ねじのないひと。

アスペルガー症候群の私が綴る、詩とも日記ともつかないブログ。

私は、「アスペルガー症候群」
また、それのせいで起きてしまった精神疾患
それらによって、「ねじ」のないひとになってしまいました。

ずっとねじを探して
ふつうのひとになれるように
一生懸命、探してきました。

でも、最初から私には、
「ねじ」なんてなかったのです。
「ねじ」がないから、私は人と生まれつきちがったのです。

いつも思っていたことを、タイトルにしました。

つらいこと
かなしいこと
うれしかったこと
おもったこと

ここに書いて少しでも生きる気力になったらいいなと思います。

よいこのさくぶん

小学校のころ
夏休みがあけたくらいに
誰かが必ず作文を読んだ

そのときのことを
ふしぎなくらい よく覚えている

「人にしんせつにするなんて、
ばかみたいだと思っていました
でも、人にやさしくすると
自分にかえってくるって、わかったんです!
だから、これからも、
わたしは 人にやさしく
いきようと思います!」

「差別なんてしない!
わたしはそう決めました!」

そのときのわたしは
知らなかったのです

こんなことを言う子たちはみんな
「こう書けば、先生がほめてくれる」
「こう言えば、みんなより優秀な生徒と自慢ができる」
「おこづかいがもらえる」
そう思って書いていたこと

わたしが今でも帰り道で
線路に向かって歩こうかなと
夜道をとぼとぼ歩いたり、止まったりするのは
あの子たち
そしてあんな子供たちを
よいこ、よいこと認めていた
ずるがしこい人たちのせいなんだと
とてもくやしくなる


「人のために働くとか
バカみたいな夢を持ってるやつは
2,3年くらいでやめていく
現役で働き続けられるのは
現実を知っている奴だけだ」

そう言っている人を見たことがある

わたしは甘い夢を見ていたわけじゃない
楽して、おいしい思いができると思ったことなんて
一度もない
だけど人は
「やさしくするのが、一番大事なことなんだ!」
と思い込んでいる人は
「うすらバカ」だと鼻で笑うんだ

知らなかった

あのさくぶんは全部
嘘だったなんて
みんな、正しいから、
表彰されるって信じてたから
いいことを言うから
正しいことを言うから
褒められてるんだって、
本気で思ってたから


いきていると
毎日、たくさんの人に
やさしくされる
こんな素敵な国は
日本しかないって、言われたこともある

でもわたしは
どっちが正しいか
見極めるために
じっと見てたんだ

さくぶんは正しかったのか
それともまちがっていたのか

でも、さくぶんは
嘘だった

「あのおっさんウザイよね、マジめんどくさい。死ねばいいのに。」

そんなことをいってても
おかねはもらえるんだ
そういう人こそ
おかねがもらえるんだ

つまり、長生きできるんだ


今言われたって、どうしようもない
これまで右利きで育ったのに
「やさしい子になりなさい」
「いつも笑顔で、あいさつできる子でいなさい」
そのために右手で
いっしょうけんめいお箸を握ったり
何かをつまんだり
誰かに運んであげたりしてたのに

「大人なんだから、現実を見なさい」
って、左手にさせられたって
どうしたらいいかわかんないよ

手だったら
練習すればなおるけど
練習したってできないことは
いっぱいある

さいしょから、上手な生き方を
教えてくれればよかったのに
なんで、嘘ばっかり教えるんだろう
みんながみんな、
社会に便利な子どもになって
ほしいんじゃないの?
どうして最初はおりこうさんで
大人になったらいきなり
わるいこでいることを 強いられるの?
何が正しくて 何が悪くて
どうやって生きればいいか わかんない
だってもう
まわりはみんな、わたしが夢見るうすらバカだって
思ってるんだもん

どこにだって壁はある

しばらくぶりでした。

なぜ、しばらくぶりだったのか。
それは、わたしの人生が、偽りでも「楽しかった」から。

アスペルガーであることを忘れ、普通の人間としてエンジョイすることができていました。
こんな瞬間が、ときどき訪れるのです。

偽りでも…
それは、楽しいのだと、どこかで自分に言い聞かせているから。
なぜかというと、「ふつうの人にとっては楽しい環境のはずだ」という意識があったから。
わたしの本心は、少ししか楽しくないけれど
「これがふつうの人にとっての楽しい、幸せ」
そう思うだけで、前を向いて歩けていた…
ふつうの人のふりをしても、くるしくなかった…

だけど、どこにでも壁はあった。

わたしにとってのふつうが、相手にとってふつうではなかった。
どれだけ話し合っても、わたしが異常であることを、みんなが当たり前のように思い、うなずいているように思えた。
間違っているのは、すべてわたし…
わたしの思う、ふつうが、通じなくなってしまった。

わたしはまた、孤独になる。
でも、孤独は苦しくない。
楽しくもないけれど、苦しくもない。
そんな代償つきの、幸せなひとときがまたやってきたのだ。

それでも…
こんな悲しい失敗を、何度繰り返さなければならないのだろうか。
わたしのふつうが、みんなのふつうであればいいのに。
そうなる日がくれば、わたしは、心から「エンジョイ」できるのに…
そんな寂しさと悔しさの中にいます。

わたしのいないわたし

わたしはこの間
とてつもなく大きな成長をした
たった一歩だったけど
とても大きなものだった

わたしは生きていく上で
必ず、
「自分の存在は間違っている」
と信じ続けてきた

自分が間違っていて、他人が必ず正しい
それは幼い頃からの
親の命令、親族の視線、学校のいじめ、あらゆることから
自分は必ず、隷従しなくてはいけないという
洗脳だった

しかし
大人しく従うほど、柔らかい感性はしていなかった

なぜこんな事を?
なぜこんな人に?
いつも不満と憎しみでいっぱいだった
毎日を、呪いながら生きてきたといっても
間違ってはいない
これまで生きてきた時間の
半分以上は、不満と憎しみでできていた


その呪いは、
「自分は間違っている」という意識により抑圧され
やがて爆発する
その繰り返し

人に命じられて、奴隷にされて、それを恨んで、
その恨みを殺しながらのた打ち回って…
その繰り返し

でもそんな繰り返しの毎日を
ふと振り返ってみた時
なんだかとても、幼稚に見えた

本の中、テレビの中、パソコンの中にいる
憎むべき対象ではない、憧れの人々
優しくて大らかで温かい、
手の届かないような人々と
自分を初めて、見比べてみた


わたしは弱者を踏みにじることでしか自分の価値を見いだせない人々に
利用されるばかりの人間か…
冷静になって考えて
そんな証拠はどこにもないと、わかったのだ

わたしには、
「こんな仕打ちを受ける義務など、ない!」
と、
声高らかに宣言する権利がある
そう思った時
口からは不満と憎しみの呪いのことばではなく
「『わたし』は、こんなこと、したくない」
「『わたし』は、こんなこと、正しいと思わない」
「『わたし』は、いやだ!」
主語が変わった

「させられている」のではない
「わたしがする」へ
変えていくこと
それがこの忌まわしい日々を終える方法なのだ

「わたし」は考えている
思っている

心も頭も、ちゃんとある!!!

ペットのような生活は、人々がわたしに抱かせた
幻想だったのだ
管理人:なほ
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