2010年08月08日
『変愛小説集 供

岸本佐知子編訳『変愛小説集 供戞聞崔娘辧2010年)を読む。
前作に引き続き、編者の趣味丸出しで英語圏の奇妙な味わいの短篇を集めたアンソロジー。
前作もいささか期待はずれで、今回もやや期待はずれではあったけれど、全ての作品を気に入ってしまったら、逆に、非常に怖い。
いまいちなのはいまいちだったし、すごくよいのもあった。好きな作品を三つ挙げると、「ヴードゥー・ハート」 、『人類学・その他一〇〇の物語』より、「シュワルツさんのために」。
「彼氏島」 ステイシー・リクター
暇つぶしに最適。
初出が米「セヴンティーン」誌というのも納得。趣向としては面白いけど、主人公が哲学的な思索に耽り出し始めるのが逆にベタである。
「スペシャリスト」 アリソン・スミス
「大いなる空虚を体内に持つ」女性の遍歴。癒えない体を抱えて、テレビの見世物になったり、津々浦々ドサ回りしてるとこなんかは切ないのであるが、盛り上がりに欠ける。
「妹」 ミランダ・ジュライ
爆走する妄想具合は抜群だけど、個人的にはミランダ・ジュライはもっとずっと好きな作品があるので、これは普通。
「私が西部にやって来て、そこの住人になったわけ」 アリソン・ベイカー
釈然としない。
おそらくは、元チアガールである私の中の「間違ったアメリカン・チアリーダー観」が、この作品における崇高にしていささか野蛮なチアリーダーたちを認めたくないのであろう。
「道にて」 スティーヴン・ディクソン
もはや記憶になし。
「ヴードゥー・ハート」 スコット・スナイダー
70頁ほどの長い一篇ゆえ最後に読んだんだけど、これがいちばんよかった。巧い。
前作収録の「ブルー・ヨーデル」はちっとも好きじゃなかった気がするけど、短篇集の表題作になっている作らしく、とっておきの感あり。
「ミルドレッド」 レナード・マイケルズ
全然好きじゃない。
「マネキン」 ポール・グレノン
木製のからだ、というのはシュヴァンクマイエルの「オテサーネク」がすばらしく強烈な印象を残しているため、もはや奇異に感じない私。あるいはマネキンといえば、イジー・バルタの短篇映画「見捨てられたクラブ」も思い出す。
ただ、「僕の妻は木でできている」ことを「僕」が受け入れていくまでの葛藤や、盲目の愛が数年もの間その事実を気付かせなかったくだりは興味深く読んだ。
『人類学・その他一〇〇の物語』より ダン・ローズ
これは全篇を訳出してほしいです。こういうの好き。
福永信の作風を思い起こしたのは私だけだろうか。
「歯好症(デンタフィリア)」 ジュリア・スラヴィン
こういうクイアなのは基本的に好きなんだけど、前作収録の「まる呑み」と比べると見劣り。その原因は、語り手が「症状」の当事者の女性ではなく、その観察者である連れの男だからだと思われる。
「シュワルツさんのために」 ジョージ・ソーンダーズ
ほろりとさせられた。いい小説だ。
そんなこんなで、なんとなく間が空いてしまいましたが、なんとなく再開しました。
2010年04月19日
アリス・イン・ワンダーランド展

ティム・バートン版アリスは、とても楽しみにしていたので初日に観に行った。
「アリス・イン・ワンダーランド」でアマゾンの検索にかけるだけでも、ぴあから『オフィシャルガイドブック』、インフォレストから『公式ヴィジュアル・ガイド』、竹書房からは脚本家によるノベライズの文庫と『ポスターブック』、講談社からは『ビジュアル メイキングブック』と『ビジュアル ストーリーブック』などなどと、やまのような関連書籍が出てくる。各社のアリスへの激しい食いつきぶりがちょっとこわい。
ちなみに、上に挙げた本は『公式ビジュアル・ガイド』だそう。こんなにいっぱい関連本があると、いまいち違いがわかりませんねえ。
映画に対しても色々と思うところもあるのだけれど、今回の記事は映画自体の感想ではなく、アリス狂想曲に陥った数日の備忘録のようなものということで。
続きを読む2010年04月03日
『溺れる人魚たち』




アメリカの女性作家、ジュリー・オリンジャーの短篇集『溺れる人魚たち』をようやっと読了(川副智子訳、ランダムハウス講談社文庫、2008年(単行本は2006年刊)。(Julie Orringer, How to Breathe Underwater, 2003))。
この本は文庫が出た頃に、コラムニストの山崎まどかさんの(今はなくなってしまった方の)ブログで知った。
一見かわいらしい表紙にかわいらしいタイトルだけど、とてつもなくヘビーな本だ。
図書館で何度か借りては最後まで読みきれなくて返し、それが不満でついに購入してもやっぱり最後まで読みきれず、一年以上経ってまた最初から読み返してみてもなおのこと最後まで読みきれず、結局全てを読むまでに二年近くかかった。
なかなか通読できないのは、読んでいて吐き気を覚えるような短篇ばかりが続くから。経歴からいっても作者自身の少女時代を彷彿とさせるヒロインたちが経験する、痛々しくて忘れられない瞬間が、どの作品にもアルバムから破り捨てられた写真のようにひっそりと収められている。
以下は個々の感想。
イザベル・フィッシュ
兄の恋人イザベルの事故死から立ち直れていない、傷つけあう兄と妹の物語。
彼女がもういないなんて、手の届かぬところへ行ってしまったなんて信じられない。彼女がこの地球にいないというのがどういうことかを知らずにいられるのは、彼女だけなのだ。 (48-9頁)
何があっても、それがどんなものであっても、生きている限り日常は続いていく。それはこんなに辛いことなのだ。
あなたへ
クラスメートから爪弾きにされている女の子の自分に宛てた忠告、という体裁を採った「少女イジメ文学」の一作。
名のない女の子のひりひりするような苦しみが、突如もたらされる幸せな時間でほぐされていく結末が清々しい。それが束の間の出来事だと痛いほどわかっているにせよ。
秘めやかな祈り
少女という残酷な生き物の二面性が、爽やかでもあり、痛ましく映る。厳格なユダヤ教徒の家庭での出来事は、一般的なアメリカのイメージとは随分ずれていて、見るからに息が詰まりそうだ。
子守り
自分の人生なのにそれがちっともままならない、という苦しさが、読んでいてもやはり苦しい。
ドラッグに身を滅ぼされようとしていて、それでもまだ、まともな生き方を諦められないヒロインと、子守りをしなければならない幼い姪。衝動を抑えきれない自分の頼りなさに、自分で呆れるということもまた、苦しい。
暴走
少女同士の微妙な力の均衡は、ときどき抜き差しならない緊張感を孕むことがある。どちらがより綺麗か、どちらがより男にもてるか、どちらがより・・・。
大丈夫だと伝えようとしただけなのに、あの子は憎々しげにルーシーをにらみ、くたばれと言った。あれは少女同士の敵対関係が取らせた態度だ。(中略) だれからも助けが差し伸べられないと感じるところまで行ってしまった子には、ほかのどの少女も敵に見えるのだ。 (228頁)
少女時代特有かとも思われがちな、同性の友人との支配被支配の問題は、一生続いていくんだよね、これが。
巡礼者たち
母が癌で死にかけている幼い姉弟の、互いにしがみつくような淋しさと不安。
知らない大人たちと、知らない子供たち。大人は子供の世界の出来事をまるで理解できないが、子供はたぶん、知らない子供に取り囲まれたときの方が、知らない大人といるときよりも孤独を感じるのだろう。
アイーダとわたし
画家で「でぶ」の「わたし」と、いくつもの一流メゾンの広告モデルを務める年下の従妹アイーダ。
わたしが描く男や女を見ると、そこには硬さがある。ガラスの硬さといってもいい。リスクを避けて生きてきたからだろう。その硬さがときにわたしを自己嫌悪に陥らせる。わたしがろくでもない画家なのも、もしかしたらそのせいなのかもしれない。 (294頁)
自分が「わたし」で、よりによってアイーダのような女がいとこだったとしたら、半狂乱になってアイーダを半殺しにしてしまうかもしれない。アイーダとは、まともな神経の女だったら、それくらい自分の姉妹やいとこにしたくない女だ。自分が画家志望だったら、なおさら。
9篇中、唯一アメリカ国内ではなく、「わたし」が画学生をしているフィレンツェを舞台にした物語。
母の恋人
ディズニーランドで数年振りの再会を果たす、高校時代の恋人たち。女の方は、癌で身も心も死にかけている。そして二人を見つめる、二人のそれぞれの配偶者との間の子供たち。
なんて皮肉な設定なんだろう。死にかけているからこそ見せる母親の鬼気迫るプライドは、娘の目にはどう映っているのだろう。興味を引かれながらも、ひどく居たたまれないんだろうな。
十字架
南部といえば、威張り散らす白人と忍従を強いられる黒人の対立を思い浮かべるけれど、ここで虐げられるのは黒人だけじゃないのだった。クリスチャンの親友の聖体拝領の儀式とお披露目パーティに招かれた、ユダヤ教徒の女の子。そして親友のムラート(白人と黒人のハーフ)の従弟。
わたしが信じるように教えられていたのは神だけだった。神はどこにでもいて、どこにもいない、静かなる声としての神だ。そうした神はあまりに崇高であると同時に実体がないから、わたしのかかえている問題を理解してはもらえないように思えた。 (363頁)
ユダヤ人であることを引け目に感じているヒロインは、白人の親友に気に入られていないとこの地で生きていけないことを自覚している。シナゴーグもないアメリカ南部の片田舎でユダヤ人として生きていくということも、見えない人種差別との戦いのようだ。
このデビュー短篇集を上梓するまでに作者オリンジャーは7年もかけたということだが、彼女は本当に吐きながらこれらの作品を書いていたのではないか。そう思わせるほど、読んでいる方も苦しかった。
とびきりフェミニンで、息苦しい。それでいて潔さのあるところが、エイミー・ブルームの『銀の水』と同じ路線の作品集という印象を抱かせる。オリンジャーも、ブルームと同じくユダヤ系アメリカ人だからだろうか。
アメリカのユダヤ人。それをここまで濃厚に意識させられた小説はこれが初めてだ。
ロシア系ユダヤ人移民である作家デイヴィッド・ベズモーズギスによる、カナダが舞台の短篇集『ナターシャ』も、全篇を通して描かれるユダヤ人家庭の日常に興味深いものがあったけれど、こちらは著者も主人公も男性で、(私の)共感を呼ぶようなものではなかった。
対して、オリンジャーが自作に登場させたユダヤ系の孤独な女の子たちには、著者自身の実体験がじりじりと炙り出されているようで、ひどく真に迫るものがあった。
それが苦しさの、そして文学としての精度の高さの理由。
そもそも文庫なのだから、叢書としてのカラーというのは出せないし、別に出そうともしていないのかもいれないが、ランダムハウス講談社の文庫は大半のコージーなものと、今回のオリンジャーや『あるスキャンダルの覚え書き』のような滅茶苦茶シリアスな作品とのギャップが激しすぎる。
私の勝手な妄想では、『溺れる人魚たち』は河出のModern & Classicのシリーズに入れられるべき本だったりするんだけど。
今回はついでに、オリンジャー(1973年生まれ)と同世代のアメリカの作家ミランダ・ジュライ(74年生まれ)の短篇をおすすめしておきたい。
今出ている赤い林檎が表紙の「yom yom」 vol. 14所収のジュライの「十の真実」が、やばいくらい素敵なのです!
訳者はもちろん岸本佐知子で、今まで「yom yom」に掲載されたものも含むジュライの短篇集(新潮社のクレスト・ブックスから)は、去年の段階では今冬発売ってあったのに、今号の「yom yom」では今夏となっており、大幅にずれこんでいる模様。早く読みたいのに!
それはともかく、気が向いた方はぜひ本屋で「yom yom」を立ち読みしてみてください。今年読んだ私の短篇ベスト1かもっていうくらい、素敵すぎる短篇なんですから。
2010年03月19日
2010年03月03日
『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』
スティーグ・ラーソンのミレニアム・シリーズの三作目にして最後の『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』上下巻を読了(ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳、早川書房、2009年。(Stieg Larsson, Luftslottet som sprängdes, 2007)。
『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』、『ミレニアム2 火と戯れる女』と続いたこのシリーズも、これで本としては終わってしまうのか、と思うとひたすら悲しい。ラーソンのパソコンに残されたシリーズ四作目の草稿は、彼のパートナーと親族間の遺産トラブルの結果、お蔵入りされてしまうらしい。それが未完であるといっても、現実に書かれている続きを読めないとは・・・。
あれほどまでに女性の権利について戦い、書き続けてきたラーソンそのひとが、自分の長年のパートナーが、籍を入れていないだけで正式な妻だった場合に受けられたはずの恩恵に与れていないと知ったら、どう思うだろうか。
すべては著者ラーソンが急逝してしまったために巻き起こったことなのだが、作品と作者自身との不思議な因果についても、思いを巡らさずにはいられない。
ということで、年をまたぎ、二月に入ってようやく順番が回ってきて読んだ『ミレニアム3』は、実は上巻はちっとも乗らなくて、変だなあと思いながら読んでいた。『3』は『2』の結末からの続きからとはいえ、肝心のリスベットが重症を負って病院で寝たきりかつ監禁状態な上に、今回の宿敵である公安の成立背景やらメンバーのお膳立てやらに随分頁が割かれていて、ミレニアム・シリーズとしてはやや冗長気味の立ち上がりだった。
そうはいっても、ミレニアム。機転の利くミカエルの粋な計らいによってリスベットがようやくネット接続できるようになり、味方側、敵側ともに役者が揃うと、あとの勢いは止まらなかった。上巻は何日もかけてだらだら読んでいたけど、下巻は結局一夜漬け。
『3』の面白さはやはり、前作で焦点となったリスベットの過去の、更なる謎がついに明るみになったことだろう。
リスベットの少女時代を無残に弄んだ、善人面した悪徳精神科医の悪行が暴かれる法廷シーンは、読んでいてにやにやするくらい、爽快だった。何より、リスベット自身があれほどまで頑なに語ることを拒んでいた過去を、法廷という公式の場で包み隠さずに述べたことに驚く。
彼女が変われたのは、彼女が唯一心を許し(かけ)た男性であるミカエルの働きかけにもよるんだけど、『2』以降、二人は殆どネットだけで繋がっているため、関係が進展することはない。八面六臂の活躍振りが印象的なのに、リスベット自身は自宅に引きこもっていたり、入院したり獄中にいたりするのだ。ミカエルと直接会って話す場面すらないに等しい。
ミカエルの色恋沙汰は、(これはまあ、緊張感溢れるシリーズにおいてはもはや息抜きのエピソードでもあるんだけど)、またも新たな女性との間で進行するばかり。
リスベットとミカエル、相棒でもなく恋人でもなく、ただ助け合い共に戦う仲間。ラーソンは、二人のこれからの関係にどのような決着を与えるつもりだったのだろう。
そしてこれから語られるはずだったろう、リスベットも知らない、リスベットのもう一人の家族の話も読みたかった。リスベットと離れ離れになった彼女は、どこで何をしていたのだろう。
今回、恒例の章のエピグラフに用いられているのは、アマゾネスから南北戦争に従軍した女性兵士など、戦う女たちの歴史。いつもながら、過激といっていい論調の言葉が短いながら並ぶ。
私の見たところ、『ミレニアム』の書評はミステリとしての破格の面白さのみに焦点を当てたものしか見当たらない。それはまあ当然なんだけど、ラーソンは単に面白いミステリを書きたかったわけではないのだろうと思う。女性が被害者となる非常に陰惨な事件を描いているのも、読者を煽りたいからではなく、それが現実に起こっている事実であり、いつまで経っても弱者は強者に不当に諸々の権利を脅かされながら生きているのだ、ということを読者に痛切に知らしめるためではないかという気がしてならない。
そういう意味では、ストーリーテリングがあまりに巧みなために、背景そのものにあまり読者の気を払わせないところが、逆に欠点になっているのかも。
ところで、ミレニアム・シリーズ三作はスウェーデン本国でも三年かけて刊行されていて、英語版は一年半余りをかけたイギリスでの刊行は済んでいるものの、アメリカ版の『3』は来月発売というくらいだから、およそ半年というスピードでで三作の翻訳出版がなされた日本の読者は、幸運だったのかも。
日本では何万部売り上げたか知らないけれど、全世界では今のところ、シリーズ合わせて2,700万部売れているという。単行本は高くて買い揃えられなかったけど、いつか文庫化されたら、またこの世界に戻ってきてしまうだろうな、という予感がする。
ちなみに一作目の映画版も、もう一回観に行きたいくらい、面白かったですということを先に書いておきます。感想は途中までは書いているので、これはそのうちアップします、たぶん。
2010年02月21日
「クローサー」
池袋のサンシャイン劇場にて、パトリック・マーバー原作の舞台「クローサー」を観に行く。
1997年ロンドン初演の舞台の日本版初演で、上演台本・演出が鈴木勝秀、出演は眞木大輔、福士誠治、佐藤江梨子、辺見えみりの四人。
本当に好きなんだろうか、やはり苦手なのではないだろうか、などと、未だに自分の舞台への執着に疑問を抱いている私だけれど、今回は違った。1時間半ほどの公演のあいだ、ひたすら夢中で観ていたのだから。
今まで観た舞台(ミュージカル含む)では、いちばん魅入られたと言ってもいい。
元々映画版が好きで、映画を観た際、映像はいらない、声だけでいいかも、って思ったんだけど、これはやはり、映画ではなく舞台で味わうべき戯曲。
原作戯曲を書いたパトリック・マーバーは「あるスキャンダルの覚え書き」の映画脚本も書いているけれど、このひとは会話劇にかけては天才的なのだろう。
かれこれ5年ほど前に書いた、ごちゃごちゃ言いたい放題な映画版の感想がこちらにあり・・・内容に対する印象は、実は当時と変わっていない。
映画に関して言えば、現代に時代が設定された恋愛もので、恋愛において感情と言動が相反してしまうという矛盾を、これほどまで鋭く捉えた作品を他に知らない。個人的には「しあわせな孤独」や「こわれゆく世界の中で」も思い出すし、どちらも気に入っているけれど、台詞に全てが投げ込まれている点ではやはり「クローサー」が上だ。
一度観たきりの映画版「クローサー」で今なお目に焼きついているのは、冒頭と結末で、アリスがニューヨークの雑踏のなか、颯爽とにこやかに、そして寂しそうに歩いているシーン。これは映画ならではのシークエンスだったのだろう。この場面は原作にはないらしく、舞台の幕開けとなるアリスとダンの出会いは、やや唐突。
恋愛における出会いは、何よりも運命と結び付けられがちだけど、「クローサー」における「運命」や「愛」は、欲望に従ってしまった結果である過ちへの言い訳にすぎないように思える。
相手に対する刹那的な感情の積み重ねが恋愛だというのなら、最初から最後まで忠実な関係というのはありえないのではないか。そして、一瞬でも相手が自分を裏切っていたと知ってしまったら、それまでの関係はどこかへと消え去ってしまう。それまでの関係が完璧であればなおさら。
ちなみに映画と今回の舞台の配役は、ラリー(映画版:クライヴ・オーウェン/日本版:眞木)、ダン(ジュード・ロウ/福士)、アリス(ナタリー・ポートマン/佐藤)、アンナ(ジュリア・ロバーツ/辺見)。今回のキャストは皆、適役で、素晴らしかった。もはや他の役者は考えられない。
日本の役者には言わせられないのではないかと勝手に思い込んでいた、卑猥な台詞の数々は、よくよく考えれば当然ながら全てそのまま再現されている。チャットの場面では軽快なくらいにコミカルに、そしてシリアスな場面では激情に駆られながら、下劣といっていい台詞を矢継ぎ早に吐き捨てていく役者たちを、ほめてあげたくなった。
そして、あれほど露骨な痴話喧嘩を見せつけられておきながら、切なくなってしまうのはどうしてだろう。
「私くらいあなたのこと好きな人なんて他にいないんだから!」
実際の台詞は忘れてしまったけれど、ダンに裏切られたアリスの訴えが痛々しくて、何度ももらい泣きした。
2010年01月20日
運命じゃない人〜「(500)日のサマー」

仕事帰りの水曜日に「(500)日のサマー」を観に行く。
ヒロインのサマー役のズーイー・デシャネルがかわいい・・・かわいいヨ!!サマーの魅力全開の服装ばかりを目で追っていたような気がする。
サマーの衣装や髪型だけでなく、お部屋の内装や表情や仕草のひとつひとつまでに、とにかく惹きつけられた。
明るく澄んだブルーの瞳に合わせた青を基調としたファッション、カチューシャやリボンやシュシュといった小物使いもさることながら、水色のAラインのワンピースやアーガイル柄のロイヤル・ブルーのカーディガンの着こなしが素敵なことといったら。観に行った次の日、思わずサマーの髪型を真似てポニーテールにシュシュをして会社に行ってしまったけれど、彼女と自分とでは姿かたちに雲泥の差があり、ちっともサマにならないのであった。
はじめはサマーのプロモーション・ビデオとしてだけでもこれは満足、などと思って観ていたけれど、一組のカップルの恋愛の顛末を描いた映画としてもすこぶる興味深かった。
素敵女子サマーに対し、彼女に振り回されて一喜一憂しまくるトムの方は、見た目も中身もなよなようじうじしていて何がいいのか私にはわからず。
恋人なんていらない、一緒に楽しく過ごせる男友達しかほしくない、というサマーの恋愛観は、都会の現代っ子にありがちなそれというより、彼女独特のもののような。職を転々としているらしいサマーの場合、キャリアのために恋愛や結婚を犠牲にしているわけでもなく、ただ、恋とか愛とかを信じられるような体験をしてこなかっただけなのかも。
サマーとトムが出会った日を始点とした500日間で日にちが幾度も行ったり来たりするので、「エターナル・サンシャイン」みたく過去と現在を見せて、つきあってると色々あるよね、でもなんだかんだいって別れられないんだよね、という映画なのかと思いきや、結末はまったく違う。
500日のあいだに、運命を信じられなかった女が運命の出会いを果たし、運命を信じていた男が運命とはつまり偶然の出会いなのだと悟る。つまるところ、サマーとトムは互いにとって運命の相手ではなかった、という、うまくいかない恋愛を描いた映画なのだった。
映画に出てくる恋愛は大抵運命的なものに見えるけれど、現実の恋愛なんて終わってみればちっとも運命とは思えないわけで、その点、主人公同士が運命ではなかったこの映画の結末は、私にとって新鮮なものと映った。
2010年01月18日
リスベット&ミカエル〜「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」

スティーグ・ラーソンの小説「ミレニアム」シリーズを映像化した一作目「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」を観に行く。
私はつくづく海外ミステリが好きなんだなあ、と思う。
ひねくれ者の私は東野圭吾も伊坂幸太郎も宮部みゆきも一冊も一頁も読んだことがなく、これからも微塵も惹かれないだろうけれど、海外ミステリならば話は別。そして、「ミレニアム」はその中でも更に特別。
映画も原作も揃って極上というミステリもあるのだろう。もし誰かにどちらかを勧めるとしたら、相手が本好きであればやはり本を選ぶ。個人的な意見としては「ミレニアム」は、やはり本の方が面白いと思う。とはいえ、映画の求心力にも、ひとかたならないものがある。
2時間半くらいあるので尺としては長いけれど、映画版「ミレニアム」、飽きることなく観た。原作ファンとしても満足の出来。
ストーリーについては、知らないで観た方が絶対楽しめると思うのでここで繰り返さない。
映像ならでは、と感じたのは、寒気に包まれた片田舎の孤島で起きたとされる密室殺人と、喧騒の首都ストックホルムとの落差。そして闇に葬られたヴァンダル一族の血なまぐさい過去と、すべてが公に曝されないとも限らない情報化社会である現代との、どこか非連続的な時間の感覚の再現のあたり。
やや残念に思ったのは、小説冒頭の、毎年同じ日にかけられるという老人二人の電話のやりとりの場面が省略されてしまった点だろうか。全ては、あの電話から始まったというのに。
孤高のヒロインリスベットは、(原作にあるような)子供に間違われるほど背が低く細く、そして幼くは見えなかったけれど、ピアスだらけのパンクな恰好に似合いの愛想のかけらもない顔つきは、おおむねイメージ通り。
ミカエルやエリカは、美男美女とは言いがたい、俄然普通の人だなあという印象だけど、そこがまたリアルで、顔に見慣れると、もうそこに立ち現れる人々は皆、ラーソンの描いた「ミレニアム」の住人なのだった。
映画のタイトルからは本の邦題にはあった「1」が落ちているし、続きは日本でも公開されるのだろうか、と心配していたけど、長いエンドロールの後に「特報」という名の予告が流れた。ということは、「2」も「3」も公開されるのかな。
「2」と「3」は元々ドラマとして撮ったものを「1」の好評を受けて映画用に縮めたものらしく、公開されたら絶対観に行っちゃうけど、観れるものならこちらのロング・ヴァージョンも観てみたい。
そして、ハリウッドで早くもデヴィッド・フィんチャーを監督に据えての今作のリメイクが画策されているようだけれども、ヨーロッパ作品の二番煎じはいい加減やめてほしい。到底ハリウッド的な話ではない、と誰か気付いて・・・。
それにしても、上に載せたポスターは海外版(英語圏のどこか)だけど、なんか変。あの部屋はヘーデスタのヴァンダル家の屋敷の書斎だろうか。でもこんなシーンないもん。
日本の赤黒い背景にリスベットの顔がでーんと鎮座しているやつの方がセンスいいというか、作品世界を的確に表現できてるよね。
2010年01月10日
2010年01月09日
説得〜「待ち焦がれて」

ジェーン・オースティンの『説得』を映像化した「待ち焦がれて」を観る。
再三このブログでもしつこく書いている通り、私の学生時代の専攻は英文学だったわけだけど、こまかくいうと、イギリス文学ではなくアメリカ文学の領域だったので、イギリス文学の古典作品を精読するような授業にはあまり出ていなかった。オースティンの講義があれば、必ず出ていたと思うのだけれど、私が在籍していたときにはそんな授業は開講されていなかったので、オースティンを学術的な意味合いで読んだことはない。
オースティン作品に触れたのは、アン・リーが監督した「いつか晴れた日に」を高校1年のときに観たのが初めてで、実際に原作にあたってみたのは、やはり映画の邦題と同タイトルで出ていた『分別と多感』だった。
6冊の長篇のうち、相変わらず『マンスフィールド・パーク』だけはまだ一度も読んでいない。映画はつい最近、「プライドと偏見」を再見したばかり。
というわけで、もとよりオースティンはまったく純粋に趣味で楽しんでいた作家なんだけど、オースティンを地道に、そしてすこしだけ集中的に読んだり観たりしていきたい、というのが今年のささやかな目標のひとつ。
オースティンはどの作品も、本国イギリスでは何度となく映像化されていて、最近も続々と製作されているけれど、まずは手に入るものからということで、『説得』の映像版から。
『説得/Persuasion』は、運悪く邦題が定まらない作品で、「説得」「説きふせられて」「待ち焦がれて」とまあ似たようなタイトルが乱立しているのだけど、ここでは本の邦題は『説得』に統一しておく。
『説得』は、最後に書かれた作品で、亡くなった翌年の1818年に『ノーサンガー・アベイ』と共に合本で死後出版されている。私は岩波文庫版の『説きふせられて』を随分前に一度読んだきり。
今まで読んだ5冊のなかでは最も印象が薄かったけれど、初めて映像作品を観てみたところ、オースティンにしては陰影に富んだ、大人な物語だと思った。
今回観たのは1995年のBBCのテレビ映画で、アメリカでは劇場公開されたという。日本ではDVDが出ていないので、VHSをレンタルしてきて鑑賞。監督には後に「ノッティング・ヒルの恋」や「Jの悲劇」などを撮った、ロジャー・ミッチェル。
エリオット家の次女アンが、かつて周囲に反対されたために結婚を断念したかつての恋人から、再び求婚されるまで。
オースティン作品にお馴染みの、困難続きの求愛期間を経て、結婚に終わる展開そのものは変わり映えしないものの、アンと大佐がようやく婚約に漕ぎ着ける結末は、観ているだけで溜飲が下がる思いがする。
アマンダ・ルート扮するアンが、オースティン作品のヒロインとしてとても魅力的だ。
揃って狭量で、ひどく自己中心的な父と姉と妹の板ばさみになりながらも、凛として自分を見失わないアン。寡黙で、周りからは依怙地だと思われているけれど、それは自分の感情の起伏を決して外に出そうとしない性格ゆえ。
もしかしたら、彼女はもっともオースティン作品の中で女性読者の共感を呼びやすいヒロインなのではないか。ひとの心情を解さない、まるで馬鹿馬鹿しい家族友人に囲まれながらも、彼女だけは常に理性と品性を失わない。物事に着実に取り組む、その姿のひたむきさに心を打たれた。
配役も演出も全体的に華やかさに欠けてはいるんだけど、この地味さ、平凡さこそがまさにオースティンの作品世界の骨頂。間違いなく成功したオースティン作品の1本だと思う。






