たくさんのことがあったけど、書き切れるかな。過ぎた傍から、するすると指の間を抜け落ちてしまう。流れた先は、遙か底。すべてが遠い。

直近に読んだ文章に寄ってしまうことがあるのは、その文章に一瞬でも惚れた証拠だ。わからなさ、と一緒にまい込んでくる言の葉が、どうしてか、吸いついてしまう。どうしてか。---好いている。答はただ、それだけなのだけど。思想を共にしているからだ。彼のような学生生活を、わたしもまた、過ごしていただろうと思うからだ。夢は今朝も、遙か記憶のなかにいて、生まれ持った欠落は、過ぎた日々に羞恥を刻むが、しかし今朝の像はどこかあたたかく、その温度に、中高の衣を着たわたしは、救われていた。あとすこし、あとすこし、と言われているみたい。また待ちます。あと少しなんですね。

共感が慰めにならないことがある。それを知るひとと知らずのひとと、その境は、マイノリティに身を置いているかどうか、か。両者の境界を過小化することで、救われるのはマジョリティだ。彼らは問題を同一に耕すことで、解決可能なものへと導こうとする。つまり、そんなのは大したことではない、誰にでもあるものだから、悩むようなことではない、と。そういって、固まり動けぬその者を、その淵から、引っ張ろうとする。その行為の正当性を、彼らは疑うことができない。なぜか。以前のわたしも、まったく同じ過ちを犯していただろうに。わからない、考えなければ。いやもうずっと、考えている。やはり、経験なのだろうか。共感という行為に殴られた過去があるからか。その痛みの深さを知っているからか。

他者が入り込んでくる。承認欲がかき立てられる。とりわけ彼らが、たとえ無意識下においてでも、こちらの存在を削り取ろうとしてくるときに、その欲求は強固なものとなる。受け入れて、認めて、評価して、わたしを、わたしを、みてほしい。それが自らの誇っている部分であればあるほど、その欲求は速度をもって熱を孕み、果ては沸き立つほどの昂ぶりみせる。求愛から憎悪へ。人間の生々しさが顔を出す。

〈私の究極型〉はどこまでも〈無私〉であるはずなのに、そこに他者が入り込んでは崩れてしまうのに、他者を排する、というその行為に、ひどく苦労する。それが精神的にエネルギーの落ちている時期であったりすると、余計に。そもそもどうして認められたいの。どうしてかな。これまでずっと仮面を被りつづけてきて、ほんとうは声をあげて泣きたいはずなのだけれど、はり付いたそれは無機質に笑みを湛えるばかりで、その違和がきっと、許容量を、超え出てしまったんだろうな。無数の仮面たちが行き交うこの社会で、あなたもまた、同じ摩擦のなかでいきているはずなのにね。

わからないよ。遠いから。一緒なのにね。

ながく彷徨っていた暗闇に、ひかりが差した。燻りつづけていた感情がほどけ、またひとつ、軽やかになった。こうして前進することができるなら、人生はなんて、尊いものなのだろうな。このせかいに生まれ落ちて二年と数ヶ月だから、それしか経っていないから、まだ、慣れないだけなのか。つねに、この軽やかさに、愕然とする。ずっと重い鎖のなかで生きてきて、まさかその鎖が外れるときがくるなんて思ってもいなかったから、うれしいよ。いつも、そのことを想っては、泣きそうになるんだ。それがほんとうだから、うれしいんだよ。

恋人に誘われて行った、途上国支援をしているNPOの講演会で、彼らは学校をつくり、教育の機会を平等にし、医者や教師になりたいと目を輝かせる子ども達の、その可能性を0から1にすることを使命として掲げていた。だれかにとっての絶対的価値は、だれかにとってのそれではない、当たり前なんだけれど。彼らは、夢を持てる、ということを絶対視していたが、その言葉はわたしのなかに、落ちてくることはなかった。彼らとわたしとで、みているせかいは違うのだ。わたしにとっての価値とは、是正されるべき不平等とは、能力や環境によって、その生存が脅かされること、それしかない。今後、このせかいに浸っていくにつれ、その考えが変化してゆくかは、わからない。だって彼らの指向では、かならずこぼれ落ちる者がでてくるじゃないかと、感情的になってしまう今は、まだ。その態度が過激であることをわかってはいても、止められない。いままでずっとこぼれ落ちてきたし、今この瞬間にもこぼれ落ちているひとびとの叫びを、知っているから。

ほんとうの豊かさついて、その帰結を、〈有限性の自覚〉にしてから、みえてきた解がある。有限性の自覚って、足るを知るってこと?でもそれじゃあ奴隷とかは、自分たちの立場を、受け入れることが豊かさなの?と問われたときに、有限性の自覚とは、たとえば奴隷が「自分がこうして生活できているのは主人のおかげだ」と自覚することであり、一方では主人の方が「自分がこうした生活ができるのは奴隷のおかげだ」と自覚する、そうした各自の、つねにだれかによって、なにかによって生かされている、という意識のことだと返して、その意識はとてもたいせつなことだと、つよく振り返っていた。そんな中ではもう、たとえば奴隷と主人の関係性ではないのだろうけれど、けれどそうして、自らの有限性を自覚し、その存在根拠をだれかや何かに置くからこそ、対象への感謝の念がうまれ、謙虚さがにじみ出て、そうしてふかくふかく頭を垂れながらいきていく姿に、これまでもずっと、あたたかい、尊さを見出していたのだと思い至った。農の世界が豊かだとされるのは、そうした意識を抱きやすいからではないだろうか。わたしたちの生きるせかいの豊かさが問われている理由もまた、そこから見えてくるものがあるはずだと考えている。

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