Profile
陽月 海明
あてのない旅に出ています。
気の向くまま足の向くまま。
驚くほどに行き当たりばったり。

そうして、旅先で出会った日常を書き留めていこうと思います。
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2010年06月30日

蝙蝠傘

「魂を」
店に入ってきた男は一言そう言うと、そのまま佇んだ。
ぎいぃと、軋む音を立てて、扉が閉まる。
ただでさえ薄暗い店内にさらに薄闇が満ちた。

「何の御用でしょうか」
店主がそう問うが、男はやはり一言、魂を、と言ったきり黙りこむ。
「こちらへどうぞ」
店主はテーブルを指し示した。男はすっと流れるような動作で進んで、音も立てずに椅子に座る。
テーブルの上に置かれていたキャンドルがひとりでに灯る。
消える寸前のような、細い炎に照らされた男の顔は微動だにしていないのに、炎が揺らめいて、哄ったように見えた。
店主が、それを見つめていると、閉ざされていた唇が開かれ、男は言葉を紡いだ。

「魂を、いただきに伺いました」

「何のことでしょう?」
問いかける店主に、男は言う。

「すべてが上手くいかないと、当店にお越しになりましたね。あの時、蝙蝠傘をお渡しいたしました。まだ、御代をいただいておりませんので、こうしてまかり越した次第です」
男は、くぐもる様な、しかし通りのいい声で語る

「あんた、なにを」

「覚えておられませんか。血の雨にその身が濡れるのを防ぐための蝙蝠傘ですよ。闇のように暗い」
ほら、あれです。
男は、店主の後方を指し示した。
店主が振り返ると、黄昏の闇が凝った天井の隅に、虚無に似た闇が固まっているのが見える。それは、音もなく羽ばたくと、天井を指し示していた男の腕にぶら下がった。小さな蝙蝠の形をしていたそれは、途端に、傘へと変じる。
「良い梅雨だったようですね」
男が傘を開くと、布同士が剥がれる音がして、ぷん、と血が匂う。乾ききった血の塊が、磨かれた床にぱらぱらと音を立てて落ちた。

「梅雨は明けました。次に来るのは嵐です。嵐には、傘は太刀打ちできぬもの」

把握できないままの店主に向かって、男はそう言うと、傘を差したまま、扉へと向かう。
「それでは、また、いつかの黄昏に」
そう言って、男は去った。

途端に店主は思い出す。
男と逃げた妻のことを。
事業に失敗して抱えたたくさんの負債を。
掌を返した多くの友を。

そして、哀しい目を思い出す。
あれは誰の目だったか。

ああ、娘だ。
我が子だけは、と。
そう思ったのだった。

店主は己の首に手をやる。そこにはぱっくりと傷が開いていた。
己が身の血を降り注ぎ、全ての忌まわしいものを塗り潰したのだっけ。
あの傘は、娘の上に差しかけたのだ。

「思い出しましたよ」
店主はそう呟いて、扉を開ける。
目の前は見覚えのない通りだ。だが黄昏た通りのその先に、先の男の店があることを、店主は知っている。

sea_bright at 23:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2010年06月01日

人生双六

「これ、差し上げるわ」
軋む扉を開けて入ってきた客は、そう言うと、店主に花束を手渡した。
白を基調にした清楚で小ぶりな花束は、薄暗い店内で光るように仄かに浮かび上がる。
「ありがとうございます。では、活けてまいりましょう」
店主はそう言うと、脇の棚に置かれている幾つもの花瓶の中から、白磁のものを選び出した。縁にごく細い蔦模様が青く絡んでいる。
それを見送ると、客はぐるりと店内を見回した。
溶けかけた形の蝋燭、歪な形の真珠のブローチ、豪奢な縁取りのひび割れた手鏡。
蜘蛛の糸より細いレースの手袋、燐光を放つ砂時計、真紅のインクに浸された羽ペン。
見るともなしに見ていきながら、客はふと足を止めた。
「お茶でもいかがですか」
目に留まったものを手にしようかとした時、背後から店主の声がかかる。
振り返ると、アンティークのテーブルの上に、先ほどの花が飾られ、その傍らに、ティーポットが置かれていた。
「いただくわ」
ぎしりと音を立てる天鵞絨張りの椅子に座ると、目の前のカップにお茶が注がれる。
昏い部屋の中でも分かるほど赤いそれは甘く香る。
ほう、と溜め息を吐きながら客がそれを口に含むのを昏い笑みを浮かべながら眺めていた店主は、それで、と訊いた。
「この度は、どのようなものをお求めで?」

「あれ。あの双六。」
店主の言葉に、客は間髪を入れず答えると指差した。先ほど手に取ろうとして止めた白い駒がある。ここからでは棚の陰になっているが、その駒の下には、賽と盤がある。
「あれの使い方をご存知で?」
店主はそう言うと微笑む。その妖しい微笑に釣られるように、客も笑った。
「知ってるわ」

それは人生を導く双六。
多くのマスにはたいしたことは書かれていない。ただ、止まったマスによって、その後のマスに書かれた出来事が変化する。
それは、血を受けた駒が止まることによって、その血の持ち主の人生にも同じことを降り注ぐ。
「そして」
そう言うと客は立ち上がって駒を手に取った。幾つもの血に塗れたはずの、象牙の駒は、しかしいっぺんの曇りもなく、艶やかに美しく光っている。
その下に置かれた双六盤のマスの上では、霞がかかったように空気が揺らめいている。そのため、その下に書かれている文字は判別が出来ない。
唯一つのマスを除いて。

そのマスは、空白になっている。

「好きな運命を書き込むと、ここに止まった者は人生を決められるのよ」
客はそう言うと、そのマスを撫ぜた。
そう。
盤の傍らに置かれている真紅のインクに浸されている羽ペンで、そこに、好きな人生を書き込めるのだ。

かつて、世界を欲した男がいた。
狂おしいほどの恋に溺れた女がいた。
死んでしまった我が子を取り戻そうとした夫婦がいた。

彼らは、そのマスに止まり、願いを書き込んだ。

「これを頂戴」
「かしこまりました」
客の声に、店主は頷くと、それらをひとまとめにして螺鈿細工の箱の中に閉じ込める。
そして付け加えた。
「ただし」
と。

「ただし、そのマスに止まっても、その後の人生が思い通りになるかどうかはお客さま次第。世界を手に入れた後で、信頼するものに裏切られることも、愛を手に入れた反面、独占欲と嫉妬の炎に飲み込まれることも、喪ったものを手に入れるため、己の命を差し出すこともございます。しかしながら、途中でリタイアは出来ぬ仕組み。重々ご承知の上でお遊びくださいませ」

分かってるわ、といとも簡単に言うと、客は去っていった。

「えらく親切に説明したな?」
店の奥から店主に声がかかる。
「彼女自身が遊ぶのではないからな。あのブーケをくれた相手に贈るんだろう。あらかじめ、あそこに運命を書き込んだ上で」
花嫁が彼女に渡したブーケは、店内で仄白く光っている。
「心から祝福してる顔で笑っておきながら、あんな品を求める。女ってのは怖いね」
店主はそう言うと、花を一輪手に取った。
指の中で、白い花弁はじわりと赤黒く染まっていく。
「一体、あのマスになにを書き込むのかな」
指に滴り落ちた、これもまた赤黒い蜜を舐めながら店主が笑う。
「この花も一輪持たせてやればよかったかな」
望むなら、滴り落ちる赤い雫を、誰の血にでもしてやったものを。
言外にそう含めて笑う店主の哂い声に溜息がかぶさる。

「悪趣味だな」
店の奥にいた、金色瞳の鴉猫はもう一度溜息をついてそう言うと、我関せずといった風に瞳を閉じた。

どこか遠くで、賽が投げられる音がしたような気がした。


sea_bright at 01:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2010年03月31日

スプーン一杯の幸福 ――黄昏綺譚――

「その先の公園の桜が満開だったよ」
入ってきた客はそう言うと、ソファに腰掛けた。
その拍子に肩に乗っていた薄紅の花びらがはらりと落ちた。
店主はそれをつまみ上げ、店内を昏く照らしているランプの火屋の上にふっと飛ばした。ひらりと宙を舞った花びらは小さな炎を上げて燃え上がり、蝶へと転じて店内を優雅に舞う。
「お見事」
客の声に軽く一礼した店主は、どこからともなく取り出したポットから、これまたいつともなく現れたテーブルの上のカップへとコーヒーを注ぎ、客へと勧める。

「それで、今回は何をお求めで?」
店主は向かいのソファに座ると、客へとそう問うた。
「祝いの品をね」
そういうと、ぐるりと店内を見回す。薄暗い店内はひっそりと静まり返っているが、時折、綺羅のようにその存在をアピールするものたちがきらきらと光る。
蒼い炎を閉じ込めた指輪。一組のワイングラス。水晶で出来た地球儀。真っ赤な反物。小さな銀のスプーン。
「うん、これがいい」
客は、自ら発光するように光る銀のスプーンを手に取った。

「おや。そちらですか」
店主はそう言うと、それを羽毛でも受け取るように優しく預かる。
「オススメですよ。幸福を掬うことの出来るスプーンですから。何を幸せと呼ぶかはその人次第ですけどね」
スプーン一杯の幸運を、幸せと呼ぶかそうでないかは、掬った人間が決めること。
そう言って笑った店主に客も笑い返した。
「友達の子どもにね、贈ろうと思うんだ。きっとあの友達ならば、幸福を正しく教えることが出来るのではないかと思うよ」
「では、これを」
その時、店内を待っていた蝶が、スプーンへと舞い降りた。それはスプーンの柄に銀色の桜の花を咲かせ、自らもまた小さな淡い水色の宝玉の蝶となってそこへ止まる。
「良い品だ」
客は丁寧に包んでもらったそれを受け取って店を出て行った。

「お茶にしようか」
客を見送った店主は鴉猫に声をかける。店の奥、ひっそりと寝そべっていた、闇色の猫は金色の瞳を開けると、テーブルへと飛んできた。
どこからともなく二人分の桜を浮かべた茶器が並ぶ。そこに、店主はとろりとした桜色の蜜を注ぎいれ、銀のスプーンでかき混ぜる。柄の部分に紅葉と鳥がついたスプーンで優しく混ぜると、店主は微笑む。
「スプーン一杯の幸福に乾杯」



sea_bright at 22:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2010年03月01日

甘く苦く

「いらっしゃいませ」
薄暗い店内に、残照が差し込んで、客の姿を黒く刳り貫いた。
光は店内までは届かず、迎える店主の位置は声でしか推し量れない。薄暗い店の中で、その声もまた、低く昏い。
それを意に介さず、客はきびきびと店内を横切り、アンティークのソファに腰を下ろす。そのまま、気怠そうに背を凭せ掛けると、立ったままの店主を見上げて、大儀そうに口を開いた。
「チョコレートを頂戴」

「チョコレート、ですか。時期には少々遅いようですが」
店主は客の顔を見下ろしながら、片眉を上げて見せる。
季節も時間も何もないこの黄昏の通りではあるが、客の持つ時間は表の世界と継続されている。それを踏まえた店主の発言に何の反応も見せずに客は頷いた。
「そう。そのチョコレートよ。甘くても苦くてもいいわ。その代わり、誰かが誰かを想って一生懸命作ったものがいいわね。ない?」
ご自分でお作りになれば、とは、賢明な店主は口に出さない。
かわりに、ございますよ、と静かに言った。
「どのようなものがお好みですか。初めて作ったようなチョコレートから、ショコラティエ顔負けの出来のもの、毒入り、呪詛入りまでお望みとあらばどれでも」
少しだけ目を瞠って、客はそれから鼻をふんと鳴らして笑った。
「フツウのでいいのよ。たとえば、CMやドラマで作ってるような」
フツウってなにかしらね、と客は自分の言葉を嘲るようにひとりごつと、肩の力を抜いた。
「なんでもいいの。恋の味が分かれば」
毒入りでも、何でも。

店主は何も言わずに、奥へと一度引っ込むと、少しいびつなトリュフとガトーショコラ、それからコーヒーを持ってきた。コーヒーの湯気が、仄かな灯りの中で昇りながら闇に溶けていく。
「どうぞ。どなたかへの贈り物なら、お包みしますが」
「誰に贈る予定もないわ」
そう言うと、客はトリュフをつまんで口に入れる。
そのまま、目を閉じて、黙り込む。
静かな店内に、古い柱時計の秒針の音だけが刻まれていく。時を進めることのないまま、幾つもの秒針が過ぎ去ったころ、ようやく目を開けて溜め息をつく。
「分かるわけないわね。ただのチョコレートよ、所詮」
そう言うと、口の中の甘さを洗い流すかのようにコーヒーを口に含んだ。

「恋の何を知りたかったのですか」
店主はそう言って昏く笑う。
「何を、ね。何を知りたいのかしら。あんな面倒で面妖で疲れるようなものが、本当に良いものかどうか、それを知りたかったのかもしれない」
「恋とはどんなものかしら、ですか」
店主のどこか茶化したような、そのくせ無表情の言葉に、くっと喉の奥で笑って客はソファに身を委ねた。
「知ってるはずなのにね。どこかに置いてきたのね、きっと。甘かったり苦かったり喜んだり苦しんだり、燃え上がったり凍り付いたり。それを面倒くさいと思うんだから。人に合わせるのも面倒なら、縛られるのも、気を揉んだりするのも面倒。そんな面倒くさい私でも良いと言ってくれる人を探すのも面倒なのよ」」
言葉遊びでも楽しむかのように、一息にそう言うと、客は身体中の空気を吐き出すかのように、大きく息をついた。
そうして、暫く後に、勢いをつけて立ち上がる。
「まあ、いいわ。ご馳走様。お代は?」
それでは、と店主は言う、
「こちらのガトーショコラをお持ち帰りください。お代は結構」

小さな紙箱に入れたそれを客に手渡して見送ると、店主は少し笑った。奥に身を潜めていた金色の瞳の猫が声をかける。
「なにをしたんだ?」
「本当に面倒くさいなら、こんな店には来ないだろう?ちょっとばかり気が向くようにしてやったのさ」
無言で先を促す猫に店主は笑う。
「面倒くさいんじゃない。臆病になってるんだよ、あれは。踏み出してみればいいのさ。その結果が上手くいこうが、やはり面倒だと思おうが、それは知ったことじゃないが」
「意地悪だな、お前は」
「こちらとしては、恋心から派生した品物でも手に入れば言うことなしだ。爛漫に咲き誇る花になるか、砕け散ったガラスの置物になるか、はたまた修羅の炎を抱くランプになるか、楽しみだろう」
ふん、と先ほどの客のように鼻を鳴らして、猫は伸びをすると、翼で店内の空気を攪拌した。コーヒーの残り香は霧消して、後には静けさだけが残る。

「さて、じゃあ、私たちもお茶にしようか」
店主はそう言うと、テーブルの上にお茶菓子を載せる。横に添えられたのが薫り高いお茶であることを確認して猫もテーブルへと飛んできた。
そうして、歪んだ窓ガラスの向こうを見遣る。
客の姿はもう疾っくに無くなっていたが、ほんの少し、ビターなチョコレートの香りがした。



sea_bright at 01:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2009年12月30日

虹色と真紅の花

「いや、今年も疲れたわい」
その客は入ってくるなり外套を脱ぎ、ロッキングチェアに腰掛け、大きな身体をうずめた。アンティークの椅子はわずかに身じろぎする音を立てたものの、優雅に揺れる。
「お疲れ様でした」
店主はそう言うと、傍らのテーブルに湯気の立ち上るグラスを置いた。柔らかなウイスキーとハーブの香りが立ち上り、テーブルの上の花瓶に活けられた花を揺らした。
「お、こりゃありがたい」
嬉しそうな声でそう言うと、客はくいと飲み干した。口元に蓄えられた髭に雫が光る。

「今回も、例のものでよろしいですか?」
グラスに新しいホットウイスキーを注ぎながら店主がそう訊いた。
「うむ。用意してもらおうかのう」
「では、少々お待ちを」
店主は奥へと引っ込み、なにやら探し始めた。客はその間に立ち上がり、辺りをぶらぶらと見回す。
「お前さんとも久しぶりじゃの」
店の奥にいた金色瞳の鴉猫を見つけるとそう言って微笑する。金色瞳は片目だけを開けて、どうも、と言った。
「つれないのう」
客の溜め息に、今度こそ両目を開けてこちらは鼻を鳴らす。
「よりによってこんな店に来るサンタクロースじゃあ、油断も隙もありゃしませんからね」
客はその言い草に、髭の奥でくぐもった笑いをあげる。
「よりによってこの店におるお前さんが言うのかね」
「屁理屈ジジイめ」
ぽそりと呟いた言葉は客に聞こえていたようで、金の瞳は返事の代わりにわしわしと頭を撫でられて、うるさそうにそっぽを向いた。

「お待たせしました」
店主が戻ってきて、テーブルの上に一抱えほどの箱を置く。客はその箱を開け、中を覗き込んだ。ふくよかな掌を中に差し入れると、ひと掬いほどの粒を取り出す。淡く七色に光るそれが薄暗い店内をほのかに明るくした。
「うむ、なかなか良さそうな種じゃな。花を咲かせるのに一年近くかかるが、まあ仕方あるまい。これが私の仕事じゃて」

花の蕾は、眠る人の枕元で淡く輝く虹色に開き、甘やかな香りとともに幸福な夢を見せる。目覚めた時に何も覚えていなくても、枕元に何も贈り物がなくても、それは胸の中で幸せの芽となり、花を咲かせる。
「この店のものにしては洒落たシロモノではあるな」
金色の瞳がそう評した。
もちろん、この店で扱うからには代償もある。
滴り落ちる鮮血に似た色の花がそれだ。テーブルの上、蒼褪めたような白磁の花瓶に活けられた花は、眠りに就いた人たちが一年の間に溜めた苦悩や憎悪、ストレスといった憑き物が変化したものだ。搾取量が少ないため、憑き物の量が多い人は落とし切れないまま胸の中の花を枯らす。
店主が一輪を抜き取り、香りを嗅いだ。
もとの花が持っていた涼やかな甘さとは違う、ねっとりとどこか饐えた甘さの花は身を捩るように揺れたが、店主は構わずにその花を口に含んだ。店内に濃厚な芳香が漂う。
口元から垂れ落ちた血の色の液体を舌先で拭い、店主が微笑む。
「悪くない」
その姿を見ながら、客と鴉猫は軽く肩を竦めた。

「さて、では貰っていくぞ。これから気晴らしのバカンスじゃて、仲間に遅れるわけにはいかん」
赤い外套を羽織り、箱を小脇に抱えた客はそう言うと、扉を開ける。外には乗り物が待機していた。
「おお、そうじゃった」
袋を橇に積み込んだ客が店を振り返る。
「お前さんたちにも」
小さな箱を店主の掌に二つ積み上げて、今度こそ客は去っていった。
「良いお年を」
店主の言葉に手を振りながら。

「なんだ、それは?」
店内を横切って飛んできた鴉猫が店主の肩の上から箱を見下ろす。
「さて」
そう言いながら店主が一つ目の箱にかけられたリボンを解く。
黄昏時の夕闇の下で、それはほんの僅か煌いた。蛍火を入れたガラスのオーナメントである。
満足げに鼻を鳴らして、鴉猫はそれをちょいと爪で引っ掛けると己の尻尾に器用にかけた。
店主がもうひとつの箱を開ける。
「おや」
「ふん」
わらわらと飛び出てきたのはジンジャーマンクッキーだ。アイシングで描かれた顔がわやわやと一斉に話しかける。
「煩い」
店主はそう言うなり一つを摘まみあげて口に放り込み、残りを掴みあげると店の隅に置かれたツリーに放り投げた。
「クリスマスの客が来るまで眠っておけ。煩いと食うぞ」
意地悪な口調と昏い微笑でクッキーを黙らせると、店主は再び箱を覗き込んだ。クッキーの集団の下に隠れていたのは、小さなクリスタルのグラスだった。
早速一輪、花を抜き出して真紅の蜜を滴らせて溜めながら、店主はロッキングチェアにゆったりと腰掛けて目を閉じる。

それを見て鼻で笑うと、金色の瞳を閉じて鴉猫もまた再び眠りに就く。尻尾の先のオーナメントがほんのり虹色に輝いていた。



sea_bright at 01:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2009年11月30日

迷子の時間

夕闇が降りている。喫茶店の片隅でお茶を飲みながら外を眺めている私の眼前で、しかし夕闇はじりじりと僅かに暗さを増したきり夜を迎えようとはしない。お茶もとっくに冷めてしまうほどの時間が過ぎたのに。
「おじちゃん、迷子?」
椅子の傍らから声がしたのはそんな頃だった。
白い木綿のブラウスと、赤いネルのプリーツスカート。大人のサイズのカーディガンを重たげに羽織った5歳ほどのおかっぱ髪の少女が私を見上げている。ぱつんと切り揃えられた前髪の下の丸く輝く瞳が可笑しそうに笑っている。
「え、いや」
言いかけて私は言葉を失った。
どこへ行くのだったか。何を待っていたのだったか。
「あたい、おじちゃんの行き先、知ってるよ」
連れてったげようか?
少女は私の腕を引いた。つられたように立ち上がった私の掌の中に小さな手を滑り込ませて握る。
「行こう?」
抗えぬまま、私は頷いた。

かららん、と軽やかなベルの音とともに私たちは店の外へと出た。店内で見ていたよりも外は薄暗い。通りには幾人かの人通りがあるが、誰の顔も判別が付かなかった。
逢魔ヶ時と言うんだよ。
誰かの声が耳元で甦った。いや、それは私自身が言った言葉だったろうか。
「おじちゃん、こっちこっち」
私の手を引くこの少女もまた、人ではないのかもしれない。
だが、私は引かれるままに通りを歩き出した。
「おじちゃん、探し物をしてんだろ?あたい、それが何か、知ってるよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩きながら少女が言う。
「そうなのかね。では、いったいそれは何だろうか」
私の言葉にけらけらと笑う。
「ダメダメ。あたいが答え言っちゃったらおじちゃん、つまんないだろう?自分で気づかなくっちゃ」
「でも、本当に何も思い出せないんだよ」
「あたい言ったろ。おじちゃん迷子だろ、って。迷子ってのは、自分の居場所や行き場所が分かんないんだ。そんで、迷ってるうちに、だんだんいろんなものが分からなくなっちまうんだよ」
名前も、昨日も、好きだったものも、ぜぇんぶね。
少女は歌うようにそう言うと、石畳の道をぴょんぴょんと飛び跳ねて歩く。握られたままの私の手が一緒に上下に揺れる。
「名前も、昨日も…」
「そうだよ。だから迷子はゴールしなくちゃいけないんだ。出口のない迷路はないんだから」
開いているほうの人差し指を立てて賢しらげに振ってみせる。
「入り口しかない迷路だってあるんじゃないのか」
袋小路になった四角い箱を思い浮かべながら言うと、少女はけたけたと笑った。
「ばっかだね、おじちゃん。そういう迷路の入り口は入り口って言わないんだよ。出入り口、って言うんだ」
たとえ、元の場所に戻ってくるだけだとしても、出口は出口さ。

ぎいい、と軋んだ音を立てて扉が開いた。
通りよりもなお一層暗い店内に茫とした明かりが灯る。
「おや。お出かけでしたか」
店内にいた人物がこちらを見止め声をかけてきた。ぴょん、と少女が私の手を離して跳ぶとその人物の傍に寄った。
「あたいはただの散歩だよ」
ほう、と声が答えてその人はこちらを見る。
「私は、その」
言いよどんだ私の代わりに少女が答える。立ち尽くしたままの私に近寄ると、くるんと私の周りを一回りした。
「おじちゃんはぐるんと回って戻ってきたんだよね」

カチリ、とどこかで音がした。
ああ、そうか。
「ええ、ぐるぐると堂々巡りをしながら」
私の言葉に店主は微笑んだ。そう、店内にいたのは店主。
私や少女のような怪しくも妖しいモノたちを扱う、世にもアヤシイ店主だ。
「まあ、散歩ぐらい構いませんよ。あなたたちは私のものではない、ただ、ほんのいっときの仮宿としてここにいるだけなのですから」
時間のない通りのいっときは、瞬きするほどの時間から、悠久の時まで様々だけれども。

「あたい、疲れちゃったから寝るよ。おじちゃんは?」
「そうだね。私も一眠りしようかな」
再び二人で手をつなぎ、店内を横切る。雑多なものたちの中を抜けて奥へ行くと、大きな扉があった。開いて、どうぞ、と少女を促す。
「あたい、ヤギさんじゃないけど、ここで寝てもいいの?」
私は頷いてみせる。
「もちろんさ。時が来たら起こしてあげよう」
私の大きな振り子が奏でる音楽でね。

そうして眠りに就いた古ぼけたグランドファーザークロックと、中に入った白いウサギのヌイグルミを眺めて店主は少し笑うと、自分も椅子に腰掛け、しばし目を閉じた。

動かない時間の中で、古時計が静かに立てる振り子の音だけが響いていた。



sea_bright at 00:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2009年10月31日

パンプキンのお菓子

「いらっしゃいませ」
黄昏時の店の中で、入ってきた客に声をかけたのは、薄闇の中に居てなお、いっそうの濃い闇を纏った人物だった。
「何だ、そのなりは」
客は開口一番呆れたふうにそう言い、その全身を眺めやった。
黒尽くめの店主は服の上に重たげなマントを纏い、いつも昏い微笑を湛えている口元に細く光る八重歯を覗かせている。手にしているワイングラスには、ねっとりと重たい赤色の液体が入っており、ぼうとした光を包んでいた。
「先ほどまで、ハロウィンのお客が来ていたのさ」
店主は、客が顔見知りだと分かると砕けた口調で笑った。
季節も時間も時代も無視していつでも黄昏時のこの通りに店を構える店主はそう言うと、いつもより少し明るい灯りを点した。ぽうと光る球体を飲み込んだジャック・オ・ランタンがにやりと口元を歪めて笑う。
「それで、今日は何の用かな」
店主はその脇に置かれたアンティークのロッキングチェアに座って客を見上げる。ぎいと軋む音は、椅子の立てる笑い声に重なる。ひそやかに賑やかな物音を立てる店の品物たちを眺めて客は肩を竦め、店の奥に置物のように鎮座している鴉猫がその翼を蝙蝠のものに変えているのをみて大きく溜め息をついた。
「店中でハロウィンか」
その客の一部であるはずの鴉猫は、いつもの金色の瞳を細く開けほんの少し笑ってみせた。

「まあいい。私の用事もそう遠くない」
客もまた、手近な椅子に腰をかけて、店主を見やる。
「闇の南瓜が欲しいんだ」
簡潔にそう言ってのけた客に向かって、店主は眉を上げて見せる。
「なくはないが」
そう言うと、店主はランタンを指差した。目を見開いたジャック・オ・ランタンのその両の眼窩に指を突き刺し持ち上げた店主は、開いた方の手を口元に突き入れ、中で光っていた球体を取り出した。途端に表情豊かだったランタンはただの刳り貫かれた南瓜になり、代わりに店主の手の上で光る球体が踊るように跳ね、青白い炎になる。
「欲しいならこっちも付けるが」
炎が揺らめいて、店主の瞳を怪しく煌めかせるが、客は頓着せずにかぶりを振った。
「いや、そっちは必要ない。私が欲しいのは、店で出すためのパイやタルトやプリン用の南瓜だから」
そう言うと客は抜け殻になった南瓜を手に取り、店を出ようとした。
「お代は?」
店主がその背中に声をかける。
「要るのか?」
客が問い返す。さも厭そうなその口調に苦笑しながら店主は首を振った。
「訊いてみただけさ。夜にでも、お茶を飲みに行くよ」
厭そうな表情を浮かべたものの客は頷き、通りを去っていった。

「お前の本体は気難しいな」
蝙蝠猫になっている金の瞳を見やって店主がぼやくと、それは一つ鼻を鳴らした。答える代わりに、別のことを口にする。
「夜に紛れるものたちに、あの店を紹介したのはそっちだろう。おかげで食材を調達する羽目になったんだ。お互い様さ」
ハロウィンの仮想をした人々に紛れて、本物も踊り浮かれる夜。
悪戯かお菓子を選べと迫る彼らに振舞われる、闇の南瓜で出来たお菓子と、甘いお茶は、彼らの英気となり、妖気となるのだろう。
「では、頃合を見て、私たちも出かけるとしよう」

いつまでも黄昏の通りを駆け抜けていく影たちを歪んだガラス越しに見やりながら店主は昏い笑みを浮かべた。もの欲しそうに光る牙を眺めながら、金色の瞳は、とりあえず目を閉じた。
暫くは蝙蝠のままの翼を軽く羽ばたかせながら。





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2009年09月30日

甘い毒 ――黄昏綺譚――

「痩せるお菓子が欲しいの」
店に入ってきた少女はそう言った。何か言おうとする店主に向かって手を振る。
「ああ、別に太ってないですよとか、ちょっと肉が付いてた方が可愛いですよとか、そう言う言葉は要らないから」
「お客様のご希望に添えて幸いですが、もとより心にもない言葉は言わぬ性分ですので」
「……そこは言いなさいよ!」
薄暗がりの中、店主は眉を上げてみせた。もっとも、曖昧模糊とした店内の光量では客の目には見えない。
かわりに、店の奥でくっと音がした。いつもの金色の瞳が笑いを堪えたのだろう。
「ま、いいわ。それで、痩せるお菓子はある?」
「ございますよ。たとえばこのキャンディー」
そう言うと店主はテーブルの上に置かれた布をめくって見せた。
そこには駄菓子屋に並んでいるような丸猫瓶がいくつか並んでいる。その一番端の瓶に詰められた色とりどりのキャンディーから、赤い一つを取り出した。仄暗いランプの灯りに透かされた赤が店主の指先を僅かに染める。
「これは七色飴玉。恋煩いの苦しさ、離別の悲しみ、夜更けの哀愁、胸塞がる想いが食欲を遠くへとやってしまい、あまりの切なさに身も細る飴です」
七色ございますから、いろいろと楽しめますよ。
店主はそう続けたが、少女は顔をしかめた。
「楽しくないでしょ、それ。他にはないの?」
「ではこちらなどいかがでしょう。カーレンのチョコレート。食べれば、昼も夜もなく踊り続けた少女のようにカロリーを消費いたしますよ」
店の片隅に置かれた赤い靴がほんの僅か期待するように震えたが、客は気付かない。
「残念。私チョコレート苦手なの。他のは?」
「それではこちらでは。激震ラムネ。食べた分だけ痩せますよ」
目を輝かせた少女に店主は続ける。
「もっとも、一粒一グラムですけど」
「いくら食べればいいのよ、それ。他!」
「ではこちらでしょうね」
そう言うと店主は小さな地球瓶を取り出した。そこには乏しい灯りの中でもとろりと光る液体が満たされている。
「これは水飴です。厳密に言えばお客様の求めるお菓子とは形が異なりますが、料理に混ぜても、飲み物に加えても結構。一日に小匙一杯ほど摂取すれば、瓶が空になる頃にはお望みの体型になりますよ」
「へえ、悪くないじゃない。ていうか、これが一番理想的じゃないの」
少女はそう言うと、店主から瓶を受け取ってまじまじと眺めた。とろりと濃密な蜜の中で気泡がきらきらと光っている。
「毎夜ごとに降る星屑が入っておりますから、体の内側から光り輝く美しい肌も手に入れられますよ」
店主はそう言って微笑んだ。その笑みが昏いものであることには少女は気付かない。
「じゃ、これをちょうだい。幾ら?」
「お客様が減らした体重と同じだけの時間をいただきましょう」
少女は店主をにらみつけながら呆れたように言った。
「失礼な物言いね。言っとくけどそんなに重くないったら。それに重さと時間をどう比較するのよ?痩せたは良いけど、人生終わっちゃったなんてのはごめんよ」
「ご心配なく。ちょうどのこの時計の長針が一巡りする程の時間でしょう」
そう言うと店主は壁にかかった時計を指し示した。そこには長針と短針しか存在しない、真っ白の盤面の壁掛け時計があった。
「じゃあ、それでいいわ。ありがとう」
少女はそう言うと水飴の瓶を手に店の扉を開けた。
「いいえ。こちらこそ」
そう言った店主の表情は既に背を向けていた少女には見えなかった。

「あの時計」
扉が完全に閉まると、店の奥で金色の瞳が瞬いてそう言った。
「あれは確か、寿命時計じゃなかったか」
「その通りだよ。誕生を起点として死をもって終点とする、起点と終点の同じ円。人生を司る盤面は針の動きと共に色をつけて絵を為す。彼女の場合は、おや、既に四分の一が彩られているね」
真っ白だった盤面は緩やかに動きだした時計の針と共に一画に色を為した。
「じゃあ、結構な時間を搾取することにならないか」
その言葉に店主は笑う。
「花の命は短いという言葉があるだろう。どうせなら花咲き乱れる時間をいただいた方が美しいじゃないか」
もっとも、と店主は付け加えた。
「彼女が己の体型にどこで妥協するかにもよるけどね」
それ次第で、針の動きは変わるからねぇ、と店主は色のついた盤面を撫でて数本の花を取り出すと僅かに笑って花瓶に挿した。
飴に似た甘い香りがほんの僅か店内をかすめ、金色の瞳は、ふん、と鼻を鳴らして目を閉じた。


sea_bright at 23:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2009年08月31日

失くした指輪 ――黄昏綺譚――

「必ず帰ってくる。だから待っていてくれないか」
そう言って、あの人は私の指にそっと手を添えてリングを滑らせ嵌めてくれました。
華奢な銀の、小さな石のついた指輪です。
零した涙が落ちて、きらりと光りました。


「失くしてしまったんです」
その客は、淡々とそう言った。悲しむでも落ち込むでも、逆に晴れやかでもなく。
「こちらにありませんか?」
「どうしてここにあると?」
店主は、あるともないとも言わず、そう問い返した。
「だって、この店はそういう店なのでしょう?」
昼と夜の境目。夢と現実の狭間。どこにでもあってどこにもない、黄昏の通りにある古ぼけた骨董屋。
ないものはないのだと、店主が昏く笑う店。
怪しく妖しい品々が手招いた客だけが、その路地に足を踏み入れることが出来る。
「だから、私の指輪もあるのではないかと思ったの」
客はそう言って、細長い指を顔の前に掲げてみせた。光源の乏しい店内で、飾り気のないその指が白く浮かび、光を発しているかのようだ。
闇が滲んだような笑みを浮かべて店主が訊いた。
「代わりに何をお支払いになりますか」

「何を払えばいいかしら」
客は動じることなく尋ねる。店主は、どうぞ、とアンティークのソファを勧め、コトリ、と湯気の立つティーカップをクラシックなミニテーブルに乗せた。
「少々お待ちを」
寛いだ様子の客の前から店主は一度姿を消した。その間、彼女はぐるりと店内を見回した。天井から吊り下げられた水晶のシャンデリアは灯りを点さず、風もないのに微かに軋む音を立てて揺れている。ガラスのキャビネットの中では、てんでばらばらの位置を指した幾つもの置時計が針を動かさぬまま音を立てる。店の奥には金色の瞳と黒い翼を持った猫の置物が高い位置から店内を睥睨しており、入り口の横には朧な光しか持たぬランプが光る。
そのかえって輪郭を曖昧にさせる光の中で、一枚の姿見が彼女の姿を映し出した。薄闇の中でなお白く光る肌。粒子をまぶされたような艶やかな金の髪。そして、碧く煌く瞳。
彼女はその姿を見て僅かに息を吐いた。吐息よりもひそやかに。そうしてひとりごちる。
「少なくとも私は、不幸ではないわ」

「お待たせいたしました。こちらでございますね」
店主が客の前に指輪を置いた。
手に取って、ためつすがめつしながら客は呟いた。
「よく似ているけれど、少し違うわ」
店主は頷く。昏い微笑を口元に浮かべた。
「お客様の想いの分だけ色褪せたようです。お望みとあらば、色を元のように戻すことも出来ますが」
彼女はそっとそれを指に嵌めた。白い指にするりと入った指輪をそのまま、ランプへ掲げる。薄暗いランプの明かりに石は碧に輝いたけれど、ほとんど透明に透けていた。
「これでいいわ。私の想いの色だというのなら」
そう言うと客は微笑んだ。店主のそれとは違う、朗らかさで。
「指輪は失くしてしまっていたけど、色褪せても想いは失くならないのだもの」


あの日、あなたは私の元へと帰ってきました。
私は教会の入り口であなたと再会をしましたね。純白を身にまとった私を見て、あなたは綺麗だねと言ってくれました。
私の指に嵌っていた輝く石をちりばめた金色の豪奢な指輪をそっと撫ぜた私の夫の手を握って、私はあなたに微笑みました。
指輪一つで何年も繋ぎとめられはしないのよ。
あの夜、私はあなたのくれた指輪を失ったのでした。


「お代は私の命でどうかしら」
客の言葉に店主は眉を上げた。客は、薄闇の中でそれを認めて頷いた。
「分かっているわ。私の命なんてたいしたことないことくらい」
「いいえ。そんなことはございませんよ。ですが、お客様はそれより面白い品物をお持ちです。そちらと交換ではいかがでしょう」
店主はそう言って、彼女の白い手を取った。指輪の嵌められた指が、ぽう、と光り、小さな天秤を生み出す。
「こちらをいただきます」
店主の手に載せられた天秤を見つめながら、客は暫し思案していたが、吹っ切ったように笑って、それでいいわ、と言うと、店を出て行った。
入り口のランプが、彼女の骨を白く光らせていた。


ねえ、あなた。私、指輪を失くしてしまったんです。
いつの間にかこんなに痩せ細ってしまっていたのね。するりと抜けて、どこかへ落ちてしまったの。
私は、二人の男に貰った指輪を二つとも失くしてしまったのね。

あら、あなた。来てくださったのね。
もうお会いできないと思っていたのに、あの人が連れてきてくれたのね。
私は、二人の男に見守られながら眠ることが出来るのね。愛しているわ。二人とも。


「あれだけ、等分に愛せる人も珍しいね」
客の去ったあとの店内で、店主はそう言って笑った。店の奥にいた金色の瞳の猫がそれに応える。
「足して二で割ったような指輪だったな」
金と銀をより合わせ、二つの色を溶け合わせた石を嵌めた指輪。彼女はそれを抱いて、墓の下に戻るのだろう。
「おかげで面白いものが手に入った。どんなものも同一の重さにしてくれる天秤なんて、売りつけたら楽しそうじゃないか。仕事と恋愛、現実と理想の両立が出来るとなれば、需要は多そうだ」
「同価値になれば、それはまた波乱の種になるのだろうがね」
店主は天秤をテーブルの上に置くと、皿を突付いて揺らしながら哂った。
「それがまた面白いんじゃないか」
猫は鼻で笑って、目を閉じた。

天秤は載せるものを待ちながら、静かに揺れている。


sea_bright at 23:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)黄昏綺譚 

2009年07月31日

たゆたう夏

「いらっしゃいませ」
店に入るとそう声がした。歓迎しているでも、迷惑に感じているでもない、無表情の出迎えの言葉。
眼を転じると、店の奥に声の主がいる。薄暗くて顔は見えないが口元に昏い微笑をたたえているのだけは見える。
「夏が欲しいんです」
その口元を見ながら僕はそう言った。
「どのような夏をお求めで?」
店主は格段驚きも戸惑いも見せずにそう言う。そういう店なのだ、と僕は知っている。無いものは無いと言ってのけ、お客の持つ何か、たとえば記憶や時間や宝物など、と引き換えに品を売る店なのだ。一度も来たことがないにもかかわらず僕はそれを知っている。
夢に似ているのだろう。
どんな不思議なことも辻褄が合わないことも、不思議なリアリティを持っているのにどこか曖昧な夢に、この通りはとても似ている。
いや、これは夢なのかもしれない。
それならば、僕が求めているものもまた夢の一部なのかもしれない。

夏期講習からの帰りだった。驟雨に見舞われ入り込んだ路地の店。足を踏み入れた途端、雲に覆われただけではない薄暗さが辺りを包み、全ての輪郭をおぼろげにさせた。人も、品も、時間も、現実も、全てをおぼろげに。そう、まるで黄昏時のように。
現実もこれくらい遠ければいいのに。
「この夏を僕は感じることが出来ない」
玉砕覚悟で告白しようとした矢先に、好きな子には彼氏が出来た。
万全の体制で臨んだはずの模試で、惨憺たる結果が出た。
塾と家との往復ばかりで、目新しいことは何も無く。
たまの休みに一緒に暇を潰せる仲間も築いてこなかった。
夏は、窓の外で眩いばかりで、強い日差しは僕の心まで届かない。
未来に何も見出せないまま日常に流される日々。

ああ、やっぱりこれは夢なのだ。

「海などいかがでしょう。お誂えの品物がございます」
店主がそう言って微笑んだ。
海か。
僕は眼を閉じる。砕ける波頭。穏やかな潮風、海面には太陽が砕け、夜には月がちりばめられる。力を抜いて波に身を任せれば、どこまでも漂っていけそうな。
僕の表情を察して、店主は品物を取り出した。
それは古いラムネの瓶だ。瓶は古いものの、中には炭酸が入っていて、小さな気泡が静かに上って行く。
「飲み干して、ガラスの玉を覗き込んで御覧なさい。そうすれば、海へといざなわれるでしょう」
ただし、と店主は付け加える。
「一度誘われてしまえば、もう戻ることは適いません。現身は脱ぎ捨ててしまえば、二度と身に纏えぬもの。蝉や蝶が抜け殻の中へは戻れぬように」
それで自由を得られるのなら構わない。
僕はその瓶を受け取った。
瓶の口を覆ったガラス玉に触れると、それはあっけなく炭酸の中に落ちた。くびれの上に鎮座し、周りをいくつもの泡が覆っている。透かし見ると、ガラス玉の中に海が見えた。水面を見上げた海の中の世界。炭酸水の中のもう一つの水の世界。きらきらと零れ落ちてくる太陽の光が揺らめいている。
僕は瓶を持ち上げ、炭酸水を飲んだ。
コロリ、と微かに音を立てて転がったガラス玉は瓶の縁で止まることなく、喉の奥に落ちた。一瞬喉を詰まらせて、ガラス玉は、溶けた。
口の中には炭酸の刺激とともに、潮の香りが混ざる。
潮の香りはどこか血の味に似ていた。その潮の香りが体内いっぱいに満ちて。
そして僕は溶けた。

眼の前に、水が広がっていた。頭上で砕ける光は、先ほど見た瓶の中の世界と同じ太陽だ。ふるり、と身が震える。僕の身体はほんの僅か浮上し、そして漂った。進もうとして、けれど波に阻まれ流される。たゆたう僕は体内を潮で満たした小さなくらげだ。
周りで炭酸水のように小さな気泡が浮かび上がっては弾けて消えていく。
僕はやがて知るのだろう。
頼りない存在の自分を。いつ何時崩れて溶け落ちるかもしれない自分を。行く宛てもなければ、行く手段も無い自分を。
しがらみの無い自由の不自由さを既に感じながら、波に揺られて眼を閉じた。


「日常に流されるのも、海で流れに身を任せるのも、そう変わらないと思うがね」
客の消えた店内で店主はそうひとりごち昏く笑った。いつものように、店の奥にいた金色の瞳をした鴉猫は、それに軽く鼻を鳴らし、それから飛翔して客が溶けた場所へと着地する。そこには小さなガラスの玉があった。
店主が拾い上げ、空っぽになったラムネの瓶にそれを落とす。
こぽり、と音を立て、水が満たされ、玉を包んだ。瓶の中でガラスの玉はやがて成長し、瓶の中の夢に蓋をする。
「今度はどんな味になるんだろうね」
まだ小さな玉を瓶ごと軽く揺らして店主は笑った。
瓶の水は、ほんの少し、花の香りがしていた。



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