中年とオブジェ

美術館・街で見かけたオブジェ 旅先で手に入れたオブジェ オブジェの視点で世の中を楽しむ中年の日常。

東日本大震災

after an earthquake















2011年3月撮影


2011年3月11日。その当時、在宅生活をしていた私はあの日の後、どこに出かけるでもなく自分の住む小さな町で静かに日々を送っていた。震災を伝える報道、ネットの情報、スーパーマーケットの長蛇の列。まるで足元の被膜一枚下に不穏な非日常を潜ませたような、心の安定を揺らがせる「日常」が続いた。震災が引き起こした現実が平穏な日常の自明性を喪失させ、心の均衡が失われたままにいやおうなく「日常」を過ごすことをわたしたちは強いられた。

自分にとっての自明な日常を取り返すために、私は時間があればレコードを聴き続けた。私の住む町では計画停電の影響がなかった。夜半に犬を連れて散歩しているとき、私の住む街区から先のエリアの住宅街が真っ暗な闇に飲み込まれている様子を目にした。言いしれない畏怖を感じる光景だった。

美術館も臨時閉館が相次いだが、そもそも美術館に出かけようという気持ちになれなかった。その頃は美術レビューが中心で一応「アートブログ」だった中年とオブジェだが、各美術館の開館情報を子細に伝えるあちこちのアートブロガーたちの発信に深い距離と、強い違和を感じていた。彼らには私にとってのレコードのように「美術館」が自分に日常を取り戻す依り代だったのだろうが、以後わたしはアートブログとしての発信に積極的ではなくなっていった。

その3月半ばから、カメラを手に自分の住む町の中を歩き回り、自宅の中のものを写真に収めた。この日常ではなくなってしまった「日常」を記録しておくことが必要に感じられたのだろう。毎年3月11日になるとブログにアップし続けているのが、この時撮影した写真である。こうした発信をすることが、この私自身の変節を示しているのだと思う。

after an earthquake 「原発」という未来のミュージアム



















2011年3月撮影 after an earthquake

主目的が発電であることは当然としても、同時に原発は、その潜在的で破局的な危険性ゆえに黎明期から一貫して国民に安全のための「神話」を提供し続ける広報機関であるほかなかった。この意味で原発はまさしく、本物の「ミュージアム」であり「テーマパーク」でもあったのだ。原発が立地する地域の子供たちに、「原子力の平和利用」を学習するための見学機会を提供したのも、原発という「未来のミュージアム」であった。(中略)帰りにはいろいろな冊子や付録のおみやげをもらった。いまだから言えることだが、それらはみな「毒」入りのお菓子だった。でも、そんなことがこの国でいったいどれくらい繰り返され、そのためにどれほどの予算が計上され、際限なく散在されてきたのだろう。

椹木野依『後美術論』「原発」という未来のミュージアム(2015年)

余震







「覚悟」とは、何かを意固地になって言い張ることではありません。覚悟の「覚」は目覚めること、そして覚悟の「悟」は悟ること、深く思いを定めること。つまり、単に流れに押し流されて毎日を生きていくのではなく、何かに目覚め、そのことを深く確信して生きていくということです。「覚悟」を持って生きるとは、私たちをそこに閉じ込めるものではなく、私たちを開いていくものなのです。

上田紀行「生きる覚悟」


グローバル経済によって支配される現代社会では、建築家の倫理観や善意をはるかに超えた力によって建築はつくられ、破壊されている。そこにはかつてのような公共空間やコミュニティの場が成立する余地はほとんどない。それどころか経済を効率よく循環させるためには、共同体は徹底して個に解体されたほうがよい。そのような巨大資本につき動かされる巨大都市に建築家はどう向き合っていくべきなのか、そんなことを考えている最中に大震災は起こった。

伊東豊雄「あの日からの建築」


しかし「原発建設が進んでいた時代には経済成長していた」というのは正しいですが、「原発を建てれば経済成長する」とはいえません。国際環境や産業構造が変わっているのですから、もとに戻ることはありません。
(中略)
しかしもはや原発は、経済的にみれば政策と投資の失敗から生じた一種の不良債権です。このままずるずると続けても、将来性のない事業に金をつぎこむ無策にすぎません。

小熊英二「社会を変えるには」


時と場所は移って21世紀初頭の日本、いま私たちは未曽有の原発災害のもとにある。1970年の万博では、原子力は「人類の進歩と調和」を推し進めるエネルギーの原動力としての期待を一身に受けていた。そんななかには、気象災害(台風)を事前に一掃できる原子爆弾の可能性を誇示するパヴィリオン(三菱未来館)があったし、原子力発電所の原子炉建屋の内部構造をそのまま巨大化したような形状のパヴィリオン(電力館)も存在した。けれども、こうして実際に21世紀となって振り返ったとき、原子力は未来の希望どころか、私たちの未来を掻き消しかねない、おそるべき「公毒」を垂れ流すものと化していた。

椹木野依「後美術論」


年齢のせいなのか、それとも震災後に起こった様々な出来事の影響(後遺症)なのか、はたまたちっとも数字のあわない四台の線量計と一年以上もつきあってきたせいか、すっかり物事をうす目で見るクセがついてしまった。すぐにわかったような結論を出したりせずに、ぼんやり全体を眺めて、結論は保留。それでも時間がたてば、見えてくるものだってちゃんとある。でも、誤解してほしくないのは、それは無責任に物事を見るということではないということだ。それより怖いのは、わかってないのに結論や答えを急いで出してしまうことではないだろうか。なにしろじっくりやらないと、とてもじゃないが身がもたない。

大友良英「シャッター商店街と線量計」(2012年12月)


「変わりないですか?」という質問は、患者さんとの面接での常套句のようなものだが、実は変わりが無いのが一番いい。考えてみれば、先週と同じように今日があり、今日と同じように明日がある、というのは当たり前のようだが、ありがたいことだ。明日も今日と同じように生きていると保障できる人なんてこの世にはいないのだから。

蟻塚亮二「統合失調症とのつきあい方―闘わないことのすすめ」



昨日朝の東日本大震災の余震に、折々ブログに引用した言葉を思い出す。

after an earthquake












採集地 横浜(2011年3月地震の後に)


年齢のせいなのか、それとも震災後に起こった様々な出来事の影響(後遺症)なのか、はたまたちっとも数字のあわない四台の線量計と一年以上もつきあってきたせいか、すっかり物事をうす目で見るクセがついてしまった。すぐにわかったような結論を出したりせずに、ぼんやり全体を眺めて、結論は保留。それでも時間がたてば、見えてくるものだってちゃんとある。でも、誤解してほしくないのは、それは無責任に物事を見るということではないということだ。それより怖いのは、わかってないのに結論や答えを急いで出してしまうことではないだろうか。なにしろじっくりやらないと、とてもじゃないが身がもたない。

大友良英「シャッター商店街と線量計」(2012年12月)

after an earthquake









2011年4月 地震の後に撮影

時と場所は移って21世紀初頭の日本、いま私たちは未曽有の原発災害のもとにある。1970年の万博では、原子力は「人類の進歩と調和」を推し進めるエネルギーの原動力としての期待を一身に受けていた。そんななかには、気象災害(台風)を事前に一掃できる原子爆弾の可能性を誇示するパヴィリオン(三菱未来館)があったし、原子力発電所の原子炉建屋の内部構造をそのまま巨大化したような形状のパヴィリオン(電力館)も存在した。けれども、こうして実際に21世紀となって振り返ったとき、原子力は未来の希望どころか、私たちの未来を掻き消しかねない、おそるべき「公毒」を垂れ流すものと化していた。

椹木野依「後美術論」

死を待ちながら





採集地 福井

開店を待ちながら





採集地 横浜(2011年3月17日)

after an earthquake
















2011年3月 地震の後に撮影

しかし「原発建設が進んでいた時代には経済成長していた」というのは正しいですが、「原発を建てれば経済成長する」とはいえません。国際環境や産業構造が変わっているのですから、もとに戻ることはありません。
(中略)
しかしもはや原発は、経済的にみれば政策と投資の失敗から生じた一種の不良債権です。このままずるずると続けても、将来性のない事業に金をつぎこむ無策にすぎません。

小熊英二「社会を変えるには」

ここに、建築は、可能か ギャラリー・間

グローバル経済によって支配される現代社会では、建築家の倫理観や善意をはるかに超えた力によって建築はつくられ、破壊されている。そこにはかつてのような公共空間やコミュニティの場が成立する余地はほとんどない。それどころか経済を効率よく循環させるためには、共同体は徹底して個に解体されたほうがよい。そのような巨大資本につき動かされる巨大都市に建築家はどう向き合っていくべきなのか、そんなことを考えている最中に大震災は起こった。

伊東豊雄「あの日からの建築」









ギャラリー・間で「ここに、建築は、可能か 第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館帰国展」が開催されている。丸太を利用した台座の上に並ぶ大量のスタディ模型。東日本大震災で壊滅的被災をした陸前高田に竣工した新たなコミュニティの拠点「みんなの家」の構想から実現までの変遷をたどる展示である。伊東豊雄の呼びかけにより乾久美子、藤本壮介、平田晃久らの共同作業によって取り組まれたプロジェクト。

また、「みんなの家」の建設過程を記録した畠山直哉(陸前高田出身)の写真の展示もなされている。彼には伊東豊雄設計のせんだいメディアテークの建設中の姿を撮影した「Under Construction」という仕事が過去にあるが、この「みんなの家」の小さな建築現場のドキュメントからは、よりプリミティブな建築することのよろこびが伝わってくる。

陸前高田を撮影した、被災前・被災後のスライドショーも静かに訴えかけてくる。模型の展示された会場の背景には畠山による巨大な被災地のパノラマ写真。

畠山はインタビュー映像の中で、お腹が痛ければ誰にでも効く薬を飲めば痛みはやわらぐけれど、文学や美術は薬のようには効き目はない、というように語っていた。今、遍在する安直な「震災対応」の表現に対する当事者としてのストレートな言葉であると感じた。

※会期は3月23日(土)まで
建築展としても、畠山直哉の写真展としても味わえる展示だ。




After an earthquake



































「覚悟」とは、何かを意固地になって言い張ることではありません。覚悟の「覚」は目覚めること、そして覚悟の「悟」は悟ること、深く思いを定めること。つまり、単に流れに押し流されて毎日を生きていくのではなく、何かに目覚め、そのことを深く確信して生きていくということです。「覚悟」を持って生きるとは、私たちをそこに閉じ込めるものではなく、私たちを開いていくものなのです。

上田紀行「生きる覚悟」





気仙沼 311から1年半

今日はほかならぬ9.11テロの日であるが、東日本大震災311から1年半にもあたる。2005年気仙沼をはじめて訪ねて以来、被災後もまだ足は踏み入れていないのだが、思い出に残る居酒屋の営業再開の報を知った。気仙沼「福よし」。お兄さんが焼き方・弟さんが板さんで、囲炉裏でじっくり焼き上げる焼き魚は日本一との評判で、私もかつて無い絶品のサンマの塩焼きをいただいた。秋に訪れたので、気仙沼の名物戻り鰹の刺身なども堪能した。店は港近くの気仙沼魚町にあった。311で店舗は全壊したが、店主らは幸い難を逃れ、今年8月旧店舗跡のすぐそばで再開オープンを果たしたそうだ。新店舗をレポートされたブログを見ると、部厚い木のカウンターも囲炉裏も、震災前の雰囲気を伝えている。





これらは私の撮った2005年の写真

そして、「福よし」でほろ酔いになったあとで訪ねた喫茶マンボ。こちらも現在、仮設商店街「南町紫市場」の仮店舗で営業をしているそうだ。パフェからカクテルそして名物のラーメンまであるレトロでゴージャスな洋風建築の名店だったが、港町気仙沼の魔界のようなあの空間は今はもう無い。311により失われたものの大きさを感じさせられる。



2005年撮影

気仙沼の高台にある石山修武設計のリアス・アーク美術館も、震災の影響で公開休止していたが、部分開館を経て常設展示を9月1日より再開したそうだ。

震災からの復興はまだまだこれから。多難を極めるだろうが、少しずつ動き出しているようだ。


壊れた太陽の塔

太陽の塔

2011年3月11日の東日本大震災は、横浜の我が家にもはじめて経験するレベルの揺れをもたらした。本棚に横積みしてあった本や、天井近くに置いてあった軽いダンボール箱などが振動で落下し、大型テレビを載せたラックは30cm近くずるずると移動した。

「中年とオブジェ」を名乗るとおり、家のあちこちに散在するオブジェたちも転倒したり、床に転げ落ちたり。それでも破損したのはわずか2品にとどまった。

増長天太陽の塔

奈良の猿沢の池沿いのみやげ物屋で入手した、東大寺戒壇院の四天王フィギュアの中の増長天の持つ槍の先端が折れた。

そして海洋堂制作の太陽の塔のフィギュア(1/350スケール)は、金色の「未来の顔」の支持部分が折れ、頭頂部の避雷針がもげ落ちた。

岡本太郎生誕100年の今年に東日本大震災が発生し、我が家のオブジェの中で太陽の塔が壊れたことには、なにか偶然ではないチカラの存在を感じた。甚大な被害が発生した東北の地は、太郎が日本を再発見するフィールドワークを重ね多くの写真を記録した場所でもある。

子供の頃大阪万博に出かけられなかった私が太陽の塔をはじめてみたのは、ずいぶん後のことだった。テレビや写真でイメージには接していたが、実物を目の前にしたときのインパクトは強烈だった。まさに「べらぼうなもの」としかいいようのない巨大で呪術的で圧倒的な存在感。以来、岡本太郎は私の敬愛する「芸術家」のひとりだ。

形あるモノはいずれ失われる。私のささやかなこのブログで、あらためて自分の日常とともにあるオブジェたちのことを記録に残していこうという気持ちがわいてきた。「中年とオブジェ」のスタートした原点に返ってみよう。

after an earthquake 2011.3.30

この太陽の塔は、以前からあるソフビの小さいタイプ。


※先日、友人と作ったホームページ「観光」から「中年とオブジェ」に一挙に転載した「東北JAZZ遍路」。その後web上の情報から、釜石のタウンホール・大槌のクイーンのマスターや陸前高田のジョニーのママが無事らしいことを知った。何年も前に一度訪れたに過ぎない旅行者の私の心に今でも思い出が残る、温かく印象深い方々である。皆さんのご無事に安堵するとともに、失われたものの大きさを前に今はまだ言葉がみつかりません。
プロフィール

テツ

「中年とオブジェ」とは赤瀬川原平の名著「少年とオブジェ」へのオマージュである。美術、オブジェ収集、エリック・ドルフィーを愛好する。

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