ちょっと軽いものを。
私が文系である理由(10月22日、追記)。

文系にする理由としてよく挙げられるのは「数学ができない」です。
私も理系の人間と比べれば明らかに数学ができない部類に属するでしょう。

私の数学はできる科目、できない科目が偏っています。
ベクトルや確率、組み合わせ、微分積分、証明など論理的であったり、法則さえわかっていれば解けるものは、今でもかなり解けます。
苦手なのは複雑な計算、それと「自明のこと」の証明です。

数学は、経過はどうあれ結論は同じ。
ならおのずと選択肢も限られる。
それを大勢でやる意義が感じられない、というのが一番の理由です。
「自明のこと」の証明が嫌いなのは、これに起因します。

今回、以前まなめさんの書いた理系と文系を読み直しました。
その中で気になったのがいくつか。

>文系って社会は覚えるだけ。

テストに限ればそうでしょう。
というか、数学もテストだけならそれ(覚えるだけ)でいいのでは?

歴史とは登場人物一人一人の論理を読み取り楽しむものだと思っています。
中世史は数多くの逸話が残されています。
有名なところでは三国志演義。
授業ではさらっと流されてしまいますが、授業と平行してそれら逸話や物語の類を読み進めれば覚えるまでもなく頭に入ってきます。
また近代史においては人々の駆け引きが高度になってきますから、自分個人の歴史観とすり合わせながら行動を分析するのは純粋に楽しいです。

加えて、これは個人的な価値観なのですが。
日本史をやらずに日本について語るのは先人に失礼だろうと思うのです。
政治経済も同様。
あの程度の知識も持たずに国際関係に口出しするのでは厚顔無恥もいい所、です。

>国語はなんとなく合ってるか合ってないかだけで、「やった」「やらない」しか感じられず、達成感って感じたことがありません。

私は国語ができます。
でも、国語は大嫌いです。
まなめさんもそれはわかるのではないでしょうか。
そもそも読書とは楽しいものです。
それをいちいち中断して「この文章が指す部分を具体的に述べよ」だの「作者の意図した内容はどれか」だのと下らない質問が浴びせかけられるわけです。
不快でないわけがない。
そんなの見ればわかるだろう、むしろそんなこともわからないのかバカめ、と思いながら仕方なく書いてやっているのですよ?

国語の楽しさは自発的な読書の中にあり、学校の授業にはないのです。
むしろ読書すれば読書するほど、問題のおかしさに気付くようになるでしょう。
テストのときは意識的に遮断していますが、気を抜くと自分の思考との違和感からミスすることすらあります。

理系の方々は国語で習う文章が正しいものだと考えているのかも知れません。
でもそれはすぐに破綻をきたすはずです。
それが社会における価値観の多様、ですから。
国語のテストは、単に問題に合致する部分を抜き出し切り貼りする能力を問うているだけなんですけどね。

興味深いのは「文系バカ≦理系バカ<(越えられない壁)<文系優秀<理系優秀<文系神」という括り。
理系というのは既存の理論や公式を応用して新たなものを構築するものだと認識しています。
文系というのは、全てがまっさら、どんな風に構築しようと自由です。
自分なりの理論、自分なりの公式を形作り、自分の世界を構築する。
構築した世界の卓越性。
それが文系の優秀さを決めます。
文系神が理系優秀を凌駕する理由は、ここにあります。

理系は理系の間で共有できる理系世界を構築しているようにも見えます。
それは共有できるが故の強みと、突破の困難さを内包している。
それはフェルマーの定理を解決に導き共有を可能にするかも知れない。
けど、私が思考の卓越性を感じるのはある程度文系的な思考です。

結局は、両者をうまく取り入れ融和していける人が「優秀」なんでしょうね。
それが得意なのはどちらかといえば文系。
そもそも人間はあいまいなもの。
数学に代表される論理は人間の歴史が形作ったもの。
取り入れやすいのは、後者だから。


何より、心理学を学ぶために私は文系であることを選びます。
理系や文系では生きていけませんが、臨床心理士なら生きていけますから。


追記。
ざっくり一筆書きしたものが404 Blog Not Foundからトラバ頂いててどきどき。

>数学は、経過はどうあれ結論は同じ。
>ならおのずと選択肢も限られる。
>それを大勢でやる意義が感じられない、というのが一番の理由です。
>「自明のこと」の証明が嫌いなのは、これに起因します。
に対して。

>>数学をそう呼ぶのは、「将棋はたかだか有限種類の局面しかない、先手必勝ゲームなのだからつまらない」というのも同じだ。ましてや数学が扱う「空間」というのは、他のどんな学問より広いのだ。極論してしまえば、他の学というのは数学の単なる一分野に過ぎない。

と酷評を受けていますね。
今読み返してみて、自分でも批判したくなりました。
撤回します。
きっちり明言しなかった私に全面的に否がありますが、これはいわゆる受験数学についての考えでした。

もう一つ批判を受けそうな部分。
>理系は理系の間で共有できる理系世界を構築しているようにも見えます。
>それは共有できるが故の強みと、突破の困難さを内包している。
>それはフェルマーの定理を解決に導き共有を可能にするかも知れない。
>けど、私が思考の卓越性を感じるのはある程度文系的な思考です。

>>同じ10の貢献を上げた場合でも、理系は90あったところに10を加えて100にしたという感慨を持つのに対し、文系は1だったものを10にしたという感慨を持つことが多いように思う。

その通りですね。
上の発言は「尊敬に足る文系」が作るものの独創性、希少性に対する個人的な思い入れから書いたものです。

一部(もしくはもっと多くの)理系の言う「文系による搾取」という考え方。
(そもそもそれが資本主義ですし、テレビに踊らされる人々のように、自分に都合のいい、しかもある程度正当性のある主張にのっかっているだけのような気もするのですが、それは置いといて)
私も能力がないのに搾取しているような人間は嫌いです。
まあ、私が能力のない文系と判断されたのならどうしようもありませんけど、では私が理系の道に進んでいたらどうだったのでしょうね?>理系の人々。
全ての人間は文系にも理系にも進む可能性があるのですよ?

理系と文系の対立、という図式に陥る、陥ろうとするのは両者にとって損失です。
特に、その中でも優秀な人たちに。

文系の思考が気に入らないのなら、文系の中でもそれなりに頭のいい人間に理系の思考を植え付けてみてはどうでしょう。
で、そういう人間の下で働けばいいわけです。

ああ、その「それなりに頭のいい人間」がいないという反論が返ってくるのでしょうか。
でも、単純に考えて半分は文系になるわけです。
偏りはあっても、理系の人間の最下層が文系の人間の最上層、などという構造はありえません。
かなりの部分がかぶるはずです。
それを無視してかかるのは「理系的」なのでしょうか。

>>いっそ「聞系」と「履系」というのはどうだろう。「聞いただけでわかったつもりになる系」と「履行してみなければわからない系」というわけだ。

>>その意味においては、我々のほとんどは「9割聞系」で、「1割履系」なのだろう。履系に憧れつつも、聞系なしに物事を割り切るには世の中ややこしすぎ、忙しすぎるということなのだろう。

とても面白いと思います。
最後に、私が好きなのはこういう発想ができる文系であり、無能な文系は嫌いだ、ということを繰り返しておきます。

まだ何かおかしい点があるかも知れません。
指摘があればまた考えてみようと思います。