昨日、一昨日と海外で数多くの奉仕活動をやってきた知人のキムさんと話す機会がありました。
これから私がこのブログで書こうと思っているネパールやインドでの経験も豊富な方で話が弾みました。

macha
 
そのなかで、このブログのテーマである「偽善と良心の限界」を共感する話が多く出てきました。

彼は図書館や学校、清掃や物資の支援活動ををたくさんやってきて実感することは、現地で支援物資を届けたり活動をしても、その国は何も変わらないという事でした。

特に若い学生などの引率をして奉仕活動や教育のボランティアをやってきたけれどもその成果は、参加したメンバーの成長や異文化とのコミュニケーションには役立つが、本当の意味で貧困を無くすことは難しいと結論付けました。

私達は往々にして、途上国などの生活環境の悲惨さに心を奪われて、目の前の「苦」から解放してあげたいと思いがちです。 しかし、それがかえって複雑な事情や副産物を産み出してしまうのも事実で、彼が一つ面白いエピソードを聞かせてくれました。

引率して連れて行ったある学生がカンボジアの食堂で座っていると、子供を抱いた母親がお金を恵んでくれと言ってきました。彼は不憫に思って5ドルを彼女にあげたそうです。そして次の日にまた同じ食堂に行ったらそこには20人くらいの人が彼を待っていて、お金を恵んでくれと近寄ってきました。彼は体格の良い屈強な青年でしたがその場にいることが堪えられなくなって逃げ出してしまった・・と言う話です。

カンボジア

 
そして、この話をした後キムさんは、このような場面に出くわしたら絶対にお金を与えてはいけない、そういう時はすばやくその場を立ち去ることだ、と付け加えました。

途上国に行った人ならだれでも体験するような一コマですが、このような状況を私は「良心の限界」という言葉で表現しました。



私は、災害支援や難民支援などの緊急な援助は否定するものではありません。
しかし、募金活動も含めてお金を集める人 とお金を寄付する人、寄付されたお金を使う人と支援を受ける人との関係においてもっと違う援助の形、フェアな形があるのではないか?と考えはじめて今日に至っています。

お金を与える側も恵みを乞う側も同じ人間で、「良心」を持ち合わせているはずなのです。
しかし、どちらの側もいつしかその様な良心の働きがイビツなものになってしまったり、麻痺してしまって行っているのではないだろうか?と言うのが私の考えです。

そしてフェアトレードにも課題が無いわけではありませんが、今のところ一つの可能性として取り組んで行く価値があると思っています。




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