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物事には側面といったものがあり、単純には逆の発想ぐらいはしないと、間違った認識、判断をしかねない。

日本が重国籍を認めたら、僕の戸籍も復活できるかもしれないし、日本のパスポートも持てる。オーストラリアは重国籍を認めているから問題なし。それは個人的レベルではいい話である。

 

但し、日本に滞在している多くの外国人への行動への影響も考えないとならないと思う。既に、日本人に帰化した外国人も増えてはいるが、これまで『出身国が重国籍を認めない(中国、韓国等)為に帰化をためらってきた人たち』が帰化申請をはじめるのではないだろうか? 勿論、制度的には彼らの本国が重国籍を認めなければ、状況は変わらないとも言える。但し、日本人でさえ多くの人が『なんちゃって重国籍』である現状を考慮すると、彼等も『なんちゃって重国籍』予備軍であることは簡単に想像できる。

 

現状では、日本が重国籍を認めない為、帰化の際に『他の国籍の有無、離脱状況等』の確認をしていると考えられるが、日本が重国籍を認めたら、その審査は必要なくなる為、在住外国人で要件を満たす人たちは、取りあえず日本人のパスポートも貰っとこ!…となるのでは。この場合の日本の政治や社会に与える影響を考えると、とても手放しに『日本も重国籍を認めるべき』とは思えない。既にメディアや政界にも浸食している『外国人』勢力が、我々は日本人だと大手を振って選挙権を得て、日本のパスポートを入手する。そして『我が国日本は…』なんて語り始めるであろう。恐ろしい。(但し、本当に日本が好きで日本人になりたい外国人であれば、それは素敵なことだと思います。)

 

日本人でも便宜上の為だけに外国籍を取得する人たちがいる。勿論、その逆もありなので、『日本も日本人も大っ嫌い』と公言しながら日本に帰化する人もいる。そんな輩が増えるよりは、現行の原則の方が抑止力になっているのではないだろうか。更に特別永住者への厚遇もこの観点から考えると意図があるようにも思える。ここに大きな差、つまり日本人である方が圧倒的に有利となった場合には、もう5世代目になっている特別永住者が一斉に帰化するのでは?代々日本で生まれ育っている彼らは簡単に帰化手続きをクリアして日本国籍になれるであろう。

 

本当に日本の重国籍、賛成ですか?

 

そんな祖国への危機感を持つ自分は既に外国人だけども…

なんちゃって重国籍

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日本人の重国籍を語る場合、大きく二つに分けて考えるのが分かりやすいかと思います。

 重国籍の日本人

 △覆鵑舛磴辰峠店饑辧米本人のように振舞っている外国籍の人)


 は日本人が国際結婚(養子縁組)などで自動的に外国籍を得た場合、外国人が日本国籍に帰化したとき(母国での国籍離脱が不可能な場合など。例:ブラジル)。そして国際結婚の子供など、自動的に複数の国籍を持つケース。これらの場合は日本人の重国籍は合法的にあり得ます。


△里覆鵑舛磴辰峠店饑劼両豺腓蓮日本人が自分の意志で外国籍を取得したケース(国籍法11条)ですので、外国籍取得と同時に自動的に日本国籍を喪失します。喪失届を出していない場合は、戸籍も残りますし、残存期限のある日本旅券を使うことも、新規に交付申請をすることも可能でしょうが、その度に犯罪(不法入国、不法滞在、公文書に虚偽の申告等)を重ねている不良外国人になってしまうというのが残念な実態です。

 

さて、,両豺腓聾従では問題なく重国籍で生きていけます。生まれながらに重国籍になった日本人の場合は、国外での出生時から3ヶ月以内に出生届(国籍留保)を提出することにより、日本の戸籍が作成されます。(国籍法第12条,戸籍法第104条)22歳までに国籍選択の必要がありますが、こちらは日本国籍を選択して、外国籍を失くす努力を続けることで、日本国籍の保持が可能です。従って、『国際結婚の子供たちの為に二重国籍を…』という議論は無用と理解します。実際には重国籍が認められている,世らです。

 

なんちゃって重国籍は、本当の意味での『なりすまし日本人』だと思います。巷では日本に帰化した外国人のことをそのように揶揄して呼んでいる人々がいますが、帰化をしている正真正銘の日本国籍保持者なので、言葉としては間違いだと考えます。

 

『(国籍喪失届けを)出さなくても大丈夫だよ!』という人もいますし、なんちゃって重国籍でもばれない人もいます。但し、それは日本での長期滞在をしていない場合だと思います。いざ、日本に長期滞在や永住となると、いつか外国人であることが発覚するでしょう。行政書士の方のお話では、パスポートの切り替え申請時にバレルことが多いそうです。

 

そこからの考えられる状況は、(日本のパスポートで入国した前提)日本のパスポートの更新が出来なくなる>(ここで国外に出る人もいるそうです、或いは)市町村役場に行って国籍喪失届を出す>不法滞在外国人になる(ここで国外に出る人も)>入国管理局に出頭する>不法入国者(入管法70条1項1号)に分類され、退去強制手続きや収容の対象になる(退去強制されると5年間は入国禁止(入管法50条1項9号ロ上陸拒否事由))はずだが、元日本人である(入管法50条1項2号)ことから短期間の違反調査、違反審査、口頭審理を経て「日本人の配偶者等」の在留資格許可が与えられ、その後に合法的な滞在が可能となる。(他の者の入管法違反や犯罪に関係している場合は、不法上陸者への刑事罰が課せられる可能性あり。3年以下の懲役・300万円以下の罰金(入管法70条1項))

 

但しこういった『前科』があるので、その後の査証の延長や、永住、帰化申請の際の審査には影響があるかと思います。従って、なりすまし日本人になるよりは、国籍喪失届をきちんと提出するのが良いことと考えます。元日本人の場合は、「日本人の配偶者等」での在留資格がありますので、働くことも可能です。勿論、そのまま住み続けて日本での永住や帰化申請も可能です。「日本人の配偶者等」の『等』に子供という意味があり、出生時に日本人の子供であれば、その(日本人の)親が離婚していても、他界していても、生涯在留資格は変わりません。日本人の子という事実は戸籍(除籍)謄本で証明できます。

 

なんちゃって日本人でも救済されるべき人達も存在します。親が海外で出生届(国籍留保)を期限内に出さなかった為に、日本国籍を失ってしまった人。ロシアなどの社会主義の国の一部で、親が勘違い(知らずに)国籍申請をした為、『本人が自分の意志で外国籍を得た』と看做されて日本国籍を失った人。国籍が自動的に与えられるのか、申請によるものなのかの違いを理解しないと、こういった重大なミスが起こりえます。


「重国籍を認めろ」との運動がありますが、これは移住1世に対しての意味合いが主です。うちの場合は、SophieもJamesも生涯重国籍でいられますし、その後の子孫も手続きさえ取れば永久に重国籍者でありえます。(法改正や解釈の変更がない前提) 

 

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1週間前。KL時代のロータリークラブの友人Sunと奥さんがシドニーに来ていたので、ゴールド達磨で夕食をした。シンガポールで働いている長女シェリーとシドニー大学で勉強をしている末っ子(4女)のシェーミンとも久々に再会した。長女は初めて会った時には17,8ぐらいだったので、大人っぽくなったなあぐらいの感じだけども、末っ子は6歳ぐらいだったので、面影はあるけれども子供の成長にはびっくりさせられた。

気がついたらもう4月も終わりそう… 時間が経つのがとても速い。来月18日には連邦議会選挙。季節も秋になった。今月になってから頻繁にカラオケに行く機会が増えた!シーズンなんだろうか?まあ、一緒に行く相手が見つかったので、ごく自然に足が向かってしまう感じかな。昨日はカラオケランチで4時間、これは新記録かもしれない!?

最近になって図書館から借りて神道の本を読んでいる。宗教だと思って考えると不思議な感じだったけれども、スピリチュアルな観点からだとすんなりと理解できる。(気がする)


1989 E3 P6 あの日、あの頃、今は過去

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恐らく唯一の読者であろうマキさんのアンコールにお答えしてストーリはちょっとつづく。

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1990年の夏、台湾人のピーター、ユカ、ミチと

1991年も4回目のサマースクールでのボランティア。夏前にコンコードも卒業して、Aレベル試験の結果待ちをしながら、シティーのYMCAに滞在していた。3週間だけ荷物をトランクルームに預け、夏のコンコードへ戻った。

 

土曜日のお昼過ぎにAグループがバスで到着して、メインホールでの開校式。部屋割りをして、鍵を渡し、男子達を部屋まで案内した後に、職員室の裏手の広場に集まっている生徒たちに目を向けた。30人ほどの参加者の中に、ルミがいた!

 

でも、あれから2年が過ぎている。

元気に芝生の上を飛び跳ねている姿は高校2年生にしては、子供っぽ過ぎた。いや、よく見ると随分と幼い。

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1991年ミドリ、チャコ、もう1人誰?!

『参加者のリストを見せてもらえますか?』と前年も来ていた添乗の恵理さんに聞いて、受け取った。リストを見ると、ルミと同じ苗字があり、『ミドリ 小学6年生』の名前があった。住所も同じだったので間違いない、彼女の妹が参加をしていた。

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1991年Aグループ 月曜日の朝に撮影

日曜日はウォーリック城、ストラットフォードへ遠足。月曜日から授業が始まり、毎回お決まりのケース校長のホームビジット、火曜日の夜は隣町でのボーリング(アイススケートはこの年から無くなった!)水曜日はチェスターへの遠足、土曜日はアルトンタワーズ遊園地への遠足、そして夕方から閉校式とほぼ2年前と同じコースを過ごした。

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1991年遊園地にて

コンコードに戻ってからの3週目のお休みの週、ルミに手紙を書いた。サマースクールの事、ミドリの事。その後、ロンドンに戻り、大学生活が始まった。ジュリエットもマレーシアから戻り、タイムスリップをしたような『非日常の夏』が終わり普段の生活に戻った。

 

ルミからの手紙が届いた。彼女から初めての返事だった。

薄い紫の便箋に書かれた手紙をYMCAの部屋で読んだ時には涙がこぼれた。

3回目も4回目も読み返すたびに泣いている姿を見て、ジュリエットは呆れていた。

 

彼女は元気にしていた。あの時の事はもうどうでもよい事…まあ、そうだね、過ぎた事だし。ルミからの『最初で最後の手紙』は読み返すたびに『あの日、あの頃』に飛んでしまうので、その後、読み返すことなくなっていた。

 

ルミからの手紙は、いくつかの写真と共に、クアラルンプールのコンドミニアムの部屋に置いてあった『封印箱』に入っていたのだろう。その箱も2016年に引越しをしたときの荷物にはなかったので、もう無くなってしまった。今となっては、当時の記録を垣間見ることが出来るのはサユリからの手紙しか残っていない。

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1989年ケース先生のお庭にて

1989 E3 P5 Goodbye

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Aレベルの授業が始まり。忙しくなってきた。GCSE(中学課程)のときは常にトップだった毎週のテストも、かなり優秀なギリシャ人3人組と激戦状態。幸いなことに、GCSEの英語をパスしていたので、英語の授業に出なくて良くなったので、授業数が減った事。

 

ルミからの返事は一向に無い。そのかわりにサユリ、ミチ、スケートで骨折したハナコや他の参加者からの手紙や写真が届いた。モリス校長と話したときに、日本に帰国することも考えていた。留学3年目で、ようやく中学を卒業した時点での帰国。意地になっていたのだと思う。なんとか誤解を解きたいっと。あの時日本に帰っていたら、僕の人生は大分違うものになっていただろう。でも、それは小我の選択であり変なプライドや自尊心で人生を棒に振る行為だと今では分かる。

 

サユリからの手紙には『一番いいのは話し合うことかもしれないけど、彼女、史朗さんが好きだから、相談しちゃうと思うの。史朗さんは「ふゆきのことなんて考えるな。」みたいな事言って、終わりにしちゃうと思うしさ。それにふゆきさんは誤解がとければ、それでいいんじゃダメなの?ふゆきさんはどうしたいの?』

 

史朗?えっそうなの?呼び捨てにしやがって!(小百合ちゃんの勝手な想像だけと、言いそうな奴!)彼もヨーロッパ系の多いサマーコースに参加していた日本人の一人。そうか、もう一人『静かな』敵がいたんだ。あの野郎!(笑)


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1989年ルミ、サユリ、史朗、ユカと最後の写真

***

 

1990年夏 1年が過ぎて、僕の状況はかなり変わっていた。その年の1月入学で同じクラスになったマレーシア出身のジュリエットと交際が始まっていた。彼女は夏休みでクアラルンプールに戻っていたので、7月は2年ぶりにカーディフに住むコップ夫妻(モリス校長の伯母さん夫婦)のところでホームステイをして過ごし、サマースクールの3度目のボランティアでコンコードに戻った。

 

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1990年ミチとメインホールの玄関前で

Aグループの中にミチがいた。2年連続参加?!そしてサマーコースの方にはユカが参加をしていた。もう忘れかけていた、1年前の記憶が蘇った…と思うけど、『もう過ぎたこと』と二人に会った時もルミのことは話さなかったのかもしれない。マユはイギリスの他の学校に転校して行ったので、モリス校長の言ったとおり、あの一晩我慢をしただけで、すべてが終わった。

 

今年の8月で丁度30年になるけれども、今では全てが懐かしい思い出になっている。あの史朗でさえ愛おしく感じる(←嘘!)マユのお母さんは、どうしたかったのだろう?マユのお兄さんでいてほしかった?マユの彼氏になってほしかった?それとも本気で自分のに対して『遊び人』と幻滅して嫌悪感を抱いて、ルミが被害者にならないようにと勤めただけなのだろうか?それにしてもすごい執念だったけど!マユもその後ちゃんと学業を終えて、社会人になって、結婚とかしたのかな。

 

夏休み前だったと思う。週末に何かがあって、女子寮にいたマユを呼び出して叱ったことがある。男子との夜遊びの件だったかな。その後で、誰かがマユが倒れたと呼びに来て、女子寮に行くと、急性アルコール中毒になった彼女が倒れていた。女子数名で飲んでいて、ウォッカを一気飲みしたらしい。まったく、手のかかる子だった。というか、あの時点で問題児を退学にしておけば良かったのかな?!そうすればモンスターママも出番が無かった筈。ドラえもんはいつになったら僕のもとに来てくれるのだろう。

 

(おわり)

 

1989 E3 P4 新学期

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ノッティンガムでの平穏な日々を終え、新学期のためにコンコードへ戻った。

文字通り世界中から戻ってくる生徒との再会、希望した部屋が割り当てられたか、預けていた大型トランクやスーツケースを部屋まで運ぶ作業、この時期はお祭りのような騒ぎになる。希望通りのベルハウスの部屋に荷物を運んだあと、メインホールに向かい手紙を受け取る列に並んだ。受け取った手紙の束に誰からの手紙があったかの記憶はないけれども、その中にサユリからの手紙があった。写真も同封されていたのだと思う。

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先週の金曜日に事務所に置いてある写真を整理していたら、その手紙だけが混ざっていたのである。他の手紙は無く、彼女からの1通だけ。なんで?と自分に問うも答えはわからない。この手紙は過去に日本の実家に送った中に入っていた筈で、たぶん2年前に一時帰国をした際に持ってきた数通の手紙に中の一つである。30年ぶりに読み返してみる。なんとなく記憶に残っているものの、再度読んでみるとものすごく懐かしい人たちの名前が並んでいた。今読むと思わず笑ってしまう。

 

当時はその手紙を読んで落胆したと思う。サユリの正直で優しい文面は嬉しかったけれども、伝えられた状況は想定外だった。マユの母親は日本に帰ってまでも、ルミ達に連絡をして、あれこれと被害を拡大していた様子が伝えられた。マユからルミ宛に、僕を援護する手紙が送られた(らしい?!)みたいだけども、それも直ぐに母親から全否定されたらしい。イギリスのど田舎で何もできない自分は無力感を感じていた。僕の書いた手紙は、洗脳されたルミには『大人の人が書いた上手な作文になってしまった』とのこと。

 

サユリの手紙は更に追い込んでくる。『昨日もルミと話してたら「私達って、ふゆきさんのあの瞳にだまされちゃったんねー。」って笑いながら言ってて、私も「うん。ルミなんて、被害者ダネ。」て話してたの。』でも、最後に『P.S ルミに「ふゆきさんを信じなさいネ。」って一言きっちり言います。』で少しは救われた。

 

夕方にメインホールへ向かう。ロビーに入ると、以前ぼくが将棋をしていたソファーにマユの母親が日本人の女の子数名と話をしていた。怒りが限界に達したのか、ショックが大きすぎたのか、僕はその一行を横目に会談を上がり、モリス校長の部屋に向かった。タイミングよく彼は部屋にいた。今回の一連のことをモリス校長に伝える。彼の回答は。

 

『フユキ、話はケース先生からも聞いていたし、先ほどマユの母親から君を退学にしてくれと言われたよ。でも、これまで君の事をさんざん褒めていたのに態度が急変する彼女を信じられないし。過保護すぎる行動は他の人たちからもクレームが来ていてね。この状況では娘のマユも可愛そうだ。』深刻な顔をして彼は続ける。

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1994年にコンコードを訪ねた時のモリス校長

『私からのアドバイスは、この部屋を出たらロビーを通らずに部屋に戻りなさい。マユの母親には今日以降、不要に学校に来ないように言ってあるから。我々は皆君を信じているし、恐らくマユは転校することになるだろう。明日になれば状況は変わっているよ。』

 

僕は彼の言葉通りに、ホールの反対側まで歩いて、裏の階段を下り、中庭を通って部屋のあるベルハウスへ向かった。翌日から、モリス校長の言ったとおり、マユの母親の姿を見ることも無く、新入生が到着し、新学期が始まった。

 (つづく)

1989 E3 P3 休息

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コンコードのサマースクール、Aグループが去り、Bグループが去り、3週目はお休みの1週間。何をして過ごしたのか全然記憶がない。タイから来ていた友人ヌーチのつてで、先輩のジュリーと連絡が取れ、新学期が始まるまでの3週間程はノッティンガムに滞在することにして、彼女とのハウスシェアでの生活になった。

 

それまでジュリーとは話したことは無かったけれども、香港から来ていた生徒会長のジョニーの彼女ということで知っていた。東マレーシア出身の中国系のおとなしそうな雰囲気の人で、Aレベルの試験の結果をもとに大学入学のクリアランス活動中だった。(イギリスの大学進学には各大学から個別に試験のグレードに対してオファーをもらう。例えば、BBというような。通常Aレベルは3教科の試験を受けるので、テストの結果が貰ったオファー以上であれば入学が確定する。これがBCCという結果だと大学の欠員待ちになり、面接と交渉をしながら進学先を探すことになる。ちなみに、オックスフォードやケンブリッジのオファーはC,CとかD,Dだったりする。面接後には入学が確定するような感じだ。もちろんそんな優秀な人たちはAAAの結果で堂々と入学する。)

 

日中は自由に街を歩いた。フラットから街に出る途中のCD屋さんでジョンレノンのアルバムカバーを毎日見ていた。夕方にはジュリーと待ち合わせをして、チャイニーズのレストランで夕食。お肉一皿、野菜一皿、スープを二人でシェアすると丁度いい量なので、日課のように同じレストランに通っていた。

 

時には彼女について行って、リバープールなどの大学のある街を訪れた。ノッティンガム大学の医学部に留学しているジュリーの友達にご馳走になったこともある。確かジュリーと同郷の彼女はその後医者になったのだろうか?

 

この3週間は長く感じた。方々に手紙を書いて時間をつぶした日々。ルミからの返事があるとしても、ノッティンガムには届かない。当時はネットも携帯もない時代。国際電話をかけるお金もない。9月末の新学期の開始を待つのみだった。ルミ達サマースクールの参加者はもうとっくに帰国をして、夏休み明けの2学期が始まっている頃だ。

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4人組とカー先生


1989 E3 P2 誤解

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小百合さんとコンコードのプールにて。まだ野外プールだった頃。

コンコードカレッジのメインホールの片隅のイスとテーブルのあるコーナーに陣取って、ヨーロッパ系が多く参加しているサマーコースに参加していた日本人とチェスをしていた。

結局、最後までルミとは気まずい雰囲気のままその日の午前中にロンドンへ向かうバスを見送った。なにか嫌われるようなことをしたか、言ったか?正直なところ全く見当がつかない。でも、自分を責めていた。彼女の折角のコンコードでの生活を嫌な思い出にしてしまった原因が自分にあるのではと考えてしまう。

『でもさー、マユちゃんのお母さんも凄かったよね。』と僕の対戦相手の少年にノリコがぽそっと言った。

『えっ?マユちゃんのお母さんがどうかしたの?』と聞くと、二人は顔を見合わせて、なんだかもったいぶっている様子。『どうしたの?何があったの?』とあまり関心は無かったけど聞いてみた。そう僕はハートブレイクな状態なので、前の学期に来た新入生のマユちゃんのお母さんのことはどうでもよかった。

『数日前の休み時間の時に日本人グループの女の子達に「フユキが好きなこは誰?」と聞きまわって、どの子か分かった後にいろいろ変なことを言っていたよ!』

何それ?!

しばらく意味が分からなかった。ノリコと少年に更に聞いてみる。
『その子に、フユキさんが凄い遊び人だから気をつけなさいみたいなことをしつこく言ってたよ。それって本当なの?』と今度は僕が聞かれる番になった。

マユちゃんのお母さんと言えば、随分と僕を気に入ってくれて、日本から小包を送ってくれたり、『マユのお兄ちゃんになってね』とちょっと怖いぐらいにベタベタしてた人で、確かにサマースクールの間はシュローズベリーの街に泊まってるらしく、ほぼ毎日娘に会いに来ていた。
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松山から来ていたマユ

その後の行動はあまり良く覚えていない。お昼過ぎぐらいにBグループがスイス・アルプス、パリ、ロンドンの観光後到着したのかもしれない。(この辺の前後関係の記憶はさらに曖昧)
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記憶にあるのは、マユのお母さんとの対決の時である。また、マユの母親が来ているという情報を聞いて、職員室を飛び出した。テニスコートの前の芝生で見つけると。

『どうして日本人グループの女の子に変なことを言ったんですか?』と聞いた。
『さあ、なんのことですか』と笑いながらとぼけて答えた。 僕はその直前にたまたま落ちていたバドミントンのシャトルを右手に持っていたので、それを投げつけていた。
それがなければ、殴りかかっていたと思う。
この時ほどの怒りと憎しみが爆発した瞬間を僕は知らない。

後ずさりした彼女を追うところで、その場に来たケース校長が僕の右手を掴んで『フユキ、もうやりすぎだ、止めなさい』と厳しい口調で抑えてくれた。不思議なことにケース先生とは信頼関係で結ばれていたので、彼が僕の気持ちを分かっているような気がした。(そう、僕は彼の当時8歳ぐらいだった二女マーサのベビーシッター役を頼まれる事が度々あったのである。当時はなんで男子に頼むかなと不思議だった。)
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1988年 マーサとケース先生の家でお留守番、セルフィーだあ!

その後、職員室でルミ宛に手紙を書き始める。何が起きたのかを知ったことと、自分の気持ちを伝えるために。物凄い血相で手紙を書いてる時に英語の教師の一人が僕の名前を呼んだ。その方向をみると左側からパシャッと写真を撮られた。
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その時は『ふざけんな』と怒りのモードだったけれども、いまでは良い思い出である。
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Bグループの添乗員の斉木さんに助けてもらい、Aグループ(32名)のパリのホテルへ電話をして、4人組と話すことができた。でも、ルミには『手紙を書いたから、帰国したら読んでね』と伝えるだけで精一杯だった。そう、その手紙を読んで貰えれば、誤解は解けると信じていたので、『パリの観光を楽しんで、気を付けて日本に帰ってね。』と最後の言葉をかけた。
(つづく…感じだね〜これは。)

1989 Episode 3 Part 1 出会い

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先週インスタを始めた。以前にもダウンロードしたことがあるのだけれど、フェイスブックを主に使っているため、使い道がなく削除していた。今回開始したのは『ユッキーナをフォローしたくて』というと友人のほとんどが冷たい反応をする。僕は彼女が凄く素敵だと思うのだけど。変かな?!

 

そのインスタで上がってきた『さゆり』さん。昨年ワーホリを終えて帰国して、結婚をした娘だと思って写真をみたら、別人だった。でも、どこかで見たことのある顔。誰???

 

インスタにはiPhone連絡先から上がってきているので、出川小百合さんを探してみた。彼女の連絡先にはフェイスブックのリンクが表示されていたので、フェイスブックを見てみる。彼女は結婚をして苗字が変わっていたけど、面影があった。彼女と出会ったのは1989年の夏、イギリスのコンコードカレッジでのサマースクールだった。

 

その夏、友人のミックとヨーロッパ旅行のツアーに参加して、9カ国を周ってからコンコードカレッジに戻った。前年もカレッジの夏のサマーコースでアシスタントのアルバイト…というかボランティアをしていたので、なんとなく自然に8月の日本人グループ二組のお世話をすることになった。日本からはサマースクールという名目で、コンコードで1週間英語の授業を受け、その後ロンドン、パリ、スイスと観光を1週間という短期留学・観光プランで小学生から高校生までが参加をしていた。

 

僕の仕事は、到着時のケース校長先生(普段は政治学の先生)の挨拶の通訳、部屋までの誘導等のお手伝い、夕方の乗馬、クレー射撃、アイススケートのアテンド、週末の遠足には遊園地や古城、シェイクスピアの生家なども添乗員ばりに同行もした。

 

Aグループの中で『しょうじ』と名字で呼ばれていた4歳年下の子ルミに恋をした。とは言ってもイギリス滞在は1週間程、一緒に居られる間は仲良く出来たら良いなと思っていただけである。彼女が特に仲良くしていたのがユカ、ミチと冒頭のサユリの3人だった。

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30年も経ってしまった今では、記憶がおぼろげだけども、アイススケートでルミと一緒に滑った時の事は覚えている。しかし、その幸せな時間は長くはなかった。リンクの反対側にいたハナが転んで起きあがれない様だったので「行ってくるね、大丈夫?」と手を離した。その後、病院で骨折の治療をしてから戻ったのは夜遅くだったと思う。(ハナコはその後も杖をついて旅行にも参加した。その後数年は手紙のやり取りをしていた記憶がある。)

 

4日目ぐらいからルミの態度が冷たくなった。理由は全く分からず、週末の遠足を終え、お別れ会を終え、一行はバスでロンドンへ向かった。その後の午後にヨーロッパを先に旅行したBグループが到着する迄の空いた時間に、サマーコースに参加していたほかの日本人の生徒とチェスをした。その時の会話で、自分の知らない所で何が起こっていたのかを知る事になる。

(つづく)



友罪

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会社が毎年スポンサーをしているJapan Film Festival、今回初めてチケット引換券を一枚もらって行ってみた。映画指定のされていない券なので、見たい映画といよりは、時間が合う映画ということで、土曜日の午後に映画館へ向かった。開演20分前。無事に入場券に交換して、チェックを過ぎ、3番のシアター前に着いた。丁度、前の映画が終わったらしく、大勢の人が出てきた。随分とギリギリだなあと思いながらチケットをみると『Ramen Shop 1300−』と数時間前に終わっている映画のタイトルがプリントされていた!

 

チケットカウンターまで戻って、列に並ぶ。良い感じに先ほどチケットを引き換えたお兄ちゃんのカウンターに順番が来た。『さっき来た者ですが、535開始のMy Friend “A”のチケットでなく、これを受け取ったのですが』と言って渡す。お兄ちゃんは、驚きと呆れ顔で、『それはありえない、システム上終わった映画のチケットは発券できないんだよ。それに俺からではない!』とちょっと興奮気味。56分前だけども僕のことを覚えていないらしい。

 

面倒だなと思ったけれども、『貴方は僕のことを覚えていないかもしれないけれども、7分ぐらい前にここで受け取ったチケットがこれなんです。僕が観たかったのは535の…』と粘ると、急にお兄ちゃんが予約席のスクリーンを見せて、『この席しか空いてないけど、これでいいか』と聞いてきた。

 

えっ、何が起きた?急に思い出した?発券時間と発見者(ターミナル)は記録に残っているだろうから、それで気がついた?まあ、とにかく観れるならいいやと、発券してもらう。今回はちゃんとタイトルと時間を確認してから、『ありがとう』というとお兄ちゃんも『ありがとう』と反省気味で答えた。再度、チケットチェックを通り(つまり、前回はちゃんとチェックしてなかったということ)3番のシアターへ…おかしい、満席な筈なのに人がいない。もう一度チケットを見ると、7番のシアターになっていた。(それはそうだ、映画も時間も違っていたので)7番のシアターに入り、席に着くと丁度開演のタイミングだった。

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今回の学び:発券されたチケットは、受け取ったらその場で内容を確認する。Event Cinemaの発券システムは上演が終わった映画でも発券してしまう。これを知らないチケット担当者もいる。入館チェックの人はまじめにチケットのチェックをしていない時がある!この状況で怒り出さなかった自分は随分とまるくなったなあ。

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さて、本題の映画の方ですが、想定どおりに重い。架空とはいえ、少年Aだもの。ストーリは直接的には関係のない、物質的には近い周囲の人たちの『罪と罰』についても考えさせられる。罪を犯した者は、その家族は、幸せになってはいけないのか?生涯その十字架を背負うべきか?

 

魂の過去世からの因果応報、正負の法則で考える癖がついているせいか、それぞれの学びを考えてしまう。そして、やはり精一杯生きること。Live and let liveである。自己犠牲で他者を活かすのでは駄目で、やはり自愛の上で他者を愛することに繋がるのである。

 

劇中のタクシー運転手の(交通事故を起こし、子供たちを死なせてしまった息子へ向かって)『お前のために家族を解散したのに、お前が家族を作ってどうするんだ!』の台詞は重い。僕は笑ってしまったが、同時に子供の起こした罪への贖罪で生きる父親の真直ぐな志も感じられる。でも、お父ちゃんは間違っている。息子の代わりに罪を償ってはいけない。息子に償わせないと、意味がない。

 

少年Aの更生に尽力を尽くした『先生』も自分自身の子供を見守らなかったことで、娘から責められる。(流産後に)『これで自分の子供が犯罪者になるかどうかの心配もしないですむ。』という内容の台詞も犯罪者の親にも罪があるのか?親が償うべきかというテーマにリンクする。親は見守る、支えることしか出来ないし、してはいけないのだと思う。それぞれの役割を果たすことが肝心なのだなあ。

 

で、肝心の主人公の二人。共に自分の犯した罪と向き合うことで、魂が叫ぶことで、カルマが解消していくのでは。過去に友人を裏切ったという思いがあるからこそ、今回の友人、少年Aから逃げず歩み寄れるのでは。これは宿命である。


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