中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

東京都現代美術館

都現美をまわって思ったことなど

ヤノベケンジビートたけしのコラボレーションによる新作巨大オブジェが登場ということで、期待と不安ない交ぜに久々の都現美へ。わたくし、ビートたけしのアートとの関わり方については積極的に嫌いである。自分の書き溜めた絵画作品で静かに個展やってるころはまだよかったけど。

ヤノベさん、こんな半端な仕事やらない方がいいよ。井戸の中から頭に斧のささったジャイアントトらやん頭部の縮小版みたいなのがひょろりと起き上がって、口からたらたら水がこぼれる……

はっきりいってトらやんファイヤーや、発電所美術館の大洪水、第五福竜丸や福島空港にサン・チャイルド設営した作家のやる仕事じゃあないでしょ。




MOTアニュアル2012「風が吹けば桶屋が儲かる」でグッときたのは、田村友一郎下道基行のふたり。

田村の美術館の所蔵品を利用しての美術展内美術展の企てもいいのだが、地下3階駐車場の闇の中に仮構された日本家屋の悪夢のような印象が今も心に残る。冥界めぐりのような儀式めいたマニュアルによるインスタレーション体験は、この場所の歴史の重層性に思いをめぐらしつつ遊戯性を帯びている。この家の表札や、口にくわえさせられる懐紙の意味は、自分で確かめるのがよいでしょう。ダクトの振動が伝わるのかカタカタと微震を繰り返す家屋の中に佇んでいると、現在と地続きの不安な気持ちを呼び起こされもしました。




台湾やサイパンに遺された日本統治時代の神社の象徴「鳥居」のある風景を写真で切り取った下道基行。鬱蒼とした茂みの中に佇立し、公園の中で倒れベンチのように人々に腰掛けられ、静かな写真がいっそうその場所に積み重なった時間の存在を伝えています。原爆を投下した爆撃機の出撃基地であったテニアンに遺された鳥居の写真には、なかでもズシリとしたインパクトを受けました。下道が各地の戦争遺跡を撮影した一冊「戦争のかたち」を、ミュージアムショップで買い求めました。


私自身、忘れられない鳥居のある風景があります。1980年代終わりごろ日本各地の旧炭坑町の廃墟を探し求めたときに、長崎の島の炭坑、崎戸でその鳥居に出会いました。町が消え去った荒れ野の中にぽつんと鳥居だけが遺されていたのです。






よく見ると奉献したのは「鮮人一同」。戦前戦中に建立されたものなのでしょう。


風桶展、全般には深い印象はありません。何も展示室に出品しない田中功起が「裸の王様」に感じられるのは、私のセンスが古いのでしょうね。


常設についても簡単に。展示室冒頭の鹿子木孟郎の関東大震災のスケッチ連作にはじまり、新海覚雄の労働者像がヘビーに展開。スタイリッシュな亀倉雄策のポスターのコーナーで「原子エネルギーを平和産業に!」と「Hiroshima Appearis」が対峙して展示されているのは圧巻でした。静かな中に、主張の込められた常設展になっていると思います。

「アートと音楽」?一応観ましたが特にいいたいことは……

トーマス・デマンド展 紙でできた世界。




旧来の写真家の多くは旅人であった。「そこ」にしかない被写体を求め各地をロケハンし、固有の風景・建築・人間・事件などをカメラに収める。光の条件を求めて長時間被写体と向き合ったり、偶然の一瞬を切り取る瞬発力に賭けたり。写真家は「何を」撮るか、被写体を見つけ出すこと自体に膨大な労力を費やし、彼の被写体に対する選択眼が作家の個性でもあった。

日常の光景を、無作為に撮影する写真家もいる。彼らは旧来の写真家とは大きく隔たっているように見えるが、やはり自分のカメラが発見した被写体という固有性のうちにある。


トーマス・デマンドにおいては、「何を」撮るかは、マスコミの報道写真・写真共有サイトの画像・YouTubeの動画などから検索される。ロケハンは、web上で容易になされ、誰もが目にしうる画像がモチーフに選ばれる。

デマンドの作品制作の膨大な労力が費やされるのはここからである。彼は選んだ画像を紙によって立体的に造形し、その「被写体」を再現する。そして、管理された照明のもとでカメラに収め、写真作品としてプリントするのである。

「被写体」を選ぶことにおける非身体性と、それに反比例して膨大な「被写体」を作りこむことにおける身体性。トーマス・デマンドの作品の与える倒錯性は、我々が普通にイメージする写真家の在り方とのこの大きな差異に由来しているのではないだろうか。そして、彼の作品制作のプロセスには、「写真家」とは何者なのかという根源的な問題を考えさせられるのである。

誰もが知っている名画や、有名人のポートレイトを引用し、自分自身がメイクしコスプレし手間暇かけて「被写体」を再現する森村泰昌。作品制作における倒錯性は、デマンドにとても近く感じられる。

デマンドが選択する画像の社会性・批評性も興味深いし、彼が再現するのが自分が見た「現実」ではなくすでに誰かの目を通した、時には防犯カメラの「画像」であることも重要な論点であろう。そしてなにより、彼の写真は空虚ではかなく美しい。


トーマス・デマンド。クールな変態。


東京都現代美術館
7月8日(日)まで

High Red Center





採集地 東京

フェルナンダ・タカイ Luz Negra Ao Vivo

Luz Negra Ao Vivo

今年はじめ、東京都現代美術館でブラジルの現代アート展「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」を観たのだが、そのときブラジルのミュージシャン、フェルナンダ・タカイのPVが上映されていて、彼女の知的な美しさにうっとりしてしまった。曲は「INSENSATEZ」(インセンサテス)。ハウ・インセンシティヴと英訳されているボサノヴァの静かな名曲。フェルナンダは、ロナウド・フラガというアーティストが作った紙のドレスを身にまとい、しっとりと抑制されたボーカルを聴かせていた。

Pato Fuというバンドのボーカルとして長いキャリアのある彼女が、ナラ・レオンのレパートリーを歌うソロ・アルバム「彼女の瞳が輝く処」に続き、そのライブ版のCD&DVD「Luz Negra Ao Vivo」を出した。ボーナス映像としてあの「INSENSATEZ」のPVも収録されていると知りさっそく入手。

PVはもちろんのこと、ライブのDVD映像がすごくいい。モノクロのシーンを織りまぜ、巧みなカメラワークで編集された映像は完成度が高く、美しい。そして、フェルナンダ・タカイのかわいいこと!タカイちゃんは「高井」さん。日系3世である。美人ながらも親しみのわく顔立ち。歌うときに見せるキュートでコミカルな身のこなし。私がアイドルに求める「かわいくて少し変」な魅力にあふれている。マリア・ヒタのようにグイグイ歌い上げるパワーは無いけれど、知的でセンスがよくてすっかりファンになってしまった。

最近、私のブラジル音楽熱も少し冷め気味で、またJAZZを聴くことが多くなってきたのだが、ボーカルだったらやはりブラジルの女の子に限るのだ。

森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展  

森山大道










東京都現代美術館で「ネオ・トロピカリア」と同時開催されている「森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展 共鳴する静かな眼差し」を観た。森山が撮ったサンパウロと、ブラジル人写真家ミゲルが捉えた東京。

大判に焼かれた森山のダークなモノクロ写真がびっしり並ぶ様は、サンパウロの街のカオスそのままのようだ。しかし、人物を写した写真が多いながら、どうもダイレクトに人々の息遣いが伝わってくることがない。「陽気で明るいブラジル人」などという記号を意図的に排除したのだろうか。しかし、街の喧騒の暗部にまで踏み込んだ写真かというと、そこまでは深くなく表層的。

どこか腰がひけている感じ、傍観者にとどまっている感じのする写真であった。

ミゲル・リオ=ブランコ











ミゲル・リオ=ブランコは、「異邦人の目線」を生かし、我々が見たことのない「東京」を提示してみせる。毒々しいまでに鮮やかなカラー写真をコラージュし、様々なモノの断片がつなぎ合わされる。トラック野郎のデコトラ・花・木・蛇・貝・マグロ・鍛冶場。ミゲルの目玉の神経を自分の脳に接続されてしまったかのように、エロスに満ち混沌とした物象が頭の中に飛び込んでくる。

ふたりの映像の上映コーナーもあったのだが、撮影風景の普通のドキュメンタリーである森山に対し、ミゲルの映像は撮影対象に生々しく迫り、錯綜したモンタージュに惹きこまれる「作品」であった。フリーキーなサックスのBGMも魅力的。

「共鳴する静かな眼差し」とサブタイトルにあるが、ミゲルの暴力的に貪欲な眼差しが独走している印象を受ける写真展であった。

初美術館はネオ・トロピカリア

ネオ・トロピカリア






















今年最初の美術展は、東京都現代美術館「ネオ・トロピカリア ブラジルの創造力」。1960年代から現在まで、アート・ファッション・建築など幅広くブラジルの文化を紹介する展覧会。「トロピカリア」といえば、ブラジル音楽の世界では1960年代のカエターノ・ヴェローゾ等の革新的な活動が知られているが、この展覧会でもブラジル音楽の魅力を取り入れた展示が多く観られた。

フェルナンダ・タカイエリオ・オイチシカの、若き日のカエターノ・ヴェローゾに赤いケープを着せた写真にドキリ。様々なデザインのケープを観客がまとい、ヘッドホンで音楽を聴き踊るという参加型の作品は、ブラジル音楽好きの私にはグッとくる選曲ばかり。

ドレスに自在なドローイングを描いたロナウド・フラガのコーナーでは、フェルナンダ・タカイが「ハウ・インセンシティブ」を歌っているモノクロの映像が投影されていた。ユニークなデザインの紙のドレスを着たフェルナンダが、知的でかわいいー!(左の画像は彼女のCDジャケットより)

アシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカスというユニットは、ワイヤレスのヘッドフォンで部屋のあちこちから何種類もの音楽をキャッチして、映像とともに楽しむという空間を構成。床のクッションに寝そべって、時間があればいくらでも楽しんでいられそうだ。

美術展としての限界なのかもしれないが、どうせやるならガンガン大音量で音楽を聴ける場も欲しかった。

色彩にあふれた通路をめぐった果てに黄色いマンゴージュースを飲むインスタレーション、古い町並みを鮮やかな色彩で再生させるプロジェクト、地震がないブラジルならではの華奢な構造が可能にした近未来的な建築など多彩な展示を楽しむことができたが、神の啓示を受けて作品を作り始めたというアルトゥール・ピスポ・ド・ホザリオの船のオブジェは強く印象に残った。もっと多くの作品を観てみたいアウトサイダー・アーティストだ。

エルネスト・ネトそして、圧巻なのがアトリウムの大空間を占拠したエルネスト・ネトのインスタレーション「リヴァイアサン・トト」だ。白い布に大量のビーズが包まれ有機的なフォルムを描いて天井から垂れ下がっている様は、未知の生命体の作り出した造形のようである。各階の通路から眺め、床に置かれたクッションに寝そべり見上げ、様々なアングルから楽しんだ。その大きさと重力から解き放たれたような浮遊感。これは、この大空間でこそ体感できる大作だ。

ブラジルのアートの多様性をその混淆のままに提示した「ネオ・トロピカリア」展。焦点が定まらない雑然とした多彩さが、ブラジル文化の豊穣さを伝えているのだろうな。

パラレル・ワールド―もうひとつの世界

パラレルワールド東京都現代美術館「パラレル・ワールド―もうひとつの世界」を観た。内藤礼がインスタレーションを出品するというのがお目当てで出かけたのだが、日仏の作家10人の多彩な作品を楽しむことができた。本展のキュレーターでもあるユーグ・レプは1964年生まれのフランス人。都現美2階の小スペースには彼が蒐集したシュールで奇妙な図像や古書の挿画が展示されていた。

僕たちは常に今まであった何かの上に何かをつくり上げてきた。現代のSFも、根源は最初期の随筆や寓話に求められるかも知れない。既に起源3世紀には想像の世界の物語が存在していた。

そうした想像の世界の連続性の上に、この展覧会の作品も位置していると彼は語る。3階の展示室で最初に出迎えるユーグ・レプの「エデン」。荒涼とした異世界のような背景の前に、巨大に拡大された植物や鉱物のパネルが並んでいる。たしかにSF的。身体感覚の変容を感じさせられる。レプの作品は何点も出品されていたが、いずれも発想・表現ともにシンプルで、乾いたユーモアがある。2点の映像作品は、まさに動くデカルコマニーというべきもので惹きこまれた。

内藤礼の「通路」というインスタレーションは、展示室内にしつらえられた箱型の空間で、内部を構成するのは、手摺・洗面台・コップ・天窓など。まるで映画撮影のセットを見ている様な、現実であって現実ではないような感覚に襲われる。しばらく中で佇んでいると、さっさと通り過ぎる人、じっと見つめる人など様々だが、ふっとひとりきりになった時、異空間に取り残されたような寂寥を感じる。

ダニエル・ギヨネの映像作品は、日常の風景の中に奇妙な生命体がうごめいていたり、人面のハトが現れたり、ありふれた世界を軽い手つきで異化するユーモアに満ちている。

着色した春雨で造ったミシェル・ブラジーの巨大なオブジェは、異星の生命体のようでやはりSF的。

名和晃平のPixCellシリーズは、ハラミュージアムアークで先日見ていたが、白い部屋の中に美しく構成された展示がより魅力を引き出していた。

この展覧会に通低して感じたのは、これは現代のシュールレアリズムだなということ。ロールシャッハ・テストの図像をモーフィング技術により変容させるマチュー・メルシエの作品が端的に示すように、無意識の発見・精神分析学から生まれてきたシュールレアリズムの連続線上にこの展覧会の表現は展開しているように思う。しかし、シュールレアリズムが誕生した時代にはまだ存在した確固たる現実・因習への執着が失われた現代、現実とシュールの境界線も曖昧になっている。無意識と現実という2項対立ではなく、無意識世界も現実世界もパラレルな世界を構成する一要素にすぎない。それが「パラレルワールド」なのではないだろうか。

現実を転覆させる、物語性のあるシュールから、軽くシニカルで即物的なシュールへの転換。ユーグ・レプの作品には特にそんな表現を印象づけられた。

パラレルワールド展サイト

※常設展も今充実しています。「明日の神話」がなくなったのは寂しいけれど、ヤノベケンジが廃車を再生して作った巨大な「ロッキング・マンモス」がドカンと置かれ、なんとその上には甲冑を着たミッキーマウス型ガスマスクの「M・ザ・ナイト」が載っています。小林孝亘の「私たちを夢見る夢」も美しい大作。

大岩オスカール 夢みる世界

ガーデニング(マンハッタン)










会期終了直前の土曜日、東京都現代美術館で、大岩オスカールの個展「夢みる世界」を観た。今までにも何点か作品を目にし、その大画面のエネルギーに惹かれていたのだが、サンパウロ・東京・ニューヨークと制作の拠点を移しながら生み出された作品群に取り囲まれると、その豊かな想像力に包み込まれる。

私が、彼の世界に感じた魅力は「都市の体温」。鮮やかな花のような爆煙が、ニューヨークの空中を覆いつくす「ガーデニング(マンハッタン)」のように、彼は多くの都市の姿を描いているが、その描写は、まるで都市そのものが生き物であるかのような感覚を与える。コンクリートで構築された建造物の小さな単位が、細胞のセルのように生成変化していくかのように見えるのだ。

近作、「総理大臣の悪夢」においては、増殖する都市は日本列島とのダブルイメージにまで拡大し、その混沌とした造形は、かつて香港にあった九龍城砦を思わせた。

逆柱いみり大岩オスカールの絵を観ていて私が連想したのが、逆柱いみりの漫画だった。香港の複雑怪奇なビルや、廃墟の島、軍艦島のような風景を生々しく描き込む逆柱の有機性と、下町の風景や重機、建築現場に、生命が吹き込まれたような大岩オスカールの表現に、「都市の体温」という共通項が感じられるのだ。逆柱の「都市」があくまでもアジア的混沌の範疇にとどまるのに対して、大岩の「都市」が彼の人生そのままに、よりワールドワイドな拡がりを見せている点は異なるのだが。

大岩オスカールの作品を語るのにもうひとつ明らかな特質はその大きさ。大学生時代に夏休みの教室をアトリエ代わりに制作した巨大な「クジラ」をはじめとして、大パネルの作品が並ぶ会場内には、大きいことの快感が満ちていた。インタビュー映像で語っていた、「美術館が大きくなり、大規模な展覧会をやるには、大きな作品が必要となる」という明快な答えには、アートマーケットを見据える大岩のしたたかさと同時に、なんとも大らかな気質が感じられた。

当日は、サイン会もあり、幼い娘さんも同席していた。オスカールさんは優しいまなざしをしているが、貪欲なパワーを内に秘めた印象を受けた。

カフェトーク 川俣正×高嶺格 

高嶺格(たかみねただす)は気になるアーティストだった。東京国立近代美術館の「連続と侵犯」展に出品された、2トンもの泥粘土を使った力業のアニメーション、「God bless America」。横浜美術館の「ノンセクトラディカル」展で公開直前にわいせつ性が問題になり会場封鎖となった、身障者への性的介護を扱ったビデオ、「木村さん」(作品は未見)。そして第2回横浜トリエンナーレで印象深かった詩情あふれるインスタレーション、「鹿児島エスペラント」。先鋭的パフォーマンス集団「ダムタイプ」にも所属したという多様な表現を続ける彼がどんな人物なのか興味があり、川俣正「通路」展のカフェ・トークにまた足を運んだ。

無頼派の作家という私の予想に反し、見た目は知的なやさ男。しかし、ユーモアを交えながら語る彼のアートへのこだわりはディープだ。(ベニヤのベンチの居心地が悪いとベンチの上で正座してトーク。川俣はあぐら!)

「鹿児島エスペラント」が、日本語と英語による表記を当然のスタンダードと要求する日本のアート界への疑問から発想され、彼の郷里の鹿児島弁とエスペラント語を作品で取り上げたという話になるほどと思う。

私が最も傾聴したのは、未聞だった京都のマンガン鉱山跡地でのプロジェクトの話。
高嶺が後に結婚する在日韓国人の女性と、鉱山跡で3ヶ月間生活したという。「在日の恋人」というプロジェクトだ。戦時中、朝鮮人強制連行の過去を持つこの鉱山に現在ある資料館(丹波マンガン記念館)の館長に交渉を重ね実現したという。この仕事のおかげで、恋人の両親も高嶺の「在日」への真摯な取り組みを認め、結婚も承諾されたとか。

高嶺の作品制作への取り組みについて聴くと、社会的な問題に関わるテーマの背景に、いつも彼自身のパーソナルな疑問・怒り・悩みなどが存在することが伝わってくる。

しかし、彼はそのような社会的メッセージは作品のきっかけであり、作品そのものが「回文のような」自生的なひとつの世界を形成することが大切なのだと言う。そうした作品を伝える「方法」を見つけ出したときに快感があるそうだ。続きを読む

MOTアニュアル2008

金氏徹平東京都現代美術館の毎年恒例のMOTアニュアル。毎年1人はとても気になる未知の作家に出会ってきた。2006年の町田久美や2007年の加藤泉など。しかし今年は残念ながら、私のお気に入りになるような作家との出会いはなかった。

今年のタイトルは「解きほぐすとき」

目の前にある物を一度ばらばらに解きほぐしてみると、その構造や裏側がみえてくることがあります。ばらばらになった断片の重みや手触りを確かめることは、その積み重ねとしての全体像をしることにもつながります。

まず今回はこのテーマ設定に明確なメッセージが感じられなかったし、5人の作家の作品世界も、テーマを伝える輪郭を結んでいない印象を持った。

そんな中で、金氏徹平の奇妙なオブジェや漫画の断片をコラージュしたような平面作品はユニークだった。流木や丸太、木のクラフトモデルなどを集積させた中に、ルーペや鏡、双眼鏡が組み込まれ、不思議な複眼的視覚を与え、あいまいな輪郭を生じさせる。しかしオブジェの制作にかける集中力、美意識の徹底といった魅力には欠けていた。榎忠のインスタレーションを見てしまった目で比べるとやはり粗雑。金氏の個性がその手抜きっぽい脱力感にあるとは認めるのだが。

手塚愛子は、古今東西の文様が混在する幅11メートルもの巨大なタペストリーで圧倒した。だが、織物の糸を部分的にほぐして半ば解体する過程を見せる諸作は、アイデアとしては面白いものの造形的な美しさはさほど喚起されなかった。

新しい個性に出会える場所として、毎年楽しみにしているMOTアニュアル。今年はちょっと期待はずれだったな。

サウンド・デリバリー@MOT

川俣正が総合ディレクターをつとめた第2回横浜トリエンナーレで、「サウンド・デリバリー」と名づけられた即興演奏の出前を続けた横浜のガンジーさん一派。今度は週末の東京都現代美術館、川俣正「通路」展に出没した。かくいう私もそのはしくれとして、サックスを吹かせていただいた。

会場内、大アトリウムに設置されたカフェの周辺で、サックス・クラリネット・エレピ・アコーディオン・チェロの音が響く。コンクリートとガラスに囲まれたこの空間、楽器の音が不思議なほどにリバーブする。小さいはずのクラリネットやチェロも実によく響く。

ベニヤ板の壁が入り組んだ不思議な会場空間の中で、浮遊する集団即興はなんとも面白いのだが、どうやら、同時開催中の別企画展の会場からクレームがついたとか。

大竹伸朗の「全景」展のときは、このアトリウムで作家本人によるノイジーな爆裂サウンドが響いて、痛快だったのになあ。全フロアで川俣正展だったら条件も違ったものになっただろうが、サウンド・デリバリーの今後の展開はまだ予測できない。

週末、都現美にいくと、不思議なサウンドに出会えるかも知れません。

川俣正 通路

川俣正 通路通路サンクンガーデン






東京都現代美術館で行われている川俣正「通路」。美術館を場としているが、これは「展覧会」ではないというべきか。美術館の周囲からすでに始まるベニヤ板の壁が、エントランスから展示室、サンクンガーデンにまで連なり、人の流れを作る通路を構成している。その中に川俣の過去のプロジェクトの写真や模型など、アーカイブの展示がなされているが、これらと並びあちこちに「ラボ」と呼ばれるサークルの部室のようなスペースが設置されている。そこでは、スタッフたちが展覧会の期間中、様々なテーマの研究・展示・ワークショップなどを現在進行形で実践しているのだ。

このアーカイブとラボの総体が、ワーク・イン・プログレスのアーティスト川俣の過去から現在を見せ、鑑賞者は、ラボのスタッフと能動的に関わっていくことで、この「通路」という場に自ら関与していくことが出来る。

地下2階のあの巨大なアトリウムには、コーヒーばかりかビールを飲むこともできるカフェがあり、会期中川俣正と多彩なジャンルのゲストとのカフェ・トークが企画されている。

さて、私はこの日「通路」で何をしてきたのか。そいういう形でしかこの「展覧会」は語りえないと思う。

どんなラボが活動しているのか詳細は公式ホームページの情報に任せるとして、私の関心は「コールマイン・ラボ」にあった。川俣は九州筑豊の田川というかつて炭坑で栄えた街を舞台にこの10年、「コールマイン田川」というプロジェクトに取り組んできた。炭坑のシンボル立坑櫓(たてこうやぐら)をイメージしたタワーの建設をプランニングしたり、強制連行の歴史に関わる韓国の炭坑町との交流を生む取り組みをしたり。実は川俣自身、北海道の奔別(ぽんべつ)という大きな炭坑町で育ち、父は炭坑労働者だったのだ。

志免立坑櫓コールマイン・ラボではそんな川俣のプロジェクトの資料の紹介のほかに、今も北海道に残る炭坑関連の遺構の写真・資料の展示等を行っている。日本に現存する最も不思議な造形の、九州の志免(しめ)の立坑櫓の模型の制作というユニークな企画も進行中だ。さらに、この日(2月16日)にはカフェ・トークのテーマもコールマイン・ラボ企画の「炭坑」だった。北海道で旧産炭地の記憶を呼び起こす独自の活動をリードされ、炭坑遺産の活用・活性化の先進例を持つドイツ・ルール地方の研究においても第一人者である、「まちづくりコーディネーター」吉岡宏高氏をトーク・ゲストに招いてのトークショー。吉岡さんとはネット上でのみの旧知の間柄だったのだが、1963年生まれで幌内炭坑で育った吉岡さんの、高校の10年先輩に当たるのが川俣なのだと初めて知った。

トークは川俣・吉岡両氏もカフェのビールを飲み、客席で我々もビールを飲みながらのまさにカフェ・トーク。吉岡氏が理事を務めるNPO炭鉱の記憶推進事業団の掲げる言葉は「歴史の中から未来が見える」なのだが、数十年の短い時代の中で、経済的・文化的な豊かさのにピークに達したのち急速に衰退し、少子化・高齢化・財政破綻といった問題に直面した炭坑の歴史は、未来の日本社会を予見する意義を持つのだと吉岡氏は指摘する。北海道の炭坑でアートプロジェクトに取り組んでくださいよとの言葉に、川俣が語った「アートで街興し」という風潮への批判的発言も痛快でラジカルだった。「美術は嗜好品であり、好きな人が関わればいいのだ」と川俣は述べ、「地元の人とアーティストがともに作品に関わり、現代美術の裾野が広がった」などという言辞の欺瞞を切って捨てた。

コールマイン・ポストカードトーク終了後、初対面となる吉岡さんとお話し、ラボのメンバーとも、アフターアワーズまで、ご一緒させていただいてしまった。炭坑遺産を紹介するポストカードや、グッズとして石炭の販売もしているというのは、大ヒットである。

今回のブログ記事、大変に私的な内容になったが、川俣正の「通路」を楽しむには、各人が何かしらのひっかかりを持って、自分からこの場に関わっていくことしかないような気がする。何か見つけることが出来るか、失望して終わるか。アーカイブの側面に接するだけで終わるのではもったいない。まずは、カフェ・トークなどで川俣正の生の言葉に触れることをおすすめします。

私の一押しはコールマイン・ラボ。今後の動きに注目してます。(繰り返し入場できるパスポート券があります)

コールマイン・ラボの公式ブログ

北海道産業遺産ツアー(拙サイト)

ドイツ産業遺産ツアー(拙サイト)

鉱山観光(拙サイト)

マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト

マルレーネ・デュマスこの展覧会はそれほど関心がなかったのだが、せっかくMOTまで来たので観てみることにした。南アフリカ出身の女性画家マルレーネ・デュマス(1953〜)の日本で初の個展だという。ラフなタッチで描かれた人物画がズラリと展示されている。MOTの広い空間を効果的に使い実にゆったりとした展示が魅力的だ。

代表作「女」はモノトーンの女たちの顔がびっしり並んだ連作で、集合体となった作品全体からパワーが伝わってくる。

荒木経惟の写真からインスピレーションを得たという「ブロークン・ホワイト」は、女の白い肌がなまめかしくエロティック。

関連展示されていた荒木の中年のおばちゃんばかりを撮影した連作は、強烈なアクの強さで、そのパワーにくらくらしそうになった。

しかし、今回は作品の多彩さ、「明日の神話」の迫力の前に、なんだか企画展のほうが影が薄い印象であった。

MOTコレクション 特集展示 闇の中で

死んだスイス人の資料広い展示空間を活用し、テーマを設定して行われる東京都現代美術館の常設展は、ちょっとした企画展並みの満足を味わえることがある。2006年度第4期にあたる特集展示「闇の中で in the darkness」も優れた常設展だった。

常設展示室3階フロアは照明が落とされ、暗い展示空間に作品が浮かび上がる。陶器や木片で月の満ち欠けを表現した土屋公雄のインスタレーション、アルミナという白い素材が闇の中に輝く静謐な伊藤公象の「アルミナのエロス(白い固体は・・・)」、草間彌生の「死の海を行く」は銀色の男根状のオブジェの集積が形作ったボートが闇の海に浮かんでいるようだ。

浜口陽三のメゾチントも、闇の中におかれるとその黒い背景がより深く感じられる。宮島達男はいつもの大作「それは変化しつづける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く」に加え、「Monism/Dualism No.7」というデジタル・カウンター作品も展示。

しかし私にとって最も印象的なのは、クリスチャン・ボルタンスキー「死んだスイス人の資料」に再会したことだ。以前にもここの常設展で鑑賞し強く印象に残っていたが、闇とボルタンスキーほど似つかわしい取り合わせは他にない。錆ついた古いビスケット缶が積み上げられた壁面に、スイス人たちのモノクロのポートレイト写真が貼られ、白熱電球の弱い光の中に浮かび上がる。

ユダヤ人の死の記憶にこだわったボルタンスキーは、この作品ではあえてスイス人をモチーフにして、物語性を排して、より普遍的で匿名性のある表現を目論んだという。しかし、ダビデの星を胸にした幼い少女のポートレイトも含まれていた。闇と死と記憶。そして廃墟。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

MOTアニュアル2007 等身大の約束

加藤泉毎年、楽しみにしている東京都現代美術館のMOTアニュアル。今年のテーマは「等身大の約束」。リーフレットによれば

多量の情報を距離や時間に関わりなく瞬時に交信できる情報化社会は、バリアフリーや新たなネットワークの形成をもたらしました。しかし、意識や経験は記号化され、人と人とのつながり、時間や地域の感覚、自己の存在までもが希薄になるなど、私たちの知覚や認識のあり方に大きな変化をもたらしています。

こうした状況が癒しや自然回帰、伝統回帰という昨今の風潮を生み出しているが、そうした活動も情報に依存し記号化することからは逃れられない。そんな時代を敏感に感じ取った5人の作家の作品が、集められた展覧会だ。

いずれの作家も自分の身の回りの日常からすくい取った事象を、様々な技法で作品として定着させている。まさに等身大の表現。時代と切り結んだ作家、中村宏の個展のあとに観ると、一見社会性は希薄だが、現代の社会に生きる個人の存在がしなやかに伝わってくる。

自分の郷里の風景などの写真を手漉き和紙にプリントした千葉奈穂子の作品には、郷愁を誘われ、寺山修司の世界を感じさせる廃材によるインスタレーションもあった。

中山ダイスケは頭にアンテナをつけ、毛布にくるまりうずくまる群衆のインスタレーションなど、明確なコンセプトで情報化社会を表現するが、ちょっと理に勝った感が強い。

思い出のぬいぐるみ、植物、動物、日常の埃など、様々なものを粒子にして絵画化するしばたゆりの作業は個人の日常に根ざしながら非常にコンセプチュアル。自分の血液から作ったというリップスティックと両親のお骨は刺激的だった。

私が一番気に入ったのは、加藤泉の作るプリミティブな造形の奇妙な木彫の人形たち。画像は彼女のペインティング作品だが、立体作品にも子どものような胎児のような動物のような植物のような、多義的で不思議な者たちが表されている。東南アジアの民芸品のような色と質感も持ったオブジェたちは、日常生活の裏側にひっそり佇み、我々にひそやかに語りかけてくる存在のようだ。そう、水木しげるの愛する「妖怪」だ!

昨年のMOTアニュアルの、新しい日本画の潮流を提示した展示ほどのインパクトはなかったが、現代社会にしなやかに静かに投げかけられた表現の多様性を楽しめる展覧会だった。

中村宏 図画事件1953-2007

円環列車A先月末、会期終了ぎりぎりで、東京都現代美術館の「中村宏 図画事件」と題された個展を観た。セーラー服の一つ目女子高生と機関車をモチーフにした奇妙な作品は、以前から常設展で目にした事があり、気になる作家のひとりだった。

第1章の「ルポルタージュ絵画」の展開、第2章の「観念絵画」から「観光芸術」へ、で見られる50年代、60年代の時代と切り結んだ表現と、第5章のグラフィックの仕事ー「図画蜂起」に見られる多彩なデザインの仕事・オブジェ等が強く印象に残った。

1958年の作品「都市計画」は新聞の選挙公報と映画のスチールにペインティングを加えたコラージュ。映画はどこかで見覚えがあると思ったら、「生きものの記録」の三船敏郎だった。黒澤明が1955年に監督した異色作。三船は原水爆の恐怖におびえ錯乱する老人を怪演する。そのほか労働争議・ベトナム戦争など社会問題をモチーフに描かれた作品群は、造形的にも力強く面白い。蒸気機関車もこの時代から画面に登場している。

1960年代になると、作風はグラフィックな様相に変化し、一つ目のセーラー服の女子高生や、望遠鏡、空を飛ぶ蒸気機関車などのモチーフが繰り返し現れる。シュールだが、ドメスティックで、中村の強迫的な観念と執着が感じられる。しかし、画面そのものは漫画的でさえあり、見せることへの計算も伝わってくるのだ。

この頃から70年代にかけて手がけられた、一連のグラフィックの仕事はとても面白かった。早稲田祭のポスター・夢野久作全集の装丁・現代詩手帳の表紙。同時代の絵画と同様に、画力を傾注した多くの仕事を手がけている。タイガー立石とともに「観光芸術」の運動を行ったこともはじめて知った。

「呪物標本・虫類機械編」と題されたオブジェも私にはツボだった。ネジやペン先、真空管や電球に細い針金の脚が生えているだけのオブジェが標本のように並べられている。絵画作品の制作のかたわら、楽しんで作ったのが伝わってくる、チャーミングな作品だった。

80年代以降にも、中村は作風を変貌させていくのだが、作品自体は私にはあまり魅力が感じられなかった。鉄道のダイヤグラムをモチーフにした抽象絵画などを描いているのだが、70年代までに見られた「視ることの愉しみ」が失われていく。

予想以上に多彩で充実した回顧展だった。「図画事件」というタイトルにも納得のインパクトを受けることができた。  

MOT常設展 みんなのなかにいる私

MOTカフェ大竹伸朗「全景」展に精力を使い果たしながらも、常設展もさっとのぞいてみる。ナム・ジュン・パイクの「TV時計」は大小24台のテレビモニターに、時計の針のように角度を変えた光り輝く線が闇の中に浮かび上がる。今までに見慣れた極彩色に瞬くパイク作品とは違った静謐でコンセプチュアルな作品だった。常設展示室のエントランスホールに設置されたタイのアーティスト、モンティエン・ブンマーの「呼吸の家」は細い脚の上に10個の箱型のオブジェが並んだ作品。以前にも見たことがあるが、箱の中に頭を入れることができると知り試してみた。箱には小さな星座のような穴から光が射し込み、内部には様々なハーブが塗り込められている。コショウ・ショウガ・クミンなどエキゾチックな香りに包まれ、箱の中に入り込んでいると、不思議な沈静作用が味わえる。

特集展示のテーマは「みんなのなかにいる私」。第1室の暗い大空間の中には、天井から吊り下げられた無数のランプが色とりどりに灯っている。荒木珠奈の「Caos poetico」(詩的な混沌)という作品。3年半メキシコで暮らした彼女は、電柱から不法に電線を引き家の明かりをともすたくましい人々の生活からインスピレーションを受け、この作品を制作したという。小さな紙の箱に包まれた照明は、よく見ると夜の集落からもれてくる光のように見え、詩的な温かみが感じられる。鑑賞者が部屋の隅に置かれた照明入りの箱を自由にソケットに差込み、作品を増殖させていくのに参加できるのも楽しかった。宙に浮かんだ夢の中の街並みのような光の群れに、しばし見入った。

クリスチャン・ボルタンスキーは知人の家族の記念写真150枚を同じ形の額縁に納めて壁一面に並べて見せる。何の変哲もない家族の日常を切り取った古いモノクロの写真群が、誰にでも存在する家族の記憶を呼び覚ます。浜辺でくつろぐ人々の写真・笑顔の集合写真など、今までに見たことのあるボルタンスキーの陰鬱な作品にはなかった、親密な感覚に包まれる。

河原温の「I Got up at」は絵葉書に自分が起床した時間を記し、投函し続けたコンセプチュアルな作品。「日付絵画」で知られる河原らしい日常をアートに変換する作業だが、どこかユーモラスな印象を受ける。

身近な日常に端を発した発想が生み出した特集展示の作品群は、現代美術のなかにある「日常性」を感じさせ、自分に寄り添ってくるような親密さが魅力だった。大竹伸朗ワールドのディープな洪水の後で、日常世界に回帰させてくれるような常設展でクールダウンすることができた。

大竹伸朗大回顧展 全景

宇和島駅大竹伸朗の大回顧展「全景」を見るため、東京都現代美術館に向かう。見慣れた建物の屋上に目をやると「宇和島駅」というネオンサインが。大竹は愛媛県宇和島に巨大なアトリエを構え、制作を続けている。このネオンは、宇和島の古い駅舎が解体されるとき譲り受けたものだという。この仕掛けによって、美術館全体が大竹ワールドとなって来館者を出迎る趣向だ。
エントランスの広い空間にもさっそく大竹のオブジェ作品。「零景」というガラクタのオブジェは、時折その一部であるエレキギターをかき鳴らしノイズを発する。

会場は地下1階から3階までの企画展示室全フロア。2000点もの作品に埋め尽くされている。大竹といえば、ロンドンや香港の街頭で拾い集めた広告の紙切れやマッチラベルなどを貼り付けてペインティングを加えた「スクラップブック」でアート界に登場した80年代の印象が鮮烈だ。今回の展覧会では第1室に1977年から現在に至る、数十冊のスクラップブックが展示された。世界各地の旅や東京・宇和島での生活から生み出されたスクラップブックは、自由で猥雑なコラージュの魅力に溢れている。1冊1冊、表紙のデザインにもこだわったスクラップブックは総ページ数10,000、総重量200圓鯆兇┐襪箸いΑ

そのあと、とにかく作品の量と表現の幅に圧倒される作品群が、ほぼ年代順に展開される。小学生の時の鉄腕アトム、高校生の時のサイケなビートルズ、多くの自画像、北海道の牧場に住み込んだ時の写真、大学時代の実験作など若い頃の作品群が面白い。20代のデビューの頃の作品はいかにも80年代という時代の明るさ、軽さを反映したニューペインティングだが、ナイロビを旅行して描いた作品あたりから作品に力強さ、ダークさが加わってくる。

世界各地を旅して描いたスケッチが美しい。「カスバの男」という紀行画文集にもなったモロッコなどを、ペン画・水彩画・色鉛筆画などで自在に表現する。宇和島に移り住み、造船所から譲り受けた廃船を素材に生み出したオブジェの数々には、素材の持っていた時間の堆積を引き出した魅力がある。既存の物体を自由な組み合わせで再構築する作業は、ある意味でコラージュ作品とも感じられる。「日本景」というシリーズでは、「珍日本紀行ーロードサイド・ジャパン」の都築響一にインスパイアされたと思われる、日本のローカルで珍奇な風俗がモチーフにされる。今は無き秘宝館「鳥羽SF未来館」をテーマにした作品には驚いた

妻や娘を描いた作品などに見られる、写真を写し取ったようなモノクロームの世界は、今まで知らなかった大竹の姿を見せてくれた。

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プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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