中年とオブジェ

街角に佇むオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ 美術館で出会ったオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

スイングしなけりゃ意味がない ドルフィーとモンク





なら、君はスウィングしていると思うのかい?と彼に訊いた。「もちろん、スウィングしていると思うさ」とドルフィは答えた。「実際のところ、スウィングしすぎてどうしたらいいか分からないくらいだ—私の心をぐいぐい動かすんだよ。」

クリス・デヴィート 「ジョン・コルトレーン インタヴューズ」より



リズムに関して言えば、モンクは強力な内在的リズム感を具えているので、たとえレベルの低いリズム・セクションと顔合わせしても、彼らをスイングさせることができる。つまり彼自身が自らのリズム・セクションをつとめているのだ。

ナット・ヘントフ 「ザ・ジャズ・ライフ」より 
村上春樹 編・訳 『セロニアス・モンクのいた風景』所収



命日である6月29日になると、このブログでエリック・ドルフィーのことを書き綴っている。

アルバム「Last Date」に収録された「Epistrophy」は、バスクラリネットの魅力を存分に引き出した名演だし、ジョージ・ラッセルのリーダー作「Ezz-thetics」の中の「Round Midnight」は、数多くのジャズ・ミュージシャンに取り上げられるこの曲の、ほかの誰よりも白熱した演奏だ。 

こうしてセロニアス・モンクの曲にも優れた演奏を残したドルフィーは、もちろんモンクのピアノとの共演を望んでいたというが、彼らの共演が果たされることはなかった。
ドルフィーとモンク。その独特のメロディーと和声の感覚に通底するユニークさは、多くのジャズ・リスナーが感じるところだろう。

だが、それと同時に私がこの二人に共通して抱くのは、彼らの「スイング」による強い個性の発揮なのである。上記のモンクについて引用した文章は、まるでそのまま「Eric Dolphy in Europe」で共演しているドルフィーとサイド・メンたちとの関係について記述した文章であるかのようだ。ドルフィーの共演者としては非力なメンバーとのセッションであっても、リズム・セクションはドルフィーの熱い「スイング」に牽引されて、限りなくポテンシャルを引き出されている。

ドルフィーの、オーソドックスなJAZZを逸脱した特性は、一般にそのメロディーラインの特異性、不協和、音色の異形などで語られることが多いけれど、彼の演奏の持つリズムのアブローチの個性こそが、彼の演奏に最も生命力とワンダーを付与していると私は考える。そう「実際のところ、スウィングしすぎてどうしたらいいか分からないくらいだ」という彼自身の言葉が示すように、ドルフィーの音楽の逸脱は彼自身にさえコントロールできないほどの「スイング」に依拠している。

かたやセロニアス・モンクの音楽においても、メロディーと独特の和声による作曲の個性以上に、そのピアノの演奏の持つ特異なリズム感覚、強烈で不思議な「スイング」に、彼のユニークさの根幹があるように感じる。

そんなドルフィーとモンクの共演が実現していたならば、どんな音が生まれたのだろうか。

「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)」

この曲名そのままに、とてつもない「スイング」が巻き起こされたことだろう。たとえばドルフィーとモンクのDuo。リズム・セクションなしの二人だけの演奏。想像しただけでわくわくしてしまう。

ドルフィーの演奏を聴きながら、今年も取りとめなく想いをめぐらせた。さて、この後はどのレコードをかけようか…


ジョン・コルトレーン・インタヴューズ
クリス デヴィート
シンコーミュージック・エンタテイメント
2011-03-25



『サピエンス全史』





採集地 横浜

中華街の生ライチと煲仔飯




日本でいうイチゴ狩りや梨もぎのように、中国・台湾ではライチ狩りがあるそうだ。ライチの旬は6月。普段冷凍ものしか口にする機会の少ない果物だが、最近はスーパーにも生のものが出回っている。生ライチ横浜中華街八百屋などで安価に扱われているのを知ったのは昨年のこと。今年も旬を迎えた生ライチを求め、中華街に出かけた。

店の営業も制限され、観光客も遠のいていた中華街に、ようやく人出がもどり始めていた。八百屋や中華スーパーがあるのは、中華街の中心部を外れた一角。南国のフルーツや野菜、乾物などが雑多に並んだ店で、念願の生ライチを手に入れた。

冷凍ものとは違い、ざらざらした表皮に爪を立てて剥いたとたん、ジュワッとが果汁が湧き出す。半透明の白い果肉から甘い香りが立ちのぼり、その弾力あるみずみずしい食感とさわやかな旨味が楽しめる。

樹で熟したライチをもぎながら食したなら、さぞ旨いだろうと思わずにいられない。





この日は『孤独のグルメ』にも登場した、香港屋台系広東料理の南粤美食(なんえつびしょく)で食事。この時期なのですんなり入店できた。体温チェックと、アルコール消毒を経て、こじんまりした店内の小さなテーブルに着く。

早めに出てきた海老雲吞麺は、ぷりぷりのエビがぎっしり詰まったワンタンがごろごろし、コシのある極細麺に干しエビ香るあっさりスープがからみ、屋台料理とはいいながら上品な味。

煲仔飯(ぽうちゃいはん)は、香港などで冬場に屋台に並ぶ小さな土鍋の炊き込みご飯のことだが、オーダーしてから炊き出すのでしばし待って供される。各種の具材の煲仔飯がメニューにあるが、腸詰と貝柱の煲仔飯を注文した。

自家製の腸詰、大ぶりな干し貝柱を使ったこの炊き込みご飯には、この店の名物の「干し豚ぱら肉」をそいだものも入っている。この干した肉には燻製とも違った凝縮された肉の旨味があり、飴色をした脂身の甘さがたまらない。


ただしこのお店の料理、味は申し分ないが、お値段の方は屋台系料理にしてはコスパはよくはない。当分は香港への旅行も困難であろうが、今は南粤美食の料理に香港の下町を想うことにしよう。

葬られたメモリー





採集地 東京

樹の不在





採集地 東京

欠け麻雀





採集地 横浜

照屋勇賢の農園






採集地 横浜

戦時の日常 『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』





「夕凪の街 桜の国」を読んだ時から、広島県出身の漫画家こうの史代が気になっていた。このブログでは写真家・石内都の「ひろしま」を取り上げたときに、この漫画について言及している。

石内の最新の仕事「ひろしま」は、広島平和記念資料館が保存する被爆者の遺品を、カラー写真で鮮やかに記録したもの。被写体は女性のワンピースやブラウス、女の子の服などが多く、やわらかな色彩や、華やいだ模様が美しい。

そこに感じられるのは、被爆者たちの「死の記憶」ではなく、「生の痕跡」だ。とりわけ心惹かれた、青を基調にした花柄のワンピースの写真を前にしたとき、「被爆者」という言葉でつくせない、ひとりの女性の生命を思わずにはいられなかった。

石内都の「ひろしま」には、土田ヒロミの「ヒロシマ・コレクション」にはなかった、ひとりひとりの「生」を照射する鮮やかさと、やわらかさが感じられた。

※こうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」は被爆後の広島を描いた秀作だ。映画化もされているが、100ページばかりの紙幅に込められた原作の読後感は、石内都の「ひろしま」に通じるものがある。強くおすすめの作品です。
中年とオブジェ:2008年12月25日

そののちに執筆された「この世界の片隅に」は広島の戦争前から被爆へとつづく日々を、ひとりの女性の生活を通して丁寧に描いている。

絵を描くことの好きな、ちょっとぼんやりしたところのある、おっとりとした主人公すず。広島市内から軍港呉に嫁いだ彼女の生活が、日常の数々のエピソードを重ねながら綴られていく。

2016年に製作されたアニメ映画版「この世界の片隅に」では、原作のこうしたエピソードはかなり割愛されていたのだが、作品は高い評価を得て評判となった。
そして2019年には、様々なカットされていたシーンや追加されたエピソードを加えた長尺版として「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が公開され、この春もロングランを続けていた。しかし新型コロナウイルスの感染拡大により劇場公開は休止する事態となった。

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、前作に数々のエピソード付け加えることにより、原作の持つ魅力をよりよく表現することができたと感じる。今日は何を食べた、とか衣服の繕いであるとか、小さな日常が描かれていく中に、徐々に戦争が近づき、進行し、破局へと向かう時代の流れが自然に織り込まれていく。

例えば、戦前のつましい食生活のエピソードと同様に、食料や物資が乏しくなっていく中で食生活の工夫をするエピソードが描かれる。あるいは、誤報の相次ぐ空襲警報にうんざりする日々のエピソードを経て、夜ごとの爆撃からの避難や防空演習にへきえきする日々が描かれる。

そこには、戦争というものがある日突然起こるものなのではなく、日々の生活が連綿と続く中で、いやおうなく人々を巻き込んでいくものであるということが静かにあらわされている。作品の中で最も大きな「事件」である原子爆弾の投下も、呉の町からは山の向こうの出来事であり、その恐怖は突然始まって終わるのではなく、じわじわと徐々に主人公のすずの生活に影を落としていくものとして示される。
そして、どのような状況になっても食べたり寝たりという日々の営みを続けていく中で、人々がその時々の状況を受け入れざるをえず、その状況に馴らされてしまう姿が描かれていく。

大きな時代の転換の中では、たとえ少し前には想像もしなかったような状況に次々に飲み込まれていこうとも、人はその時、その時に直面した状況に身を処すことに懸命で、今より先を予測し見通すことができなくなってしまう。その結果、「今その時」の状況に向き合うことに終始し、未来を見失う。
それが人々にとって逃れがたい「戦時下」の生き方なのだろう。


私たちは今、新型コロナウィルスが感染拡大するこの状況を「戦時下」と類比する。
「今」だけを生きるのではなく、可能な限り「今」より前に起きたことを証左すること。
そして、「今」より先のことを想像すること。
「戦争」の終結のためにはそうしたことが求められていると、私は思う。





プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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