古屋誠一

東京都写真美術館で写真展、古屋誠一 メモワール.「愛の復讐、共に離れて…」を観た。古屋の写真は、2008年にオペラシティーアートギャラリーの「トレース・エレメンツ」展で観た時の印象が強く残っていた。その時はたしか精神を病んで自死した妻クリスティーネの手記も展示されていたと思う。

写真の中のクリスティーネをみるとき、彼女がたどった人生が彼女の表情に落としている影を探してしまうことから逃れることは困難だ。幸福そうな笑顔の中にも、冷たい無表情なまなざしの中にも、すべてが彼女の病と死に帰結する萌芽であるかのような「影」を読み取ろうとしてしまう。

たとえば、古屋の郷里を旅したときの美しくさわやかなポートレイト「伊豆」。よく観ると首筋と手首には彼女の自傷行為の痕が見いだされる。

伊豆

しかし、そのことによって「伊豆」で彼女が過ごしただろう幸福な瞬間を否定するのは、現在から過去を振り返ったときになされる「改竄」であろう。

わたしたちは、作品を見ているようで、実際にはその背後にある、作者に固有の物語が大好きです。
そうした物語は、えてして波瀾万丈です。耳を切ったゴッホなどは、その典型でしょう。
そうすると、作品を見ているようで、実際にはそこに作者の影を見ているような錯誤が、どうしても起こってしまいます。
この麦畑の絵は、耳を切った狂気の天才、ゴッホが描いたのだ、というふうに。

「反アート入門」椹木野衣

精神を病み、生きていく均衡を失い、自死にいたったというクリスティーネの物語を絵解きする素材として、彼女の写真を観ないこと。画面に切り取られたその時、その時を先入観なくとらえること。観る者が自由に写真と写真の「間」を編んでいくこと。そうしたことが、写真の中の「他者の過去」を、「自分の現在」につなげていく営為であると思うのだ。

私は、クリスティーネが自死した事実を忘れて純粋に写真そのものを観よといいたいのではない。写真がとらえた彼女の総体に、物語の枠をこえて目を向けよといいたいのだ。

物語化された記憶は、都合のよい「過去」だけを抽出して編みなおされる。だが容易な物語化を拒絶する狭雑物をはらんだ記憶は、「過去」に収まりきらず「現在」をも侵食するはたらきを持っている。写真というメディアの特性も、まさに「過去」を「現在」につなぐ点にあるだろう。古屋誠一の撮った妻クリスティーネの写真は「私写真」であることをこえ、現在のわたしにまでつながっている。

反アート入門
反アート入門
クチコミを見る