実写版テトリス杉内ノーノー達成

2012年05月30日

法科大学院の理念や必要性は、志望者に強制しないことには、了解も評価もされないことを前提にしている

「受験資格化を必要とする理由」(元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記)
http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-458.html
『5月1日付けの日弁連委員会ニュースのなかにある「法科大学院センターニュース」で、現在作成中という「法科大学院Q&A」の一部が紹介され、その設問のなかに、この受験資格化についての理由を尋ねるものが出てきます。回答には次のように書いてあります。
「法科大学院は、従来の『点』による選抜ではなく『プロセス』としての法曹養成制度を新たに整備すべきという観点から、その中核をなす法曹専門教育機関として設置されました。現在の法科大学院には解決すべき課題が様々に存在しているのも確かですが、かといって、法科大学院の修了を司法試験の受験資格と切り離すとすれば、法科大学院を中核とするという理念が骨抜きになってしまいます。」「仮に受験資格を撤廃すれば、法科大学院は法曹になるために必要なものではなくなり、法科大学院における専門教育を法曹養成の中核とした理念に反することになります。」
この問題をご覧になってきた方からすれば、ざっと見る限り、聞き飽きた新味のない論調と思われるかもしれません。それはその通りですが、改めて見ると、不思議な感じがします。受験資格を切り離したならば、理念が骨抜きになる、法科大学院は法曹になるために必要なくなる――。要件から外した瞬間に、骨抜きになり、必要でなくなる法科大学院制度とは一体何なんだ、ということです。端的にいえば、志望者に利用されなくなる恐れですが、そうだとすれば、法科大学院の理念や必要性は、志望者に強制しないことには、了解も評価もされないことを前提にしているととれます。つまり、ここでは他のルートと対等に比べても、確かに法科大学院ルートは必要だ、という評価にならないという自信のなさが現れているとみることができるのです。その評価とは、例えば、志望者にとっては、やはり法科大学院に行かないと司法試験に受かりにくい(司法試験が本当に修了の効果測定的な意味を持つものとして存在できるとして)とか、合格後、実務家として活動していくうえで、他のルートの人より、差がつくとか、一方、社会的な評価として、法科大学院経由・非経由の法曹の質に違いがあって、「さすが法科大学院修了法曹だ」と言わせしめるものがあるとか、ですが、いわばそうした勝負は初めから難しいと、法科大学院本道主義を掲げる方々が考えているととれることになります。』


ちょっと引用が長くなってしまいましたが、河野さんのこの指摘はきわめて重要だと思います。
法科大学院制度の持つ矛盾が、よく現われていると思うからです。

本当に自分たちが価値ある教育を実践しているのなら、「(司法試験受験資格の)要件から外した瞬間に、骨抜きになり、必要でなくなる」なんてことはありえないのです。
司法試験の受験資格がかかっているから、やむを得ず行く(というより強制させられている)のがロースクールであって、誰も望んで進学するようなところではない、ということになります。

法科大学院制度には許せない点がたくさんありますが、何が一番イヤな感じを持つかというと、ロー関係者は既存の弁護士のことをさんざん批判するくせに、自分たちはその弁護士資格の取得ルートを独占することで利益を享受しているという点です。
自分たちが「資格商法」に手を出そうと思ったのも、弁護士の資格に信頼や価値があったからこそ、ではないですか。
でも、その信頼や価値は、既存の弁護士たちが努力して積み上げて、勝ち取ってきたものです。
そこに、他人のふんどしで相撲を取るような「いやらしさ」がありますね。

もともと大学は実務とは無縁で、実務家養成など興味もなかったはずなのに、受験資格を独占させることで「利権」が生まれた。
その利権に大学が一斉にむらがった結果、弁護士など誰もなりたいとは思わない資格に落ちぶれたのも、当たり前のことで、必然であったのでしょう。
なぜなら、大学に実務家養成ができるなど誰も信じていないし、実際に養成能力なんてないですから。世間からの評価など、勝ち取れるわけがないのです。

既存の弁護士が自分たちの実力で評価を勝ち取ったのと異なり、制度で与えられた利権にすぎないロースクールが評価されることなど、未来永劫無いと断言できます。

schulze at 00:34│Comments(0) 司法試験 | 司法制度

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