中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

内藤礼

鎌倉近美の内藤礼





採集地 鎌倉(神奈川県立近代美術館)

内藤礼個展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」2009年
内藤礼の仕事は、「世界」を壊すことなく「世界」を再構築する作業であると思う。
中年とオブジェ(2009.11.30)

椿会展2013初心




資生堂ギャラリーで「椿会展2013初心」を観た。

赤瀬川原平は「初心」にかえって、大きな千円札作品。ピンボケで撮影して大きくプリントしているので、ぼんやりと像を結ばない。克明なタッチで千円札を模写してしまった自分自身の遠い過去の残像のようであり、考古遺物の残欠のようでもあり。藤森照信設計の赤瀬川自邸「ニラハウス」に合わせ、手持ちの椅子とテーブルの表面を荒く剥いだという家具も出品されている。元祖千円札作品のぼんやりした残像と、ざっくりと自然体の現在の日常の断片である家具に、赤瀬川原平という作家の熱く若き日と、静かで泰然自若とした現在を想い、何ともいえぬ親密な気分になる。

畠山直哉は、今回は陸前高田の風景からは離れた作品。旅先のシックなホテルの部屋の断片を切り取った静かな連作。そして、まるで赤瀬川のような路上観察の作品も。路上にチョークで書かれた古今の哲学者・思想家の名前がびっしり。いったい何者が何を思って書いたのか。ユーモラスで深遠な謎に満ちた写真だ。世界の片隅に向けた畠山のまなざしに、「写真」を撮ることの面白さを改めて思う。

青木陵子の「人と動物」シリーズも、不思議にひきこまれた。鉛筆・ボールペンでかぼそく、うっすら描かれた馬や犬やリス。そしてその動物によく似た人間たち。動物と人間の境界があいまいになり、「擬動物化」された人間たちはヴァンパイヤのように両義性を帯びたもの悲しさを感じさせた。

内藤礼はやはりギャラリーではしっくりこないのだなあ。ましてやグループ展では存在感がない。彼女のそぎ落とされた、微細でかすかな世界は、そのための特別な場所でなければ魅力を顕現させない。仏像をお寺のお堂で拝観することのように、内藤礼の作品は聖域のなかで味わうことを観るものに要求する。そういえば、今回出品されている小さな「ひと」は、まるで小さな念持仏のような霊性を感じさせた。

展示は6月23日(日)まで
椿会展、今回はグループとしての求心力はさして感じられなかったが、予期せざる作品にも出会えた。
トークイベントを体調不良で欠席されたという赤瀬川原平翁のことが、心配である。





トマソンの罠



「街のインテリア」




「塗り残された空間」


採集地 東京


今は無きアートスポット、佐賀町エキジビットスペース内藤礼の個展を鑑賞した帰り道。彼女のインスタレーションに感覚が刺激され、街なかの風景がみな意味ありげに見えてきた。

バス停に並んだ舞台装置のような椅子。周囲を空気に塗りつぶされ、塗り残されたかのような再開発地のビル。

超芸術トマソンは、こんな風に自身のココロが異界へ入りかけているときに、ふっと路上にその幽霊のような姿を見せる。赤瀬川原平が、前衛芸術探求の果てにたどり着いたアートの果てのアート。ココロをいつでも異界へとコントロールできるなら、もう美術館はいらないかもしれない。美術鑑賞はその術を身につける為のひとつの修行の場なんだな。

2009年 私のお気に入り アート

川俣正


私が2009年に観た展覧会等のベスト10です。例年同様、明確なランキングは表示しませんが、特に思い入れの強いものには☆マークします。

☆‘文化’資源としての<炭鉱>展(目黒区美術館)
夜の美術館大学コールマイン・アート学科
‘文化’資源としての<炭鉱>展
岡部昌生のユウバリマトリックス
写真に見る炭鉱
私と炭鉱

☆阿修羅展(東京国立博物館)
阿修羅展に急げ!
阿修羅が家にやってきた
ずっと阿修羅が好きだった

内藤礼「すべての動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」(神奈川県立近代美術館 鎌倉館)

塩田千春「流れる水」 (発電所美術館)

やなぎみわ「マイ・グランドマザーズ」 (東京都写真美術館)

野口里佳「光」(国立新美術館)

富山妙子「アジアを抱いて―富山妙子の全仕事展1950―2009」 (越後妻有アートトリエンナーレ)及び映画「はじけ鳳仙花」(ポレポレ東中野:映像の中の炭坑)

西野達「バレたらどうする」 (アラタニウラノ)

村田朋泰「2」(GALLERY MoMo Ryogoku)

牧島如鳩展(三鷹市美術ギャラリー)

次点
ヤノベケンジ「ウルトラ」(豊田市美術館)

爆心地の記憶 丸木位里・俊の「原爆の図」(桐蔭学園メモリアルアカデミウムソフォスホール)

私自身が長い間コミットしてきたテーマということで炭鉱展阿修羅展については当然ながらエントリを重ねました。炭鉱展の「夜の美術館大学」では、講師や受講生と飲み会に突入することも度々。まさに「目黒炭鉱祭」でした。

女性アーティストが☆マークの大半を占めましたが、共通するのは心の深い部分に言葉では尽くせない感興を与えてもらったことです。村田朋泰さんもその意味でランクイン。

富山妙子牧島如鳩という未知だった作家との出会いも印象に残ります。富山妙子の制作風景のドキュメンタリーと、作品を静止画で演出構成したアートフィルムの要素をあわせ持つ映画「はじけ鳳仙花」は、貴重な上映でした。

西野達ヤノベケンジの暴力性もやはり魅力ありです。

画像は、川俣正コールマイン・プロジェクトの図録の予約特典の炭鉱住宅マケット。このチープさ、薄っぺらさは、炭坑町の持っていた儚さ、まるで仮設的な繁栄の記憶とどこかつながっているのかなあ。

内藤礼 神奈川県立近代美術館 鎌倉

近代美術館鎌倉


鎌倉の駅を降りて、鶴岡八幡のいかにも観光地然とした参道をしばらく進んで左に折れると、そこに県立の近代美術館がある。その庭へ一歩足を踏み入れるたびに、ぼくは自分を取り巻く一切のものがガラリと姿を変えるような気がしてならない。その瞬間、ぼくは自分が『一つの完結した世界』に立っているのだ、という気持ちに襲われるのである。われわれがモンクを聴いているとき受ける感じが、ちょうどそれと似ているのではないだろうか。モンクの音楽もまた、それ自身で完結した一つの世界を構成しているのである。
「モダン・ジャズ鑑賞」相倉久人

鎌倉近美で今年行われた「坂倉準三展」のレビューの時にもこの文章を引用した。内藤礼の今回の個展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」は、この『一つの完結した世界』を舞台にしてこそ成立可能な空間を創り出している。直島の「きんざ」、発電所美術館、横浜トリエンナーレ三渓園の茶室でもそうだった。内藤礼の作品を鑑賞することは、展示物と響きあった空間そのものを隅々まで見つめ、深く沈潜する体験をもたらす。

作品自体は、微細で最小限の、はかなさを感じる素材である。水の入った小さなガラス瓶、ビーズ、ボタン、布、ほのかな電飾・・・

京都聚楽第の自邸の庭に、利休は朝顔を植えた。当時は珍しい花で、そのたくさん咲き乱れた姿が見事だと評判になった。その噂が秀吉の耳に伝わり、わしにもぜひ見せてくれということになる。いよいよ秀吉公お成りという朝、利休は庭の朝顔を全部摘み取る。そして一輪だけをお茶室に飾るのである。
「千利休 無言の前衛」赤瀬川原平

鎌倉近美という茶室に招かれた私たちの体験するものは、秀吉にとっての一輪の朝顔にも等しい。

メキシコの建築家ルイス・バラガンの自邸について、中村好文はこんなことを書いている。

この住宅には各所に聖母子像やキリストなど宗教画や宗教彫刻がたくさん飾られていますから、宗教的な雰囲気がその絵画や彫刻からもたらされるのは当然ですが、バラガン好みの現代絵画や、金色や銀色のガラス玉やビンなどのお気に入りのモノたちも、バラガンの手で注意深く飾られると、たちまち神聖な祭壇的ムードを醸し出すのでした。
分かりやすく言えば、部屋という部屋はことごとく「チャペル」のような、日本風にいえば「仏間」のような様相を帯びて来るのです。
「続・住宅巡礼」中村好文

ガランとした鎌倉近美に感じた「聖域性」は、私の頭の中でバラガン邸にも連想の糸をつなげていくのであった。


内藤礼の仕事は、「世界」を壊すことなく「世界」を再構築する作業であると思う。


※人数の制限される体験型の展示もあります。美術館という空間ならではの、しかし普通はありえない体験。平日でも紅葉にごったがえす鎌倉ですが、美術館の中は静かな別世界でした。

パラレル・ワールド―もうひとつの世界

パラレルワールド東京都現代美術館「パラレル・ワールド―もうひとつの世界」を観た。内藤礼がインスタレーションを出品するというのがお目当てで出かけたのだが、日仏の作家10人の多彩な作品を楽しむことができた。本展のキュレーターでもあるユーグ・レプは1964年生まれのフランス人。都現美2階の小スペースには彼が蒐集したシュールで奇妙な図像や古書の挿画が展示されていた。

僕たちは常に今まであった何かの上に何かをつくり上げてきた。現代のSFも、根源は最初期の随筆や寓話に求められるかも知れない。既に起源3世紀には想像の世界の物語が存在していた。

そうした想像の世界の連続性の上に、この展覧会の作品も位置していると彼は語る。3階の展示室で最初に出迎えるユーグ・レプの「エデン」。荒涼とした異世界のような背景の前に、巨大に拡大された植物や鉱物のパネルが並んでいる。たしかにSF的。身体感覚の変容を感じさせられる。レプの作品は何点も出品されていたが、いずれも発想・表現ともにシンプルで、乾いたユーモアがある。2点の映像作品は、まさに動くデカルコマニーというべきもので惹きこまれた。

内藤礼の「通路」というインスタレーションは、展示室内にしつらえられた箱型の空間で、内部を構成するのは、手摺・洗面台・コップ・天窓など。まるで映画撮影のセットを見ている様な、現実であって現実ではないような感覚に襲われる。しばらく中で佇んでいると、さっさと通り過ぎる人、じっと見つめる人など様々だが、ふっとひとりきりになった時、異空間に取り残されたような寂寥を感じる。

ダニエル・ギヨネの映像作品は、日常の風景の中に奇妙な生命体がうごめいていたり、人面のハトが現れたり、ありふれた世界を軽い手つきで異化するユーモアに満ちている。

着色した春雨で造ったミシェル・ブラジーの巨大なオブジェは、異星の生命体のようでやはりSF的。

名和晃平のPixCellシリーズは、ハラミュージアムアークで先日見ていたが、白い部屋の中に美しく構成された展示がより魅力を引き出していた。

この展覧会に通低して感じたのは、これは現代のシュールレアリズムだなということ。ロールシャッハ・テストの図像をモーフィング技術により変容させるマチュー・メルシエの作品が端的に示すように、無意識の発見・精神分析学から生まれてきたシュールレアリズムの連続線上にこの展覧会の表現は展開しているように思う。しかし、シュールレアリズムが誕生した時代にはまだ存在した確固たる現実・因習への執着が失われた現代、現実とシュールの境界線も曖昧になっている。無意識と現実という2項対立ではなく、無意識世界も現実世界もパラレルな世界を構成する一要素にすぎない。それが「パラレルワールド」なのではないだろうか。

現実を転覆させる、物語性のあるシュールから、軽くシニカルで即物的なシュールへの転換。ユーグ・レプの作品には特にそんな表現を印象づけられた。

パラレルワールド展サイト

※常設展も今充実しています。「明日の神話」がなくなったのは寂しいけれど、ヤノベケンジが廃車を再生して作った巨大な「ロッキング・マンモス」がドカンと置かれ、なんとその上には甲冑を着たミッキーマウス型ガスマスクの「M・ザ・ナイト」が載っています。小林孝亘の「私たちを夢見る夢」も美しい大作。

内藤礼「母型」展@発電所美術館

発電所美術館光の館の十日町・発電所美術館の入善(にゅうぜん)、両駅に停まる数少ない特急列車の1本に乗り入善へ移動。さびしい小さな駅前からタクシーで10分ほどの発電所美術館へ向かう。

周囲は富山に典型的な散居村集落で、田園の中にポツリポツリと防風林に囲まれた家々が点在する。

発電所美術館は取り壊し予定だった古いレンガ壁の水力発電所をリノベーションした美術館で、開館は1995年。その存在は以前から気になっていたのだが、何しろ辺鄙な所在なので訪れる機会がなかった。

しかし昨年、秋から冬にかけて内藤礼「母型」展という個展が企画されていると知り、このチャンスに旅することにしたのだ。

「母型」展は究極のストイックなインスタレーションだった。画像は普段の発電所美術館の内部を写したもので、奥にタービンや計器類が並ぶほかは、ガランとした空間が広がっているが、今回の展覧会場の風景、ほとんどこの画像のまま。そう、何もないのだ。

会場内では靴を脱ぐように指定があって、冷たい床の感触をじかに感じる。私はどうせならばと靴下も脱いで素足になってみた。冬の凛とした空気がはりつめた空間に身体が溶け込んでいく。

まず、気がつくのは中2階になったフロアに展示された美しい青い写真の連作「母型」。そして会場の数箇所に小さな水のたまった場所があることがわかる。天井からしたたり落ちる水滴が集まっているのだ。このタイトルも「母型」。フロアの隅に置かれた椅子に腰掛け、静かな空間にしばし佇む。

しかし、この他の作品が見つからない。やがて天井や窓の並んだ壁を見上げていて、中空にはり渡された細い糸が、数本光を受けているのを捉えることが出来た。これが「恩寵」。床のどこかにペンで描かれているらしい「世界に秘密を送り返す」という作品は、とうとう見つけることができなかった。作品が見つからない美術展。こんな体験初めてだ。

「母型」展を鑑賞する者は、結果的にこの発電所の遺構である空間を隅々まで味わい、そこに流れる歴史に包み込まれることになる。発電所美術館という特異な場の持つ力を、これほどまでに繊細な手つきで引き出して見せた内藤礼。

アートと場の静かで美しい出会いがそこにあった。

発電所美術館1発電所美術館2発電所美術館3






発電所美術館に併設されていたというレストランは、廃業していた。裏手の高台からの遠望は雄大で、かつての導水管の造形が面白い。寂しい入善の町で「玉貴」という居酒屋を見つけて、ランチタイムの刺身定食を食った。なかなかの美味。そして富山市へと、旅は続いたのである。

発電所美術館HP

2007年最後のアート道楽ツアー

光の館富山県の入善町にある、水力発電所跡をリノベーションした美術館、「発電所美術館」のことは前から気になっていた。内藤礼「母型」という企画展をこの秋からやっていると知り、はるばる訪れるならこの機会と思い立ち今年最後のアート道楽ツアーに出発した。

上越新幹線・ほくほく線経由のルート上にある新潟県十日町のジェームズ・タレルの「光の館」にも宿泊。この時季は天候に恵まれないことは覚悟で訪れたのだが、幸運にも夕暮れのライト・プログラムは体験することができた。夜明けは残念ながら雨のため屋根を開放できず。「光の館」は宿泊する和室の天井の屋根がぽっかりオープンするのである!まさにアート作品そのものに宿泊できるスポット。積りはじめの雪景色も美しかった。

発電所美術館は、入善という小さな駅からタクシーで10分ほどの田園風景の中にあり、内藤礼のインスタレーションは究極のストイックさ。直島の「きんざ」をさらに超えて一見なにもない空間の中に、微細な「もの」を発見していく体験をした。この美術館を訪れる過程そのものが一種の「巡礼」のような世界であった。しかし併設されているレストランは廃業しており、先行きは心配な美術館だ。

現代美術のコレクションと瀧口修造の展示室で知られる富山県立近代美術館の常設展はうわさどおりの充実した内容だった。

夜は富山の居酒屋で地酒と冬の魚を味わい、友人Takaとふたりの忘年会旅行でもあった。富山に個性的なラーメンの老舗が多いことも知った。内藤礼の「母型」展は12月16日(日)まで。その後発電所美術館は冬季の休館期間を迎える。

以下、旅の行程の記録。

12月7日(金)

東京―越後湯沢―十日町

十日町ステージ「キナーレ」(原広司)
光の館宿泊(ジェームズ・タレル)

12月8日(土)

十日町―入善

発電所美術館「内藤礼 母型」展

入善―富山  

親爺(居酒屋)
あら川(居酒屋)
ジェリコの戦い(ジャズ・バー)
大喜(富山ブラックラーメン)

富山泊

12月9日(日)

富山県立近代美術館(常設展)
まるたかや(ラーメン)

富山―魚津

埋没林博物館・蜃気楼ハイビジョンシアター(天然記念物脱力スポット)
ありそドーム(巨大建築)
ねんじり亭(居酒屋)

魚津―越後湯沢―東京


今年ほど地方へアートツアーを重ねた年はかつて無い。高松・直島・京都・中之条・豊田・奈良・新潟・富山。今回はそんな1年の締めにふさわしい充実した旅となった。旅で飲む酒の旨さも忘れがたい。

光の館 発電所美術館 富山県立近代美術館
プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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