「あれ、ちょっと待てよ。『その1』で「陸軍と海軍が分かれていて、憲法上は、内閣の指示も聞かなくて良いことになるから事実上、政治と軍事は3つに分裂していたとあったのでは?」と覚えている人は素晴らしい。さらに「その陸軍が陸軍省と(陸軍)参謀本部に分かれたら、政治と軍事は4つに分裂することにならないか?」と気が付いた人はもっと素晴らしい

その通りです。ついでに言うと1893年・明治26年の5月に、海軍省から軍令部門が分離独立して、海軍参謀部に移され、後に「(海軍)軍令部」となる。だから海軍も「軍政と軍令が分かれる」ことになる。さらに時代が下がって、戦争時には「現場の意見」が強くなり、(海軍)軍令部の下部実行組織である、かの有名な「連合艦隊」の意見にも引きずられるようになるから、海軍は3つに分裂することになる。これは陸軍も同じで、現場指揮官の意見具申にかなり左右されるようになってしまう。

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国をまとめきれないまま、太平洋戦争直前になると、陸軍は3つ、海軍も3つの「派閥」に分かれてしまい、それに政府=内閣が入るから合計7つに分裂することになる。だから最初に「よく70年近くも国が保ったなあ」という感想が出たわけだ。

事実、太平洋戦争開戦時の東条内閣で大蔵大臣を務め、戦後の1946年から1948年に行われた極東軍事裁判、通称東京裁判で戦犯として起訴された賀屋興宣という人は「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ、南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画も立てずに戦争になってしまった」と面会に来た友人に、ぼやいているぐらいだ。

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1937年・昭和12年の11月に、日中戦争が泥縄化しつつあることを、さすがにまずいと思ったらしく、「大本営」=陸海軍と天皇の会議と、政府・内閣をつなぐ意味で「大本営政府連絡会議」という調整機関を作り、陸海軍、そして政治の重要職にある人たちが集まるようにはなったけど、それでも一本化することは、急には難しかった。最後の方は「最高戦争指導会議」という名称になるけど、同じだった。

とにかく勉強するほうにとっては、「~会議」とか「~課あるいは~部委員会」が乱立している状態で、似たような名前が一字違いで全然違ったりして、ほとほと困ったこともある。

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明治中期の時点で政治と軍事は、内閣、陸軍省、(陸軍)参謀本部、海軍省、(海軍)軍令部の5つに分裂「可能」となる。あくまで「可能」としたのは、この5部門の長や組織が天皇の下で、情報を共有し、協調・協力しあえば「分裂」はしない。お~い国会が入っていないぞ、との意見が出そうだ。それも後で問題になる。

今は、山県有朋が目指す「国民皆兵」による徴兵制と、自由民権運動が目指す「国民の権利の伸長」の双方のジレンマと、ルソーの「社会契約論」だった。話を戻す。

山県有朋は、日本で「強兵」の陸軍を作るためには、一般人、つまり一番多い平民からも徴兵しなければ、数が足らない。しかし彼は1869年・明治2年~1870年にかけて、最初のヨーロッパ視察に出かけ、大衆が国を動かす力を持ち出し、政治を左右する場面を見てきた。その大衆が固まって力を持つのが政党だ。徴兵してその大衆に武器を与え訓練した後、彼らが「民権意識」を持つようになり、政党が国政を受け持つようになれば、テロなり、クーデターなりが起きて、天皇主権の「大日本帝国」は崩壊するであろう(ただしまだ「大日本帝国」と名は付いていない)。これが山県のジレンマだ。1878年8月に起きた「竹橋事件」の思想的原因を山県は自由民権運動だと考えていた。1874年「民撰議員設立建白書」の提出という歴史的事実もある。これは近年研究が進んである程度、証明されている。

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では自由民権運動派のジレンマは何か。これは説明するのに少し時間がかかる。
意外かもしれないが、自由民権運動派は徴兵令には特に反対していない。むしろ徴兵逃れの方法を教えている人たちを軽蔑していた。これはなぜか?で、ルソーの登場だ。

ジャン・ジャック・ルソーと言えば歴史の勉強で出現する有名人のうちの1人だ。中学レベルの歴史だと、割合、一人一人の「ピン」で登場するのが普通なのに、ルソー、モンテスキュー、ロックは、「3人組」で出てくる珍しいタイプで、ある意味キリスト、ブッダ、マホメットと同レベルの出題率だろう。この分類は歴史で何とか点数を取りたい生徒君が編み出した「グループ分けによる暗記」必勝パターンだ。

で、少し難しいレベルになると彼ら3人の著作名まで問われ、ルソーなら「社会契約論」、モンテスキューは「法の精神」、ロックなら「市民政府二論」で10点ゲットだ、となる。12点かもしれない。

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特にルソーは近代民主国家の父とも元祖とも呼ばれている。「民主」の部分が大切だ。「社会契約論」は1762年の出版だから、幕末~維新の1868年前後なら、たった約100年前の著作で、そう古いものでもない。ただし出版当時、ヨーロッパは「王権神授説」が主流だったため「過激で危険な思想」と認定されて、発禁処分になっている。現在の共産主義思想みたいなものかも。どちらにしても1789年のフランス革命の「底流思想」になったことは確かだ。

「社会契約論」は、1882年に部分的だが「民約訳解」とか「民約論」という名で日本で翻訳されている。翻訳者は複数いるが、その中で有名な人は高知出身の中江兆民(1847年~1901年12月)だろう。自由民権運動は1870年代半ばから1880年代最初に始まった(教科書には1874年「民撰議員設立建白書」の提出からと書かれている)。すると自由民権運動に参加した・あるいは賛同する人なら「民約論」は必読の書だ。読んでいない人は、お経の読めないお坊さんみたいだし、「肉の入っていない牛丼」状態だ。

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またフランス語で書かれた「社会契約論」の原本なら、ある程度の冊数は輸入されているはずだ。それをゲットしたら、フランス語ができる人に日本語訳ぐらいは聞くだろう。1864年にはフランス語の辞書「仏語用明」が出ているし、1887年には中江兆民も参加した「仏話辞林」も出ている。それらが高価なら亜流辞書本でも手に入れて、読もうとするのも自然ではないか? ただしこれを確かめた史料はないから、あくまで憶測だ。

と考えるのは、1774年に完成した「解体新書」の例があるからだ。辞書なしのほぼ「暗号解読作業」の2~3年で、オランダ語の解剖学書「ターヘル・アナトミア」を蘭方医の杉田玄白と前野良沢、他3、4人で翻訳してしまったのだ。熱心な日本人ならこれぐらいはやってのける。自由民権運動に参加する人にも色々なタイプがいたはずで、武闘派もいれば、「皆にたくさんのことを知ってもらおう、それならやはり書物出版だ」と穏健に考える人がいても不思議はないし、自分を納得させなければ、人に伝えることもできない。もし私なら「周囲の状況」を鑑みて、穏健派と同じ方法を採っただろう。「周囲の状況」が自由民権運動派のジレンマだ。

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現在なら、もちろん全文翻訳されて、岩波文庫で定価520円。少し大きな書店に行けば売っているし、アマゾンの古本屋なら本体+送料で、300円代~400円代で手に入る。昨日確認した。

その「社会契約論」だが、岩波文庫だと54ページの「第2編 第5章 生と死の権利」には何気に恐ろしい文章がある。

『もし人民が社会契約によって…国家を形成…したとする。…さて市民は法によって危険に身をさらすことを求められた時、その危険について、もやは云々することはできない。そして統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家に役に立つのだ」というとき、市民は死なねばならない。なぜならこの条件によってのみ、彼は今日まで安全に生かされてきたのであり、また彼の生命は単に自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈り物なのだから』

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世には「等価交換」という、ちょっと気の利いた言葉がある。何かを得たなら・得たいなら、その何かと等しい価値を持つものを奪われる・提出しなければならない、という意味だ。「平衡感覚」「志望動機」と同じく平凡な4文字漢字の言葉だったが、衆知流行させたのは荒川弘氏の漫画「鋼の錬金術師」通称「ハガレン」だ。

ルソーの言う「お前の死ぬことが国家に役に立つのだ」は「彼は今日まで安全に生かされてきたのであり、また彼の生命は単に自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈り物」はまさに等価交換だ。

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だから自由民権運動派は徴兵令に反対しなかった。元々自由民権運動派は士族=武士階級出身者が多い。死を恐れることを恥と思う教育を受け、「何か大切なもののために死ぬ」ことを至上主義としている人たち、と考えても良い。当時も今も「言論の自由」はあるが、当時は「言論の後の自由」の保証はなかったのだから。

そして多くの国民が「兵士」として国家活動に参加することが、国民としての意識を高めるだろうという見込みもあった。これは山県と見解を同じくしている。

では自由民権運動派のジレンマとは何か?それは彼らが啓蒙するべき対象の大衆のレベルの低さだった。何しろ1889年に「憲法が発布する」を「絹布(けんぷ)の法被(はっぴ)を天子様がくださる」と喜んでいたぐらいだ。

90%近い日本人が近代国家をこれから目指すんだ、などと明治初期に考えていなかった。いやまだ「日本人」という意識もなかっただろう。

学制が制定されると、子供たちが学校に行くことを「労働力が減る」と考えたし、税金を血税だと言い換えれば「血を取られる」と恐れ、電線の下を通ると感電すると信じていたぐらいだ。これでどうやって自由民権運動が行き渡るだろうか?こんな人たちが銃を取って敵と戦うだろうか?

だから「もし私なら『周囲の状況』を鑑みて、穏健派と同じ方法を採っただろう」と言うのである。すべて時機早々だったのだ。しかし諦めるわけにはいかない。そこで自由民権運動派が目指したのが「政党」の結成だった。彼らは国会という場で薩長藩閥政府と対立することになった。ここは教科書通りだろう。やっと政党と国の仕組みの話になりそうだ。

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私が「社会契約論」を読んだのは大学生になってからです。一応は、法学部に入ったのだから、民主主義の意味ぐらい知っておかないと、と殊勝にも考えたわけです。それで大学図書館の書架に、ぼろくなった岩波文庫が置いてあったので、授業の合間に読んだことを覚えています。しかし感想は「当たり前のことしか書いてないな~」と。

当時の自分に出会えるなら頭を張り飛ばしてやりたいぐらい、オバカ丸出しです。「社会契約論」の内容を実現するために、どれだけ多くの人間が死んでいったのか、平和ボケしたアホ青年には想像もつかなかったのです。

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話題はころっと変わって、自民党総裁選。
もし今の官房長官が総裁⇒総理になったら、「元号の発表をした官房長官は将来は総理になる」というジンクス(?)が成立したりして。

あ、この「自由」と「民主」も、後で問題になります。

では今日はこのへんで失礼します。
m(_ _)m