのだろう。ボランティアとして子供の学校に出向いては、紙芝居をし、童謡を歌い、日本料理の実演をする。「ママはね、日本人なんだよ」。クラスで一人だけ卵焼きだの煮物だのが詰まったお弁当を持参する息子が、級友に得意げに語る。息子と娘の中に「もうひとつの文化」は自然に芽生えてきた。

緑が匂い立つような昼下がり、焼き立てのクッキーを頬張りサクサクとした歯ごたえを堪能する。さあ、もうすぐ学校へ迎えに行く時間だ。音楽を流してドライブよろしく高速を飛ばしながら、長い長い夏休みのプランでも立てよう。



June 28, 2007

彼らしさ、彼女らしさ

初参加した育児サークルで大勢の母親に混じり一人だけ父親がいた。「奥さんが医者として稼いでいるから、彼は専業主夫なのよ」。誰かが教えてくれた。その日の夕食時に彼の話をしたところ、夫が何やら言いたげな表情だ。「羨ましいって思っているんでしょ?」そう訊くと、「図星だよ」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。妻の収入が夫のそれを上回ることは残念ながら我が家ではないだろう。「でもね、もし現実に家庭に入るとしたら男として恥ずかしいなんて思わない?」夫は首を傾げる。「どうして? 大いに誇りに思って自慢するよ。主夫とは楽しそうだなあ」。

この人と結婚してよかった。そう思って嬉しくなるのはこんな時だ。「女々しい奴、人生の敗者だ」。そんな答えが返ってきたとしたら大いに失望し、遂には「こういう価値観を持つ人と結婚してよかったのだろうか」と自問自答をするだろう。家庭が女の領域だといった考え方は我が夫には微塵もない。週末でさえ家事や育児を全面的に妻におしつけた挙句にゴルフに繰り出すようなことはあり得ない。性別による固定観念にも束縛されないから、息子と娘をほぼ同じ土壌で育てている。(「息子には逞しく育って欲しいから公立に入れるけれど、娘は別だから私立に入れたいの」などと大真面目に言う親がいるのには驚く。)

「男であることを前に押し出すような生き方はしたくないねえ」。
雑誌で二人の男性の対談を読んだ時に出会った言葉だ。彼らは「男の手料理」と肩に力を入れるのではなく、ごく普通のこととして日々の食事を作る。編み物をする。仕事上の付き合いという名目で飲みに行ったりゴルフに興じたりすることを拒む。なんて爽快なんだろう。彼らが素晴らしいのは、男社会ひいては企業社会のしがらみから解き放たれ、独自のライフスタイルを創り上げている点である。

男性がもっとしなやかに生きていく為には、女性の精神的かつ経済的自立も必要だろう。妻が手に職をつけることにより夫の選択肢も拡がる。一家の大黒柱として責任を一挙に担うが故に転職もままならず、好きでもない仕事にしがみつかざるを得ないとしたら気の毒だ。

息子と娘には「男らしさ」「女らしさ」にとらわれる生き方はして欲しくない。社会が勝手に作り出したモノサシなんてどうでもいいのだ。これが自分の人生、と胸を張って言えるような凛とした大人に育って欲しい。しなやかに、そしてしたたかに、独自の物語を紡んでいって欲しい。


May 11, 2007

ある月曜日

月曜日、午後五時。病室の窓際に立つ。スーパーでは仕事帰りの買い物客が疲れきった表情でカートを押しているのだろう。託児所では、パパ、ママを待ちわびる小さな姿を思い浮かべながら、せきたてるように親達が車から降りているのだろう。晩秋の空の下に拡がる日常の風景に心を馳せながら、私は非日常の歓びに身を浸していた。

夫もまた息子の保育園へあたふたと車を走らせていった。初めて病室で娘と二人きりになった私は、淡いピンクのキャップをかぶった天使を腕に、灯りが灯り始めた街を眺めていた。「女同士、これからもよろしくね」。声に出さない想いを託して私は娘 に頬ずりを繰り返した。ひまわりの花が散るワンピースを着て笑う彼女。純白のドレスに身を包み誰かと腕を組んで歩く彼女。そんな姿が次々と脳裏に浮かぶ。気分は既に花嫁の母なのかと我ながら可笑しくてたまらない。

日曜日の早朝、彼女はやってきた。僅か二時間程度の陣痛を伴った出産は第三者の目にこそ安産だろうが、その短い時間に世界中の全ての痛みが凝縮されて襲ってきたのではないかと不遜ながら疑いたくなる程に私は叫び続けていた。やがて、予想を裏切る言葉が夫の口から出た。「女の子だよ」。二人目も男だろうと私は信じきっていたのだ。

時は風のように過ぎ去る。「今日はどの服にしようかな」。クローゼットを覗き大真面目に吟味するまでになった娘に苦笑しつつ、その成長が嬉しく切ない。三回目の誕生日を前に娘は懇願した。「ママ、プリンセスのケーキを作って」。ピンクのクリームで彩ったハート型のケーキに白雪姫や人魚姫の飾りをのせると、歓喜の声があがった。今や私が台所に立つと、「お手伝いするう」と飛んで来る。今夜もデザートのパイにかける生クリームをカシャカシャと懸命に泡立てていた。

「私はアメリカ人なのよ、お母さん」。 いつかはそんな風に口をとがらせる日が来るのだろうか。 「お母さんは高校を出るまで化粧なんてしたことなかったよ」。 そんな古風なことをのたまう母を嘲笑するかのようにアイラインで縁取られた目を見開き、大袈裟に溜息をついてみせる十代の娘がふと心に浮かぶ。 パタンとドアの閉まる音で喧嘩も幕を下ろすのだろうか。

月曜日の夕暮れに始まった母と娘の旅はどんな紆余曲折を経て続くのだろう。二人で作ったラズベリーパイを口に運びながら、当分は蜜月の日々を堪能したいとひそかに祈っている。



April 08, 2007

第二章

全米に名をとどろかす芸能人をめぐる訴訟が職場に持ち込まれた日があった。原告は彼の一ファンである。些細な出来事を皮切りに恨みを抱き、挙句の果てには法を盾に無駄な大騒ぎをしているのだろう。私はそう解釈した。(非常に興味深い内容の訴訟なのだが、プライバシー厳守なる義務があるので詳細は書けない。)「私の見方は違うのよ」。先輩の弁護士Tが真摯な表情で言った。私には無謀とも不遜とも思えた原告に対してTは意外な同情を示し、彼の言い分にも正当性があると主張した。Tと原告は共にある障害を乗り越えて生きていた。その共有体験がTの弁護士としての視点にも反映していたのだ。人は皆それぞれ世界に唯一の「歴史」を背負って旅を続けているのだと思い知らされた。

私自身の歴史を思う時、例えば父が若くしてガンで逝った事が自分の生き方に深く影を落としている事に驚愕する。「誰もがいつか死ぬ」という事実の認識が、人生観のみならず日々の子育てにさえ無意識のうちに影響を与えているのだ。しかし、肉親の死といった劇的な体験は長い人生においても限られている。来た道を振り返れば、満員電車に揺られつつテニス部をやめようかと思案したり、呼び出しをくらった職員室でふてくされながら担任のお小言を聞いたりといった屈託のないシーンが目につく。そんな風にさりげない日常のドラマが無数に重なり合い、点が線となって、良くも悪くも今の自分の生き方を形成しているのだろう。

封印しようにも出来ない記憶もある。「ママ、子供の時いじめられたことがある?」おやつのお餅を頬張りながら息子が突如として尋ねた。「あるよ」。事務的に答えながらも、泣き腫らした目で家路につく11歳の少女が脳裏を横切った。誰にも言えない悩みの重さに堪えかねて下唇を噛んだ早春の放課後。あの日は今も私の中でひそやかに息をしている。「僕がいたらよかったね。いじめっ子をやっつけて守ってあげたのにね」。心なしか息子の頬にほのかな赤みが加わる。「あのね、どんな人にママになってもらおうかなって探してたんだよ。ママを見て、この人がいいと決めたから生まれてきたの」。

返す言葉も無く彼の手を握る。嬉しいより気恥ずかしい。こんな欠点だらけの人間を全身で愛してくれる子供達がいる。かつて洩らした溜息や流した涙さえも意義のあるものにしてくれた。母となり、私の人生の第二章が幕を開けた。そんな気がしてならない。


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March 08, 2007

ことばへの想い

ことばは常に私の隣にあった。殊に書きことばの世界に魅了された。高校一年で投稿を始め、将来は活字の周辺で働こうと決意した。夢が実現したのは渡米後2年目である。フリーのライターとして新聞や雑誌に記事を書き始めた私は、取材に走り原稿を仕上げる日々に爽やかな充実感をかみしめていた。

成人対象の読み書きのクラスを訪れインタビューをした日が鮮明に蘇る。生徒の一人は、高卒でありながら小学生並みの読み書きさえおぼつかない中年女性だった。文盲という概念自体が葬られた日本では予想もつかない世界に驚愕し、一方ではアメリカの成人教育の内容に感嘆もした。更には、3歳の息子を友人に殺害された主婦を取材し、犯罪の犠牲者やその家族が直面する法的問題を記事にした経験も忘れ難い。取材を契機として、我が子を殺害で奪われた人達の定期集会に参加するまでになった。刑法への関心が一挙に深まり、ロースクールで法律という新たなテーマについて執筆を始める結果となった。

英語で文を紡ぐ作業に熱中した背景には単純明快な理由がある。最も大切な人の母国語が英語であり、彼が読めないものを書くのは空しいという感がついてまわったのだ。だが母となった時、日本語も大切にしたいと切望するようになった。エッセイの連載を始めたのもそんな時期である。それは、我が子に英語と日本語、双方の言語の美しさを堪能出来る人間に成長して欲しいという願いの表れでもある。海外で暮らす以上、日本語は会話だけで充分、読み書きまでは期待しないという親も多い。(期待する親を批判する声まである。)だが、書きことばの世界に身を浸してきた私は、その奥深さを子供達と分かち合いたいという気持ちが強い。

偉そうなことを書いているが私はズボラな母だ。家庭教育を怠ってきたお陰で息子の日本語の読み書きは実に遅々としている。それでも、1年前だっただろうか、彼は素敵な贈り物をして驚かせてくれた。台所に立つ私に「ママ、だいすきよ」と書いた「おてがみ」を差し出したのだ。ミミズの這った字とはこれを指すのかと苦笑を洩らしもしたが、私はそのラブレターを後生大事にしまっている。(書きことばの素晴らしい点は「作品」を想い出として残せることだ。)だいすき。I love youよりもずっとずっと温かくて力強いことば。「ママ、だいすきよ。だいだいだいすきよ。」娘も言ってくれるようになった。相好を崩しながら、さあ今年は母子で更にことばの世界を堪能しようと意気込んでいる。




January 12, 2007

16時たち

手持ちぶたさからサイドミラーをつたう水滴に視線を遊ばせる。午後4時前、学校の駐車場に人影はまばらだ。背後では娘が寝息をたてる。やがてクラブ活動を終えた息子が校舎から出てくる。少しくたびれた制服を着て淡い笑みを頬に浮かべながら。車中での束の間の自由時間だ。

夕暮れ時という言葉が郷愁を誘う。商店街の喧騒。台所からもれる煮物の匂い。懐かしい世界が心の中に拡がる。モノクロームの風景が徐々に色を帯び始める。ラケットを抱え青い列車に乗り込む制服姿の自分が映る。「就職して貯金しイギリスに行きます」。会議室で向き合った教師に平然と宣言した放課後があった。皆が受験勉強に挑む中、私一人がアルバイトに通っていた。ブリティッシュ・ロックに陶酔し、アーティストにインタビューをして記事を書くような職に就きたいと真剣に思いつめていた。非凡な人生を歩むのだと青っぽい自尊心から決めつけていたのだ。その私が今はお弁当に詰めるお握りを雪だるまに型抜きする生活を送っている。

同窓生には政治家や芸能人としてグラビアを飾る人達もいる。だが私を含め大半の卒業生は穏やか過ぎる日々に溜息をつき一方では安堵もしながら、昨日と変わり映えない今日を旅しているのだろう。共にテニスボールを追ったM子。図書館で肩を並べたT子。流れた歳月の重みで輪郭も薄れた顔がぼんやりと映る。師走の空の下、彼女達は出し忘れた年賀状やら大掃除の計画やらに心を奪われながらスーパーへと自転車を漕いだり鍋物の野菜を刻んだりしているのだろうか。故郷での様々な16時たちを想う。

自分の人生にも多くの16時たちがあった。3日間にわたる司法試験が終わり隣の受験生と握手をしたのも、新しい生命を胸に抱いたのもこの時間帯だった。華やかさには程遠い人生を嘆きたくもなるが、実はささやかなドラマが彩りを添えてきたのだ。息子がバイオリンで奏でるメヌエット。娘が小さな手で丸めるクッキー。青春時代には魅了されなかった日常の風景に身を浸す私だ。

息子の姿が視界に入る。車に招き入れ背を撫でる。夕食。お風呂。バイオリンの練習。雨の中、お決まりの日課を反芻しながらハンドルを握る。高速は今日も渋滞だ。今夜は残りご飯を使ってドリアにしようか。来る年もまた、こんな16時を幾度も幾度も繰り返していくのだろう。どんなに平凡であろうと、世界に一つしかない私の物語である。



January 11, 2007

卒業

パンプスを脱ぐ。ブレザーをハンガーに掛ける。「ペコペコだよー」。子供達のコーラスに背を押され台所に立つ。メニューも決まらないままに、パスタを茹でる湯を沸かしベーコンを炒める。

今日は朝から夕方までホテルで法律セミナーを受講していた。秋にしては暖かい夕暮れ時、ベーコンの香ばしい匂いに包まれながら充実していた一日を振り返る。居間では息子が制服を着替えもしないままレゴに熱中し、その横で娘が人形「まいこちゃん」の髪をとかしている。

娘が生後半年の時に同じようなセミナーに参加した。当日、会社を休み育児を担当してくれた夫が昼休みに娘同伴で会場に現れ、親子3人で近くのデリに出掛けた。他の弁護士達は連れ立ってレストランへ食事に行くが、私はそれどころではない。授乳という仕事が待ち受けているからだ。母乳育児への私の思い入れは強かったから、仕事先での授乳は苦にならない。むしろ待ち遠しい時間だった。夫と向き合いサンドイッチを頬張る傍ら、そっとブラウスの下で娘に乳首をふくませる。二人目の子ともなれば人混みの中での授乳も馴れたものだ。他人の目には私がただ娘を抱いているとしか映らないだろう。

そして、生後3日の新生児を抱きながら暗闇で叫び声を上げた夜が記憶に蘇る。授乳時に触れた娘の額が異様に熱い。と思えば、その直後に熱さが消え平熱に戻る。「すぐに救急病院へ!」怒鳴りながら夫を揺り起こした。それから数時間後、小さな体のあちこちにチューブを繋がれた娘を呆然と見つめる自分がいた。彼女はバクテリアに感染していたのだ。「お母さん、よく早期発見出来ましたね。」担当医が褒めてくれた。発見が遅れていれば脳障害もしくは死という結果になっていたらしい。瞬間的に高くなった熱を私が奇跡のごとくとらえることが出来たのも授乳を通し肌を触れ合っていたからだ。こんな形で母乳育児の恩恵を受けることになろうとは夢にも思わなかった。

「ママ、おっぱい!」と時おり人前で叫んで私を赤面させることはあるものの、もう娘に母乳は必要無い。卒乳という言葉さえ母になるまでは馴染みが薄かった。だが今はその言葉の重みにたじろいでいる。今朝も娘は嬉々として託児所に通い、後ろ髪引かれる思いで「バイバイ」と手を振る母を見もせず塗り絵に夢中になっていた。母親の出番もこうして徐々に減っていくのだろう。スクスクと子供達が成長する一方で親の私は何をモタモタしているのか。茹で上がったパスタの湯を切りながら自問自答を繰り返す自分がいた。


November 25, 2006

それぞれの季節

学生時代、きちんとノートを取った記憶が無い。試験直前に懇願して友人のノートを借りコピー屋に走るのが定番だった。遅刻の常習犯でもあり、職員室に呼び出しをくらう放課後が幾つもあった。そんなズボラでいい加減な性格が未だに尾を引いている。

私は世で言う「いいお母さん」には程遠い。子育てにかけては、よく言えば「のびのび」、実を明かせば手抜きということになる。子供達を公園などで遊ばせる傍ら、自分は腰を下ろして、おもむろに取り出した仕事関係の本や原稿に目を通すことも多い。(子供の安全だけは確認している。)いや、仕事がらみなら格好がつくものの、小説を読みふけることもある。この程度のことなら誰でもしているだろうとたかをくくっていたのだが、よく観察してみると近所の公園に数多くいる母親の中で読書に没頭しているのは私ぐらいのものだ。アメリカ人のお母さんはsweetieだのpumpkinだのと甘い言葉で我が子に話し掛けては、砂場で一緒に何かを作ったり、かくれんぼをしたり、かいがいしく遊び相手を務めている。或いは母親同士で育児の情報交換に精を出している。私はこういうのが苦手なのだ。子連れで外出すること自体は大好きだし時間が許す限り遠出もいとわない。その裏で実はちゃっかりと自分の時間の捻出もしている。育児に肩の力は入れない。だからこそ育児が楽しい。

息子の学校へボランティアに行く途中のバスで膝に座っていた娘が寝息を立て始めた昨冬の昼下がり、しめしめとばかりに私は愛用のiPodを取り出した。最初に流れた曲がAcross The Universeだったことを鮮明に思い出せる。霧雨が降り注ぐ午後、車窓越しに拡がるグレーの風景にジョン・レノンの切ない歌声が溶け込み独特のドラマを創造していたからだ。ああ私は一人だ、そう思った。膝に娘の重みがずしりと感じられるのに、15分もすればバスは学校の前に停まるのに、なぜ「一人だ」と思ったのだろう。だが、それは寂しいという意味ではなく、「一人で幸福だ」という満ち足りた気持ちだった。「母」から「私」へと戻る時間が愛しい。 

親がズボラでも子は育つ。息子は学校でサイエンス・クラブに入部し嬉々として実験に励んでいる。サッカー教室に通う娘はバレエに転向しようとあの手この手で母を説得中である。5歳と2歳のそれぞれの秋が深まりつつある。さあ、私もプロジェクトが山積みだ。自分の季節を探しに出かけよう。



October 26, 2006

独り

ピンクの毛布にくるまれた新しい生命を抱いて彼女は斜め前の席に座った。普段は無愛想な商法の教授がこの朝は満面の笑みをたたえ赤ん坊を覗き込んだ。学期初めに臨月のお腹を抱えていた級友が出産後に再登校したのだ。このような光景はアメリカのロースクールでは目新しくない。法曹界を志す既婚女性がひきもきらないからだ。妻や母であると同時に独りの人間として生きる。そんな彼女達の颯爽とした姿は私を大いに奮い立たせてくれた。

私自身も結婚後に法の道に進んだ。「僕に万が一の事があった時はどうするの?」若くして結婚し海外永住となった私に夫は真摯な問いを投げかけた。専業主婦の人生にはリスクがついてまわる。外国暮らしとなれば尚更だ。手に職をつけたい。そう切実に思った。その話をすると、「生命保険に入っていないの?」と真顔で尋ねた友人がいたのには閉口した。保険には入っているが、そんなものをあてにする気は無い。いざという時に頼りになるのは自らの内に蓄えた力だろう。

安いとは言い難いロースクールの授業料を捻出してくれた夫の声援を背に私は法に挑んだ。私にとっては、高級ブランドの服を買ってもらうより何倍も嬉しいプレゼントだった。それ以上に彼の精神的支援に頭が下がった。図書館にこもる妻が家事を全くしなくても文句一つ言わない。試験最終日にはお祝いの食事に連れ出してくれる。

「大切な人をぬくぬくと心地良い場所で守ることは必ずしも愛ではない。その人が独りでも生きていける強さを身につけるようにしてやることが真の愛だ」。どこかでそう読んだ記憶がある。夫はまさに私が独り立ち出来ることを願っていたのだ。

資格取得を機に私が雑誌のグラビアを飾るような「自立した女」に変貌を遂げた訳ではない。いや、自立への旅は永遠に続くのだろう。だが、その出発点で温かく背を押してくれた夫への感謝の意は絶えない。(なのに私は「ありがとう」さえ照れて言えず、時にはわざと喧嘩をふっかけたりする悪妻だ。)

母となった今、子供達には独力で船の舵を取れる人間に成長して欲しいと思う。特に娘には女であることを言い訳に独り歩きを放棄して欲しくはない。そして私自身も細々とながら自分の世界を耕していきたい。当然ながら結婚は始まりでありゴールではないのだ。洗濯物をたたむ初秋の黄昏どき、法学生時代に出会ったしたたかな女性達を思い浮かべる。丸めがちな背をピンと伸ばすような思いで。



September 17, 2006

自由の重み

ワシントンDCで夏休みを過ごすと言った私を上司が笑った。彼はDCの炎夏を体験済みだったからだ。だが、その入り口で大理石の柱を見上げた瞬間、来た甲斐があったと歓喜の声をあげたくなった。うだるような午後、汗を拭いもせずに立ちすくむ。夢にまで見た連邦最高裁判所だ。

師と仰ぐ先輩の弁護士が手配してくれたお陰で、職員による個人ツアーという恩恵にあずかり、一般非公開の場所をも見学する事が出来た。ツアー終了後もくまなく建物を見て廻る私に、「よく飽きないね」と警備員が舌を巻いた。

閉館時刻後でさえ名残惜しく建物の外にある噴水の傍に佇む。憲法のクラスで学んだ幾つもの判例が机上の理論を超越し、生身の人間をめぐるドラマとして心の中に映し出される。いきなり寝室に侵入した警察官により逮捕されたゲイのカップルが同性愛者の行為を違法とする州法の合憲性を問いただしたケース。自給自足の生活を営み「農場と家庭こそが最良の教育の場」と信じるアーミッシュの親が我が子を義務教育から解放させる自由を主張したケース。星条旗を焼く行為は憲法第一条で謳われる表現の自由にあたると訴えたケース。それらの一つ一つは、上訴を幾度も繰り返した果てにまさにここ、最高裁で争われたのだ。

最高裁なる言葉は敷居の高い象牙の塔を連想させるかも知れない。だが、そこでの判例は私達の日常に深い影響を及ぼしている。例えば、息子の学校ではクリスマス行事を何一つ行わない。「メリー・クリスマス」なる言葉は使わずに「ハッピー・ホリデーズ」で代用する。無宗教の私立校だけに中立の立場を維持するよう努めているからだ。「公立はもっと徹底しているわよ」。担任の先生は語った。夫の幼少時代は公立でもイースター休暇があったらしい。昨今の公立校でイースターを特別扱いすれば論争に火がつく。特定の宗教が優先されてはならないと人々が法の力をも行使して訴えてきたからだ。それは、憲法が保障する信仰の自由を絵に描いた餅にしない為の闘いでもある。

「アメリカは自由の国」と手放しで称えるのはたやすい。だが、その自由とは多くの闘志達によって築かれたものであることを私達は忘れがちだ。いつの日か子供達と最高裁を訪れたい。黒いローブに身を包み威厳の光さえ放つ判事達を前に口頭弁論を行う弁護士の姿を見せ、「自由とは」「人権とは」を語れる日が来て欲しい。そんな風に願いながら、数年前のDCへの旅を懐かしく想い出している。 




July 27, 2006

厳粛な場所

夏草の匂いが郷愁を誘う。独立記念日に手渡された星条旗を振り回す娘の手を引いて歩く道すがら、「帰りたい」という内なる声にたじろぐ。いつか口ずさんだ歌謡曲の一節や通い詰めたプールでのざわめきが感傷的なドラマを自分勝手に創り上げ胸を締めつける。日本が恋しいのか。いや、そうではないとかぶりを振る。「あの場所」ではなく「あの時」に戻りたいだけだ。

「長い海外生活で寂しいでしょうね」。そう問われる度に、「寂しくなんかないですよ」とムキになって答えるのは従来の気の強さからだけではない。心に棲む日本は美しい国だ。パスポートに記された日本国なる文字を目にする時、ふと心が温まる。職業柄、米国籍獲得の意義に関してはさんざん記事を書いてきたが、私自身は日本国籍を手放す気は無い。手放さないゆえの恩恵を痛感する機会も多い。その一方で、日本は「帰る国」ではなく「行く国」に変貌したと半ば諦め気味に思う。時の流れの中、心に在る日本と現実の日本とではギャップが拡がるばかりだ。地下鉄に乗っても、女子高生の一群とすれ違っても、自分はここに属さないという苦い事実を飲み干すことになるだろう。

それでは、最も愛しい人の母国であり、自ら永住の地として選んだアメリカこそが「帰る国」なのか。再び首を振る。これだけ心地良い国でありながら、異邦人としての感覚を拭い切ることが出来ない。給食当番のエプロンをつけ、「アイ・ハブ・ア・ペン」と英語を習い、「仰げば尊し」を歌った自分がアメリカ人になりすまそうとしても無理な話である。なりすまそうという気もない。「God bless America!」と涙を流さんばかりに叫ぶ人達をどこか醒めた目で視る自分がいる。

「国際結婚をしたお陰で私には帰る国が二つあるのよ」。そう誇らしげに語る人もいるが、逆に私は帰る国を完全に無くしたような喪失感を味わっている。でも悲愴ではない。根無し草というと哀れな響きがつきまとうが、当の本人はそれほど深刻には受け止めてはいない。むしろ、浮き草としての生き方も爽快じゃないかとさえ思う。帰る国は無いが、帰る場所ならある。家族という厳粛な場所だ。夫と息子が自転車を漕ぐ。私と娘が手を繋いで歩く。「ありさんとありさんがごっつんこ」。木漏れ陽の中、声を揃えて歌う。小さくても力強いこの場所が在る限り、どの国でも笑って生きていけそうな気がする。





June 29, 2006

文月の頬杖

7月の足音が聞こえる。「しちがつ」という言葉を舌の上で転がす時、想い出のかけらが一つ、また一つと掌にこぼれ落ちるようだ。記憶に封印したい溜息や胸の痛みさえも。

あの7月、冴え渡る空の下で、瑞々しい緑の中で、スーツ姿の私は重い心を引き摺っていた。連邦裁判所の窓際で頬杖をつきながら、訴訟の世界を去る日が遠くない事を実感していた。当時の私には重厚な家具付きの個室があてがわられていた。だが、お茶汲みとラジオ体操で幕を開ける日々を嘆いていた日本でのOL時代より、今の方が幸せだとは言い切れないのが淋しかった。心身共に憔悴していたのだろう。長距離通勤で朝は暗いうちに家を出る。上司の期待に応えるべく膨大な仕事をこなす。夫とはろくに顔も合わせない日々が流れた。

訴訟は家庭との両立が難しい分野である。「月曜日の朝8時から会議だ」。裁判官の鶴の一声で予定が決まる。いきなり週末返上で書類に目を通す羽目となる。意外な展開も多く、略式判決といった形で裁判まで進まずに終局を迎える事もあれば、さあ翌日から裁判だと覚悟をくくっていた矢先に和解が成立する事もある。臨機応変な対応が不可欠だ。それにしても、私が家庭との両立を深刻に考えるようになったのは何故だろう。おぼろげながら母になる日を意識し始めたのか。あれほど子供は持たないと決めていたではないか。自問自答を繰り返す日々が過ぎた。

頬杖をついているのは、どうやら私ばかりではなかった。大手の事務所で会社法を手がけていたボニーは、50の声を聞く頃に退職し、大学に再入学して心理学を学び始めた。移民法弁護士だったパムはビジネスをたたみ家庭に入った。同じ場所にとどまる人の方が少ない。自分探しという言葉は若い人だけのものではないのだ。いや、人によっては一生、続くものかも知れない。立ちすくんだり振り向いたり、そして時には涙を流しながら、よろよろと不器用に人生という名の旅を続ける。私もそんな旅人の一人だ。

初秋の訪れと共に私は職場を去った。夏の再来をほうふつとさせる快晴の金曜日に花束を抱えて。翌年の7月、開け放した窓から吹き込む風に身を任せてビバルディを聴きながら、マタニティドレスの下腹部がこんもりと動くのを眩しく見つめる自分がいた。

「Stop it!」 これを書く居間にお決まりのフレーズが響く。息子と娘が絵本「にこにこぷん」の取り合いで喧嘩を始めたのだ。娘の目に涙が溢れる。「お兄ちゃん、優しくしてあげてよ!」負けじと私も声を張り上げる。「探さなくても自分はここにいるよ」。内なる声が囁くような気もする。頬杖をついた日々を子供達に語る日が来るのだろうか。どこか懐かしい初夏の陽を窓越しに浴びながら遠い目をする私だった。









May 29, 2006

モザイクの街で

都会の喧騒に身を浸したくなる午後がある。特に、夏の予感薫る風が鼻先をくすぐる、こんな季節は。缶コーラを片手に昼休みのダウンタウンをぶらついてみた。艶やかに鼻ピアスを光らせ、刺青に覆われた腕で乳母車を押す母親。大道芸人よろしく太鼓を叩くアフロヘアの青年。丸めた中国語新聞をポケットから覗かせ煙草をふかす老人。多様な顔、声、価値観。無数の物語を散りばめたこの街が好きだ。

住民のほぼ全員が白人であり、こぞって教会に通う。そんな田舎街に住んでいたことがある。統一性を好む人にとっては心地よい場所だろう。だが私はあの牧歌的な風景に再び身を置きたいとは思わない。パステル調の世界よりも複数の原色が織りなす世界の方が肌に合う。

多様性(diversity)を大事にしよう。このスローガンはアメリカに定着した感がある。だが、その実は絵に描いた餅に過ぎない。プロテスタントの白人こそ真のアメリカ人だと主張し、移民は自国へ帰れと声高に叫ぶ団体もある。「日本は単一民族国家だから素晴らしいよ。移民が溢れるような国は問題が山積みだからね」。そう真顔で移民の私に語った上司もいる。「我々は家庭でも英語のみを話し、アメリカ式の食事をし、真のアメリカ人になるべく努力しています」。かつて市民権獲得を拒否されたことを訴えた日系人はそのような発言をした。多くの日系人に母国の言語と文化を葬らせた社会的背景を思うと胸が痛む。息子と娘の無防備な笑顔を思い浮かべながら、彼らの前に拡がる世界を懸念せずにいられない。アジア人の母を持つ二人も、真のアメリカ人とは見なされず疎外感を味わう日があるのだろうか。社会が根こそぎ変わることがあり得ないのなら、したたかに生きる術を伝えるしかないのか。

息子は「ひらがなのおべんきょう」をし、天ぷらを詰めたお弁当を学校に持参する。日本文化の継承などと肩に力を入れるのは私は大の苦手だ。日本語教育にも大真面目には取り組んでこなかった。その一方でアメリカ人になりすまそうという気もない。外国人が皆無に近い保守的な私立校で日本語を話す親子に注がれる好奇の視線にも、一向にひるまない。

「エクスキューズ・ミー」。ハイヒールの軽やかな音と共にスペイン語訛りの英語が背後から聞こえてくる。振り向くと、肘までたくし上げたブラウスから小麦色の腕を覗かせた女性が微笑する。「メーシーズへの道順を教えて」。私が日本語訛りの英語で答える。彼女の後姿を見送りながら、今夜の計画を心の中で反芻する。次の平仮名は「ろ」だ。天ぷらにはズッキーニも使おう。夏への助走を始めた街をすっぽりと包み込むような蒼い空を見上げ、仄かに甘い風を味わいながら、メトロバスに乗り込んだ。



April 26, 2006

リアへの手紙

眼鏡越しに微笑む緑色の瞳が優しい。リアと出会ったのは法学生時代の物権法のクラスだった。当時、私は歯をくいしばり、時には半泣きになりながら机に向かう日々を送っていた。アメリカのロースクールで最初の一年は生き地獄と称される。連日、百科事典より厚い判例集から膨大な課題が出される。中間試験が無く期末一本で点数が決まる。成績が一定基準を割れば退学処分となる。怒涛のような毎日に疲れ果て自ら脱落していく級友もいた。リアと私はいつしかお互いを励まし合う仲になっていた。

周りには自己主張の塊のような学生が溢れていた。同性愛者支援のバッジをつけ、動物愛護を訴え犬を引き連れて登校し、教授が男女差別にあたる発言をしたと授業を一斉に退室する。そんな中で珍しい程にリアは控え目だった。だから日本人の私に関心を抱いたのだろうか。私自身も強さを前面に押し出す学生よりリアといる方が落ち着けた。「三十代のうちに子供を二人産むのが夢なの」。淡々と彼女は語った。弁護士の卵達が鼻息荒く成績を競う中でリアの夢はあまりにも素朴であり、子供嫌いの私の耳にさえ新鮮に響いた。

ある日突然に隣のリアの席は空席となった。どうしたのかと気にかけていると電話が入った。法曹界を断念し学校を去ることにしたと言う。「私の分まで頑張ってね」。受話器越しの声は温かかった。「これからも友達でいてね。いつかスシを食べに行きましょう」。日本食が好きな彼女はそう言って電話を切った。勉強に追われるうちに日々は流れ、私がやっとダイヤルを廻した時には「この番号は使われていません」というメッセージが空しく響いた。

母校からは時おり同窓生の近況を報告する機関紙が届く。テリーは判事になった。ベスは環境法の専門家として政府機関に就職した。だがリアの行方は判らない。「スシを食べに行く」約束はかなわないままだ。それでも私は心の中で彼女への手紙を綴ってきた。娘の髪を結ぶ朝。息子と餃子を包む夕暮れ。あの緑の瞳が懐かしい。どこかで彼女も離乳食を作ったり、絵本を読み聞かせたりしているのだろうか。お互いの子供達を遊ばせながらお茶を飲む、そんな昼下がりがあればよいのにと叶わぬ夢を見る。「物権法の教授は恐かったね」。そんな風に怒涛の日々を笑い飛ばしたい。判例集で膨らんだナップサックを背負うよりも乳母車を押して歩く方が板についた今となっては遥かな世界。その世界を一時期でも共に駆け抜けた友と。


March 28, 2006

リバプールを感じる朝

グレーの空が広がる土曜日の朝、馴染みの店でコーヒーの香りに包まれながらガラス越しの世界を眺めていた時だった。懐かしい音色が背後から聴こえてきた。踊り出したくなるような軽快なメロディ。ビートルズの「オブラディ・オブラダ」だ。振り向くと、店の隅で男性がピアノを弾いていた。何年か振りに耳にする曲に酔いしれていると、ブリティッシュ・ロックを愛しイギリスでの生活を志していた十代の日々が鮮やかに蘇る。

カセットに合わせてビートルズの歌を口ずさむ時、机と本箱だけで一杯になる猫の額のような自室にリバプールの光が射し込むように感じた。当時、私は進学校に通いながらも大学受験を拒絶し、教師との話し合いが難航していた。校則を辛らつに批判する記事を書いて職員会議にかけられた日もあった。「ロックも教科書」なる題名の記事を新聞の全国版に載せたこともある。今でこそ気恥ずかしくもなるが、当時はどこかで自らを個性派と称し自惚れていたのかも知れない。私にとってロックはまさに教科書だった。成人するまで海外に一歩も出なかった私がまがりなりにも英語で司法試験に合格し記事を書いてきたのも、辞書を片手に歌詞カードを訳した日々があったお陰だ。そしてロックが発するメッセージは社会問題について考える契機ともなった。

そんな私も胎教を機にクラシックの世界に目覚め、バッハに涙し交響楽団のコンサートで息を呑む。それでも時には乳母車を押しながらジョン・レノンの曲を口ずさむ自分がいる。バッハがどんなに素晴らしい音楽家であっても、英語の先生になってはくれない。その点、ジョンやポールから吸収したものは計り知れない。

今はバイオリンを弾く息子も十代になれば、「クラシックなんて退屈だよ。それよりロックバンドをやりたいんだ」とでも言うかも知れない。でも私は頭ごなしに反対はしないだろう。「面白そうじゃないの。やってごらん」と言うかも知れない。「自分のことは自分で決めるから放っておいて」。子供達がそんな風に言い放ってドアの向こうに消える日の到来が恐くもあり楽しみでもある。青春時代は親や教師の敷いたレールから多少なりとも外れる方が愉快だと思うのは、遠い日の自分を弁護したい気持ちの表れだろうか。ピアノの調べに目を閉じ、懐かしいリバプールの光と風に包まれながらラテを飲み干す。イギリスに住むという夢は叶わなかった。でも同じ英語圏で自分なりの世界を築いてきた。振り向くと、どこかでマッシュルームカットの4人組が微笑んでいるような気がする。



February 27, 2006

伝えていくメッセージ

1955年の夏、シカゴ育ちの14歳の黒人少年エメット・ティルはミシシッピーへと叔父を訪ねる旅に出た。彼は雑貨店で見かけた白人女性に向かって口笛を吹いた。当時の南部では白人女性に言い寄ったとされ何百人もの黒人男性がリンチに遭っていたことを彼は知らなかったのだ。数日後、少年はその女の夫や親戚らにより誘拐される。やがて川に浮く彼の死体が発見された。激しく殴打され銃で打ち抜かれた顔は原形を留めていなかった。裁判では主犯とされる白人男性二人に対する無罪判決が出た。(後にお金を出した雑誌記者とのインタビューで彼らは殺害を自認したが、無罪判決は変化せずに終わった。)

この事件に関するビデオを見たのは、弁護士の卵として参加した人権法セミナーである。息子の幼稚園に向かう車中で、忘れていた筈のエピソードが生々しく蘇った。いや忘れてはならないのだと自らに言い聞かせる。その午後、息子を含め14人の園児が、同じ1955年にアラバマ州モントゴメリーにて黒人公民権運動の一環として行われたバスのボイコット運動を劇化し、全校集会で発表することになっていた。白人にバスの席を譲ることを拒否し逮捕された黒人女性ロザ・パークスにより幕を切った有名なボイコットである。

全学年が一堂に集うこの定期集会では、公民権運動をテーマに各クラスが詩の朗読や寸劇等の発表を行った。いよいよ最年少の息子のクラスが登場する。彼らは「ボイコット」「不公平な法律!」などと書いた手製のプラカードを担ぎ、腕にはキング牧師の顔写真入のアームバンドをつけて、We Shall Overcomeという公民権運動のテーマソングを歌いながら登場。背景にはボール紙で作ったバスもある。子供達の台詞を交えながら先生がボイコットの歴史的背景について説明を加える。

5歳の園児達は劇に取り組む過程で、幼いなりに人種差別について学ぶ機会を得た。水飲み場で黒人用、白人用と決められた二本の蛇口の写真を見て、「両方とも同じ水が流れているのに変だね」と語り合った。「白人だけがこの学校で許されるとしたら、XちゃんもX先生もいられなくなるよ」という話も出た。これは特に子供達にとっては衝撃的だったらしい。半分はアジア人でもある息子も「いられなくなる」一人なのだ。

劇を終え拍手の渦の中で頬を紅潮させている園児達を、私は誇らしげに見つめた。エメット少年の加害者が無罪となったことを地元のメディアは狂喜して報道したという。裁判の陪審員は全員が白人だった。唯一の子を失った母は世界への告発として棺を開き死体を公開して葬儀を行った。エメットの死を無駄にしてはならない。未来を担う世代へのメッセージを私達は発していかねばならない。ミシシッピーのうだるような暑さの中で奪われた命に想いを馳せながら私は心の中で呟いていた。


January 28, 2006

届かない陽だまり

目の前に一枚の写真がある。友人のエドが初冬の光を浴びて弱々しい微笑を見せている。その横で彼の長男ニックは無造作にジャンパーのポケットに手をつっ込み、カメラを凝視している。エドは髪が薄くなった。彼らと最後に会ってから十年をゆうに超えるだろうか。あれ以来エドは妻のステラと離婚し、下の息子クリスは彼女が引き取ったらしい。短い手紙の行間にあるドラマに想いを馳せるうちに、エドとステラが腕を組んで歩んだ早春の午後が心の中に蘇る。あの日、私は二人の後姿を見つめながら、幼いニックとクリスの手を引いて歩いていた。私の息子と同じ年頃だったニックは私のことを「ココ」と呼んでいた。今、彼はオレゴンの大学で建築学を専攻しているらしい。エドより背が高くなった彼の姿をまじまじと眺めるうちに、息子の将来の姿が重なって映る。

人生とは短いものだ。その事実を子供の成長ほど雄弁に目前につきつけるものはない。刹那の人生の旅人である私達が溜息をついたり愚痴をこぼしたり喧嘩をしたりしているうちに、容赦なく時は駆け抜けていく。再び視界に入ることのない車窓の風景のように。息子の手を握るコンサートで聖歌隊の透明な歌声が大聖堂を満たすとき。「じょーぞ(どうぞ)」と娘が散歩道で拾った葉っぱを誇らしげに差し出すとき。ゲームに興じる子供達のキャッキャッという声を背にシチューの野菜を刻むとき。抱きしめたいようなひとときも、やがては想い出の中に封印され次第に色褪せていく。時を越えて変らないものなどあるだろうか。

ふっと脳裏をよぎる光景がある。それはかつての自分が紺の制服を着たまま自転車を漕いで通ったアルバイト先のマクドナルドだったり、憧れの先生をひそかに凝視していた職員室の外の廊下だったりする。モノクロームの世界の中、そこだけ陽が射すかのように、バイト学生の溜まり場である小部屋に貼ってあったポスターや、先生が羽織っていた水色のジャケットが鮮やかに浮かび上がる。想い出は陽だまりのように優しい。手を伸ばせば届きそうな気がするのに、遥か彼方の世界になってしまった。
妻として母として現在のありあまる幸せの中でさえ、あの頃に戻れたらと願い、戻れないという現実に胸が痛む。こんな矛盾を抱える私は傲慢なのだろうか。かつてのバイト仲間達はそれぞれに通勤電車でスポーツ紙を広げたり、夕暮れ時の八百屋で品定めをしたりしているのだろうか。不慮の事故で逝った先生の娘達は大学のキャンパスを闊歩しているのだろうか。

人生とはささやかなものだ。だからこそ一瞬一瞬をかみしめるように生きるしかない。娘が後生大事に掲げて歩くピンクの蝶々の絵。息子がバイオリンで奏でる「アレグロ」。目をこらし耳をすまして、日常生活を彩る一つ一つのものを愛しもう。明日を思い煩う前に今という瞬間と真摯に向き合おう。一枚の写真を前に新年のメッセージを自分自身に贈る私だった。
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December 25, 2005

電車に乗ろうよ

初めて手にした定期券に誇らしささえ感じた12歳の春。あの日を皮切りに電車通学、ひいては通勤の日々が始まった。車内も一つの小さな社会であり、おのずから人間観察の機会もあれば新しい出会いもあった。だが私がこよなく愛していたのは車窓越しに眺める景色である。夕暮れ時の商店街。線路沿いの道に並ぶ自転車。ベランダにはためく洗濯物。絵葉書を飾るような美しい景色とはかけ離れた日常の風景に心を惹かれた。

もう10年以上も日本に足を踏み入れていない私は、それだけの期間、電車にも乗っていないことになる。(アムトラックに乗ったことはあるが、あれは異なるものとしか思えない。) それでも悲しい時には、心の中で切符を買い小さな旅に発つことにしている。プラットホームへと続く懐かしい階段を上り、やつれた表情で週刊誌を読むサラリーマンや、流行の服に身を包んだ女子大生の傍に立つ。やがて各駅停車が滑り込む。ドア近くの手すりにもたれて立ち、ガラス越しに広がる世界を見つめる。

そこには無数の物語が眠っている。あの団地で洗濯物を取り込む主婦は、夫と子供の世話だけで人生が終わるのかと溜息を洩らしているかも知れない。あの雑居ビルの一角にある事務所では、ネクタイを緩めた中年男性が窓際に立ち、子供を連れて家を出た妻に電話をかけようかと思いあぐねているかも知れない。そして踏切の前でコートの襟を立てる青年は、不採用通知が溜まる中、今日も失敗に終わった就職面接に落胆し、そろそろ郷里へ帰ろうかと自問自答を繰り返しているかも知れない。

やがて主婦は家族の好物である炊き込みご飯を作る為に台所に立つ。中年男は受話器を握り締めながら、息子が興奮気味に語るサッカーの試合について聞き入る。そして青年はアパートに帰り、母から届いた宅急便を開く。それぞれの主人公が、時には唇を噛んだり涙をこらえたりしながらも、ドラマに欠ける日常の中で拾い集めたささやかな喜びや感動を後生大事にポケットにしまい込んでは明日への希望へと繋ぎ、人生という名の旅を続けているのだ。

悲しみに心を覆われる時、私はつい自分を悲劇の主人公に見立て自作自演をしてみたい誘惑にかられる。そんな自分の肩をそっと叩くように、「旅に出ようか」と心の中で呟く。薄明るい改札口を抜けて現実の世界に戻る頃には、少しだけ、そう、ほんの少しではあるけれど悲しみが薄らいでいるような気がするのだ。いつかは息子と娘も親には打ち明けられない悩みを抱え、自室に閉じこもり涙を流す日が来るのだろう。そんな時は敢えてドアをノックしようとはしない。でも遠くから祈るように呟きたい。「電車に乗ろうよ」と。母として、人生の先輩として。



December 01, 2005

プロセという生き方

プロセという言葉が好きだ。それを呟く時、裁判官の元で判決文を書いていた日々が蘇る。「またプロセよ」。秘書のリズがファイルを手渡しながら言う。中の書類には鉛筆書きの文字がぎっしりと詰まっている。目をこらして読み進むうちに原告の声が高らかに聞こえてくる。「公民権法第7編における人種差別であるとして訴える」。

プロセ(Pro Se)とはラテン語でon behalf of oneselfという意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語でもある。弁護士が悪徳だのと何だのと悪態をつきながら、なおかつ弁護士への依存心が強い。それが私のアメリカ人観だ。そんな中で敢えて弁護士に背を向け、独力で法の世界に挑むプロセ達もいるのだ。私の同僚はプロセを敬遠しがちだった。弁護士が作成した書類とは異なりプロセの書類は読みにくい、或いは法的議論の的が外れているといった諸々の理由からである。その一方で、「専門家顔負けの議論力だ」と舌を巻かせるプロセ達がいたのも事実だ。

訴訟の世界を去ってから、私はプロセなる言葉に別の視点から愛着心を抱くようになった。日本での女性起業家の増加について読むたびに、実は彼女達だってプロセじゃないかと愉快に思うのだ。かつてOLだった私は、お茶汲みとラジオ体操で幕を開ける日々を憂いながらも、作り笑いを浮かべて職場の花に甘んじていた。昨今の日本でも、組織のしがらみを拒み独り立ちをする女性は氷山の一角に過ぎず、それをはるかに上回る数の「職場の花」がオフィスの隅で溜息をついているのだろう。それでも過去に比べれば、カイシャという組織に見切りをつけ独力で生きる選択をする女性が増えたのは確かだ。彼女達は、「弁護士なんて必要ないさ」と自力で道を拓こうとする原告達と共通点があるように思えてならない。

そして忘れてはならないのは親という名のプロセである。子育てほど「我が道を行く」という気概が必要とされる役目も無いだろう。「子供を預けて働くか」にしろ、「日本語補習校に入れるか」にしろ、それぞれの岐路に十人十色の意見が飛び交い、いかなる選択をしても必ず批判をする人達がいる。最終的には、我が子を誰よりも知り誰よりも愛する親自身が、最良と信じる道を選び取って歩んでいくしかない。子供を明るい未来へと導こうとする時、要求されるのは優しさよりもむしろ凛とした強さである。

この秋で私が親になって5年を迎える。息子と娘が巣立った後、老いと引き換えに残るものが温かいパステルカラーの想い出だけだったとしたら哀しい。子供達が成長した分と同じだけ精神的に深みを増した自分であって欲しい。その深みとは、プロセとして自分を鍛え上げていくことから得られるものだと信じている。まだ旅は始まったばかりだ。この旅を与えてくれた我が子らに「ありがとう」と言いたい。


October 28, 2005

ある勝利

柔らかな陽光の射すオフィスで、ロンが手を差し出した。「おめでとう」。私も同じ言葉をそっくりそのまま返しながら、彼の手を握った。二人の間に爽やかな風が流れている。ロンの机上には、REVERSEDと最後に書かれた紙が置かれている。それは私達の勝利を意味する言葉だった。

「原告の女性職員は、解雇が妊娠によるものだとして差別を訴えているんだよ。この件やってみるかい?」 最初に上司のロンに持ちかけられた時には、すぐに歯切れのよい返事を返すことは出来なかった。あまり興味深いものとは思えなかったのである。妊娠という言葉自体にどこか違和感があった。

当時の私には、子供を産んで育てるなど考えられなかったのだ。「キャリアを貫きたいから子供を持たない」決断をしたのでは全くない。元来キャリア志向でもなければ、フェミニストでもない、むしろ保守的な人間だと自認している。ただ単純に子供が苦手で仕方なかった。子供嫌いの人がよく指摘するように、レストランで隣のテーブルから幼児の泣き声が響いたりすると、耳をふせぎたくなった。夫と二人でいつまでも幸せに暮らすのだと自分に言い聞かせていた。

それでも仕事は仕事である。インターンの私はロンとチームを組んで働き始めた。企業側を訴えた女性は既に第一審で敗れており、その決断を打ち砕くべく上訴していた。「上訴したところで、再び企業の勝利に終わるのではないか。私達の苦労は泡となるのではないか」。そんな内なる声を追い払うように、ロンと議論を繰り返し、時には深夜に電話での打ち合わせをする。そんな日々が流れていった。

「自分で自分の肩を叩くといいよ。よくやった!ってね」。勝利の通知が届いた日、ロンは微笑んだ。連邦最高裁で同性愛者の人権をめぐる訴訟に勝利を収めるような弁護士は、一斉にフラッシュを浴び全米のメディアの注目を集めることになる。だが、無名の弁護士が手がけた妊婦の差別をめぐるケースなど、注目する人は誰もいない。それは静かな静かな勝利だった。

あれから何年になるのだろう。母にはならないと豪語していた私も、予想しなかった世界へと足を踏み入れた。ロンと働いていた頃、私は憲法第14条を分析する記事の執筆にも熱中していた。今、第14条の条文を思い出そうとしても咄嗟には浮かばない。「14条にみる平等原理」よりも切実な問題があるからだ。冷蔵庫に卵が無いのである。明日の幼稚園のお弁当に入れる卵焼きをどうしよう。「会社の帰りに卵を買って来て」。 夫に電話を入れ、息子と娘が待つ部屋へと戻る。「おかあさんといっしょ」のCDに合わせて踊るのだ。14条の世界は遥かになった。でも、いつかはそこへ戻りたいという願いもある。子供達と踊りながら、あの日の静かな勝利を想う夕暮れ時だった。
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October 11, 2005

娘へ、そして私自身へ

弁護士は男の職業である。同僚から単刀直入にそう宣言された経験がある。だが私を本当に怒らせたのは、その発言自体ではない。少しバツの悪そうな表情で彼はこう続けたのだ。「僕がそう言ったのはアメリカ人の女には内緒だよ。袋叩きにされそうだから」。日本人の私なら男尊女卑への免疫があると思われたのだ。

「自立心が強いアメリカ女性は、男性に従属せずに生きていける。彼女達をお手本に日本女性も強くあれ」。私が十代の頃、日本のメディアはそんなメッセージをしきりに発していた。
「日本の女は大人し過ぎるのよ」。
「もっと自己主張しなきゃ」。
いわゆる進んだ女性の間ではそんな声も聞かれた。

いや、それはアメリカ在住の日本人の間でも同様かも知れない。
「私って他の日本女性みたいにおしとやかじゃないのよ。言いたいことはハッキリ言うの」。
自らが個性的であることを強調する人からそんな風に言われると、私自身を含め「その他大勢」と十把ひとかけらにされた日本女性はそんなに「おしとやか」、つまり従順なだけの人形のような存在なのかと不平のひとつも洩らしたくなる。

職業柄、性差別とも関わってきた私から見れば、女性をめぐる状況は日米で大差は無いというのが正直な感想である。むしろ、「欧米を手本として意識を高めよ」というお決まりの提唱に頭を傾げたくもなる。経済的にも精神的にも男性への依存心が強い女性はこの国にも多い。更に一男一女の母として痛感させられるのは、「男の子だから」「女の子だから」ということにこだわるアメリカ人の多さである。攻撃性が男らしさ、異性に媚びることが女らしさと信じる人もいる。

日本人でもありアメリカ人でもある娘。成長するに従い彼女がどんなアイデンティティを築いていくのか、今の私には見当もつかない。いや、「日本人」「アメリカ人」「ハーフ」、そんな分類自体はどうでもいいのだ。付け加えれば、「キャリアウーマン」「主婦」、そのような分類だって、どうでもいい。それよりも、揺るぎのない強さを内に秘めて生きて欲しいと思う。「女の子は優しく育ってくれれば、それでいいのよ」。そのような発想は私には無い。キャリアを築くにしろ、家庭を守るにしろ、優しさだけでは生きていけない世の中だと身に沁みて感じるからだ。媚びることなく、自分の意見、そして自分の生き方を確立して欲しい。それは私自身の課題でもある。

幼い娘は、女の子であることへのこだわりなど微塵もない。自分でオムツまではぎ取っては丸裸で踊り出す彼女を息子と一緒に大笑いしながら、彼女の無邪気さが愛しく思われてならない。「まだまだ、こんなものでいいよ」。キャッキャッと逃げ回る娘を、オムツを手に追いかけながら呟く私だった。




September 09, 2005

50歳の息子と苺ジャム

髭を剃った後、広くなった額に手をあてて息子が鏡を凝視している。後方から彼の妻がこともなげに言う。「あなた、もう50でしょ。髪の薄さはどうしようもないわよ。」息子は無言のままグレーの背広を羽織り、鞄を手に取る。

そんな情景を思い浮かべて苦笑をもらす自分がいる。「ねえママ、おいしいのができるね。」ジャム作りに興じる昼下がり、鍋の苺を木べらで混ぜながら、お猿さんの絵のついたシャツを着た息子が言う。「そしたら、おみせをしてうろうよ。おおきくなったら、ぼくとママ、ジャムやさんをするの。」満面の笑みをたたえて語る彼の向こうに、一人の女性の姿がぼんやりとちらつく。いつか彼と彼女は手を取り合って新しい人生を歩き始めるのだ。4歳の夏のひとときに母と作った苺ジャムも、かわいらしい約束の言葉も、彼の記憶に刻まれることはないだろう。

寂しさが胸をよぎる。男の子の母はどこかで愚かさを引き摺っているのだろうか。娘とは女同士で息の長い付き合いが出来るだろうという淡い期待がある。彼女の花嫁姿を想像し胸を高鳴らせることもある。一方で、息子の巣立ちを素直には喜べない自分がいるのだ。かつて私は、息子に執着する母親を嫌悪さえしていた。私もそんな母になりつつあるのだろうか。苺を煮ながら自問自答する。

そして、こんな光景を更に思い浮かべるのだ。背広姿の50歳の息子がドアを開けようとした瞬間、電話が鳴る。彼の47歳の妹からだ。「お兄さん? あのね、お母さんが亡くなったの。」ひとしきりの会話の後、静かに受話器を置いた彼が妻に言う。「お袋が死んだ。あの年だから、覚悟はしていたけどな。」そして再び鞄を提げて家を出るのだ。

そんな日は確実にやって来る。いや、来てもらわねば困る。子より先に逝きたいというのは親の切なる願いだ。子育てには「哀しい」という形容詞が似つかわしいと思うのは私だけだろうか。我が子の成長を喜ばぬ親はいない。その一方で、成長は巣立ち、そして自らの老いを意味する現実から目をそらす訳にはいかない。

「お袋は書くのが好きでさ。そういや、新聞に育児エッセイの連載もしてたっけ。」母の死後、50歳の息子が語る。涙ひとつこぼさず淡々と。そうであって欲しい。そして彼の傍には温かい家族の姿があって欲しい。「ママとジャムやさん」では、やはり困るのだ。

ふと我にかえる晩夏の台所で、息子が歌うように言う。「ママとジャムをつくるのだいすき。」 思わず彼を抱き締める。そうだ、暫くは密月の日々を堪能していたい。50歳の息子は彼方に追いやってしまおう。 大切な共同作品の詰まった瓶を冷蔵庫に入れる。明日の朝は、ジャムをたっぷり塗ったパンが食べられそうだ。





August 05, 2005

麦藁帽子の向こうに

子供達が砂浜で遊ぶ朝、つばの広い麦藁帽子の下で旅を夢見る自分がいる。名もない駅で各駅停車を降り、蝉しぐれに包まれながら、あてもなく歩きたい。日傘をさしてゆっくりと歩を進めるおばあさんに追いつき、「相変わらずの暑さですね」と声をかけたり、駄菓子屋の奥から聞こえるドラマの主題歌に耳を傾けたりしながら。人影のない公園に置き去りにされた三輪車。食堂のショーケースで埃をかぶるチャーハンの見本。そんなものさえ目に浮かぶ。爽やかな夏が満喫出来る地に居を構えながら、実はあのうだるように暑い日本の夏を恋しく想うとは、我ながら苦笑がもれる。

私が日本で夏を過ごしたのは、もう何年前になるだろう。子供嫌いで、母親にはならないと決めていた頃、出張も兼ねていた夫と二人で帰国した。法学生だった私は、ハーバードの学術誌に掲載が決まった記事を編集中で、80枚をゆうに超す原稿をスーツケースに詰めての帰国だった。執筆を始めた頃から、ハーバードを狙って私は鼻息を荒くしていた。気の遠くなる時間を調査に費やし、夜を徹してPCに向かった。日本でも、テーマに関連のあるシンポジウムに参加したり、専門家にインタビューをしたりと目の廻りそうな毎日を送った挙句、バタバタとアメリカに戻った。ハーバードなるブランドの代償として手放したものは大きかったと今になって悔やむ。

弁護士を志した段階で、私は妻でありながら家庭人としての生活を放棄していたのかも知れない。ロースクール時代どんな食事を取っていたのかと思い出すと、心が寒くなる。深夜まで図書館にこもることが多く、自動販売機でクッキーを買っては空腹をしのいでいた。その間、夫は家で一人、何を食べていたのだろう。母となった今、息子と娘には私の失敗を繰り返して欲しくないと願う。

子供達と手を繋ぎながらタラップを降り、彼らのもう一つの祖国で夏を過ごすのはいつになるのだろう。あのカッとするような暑さを全身で受け止めながら、どこからともなく流れるカレーの匂いやら、団地のベランダにはためく洗濯物やら、そんなものの一つ一つさえ愛しく思えるような旅がしたい。プライドだの野心だのをひとまとめに袋に入れて、ポーンと投げ捨てた時に初めて視界に入る風景の清々しさ。それを子供達に伝えることが出来たなら、私自身の失敗や後悔も無駄ではなくなるのだ。

子供達の歓声が聞こえる。砂浜で過ごす朝、深めにかぶった麦藁帽子を脱いで顔を上げると、空の蒼さが目と心に染み入るようだった。






July 03, 2005

ケイを想う朝

息子を保育園に送り出し、ふと娘に目をやると、ダイニングテーブルでトーストをおもちゃ代わりに遊んでいる。「早く食べようね。遅れるよ。」息子が食べ終えた目玉焼きの皿をシンクに運びながら、声をかける。こんな慌しい水曜日の朝に、なぜケイのことが頭から離れないのだろう。

かつての級友ケイと私が言葉を交わした回数は、片手で数えて余るかも知れない。地味な友人達とひっそり教室の隅でお弁当を食べていた私から見れば、お洒落で陽気な仲間の輪の中で弾けるように笑っていたケイは眩しい存在だった。そんな彼女が二十代の入り口にして骨肉腫を病んでいるという知らせが届いたのは初春だった。アメリカで結婚生活を始めようとしていた私は、その便りを読みながら、ソフトボール部の花形でもあったケイの小麦色に焼けた顔を思い浮かべていた。渡米に備えて私がウェディングドレスを購入した日と前後して、彼女は亡くなった。

「どうして、この世には苦しみや悲しみがあるの?」
「どうして、この世は不公平なの?」
いつかは、息子や娘もそんな問いを投げかける日があるのだろう。私自身、声にならない声を天に向けたくなる時がある。この瞬間、世界中でどれだけの人が同じように声を押し殺して天を見上げているのだろう。

自分を敢えて現実に引き戻すかのごとく、娘を着替えさせ、髪にリボンを結び、家を出る。今日は週一回の親子音楽教室がある日だ。私はこの日を心待ちにしている。

「さあ、取りにおいで!」色とりどりのスカーフが詰まった籠を教室の真ん中に置きながら、先生が声をかける。内気な娘は最初、私の傍から離れようとしなかった。それが今では、他の子達と同様、先生の傍に走り出すまでに成長した。籠から鮮やかな緑のスカーフを取り出した娘は、誇らしげな笑みを浮かべて私の膝へと戻ってくる。「よく出来たね」。褒めてやりながらギュッと抱き締める。チャイコフスキーの曲が流れ出し、十組ほどの親子がスカーフを振り回しながら、くるくると踊って輪を描く。どこからとなくキャッキャッという笑い声が響く。温かい世界だ。

クラス終了後、初夏の陽射しを浴びながら散歩をし、母と娘のひとときを楽しむ。娘が寝息を立て始めると、馴染みのカフェでモカを片手にガラス越しの世界を眺める。人生には分からないことがあまりにも多過ぎる。それだけに生きることが重く感じられる時もある。前に踏み出すのが怖くて立ちすくむ時もある。それでも、自分を見上げる四つの澄んだ瞳があることを思う瞬間、つい丸めがちな背筋がピンと伸びるような気がする。「人生、いいことばかりじゃないけれど、頑張って生きていこう」と思えるのだ。

学級対抗リレーでケイに声援を送った三年五組の仲間達も、それぞれの場所で精一杯に生きていると信じたい。一度も出たことのない、そしてこれからも出ることはないかも知れない同窓会への想いを馳せながら、娘の寝顔を見つめていた。

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June 02, 2005

夏の短編小説

初夏の薫りが漂う季節が来るたびに蘇る風景がある。母の郷里でいとこ達と駆け下りた駄菓子屋へと続く坂道だったり、友達とプールの帰り道、濡れた髪のまま宇治金時を食べた店だったりする。受験生の長い列に加わった開館前の図書館や、父がガンで逝った病院の長い廊下もある。駆け抜けた夏たちが, 心の中でコラージュを織りなすかのように幾つも浮かび上がる。

そんな中で、昨年の夏はとりわけ愛しく思い出されてならない。二児の母として初めての夏だけに思い出作りをしたいという気持ちが強く、息子が保育園に行かない日は必ず子連れで長時間の外出をした。二人分のおやつと着替え、そしてデジタルカメラの入ったナップサックを背負って。仕事は原稿書き程度に抑えていたから、時間はたっぷりとあった。

観光客に混じってクルーズを楽しんだり、ウォーターフロントでメリーゴーランドに乗ったりした。水上タクシーに乗りウエストシアトルまで行ったり、芝生でおにぎりをほおばりながら野外コンサートを満喫したりした。幼児を二人連れての外出はハプニング続きで、親はしまいには口もきけない程に疲れる。それでも翌朝、カーテンの向こうに澄んだ空を見上げると、「今日はどこへ行こうか」と思わずにはいられなかった。遠地への家族旅行もしたが、鮮明に記憶に残るのは、こうした日常の何気ない小さな旅である。きらめく季節が疾走し、ジャケットを羽織るようになった頃には、空虚感に体を包み込まれた。

「子供はあっという間に成長するのよ。今という時期を大切にしなさい。」 何人もの人生の先輩から聞かされたものだ。自分でも分かっているつもりだった。それなのに、指の隙間からポロポロとこぼれ落ちる砂のごとく一瞬一瞬が過ぎ去り、蜜月の日々が短編小説のように幕を閉じた。「この前、生まれたばかりのような気がするのに。」 そんな言葉を呟きながら、うつろな目をして遠い日々をさまよう老いた自分がすぐ隣にいるような気がした。

この秋から、息子はフルタイムでプリK(pre-kindergarten)のプログラムに通い始める。先日、彼は亀のように遅々としてはいるが、「おいけのあめふり、ぴちぱたぽん」と絵本を私に読んでくれた。「まま、ほんをよんで。」「まま、おりがみして。」そう懇願する彼に、「ごめんね、お仕事中だからね」とお決まりの生返事を返してはPCに向かった日々もあった。そんな中でも彼は確実に成長していたのだ。

これを書く私の背後から、短ズボンを履いてベランダで遊ぶ子供達の弾けるような笑い声が聞こえてくる。吹き込む初夏の風に懐かしい匂いを感じながら、「ああ、今年もこの季節が来たのだ」と思う。九月には新しい世界へと旅立つ息子。この夏は昨年以上に貪欲に思い出作りに励もうと自分に言い聞かせている。子供達が巣立った後も、鮮やかなコラージュが心の中に残るようにと願いながら。


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May 16, 2005

心が揺れるとき

キャリアを諦めよう。

もう何十回、いえ何百回、自分に言い聞かせたことでしょう。
娘に授乳する早朝。
息子とサッカーに興じる週末の昼下がり。

「弁護士なんて、アメリカには掃いて捨てる程いるよ。」
どこからか、そんな声も聞こえてきそうです。
「でも、親に代役は無いんだから。」

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May 08, 2005

アメリカの試行錯誤

「異なる人種の配偶者と結婚するような人間は,幼稚であったり、自己嫌悪がひどかったり、ノイローゼ気味であったりと心理的に異常な面を持ち合わせている。」1967年に連邦最高裁でこう宣言した弁護士がいる。黒人と白人の結婚を禁じるバージニア州法をめぐるこの判例 Loving v.Virginiaに関心を抱いた私は、判決文を読むだけでは満足出来ず、最高裁における口頭議論を収めたテープまで入手した。その中でバージニア州を代表する弁護士が上記のコメントを裁判官の目前で堂々と口にしたのだ。それから40年近くを経過した今、多民族国家アメリカは理念としては平等を叫びつつも、理想と現実のギャップを埋めるべく未だに試行錯誤を続けている。

弁護士の卵だった頃から私は人権問題をテーマに記事を書いてきた。グリーンカードで滞在する外国人や、市民権獲得を法的に禁じられたアジア人への差別などを追求してきた。連邦裁判官の元で働いていた頃は、訴訟社会アメリカの縮図を見るかのように連日、裁判の仕事に追われてきた。ありとあらゆる分野を扱ってきたが、差別に関わるものは多かった。私自身、白人がほぼ全員を占める学校や職場に身を投じる結果となり、自分がマイノリティであるという現実を目前につきつけられたことがあった。現代の憲法の解釈によると、異人種間の結婚を禁じるような州法は許されない。だが法的な面での進歩はあくまでも表面的なものでしかないのだ。社会が根こそぎ変わることはあり得ない。

私が書いた記事のひとつに、英語が母国語でない外国人に対する雇用差別に関するものがある。英語に訛りがあることを理由に(その訛り自体が職務に影響をもたらさなくても)解雇された外国人がいる。職場での休憩時間に、同じ国の出身である同僚と母国語で喋ったために罰せられた外国人もいる。かなり昔の判決ではあるが、「英語を母国語として話す白人」こそ真のアメリカ人だと言い切った裁判官もいる。昨今のアメリカではこのような発言自体は御法度であるものの、同じ意識が根強く残っているのは否定出来ない。「せっかくハーフとして半分は白人に生まれてきたのだから、我が子にはわざわざ日本語を話すなんてアジア人的な野暮ったいことはして欲しくない」と語った人も知っている。

母親と日本語で喋るのが大好きで、車で遠出をすると「ねえママ、もうにほんがちかくなってきた?」と真顔で尋ねる4歳の息子。そんな彼と私の会話を聞きながら育つ1歳の娘。まだ1度も足を踏み入れたことこそ無いけれど、日本は彼らにとってもうひとつの祖国である。彼らもいつかはマイノリティとしての自分達の位置を悩む時が来るのだろうか。いつもの散歩道で息子に日本語で話しかけながら歩いていた私に向かって「アジアに帰ったらどうなの?」と呟いた女性がいた。その意味も分からず、無邪気に妹を乗せたストローラーを鼻歌混じりで押していた息子の姿を思うと哀しい。





April 27, 2005

若葉たちへ

娘の夏服を整理していた時、思わず苦笑がもれた。 セーラー服に似た形のワンピースが幾つもある。 アメリカで育っていく彼女が、日本の女学生のように紺の制服に袖を通すことは恐らくないだろう。それでもつい母親の私は、店でそういう服を見つけると手に取らずにはいられないのだ。以前、雑誌で東京の某私立小学校に通う女の子の写真を見た時のことを思い出す。真紅のリボンがアクセントを添えるセーラー服に身を包みランドセルを背負った彼女をまじまじと見つめては、数年後の娘の顔をだぶらせようとしていた。

そうやって衣類の整理をする手を休め思いをめぐらせているうちに、いつのまにか私自身が懐かしい制服を着てラケットを抱え、7時26分着の各駅停車を待つプラットフォームにタイムスリップしていた。 中学入学と同時に片道1時間の電車通学が始まったのだ。「かっこいいから」と単純な動機で入部したテニス部では、先輩、後輩の上下関係が厳しく、最初の1年間は球拾いしかさせてもらえなかった。校則の厳しい学校で寄り道は禁じられていたのだが、試験の最終日には必ず仲間と連れ立って、お決まりのハンバーガーショップに繰り出した。なけなしのお小遣いをやりくりして好きなロックグループのカセットテープを買うのも楽しみの一つだった。当時は英語なんて分からず、辞書と首っ引きで歌詞を訳したものだ。アメリカはまだ遠い国だった。

あの頃の私にとって「青春」とは、ドラマや歌謡曲にしか出てこないような、どこか現実離れして気恥ずかしい言葉だった。劇的な出来事などなく、単調な毎日への不満がくすぶっていた。でも今ふり返ってみると、あれがまぎれもなく私の青春だったと気がつく。セピア色の写真をアルバムから一枚ずつ取り出して思い出という名の光にかざす瞬間、みるみるうちに鮮やかな色を帯びてくる。

10年後、息子は中学生、娘は小学校の高学年である。どんな青春が2人を待っているのだろう。桜吹雪の祝福を受けながら校庭での記念写真。秋晴れの空の下、シートを敷いて家族とお弁当を広げる運動会。紅白歌合戦の歌手の品評会が始まる新年の教室。そんなものとは無縁の学校生活になるのは確かだ。クラスメートと共に星条旗の前で胸に手を当て宣誓の言葉を唱える我が子らの姿を思い浮かべる時、一抹の寂しさが胸をよぎるのは否めない。その一方で、2人の学校生活を通しアメリカ文化を更に深く知る経験にもなるのだと思うと楽しみでもある。

私の青春は去った。「一生、青春」と声高に叫びたいとは思わない。でも老いに向かっていくのが避けられない現実であるのならば、自分の人生にみずみずしい息吹を吹き込んでくれる若葉のような子供達の存在があることを嬉しく思う。母になることによって与えられた2冊の新しいアルバム。どんな写真で一杯になるのだろう。娘のワンピースを丁寧に折りたたみながら、少し背を丸めた母親は未来への思いを馳せていた。


ノンブル先生との出会い

私はその老紳士に会いに行くのが好きだ。彼は公園のベンチに愛犬プーと座っている。ひとしきりのお喋りをすると、彼は立ち上がって言う。「さあ、帰る時間だ。ささやかな幸せが私を待っている。」そして微笑みながら、晩ご飯のおかずであるワカサギのフライが入ったスーパーの袋を掲げてみせるのだ。

この老人、通称ノンブル先生と出会ったのは、話題作「いま、会いにゆきます」の中である。若い夫婦と男の子をめぐる家族愛を描いたこの作品は、小説よりも大人の童話と呼んだ方が適切かも知れない。設定に無理があるとか、お涙頂戴の物語だとかいった批判もある。それでも、しっとりと温かな読後感を求める人、そして家族の絆を再考したい人には心に沁み入る作品である。

この本は、日常生活に散らばっている小さな幸せを丹念に拾い集めることの大切さを教えてくれる。その幸せとは食卓のロールキャベツをめぐる会話だったり、サルスベリの木を背に撮る家族写真だったりする。主役の親子は小さな町で旅行一つせずにひっそりと寄り添って暮らす。お互いの隣が最も心地よいと微笑み合いながら。夫婦の友人であるノンブル先生は元小学校教師で、長年の看病の末に妹が亡くなって以来、いわゆる文化住宅で独り暮らしをしている。彼は脇役ではあるが重要な役目を果たすのだ。「空虚に見える私の人生だって、実はささやかな感動も喜びもあったんだよ」と静かに語る。そして別れる時には、ワカサギのフライの詰まった袋を振ってみせるのだ。

本を手に取った12月、私の心はささくれだっていた。娘が肺炎に罹ったのを皮切りに家族全員が次々に体調を崩し、ストレスに押し潰されそうだったこともある。それと同時に人生そのものに疲れていたのだ。おもちゃやぬいぐるみが散乱する部屋に仁王立ちになり叫びたいような気にさえなった。でも師走の昼下がり、娘が寝息を立てる横で一気に本を読み終えた時には清々しい涙を流していた。本を閉じた瞬間に家族を抱きしめたい衝動にかられた。ふと周りを見渡してみる。娘がお気に入りの人形「ピンキーちゃん」を乗せて押す苺の模様の乳母車。夫と息子が図書館のワークショップで作ったお菓子の家。寝る前に読み聞かせる絵本「ぞうのビンボ」。この部屋のあちこちに私の幸せも散らばっている。私の袋だってワカサギのフライで一杯になるじゃないか。今まで何処を見ていたのだろう。窓のブラインド越しに射す光を浴びながら、私はいつまでも余韻に浸っていた。

いつかは子供達にも一冊ずつプレゼントしてやりたい。そんな風に思える本に出会えた時は嬉しい。 やさしい雨の季節を象徴した水色の表紙を開けると、ノンブル先生 の笑顔が待っている。日常の雑事に埋もれて大切なものを見失いそうになりがちな日々、これからも時おり彼に会いに行こうと思う。やがて息子と娘の手を繋いで会いに行ける日を心待ちにしながら。




バッハが恋人

反社会的なものへの憧れが強かった十代の頃、ロック専門誌の記者を志していた。大人になってからもロック以外の音楽、特にクラシックへの興味は薄かった。そんな私が今はバッハに恋している。出産直後の病室で新しい命を胸に抱きながら聞いたのがバッハなら、子供達と居間でダンスに興じる昼下がりに流すのもバッハだ。足を踏み入れた店でバッハの曲が聴こえたりすると、路上で突然、好きな人に出会った少女のように胸をときめかす。

契機となったのは妊娠だ。息子がお腹にいた頃、「胎教にはクラシック」というお決まりの提唱に背を押されるようにしてCDを購入した。以来、すっかり魅了されてしまったのである。クラシックを聞くと心に羽が生えて天に昇っていくようだと表現した作家がいるが、まさに同感だ。今では子供達も同伴で頻繁にコンサートに足を運ぶ。(先日はベルビュー交響楽団のコンサートに行き、梶間聡夫指揮者に声をかけていただいた息子は頬を紅潮させていた。)その上、バイオリンを習い始めた彼と共に私までギコギコとやっている。子供がいなければ、私はクラシックの美しさを知らないままに、バイオリンには触りもしないままに人生を終えていただろう。

もう一つ、母になることによって広がった世界がある。それは昔懐かしい童謡を通して味わう日本語の世界だ。 親子揃って歌うのが大好きなせいもあり、童謡は私達の生活の一部になっている。散歩をしながら、料理をしながら自然に口ずさむ。「笹の葉さらさら、軒端に揺れる」に、かつて願いをしたためた短冊の鮮やかな色が脳裏に浮かぶ。 「母さん、お肩を叩きましょ、 タントンタントン」、こう歌い始めて3番の歌詞「お縁側には日が一杯、 タントンタントン」までくると、ふと涙ぐみそうになる。

インターネットというのはありがたいもので、忘れていた歌詞もクリックひとつで目の前に出してくれる上に、時にはやさしいメロディまで奏でてくれる。だから娘の夜泣きで疲れているにも関わらず、夜中になると一人PCの前で胸を熱くしているのだ。すっかり記憶の彼方に押しやっていた北原白秋や西條八十といった名前がよみがえったり、文部省唱歌ということばに小学校の音楽の時間を思い出したりする。

日本人の血をひく我が子らに日本文化の継承を、などと肩に力を入れた訳ではない。 それでも日本語の世界を楽しむことにより、かつては自分が一人で歩いた道を、今は二人の子供達と手を繋ぎながら一緒に歩いているような気がする。あまりにも何気なく歩いていて見落としていた景色を、違った角度から新鮮な目で見ることが出来るのは嬉しい。子供に夢中になる女は視野が狭いと世間は批判しがちである。だが育児に没頭すればするほど新しく見えてくる世界もあるのではないだろうか。家族が寝静まった静寂の中で「恋人」バッハを聞きながら、そんな風に思いをめぐらせている。



さんびきのこぶた

病室の隅で私は声を放って泣いた。生後一週間に満たない娘の踵に、文字通り何十本目かの注射の針が刺されようとしている。彼女の体を事務的に押さえつける看護師が鬼のように見えた。火がついたかのようにギャーと娘は泣き出す。「もうやめて」と怒鳴りたいような衝動を抑えるのがやっとだった。

娘は重症のバクテリア感染にかかり、誕生3日目の早朝、救急病院に運ばれた。生まれた病院を出て自宅に戻った直後、別の病院にトンボ返りとなったのである。発見が少し遅れていれば死んでいたかも知れないとは後に判明した。検査につぐ検査で朝から晩まで注射が打たれる。自分で体温調節も出来ないため保育器に入れられた。その傍らの長椅子で私はずっと寝起きしていた。出産の直後で私も疲れきっている。しかし娘を母乳のみで育てたいという願望が強かったから、どんなに憔悴しても自宅に帰って休みたいとは思わなかった。なによりも、小さな戦士となった娘のそばを片時も離れたくない。保育園に通う息子の世話は夫に頼み、私は娘の看病に全力を尽くす毎日だった。

彼女を抱くことさえままならず、透明の箱の外からじっと見つめるだけだ。それでも授乳の時間だけは保育器から出すことが許される。娘の体につながっている何本ものチューブが外れないように細心の注意を払いながら、そっと外に出す。待ちに待った瞬間だ。乳首をふくませながら、夫に頼んで持って来てもらった絵本を広げる。さんびきのこぶた。一語一語、心をこめて丹念に読む。古本市で買ったその本は落書きがされて傷んでいる。でも日本に帰国しない私達にとっては貴重な日本語の本なのだ。

読み聞かせは上の子を妊娠していた頃からの欠かせない日課だったが、この時ほどその意義を痛感したことはなかった。ことば育てに読み聞かせが大切なのは力説されている。実際、息子の日本語力を養う上で毎日の読み聞かせが血となり肉となったと私は自負している。だが、親子のふれあいの時間を持つという意味においても読み聞かせは重要だ。読んでやることによって、「お母さんはあなたと特別な時間を過ごしているのですよ」というメッセージを送ることになるのだと某作家が語っていたが、まさにその通りだと思う。ビデオを見せるのも教育の一つだという見方がある。だが、私は読み聞かせという昔ながらの習慣を通してふれあいの時間を持つのが一番好きだ。たとえ相手が生まれてまもない赤ん坊であってでもである。

今や娘は、誇らしげな笑みを浮かべて歩き回る健康な一歳児に成長した。鞄を引きずって歩くのが好きな彼女はまるでフライトアテンダントのようだと夫が笑う。そんな彼女を見ながら、昨年の入院生活を思い出す。 暗い病室の片隅で、そこだけは一筋の月光が射したかのようにあたたかったひととき。「さんびきのこぶた」を朗読しながら娘の体を抱いたあの時を、老いても忘れることはないだろう。


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二つの世界の狭間で

娘がむずかり始めたので、上着でそっと隠すようにして授乳を始めた。 ダウンタウンの高層ビルにあるオフィスで、弁護士仲間の男性と遺言書について語り合っていた時のことだ。彼女が生後二ヶ月の頃から、フロントパックに入れて胸に抱き子連れで会議に出席してきた。二児の母となった今でも私は仕事が諦められない。だから、離乳食のスープを温める傍ら、資料に目を通すような生活を送っている。

専業主婦ではない。颯爽とした職業婦人にも、ほど遠い。どっちつかずの宙ぶらりんの状態である。 そんな自分に半ば愛想をつかしては自問自答を繰り返している。反面、この生き方が自らに合っているような気がしないでもない。「どっちつかず? 大いに結構じゃないの。いいとこどりできるんだから。」 そう言った人がいた。 ふっと肩の荷が軽くなった。

そうなのだ。家庭か仕事のどちらか一つに絞れば楽な生き方が出来るとは限らない。それはそれでストレスの溜まる生き方かもしれないのだ。そもそも女性を主婦かキャリアウーマンに分類する方が間違っている。 「私にとっては家庭こそ全て。」「私は仕事に全力を注ぎたい。」そう言い切れる人もいるだろうが、現実には少数だろう。どちらの世界にもすんなりとは入り込めず、二つ(またはそれ以上)の世界の狭間で揺れ動く人が多いのではないか。

「子供をどっちつかずにするのは可哀相。」 ある知人は言った。「だから日本語は教えない。我が子はどうせアメリカ人として生きていくのだから。」いわゆるハーフの子を持つ人の弁である。日本語を教える、教えないは各家庭の方針によるものでいいと思う。しかし、どっちつかずの生き方そのものを否定し、「うちの子は何人」と親自身が決めてしまうのは老婆心のように思え一抹の寂しさを感じる。

将来は、息子と娘も、「二つの文化を背負っている自分達は果たして何者か」と悶々とする時が来るかもしれない。いや、来るだろうと覚悟している。だが、悩む過程も成長には必要なのだ。悩みながら自分達だけのユニークなアイデンティティを築き上げて欲しい。「アメリカ人」「日本人」といった枠におさまらず、かといって「ハーフ」でもない、彼らだけの物語を紡いでいって欲しい。 私は後ろで静かに見守っていたいけれど、彼らが立ち止まっていたら、「どっちつかずの生き方も悪くないよ」と声をかけて、そっと肩を叩いてやりたい。

Go. Make your own history. そんな詩の一節がある。この言葉を我が子達に贈りたい。
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ことばのおくりもの


「路傍の石」が読みたい、と無性に思う。娘をストローラーに乗せ、息子の手を引いてゆっくりと歩く午後だ。シアトルの空の下で、なぜ遥か昔に読んだ古めかしい本のタイトルが心に浮かぶのか自分でも分からない。時にはそれが「道ありき」だったり「二十歳の原点」だったりする。中学入試の国語の試験に「路傍の石」の一節が出てきて、ひそかにほくそえんだり、日曜日の特急列車でむさぼるように「道ありき」を読んだりした日が思い出され、ふと感傷的にもなる。さらに思うのは、青春時代に親しんだ本を成長した我が子達と共に読み、感想を語り合う日が来るのだろうか、いや来て欲しい、ということだ。

アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた息子と娘。親となってから私はあえて日本語を大切にする生活をしてきた。アメリカで弁護士の資格を取り、こちらの雑誌や新聞に記事を書いてきた私にとって英語は重要な意味を持つ。だが日本語が私の母国語であり原点であるという事実は変わらない。息子を妊娠中、膨らみつつあるお腹をそっとなでながら私が口ずさんだのは「ぞうさん」だった。お腹が大きくなるにつれて毎晩、決まった時間になるとロッキングチェアに座り「ぐりとぐら」や「ももたろう」を朗読した。

そんな生活は息子が4歳になろうとする今も、3歳下の娘という新しいメンバーを加えて続いている。 お好み焼きの具を一緒に混ぜ合わせながら「かもめの水兵さん」を歌う。 そんなさりげないひとときがたまらなく楽しい。「子供をバイリンガルにして国際人に育てる。」 そんな表現を私は好まない。日本語を教えるのは私にとって国際人うんぬんの華やかなものではなく、もっと素朴で日常生活に溶け込んだものだからだ。 たかがことば。されどことば。ことばが人生をどんなに豊かにしてくれか私自身、身をもって経験している。選択肢が多いほど人生の醍醐味も増す。日本語というプレゼントを子供たちに与えたい。吸収が早い幼少時代に親として土台を築いてやりたい。その土台さえあれば、さらに何を築いていくかは成長した本人次第だ。

「路傍の石」にはほど遠いけれど、息子はお気に入りの絵本「ぐりとぐら」を今夜も私に読んでとせがむ。二人の子供を両側に座らせては、私自身がかつては大好きだった本のページをめくる。 ぐらが蓋を開けると大きなフライパンから香りが立ち込めそうなフワフワのカステラが顔を覗かせている。
「ねえママ、ぐりとぐらってもりのなかにすんでるの?」
「そうだね、こんどさがしにいこうか?」
「うん、それでいっしょにかすてらつくろうよ。」
こんな会話ができるようになったのが嬉しい。 ことばのおくりもの。 息子と娘の寝顔をまじまじと見つめては十年後、二十年後を思い描く今日この頃である。





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