対幕府戦を行った長州と薩摩の連合軍で、最初の軍事指導者は長州の大村益次郎(1824年~1869年12月)だった。あの西郷隆盛も彼の指揮に従って、戦うことになる。大村は長州藩の田舎で医者をしていたが、緒方洪庵主宰の適塾にも学び、数学や物理、そして語学にも堪能だった。ただし囲碁は下手だったらしい。

まだ彼が若いころは、幕府と長州の関係も平穏だったので、才能を認められて、江戸幕府に臨時で雇われたこともある。その時に彼はドイツやフランスの軍学を説明した洋書を翻訳すると同時に、日本での改良点などを指摘したテキストを提出もしていた。だから幕府の方が大村益次郎の凄さを知っていたぐらいだった。細かいことでは、大砲の打ち方を物理計算を使って説明することもあったという。

理系人間にありがちだが、口数が少なく、人付き合いもめちゃくちゃ悪いし、相手の感情や事情を考えに入れない、堅物の人物だったが、木戸孝允に見いだされ、連合軍を理論的かつ論理的に指導したことで、戊辰戦争を勝ち抜き、晴れて明治新政府で兵部省(軍部省みたいなもの)の兵部大輔(軍部大臣と考えると良い)となった。残念なことに1869年・明治2年に暗殺されてしまった。暗殺された理由は後で述べる。彼は「日本陸軍の創始者」として、九段坂の靖国神社に銅像が立っている。

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「幕末好き」には釈迦に説法だろうけど、「維新の3傑」とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通のことだ。さらにはどういう数え方をしているのかは知らないが「維新10傑」というのもある。その中に大村は入っている。

日本陸軍最初の元帥は西郷隆盛だが(諸説あり)、彼は征韓論で政権を去り、1877年・明治10年9月に西南戦争で死亡、同年5月木戸孝允も「西郷、いいかげんにせい」とうわごとを言い、西南戦争の行く末を案じながら京都で病死、大久保利通は西南戦争翌年の1878年・明治11年5月に西郷に心酔する者たちに暗殺されて、やはりこの世を去っている(紀尾井町事件)。

事件続きで、有名人が次々に死ぬと、勉強しているほうはたまったものではない。しかしあれだけ活躍した3人は維新が終わると、役目を果たしたみたいに、ほぼ同時に消えてしまうとは、歴史の不思議である。

山県はこのように明治維新での陸軍部門で成功した先輩にあたる人たちが早く死んだり、政権を去ったりしたことで、徐々に軍の編成、特に陸軍の軍制を担当していくことになる。1838年生まれだから西南戦争が起きた1877年・明治10年の時に39才、伊藤博文は1841年生まれだから36才。現在なら「青二才~中年のおっさん」と呼ばれる年だが、当時は平均寿命が44才(!)だ。あくまで平均寿命だからもう10年ぐらい伸ばして55才ぐらいにして、本人的には「あと15年ぐらいかな~」と思っていたと思う。歴史の結果として、伊藤博文は1909年・明治42年に69才で暗殺されているが、山県は1922年・大正11年 84歳まで長生きした。

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さて、ある人が「有能な軍人」として認知されるためには、組織的な戦闘で「勝つ」ことが必要で、その戦闘が大きければ大きいほど良いのは言うまでもない。その点では彼は十分な戦功をあげていた。

ここからは視点を変えて、「日本の歴史の流れと世界の関連 PART1」を年表にして紹介する。
教科書や資料集の片隅に載っているけど、軍事的には大切なものを紹介するので、少し我慢して見てください。こういう風に見れば、当時の世界のスーパーパワーがひしひしと日本に迫ってくるのがわかると思う。ただし、どうでも良いものも息抜きに入れてあります。


1868年・明治1年
1月     明治維新・鳥羽伏見の戦い
1869年・明治2年  
5月     アメリカで最初の大陸横断鉄道が完成し、大西洋と太平洋が陸路で結ばれる。
11月   スエズ運河開通。イギリスと日本がアフリカ南端の喜望峰回りより、18000㎞ 近くなる。
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1872年・明治5年
2月     兵部省が陸軍省と海軍省に分かれる。 山県は陸軍大輔(陸軍大臣)になる。
8月      廃藩置県 実施。
1873年・明治6年
1月     徴兵令 実施。
   :
1874年・明治7年   山県は陸軍卿(陸軍大臣次官みたいなもの)に再任。
1875年・明治8年
11月   イギリスはスエズ運河を買収する。
   :
1877年・明治10年  
2月  西南戦争勃発。山県は陸軍中将として従軍。政府軍は士族軍に勝利する。
       前後して木戸孝允は病死、西郷隆盛は敗死する。
   :
1878年・明治11年
5月    大久保利通が暗殺される。 
1878年・明治12年
8月     西南戦争の恩賞への不公平感から、陸軍内部で「竹橋事件」が起きる。
10月   事件の反省から、綱紀粛正のために「軍人訓戒」を作成。これは1882年「軍人勅諭」になる。
12月    陸軍省から参謀本部が独立し、山県は初代参謀本部長に就任する。
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1885年・明治18年   
            太政官制度から内閣制度に移行
1889年・明治22年
2月       大日本帝国憲法制定
12月     第1次山県内閣成立          
1890年・明治23年
7月      第1回総選挙 
1891年・明治24年
5月     ロシアはフランスから資金を借りて、シベリア鉄道建設を始める。
   :
1893年・明治26年
1月     アメリカはハワイを保護領化する
9月     アメリカによる「門戸開放宣言」
1894年・明治27年
8月     日清戦争開戦
1895年・明治28年
4月     日清戦争終結・下関条約締結。三国干渉があって、遼東半島は返還する。

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1878年・明治11年に、陸軍が陸軍省と陸軍の参謀本部に分かれたことを、「軍政と軍令が分離する」という。「軍政」とは「軍と政治」、「軍令」とは「軍と命令」のことだ。

陸軍省が「軍政」を担当し、国会対策や内閣の他の管轄の大臣との調整=政治部門を行う。「軍令」は参謀本部の担当で、戦争の作戦を立てたる=軍に命令を下すことをする。
この出来事は、今後ずっと、そう昭和20年の太平洋戦争敗戦まで、影響を及ぼすぐらい、大切だ。

ただし明治天皇は「軍政と軍令が分かれるのはいかがなものか」と、心配したことは明記しておく。この時、明治天皇は26才だ。当時の平均寿命から現在に換算すると、現代では40才の分別盛りだし、約10年後の憲法制定の際に設けられた研究会でも熱心に勉強され、伊藤博文の説明の矛盾点なども鋭くついているような事実があるから、側近等に耳打ちされたのではなく、自分の考えから発言したと思われる。やはり帝王の血筋は違う。

SFなんかで言う「参謀本部」は「統合作戦本部」の参謀本部で、陸海空の3軍を束ねるのだが、明治~昭和20年までの日本で「参謀本部」というのは「陸軍の参謀本部」を指すから少しややこしい。

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日本は憲法より先に内閣=行政府が、そして内閣よりも陸軍の参謀本部=軍事担当部門が先にできた。これは明治政府が軍事政権であることを意味する。もっとも革命やクーデターなどで政権を実力で奪取した場合はたいてい、軍事政権=陸軍主導だ。海軍主導の軍事政権は珍しい部類に入る。ただし軍事政権が一概に悪いとも言えないから、世界は複雑だ。

1879年8月に「廃藩置県」を行った理由も簡単で、日本各地どこでもから兵を集める=徴兵することを法律的に可能にするためだった。日本が封建制から統一国家になり、その土地の主人が「藩=大名」から「県=国」になれば、兵を集める権限を持つのは国となる。廃藩置県そのものは幕末の大名家のほとんどが赤字決算になっていたため、重荷になっていた「藩」を投げ出したところも多く、比較的スムーズに進んだ。世界でも珍しい例とも言える。

ごねたのは薩摩藩の島津久光だ。彼は島津幕府ができて初代将軍になれると思い込んでいたから、維新後「西郷と大久保に騙された」と怒っていた。長州藩の毛利敬親は家臣の意見に異議を唱えないで常に「うん、そうせい」と答えていたため、「そうせい侯」と呼ばれていたが、久光と同じように「俺はいつ将軍になれるんだ?」と尋ねていた。両雄とも、賢いのか愚かなのかわからないところがある。まあこれだけ世の中が大回転する時代に、先の先まで見通せたら、常人ではなく、奇人・変人みたいなものだから、仕方がないだろう。

例えば神格化されているところが多い吉田松陰だが、詳しく調べてみると、もしこんな人が身近・身内にいたら堪ったものではないと思う。その時代の価値観をぶち壊すことを主張し、実行に移すのが「革命家」たる所以なのだから、必要条件として「奇人・変人」でないといけないのだろう、と考えさせられる(もっとも変人は、悪人と違って、あまり人に迷惑をかけないから、少しずれた意味での「奇人変人」だと断っておく)。

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このあたりの歴史は軍関係の方から調べると、露骨なぐらい流れがわかりやすい。法的根拠を得た後は「徴兵令」だ。主導するのは、明治政府の場合、「特に多くの人間を必要とする」陸軍関係者だった。

その「多くの人間」をどこから集めるのか?で意見が分かれた。
最初に紹介した、陸軍の創始者・大村益次郎は国民皆兵を説き、どの身分からも徴兵するべきだ、でないと人数が足りないし、近代国家にならない、と主張した。対して維新の3傑の一人・木戸孝允は武士階級からで十分だ、と主張した。「戦うのは武士の仕事だ! 町民や百姓に戦ができるか!」と怒った人たちに大村は暗殺された。大村の遺志を継いだのが山県だった。

ここで彼はジレンマに陥る。
ところが自由民権運動派の方も、ジレンマに陥る。
問題の発端を予言していたのは、ルソーの「社会契約論」だ。

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ちなみに日本で一番早くできた近代的な法律は刑法で、1870年・明治3年です。
これは江戸幕府の「公事方御定書」を欧米を見習って書き換えたもので、1907年・明治40年に正式の刑法が定まり、これより後、明治3年の刑法は「旧刑法」と呼ばれるようになります。
犯罪者の取り締まりは、借金の取り立てとはまた違って、まさに「待ったなし」だから仕方がないですね。

では今日はこのへんで失礼します。
m(_ _)m