本来、今回も器官再生・iPS細胞研究領域のシンポジウムリポートを掲載する予定でしたが、急遽予定を変更して、話題の判決について、思うところを述べたいと思います。

 

去る1月29日、東京地方裁判所で、東京大学工学部・多比良教授の懲戒解雇不当申し立てが却下されるという判決が出ました。事のあらましはこうです。多比良教授が主宰する研究室の助手(現在では助教と呼ばれる職務)が筆頭著者として書いた論文(責任著者は多比良教授)の再現性が確認できない、という訴えを受けて、東京大学が両者をともに懲戒解雇しました。それに対して、当該教授が不服を申し立てたが、退けられたという一件です。

 

一部報道では、再現性が確認できないことがイコール論文捏造というわけではないので、この処分は重過ぎるという声があるようですが、それは違うのではと思うのです。なぜなら、再現性がない実験結果というのは、ウソと言われても仕方が無いからです。ウソを論文に書くことは、捏造ではないのですか?もちろん、追試するのが難しい論文もあるでしょう。わざと追試するのが難しいように書くのもテクニックのひとつかもしれません。しかし、もしウソじゃないかと疑われた場合は、その結果を誰もが再現できるように自ら示す必要があると思うのです。論文著者の責任として。まあ今回の場合、疑われた論文は取り下げていることからも、実験結果はウソだったと自ら認めているわけですが。したがって、ウソの論文を書いた責任は問われても仕方ないと思うわけです。

 

これとよく混同されるのが、あとになってウソだとわかった論文なんてたくさんあるでしょうというのがあります。ウソの論文でノーベル賞をとった人すらいるでしょうと。あとでウソと分かって、首になるようでは、誰も挑戦的なテーマに取り組まないだろう等。これらは、すべて論文の結果の再現性と結論の永続的真偽を混同した考え方です。結果に再現性があっても、後に事実と異なる、つまり結論がウソだった論文はざらにあるのです。例えば、こういう場合を想定してみてください。物質Xを見つけたという論文があるとします。見つけた物質が物質Xであることを満たすべき条件がその当時3つあり、それは全部満たしていました。この結果は、再現性もありました。だからこの物質は物質Xだと結論して論文を出しました。その後、物質Xであることを満たすべき条件が、もうひとつ必要であることがわかってきました。しかし、最初に物質Xだとした物質は、この4つめの条件は満たすことができませんでした。したがって最終的には、最初に見つけた物質は物質Xではなかった、つまり、最初に出した論文の結論はウソだったということになります。しかし、誰もこの最初の論文を非難する人はいないでしょう。論文は、結論の永続的な真偽にまでは責任を負う必要はないからです。しかし、だからといって、結果の再現性までおろそかにして、ウソをつくことが許されるものではありません。なぜなら、本来論文というのは、結論の真偽を世に問うものであり、そのためには結果に再現性がなければ、反証しようがないからです。

 

もちろん、研究者の少ない、マイナーな分野では、結果の再現性がない論文がたくさんあるのも事実です。でもそれは、研究者が少ない上に、世間からも注目されないので、目立たないだけで、見つからないからやっていいということではありません。再現性ばかりに気をとられていると、国際競争に遅れをとるという考え方もあるようですが、全く逆です。信頼性の無い論文ばかり書いていると、そのうち誰からも相手にされなくなるだけです。

 

今回の論文捏造(再現性のない結果を載せたという意味で捏造とするのに違和感を感じる方もいるかもしれませんが、私は敢えてそう定義します。なぜなら再現性のないことをうすうす分かった上で敢えて論文として発表したと強く推察できるからです。)事件での、司法の判断(当該教授の監督責任)に関して、私も同感です。指導教官もしくは研究室主宰としての当該教授の無責任さには、あきれるばかりです。昔風に言えば、二人は師弟関係にあるのですから、もう少し弟子の行動に責任を持つべきではないでしょうか。日頃から生データーをもとに、議論していればこんなことにはならなかったはずです。最近では、巨大研究室の教授ともなると資金集めの方に忙しく、研究現場に疎くなり、生データの解釈や細かく裏を取る実験の指示などしなくなるという本末転倒現象があるようですが、これもその類なのでしょうか。でも弟子の責任は、師匠の責任です。ただ、海外の例では、教授が、自分の指示通りに動いた部下に対して、再現性が無いのは部下の捏造だと責任を部下に押し付ける例もあると聞きます。ですので、捏造を疑われたら、第三者の立会いの下に、教授と話をするよう言われることもあるそうです。

 

以上、本来学術論文があるべき姿について、ある意味理想論を述べてきたわけですが、これは、そもそも旧来型の科学コミュニティーに必要な媒体としての学術論文の理想像を述べたわけで、そうではない、現代の利益誘導型研究の場合には、このような理想論は成り立たなくなっているのかもしれません。そこへさらに業績至上主義からくるプレッシャーが追い討ちをかけるように、研究者をして安易な論文製造へと駆り立てているのでしょう。競争に勝つためには、いいかげんな論文でも出したもの勝ちだとか、最後の最後まで、秘密に研究を進め、金儲けにつながらないとわかった研究だけを論文にするという時代がもうすでに始まっています。現代科学コミュニティーにおける学術論文のあり方を、もっと広い視野から見直す時期が来ているのかもしれません。学術論文を人類の叡智の遺産とするために。