来るべき、大いなる正午

宇宙の底に生息するゲジゲジ、K・スィーガーがその瞬間に考えた生の思考を書き留めておく。

俺のブログが人気でないのはどう考えてもお前らが悪い!

偉大な人々にとっては、完成された作品よりも、生涯を通じて仕事が続けられた断片のほうが、はるかに重要である。
‐ベンヤミン
さて、『是村氏の探求』は終わった。さりとて、パスティーシュの戯れとして、商品価値なきものを、何の同情も諸君は感じまい。未だ通り一辺倒の理解拒むショーセツもどき。

スタンダールの献辞の裏返しで、少数の不幸者に読まれるという幸福を感じ得るならば。

日の目をみないゲジゲジが宇宙の底のみで陰険にルサンチマンを量産する。基底のないデラシネだから、てんでデタラメに。禄でもないブログになったものと、始めから誤謬の出発でなかったか。

お得意のジャーゴンでまた誤魔化すのか、剥き出しの言葉には素手で触れられない。

取るぬ足らぬ積み上げてきた乱文から、何を学ばさせようと、世間は絶対に正解だけは出さないのは分かっている。

ブログが読まれぬ廃墟に、人に言わせれば”デスブログ”になっているのに、気落ちする程の己惚れもない。

何の答弁も必要ないから、一杯の溜息をついて、心を空白状態にする。

語りたいことに何の意味も持たないようである。胡乱な心の状態。

ネットスラムの見世物にすらならない、闇の精神的自殺。どこかでずっと死んだふりをし続けただけである。ぼんやりと幾時間も黙ったまま、ブログも歳をとる。何の役にも立たずに、強かに。どうしてこんなことになったのか。名誉も挫折も、もう関わりないではないか。

是村氏の探求 〈最終回〉

過剰な詩を巻き込んでいた是村氏は、その意味を還帰させ光を差し込ませていた。無論、効率をよしとする現代の人間からの非難は免れないでいる。長い夢にテクストの理解を。知的虚栄心とは無縁な。

そして、私はどの場所にもいたのかもしれない。どこまでも自由だった。考えている時、悩んでいる時、泣いている時、しかし鏡に写してみる私自身の顔は、青ざめ疲れきったままだった。書く気力に生命も、もっていかれたようだった。でっちあげ、でたらめ、どうやら次につなぐ言葉も、最期になるかもしれない言葉も……それも実に私らしい。一生さなぎ状態を免れない自分は始原を保つ人であるか。もっとも殻というものを脱ぎ捨てた所で、この固着された視野からは抜け出せない。私は私として体を脱げないでいる。頭から爪の秋まで。理性の重さまで秤にのせようと。残した概念の創造は、大きな宿題とも、投げ捨てられた影の巨大さよ。思念から思念へとつなげようと蝕まれた差異。心の拠り所となるであろう、ヒューマニズム、愛すべき理性それらも欠片も思考しえない!強度となるであろう個と個の連携、か細い糸、いつ来るか分からぬ不安、想像のイマージュは己の中で駆逐させるのだ。

 人の通る音も聞こえぬ時間、人生の狭間、是村氏の書物の一節について、考えようと努めて失敗した。それが結果だ。是村氏と私は運命を共にしていたはずだ。運命は、私のそれである。つまりは死をものりこえること。だから、その先を信じて。

薄れていく意識の中でやっと気付いた。私が是村氏を思考しているのではない。私は是村氏の探求に、〈一の多〉に過ぎないと。そして、信じるのをやめると同時に彼も私の存在も消滅する。残したものは無限大の虚無。(了)

Good Bye The Little House I Used To Live In

帰還とは、自分たちは故郷にいる、自分たちは故郷を離れたことがないと想い出すことにすぎん。
(ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』から)
脳は愚鈍に、腐肉は順調に腐っている。横になる時間も長し。繊弱な人生の影。ただ己のみを信じようと努めても、軽蔑しきったこの足は簡単には動いてくれぬ。実家からの帰還、またも独り寓居で陰影に閉じこもる。

今年は夏の陣に参加できなくて、かなり欲求不満。ビブリオマニアの飢渇はどこで癒される。モノのみがモノとして、潤いをくれる。しかしモノは決して極限の満足を提供してくれる訳ではない。

どこでしっかりとした文章を書く術を失ってしまったのか。画家のドガが宛てた手紙に、ドアが閉まるように、自分というものが閉まっていくといった一節がある。開けられた扉も音もたてずに閉まっていく。鍵はみつからない。真昼の明るい光も苦しみと成りうる。ただ乱雑な文に苦しみは表現不可能。軽やかな気分で、鬱を悲劇的なまでに。穏やかではあるが、もう存在しえぬ故郷と過去、考える時の悲嘆は説明不可能。



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