少し日本の政党の変遷について述べておく。たぶん2回かかると思う。
高校で日本史を選択した人は、このジャンルで「履修するじゃなかった」とまず確実に後悔する。実は私もそうだった。

昔も今も日本の政治家は、あっちでくっつき、こっちで離れと、離合集散を繰り返している。1集団に見える自民党の中でもそうだ。今回総理になられた前官房長官も、結構あちこちの派閥を行き来している。

それを節操がないと取るか、研究熱心と取るかは結果が決める。

ここでは明治期~昭和にかけての政党の動きを高校生に説明するつもりで、ごく簡単にまとめてみる。
長くなるので、番号を入れる。

(1)明治期の政党では自由党と立憲改進党が代表だ。
自由党は1881年に結党し、党首は板垣退助で、フランス流の人権思想に立ち、主権が国民にあることを主張した。立憲改進党は翌年1882年に結党、党首は肥後 現在の熊本県 出身の大隈重信で、イギリス流の立憲君主制による、おだやかな議会政治を主張した。

大隈重信は1889年・明治22年の10月に爆弾を投げられて、右脚のひざから下を失ったが、それ以外は健康で、1922年1月・大正11年の83才まで長生きをする。原敬とは「政敵」の関係にあった。1920年1月には国際連盟が発足、原は1921年11月に暗殺され、山県は1922年2月に死亡、この1920年~1922年はある意味「転換期」にあたる。ちなみに例のスペイン風邪だが、1919年に原も山県も罹患して、結構苦しんでいるが、それで死んではいないし、大隈にいたっては罹患したかどうかも不明だ。3人ともしぶとい。

どちらの党も政府の巧妙な懐柔策によって、分党したり、合流したりしていたが、日清戦争中は政府に協力していた。しかし1898年の日露戦争用の増税案を予定していた政府と対立するため、1898年6月に合体し、「呉越同舟」で憲政党となった。そして増税案を議会で否決した結果、第3次伊藤内閣は退陣した。

そこで憲政党を基盤にして、日本で最初の政党内閣が生まれた。政党内閣とは、議会で多数を占める政党を中心にして作られた内閣のことである。大隈重信が総理大臣、板垣退助を内務大臣としたこの内閣を、「隈板内閣」という。ただし 隈板内閣は、内部対立などで、半年足らずで総辞職した。元自由党系の議員は憲政党に、元立憲改進党系の議員は、憲政本党と名乗った。特に政党が分裂すると、自分たちこそが本流だ、を意識して命名するから、元の名称とよく似たものが重なり、勉強するほうはたまったものではない。

(2)明治憲法と国会
大日本帝国憲法の第5条には「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」、第33条には「帝国議会は貴族院衆議院の両院をもって成立する」とある。それなりに民意を反映した衆議院だから、元老や政府にとって都合のいい予算や政策をそのまま通すことは難しい。さらに第65条に「予算は前に衆議院に提出すべし」とあるだけで、貴族院と衆議院は同等でもある。

よって衆議院の意向を無視して、総理大臣を選ぶのが難しくなった初めてのケースが、隈板内閣だったので、元老たちは妥協したのである。でも民衆は気分で動くことも多いから、政策がいい加減になることも十分ある。これは最近の政治を見ればわかるだろう。日清戦争が終わって4年、日露戦争を6年後にひかえた当時の日本にとっては、1898年の政党内閣の出現は、かじ取りの難しい時点にいた。

1899年には専門的な知識のない者は高級官僚になれないとする文官任用令、1900年には現役の大将と中将以外は、陸軍大臣や海軍大臣になれない、とする軍部大臣現役武官制を定めて、政党の影響力が、官僚や政府に及ばないようした。もちろん山県の指示や意向が十分に働いている。同1900年には、治安警察法で政治や労働運動の規制を強めた。

(3)立憲政友会の発足
このような政策に批判的になっていた元自由党系の憲政党は、伊藤と接近し、憲政党を解党、1900年に伊藤を初代総裁として、立憲政友会を結成した。以下「立憲」が付くとややこしいので、「政友会」とする。日露戦争の準備をしている時に「私は人に相談するのではなく、大砲と軍艦に相談している」と言った、現実主義の傾向が強い伊藤らしい決断である。

政友会発足会時の写真を見ればわかるが、なかなか豪勢豪華でお金のかかった発足会だ。相当な資金が財界から流入していることがうかがえる。山県はそういう伊藤の動きをあまり好きではなかったが、伊藤は伊藤で「政府の役に立つ政党ならどんなものでも良いではないか」という考え方だった。鄧小平は「黒猫でも白猫でも鼠をとるのが良い猫だ」と言ったことに似ている。

伊藤はこの後、第4次伊藤内閣を組閣したが、今度は党員のスキャンダルが続出したため、勢いを失い、1901年に、藩閥や官僚たちの支持を受けた、元長州藩である山口県出身で陸軍大将の桂太郎が内閣を組織した。桂は山県の「子飼い」でもあった。伊藤は元公家の西園寺公望に政友会総裁を譲り、1906年から1913年まで、桂と西園寺が交互に政権を担当する、いわゆる桂園時代が続く。しかしこれは藩閥官僚勢力と、政党勢力の政権の「たらい回し」と呼ばれた。特に日露戦争のために、鉄道、港湾などの社会インフラの充実が進められ、地方の有力者と結びつき、資金源にした政友会は、政治の世界を、談合と汚職の温床にしたのも事実である。また大正デモクラシーや護憲運動=憲政擁護運動で「憲政の神様」の異名を取った尾形行雄は政友会の党員だ。

(4)後の立憲民政党につながる立憲同志会の結成 ⇒憲政会への継承
桂太郎はこの後1913年に立憲同志会を結成したのち、すぐに死亡する。山県は政界に「つて」を失ったことになるが、このころの桂は山県の指示にはあまり従わなくなってきていたし、山県は、当時政友会で頭角を現してきた原敬と接近し、意見が一致することが多かった。あまり政治家を褒めない山県が原のことを「人格と言い、遣り口といい、良いものを持っている」と言うぐらいだ。

立憲同志会は1916年憲政会と名を変え、1927年には政友会から分裂したグループと合流して、立憲民生党となった。以下「立憲」を取って「民政党」とする。藩閥政府の一員だった桂を元祖とする党が「民生」と言う言葉を使うのはなんだか変だが、民族主義・民権主義・民生主義の「三民主義」を唱え辛亥革命を起こした孫文に刺激された桂が起こした党が立憲同志会だった。そこを意識して、「民生」としたのかもしれない。とにかく、1927年から、(立憲)政友会と(立憲)民政の「2大政党」に日本の政界は再編された。この構図は1940年の大政翼賛会まで続く。

(5)両党の重要人物
憲政会(後の民政党)での重要人物は加藤高明と若槻礼次郎、民政党になったらライオン首相と呼ばれた浜口雄幸の3人がテストによく出る。

対して政友会の総裁≒総理は重要人物がやたらと多い。第2代総裁は西園寺公望、3代目は原敬、以後は高橋是清、田中義一、犬養毅などがこの後、総裁で総理大臣になり、本格保守政党となる。各総裁はどういう運命をたどったかを見ると、伊藤は1908年に韓国人青年にハルピン駅頭で射殺され、原は1921年に右翼青年に東京駅で刺殺され、犬養は1932年に五・一五事件で「話せばわかる」と言ったが「問答無用」と海軍将校らに射殺され、高橋は1936年に二・二六事件で陸軍将校らに「君側の奸は死ね 」と言われて射殺・斬殺された。君側の奸とは、天皇のそばで悪い政治する悪い家臣、の意味であるが、高橋是清は決してそんな人ではない。

田中義一は1928年の陸軍の謀略であった張作霖爆殺事件の真相を昭和天皇に詰問され退陣、そのショックで、翌29年に持病の狭心症で急死し、天皇に深い後悔を与えてしまった。激動の時代にいたから、運が悪いのは仕方がないとしても、政友会の総裁になるのは、よほどの覚悟がいるようだ。

最後の元老と称された西園寺公望は、95才の寿命をまっとうしたが、1940年5月に日独伊三国同盟の成立を聞いて、娘たちに「いったいこの国をどこへもってゆく」「これでお前たちも畳の上では死ねないだろう」と言い残して、同年に死んでいる。ちなみに西園寺は最初に出てきた日本陸軍の祖・大村益次郎の弟子であり、理解者であり、年若い友人でもあった。大村が暗殺された日(正確には遭難した日。死亡したのは2か月後だから) に、大村宅に行く予定だったが、友人に祇園に遊びに行こうと誘われて「先生には明日にでも会えばいいか」と思い、訪問をやめたため、難を免れたエピソードもある。1945年の敗戦を目の当たりにしなかったのは、運が良くて幸せな方だ。あの惨敗ぶりを見てから死んだのなら「あの世で大村先生にあわせる顔がない」となっただろうから。

またよく勘違いしている生徒が多いけど、有名な近衛文麿は貴族院議長も務めたが政党人ではなく、西園寺の推薦を受けて首相になった人物だ。つまり出身母体は、政友会でも民政党でもないから注意したい。だからこそ期待されたのだが…。

(6)大政翼賛会から戦後両党はどうなったか
政友会は1940年の大政翼賛会結成まで続いた。では、昭和の敗戦とともに消滅してしまったのか。実は、戦後すぐの1945年には日本自由党が結成されたが、その初代総裁は鳩山一郎で、彼はずっと政友会所属の議員だったし、結党に集まった議員たちは、ほとんどが政友会の会員だった。党の名前は、色々変わり、日本民主党の総裁として、彼は1954年に、内閣総理大臣になった。1956年には、日ソ共同宣言を取り付け、北方領土返還の糸口を付け、シベリア抑留で強制労働に従事していた、多くの日本兵の帰還を実現させた。

保守合同の動きから、日本民主党は他の党を集めて、現在の自由民主党になった。鳩山一郎の孫は、2009年に 内閣総理大臣になった「宇宙人」の異名で呼ばれる鳩山由起夫だ。鳩山家はお金はあるので、自民党から離れて、自分の取り巻きで新進党⇒民主党を作り、敵失と時勢に乗って総理になれたが、おじいさんとは真逆の政治音痴さに、皆がびっくりした記憶は新しい。

このように自由民主党系で、世襲議員の多くの家系は、政友会、及びライバルの民政党につながるものだ。政友会と聞くと、歴史上の古い話のようだが、今もしぶとく続いている、と考えても良いだろう。もっとも、社会インフラ整備を取り扱う公共事業を資金源にし、「政府の役に立つ政党ならどんなものでも良いではないか」という言葉にぴったりの自由民主党の体質は、そのまま政友会のDNAを受け継いでいると言っても、言い過ぎではない。

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結局台風は9月中は来ませんでした。
良かったけど、10月半ばまでは安心できませんな。

どちらにしても「異常気象」であり「気候変動」です。
冬は寒そうだし。
でも暑過ぎるよりはましです。VITALs あと少しで、3年分野半分までが完全完成します。
できたら残り 3Chapter です。来年の春には終わりたい…。

では今日はこのへんでしつれいします。

m(_ _)m