2009年02月

人として生きるには

罪と罰は個人的な体験であるべきだ、と思っています。
それを、他者によって規定され、他者によって与えられるものと認識することには、嫌悪感があります。

自ら判断できる存在でありたい、という思いが根底にあるのでしょう。
そんなの無理だよって自分に言い聞かせているくせに。
全く、人であるというのは難しいことです。

生と死への敬意

死は全てに等しく与えられる。
私の生命への敬意は、ここから生まれるものです。

個としても、種としても、全ての生き物はいずれ死にます。
それが早いか遅いかの違いでしかなく、嘆くことではなく、同情するようなことでもありません。
木としての生と人としての生、千年に渡る生と百年程度の生とは、優劣で比べるようなものではないのと同じです。

日々に安らぎを

縁側や明かり障子による採光、そしてそれらが作り出す薄明かり。
眠さに落ちる瞼と同じで、能動的に何かをするには邪魔になるもの。
けれど、ゆるゆると流れる時間、それを楽しむ心持ちがあれば、とってもいいものです。

「服従の心理」

スタンレー・ミルグラム著、山形浩生訳、「服従の心理」の新訳が出てたので、読んでみました。
んー、普段、ただ読んだから書評する、ということはなるべく避けているのですよね。
書評は、ときに売り上げを落とすかも知れないから。
でも、自分が学んでいる分野であることと、「学術書」ということで3200円もするということで、まあ買う人は買うし、手に取らない人は絶対手に取らないだろうな、ということで書評します。
発売後、2か月も経ってるしね。

関係ない話ですけど、本の新しさって読書意欲に影響しますよね。
ほら、カバーを変えたら「人間失格」が売れた、とか。
だからってわけではありませんが、新訳版が出たのを機に、できれば実際にこの本を手に取って欲しいのです。
新訳版、旧訳版、多分どっちかは図書館にあると思うので。
両方あるなら、後述の理由から新訳版がお勧めです。
まあ、一般に新訳版の方がお勧めなのはどの本も同じですけど。

えっと、皆さんご存じの通り、この「服従の心理」は、かの有名なミルグラム実験、別名アイヒマン実験について記された本です。
割と有名なので、実験の内容についてはウィキペディアをどうぞ。
以下に語る内容も、実験を踏まえたものになります。

この実験、有名になっていることからもわかるように、とても興味深いんですが、それが災いしてか、ぐぐれば実験の内容とその結果がわかってしまい、なかなか原典に当たろうって人が少ないんですよね。
私なんかが、そうです。
今回手に取ったのも、図書館で新刊の棚に偶然見つけただけで、これを借りに行ったわけではありませんでした。

それで、実際に読んでみて。
核となるミルグラム実験そのもの以外に、被験者の行動と実験後のインタビュー、条件を変えての追加実験、ミルグラム自身の知見、手法上の問題への言及、そして巻末の訳者による批判、といったウィキペディアに載ってない部分が盛りだくさんで、読み始めたら止まりませんでした。

その内のいくつかについて書いてみましょう。
最初に、被験者の行動と実験後のインタビューについて。
被験者が実験にあたってどのような行動をとったか。
ごく簡単にまとめれば、、人それぞれであり、またほとんど同じである、でしょうか。
服従する人、非服従する人という違いはあれ、人は容易にシステムに埋め込まれてしまう。
道徳というものが何なのかを考える上では、最高のテキストと言えるでしょうね。
インタビューについては、まず意外だったのが、被験者のほとんどはこの実験に参加してよかったと感じていたこと、ですね。
この実験への批判として、被験者がトラウマになるとか、PTSDになる、といったものがあって、この本を読むまでは私もそういうものかと思っていたんですが、それらは外野による批判に過ぎず、実際にはそんな人はいなかった、と少なくともミルグラム自身はそう言っています。
んー、PTSDが社会的な問題になると、それまではいなかった・本来ならずに済んだPTSD患者が出てきてしまう、という面も確かにあるんですよね。
今ミルグラム実験をやったら、おそらくPTSDで訴訟沙汰になる、という点ではこの批判は正しいのですが。
その辺のことはここで書きました。
またミルグラムは、批判のほとんどは実験の結果が気に食わないことを理由とした言いがかりに過ぎない、と切り捨てています。
そういった辛辣な意見が出てくる背景には、やはり被験者たちが取った行動を目の当たりにした、ということがあるでしょう。
被験者たちは、事後のインタビューで「電流は実際には流れていないのではと疑っていた」と自分の鋭敏さを強調してみたり、「学習者はあまりに頑固で頭が悪いから、電撃を受けるのは自業自得だ」と責任転嫁してみたり、「自分は責任を果たしただけだ」と開き直ったりして見せます。
いえ、実験の意図に気付いていたと言い張ったり、責任転嫁したり、開き直ったりした、というのは正確ではないかも知れません。
こういった表現は、素直に読むと彼らは人間的に劣っていたのだという印象を与えてしまいかねません。
そうではないんですよね。
他ならぬあなた自身が、同じ立場に立てばそういったことを言い出す可能性は、非常に高い。
それは、電撃を加え続けるのはほんのわずか(一般人、専門家、共に数%程度と予測)だという事前の予想と、実際に電撃を加え続けた65%という数字の開きに端的に表れているでしょう。

次、条件を変えての追加実験について。
65%もの人間が死に至りかねない電撃を加え続けるという結果は、実験者にとっても衝撃的なものでした。
そこで彼らは、何が人々にそれを成さしめたのかを明らかにするために様々な追加実験を行いました。
ちなみに、実験当初、サクラからの苦痛のフィードバックがない状況では、全ての被験者が喜々としてスイッチを押し続けたことも付記しておきます。
つまり、ウィキペディアに載っているミルグラム実験は、それですら最初の実験が実験にならなかったために改良を加えたものだった、ということです。
さて、本実験においてなお65%の被験者が服従を見せたのを受けて、追加実験ではさらに負荷を高めるため近接条件が加えられました。
この条件においては、被験者はサクラの苦痛を間近で見て、さらに途中からは電撃プレートに手を置くことを拒否するサクラの手を押さえつけて実験を続けなくてはなりません。
実験の結果は、30%の被験者が服従する、というものでした。
これを多いとみるか少ないとみるかは人それぞれでしょうが、服従した人たちを見ると、楽しんでやっていた人はおらず、義務感から淡々と実験をこなす人、責任は実験者にあり自分に法的責任はないことを確認した上で安心して実験を続ける人といったように、服従の原因は大抵の場合、義務感、忠誠心、自己イメージの保持、行動の連続性などにあります。
決して、個人の残酷さに起因するものではないというこの結果は、アイヒマンを「仕事に忠実な官僚」と評価し、「悪の凡庸さ」を述べたハンナ・アーレントの言葉を思い出させます。
その次に行われたのは、実験前にサクラが心臓が悪いと言及する条件、そして冷徹な実験者−温和なサクラのペアと温和な実験者−屈強なサクラのペアを比較する条件です。
結果は、ほとんど誤差の範囲内での違いしかありませんでした。
ここでも、重要なのは構成要素の細部ではなく全体的な状況であることが示されています。
面白いのは、次の権威との距離を変えた条件が及ぼす影響です。
ここでは、一通りの説明を終えた後、実験者は電話越しに指示を行います。
すると、服従は20%ほどまで下がり、また何人かの被験者は規定に反し弱い電撃を与え続けました。
同じく状況の変化が服従を低下させる例として、大学外の民間組織が実験を行う条件があります。
ここでは、服従は48%まで低下しました。
辛うじて、半数を切ったわけです。
他にも追加実験はあります。
またそこから得られる知見についても、詳しく解説されています。
興味があるなら、やはりこれを読んで満足することなく手に取って見て欲しいと思います。

そして、本文はミルグラムによる報告、批判者への返答、と続いていくのですが、ここは割愛。

圧巻だったのは、蛇足と称された訳者による批判でしょう。
新訳版の書評のほとんどはこれについて触れられているはず。
図書館に旧訳版しかないのなら、この十数ページのために購入してもいいほどです。

ポイントは5つ。
()内は私による簡単な解説。
この方が簡潔な表に整理して下さっているので、これも参考にするといいかも。
1.人間の「根本的な道徳」についての前提の誤り(強姦や略奪など残虐なことが禁じられたのは、特に戦争の場においては近代以降である。また、今この時も世界各地で起こっている民族浄化は、全てが扇動によって起こったものか?)
2.この実験で計測されているものについての誤解(権威vs個人ではなく、大学の権威vs社会(道徳)の権威ではないのか? 衆人環視の公開実験とした場合に、被験者はどのような行動を取っただろうか?)
3.「権威」自体についての考察の不在(通常、権威は別段残虐なものではない。権威には権威たる理由があり、人々はそれを信頼している。実験当時(1960年代)の時代背景が、権威を過剰に危険なものと見せ、また過剰な反応を呼び冷静な議論ができなかったのでは?)
4.実験設計の不備(実験は全体でも30分前後であり、非服従の決断もその中で行わなければならない。しかも、それなりに複雑な実験手順をこなしながら、である。例えば最大まで電撃を与え続けた被験者に「明日続きをやる」と伝えたらどうなるだろうか? 来ないという形で非服従を示す被験者がいるのではないだろうか)
5.対応策についての考察不足からくる誇大な問題提起(人間は、個人であると同時に集団でもある。服従or非服従を迫られる決定的な状況に、個人で立ち向かえというのは少々酷では? 例えば、この実験を知っている人であれば、非服従は容易であろう。また、権威を正しいものにしていくという不断の努力も怠ってはならないだろう)


日々起き続ける犯罪行為、過剰なナショナリズムなどは、必ずしも権威に扇動されてのものではない。
ミルグラムが提示したものの価値は計り知れないが、残虐さ、いや、悪の凡庸さの責任を、全て権威に帰するのは間違いである。

世の中は「ミルグラム以前」の人で溢れているけれど、ミルグラムを知り、さらには超えていかなければ、解決できない問題というのもあるのでしょうね。
とっても実り深い時間でした。
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