中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

トマソン

『かくも長き不在』





採集地 東京

正体不明





採集地 横浜

『Chair In The Sky』





採集地 横浜

配管の記憶





採集地 横浜

『ヘブンズ・ドア』





採集地 横浜

そういえば9周年 中年とオブジェ








そういえば、今年9月でこのブログ「中年とオブジェ」9周年を迎えたのであった。毎年、9月23日という開設の日付でエントリを重ねていたのだが、今年はすっかり忘れていた。

ここのところ、美術展鑑賞や旅行がなかなかできない事情があるので、自分の写真アーカイブから画像を選んではタイトルをひねり出すという作業が中心になっているのだが、撮影した記憶も忘れていた画像に当時の心のひっかかりを蘇らせたり、改めて自分の撮った対象について調べてみたり。

今回の画像は友人宅の近く、三鷹にある跨線橋なのだが昭和4年に造られた歴史ある橋梁なのだと、撮影数年後にして知った。かの太宰治も渡ったという場所で、玉川上水もこの橋の近くなのである。

赤瀬川原平が、街の無用の長物的物件についての本、「超芸術トマソン」を出版したのは1985年。これが後に路上観察学会の生みの親のひとつとなった。その序文は次のようなフレーズで始まる。

東京に幽霊がでる。トマソンという幽霊である。

霊能者が幽霊を幻視するように都市の中に無意識の造形物を感受する能力は、一般に古ぼけた時間の堆積した場所で発揮されることが多いだろう。古い建造物の持つひずみやほころびは、人の無意識領域に作用する磁場を発生させる。

その磁場に引き寄せられるコンパスを、なるべく自在に無意識に働かせ路上を歩く。そんな散歩を続けていきたい。

純粋煙突のある風景





採集地 長崎(崎戸)

緑化純粋煙突





採集地 長崎(崎戸)

あけましておめでとうございます

流浪のブログ、「中年とオブジェ」。昔から読み継いでいただいている皆様にはお分かりのように、近年のメインコンテンツは「路上観察」写真へとシフトしております。美術や食べ物について語るのも良いけれど、稚拙でもよいから自分なりの発見・表現をすることへのささやかなあこがれから始めたのですが、いかがなものでしょう?

昨年のマイ・ベスト観察の画像をお贈りして、新年のご挨拶に代えさせていただきます!
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

白昼夢



朝帰りの日の私鉄車両内の人の気配の消えた瞬間。


吉祥寺のグルスキー



グルスキー展鑑賞のすぐあとだっただけに印象的。


バラック浄土



タイトルは建築家石山修武氏の著書名から引用しました。


草間彌生のオブセッション



近所の公園にて。怖かった。


ストレートフラッシュ



タイトルは目撃時に瞬時にひらめいた。


パウルクレーの壁



住宅街に現れたアートな光景。

中年とオブジェ8周年 ブログと炭坑とトマソンと



北海道 砂川炭鉱

ブログと炭坑とトマソンと

1987年 九州の筑豊・崎戸、北海道の夕張の炭鉱を初めて訪れる。
2001年 ドイツのルール地方の炭鉱をめぐる旅をする。
2002年 「ドイツ産業遺産ツアー〜炭鉱の立坑櫓を求めて〜」をホームページにまとめる。
2005年 ブログ「中年とオブジェ〜魅惑のモノを求めて〜」をスタート。
2008年 川俣正[通路](東京都現代美術館)で、コールマイン・ラボと出会う。
2009年 ‘文化’資源としての<炭鉱>展(目黒区美術館)で講座・夜の美術館大学に通う。
2011年 川俣正の北海道インプログレス・三笠プロジェクトの賛助会員になる。
2013年 坑夫・山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現(原爆の図丸木美術館)鑑賞。

今年で8周年を迎えた「中年とオブジェ」
このブログのそもそものきっかけとなったのは、2001年に旅をしたドイツの炭鉱についてレポートするために友人と立ち上げたホームページである。それを機にweb活動に興味を持ち、自分の身の回りにあるオブジェの数々を紹介することからブログがスタートした。アートブログにシフトし、旅日記にはまり、居酒屋など食い物記事に注力し、紆余曲折を経て現在に至るのだが、折に触れて「炭坑」との関わりを継続してもきた。

私にとっての「炭坑」とは、何の目的の建造物だか分からない不思議な炭坑遺構、巨大な無用の廃墟、失われた街の残滓。いわば大規模な「超芸術トマソン」との出会いに他ならなかった。

ここしばらくのブログ記事は大半が路上観察の写真のアップに終始している。「炭坑」という、私にとっての「トマソン」の起源をさかのぼり原点に回帰しているともいえるかもしれない。

先日、ある元学芸員の方から「最近の中年とオブジェ、写真ばかりだね。文章書くの、疲れちゃったの?」との言葉をいただいた。美術をテーマに、鑑賞体験を自分の言葉に置換することは、しんどいけれども楽しい。ただ、観てきたモノをレポートするだけではない「置換」ができたときの面白さ。

それは、最近シフトしてきた路上観察の写真を見て、スパンとタイトルの「言葉」が想起されたときの快感にも通じている。それは、言い換えれば「見立て」の快感。私はマンホールの分類そのものに興味があるのではなく、マンホールというモノが、まったく別の次元の何かに結びついていく想念のねじれ自体に関心があるのだ。

そんな私にとって「炭坑」というテーマも、どこまで行っても深まらない、自分自身を宙吊りにする対象なのだ。炭坑の本質は私にとっては「石炭」なのではなく、地の底に穿たれた坑道の暗い闇そのものなのであろう。無意識の闇を掘り進んで堆積される役に立たないズリ山。「中年とオブジェ」はそんな存在だ。

そんなズリ山にお付き合いいただいている読者の皆さんに、改めて御礼申し上げます!



ドイツ ツォルフェライン炭鉱

※ライブドアブログにHISTORY VIEWという新機能が加わりました。
「中年とオブジェ」開設以来のプレビューが画像付きで一覧できます。
よろしければ、お試しください。

中年とオブジェHISTORY VIEW

国立天文台三鷹の小宇宙

広大な緑に覆われた敷地の中に点在する
古ぼけた天体観測施設の数々。

第一赤道儀室

太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)

大赤道儀室

レプソルド子午儀室

ゴーチェ子午環

自動光電子午環

子午線標


天文の知識のない私には
詩の中に出てくる不思議な造語のように感じられる謎めいた名称の建物が
まるで星座の星が点々と連なるように散在している。

こうした建築物を、意味をはぎ取られたオブジェのように眺めていると
かつて旧産炭地で訳も分からずに炭鉱の産業遺産に心ひかれたときの
あの感覚を思い起こす。

炭鉱の廃墟と超芸術トマソンの関係が、この天文台にも結びついてくる。














ゴールデンウィークのさなかにも訪れる人まばらな
静かで緩やかな時間の流れる場所であった。

国立天文台三鷹
多くの文化財指定も受けている、遠い未来の思い出に浸るような世界だ。言い知れぬ宇宙の場末感。


路上の植物園















採集地 横浜

『超人ハルク』





採集地 藤沢

無用の看板





採集地 鎌倉

古道具、その行き先 ―坂田和實の40年―






白井晟一設計の渋谷区立松濤美術館は、どこか内閉的で胎内を思わせる有機性を帯びた建物である。ここの展示室には、日常から我々を隔絶し作品と対峙させる独特の空気が感じられる。

「古道具、その行き先」展の会場には、ひと言では名状しがたいが明らかにある種の「美術展」、しかもコンテンポラリーなものの気が支配していた。壁の古布は抽象絵画に見え、様々な残欠は現代彫刻に見え、骨董のテーブル上に配された古道具はひとつのインスタレーションをなし、紙封筒やコーヒー用ネル布がミニマルに並べられている。

私は骨董の世界には門外漢なのだが、数寄者たちはモノに対してそれ自体の価値を越えた「美」を見立てることに長けているのだろう。それはちょうど、街角に佇む無用の長物の物件を「超芸術トマソン」として愛でる路上観察者の目線と同質のものなのではないだろうか?作ることではなく見ることで表現者になってしまった赤瀬川原平のように。

美術館に展示されると、なぜかつての生活の品だったモノがたんなる美術品を越え「現代美術」のように見えるのだろうか。このことは現在多くのアートプロジェクトで行われている廃屋での現代美術の展示と相関しているにちがいない。かつて生活の場であった廃屋が、現代美術作品を展示されると「美術館」になってしまうこと。展示されるモノが古道具や古典絵画だったとしたら、廃屋は「美術館」には変容しないのだ。骨董屋の店内では、古道具が「現代美術」に変容しないように。

古道具からモノの意味を剥ぎ取り、モノに潜在する無意識に想像力をめぐらせることで成り立つ骨董の美意識。既存の「美術」の文脈からの脱却を企て、「美術」のもつ可能性の変革を試行する現代美術。古道具と美術館と現代美術をめぐり、まとまりなくループする思考。「古道具 その行き先」展は、私にはそんな印象を残す展覧会だった。

そういえば、松濤美術館の2階展示室に並ぶ大きな黒いソファの包みこまれるような座り心地のよさは、精神分析医のアイテムであるカウチソファを思わせるではないか。古道具に潜在する無意識に耳を傾けよ、とでもいうように。

※11月25日で会期終了済

Before-After







採集地 横浜

トマソンの罠



「街のインテリア」




「塗り残された空間」


採集地 東京


今は無きアートスポット、佐賀町エキジビットスペース内藤礼の個展を鑑賞した帰り道。彼女のインスタレーションに感覚が刺激され、街なかの風景がみな意味ありげに見えてきた。

バス停に並んだ舞台装置のような椅子。周囲を空気に塗りつぶされ、塗り残されたかのような再開発地のビル。

超芸術トマソンは、こんな風に自身のココロが異界へ入りかけているときに、ふっと路上にその幽霊のような姿を見せる。赤瀬川原平が、前衛芸術探求の果てにたどり着いたアートの果てのアート。ココロをいつでも異界へとコントロールできるなら、もう美術館はいらないかもしれない。美術鑑賞はその術を身につける為のひとつの修行の場なんだな。

長崎1987






これらは広島を思い出します。原爆タイプという名前をつければ、あまりにもエグイでしょうか。原爆の日に、広島市内の銀行の石段に坐っていた人の影がそのまま焼きついていた。あれです。あれと同じ原理です。この建物の影が、そのまま人間存在の影のようです。

赤瀬川原平「超芸術トマソン」

1987年長崎を旅したとき、街角で出会った「原爆タイプ」。被爆地長崎で目にすると、なんともいえず胸に迫るものがあった。

8月9日に寄せて、長崎の記憶。


長崎県の島原には、平和祈念像の作者である彫刻家北村西望の作品を集めた「西望記念館」がある。島原城の天守閣の内外に彫刻が多数展示された珍しい美術館。中でも日蓮上人坐像は迫力。

島原城公式サイトはこちら

黄色は注意!









採集地 尾道
     
     鞆の浦
     
     京都

牛のようなもの

牛のようなもの

古道具屋で、骨董市で、旅先で、ネットオークションで、いろいろなオブジェと出会う。私が自分のものにしたいと感じるオブジェにはどんな基準があるのか。おぼろげだが考えてみる。

■手作り感があること
私が手に入れるのはアートコレクターの範疇にはないものなので、いわゆる一点ものはほとんど無い。それでも、作った人の手仕事が感じられるモノにひかれる傾向は強い。海外の民芸品なども、実際には量産体制で作られているのだろうが、木・焼き物・石など素材の質感とちょっといびつな品質に魅力を感じて手にすることが多い。したがって一般的なフィギュアにはあまり興味が無い。

■役に立たないこと
私の集めているものなど、ひとの目にはガラクタであり無用の長物である。本来機能美が求められる食器などでも、沖縄の壷屋焼のコーヒーカップなど、ぼてっとして目的をはみ出た「過剰性」のある器が好きだ。部屋のインテリアを引き立てるための小物の域を超えて家中に散在するオブジェたちは、役に立つお洒落さも持ち合わせていない。赤瀬川原平は、街の中の無用の長物的物件を「超芸術トマソン」と命名したが、我が家のオブジェたちも私の無意識下の欲動が顕在化した「無用の用」のために存在しているのかもしれない。

■ナンダカよくわからないこと
岡本太郎に言わせれば「何だこれは!」と了解不能な「べらぼうなもの」にこそ感動があるという。私の集めるオブジェたちにも、ひとめ見て「美しい」とか「かわいい」と感じるモノはほとんど無い。むしろ仮面や、仏像から原爆ドームのミニチュアにいたるまで「念」がこもっていて不気味な感じのするモノが多い。言葉に置き換えられないナンダカよくわからない力の存在。水木しげるはニューギニアの精霊たちのオブジェをコレクションしている。横尾忠則は涅槃像とか瀧のポストカードとかY字路の写真とか、テーマを絞り込んで集中的にコレクションをするようだ。私のオブジェの集め方は雑駁で、コレクションと呼べるような代物ではないのだが、ナンダカよくわからないことに熱がはいってしまう点は彼らに通じる感覚があるのだ。

今回紹介するオブジェ、「牛のようなもの」はこれらの条件にあてはまる奇妙な彫刻。近所のリサイクルショップで出会った。作品名も作者も不明だが、腹部には「JAPAN」と印字されている。もちろんひとめ惚れであった。
プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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