(1)日露戦争後の予算と国内

1905年に終わった日露戦争は「自動車や飛行機の出現しない最後の戦争だった」と称されることが多い。日本が不幸だったのは、維新後、唯一の平和時期に、世界が急激にモータリゼーションの時代に走り始めた流れに乗り遅れたことだった。また乗り遅れないように頑張ったとしても、日露戦争後も戦費償還のために重課税が続いたから、無理だったかもしれないし、実際無理だった。これも後々、尾を引いて、昭和の悲惨な敗戦につながっていく。

当時の国家予算は6億円(今のお金なら単純計算で10000倍して6兆円ぐらいだから現在の北朝鮮レベルより少しだけ上)、うち歳出=支出は軍事費が約25%~30%、外国への債務返済にも約30%だった。軍事費は技術革新に使う部分もあるが、ほとんどは生産性のないもので、消費のみと考えて良い。だから支出が半分を占める、と考えれば良く、使えるお金は予算の半分以下しかなかった。貯金なんかできるわけがなく、この状態は第1次世界大戦まで続く。ついでに言えば、外国から借金をした時の担保も、関税収入を当てたぐらいだ。これでは増々お金は貯まらない。

戦争が終わったのだから軍事費は半減しても良いではないかと誰でも思うだろうが、ロシアは負けたとは思っていなかった。全権大使のウイッテは「賠償金は戦勝国に払われるものだ。しかし敵=日本はロシアの国境の外にいるのだから、ロシアは負けていない」と主張した。これには当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも「日本人(特に庶民レベル)が、講和条約に満足していないことが理解できない。ロシアの挑戦は見事に退けたし、樺太や鉄道権益なども得たではないか」と、ロシアの主張を暗に認め、同時に国際基準に沿った発言をしている。結局、賠償金=現金はもらえなかった。

国民の方は事情は全然わかっていなかった。そしてわかってはいただろうが、その国民を煽ったマスコミ=新聞に責任が大いにある。今でも日本の新聞は変なところがあるが、当時は「数字から読み解く」ような記事を掲載することはあまりやっていなかった。ただ不満を煽っただけだ。だからポーツマス条約を結んだ1905年9月にほぼ同時に日比谷焼き討ち事件や交番襲撃事件が起きた。その国民のレベルに応じた新聞しか生き残れない=経営が成り立たないのは確かな歴史的事実だが、あまりにもレベルが低い。

(2)日露・日清再戦に備えての「2個師団増設要求」
山県は、金銭賠償がないことや領土のことより、ロシアや清との再戦を心配していた。「戦勝」に国民も軍も気が緩んでいる。そこを突かれてはひとたまりもない。また「成功すればお金持ちになれ、名誉も得られる」という風潮が流行り、明治政府は1908年・明治41年に「戊辰詔書」という御触れを出して、節約と勤勉、風紀の乱れやぼちぼちと浸透してきた社会主義に傾倒することへの戒めなどの引き締めも図った。

でも「成功すればお金もちになれて、名誉を得ることができる」風潮を作った半分の責任は明治政府にある。1907年・明治40年に日露戦争での叙勲式が壮麗に行われて、なんと陸軍は65名、海軍は35名、文官31名が表彰された。まあここまではいい。問題は全員が華族=貴族に叙任したのだ。これを見た庶民はどう思ったか、誰でもわかる。ただし華族になったからと言って、ずっと安泰で裕福と言うわけではないが、庶民にはそこまでわからなかったのだろう。

どちらにしても軍事費を削るわけにはいかなかった。しかし彼は国家予算の危機も認識していた証拠に「外交にも力を注ぎ、ロシアと中国=清との再戦に備える」ことを主張している。恐らく日露戦争が「戦争としては勝ちだったが、財政的には負け」ということもわかっていたのだろう。しかし、お金はないけど戦力の増加は成し遂げなければならなかった。ここで「陸軍2個師団増設問題」が歴史に登場する。

1909年10月に伊藤がハルピン駅で暗殺され、1910年8月に韓国併合、1911年10月に中国では辛亥革命が起きて、国内では1911年に大逆事件で幸徳秋水逮捕、後に死刑執行、そして1912年7月に明治天皇崩御⇒大正と改元、などという、これまた受験生泣かせの大きな出来事が、極東で起きていることも忘れてはならない。いつになったら日本はのんびりできるのだろうか? 

ちなみに明治天皇崩御の後、乃木希典陸軍大将が殉死した事件が起きて、夏目漱石が「こころ」の着想を得たのもこの時期だ。乃木希典が最後に面談した皇族が、後の昭和天皇になる当時10才の皇太子 裕仁親王だったのも興味深い。(殉死を決意した)乃木大将が、数冊の漢籍の本を裕仁親王に贈呈した時、何か様子が変だなと思い、「(乃木は学習院大学の学長も務めたから)院長先生は、どこかに行かれるのか」と質問したが、乃木は直接には答えなかったという。

ただし日比谷焼き討ち事件で内閣(桂太郎が首相)が辞職することはなかった。この場合、政府はできることはやったのだから。しかしもうお金がないことや、戦死者が多すぎて兵士や士官が不足していたことなどの内実がばれるのが怖かったのだろう、公式の見解や日露戦争の総括的な説明は、政府からはなかった。

すったもんだのあげく、現実路線の桂、西園寺を中心とした日本政府は、ロシアと4回に渡る「日露協約(第1回は1907年で1916年まで4回)」を結んで、なんとか極東に平和状態を実現したのはものすごく評価できるだろう。山県は「日露再戦までの時間稼ぎ」と考えていたようだが。以上が日露戦争直後1905年~1913年ぐらいまでの「日本の外の風景」だ。

(3)日本の政党 その1

次に政党の話だ。現代でも日本の政党は国民に媚びるような行動をよくとるが、明治の時はどうだったのだろう?
少し遡るが、帝国議会の第1回総選挙の時、その結果できた政党のうち、政府寄りの政党は「吏党」、国民寄りなら「民党」と呼ばれた。これは教科書にも載っている。現代の感覚なら国民寄りの政党である「民党」に好意を抱くのが普通だが、大切な場面では、吏党の方が筋が通っていることがあった。

例えば日清戦争の前、中華帝国・清王朝は総トン数で日本の倍はある戦艦を2隻も保有していたが、日本はしょぼい海軍しか持っていなかった。当然海軍力増強が国策になるし、1886年に長崎で中国海軍の水兵が乱暴事件を起こした「長崎清国水兵事件」の時、「民党」も国家の危機から、海軍力増強=増税やむなしと主張した。しかし1892年・明治25年の憲政史上初の解散総選挙(=第2回総選挙)の時、選挙前に反対論に転じた。増税は誰でも嫌に決まっているので、票集めのために有権者に媚びたのである。選挙に勝ちたいがための、国家観もへったくれもない行動で、現在なら「ポピュリズムだ!」だと非難される振る舞いだ。明治も今も変化はない。

これだけでなく、また後でも述べるが、政党は政権を握りたいがために、ブーメランになるような言動もよくやっている。

(4)帷幄上奏事件…大正政変の前触れ

1906年の日比谷焼き討ち事件から約9年間の「桂園時代」に、桂(=後の立憲同志会一派、どちらかというと政府や内閣寄り)と西園寺=政友会(国民寄りではなく資本家寄り)はある意味「持ち回り」で政権を担当していた。両者、共に言い分はあるだろうが、国民から見れば、都合が悪くなると内閣総辞職をする「投げ出し内閣」あるいは天皇に泣きついて詔勅を出してもらい、事を解決する「玉座を壁にして、詔勅を弾丸にして政敵を倒す内閣」と非難されるなど、腰の据わり具合が非常に悪かった。


第2次西園寺内閣の終盤1912年11月に、陸軍が1910年の韓国併合で保護国になった朝鮮半島を担当する師団を派遣するため、「2個師団増設」を陸軍大臣 上原勇作中将を通じて求めてきた。お金がないから西園寺公望はこれを拒否。すると上原は陸軍大臣を辞職するが、その辞職の仕方が、直接に大正天皇に拝謁して辞職を表明するという、いわゆる「帷幄上奏(いあくじょうそう)事件」を起こす。陸軍は次の陸軍大臣を推薦せず「軍部大臣現役武官制」だったから、重要閣僚が欠けてしまい、第2次西園寺内閣は総辞職になる。

歴史家はこの事件を「陸軍暴走の最初の例」としてよく上げる。いわゆる「統帥権の独立」は、実際は「帷幄上奏権」と「軍部大臣現役武官制」のセットで機能するからだ。この連続ブログ題「なぜ日本は無謀な戦争をしたのか」で最初に「統帥=軍の作戦」と「政治」が分かれていたことが問題だったと述べた。さらに陸軍省と参謀本部、海軍と(海軍)軍令部に分かれて、陸軍省や海軍省は軍政=軍に関わる政治問題を担当し、参謀本部や(海軍)軍令部は軍令=軍が発する命令つまり作戦を担当する、も説明した。

帷幄とは、軍を指揮し作戦をめぐらす本陣のこと、陸海軍を統帥する大元帥である天皇に対して、軍務の中央機関=参謀本部や海軍軍令部が直接行うことを上奏というから、併せて「帷幄上奏(権)」と呼ばれた。

(5)帷幄上奏権 + 軍部大臣現役武官制 = 統帥権の独立

1889年の内閣官制第7条で
「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルノ件ヲ除クノ外陸海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」
つまり、「軍機=軍の秘密と軍令=軍に対する命令に関する事項は、内閣の議を経ずに直接上奏し、天皇の裁可を得たのち、内閣総理大臣に報告する」と定められた。一般の大臣と違って、陸海軍大臣は特例として独立の上奏権を認められていたことになる。もちろん陸軍の参謀総長や、海軍の軍令部長も同じでこの権利を持っていたが、実働部隊を握っているから、陸海軍大臣よりもっと強かった。

そこで問題になるのが「大臣が辞職を願う、あるいは報告すること」は「軍令や軍機」に当たるのか? だ。辞職するなら内閣総理大臣に辞職を願い出れば良い。わざわざ天皇の前に行って「陸軍大臣を辞めます」というのは「軍令」ではなく、どう考えても内閣に対する「示威行動」であり「嫌がらせ」だ。

この悪例の後、軍機・軍令の範囲は明確ではなかったから、陸軍は、軍政に関する事項をも含め、帷幄上奏事項とし、海軍も陸軍に倣った。つまり「拡大解釈」だ。法律なんてできた瞬間から拡大解釈される運命だから、なるべく少なくするか、定義をしっかり明記しておくべきだと、作家の海音寺潮五郎は言っていたが、その通りである。

さて、さらにもっと悪く考えると、上原大臣の行動は、践祚(せんそ)したばかりの新天皇である大正天皇に対する「示威行動」とも取れる(践祚とは天皇位を事実上受け継ぐことで、即位とは位を受け継いだことを正式に発表する行動。大正天皇の即位は1915年だった)。

と思うのは、大正天皇は、体は病弱、神経も精神も弱く、政治的にも頼りない言動が多かった人で、そんなことは政府上層部は知っていたはずだ。それでも「この天皇は、先代よりずっと扱いやすそうだが、念のために一発かましておこう」「国を動かしているのは我々陸軍であって内閣ではない、ましてや天皇ではない」と主張しようなどと思っていたのではないか。この時点で「国を動かしているのは陸軍」なのはその通りだし、日露戦争にも「勝利」したから調子に乗っていたのはわかる。でも何もこんな時に肩ひじ張って主張することではない。どうも大人げないな~と芥川龍之介の如く「軍人は幼児に似ている(バッジ=勲章をもらって喜んでいるから)」と私なんかは、考えてしまう。

(6)尊王ではない藩閥政府

この邪推は当たっていると思う。そもそも世襲で君主を決める=能力で選ばないとしたのは自分たち藩閥政府であるから「天に唾する行為」で、どんなに能力の低い君主でも支えるべきだ。そうでなければ「君主国家」を名乗れない。さらには財政上無理な理由なのに、「辞めます=内閣を総辞職させます=これは倒閣行動です」と言うのでは、財政を大蔵大臣に委ねた天皇大権に反する違憲行為で「立憲国家」とも呼べないから、ますます矛盾する。

新天皇践祚を本当に寿ぐのなら、「宸襟をお騒がせ」しないように、予算不足で師団増強化できないことをぐっと我慢して、他のことで今の状態の改善を図るのが「立憲君主国家の臣下の歩むべき真の道」ではないかと、半分でも民主主義国家に生まれ育った私は思ってしまう(「半分」というのはルソーの思想をよく考えればわかると思う)。

上原大臣の行動は山県の示唆によることは確実だ。なにしろ上原大臣は辞職の前日に、山県の家に行っているし、他の元老や重臣たちが「2個師団増設は予算上無理なのだから辞職は思いとどまれ」という意見に全く耳を貸さなかったからだ。

一匹野良老犬の私には、あまりピンとこないのだが、組織において出世したいのなら、仕事の能力を磨くとともに、さらに「上司に気に入られること」が絶対に必要という。上原中将はこの後、陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監という「陸軍三長官」を全部歴任し、後に元帥になる。そして山県の死去の後、いわゆる長州閥を受け継ぎ、陸軍に君臨する。しかし政治や国民経済のことを全く考えていない単なる陸軍馬鹿で、昭和の軍人のお手本みたいだと私は評価している。ちなみに「陸軍三長官と元帥」の「グランドスラム」を達成したのは他に、昭和の開戦時に参謀総長だった杉山元だけだが、杉山は自分なりに敗戦の責任を取って、拳銃自殺をしている。

(7)長州閥の正体…全く「尊王」ではなかった

さて天皇様に対して、そんなリスペクトのない行動なんかするのかなあ、と現代人は素朴に考えてしまうが、山県も上原も長州出身であることから、十分あり得る行動だ、と私は考えている。幕末の1864年7月に起きた、禁門の変・別名 蛤御門の変では、流れ弾が御所内の人間に当たるかもしれない危険をあっさり無視して、孝明天皇のおわします御所前を守っていた薩摩軍に、ためらいもなく発砲したのは長州藩だ。現代でも皇居の門にロケットランチャーを打ち込める人はいない。できるのはテロリストだけだ。さらにその前の池田屋事件では、京都に放火し、その混乱に乗じて天皇を長州に拉致するという、狂気に満ちた計画を立てたことが露見して、新選組に殲滅された。

歴史はきちんと連続しているのである。このブログの裏には「日本において天皇を軽視した政権の末路」をも含んでいる。思い出してほしい。明治維新と聞くと「尊王攘夷」という言葉が浮かぶ。でも実態がこれでは「尊王」とは呼べない。そもそも「尊王」と、スローガンをわざわざかかげるところが怪しい。

当時の日本人なら「尊王」なんて当たり前で、あの江戸幕府でも持っていた。だから桜田門外の変は起きたのだとされている。また平和時でも、天皇が崩御された際には、京都からかなり遠い、東北地方の農村にでも「お内裏様崩御」はすぐさま、恐らく1週間以内に知らされて、造作=工事や、歌舞音曲=お祭りなどは一定期間「自粛」していた事実もある。庶民でもきちんと「尊王」行為をしていたわけだ。

「病院」とか「医院」という言葉を作ったのも長州藩の面々で、造語能力は優れていたが、それが行き過ぎて天皇のことを「玉(ぎょく)」という、隠語で呼ぶような習慣を作った藩とも言われている。尊王の精神は見せかけで、行動からは、天皇を「政治の道具」としてだけ見なしていたと判断するのが妥当だと思う。

事実山県は、「軍務においては元帥である自分のほうが格上」と考えて、軍人皇族とすれ違っても頭ひとつ下げなかったし、明治天皇が病気を押して、出席した会議でうつらうつらしたときに、軍刀でどんと床を突いて起こしたこともある。

実は明治、大正、昭和を通じて、真の尊王の精神を持っていた人ほど中央から遠ざけられて、戦地で銃火に倒れ、仮に生き延びても、敗戦の責任を取って自殺したりしているが、そうでない人ほど中央で権力をふるい、敗戦の責任を取らず、戦後ものうのうと生き延びる、という構図が続くのだが、それは追々実例をあげる。ほんとDNAって怖い。

(8)憲政擁護運動の引き金になる

以上のごたごたをめぐって国民の間では「政党ってなんのためにあるのか? 今の政府のままで良いのか?」という議論が起きて、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする「第1次憲政擁護運動≒護憲運動」が1912年12月に始まる。明治は1912年7月に終わり、元号は大正に代わったから、教科書には「大正デモクラシー」と表記されている。ただしその主人公たちが「大正デモクラシー」と名乗っていたわけではなく、あくまで後世の俗称だ。

結局、1912年12月に、第2次西園寺内閣は憲政史上初の「陸軍大臣が辞めたのが原因の総辞職」になり、山県の意向で第3次桂内閣が始まるのだが、60日も保たないで1913年2月に総辞職する。その原因こそ「大衆の行動」だったが、次回で述べる。

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なんとか2回で収めようとしたので、すごく長くなってしまい、申し訳ないです。しかしもう1回かかりそうです。重々、お詫び申し上げます。

できれば気長に見守ってくれればありがたいです。

では今日はこのへんで失礼します。
m(_ _)m