中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

廃墟

『火の鳥 未来編』





採集地 東京

軍艦島断章

軍艦島断章〜海上観光都市のスクラップ・ブック〜



 
■上野英信「地の底の笑い話」(注1) 1967年
九州の西海岸に面した長崎県から佐賀県にかけて数多くの海底炭鉱が散在しているが、そのなかでもとりわけ古くから名の知られているのは、なんといっても「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ガ島」と歌われてきた三つの離れ島の炭鉱であろう。高島は船で長崎港から約六十分、端島はさらにそれより十五分あまり、崎戸は佐世保港より約九十分ばかりの距離にあり、三つながら長く三菱鉱業の独占的な経営下におかれて、いずれ劣らぬ圧制ヤマとして「鬼ガ島」「監獄島」の恐怖を独占した炭鉱である。
 
○ 我々がはじめて訪れたのは崎戸だった。その後高島から端島を遠望。のちに上陸にいたった。
 
■洲之内徹「さらば気まぐれ美術館」(注2) 予告編・軍艦島 1988年
若手写真家の雜賀雄二君の、軍艦島を撮った写真集(注3)が近く新潮社から出るはずで、その写真集に私は文章を書くことになっているのだ。二月(昭和六十一年)に、私が雜賀君と軍艦島へ行ったのもそのためである。
ところで、軍艦島とはどういうところかを簡単に説明するために、とりあえず、長崎の県営ユースホステルの掲示板に貼ってあった手書きの解説の文章を、そのままここへ転用させてもらうことにしよう(原文は横書き)。
 
  軍艦島(端島:はしま)
面積0.1k屐〆嚢眦澄ヽと苅苅m 石炭採掘は明治初年天草の人によって始められ、ついで佐賀藩主鍋島氏の手に、そして明治23年三菱の経営となる。
石炭は高カロリーの良質瀝青炭で、最高時には年産約25万tに達した。島の1/3がその住宅、残りの1/3が小、中学校、校庭などで、学校、商店、社寺、病院、劇場、温室、社交クラブなど整っていた事でも有名。
人口 5058人(1965年)
1974年1月閉山。石炭増産ではなやかな灯を点じていた島もいまや、たんなる巨大なコンクリートの塊として無気味に横たわっているのみである。
 
  (中略)いずれにしても、このユースホステルに泊まり、この解説を読んで島へ行ってみようとする旅行者は皆無だろうから、多少の不備や不正確さがあっても一向に差支ない。だいいち、いまや孤島と化したこの島へは、行きたくても交通の便がない。

○ 「行ってみようとする旅行者は皆無だろうから」とは当時のはなし。廃墟ブームの今、状況は激変した。
 
■毛綱毅曠「不知詠人 詠み人知らずのデザイン」(注4)集積都市のチン没 1993年
軍艦島。その要塞のような語感は、メカニックな未来都市と坑夫たちが蝟集する盛り場の印象が折り重なって、たとえば、スラムやダウンタウンに覆いかぶさるように未来都市が積層された映画「ブレード・ランナー」のような都市迷宮の情景を彷彿とさせるのではないか。
もともと、海あるいは空に隔てられた浮島には、ユートピア、逆ユートピアとに限らず、ある種の異界願望がつきまとう。
 
○香港で潜入した解体前の九龍城砦も、「ブレード・ランナー」の世界そのものだった。
 
■AC公共広告機構 軍艦島TVコマーシャル(注5) 1983年
「軍艦島 60」

島は宝島だった。
石炭が見つかって、人々がやってきた。
人々が働いた。
周囲1.2kmの島が町になった。
4000人もの暮らしがあった。
子供たちが生まれた。
大きく育った。
1年、10年、30年…。
石炭をほりつくした時、人々がいなくなった。
暮らしがなくなった。
資源とともに島が死んだ。
ちょうど84年目だった。
私たちもいま、資源のない島、日本に住んでいる。

いつも考えていたい私たちの資源。
 
○2000年GW、島で会った何人かの人は、このCMで軍艦島を知ったのだと話していた。
 
■CinemaScape−映画批評空間−(注6) 「純」 横山博人監督 1980年 (注7)
★4  軍艦島が出てくるだけでいい。それと朝加真由美も好きだったなあ。
    (おーい粗茶コメント)(注8)

○TVの深夜映画で見た「純」がテツの軍艦島体験の原点のひとつだ。
 
■奈良原一高「人間の土地」(注9) 緑なき島 ISLAND WITHOUT GREEN 1987年
それでも端島っ子たちは祖父母の代から゛世界一住み良いところ″と教えられて育った。たしかに、ここにはひとつの国、ひとつの惑星のように完結した運命共同体の世界がある。(中略)病院、郵便局、日替り2本立映画を上映する劇場をはじめ娯楽センター、公民館、プール、マーケット、共同浴場と何でもひと通りは揃っている。しかし、たったひとつだけ欠けているものがある、それは墓地だ。端島神社と泉福寺はあっても、死者たちは船で運ばれて、沖合の無人島・中ノ島で焼かれる。
 
○いまや、端島のアパート群そのものが巨大な墓標であるかのようだ。
 


   
■端島の思い出を語ろう Takaとテツ 2002年
テツ 「俺たちがはじめて軍艦島を見たのは1987年だったね」
Taka 「長崎からフェリーで高島に渡ったとき、近くに見えたんだ」
テツ 「それで翌年についに上陸したんだよね。俺は参加できなかったんだけど」
Taka 「釣り人に混じって、小さな漁船で渡ったんだ。朝早いんで前の晩は港の小屋で寝かせてくれたよ」
テツ 「誰かほかに、端島見にきてる人はいた?」
Taka 「3泊4日すごしたけど、島の中では1人か2人見かけたかな。よく覚えてない」
テツ 「その頃から、スプレーのイタズラ書きとかはあったの?」
Taka 「けっこうあったよ。島のあちこちに。俺とべろ蔵とムッツの3人で手分けしてアパートの部屋を回ったんだけど、島に住んでいた人たちの書き残し(注10)も壁なんかにあった」
テツ 「そのあとムッツとふたりでまた行ったよね」
Taka 「いちおう、初回に見られなかったところを全部まわりたくてすぐに行った。1989年だな」
テツ 「それで2000年のGWに、ようやく俺もはじめて上陸して、Takaに案内してもらった」
Taka 「でも10年ぶりに行ってみると本当に荒廃が進んだなっていう感じ」
テツ 「映画館なんか、原形がわからないほど壊れていたし」
Taka 「なんといっても、あの廃墟ファンの多さには驚いたね」
 
2000年GWのさなか、夜明け前に釣り人と一緒に漁船に乗り、端島に上陸。昼過ぎまで、島の中をひと巡りした。学校の校庭跡にもどってくると、なにやらマネキンのようなものを校舎に運び込む人が。三脚には大判カメラ。アート系写真でも撮る気だろう。堤防の上を歩いているのは女の子2人・男3人の若いグループ。手に手にカメラを持っている。校庭の片隅の青いテントからは、坊主刈りの青年がぬっと顔を出した。ひとりで何泊かしているのだという。「もうすることなくなっちゃいましたよ。今日はにぎやかですね」と彼。そのあとも、海上タクシーでハンディービデオを持ったふたり連れがやってきたり、キャンプ生活のため水・食料を搬入する者がいたり。

「軍艦島 海上産業都市に住む」(注11)という本があるけれど、これではいまや「海上観光都市」ではないか。むろん我々もその一員。自分たちのことを棚に上げて物を言ってはいけないけれど・・・。
船寄せになっている岸壁の下では、さっきの坊主刈りの青年がパンツ一丁になって泳いでいた。
 
 
2001年11月21日、端島はそれまでの所有者三菱マテリアル社から高島町へ無償譲渡された。高島町が、三菱所有地として最後に残っていた端島の譲渡を要請したためだ。豊田定光町長は「交流人口の増加を目指した整備に道筋がつき、端島を含めた町の観光施策の将来を見据えて取得した。建築学的に貴重との声もあり、世界遺産への登録申請も考えている」と話したという。
 
ドイツでは、ルール工業地帯にある「ツォルフェライン炭鉱」(注12)の跡が、産業遺産として保存・再生され見学者を集めている。Takaとテツは2001年夏、その様子をこの目で見てきた。その後「ツォルフェライン炭鉱」はついに世界遺産として認定された。2001年12月のことだ。端島を世界遺産にというアイデアは、決して絵空事ではない。 
 
たしかに、技術的・資金的・保全上など困難な問題は多いだろう。だが、端島に上陸するのが正当で安全な行為となる日がくるのを期待したい。10年後、20年後の端島の姿を定点観測するためにも。うち捨てられたままに、朽ち果てていく端島をひっそりみつめたいという気持ちも心の一方にはあるのだけれど。
 
■洲之内徹「風の島」(注13)
雜賀雄二写真集 軍艦島 棄てられた島の風景所収 1986年
彼は岸壁に打寄せる大波も撮りたいし、一方、荒廃したアパートの室内に打捨てられて風化している物を撮ろうとしている。彼には一種の哲学があって、物はその用途で見られなくなったとき物そのものになる、物はその用途で人間に隷属し、人間に支配されているが、用途を持たなくなることでその隷属から脱して自由になる、酒の瓶はもはや酒の瓶ではなく、ただそこに在ってそういう形をした物、本来の、つまり、その物に返っている、物は棄てられたその瞬間から、死という別の時間の中で新しく生き始めるのだ、と彼は言う。
 
○文中の「彼」とは雜賀雄二のこと。その写真はまさにこの「哲学」を体現している。

 
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注)  
(1) 上野英信:記録文学作家(1923〜87)。京都大学支那文学科を中退。筑豊・崎戸などで炭鉱労働者として働いた後、作家に。閉山した炭鉱の長屋(社宅)に住み「筑豊文庫」の看板を掲げる。最底辺に生きる中小炭鉱の人々の姿を伝えた。「追われゆく坑夫たち」「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」「写真万葉録筑豊」など著書多数。
「上野教」と呼ぶ人がいる。一回会うだけで、その人を「信者」にしてしまうのだ。そういった一種のカリスマ性が、上野さんには、確かにあった。
西日本新聞社文化部「上野英信 人・仕事・時代」

2) 洲之内徹「さらば気まぐれ美術館」:芸術新潮に連載された文章をまとめた本。洲之内徹(1913〜87)は美術評論家・小説家・画廊経営。プロレタリア運動に参加し刑務所に収監されたこともある気骨の人。その文章の味わいは、深く、どこか飄々としている。

(3) 軍艦島を撮った写真集:「軍艦島 棄てられた島の風景」1986年発行。雜賀雄二撮影。閉山後の軍艦島の風景を濃密な映像で切り取る。ながらく絶版となっていたが、新潮社から淡交社へ出版元を変え2003年3月復刊された。

(4) 毛綱毅曠「不知詠人 詠み人知らずのデザイン」:毛綱毅曠(1941〜2001)はDNA2重螺旋や風水思想を取り入れた独自の建築理論で知られる建築家。チベットの僧院、中国の集落、ドイツの戦争遺産など世界の建造物を旅した本書には彼独自の選択眼が見られる。軍艦島の空撮写真を掲載している。

(5) AC公共広告機構 軍艦島TVコマーシャル:エネルギー資源問題を問いかけた公共広告。閉山後の廃墟化した島内の映像が、短いながらも印象的。このCMを軍艦島体験の原点とする人は多いようだ。 

(6) CinemaScape−映画批評空間−
映画のコメントがいかなるコメンテーターによって語られているか?「映画ごとに」誰がどういう評価(コメントと採点)をしているか?と同時に「コメンテーターごとに」どういう映画にどういう評価をしているか?を知ることで、映画の批評が立体的に浮かび上がるように出来ている。4000人(近くいるらしい)のコメンテーターが語る、映画批評サイトの決定版。

(7) 「純」:主人公(江藤潤)は漫画家を夢見る機械整備工。彼が墓参りに訪れる廃墟となった故郷軍艦島の映像が鮮烈。現代音楽家一柳彗の音楽もいい。

(8) おーい粗茶:前述シネマスケープ・コメンテーター。「★4」とは五つ星評価で星四つということ。 「時計じかけのオレンジ」「戦国自衛隊」などのレビューが秀逸。
あの黒澤が「撮らされている」ような三船の圧倒的な存在感。この作品の仕上がりは「映画は監督のもの」と思っていたであろう黒澤監督のある意味「敗北宣言」。(黒沢明「酔いどれ天使」)


(9) 奈良原一高「人間の土地」 緑なき島:閉山前の端島の姿が力強く描かれた写真集。溶岩に埋没した、黒神村(桜島)の写真「火の山の麓」も併録。

(10) 島に住んでいた人たちの書き残し:離島に際して書かれたものと、閉山後島を再訪した時のものに大別できるのだろうが、その区別がさだかにできないものもある。
 
此の島に二度と渡ることは
    ないと思うが
       軍艦島よその姿
          いつまできれいにね (原文のまま記載)


(11) 「軍艦島 海上産業都市に住む」伊藤千行(写真)、阿久井喜孝(文):端島が現役だった昭和30年代の写真多数掲載。端島の暮らしが伝わってくる。建築家の視点から語られる建造物群の解説も興味深い。

(12) ツォルフェライン炭鉱:本ホームページ「ドイツ産業遺産ツアー」を参照

(13) 洲之内徹「風の島」:「軍艦島 棄てられた島の風景」の巻末に収録された文章。モダン・ジャズを聞くつもりでラジカセを軍艦島へ持っていった洲之内は雜賀雄二の提案で島を充たす様々な物音を録音した。その物音を天幕の中で、ドラムだ、シンバルだ、フルートだと面白がって聞いたふたりだったが、やがてその死の世界の音に凄まじさを感じる。
そうなんだ。あれは風の島なのだ。あそこで起こっていることはすべて風と係わりがある。あそこで演じられているのは風のドラマだ。―四月のある晩、私はふた月前に軍艦島で、自分で録音してきたカセット・テープを聞いていてそう思った。



■本エントリは、友人と制作したホームページ「観光」の中のコンテンツ「鉱山観光」に掲載した「軍艦島断章」を一部修正し再構成したものです。10年以上前に、半ば冗談で名づけた「海上観光都市」という言葉がいまや現実のものとなってしまったことに、不思議な感慨を覚えます。





採集地 長崎(池島)

『建築の黙示録』







採集地 横浜



SNOWY the frosty hour 萩原義弘写真展



 もう20年以上前の事だが、今でも昨日のことのように思い出す事がある。厳冬の下北半島を旅しながら撮影していて、突然の地吹雪に遭った。東京暮らしの私には歩くのも困難で、咄嗟に目前にあった廃工場に逃げ込んだ。廃工場は長く使われていない様子で、窓ガラスはなくなり壁はコンクリートがむき出しの状態だった。壁の上の方まで雪がこびりつき、建物内は外と変わらないくらい寒く、まるで巨大な冷凍庫の中にいるような感じだった。建物内を見回すと、ひび割れた床の僅かな土から若木が生えていた。何年もかけやっと成長したのだろう若木は雪に覆われ、時々風で揺れていた。また、機材搬入用だろうか、額縁のように見える大きな入口から、吹雪の中に立つ樹形の良い木が見えた。それらの光景はとても美しく、私は寒さを忘れて夢中でシャッターを切っていた。東京に帰り調べてみると、そこは戦時中に砂鉄を製錬していた工場だった。
 この時の体験が、忘れかけていた冬の夕張での撮影のことを思い出させた。炭鉱マンの黒い顔と対照的だった白い雪に覆われた炭鉱の風景。そんな炭鉱のイメージが再び現れた。そして、その冬から「SNOWY」の撮影が始まった。
 かつて人々で賑わった炭鉱や鉱山跡は、閉山し年月が経つと、草木が生え自然に還っていく。冬場、スノーシューを履いて、美しい白銀の世界をひたすら歩き、撮影場所に辿り着く。そこで思いがけない雪の光景が私を出迎えてくれる。自然と時間が作りだす造形は、時には美味しそうな砂糖菓子の様であったり、また得体の知れない生き物の様に見えたりする。そんな不思議な造形に、感動したり驚かされたりして、しばらく写真を撮るのを忘れてしまうこともある。
 冬場の天気は変わりやすい。夜、月明りで撮影していると、急に曇ったり、雪が降ってきたりする。長時間露光の間に目まぐるしく変わる気象条件も加わり、それが1枚の作品となる。遠くからシカやフクロウの鳴き声が聞こえ、時にはキツネやタヌキが近くを歩いているのに気が付く。そして、自分自身の存在自体が自然と一体化していくように感じられる。
 被写体と対峙していると施設の跡や主のいない炭鉱住宅が賑やかだった頃が脳裏に浮かんでは消えていく。私は、炭鉱や鉱山跡を廃墟だとは思っていない。人々が去り、たとえ朽ち果てようとしていても、そこには人々の存在が残っていると思う。人の記憶は次第に薄れ、やがてなくなってしまうだろう。しかし、撮影し作品化することで、少しでもその記憶や存在を留めることができるのではないだろうか。そして、日本の近代化や戦後復興に貢献してきた産業の証として後世に伝えることができると思う。
 春の訪れと共に消え去る一冬限りの風変わりな光景。私が撮影しなければ、もう二度と見ることができない風景でもある。

                                                 萩原義弘






炭鉱・鉱山跡の写真を撮り続けている写真家、萩原義弘さんの個展が始まった。今回は雪に埋もれた廃坑をテーマにした「SNOWY」シリーズの展示。写真集「SNOWY the frosty hour」の出版記念の写真展である。雪の白、白い日差し、月明かり、光る星、炭坑・鉱山遺構のグレートーン。モノクロームの画面には朽ちていく人工物の時間の堆積と、自然の見せる移ろいゆく時間が重層している。クローズアップで切り取られた抽象的な作品から、廃坑の構造物を俯瞰した構築的な作品まで。静かな世界だが、雪のふっくらしたフォルムが何か生命のような魂のようなものの存在を感じさせる。

萩原氏の言葉に「炭鉱や鉱山跡を廃墟だとは思っていない。人々が去り、たとえ朽ち果てようとしていても、そこには人々の存在が残っていると思う」とあるが、雪という事象を介在させることによりここには「廃墟」とか「産業遺産」といった言葉では表現できない、深い作家のまなざしが浮かび上がっている。

【会期】2014年10月3日(金)〜10月25日(土)
11:00〜19:00
    日曜・月曜・祝日休館
【会場】ギャラリー冬青
東京都中野区中央5-18-20
TEL: 03-3380-7123 FAX: 03-3380-7121

※作家の許可を得て会場・作品の撮影と掲載をしています。

SNOWY〈2〉The Frosty Hour
萩原 義弘
冬青社
2014-10

開店待ち





採集地 長崎(池島)

ジャングルジム





採集地 北海道(三笠プロジェクト)

自転車型タイムマシン





採集地 東京

純粋煙突のある風景





採集地 長崎(崎戸)

『漂流教室』





採集地 長崎(崎戸)

ジブリの森





採集地 東京


国立天文台三鷹の小宇宙

広大な緑に覆われた敷地の中に点在する
古ぼけた天体観測施設の数々。

第一赤道儀室

太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)

大赤道儀室

レプソルド子午儀室

ゴーチェ子午環

自動光電子午環

子午線標


天文の知識のない私には
詩の中に出てくる不思議な造語のように感じられる謎めいた名称の建物が
まるで星座の星が点々と連なるように散在している。

こうした建築物を、意味をはぎ取られたオブジェのように眺めていると
かつて旧産炭地で訳も分からずに炭鉱の産業遺産に心ひかれたときの
あの感覚を思い起こす。

炭鉱の廃墟と超芸術トマソンの関係が、この天文台にも結びついてくる。














ゴールデンウィークのさなかにも訪れる人まばらな
静かで緩やかな時間の流れる場所であった。

国立天文台三鷹
多くの文化財指定も受けている、遠い未来の思い出に浸るような世界だ。言い知れぬ宇宙の場末感。


喫茶店あいてます





採集地 水戸

「営業中」





廃屋かと思いました。鎌倉の写真館。
採集地 鎌倉

羅生門







採集地 小浜(1986年)

重いコンダラ





アニメ「巨人の星」の主題歌に♪おもいこんだら試練の道をゆくが男のど根性♪という歌詞がある。「おもいこんだら」を「重いコンダラ」だと勘違いし、グラウンドを整備するこのコンクリート塊の名称を「コンダラ」だと思っていた。とかいうネタは、江口寿史の漫画だったろうか。

足尾銅山の廃墟を訪ねた旅の折、荒れた神社の境内で出会ったコンダラ。シュールであった。

追記:コンダラは「江口寿史の爆発ディナーショー」に収録。(2012.9.2)

夏の怪2









その昔、伊豆半島の山中に「大滝ランド」という宗教テーマパークの廃墟があった。本尊の不動明王。遊泳プールには恐竜の滑り台や象の頭の噴水。粗悪なコンクリート製の荒涼とした光景だった。

不動明王の胎内には地獄めぐりのジオラマがあった。あまりの禍々しさに画像のアップは控えることにしよう。

私の青空





横浜野毛の地下街の廃喫茶店を使ったインスタレーションより。
マグリットな感じ。(2008年撮影)

gas station








廃墟なガソリンスタンド


採集地 横浜

さよなら九段下ビル お別れ集団写真撮影










12月25日午後、解体工事が迫った九段下ビルをスペースにした最後の展覧会「さよなら九段下ビル」の参加者の呼びかけで、黒礼服を着用した集団写真撮影が行われた。撮影者は同展にも出品している桐生眞輔。カメラのポジションを移動しながら、通行人や通行車両の合間を縫って、寒空の中撮影は挙行された。

撮影された作品は、今後九段下アトリエブログにアップされるそうだ。

作品展示では、このビルのもつ特異な力をどう作品に関与させるかという点におのずと視線が向かう。かつてこのビルで行われた展示の際の名残で、九段下ビルの3階の床には砂が堆積している。この砂の上をホウキが回転し、砂上の足跡を消去し続ける機械が田中一平の作品。一見無駄な働きをするマシーンの動きを観ていると、時間感覚にずれが生じ、無意味の中から生成してくる軽くて深遠なユーモアが感じ取られる。九段下ビルの壁面の亀裂や剥落を忠実にトレースして拡大したという伯耆田卓助のドローイングも、この建築のもつ時間の堆積をすくいあげ作品表現に転化する試み。屋上にもオブジェがあるが、苔むしてひび割れた屋上テラスそのものが、何にもまして美しく感じられるのは九段下ビルならでは。この建築の細部に魅入ることのできる、感慨深い最後の展覧会だった。



※上の画像をクリックすると、九段下ビルの写真アルバムにリンクしてます。
プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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