お知らせ的な。

戯言的なことはこっちで書くことが多くなってるので、こっちを見てもらうといいかも。
以前作ったついったーのあどれすなのですよ。
https://twitter.com/izutis

アクセス童貞はソープへ行け!

北方てんてーの「ソープへ行け!」じゃないですけど、
例えば単純にアクセス数を稼ぎたいのだったら性欲に訴えればいーのです。
「アクセスが少ない」とか嘆くぐらいならエロい文章を書け。
創作でも体験談でもいい。
なんならソープに行って童貞も捨てて来い。

んーと、ちなみにここで言うアクセス数は数万PVくらいを指して言ってるよ。
普通にそれぐらいアクセス稼いでる人はこの先を読む必要はない、帰れw

つまり、数十PV、数百PVしか集められない人向けのお話だね。
そゆ人は、一度エロいのでも書いて、アクセスを集めて、知るといいのです。
アクセス数ってほんとどうでもいいものだってことを。
まあ、それで生きていこうとするなら別だけど、ほとんどの人は違うでしょう?
好きに書けばいいブログや何かで、好きに書くために書いてるのでしょう?
だったら、アクセス数に振り回されて自分の文章の価値に悩むな。

参考までに、私の場合、ここで書いてる文章は30PV/日くらいかな。
更新してもアクセス数の変動はほとんどない。
端的に言えば一部の私のファンしかここを見てないってことだw
でね、別のところでエロいのを書けば、こっちは一回の更新で10000PV集まる。
本当に書きたいのは別ので、エロいのは片手間に書いてるだけなんだけどね。
巷に溢れるエロ小説なりを少し勉強して、更新頻度上げればもっと行くと思う。

それで、なぜ一度アクセス数を集める経験をした方がいいのか。
それは、自分の性質を見極めるため。
自分は、何のために書くのか。
正直ね、数十が数万になって、それで喜んでるようじゃ物書きとして先はない。
まあ、百万アクセス集められるようなら、どこか人より優れてるんだろうけどね。

それで、なぜ喜んでる人がダメなのかっていうとね、そゆ人は続かないんだよ。
アクセス数は増減するもので、人間は数字に慣れる生き物だからね。
数字の増加が麻薬のように効いて、それで更新意欲を出す人は特に危ない。
人は数字に慣れるから、後進意欲の増加に必要な数字はどんどん増えていく。
そして往々にして人の技量や成長にアクセス数は比例しないものなのです。

だから、更新意欲は自らの内に見出さなければならない。
難しいことだけれど、それができなければ本当に物書きとして先はない。
これは物書きを職業としている人だけでなく、全ての文章を書く人間に言えること。

だから書け、エロいのを。
読者に変態だって思われたらどうしようって?
大丈夫、お前より変態な奴なんて、このウェブ上には溢れているさ。

物書きの抱える宿業のお話

人は誰しも宿業を抱えているものです。
まなめさんがよく言ってますよね、ブロガーは一度ネタを出し切ってからが勝負だよ、って。
小説やマンガにおいても同じことが言えると思うのです。

特に女性の作者に顕著なような気がするのですが、どうもキャラが屈折してたり、ストーリーがどうにもすっきりしなかったりする。
ちょっとニュアンスがずれますが、バッドエンドしか描けない病を患ってる作者も似てるように思います。
卑近なところでは、いわゆる中二病も同じようなものです。
共通するのは、意図してそうしてるわけではなく、どうしてもそうなってしまう、それを作者自身は止められないという部分。
例えこれは一般受けしないだろうなと作者が自分で冷静に判断できたとしても、それでも描かざるを得ない、という部分。

何かのトラウマがあって〜と回収するのは簡単ですけど、それとはちょっと違う気がするし。
これを現す言葉としてもっともふさわしいのは、やっぱり宿業という言葉だと思います。

これはもう、一度吐き出してしまわないとどうにもならない。
真にエンターテイメント足り得るものを作るには、その先を。
一周回って格好いい/面白い。
その境地を目指さなくてはならない、と思うのです。
経験を積むって意味も込めて、とりあえず書く。
プロアマに関わらず、物書きたらんとするならば。


うん、別に何かが主張したいわけではなく、書きたいことは書いたのでそれで終わり。
強いて伝えるとするなら、自分にとっての書く意味と、書いた文章が読者に伝える意味は、乖離しててもいいんだよ? ってことかなー。
世の中には、その二つが一致してないといけないもんだと思ってる人が、案外多いような気がするのです。

温暖化はどこへ行った?

なんかねー。
原発ゼロって騒いでる人たちと、数年前まで温暖化って騒いでた人たち。
だいぶかぶってる気がするんだよね。
共通するのは、自らの掲げるそれが絶対的な善であると信じて疑わない姿です。
それは、自ら望んで戦争に突入していった戦前の空気とも通じるものです。
歴史に学ばないのは人間の性ですけど、それを乗り越えてこその人間なのにね。

っていうか、原発ゼロって言ってる人に、聞いてみたいのです。
温暖化についてどう思うか、って。
そしたら温暖化は防止すべきだって返ってきそうなのが怖いよね。
私ね、覚悟があるなら主張すればいいと思うのですよ。

毎年何も生まない金が何兆円も浪費され。
膨大な量の二酸化炭素が排出され。
多くの人が職を失う。

そういう未来を許容できるのなら、原発ゼロを主張するのは人間の権利です。


また外国に目を転じれば、これから原発は間違いなく増えます。
原発反対派は「実は原発のコストは高い」って言いますよね。
でも、それって人命の価値を高く見積もることによるコスト増ですよね。
であれば、人命の価値が低く見積もられる発展途上国で原発を造らない選択肢はない。
人の命は、尊いけれど、ひどく軽いからです。

原発ゼロって言ってる人にもう一つ問いたいことがあります。
それは、自国だけが達成できればいい目標なのですか?
それとも、全世界的に達成されるべき目標なのですか?

自国だけが達成できればいいとして。
例えば、海を越えた向こうの国で原発が爆発して、放射能物質が飛んできたらどうします?

全世界的に達成されるべきとして。
エネルギーが足りず、いつまで経っても発展できず、それで人が死ぬのは仕方がないと?

繰り返しますが、予想される未来、それを許容できるのなら何を主張するのも自由です。
私が何より嫌悪するのは「こんなはずじゃなかった」という言い訳です。
「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉をよく噛み締めるべき。


人間は愚かな生き物です。
痛い目に遭わないと、何が危険か分からないのです。
その伝でいけば、原発の危険性を真に知るのは日本、あとロシアですか。
そういう国こそが、自国での事故の経験を生かして、他国をリードするべきなのです。
どうせ外国ではこれからも原発が新築されます。
そこで比較的であれ安全な日本の原発技術を用いなくてどうするのですか。
ぶっちゃけ中国が作る原発とか怖いでしょう。
ついでに儲かりますし。

それでなくとも、原発を止めて何兆円もどぶに捨てるくらい余力があるのでしょう?
原発動かして、その金で脱原発に繋がる技術を開発しましょうよ。
その方がよっぽど生産的なのでは?

シリーズは通して読まなくても楽しめます。

素人から玄人までひっくるめて、世の中で一番「評論」をする人が多いのはどのジャンルでしょう。
って聞かれたら、なんて答えます?
特にデータとかがあるわけじゃないのでなんなんですが、「書評」つまり書籍だと私は思います。
まー、でも私が興味のある分野だからそう思うだけかも。

でね。
本に限った事じゃないけど、特にシリーズものにおいてこういうのよく見ませんか?
「前作を読んで(見て)いないと分からない」
「シリーズを通して読んだ(見た)方が楽しめます」
とかとか。

ああいうの見るとすごいなーって、私、思うんです。
私は、前作を知らない人の視線で読むなんて器用な真似できませんから。

何が言いたいかって?
そもそも、先に挙げた様な言説は成り立ちようがないってことです。
一人の人間が、シリーズ途中から読みだすのと、シリーズの最初から通して読むのとを、比較する方法はないからです。
まあ、最初に途中のを呼んで、それからシリーズの最初に遡ってもう一度読む、ということをすればできなくはないのも知れませんが、その場合でも初読と再読の差が生じます。
これを、どうやって比較するんでしょうね。
だから私は、そういう「シリーズ通して〜」的な発言は、思い過ごしか、シリーズのファンが他人に対して優越感を感じるためのものに過ぎないと思ってます。

あるいは、そういう人は本を一度しか読まない人なのではないかな、と思います。
それはなぜか。
より面白く読むために、そのシリーズについての背景知識が必要だとするのなら、それは最新作についてだけではなく、作品を遡っても言えることだと思うからです。
最新作を最大限に楽しむためには、シリーズを通して読むことが必要であるならば。
第一作を最大限に楽しむためには、シリーズが完結していることが必要であるとも言えるのでは?

また、ストーリーを時間軸に沿って楽しむことが重要なのだ、という反論も考えられます。
これについては、むしろもう微笑ましいな、と私は思います。
そもそも小説というのは時間軸に沿って進むとは限りません。
過去の回想であったり、未来における後日談であったりは普通に存在します。
もちろん、上中下というような構成の場合は別でしょうが、その一冊で話がいったん締められているのならば、どう読もうが自由です。

ま、そんな感じ。
別に、書評を書いてる人、上記のようなことを言う人を責めたいわけじゃない。
むしろ読者向けに書いてるお話。
一言でまとめるなら、本は自由に読みましょう、というお話でした。

純化と腐敗のお話

思考停止。
してる、しちゃう、しちゃだめ、ってよく言われますよね。
けど、思考って本当の意味で停止できたらそれはそれですごいな、と私は思うのです。
停止した思考、変わらない思考、変わり得ない思考。
それって思想ってことでしょう?

ほら、ありますよね。
植物がアスファルトを突き破る様を早回しで見ると、爆発してるみたいに見えるって。
そう、静止している、というのは人間の時間間隔で見た結果であって、全ては不可逆的に変化しています。
貴方も私も、思考停止しているとされる人たちも。

変化の形は様々です。
大抵は腐りますけど。
時には、研ぎ澄まされた思考を維持し続ける人もいます。
もって数十年、ううん、数年ももてばいい方ですけど。

そういう意味で。
腐るより早く変化しないと、思考停止していると、よくないよ、っていうのは間違っていません。
とっても正しいです。

私、腐っているものは嫌いですけど、そういうものが存在するということに関しては、とっても愛おしく感じます。
これは、昔はなかった感情かも。
ありきたりな言葉で表現するなら、優越感、なのかな?
自分で言ってて、違うと思うんだけど。
腐っているものを見ると、自分との違いのなさを思うことが多いし。

あえて言うなら、そう、私は適度に腐って適度に美しいこの世界が好き。
腐り過ぎてるのも嫌だし美しいものしかないのも嫌。
もっと嫌なのは、腐っているものも美しいものも、何もないこと。

誰がために仕事はある?

怒ると叱るの違いは割とよく言われることです。
けど、私の上司を見ていて思うのは、この人は私に対して怒って/叱っているのではなく、私の仕事のまずさについて怒って/叱っているのだな、ということです。
最近、このことを、きちんと頭と心の両方で理解できるようになった気がしてて、仕事が楽になったし、楽しくなりました。

でね、人間は理性もあれば感情もある生き物なので、頭では分かっても気持ちで上手く受け止められない、ということはままあるんですけど。
けど、そうなると自分でも知らない内に、怒られないように叱られないように、お客さんじゃなくて、上司の方を向いて仕事をし始めちゃうんですよね。

例えば、ある営業が置かれたこんな状況。
1.大手の企業と、中小の自社が競合している。
2.それぞれの特徴は、大手が企画商品を当てはめるだけなので提案が速い(1〜2日)のに対して、自社は自由設計で時間はかかるけど(1〜2週間)お客さんに合わせたものが提案できること(他にも色々あるけど、今回のポイントはここ)。
3.お客さんは自社の提案が遅いことに怒ってて「他は2日で持ってきたぞ」、更に「もうプレゼンに来なくていいからさっさと資料だけ送ってこい」って言ってる。
4.今から資料作成を始めると、必要なプレゼン資料が全て揃うのは2週間後。
5.上司から常々言われているのは、提案までのスケジュールを描いて、その報告をしろ、ってこと(プレゼン自体は上司が行うので)。

さて、この状況下で営業はどういう行動を取るべきでしょうか。
これは別に決まった答えはなくて、最終的に契約が取れるならその人次第で何だっていいんですけどね。

私の先輩がやって怒られてたのは、お客さんのお怒りの電話に対して「分かりました、出来上がり次第持っていきます」って言って、社内の人に頑張ってもらって最速で資料を作り上げ、上司にプレゼンをしてもらうこと、でした。
これのどこに問題があるか、分かりますか?
質問の仕方を変えれば、このやり方で契約は取れるでしょうか?
取れないとすれば、何が足りていないのでしょうか?

上司が言ってたのは以下のような内容でした。
「全体として(その営業の中には)相手の視点がない」
「まず、現状競合してて、他社はプレゼンを済ませてて、自社のプレゼンが遅いことに対してお客さんが怒ってるのに、それについて何も説明せず(「出来上がり次第持っていきます」としか言わず)、次にお客さんと接触するのが二週間後というのはあり得ない」
「お客さんからの電話の内容から、お客さんは提案は1〜2日で出来るものと思っており、自社と他社の特徴や提案にかかる時間が違う事情など分かっていないだろ?」
「当然、営業の「出来上がり次第」はお客さんにとって「1〜2日」を意味するから、2週間後に持っていったって『もういいよ』としかならない」
「別に2週間後に持ってくことが悪いんじゃなくて、そのことについてお客さんの了解を得ていないことがダメ」
「自社と他社の違いを説明し、ある程度時間がかかることを分かってもらい、それでももう一度提案させてもらえるか聞いて、合意を得る。資料を作成するのはそれから。でないと社内の人間の時間も無駄になるから」
「また、同じ二週間かけるにしても、それを理解して待っててもらうのと、まだこないのかとじりじりしながら待っててもらうのでは、プレゼンの仕方も成功率も全然変わってくる」
「経験の浅い営業の仕事は、上の人を上手く使うこと、プレゼンをしやすい状況のお膳立てをすること」等々。

以前、同じ上司が言ってたのは「仕事をやればやるほど、クレームはそれに比例する形で必ず出てくる」そして「クレームの9割は人災。対応した人間の対応のまずさが原因」ということです。
また、そのことを認識した上でまずするべきことは、直接あって謝ることで誠意を見せ、その上でこちらの事情を説明してそれでもいいかきちんと聞くことであり、お客さんを怖がって言うべきことも言わずに接触を先延ばしにすることではない、とのことでした。
この、言い訳する前に率直に謝るという点が重要で、そしてそれ以上に重要なのが、こちらの事情をきちんと説明すること、なのだそうです。
お客さんの機嫌を損ねるかもしれないからとこれを先延ばしにしていいことは一つもない、とも。

話は変わりますけど、お客さんを好きになるのが重要、なんてことも言われますよね。
これも私の上司に言わせれば話が逆で、自分のお客さんになってもらう一番簡単な方法というのは自分のことを好きになってもらうこと、相談相手にしてもらうことであって、そのためにできるのは、なんであれ自分の持っているものをその人に提供して喜んでもらうこと、その結果として相手に好かれ(あるいは嫌われ)、自分もまた相手を好きになって(嫌いになって)いくのだ、ということでした。
難しいことを言っているようで、非常にシンプルな、全ての人間関係に適用できる考え方なんですよね。

一番最初に、人間はともすると上司の方を向いて仕事し始めてしまう、って書きましたけど、その原因の一つとして、多くの人は仕事は仕事、プライベートはプライベートという割り切りがあるのかも知れません。
でも本当はそれって断絶しているものではなくて、人間関係という土台の上に、仕事の領域、プライベートの領域があるだけなんですよね。
それを当たり前のように別個のものとして扱ってしまうところに、下手な営業が下手な理由があるのかもです。

営業って、自分にとっては楽な仕事っていう人と、きつい仕事の代名詞っていう人の両方がいますよね。
私、それはどっちもすごくよくわかります。
両者はどっちも正解であると共に、どっちも間違いであるケースがある、というのが、その正確な在り様なのだと思います。
なので、状況が許さない場合ってのは割と頻繁にあると思いますけど、自分の会社の中を見る限りでは、それがどっちかを決めるのは、自分の在り様次第って気もかなりするのですよね。
まあ、せっかくの人生なので、飄々と楽しくやりましょうってお話なのです。

ネタばれすると読書が楽しくなるんだってさ。

ネタバレにマイナスの効果はなし 研究で明らかに
ネタバレは映画鑑賞の楽しみを奪うものだと一般的に思われているが、むしろ楽しみを助長させるものだという、興味深い研究結果が発表された。

ワイアード誌によれば、カリフォルニア州立大学心理学部のニコラス・クリステンフェルド教授と大学院生のジョナサン・リービットさんは、大学生数10人を使ってネタバレの影響に関する実験を実施。チェーコフやロアルド・ダール、アガサ・クリスティー、レイモンド・カーバーらの12本の短編小説を題材に、何も知らされないままの状態と結末を知らされた状態での、読書における反応の違いを調査した。

結果は、何も知らされていない状態よりも、結末を知らされているほうが読書を楽しんだことが明らかになったという。原因については不明だが、結末を知っていたほうが読書により深く没頭できるからではないかとリービットさんは推察している。


面白いね、これ。
映画.comってサイトのニュース速報なんだけど、色々な意味で面白い。

そもそも、記事冒頭で映画のネタばれしてもマイナスの効果がないって云い切っちゃってるけど、それは、この研究からは分からない。
この研究は読書の研究だから。
あーいや、この研究からは分からないっていうか、この文面からは読み取れない。
もしかしたら論文の中で映画も読書も結果は変わらないって実験結果が出てるのかもだけど、そしたらそっちの方を記事に書くだろうから、多分読書でネタばれにマイナスの効果がないなら映画でも同じなんじゃね、ってくらいの感覚で書いてるんだろうなって推察しただけ。
ともかく、映画のネタばれについて何か言おうとするなら、実験材料には映画を使わないとね。
読書でネタばれにマイナスの効果がないって結論が出たからって、映画でもそうとは限らないから、タイトルは完全な釣りです。

でね、肝心の研究結果なんだけど、元論文を当たる気はないのであんまり踏み込まず、一般論的なことを書いてみるね。

そもそも、結末を知っている方が楽しめる理由は不明ってあるのがあれなんだけど「ネタばれした方が読書を楽しめる」というのが元々の論文の結論なんだよね。
で、ここで重要になってくるのが、何をもってそれを結論付けたか、ということ。
実験の手法、測定の仕方、判定の方法。
その辺が分からないと、結論が万人に適用されるものなのか、あるいはそういう傾向があるというだけに留まるものなのか、分からないのです。
まあ、心理学では、よっぽどでない限り万人にとってそうだなんて言えませんから、この研究も「小説の結末を知っている方が、知っていない場合に比べて有意に楽しく読める傾向にある」というのが元論文の結論を少しだけ正確に表した文章になるんじゃないかな。

「ネタばれした方が読書を楽しめる」と「小説の結末を知っている方が、知っていない場合に比べて有意に楽しく読める傾向にある」の違いは分かりますよね。
それは、例外の有無です。
後者の場合、実験データを統計的に処理して有意に差がありますよってなればこういう結論になるので、ネタばれして萎えたって人がいたかどうかは結論から読み取れないし、そういう人の存在を排除しないのです。

だから私は、頭のいい人が「この結果は信じられない」「ネタばれはやっぱり萎える」とか言うのを信じられないのです。
うん、別にこの研究は貴方のそういう感じ方を否定するものでは全然ないから。
ただ、統計的にはネタばれを楽しめる層と楽しめない層を比べると、楽しめる層の方が多いよって、ただそれだけのことだから。
気持ちは分かるよ、私もネタばれは好きじゃないから。
でも、私はこの記事読んだ時、単純に面白いなって思ったんだよね。
一般的にはそういう傾向があるのか、って。
社会では報告を結論から述べるのを推奨されてることを連想したりね。
そう、この研究がネタばれに萎える層の存在を否定するものではないよってこと。
これが、この記事で私が言いたかった一番のことです。

でね、なんでネタばれした方が楽しい(傾向にある、めんどいから以下略)のかについて考えてみようか。

まず、この研究を見て私がしたくなったこと。
もっと被験者増やして、普段の読書量のアンケート取って、そのデータも加えた分析。
多分、読書家や物語が好きな人ほど、ネタばれに萎える傾向にあるんじゃないかな。
で、それが結果として示せれば、なんで全体的にはネタばれした方が楽しいと感じるのかも見えてくるよね。

すなわち、一般的に読者というものは普通に一読しただけでは本の内容を理解できないから、ある程度事前情報を持って整理しながら読んだ方が楽しめる、という仮説です。
特に「最後の一文」「衝撃のラスト」系の小説はそれまで頭の中で構築してきたものを最後に再構築する必要があるわけですけど、これって割と知的で高尚なことですよね。
私はそれなりに本を読む方ですけど、最後の一文を読んだ途端にそれまで張られてきた伏線を全て思い出せって言われても無理ですし。
で、一般に本っていうのは二度も三度も読んだりはしないものなんですよ。
そりゃ好きな本は再読するでしょうけど、これまで生きてきて全ての本を二度ずつ読んでいる、なんて人に会ったことあります?
つまり、ほとんどの人は本の内容を一度で理解できない、伏線に気づけないにもかかわらず、一度しか読まないんですよね。
で、結末を知って、そこまでの伏線を断片的に思いだして、すごいなーってなって、それでおしまいです。

だから、さっき私もネタばれは好きじゃないって言いましたけど、それは私が好きな本、好きな作家に限ってのことです。
様々な理由から私が今後も読まない本のネタばれなんて、痛くもかゆくもありません。
一度読んでそれでおしまいって本も、別にネタばれされたところで1.5読目ってな感じで読むだけですからそれはそれで構いません。
また自分では買わなかっただろうけど、レビューなどの一種のネタばれにより私がそれを読む気になったのなら、それは私にとって価値のあるネタばれであり、歓迎するべきものです。
つまり私は、私の楽しみを奪う行為が嫌いなのす。
ネタばれという単語には私の楽しみを奪う面と楽しみを与える面の両方が含まれているため、一概に嫌いとは限りません。

整理すると。
ネタばれを楽しむなんて物語を深く愛していない証拠だ。
となりますね。
もう少し詳しく言うと。
ネタばれを楽しむ人は、ネタばれを嫌う人に比べて物語に対して愛着を持たない傾向にある。
でしょうか。

まあとにかく、ネタばれは物語の面白さを損なう、には個人差があるので、あんまり喧嘩したり大声で表明するのは格好悪いかもね、ってことで。

抜け出せてます? モラトリアム

科学は暴走しない。
暴走したかに見えたとしても、実際に暴走しているのは周囲の人間だ。

科学者にモラルを持て、というのは一見もっともらしく聞こえる。
しかし科学者にはモラルを要求し、社会が、人々がモラルのない振る舞いを免罪されようというのは筋が通らないだろう。

科学者はモラルを持つべきだと言って良いのは、当の本人だけだ。
それは他者に強要するものではないし、その振る舞いそのものがモラルに欠ける行為であるからだ。

私が私である理由

まったりするために生きています。
余裕のないのがなにより嫌いです。

それゆえ私は必要なことを学び取り、必要に応じて立ち居振舞うのですが、結果として私は本当に余裕のない状況というのに陥ったことがありません。
ううん、あったのかも、少なくとも当時はそう思っていたような気がする過去の事例もないではないけれど、もう気にならないのでそれは私にとってなかったも同然のことです。

ニュートラルであること。
物事をあるがままに受け入れられること。
私にとっての、まったりする、の定義です。

創作、というのは我が出るものです。
それが評価される類のものであれば、なおさら。
好きではあるけれど、書かない、書こうとしないのは、私にとって創作というのは私がまったり生きるのを妨げる可能性のあるものだから、かも。
君子危うきに近寄らず、というやつなのです。

まだその時ではない。
いつまで経ってもその時にはならない可能性もあるけれど、それならそれでいいと割り切ってさえいれば、そんな考え方も悪くはないと思います。
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