しばらく前に哲学者千葉雅也の『現代思想入門』を読んだのだけど、文章のあちらこちらで「これ、エリック・ドルフィーのことを言ってるみたいだ」と思わされた。そんな部分や、ドルフィー自身が残した言葉を、彼の命日に断章として綴ってみよう。
書くことは、生きられた素材にある形態(表現の)を押しつけることではもちろんない。文学とは、ゴンブロヴィッチが言いかつ実践したように、むしろ不定形なるものの側、あるいは未完成の側にある。書くことは、つねに未完成でつねにみずからを生み出しつつある生成変化にかかわる事柄であり、それはあらゆる生き得るあるいは生きられた素材から溢れ出す。(ドゥルーズ『批評と臨床』守中高明・谷昌親訳)
このドゥルーズからの引用に対して、千葉雅也は以下のような変換をする。
ここにはひとつの文学観が出ていますね。完成を目指さない文学。すべてが途中であり、プロセスをそのまま書いてしまう文学・・・・・というのは僕も影響を受けているのですが、この部分だけでも、何かを書こうとするときにヒントになると思います。
(千葉雅也『現代思想入門』)
そして、ドルフィーの言葉。
私がやろうとしているのは、自分が楽しめることだ。刺激的なことーそれが私を突き動かし、私のプレイを手助けをする。そういうふうに感じる。それはまるで、次にどこへ行くかわからないような感覚だ。アイディアはあっても、そこにはいつも自然発生的な何かが起こる。
(ジョン・コルトレーンとエリック・ドルフィー、ジャズ評論家たちの問いに答える ドン・デマイケル) クリス・デヴィート編「ジョン・コルトレーン インタビュー」所収
「次にどこへ行くかわからないような感覚」に、私は即興音楽としてのドルフィーの魅力を感じている。全体の統合性のない、まるでコラージュのような部分部分の連なり。
『ライティングの哲学』では、アウトライン・プロセッサによる箇条書きでどんどん切断的に思いつくことを書いていって、全体を統合しようとせず部分部分で物事に対応していく、といったライフハックを説明しています。(中略)どうしようもなく悩むことが深い生き方であるかのような人間観が近代によって成立し、それがさまざまな芸術を生み出したわけですが、そこから距離をとり、世俗的に物事に取り組んでいくことは、人間が平板になってしまうことなのでしょうか?
そうではありません。むしろそのような世俗性にこそ、巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜劇的と言えるだろう深さがあるのではないでしょうか。
(千葉雅也『現代思想入門』)
「巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜劇的と言えるだろう深さ」とはまるでジョン・コルトレーンとエリック・ドルフィーとの対比そのもののようだ。
コルトレーンは悩んでる。
ミンガスは怒ってる。
ドルフィーは笑ってる。