歳の離れた従弟がいます。

母は6人兄弟の長女だったので、わたしが初孫…

じいちゃんには、ほんとうに可愛がってもらいました(^^)

その歳の離れた従弟は、母の弟の末っ子。

三人兄弟の一番下でした。

母の弟は長男だったので、いわゆる「跡継ぎ」です。

じいちゃんが帽子屋を営んでいたので、ほんとうに「跡継ぎ」。

じいちゃんとばあちゃんは、長男の結婚と同時に、
同じ敷地内に離れを建てて、そこで暮らしていました。

なので、わたしがじいちゃんばあちゃんの家に行くと、
当然、そこの長男-ま、わたしにとっては叔父さん-にも、
その家族にも会うわけですよね。(^^)

親戚の集まりは、だいたいじいちゃんばあちゃんの家なので、
その時は、叔父さん夫婦、叔母さん夫婦、従兄弟たち勢ぞろいなわけです。

総勢30名近くなるわけですから、そりゃもうすごい事になります(^^)

母の妹の旦那さんが魚屋さんを営んでおり、
正月の集まりともなれば、おいしい刺身をどっさり持ってきてくれて、
楽しいひと時を過ごすことになるわけです。

件の歳の離れた従弟は、2歳くらいの時の印象が強く、
いつも、お気に入りのガーゼハンカチを肌身離さず持って、
母の実家を駆け回っていたのです。

その頃、わたしは多分小学校高学年か、中学生だったと思うのですが、
なにか片言で叫びながら、駆け回る姿をとてもかわいく思っていました。

しかし、小学校高学年~中学生ともなれば、友達と遊ぶ方が忙しいですよね(^^;
じいちゃんばあちゃんの家からも、自然と足が遠のきます。


じいちゃんばあちゃんの家に行ったとしても、
母屋に住んでいる従弟に会わなかったりもあったんだと思います。

年単位で会わなかった時があったんですよね。その従弟に…


どうなったと思います?


次にその従弟に会ったとき、そこに居たのは「見知らぬ少年」だったんです。

あの、ガーゼハンカチを握りしめ、何かを叫びながら家の中を駆け回る
愛らしい男の子はそこにはいませんでした。


その時、痛切に思いました。

「そうか… あの子には二度とふたたび会う事は出来ないんだ…」って…

なんか、妙に悲しくなりました。

変な話ですが、二度と会えないってことは、死んでしまったのと同じですよね。


これを科学的側面から見た場合こんな話もあるんです。

私たちは普段、時間が絶え間ない流れの中にあるように感じています。

しかし、最新の物理学では、時間は「離散的」であるとされています。

つまり、ぶつ切り状態だというのです。

ある瞬間は、その瞬間で終了して、つぎの瞬間はまた新たに生まれるというのです。

映画が一コマ一コマずつできているのとまったく同じように
この現実世界もできているっていうんです。

この瞬間の単位は「1プランク時間」(≒
5.391 06(32)×10−44 s(Wikipediaより)) といいます。


これに則ると、1プランク時間ごとに宇宙は再形成されていることになり、
わたしたちもある意味生まれ変わっていることになるわけです。


更に!

そこまで考えなくとも、わたしたちの体の細胞は、
一部を除いてある間隔にてすべて新しくなってるわけでして、
久しぶりにあった人は相当数のパーツが、違うもので構成されている
別人のようなものであったりします。


ある程度の大人になれば、そんなに劇的な変化はないように思いますが、
歴代の免許証の写真見比べてみてくださいよ。(笑)


これが子供となれば、件の従弟の様にあまりにそれが顕著に
現れるわけですよね。


今、わたしのiPhoneには、息子が生まれたときからの写真が
どっさり詰まっています。

たまに見ると、ほんとうに感慨深いものがあります。

ちょっと前まではこんなことは考えられませんでしたよね。
重いアルバムひっぱり出してきて、結構な間隔をあけて
撮影された写真を見る程度だったのですから…

それが、手元のiPhoenをちょっとタップしただけで
誕生から今までが見られちゃうんですからね。(^^)

その写真を見て思うのは、やはり、「もうこの子には会えない」という思いです。

全身すっぽりと、わたしの腕に収まっていた息子…

やっと寝付いたと思って、ベッドに下した瞬間に大泣きした息子…

こちらの語りかけに、笑顔で返してくれるようになった息子…

高速ハイハイで、家の中を這いまわっていた息子…

自分の足で立ち上がり、最初の一歩を踏み出した息子…

もう会えないのです。

そしてそれは、今日と明日というスパンでも同じです。

今日の息子に、明日もう会う事は出来ないのです。

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この思いがあるので、わたしは、自分が小学校高学年になる頃
親より友達と過ごすことに重要度を感じる様になったのと同じように
息子がその年齢になるまでは、徹底的に息子に関わろうと思ったのです。

この思いがあるので、わたしは、息子がその年齢になった時
親の価値観ではなく、自分で自分の選んだ大きな夢を持って
自分の道を切り開いてほしいと思ったのです。

この思いを持って、子供を見れば何か別のものが見えてくると思うのです。

それには、この「ママにこにこコーチング」でお伝えしているような
単なるコミュニケーション術としてではない「コーチング」が
ものすごく役に立っているのです。

そしてそれをベースにして「子育て幸福論」と言うものを
みなさんにお伝えしようと思っています。

高度成長期の様な、父は仕事、母は家庭というテンプレートは
減ってきてはいるものの、まだ、仕事=父の役割 と言った
だれかの作った価値観に縛られている人もたくさんいます。

家族の為によかれと思ってやっているのに、
その先にはいったい何がみえるのでしょうか?


思春期になり、「ここぞとばかり父親の威厳で…」
と思っても反発を招くだけです。

そこに「基本的信頼感」はあると思いますか?
そこに「お互いの共感」はあると思いますか?

なので、実は、今日の話はおかあさんより、お父さんに読んでほしくて書いています。

一体、わたしたちにとって子供の存在とはなんなんでしょうか?

子供を、
抱き上げて…
肩車をして…
もっと一緒に遊んでおけばよかった…と未来の自分が思わないために…

今では、だいぶ
「抱き癖が付くからあまり抱っこしない」
「自立が早まるように、寝るときは一人で」
等の事は言われなくなりましたが、
一部ではまだ言われることもあるようです。

うちの場合は、徹底的に抱っこしました。
抱っこして、抱っこして、抱っこしまくりました。(笑)

まだ眠いところを、頑張って起きたときは自分から、
「抱っこ! 抱っこ! だっこぉ~!」

自分の思い通りにならなかったり、
なにか気に入らないことがあって、
半分悔し泣きの時も、泣きながら、
「抱っこ! 抱っこ! だっこぉ~!」

なにかを我慢しなければならない時も
「抱っこ! 抱っこ! だっこぉ~!」

あ、抱っこされることでいろんなストレスに
自分なりに折り合いをつけているんだなってのが
伝わってきました。

だから、そういう時はちゃんと抱っこしてましたよ(^^)

親の側からしても、ちゃんと抱っこできる期間なんて、
ほんとぉに、わずかな期間だけですよ。

あっというまに抱っこしたくたって、抱っこできなくなるんです。

昔の認識では、こんな事をしていたら
いつまでたっても抱っこをせがむ依存心の高い子供に
育つという事でしたよね。

しかし、もうすぐ3歳を迎えようとする息子は、
いつのまにか、朝起きての

「抱っこ! 抱っこ! だっこぉ~!」


を言わなくなりました。

動物園では、最初のうち「抱っこ!」とはいうものの、

「動物園に来たらさぁ、自分の足で歩いて、自分の好きな動物を見ていいんだよ」

と言ったら、嬉々として走り出していきました。
ちょっとさみしく、ちょっとうれしいそんな瞬間です。

幼少のころの記憶は残らないといわれています。
でも、ストーリーを思い出せないだけで、「情動記憶」は残ると思っています。
それが「自己イメージ」を形成するんです。

どうなったら、楽しいのか?うれしいのか?
どうなったら、悲しいのか?いやな気分なのか?

無意識の奥深いところに埋め込まれるのです。


最後にもう一度言いますね。

「今日のわが子には、明日、もう会えないのです。」
プレゼンテーション1


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