中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

映画

『自転車泥棒』





採集地 東京

『さびしんぼう』





採集地 尾道

絵葉書コレクション 大連




昭和9年の絵葉書。「大連名所連鎖街心斎橋通りの夜景」とある。イルミネーションとネオンひしめく繁華街。キリンビール・サクラ美粧院・東寿しなどの看板が見てとれる。

映画監督山田洋次も少年時代を満州で過ごしたひとりだが、今年観た彼の「小さいおうち」という作品が心に残っている。おもちゃ会社の社員を夫に持つ良家の夫人(松たか子)が、夫の会社の青年と恋に落ちる小さなさざ波のようなストーリー。その背景となる戦前から戦中の時代の空気の描写。ごく普通の中流階級の家庭の出来事を通して、戦前の自由な空気が徐々に閉塞していき、小さな戦勝に世間が浮かれ、やがて否応なく巨大な戦争の時代が人々を呑みこんでいく。

ある日突然に戦争の狂気が人々をむしばんだのではなく、連続性のある日常のうつろいの中で徐々に人々の意識が変容し、戦争という非日常が日常になってしまうことの恐ろしさ。

作者山田洋次にとって、束の間の王土であった満州の記憶が、今も戦争の時代を問い直す原点になっているのであろう。この絵葉書の虚栄に終わった風景を目にすると、そんなことが思われる。




韓国映画「あなたは遠いところに」を観た!

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韓国映画はよく観るほうである。大好きな女優ペ・ドゥナや演技派オヤジ俳優ソン・ガンホパク・チャヌクキム・ギドクら天才・鬼才監督たち。9月に訪れた岡山のジャズバー「COMMAND」のマスターも韓国映画にはまっているひとりで、音楽の話題とともに、韓国映画が今面白いよねーと盛り上がった。

「昔の日本映画が持っていた熱さが、今の韓国映画にはあるんだよ。俳優たちもギラギラしてるしね。」

そんなマスターから「最近観た中で、面白くて驚いた」と紹介された「あなたは遠いところに」を旅から帰ってDVDで観た。監督はイ・ジュニク。「王の男」という作品は以前観ていたがそれほど印象に残らなかった。いわゆる「職業監督」というポジションの監督なんだろう。

映画は韓国軍がベトナム戦争に参戦していた時代。兵役で戦地に赴いた夫に会うため、歌が好きな若妻スニが戦地慰問バンドの歌手になってしまいベトナムに渡航し、波瀾万丈のドラマがはじまる。その破天荒なストーリーはご都合主義もいいところなんだが、演出の巧みさと生き生きした役者たちの魅力に、みるみるフィクションならではの面白さに飲み込まれてしまった。この映画の見せ場である音楽シーンの躍動感は、音楽好きなら心をつかまれるに違いない。主演女優スエの初々しさもいいし、バンマスを演じるチョン・ジニョンの、若い頃の竹中直人を髣髴とさせるような怪演も楽しい。

ヨコハマトリエンナーレ2011に出品されたクリスチャン・マークレー「The Clock」を垣間見て私の印象に残ったのは、「劇映画って、奇妙な世界だなあ」ということに尽きる。古今東西の映画から時計の出てくるシーンをコラージュした「The Clock」は、劇映画という架空の物語をつむぐフィクションの世界が、分節され、ストーリーを剥ぎ取られるといかに違和感に満ち、日常世界と隔絶した断片から成り立っているかということを力業で見せつけてくれた。

映画においてフィクションの大きなうねりが巻き起こると、そんな断片が生命を得て、脈動をはじめる。韓国映画「あなたは遠いところに」も、そんなフィクションの力にあふれた「生きた」映画であった。



※イ・ジュニク監督の「ラジオスター」という作品も続いて観たのだが、落ちぶれたロック歌手と彼のマネージャーとを軸にした味わいある人情話だった。この監督の職業監督としての手堅さがよくわかる。「あなたは遠いところに」は荒唐無稽なストーリーをそうした堅実な演出が支えているわけだが、スケールの大きな過剰なフィクションがその生命力の本質。マイナーな韓国映画であるけれど、自信を持っておすすめします。

ANPO

anpo

僕は戦争が嫌だ、あんな馬鹿なことを絶対にしたくない。
―あの熱かった時代の日本をアーティストたちはどう表現したのか―

60年安保闘争の時代を、日本の美術作品やアーティストへのインタビューで構成した映画ANPOを横浜の「シネマ・ジャック&ベティ」で観た。監督は日本育ちのアメリカ人、リンダ・ホーグランド。

まさに安保の同時代を生き表現した池田龍雄中村宏らの作品と言葉がずしりとくる。山下菊二の時代をえぐった絵画のグロテスクさ。安保問題の縮図、沖縄をめぐる石川真生山城千佳子らの表現。自らの原風景である基地の街横須賀からヒロシマへつながっていく石内都の仕事。

映画は、明確な政治的メッセージを提示することよりも、美術作品・ルポルタージュ写真・記録映画・劇映画のワンシーンなどのイメージを羅列しコラージュすることで、観る者の中に擬似的な架空の記憶を喚起しようとする。

安保闘争を実体験で知る世代には全く違った受け止め方があるのだろうが、映画「ANPO」は、60年安保を知らない世代にこそ強く訴えかける映像であるように思う。そんな世代の作家である風間サチコの作品と言葉は取りわけ興味深い。日本の戦後史に深い関心をよせ、独特の作風で表現する風間は、若い世代の作家としては異色の存在だ。家庭環境が安保などへの自身のスタンスを育んだと彼女は語るが、沖縄出身というような自明の出自もなく、自らの想像力・妄想力にまかせて「歴史のコラージュ作業」のように生み出されるその作品世界は、映画「ANPO」の方法論とも重なるように感じられる。

「よくわからないこと」を「よくわからない」ままに提示すること。自明の結論を明示するのではなく、「よくわからない」問題群そのものを暗示すること。映画「ANPO」がそんな微妙な成り立ちを可能にしているのは、安保というテーマにアートという迂回路を通じてアプローチしたからゆえであろう。

よい入門書は、まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか」を問います。
これは実にラディカルな問いかけです。
なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう?なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。「知りたくない」からです。
より厳密にいえば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
「寝ながら学べる構造主義」内田樹

そんな「ラディカルな問いかけ」において、「ANPO」もまた「よい入門書」であり、ユニークな映画である。

※それにしても、この映画に映し出される風間サチコ、美しいのである。展覧会でお会いしたこともあるが、真摯に語る女性は美しいのだなあ。

クリストとジャンヌ=クロード展 自我とノイズ

ランニング・フェンス

21_21デザインサイトで開催中の「クリストとジャンヌ=クロード展」。彼らのプロジェクトを記録した映画「クリストのヴァレー・カーテン」「ランニング・フェンス」を観た。

「クリストのヴァレー・カーテン」では峡谷に巨大なオレンジのカーテンが設置されていくシーンに、同プロジェクトのドローイング制作のシーンがインサートされている。プロジェクトの現場とドローイングの相関が興味深い。

広大な丘に全長39.4キロメートルもの布のフェンスを連ねる「ランニング・フェンス」では、地主である牧場主たちとの交流・度重なる公聴会での議論など、プロジェクト達成に至るプロセスが描かれている。

映像の中の若き日のクリストは、先日ギャラリートークで目にした姿よりも先鋭的でトゲトゲしい。そんな彼をユーモアを交え包み込み、癒すかのようなジャンヌ=クロードの存在が印象的だ。

「自由」は各個人の中にある。ただそれを拘束する周囲の事情を改める時それが獲得されるのである。自分の歩いていく道に岩石が横たわっている。自分はそれを迂回するか、それを取り除くか、それを打ち砕くかしなければ先へ進む事は出来ない。それを迂回する知恵もなく取り除く方法も知らず、あるいは打ち砕く力もない者はそこに立ち止まるか逆戻りをするかいずれかである。またそうしてまでも前進する必要がないと思う者はたちまちあきらめて逆行するであろう。ただ邁進せんとする欲望の猛烈なる人のみそれを取り除き、あるいは打ち砕く知恵と力を発見するであろう。

「自由」という言葉 辻潤(1884年生まれのアナーキスト)

クリストとジャンヌに感じるのはまさにそんな「打ち砕く知恵と力」。しかし私には、彼らの求める「自由」「西欧近代的な自我への固執」というとらわれの中に存在するようにも見えた。彼らのプロジェクトは、現場を固める技術者や、多大な作業員による祝祭的な情熱に支えられてはいる。だが、ドローイングの世界が現実の風景と化す「創造」の歓びは、つまるところクリストとジャンヌの自我の中で完結しているのではないだろうか。「作者」と「観客」の間には、大きな乖離が存在する。もちろん、作者と観客がtemporary(一時の・仮の)な共有関係にあるという点は、美術作品の新たな在り方を開示してはいるのだけれど。

辻潤の引用の中の岩石を「迂回する知恵」により自由を獲得する方法論。川俣正「ワーク・イン・プログレス」がそれではないだろうか。10年に及んだ「コールマイン田川」プロジェクト。当初こそ鉄の廃材で炭鉱のヤグラをモチーフにしたタワーを建造することが企図されたが、現実にはスタッフの事務棟を建設したり、草野球大会をやったり、舟で川を下ったり。

「コールマイン田川」プロジェクトを立ち上げるにあたって川俣正は「近代の検証」という大目標を掲げた。プロジェクトを展開する方法論には彼が90年代以降提起し続けている「ワーク・イン・プログレス」を採用している。この語義は本来、「制作中」「未完成」である。

(中略)

川俣は公共空間という多様な人々が交錯する場で作品制作をする際に生じる多様な他者の介入(「ノイズ」)に着目していた。この介入を逆手にとって多様な存在・主体をあえて作品の中に吸収していく仕組みそのものを作品化するコンセプトを獲得し、それが川俣の「ワーク・イン・プログレス」の基盤となっている。

方法論としての川俣正「ワーク・イン・プログレス」 山口祥平

クリストとジャンヌ=クロードに感じる強烈な「自我(エゴ)」と川俣正の「ノイズ」をも介入させるしなやかな戦略。80年代の川俣の「サイト・スペシフィック・ワーク」には、クリストとも重なる視覚性があった。建造物を木材で「梱包」してみたり。川俣の「ワーク・イン・プログレス」は、そんなクリスト的呪縛からの脱出のもくろみでもあるのだろう。
 
※3月27日深夜 六本木アートナイト関連イベントとして、クリストとジャンヌ=クロードのドキュメンタリー映画がオールナイトで一挙に上映されるそうです。

ウィリアム・ケントリッジ―歩きながら歴史を考える

ケントリッジ


東京国立近代美術館で開催中の「ウィリアム・ケントリッジ−歩きながら歴史を考えるそしてドローイングは動き始めた・・・・・」。2月5日(金)の担当学芸員によるギャラリー・トークにあわせ、どっぷり浸かってきた。

トークの内容で興味深かったキーワードは「ノイズ」。私なりにまとめてみると、木炭やパステルのドローイングを、部分的に消しては描き変え、映画用のカメラで1コマずつ撮影して制作されるケントリッジのアニメーションには、前に描かれた描線がときに残像として消去されないまま「ノイズ」として画面に痕跡を残している。この「ノイズ」が作品に深い奥行きを与えることになるわけだが、アニメーションとは本来残像の連なりによる錯視を利用した視覚のトリックである。一般には動きの自然で滑らかなアニメが、技術的に高度なものと捉えられるだろうが、「いかに残像を可視化するか」という「ノイズ」までをも自覚的にコントロールしているであろうケントリッジの方法論は、より深い次元で非常に「高度」なのである。「ノイズ」という見方の指摘。この日のトークの重要点と感じた。

無類の映画マニアであった武満徹に「夢の引用」という映画についての随想があるように、ケントリッジの映像は夢との親和性の高い「映画」でもある。ユングの「影」ないしは「二重身」であるかのような登場人物の構造、無意識を象徴する水の表現、多義的で変容し続けるイメージの連鎖。とりわけ私が惹かれたのは、黒い電話機が黒猫に形を変えていくようなメタモルフォーゼの魅力だ。

ぼくは“変身もの”が大好きです。
なぜ好きかというと、ぼくは、つねに動いているものが好きなのです。物体は、動くと形が変わります。いつまでも、静かだったり、止まっているものを見ると、ぼくは、イライラしてきます。動いて、どんどん形が変わっていくと、ああ生きているんだな、とぼくは認め、安心するのです。
ぼくはちいさいころ、よく、こんな夢を見ました。なんだかわからないグニャグニャしたものが、ぼくのペットなのです。ぼくは、そのペットを連れて町を歩いています。そのグニャグニャしたものは、人間のようになったり、ウサギや犬や鳥になったり、奇妙な怪物に変わったりします。ぼくはそれを、すごくかわいがって友だちのように仲よくしているのです。
ぼくは、アニメーションにこり出したのもアニメだと、この変身―メタモルフォーシスが自由に、奔放にできるから夢中になってしまったのでしょう。

手塚治虫漫画全集「メタモルフォーゼ」あとがき

手塚治虫には一連の実験アニメーションの仕事もあるが、ディズニー映画のようなフルアニメーションの流麗な動きの美しさが、手塚が素朴に愛したアニメーションの魔力なのだろう。

ケントリッジのアニメーションは、そうした本流のアニメーションとは次元の異なる表現であり、多くのノイズをはらんでいる。しかし、メタモルフォーゼというアニメの面白さの本質により我々の心をひきつける意味においては、やはりアニメの原初的な魔力を体現しているのである。

アニメーションの原理の考察を深めるケントリッジの仕事は、ステレオスコープ(立体鏡)による3Dや、円筒形の鏡像によるアナモルフォーシス(歪像)などの旧時代の視覚装置をも表現に取り入れていく。アニメも映画も残像を利用した錯視の技術であるし、こうした18、19世紀の光学装置にも及ぶケントリッジの関心は、人間の視覚機能自体への深い洞察のあらわれなのだ。

南アフリカの歴史への言及という政治的なメッセージ性で捉えていたケントリッジへの認識を新たにし、彼の最新作までの仕事を俯瞰する展覧会であった。

「ウィリアム・ケントリッジ―歩きながら歴史を考える」という展覧会タイトルの「歩きながら」は、壁に貼ったドローイングとそれを撮影するカメラの間を果てしなく往復運動し続けるケントリッジの制作の身体性を意味し、映像とドローイングからなるケントリッジ世界を往還する私たち観客の「歩きながら」でもあるのだろう。

※youtubeで見られる動画のご紹介や、会場のシステムについてのご説明なども盛り込んだ、memeさん、はろるどさんのエントリが参考になります。

memeさん「あるYoginiの日常

はろるどさん「はろるど・わーど

ペ・ドゥナの空気人形

空気人形


空気人形を観た。主演の韓国女優ペ・ドゥナはここ数年、私のアイドルである。それだけに、空気人形=ダッチワイフの役どころのぺ・ドゥナの体当たりの演技には感嘆させられるとともに、衝撃を受けた。もちろん彼女の裸体は「プライベートレッスン 青い体験」や「復讐者に憐れみを」以上に、美しくエロティックだ。

高層マンションの開発に取り囲まれた寂れた街。空虚な心を抱え倒錯した人々。人形のぺ・ドゥナは心を持つようになり、たどたどしく人々とコミットしはじめる。しかし、性欲処理の「代用品」としての役割からも逃れることができない。

代用品であることに耐えられなくなり、エゴを持ちはじめた人形は、やがて自分が想う者への愛に目覚める。しかし他者に愛の歓びを与えることは、自身のエゴを消し去ることの上に可能となることではないだろうか。他者の空虚に自己の空虚を重ね合わせ同一化しようとした彼女には、悲劇的な出来事が待ち受けている。

個体が個体にはたらきかける仕方の究極は誘惑である。他者に歓びを与えることである。われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、なにほどかは自己でなくなることである。
真木悠介「自我の起源 愛とエゴイズムの動物社会学」

「空気人形」は、心を持った人形の物語というファンタジーの形をした、人間の愛とエゴイズムのパラドックスのドラマである。

※ぺ・ドゥナが歩く東京の風景がなんと新鮮に見えることか。彼女が撮影したフォトブック「ドゥナ's 東京遊び」の世界そのもの。ぺ・ドゥナの新境地に、同時代に彼女のような女優に出会えた歓びを味わった。

色即ぜねれいしょん

色即ぜねれいしょん

田口トモロヲ監督・みうらじゅん原作の映画色即ぜねれいしょんを観た。このコンビによる「アイデン&ティティ」は、イカ天に代表されるバンドブームに浮かれた時代の青年達の物語だったが、今回はみうらの自伝的小説をベースにした、高校生男子のなんのことない、でも誰でも覚えがあるような青春の物語。

主人公じゅんは仏教系男子校に通う、優等生にもヤンキーにもなれないごく普通の高校生。ボブ・ディランに憧れ部屋で自作の曲をギター弾き語りする文科系男子である。理解のありすぎる両親との間には親子の葛藤もなく平凡な日常。幼馴染の女の子との恋を妄想するばかりが取り得だ。

そんな彼が、友人達と日本海の島、隠岐へと「ひと夏の体験」を求め旅をする。ユースホステルでのペアレントや年上の女の子との出会い。夏が終わり、友の変節、ささやかな恋模様を経て、文化祭でついにじゅんはステージに立つことを決意する・・・

田口トモロヲの演出は、ストレートで時に青臭く、なんのひねりもない青春映画に見えるかもしれない。しかしだれもが通り過ぎる青春の時期って、もともと外から見ると凡庸なものなんじゃないだろうか。「ほどよい狭さの、大世界。」というのは1985年に有楽町西武がオープンしたときの糸井重里のコピーである。高校時代というのはまさにそんな感じだ。狭く制約された中でこそ夢中になれるものを求めて「青春」してしまう。

ヤンキーたちが大活躍したり、難病に号泣するばかりが青春映画じゃない。間違いなく文科系男子だった私には、「色即ぜねれいしょん」は照れくさいほどに高校時代の思い出をよみがえらせてくれる映画だった。

※最近の日本映画にありがちな無意味に豪華なカメオ出演(松尾スズキとかクドカンの作品など)。少々辟易しているのだが、「色即ぜねれいしょん」に出演したくるりの岸田繁や、銀杏BOYZの峯田和伸は彼等ならではの役どころを演じいい味を出していた。ラジオのDJ役はみうらじゅん御大だよな。

拘束のドローイング9

拘束のドローイング9






















マシュー・バーニー「拘束のドローイング9」が、渋谷のシネマライズで上映されている。横浜トリエンナーレにも出展しているマシュー・バーニーだが、そちらでは展示環境が悪く、モニターも小さく、ブースも狭い。

「拘束のドローイング9」は2時間を越える大作だが、セリフはほとんど無い。あらすじを紹介するのもほとんど意味がないと思われるので、作品に表れる事象をタグで列記してみよう。

製油所 阿波踊り 捕鯨船 海女 真珠 ワセリン 西洋の客人 毛皮の婚礼衣装 貝の茶室 角のある男 ビョークの入浴 竜涎香(りゅうぜんこう)

日本と南氷洋を舞台に、一見ドキュメンタリーのようなタッチと、不可思議なイメージが錯綜し、人体を切り刻むグロテスクな描写もある。東京都現代美術館の常設展で、この映画のスチールがしばしば展示されているが、あの写真の意味がようやく分かった。ビョークが手がけた音楽も、ダークで重く美しく作品を支えている。いわゆる映像アートの範疇を超え、スペクタクルとワンダーを与えてくれるこの作品、私は退屈することなく惹きこまれた。まあしかし、マシュー・バーニーはつくづく変態だなあ。

マシュー・バーニー、やっぱり大スクリーンで観るべきだと感じる。1週間の期間限定公開は、明日10月31日(金)で終わりである。

サム・ライミのダークマン

ダークマン今ではすっかり「スパイダーマン」サム・ライミだけれど、「死霊のはらわた」などをかつて撮った、カルトな監督だったことはなんとなく知っていた。この前、ケーブルテレビの洋画チャンネルで「ダークマン」という映画を見たのだが、これが面白い。

人工皮膚を研究する科学者がギャングに襲われ大火傷をし、焼けただれた無残な姿になってしまう。痛みを感じなくするため施された謎の医療技術の副作用により、なぜか彼は怪力を持ち、野性的な衝動に駆られる超人になってしまう。

そして、自らが開発した人工皮膚により作った人面マスクで、次々と他人になりすまし、ギャングたちへの執念の復讐がはじまる。

1990年制作のこの映画、SFXはもちろんちゃちで、B級テイストにあふれている。それでも演出のテンポは抜群で、ぐいぐい引き込まれる。なんといっても、主人公「ダークマン」の異様な存在感が圧倒する。

顔を失った彼が、マスクで元の姿に成りすまし恋人とデートしながら、屈折した苦悩に陥る姿は、安部公房「他人の顔」の屈折した主人公を思い起こさせた。

ヤマ場のアクションシーンで、ヘリコプターから宙吊りにされて、高層ビル街を飛び回るダークマンの姿はまさにスパイダーマンそのもの。

思えば、メジャー作品であるスパイダーマンも変な映画なのだ。やたら苦悩する主人公。あまりかわいいとはおもえないヒロインの煩悶。ダークで粘着質の悪役。アメコミのB級テイスト。そんな奇妙なヒーロー映画の原点が、「ダークマン」にはある。

醜悪な顔をさらしマントを翻すダークマンは、ジョージ秋山の漫画「デロリンマン」のようでもある。

スパイダーマンが何か変だと思っていたB級趣味の人にはおすすめ。これ以上ネタバレしないよう書きませんが、ラストシーンはほんとにクールでグッと来ます。DVDレンタルされているかなあ。

スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー

ビルバオ・グッゲンハイム美術館














近所のシネコンで、見逃していた映画「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を観ることができた。フランク・ゲーリーは過激といえるほどの造形的冒険を生み出す現代建築家。彼と旧知の仲である監督シドニー・ポラックが、親密な目線でフランク・ゲーリーの作品や仕事をつづったドキュメンタリー映画だ。

スペインのバスク地方の都市ビルバオにある、ビルバオ・グッゲンハイム美術館の映像がなんと言っても鮮烈だ。この美術館、バルセロナのガウディの建築とともに、いつかは訪問したいと思っている。これはもう建築というよりも彫刻作品、巨大なオブジェと呼んだほうがいい。人口35万人の地方都市ビルバオに、この美術館のオープン後、年間100万人が訪れるようになったという。建築のあまりの存在感に、美術館としては美術作品のほうが負けてしまうという批判もあるとか。(ちなみに建物の前庭に六本木ヒルズと同じ作家の巨大グモがいる)

ダイナミックで有機的な造形を生み出すゲーリーの手法が、コンピューター・テクノロジーに裏打ちされながらも実にプリミティブなものであることを、この映画から知った。彼の設計の主要な作業は模型作りにある。助手とともにあれこれ部材の形状を思い描きながら、子供の工作のように、建物の原型を作り出す。様々なスケールでのスタディ模型を作りイメージが固まると、その模型の形状をコンピューターに取り込み、2次元の図面化の作業をするのだ。

ゲーリーは学生時代、はじめは美大で陶芸を学んでいたという。手仕事でイメージを形にしていく設計手法はそんな彼の経験の延長線上にあるのだ。テクノロジーの進歩により、彼の設計はより自由度を増していくが、根底にある躍動感は初期の作品から連なるゆるぎない個性に支えられている。

アナログな手法を土台に、テクノロジーをその実現の手段とする設計姿勢は、現代の先端的な建築家の仕事と比較すれば、旧世代のものとも言えるかもしれない。しかし、コルビュジエの作品が今でも生き生きと感じられるように、フランク・ゲーリーの建築の持つ生命力も、時代を超えた強い魅力を持っていると感じる。映画の中で、ベルリンにある自作の建築をいとおしげに見つめるゲーリーの姿が印象的だった。

デニス・ホッパーも自宅がゲーリーの設計だとか。映画でもコメントしていた。

ビルバオ・グッゲンハイム美術館公式サイト(建物画像多数あり)

天然コケッコー 山陰の情景

夏の山陰は2度旅したことがある。冬はどんよりとして荒れる日本海は、夏は青く静かで白い砂浜が美しい。夏の山陰には、私の理想の日本の情景がある。

天然コケッコーのロケ地は島根県の浜田市。とびきり美しい夏の浜辺のシーンだけで、この映画を見てよかったなあと思う。

主人公右田そよを演じる夏帆の通う学校は、小中学校あわせて6人だけの小さな学校。複式学級の授業が行われる。そこに東京からの転校生、大沢広海という少年が登場し小さな変化が起こる。広海はそよと同じ中学2年生。

夏からはじまった物語は、季節の移ろう懐かしい田舎の風景の中で、淡々と綴られる。お化け騒動、祭りの神楽、バレンタインデー、東京への修学旅行、そよたちの高校進学。なんということのない小さなエピソードの積み重なりが心地よい。それでも山下敦弘監督が「リンダリンダリンダ」で見せた、女子高生の日常のさりげなさの描写に比べると、作り物感は強いのだけれど。

無意識のうちに他人を傷つける言動をしてしまい思い悩む、そよの小さな心理の葛藤がとても自然に描かれている。そよと広海の、お互いに心を寄せながら恋までには至らない微妙な距離感がいい。(その割には、そよはあっけらかんと広海にチューしたりするのだけれど)

そよを演じる夏帆は、なまりもかわいらしく、しみじみと田舎の女の子を感じさせる。自分のことを「わし」と呼び、「〜じゃろ」、「〜じゃあ」という語尾の方言がいい。私は個人的に西日本の方言が一番好きなのだ。たんに田舎の女の子というだけでなく、繊細なところもあり、いまどきの女の子らしい大胆さもあり、そよの微妙なキャラクターを夏帆は自然に表現している。アイドル映画になってしまわない夏帆の演技は予想以上だった。

スクール水着に短パン姿や、高校の制服の丈の短いスカートなど、夏帆ファンのロリコンな人たちへのサービスショットも欠かさない。

主題歌のくるりは「リアリズムの宿」でも起用されていたが、作品との一体感は「リアリズムの宿」のほうが上だったな。そういえば「リアリズムの宿」は冬の山陰が舞台だった。山下敦弘もメジャー監督になりつつあるが、山陰的なマイナーさを失わないでいてほしいと思う。

山陰の情景の美しさと、田舎の少女の夏帆。いい映画でした。

天然コケッコー

ろくでなし

ろくでなし






















京都木屋町にアングラなジャズ・バー、「JAZZ IN ろくでなし」がある。数年前初めて訪れ、先日の京都旅行では二晩続けて通った。ある雑誌のコピーによれば「店そのものがフリージャズ」。マスターの横田さんに、「今、東京でわたしの出てる映画やってるんですよ」と教えられ、本郷のトウキョー・ワンダー・サイトに出かけた。

マスターの横田さんの店での姿、自宅でごろごろする姿、なじみの飲み屋にでかける姿を監督の園部典子が密着して追いかける。筋立てらしいものはない、淡々とした日常のドキュメンタリー。

「ろくでなし」に集まる常連さんは相当の曲者ばかりなのだが、横田さんもただものではなかった。若いころは若松孝二監督のプロダクションに関わり、ヒッピーのような放浪生活の中で京都の街に惹かれ、バーで働き始め、自分の店を持つにいたったという。

なじみのバーで撮影するとき、演出プランをあれこれ考え監督に指示する姿に、この人は根っからの映画好きなんだなあと思う。飲みすぎて店も開けずに、監督に膝枕してうたたねする横田さん。「このまま5年眠ったら、俺も長生きするだろうね」

やっぱりマスターこそが「ろくでなし」だったんだなあ。

TWS加藤泉オブジェ加藤泉ペインティング






ギャラリーでは、先日MOTアニュアルで印象に残った、加藤泉の木彫オブジェとペインティングが展示されていた。プリミティブで幼児のような、妖怪のような不思議な存在感。「ろくでなし」のおかげで思わぬおまけがもらえた。

tokyo wonder site

2006年 私のお気に入り 映画

■映画
・時をかける少女(細田守)
爽やかで切ない夏の別れを描いた秀作アニメ。タイムトラベルものならではのストーリーの意外な展開と、ヒロインのはつらつとしたキャラクターが素晴らしかった。旧作の主人公芳山和子が叔母役で登場するが、彼女の勤務先が東京国立博物館をモデルにしていて、背景の描き込みがリアルだった。

・かもめ食堂(荻上直子)
フィンランドの街角で食堂を経営する日本人女性小林聡美と、謎の旅行者片桐はいり、もたいまさこ等の日常を淡々と描いた映画だが、事件らしい事件が何も起こらない、のんびりしたテンポが心地よい。優しく、たおやかで、ユーモアのある小林聡美の演技はさすが。名女優に代表作がひとつ加わった。

・フラガール(李相日)
フラブームへの便乗、南海キャンディーズのしずちゃんによる話題づくりなど、あざとい印象を受けるが、作品はストレートで骨太な娯楽作。蒼井優がかわいく、迫真のダンスが力強かった。CGで再現された炭坑町の風景に感動!

・マインドゲーム(湯浅政明)
DVDを入手して鑑賞。ストーリーらしいストーリーもなく、アニメーションのパワーで見るものを惹きこんでいく。アート・アニメーションになるぎりぎりのラインで娯楽を貫く潔さ。ラストは、わけがわからないのに精神が高揚してくるパワフルな作品。山本精一の音楽がいっそうの感動を誘う。


今年もあいかわらず邦画中心に見たが、アニメの魅力を再発見。シュヴァンクマイエルの「ルナシー」もいかれていた。

シュヴァンクマイエルのルナシー

シアター・イメージ・フォーラムで「ルナシー」を観た。チェコのアニメ作家ヤン・シュヴァンクマイエルの長編劇映画だが、随所に彼のアニメーションのカットが挿入される。精神病院の看護士に拘束される悪夢に悩む青年が、侯爵と名乗る奇怪な男に出会い、神を冒涜するような所業を覗き見し、やがて精神病院に入院して、騒動に巻き込まれる。

精神病院で自由放任の治療をする偽の院長と、拘束・体罰を信条にする本当の院長、可憐な被害者のようでいて、性の快楽をむさぼる色情狂のナース。いったい何が正しいことなのか、誰が本当に狂っているのか、観ているものを撹乱するような不思議な怪作だ。

肉片が踊ったり、舌のかたまりがのたうったり、脳髄がはいずったり、挿入されるアニメーションは、グロテスクだがユーモラス。シュヴァンクマイエル独特の世界を見せてくれる。短編「肉片の恋」を思い出した。

精神医療への風刺としてはかなりどぎつく、裸の女性患者に絵の具を投げつけ、塗りたくるアートセラピー(芸術療法)を揶揄したシーンは強烈だった。アウトサイダーアートを美化して語ることへの痛烈な批判を感じた。全身にタールを塗られ羽毛をびっしり貼り付けられた「鶏男」のイメージも印象的だ。

ただ、アニメーションの使い方がイメージ映像的で、本編の物語と有機的に絡み合っていなかったのが物足りなかったところ。昨年、葉山の神奈川県立近代美術館で観た長編作品「悦楽共犯者」のようにアニメーションが物語を侵食して、登場するオブジェに生命が吹き込まれるような面白さには欠けていた。

この映画が上映されていることを気づかせてくれたうっちーさんに感謝。

ヤン・シュヴァンクマイエルの食卓

虹の女神 

渋谷のアミューズCQNで「虹の女神」を観た。いきなりヒロイン上野樹里の飛行機事故死のニュースが序盤に出てきて、そのあと物語は学生時代の彼女のことを描いていく。

今まで様々な役柄を演じてきた上野樹里。グウタラな女子高生・平凡な主婦・フツーの女子大生・変態音大生など、どの役も自然にそのキャラクターになり切っていたが、今回の自主制作映画を監督する、映画研究会の女の子というのは今までで一番クセのある役どころだったのではないだろうか。

男勝りで、飾り気がなく、気が強いのだが、ダメ男に恋してしまい、自分の気持ちを素直に伝えられない不器用な女の子。大学の文科系サークルにいたよなあという、こういう中性的な女子というのは個人的にも好みなので、この上野樹里にはいつもにもまして感情移入できた。

目の不自由な妹役の蒼井優も、はんなりとして優しくて、姉の上野樹里とは対照的な魅力を見せていた。


ただ、物語が主演2人の恋の話に終始してしまい、映画研究会という舞台設定がそれほど生きていなかったのが物足りない点。サマータイムマシン・ブルースの中で描かれたような、大学のサークルというある意味閉鎖的な世界の中にいる者のみがかもし出す特有のノリのようなものが、この映画では感じられなかったのだ。サークル仲間の中でわいわいやりながらリーダーシップを発揮するヒロインの姿が描かれていたならば、上野樹里の魅力がもっとはじけた映画になっていただろう。叙情的に映像美を求めるこの映画の方向性には、かみ合わなかったのかもしれないが。

映画の中で、ヒロインが監督したという設定の自主制作映画「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」の劇中劇としての扱い方は効果的で、フィルムのゆらぎのある映像が印象的だった。ヒロインの運命とシンクロするそのラストシーンにははっとさせられた。自分が死んだあとも作品として映像が残る。それが短い人生を終えたヒロインに与えられたひとつの希望のように感じられ、「虹の女神」を作ったスタッフの想いとして伝わってきた。

島ノ唄 しまおまほトークショー

UPLINK X詩人、吉増剛造が沖縄や奄美の島々を巡りはじめて20年が過ぎたという。「島ノ唄」は島を巡り、詩を作り、島の人々と交歓する吉増の姿を追いかけるロードムービー。「島ノ唄」の「唄」はいわゆるシマウタだけを指すのではなく、島旅からインスピレーションを受けた吉増の現代詩の数々も朗読される。

吉増は、いつも古いフィルムカメラを片手に旅するのだが、吉増剛造というレンズのフィルターを通して見ると、奄美の何気ないうらぶれた商店街の路地が、たとえようもなく詩的な輝きを見せるから不思議だ。曇天のもとの海の眺めにも、じっとりとした亜熱帯の空気が感じられる。

映画の中に作家島尾敏雄の未亡人ミホさんが登場するのだが、映画のあと、孫娘である、しまおまほさんのトークショーがあった。対談相手は、作家石川淳の孫で世界各地を旅する冒険家の石川直樹氏。文芸系孫同士ののんびりした対談だった。

監督の伊藤憲氏の、「普通詩人の人は詩を書くときだけ詩人になるけれど、吉増さんは24時間ずっと詩人なんです」という言葉が印象的だった。

まほさんは、黒いタートルネックのセーターにジーンズ、スニーカーとラフなスタイルだったが、結構大人っぽい感じ。この前28歳になったそうだが、くりくりというかぎょろりとした力のあるまなざしがやはり素敵だった。胸が意外に大きくてつい見つめてしまった。「UPLINK X」は30人も入ればいっぱいになるような小さな劇場で、いつかは本人を見てみたかったまほさんも目の前にいる感じで、もう幸せとしか言いようがない。彼女の口からは、悪石島の奇祭が諸星大二郎の世界のようだとか、奄美はDR.スランプのペンギン村のような田舎だとか、さすが女子高生ゴリコの作者らしい発言もあって、不思議な魅力のある女の子だなあと思わせた。

地味だったけど、じわじわと感動のしまおまほ体験だった。

しまおまほしまおまほウェブサイト

フラガール CGのズリ山

しずちゃん人形渋谷のアミューズCQN李相日監督の「フラガール」を見る。常磐炭鉱斜陽化の復興策として開発された、常磐ハワイアンセンター(現在のハワイアンズ)誕生までの物語。炭鉱が舞台で、蒼井優ちゃんが主演とあっては見に行くしかない。

蒼井優は炭住(炭鉱長屋)で母と炭坑夫の兄(豊川悦司)と暮らす高校生。友だちに誘われ、ハワイアンセンター設立のためのフラダンサー募集に応募しダンスの特訓を始める。東京から連れられてきた指導係のプロダンサー(松雪泰子)はいきなり二日酔いのワイルドな女。彼女が吐き出す吐瀉物(つまりゲロ)までリアルに描く李相日の演出はさすが。村上龍原作の「69」で脱糞シーンをストレートに描いた李監督らしい。この映画予告編を見たときには、ほのぼのした人情コメディーの印象だったのだが、骨太で粗野なパワーのあるパンチの効いた演出で、痛快に笑える作品だった。

舞台となる福島県いわきの方言の泥臭さも印象的。女の子たちは自分のことを「オレ」といい、炭鉱(ヤマ)の男たちは、粗野で無骨。豊川悦司もワイルドだ。

岩井俊二の「花とアリス」で見事なバレーを舞った蒼井優は、この映画でもその才能を発揮した。最初は盆踊りのようなダンスしかできない炭坑娘たちが、特訓の末ラストシーンで晴れの舞台を踏む。リーダーの蒼井優のソロダンスは力強くダイナミックで、映画にかけた彼女の意気込みが伝わってくる。

出演が話題になった南海キャンディーズのしずちゃんも、独特の存在感で笑わせる。映画館のエントランスにはなんと彼女の等身大人形が飾られていた。

かつての炭鉱町をあちこち旅してきた私にとっては、CG合成されたズリ山と鉱業所の煙突、ズラリと並んだ炭住街の風景がなんといってもツボだった。炭鉱町をCGで見られる映画が作られるなんて思いもしなかった。

ほのぼのぬるめの映画だと思って見に行くと、その熱い爽快さにやられます。

ペ・ドゥナちゃんの新作映画

あいかわらずペ・ドゥナちゃんの映画を観ている。

テレビでやっていた「TUBE」は、元特殊部隊工作員のテロリストが地下鉄をジャックし、はぐれものの刑事が執拗に対決するというアクション物。ペ・ドゥナちゃんの役は刑事に恋する女スリ。テロリストに殴られたりハードな芝居もしている。日本語吹き替えを録画してしまったので、彼女の声を楽しめなかった。彼女の魅力のかなりの部分が、あの低めの声でのぶっきらぼうなセリフまわしにあることを再認識した。

DVDで観た「子猫をお願い」は社会にでたばかりの若い女の子たちの友情を描いた群像劇。日本だったら、昔の深津絵里が出ていそうなテイストの映画だ。ドゥナちゃんは実家のサウナを手伝いながらぷらぷらしているのだが、仲間たちのムードメーカーで、いい加減なようでいて友情に厚い女の子を好演。ナチュラルな演技で、ふてくされた顔も、笑顔も生き生きと表現している。特典映像のインタビューで答えていたが、この映画はいろいろな役をこなす彼女にとっても一番素に近い役柄だったという。地味だけれども、韓国の普通の女の子たちの青春をリアルに描いた秀作だと思う。

彼女の最新作「グエムル 漢江の怪物」は、今までの出演作とはうって変わっていわゆるモンスター・パニック物らしい。ジャージ姿のドゥナちゃんがアーチェリーで怪物をやっつけるそうで、弓を引く勇ましい姿に往年の薬師丸ひろ子の「里見八犬伝」を思い出してしまった。

はたしてこの映画で、ドゥナちゃん日本大ブレイクなるか?

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プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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