(1)明治から大正へ
日本人は気分でよく動くと言われるが、それはどこの国の人間でも同じだ。しかし1912年7月に明治天皇が崩御され、「明治から大正」に元号が変わった時は、現代の我々が経験した2年前の「平成から令和」に変わった時とは比べ物にならないぐらい、「新時代」が来たような感覚が当時の日本に生まれた。それまで元号は天皇の崩御とは関係なしにけっこう簡単に改元されていたとか、「崩御⇒新天皇践祚⇒改元⇒即位」という一連の流れ自体が、ある意味最初の例だったこととか、またロシアや清などの当面の危機は去っていることなどが重なったためだろう。「政治も新しくしなくては!」となると、国内の矛盾が気になる。「勝利は協力の終わり、内紛の始まり」というからだ。

日露戦争の民衆に対する影響はやはり「国民になった」という実感だった。
驚くべきことに、1900年~1919年の間は、選挙権は直接国税10円以上を収める25才以上の男子に限定されていたから、清・日露戦争で出征し、命を懸けて戦った若者、当時20才~25才には、ほとんどの人に、選挙権がなかった。

そんな彼らも日清戦争から10年たった日露戦争が終結してさらに10年経てば、30才~45才のおっさんであり、一家の長になる。なのに俺にはなぜ選挙権がないのか?となる。事実、陸羯南(くがかつなん)主催の新聞「日本」では、1905年7月4日に「兵役を負担する国民、豈戦争を議する権なしと謂わんや=戦争に行く国民が、なぜ戦争に関係する議題を討論する権利がないのか、いやそんなことはない、権利はちゃんと持っている」という記事を書いた。明治も終わりになると、「普通の国民に選挙権を与えよ」の論理につながる証拠だ。

当時は現在の「文春」とか「ポスト」などの週刊誌というものがなかった。紙がそれほど潤沢ではないこともあった。だから今の週刊誌が取り扱うようなゴシップ記事や扇情的な情報記事まで、新聞が掲載していたから、お世辞にも上品とは言えなかったし、誤報も煽りもあったが、良いこともちゃんと書いている。まさに玉石混淆で、現代以上にメディアリテラシーが要求されていたことも、忘れてはいけない。

(2)政友会
で、急には無理なので、ここは政党に期待するしかない、となる。
では当時一番所属議員をたくさん抱えている政友会はどうだったかというと、こちらにも期待は薄かった。その空気を敏感に感じ取った政友会内部では、現在の在り方に不満をもつ議員たちや、その支持者たちの数が、第2次西園寺内閣のころから次第に増え始めている。

しかし政友会の中心で党務を仕切っていた原敬は「普通選挙法時期尚早派」だった。彼は伊藤博文の政友会結成時から外務省の官僚として参加した「純血」の政友会の会員で、順調にキャリアを積み、この後1914年に政友会総裁に就任、1918年に総理大臣になって「平民宰相」と呼ばれる。彼は公共事業による積極財政を主張した。つまり政友会とは、官僚が中心になって作っている党だったのである。

史記に登場する斎の宰相 管仲は「与うるの取りたるを知るは、政の宝なり=取る前にまず与えよ」と政治の秘訣を、恒王に語ったという。民主主義国家だろうが、皇帝専制主義国家だろうが、どんな政治体制であっても、国民にひもじい思いをさせてしまっては絶対に政権は保てないので、まずは国民を食わせなければならない。「与うるの取りたるを知るは…」は私でも知っているぐらいの言葉だから、博覧強記の原が知らないはずがない。

具体的には、雇用や産業の創出だ。そうすれば民衆が自然と治まり、社会も安定して、富む結果、税収も増える。当たり前のことだが、その当たり前を実現するのが中々難しい。明治⇒大正への橋渡しのこの日本で、雇用を創出するには、公共事業が一番だろう。

実際、整備しなければならない場所は、港湾、鉄道、トンネル、道路などいっぱいあった。後からは都市内部の計画もその範囲に入る。政友会の実務を取り仕切っていた原は、あちこちの地方からの嘆願を精査して、計画を立てて、党を儲けさせている。原は原内閣の1920年・大正9年に、鉄道事業の権限強化・独立のため、内閣鉄道庁を鉄道省に格上げした事実もある。もちろん公益のためでもあるが、それで「我田引水」ならぬ「我田引鉄」だと悪口を言われたし、大正デモクラシーの中心的思想家「民本主義」で有名な吉野作造は、原を嫌っていた。

以上のように、政友会は庶民の要求を掬い上げる党ではなく、地方の富豪や地主の意見=彼らの利益を優先する党だった。つまり利益誘導で政権を取ってきた党だ。何しろ選挙権を持っているのは直接国税10円を収めている男子=お金持ちだけである。今で言えば所得税で20万円を収めている人だから、単純計算で所得は700万円、つまり年収1500万円ぐらいとなる。現在でも年収1500万円はなかなかのセレブだ。ちなみに直接国税10円以上を収めている男子は、当時で98万人、全人口の2.2%だった。

現在のアメリカ大統領でも、単純には有権者の50%の60%、つまり全有権者の30%の支持しかないのだけれども、2.2%の60%(60%は与党の条件)では、全人口の1%しか支持がないわけで、これは国民の意志とは言えない。当時は選挙権そのものが「特権」だった。それでも庶民には仕事が創出されるわけだから、まあ良しとする。

(3)第1次憲政擁護運動のスタート
話は戻って、とにかく、陸軍が陸軍大臣を推薦しなかったので、第2次西園寺内閣は総辞職となり、報道を受けた国民は「陸軍や藩閥政府の横暴」と受け取り、その雰囲気を敏感に感じ取った国民に合わせるように、新聞社などが「憲政擁護・閥族打破」のスローガンのもと演説会や懇談会を開いたことが「第1次憲政擁護運動」と呼ばれるようになった。

この間に元老たちは次の総理を探していたが、名乗りをあげるものがいなくて、桂太郎が「私がやりましょう」と言ったから、しぶしぶ総理に推薦した。山県は次第に成長していく桂をコントロールできなくなってきたので、桂を内大臣や侍従長にして「宮中に押し込める」策をとっていたから、桂にしたら「うざいな~」と思っていたこともある。で、1912年12月に第3次桂内閣が組織された。

しかし国民に選ばれていない、いわゆる官僚閥の後押し=山県のバックアップで成立した第3次桂内閣に対する反発は強かった。またそのころ桂は内大臣と侍従長を兼任していたので「宮中と政治の混同だ」という批判もあった。

(4)桂の「新党構想」は立憲同志会⇒憲政会⇒立憲民政党へとつなが
第3次桂内閣は50日ぐらいで倒れた短命内閣だったけど、閣僚には今後お馴染みになるメンバーが結構入っている。例えば、海軍大臣に斎藤実(さいとうまこと)、大蔵大臣に若槻礼次郎、通信大臣に後藤新平、外務大臣に加藤高明などだ。人材を探す目はあったらしい。翌年の1913年1月に桂は「桂新党」を立ち上げると発表した。桂はこの後、残念ながら病気が悪化して死亡してしまうが、桂新党は「立憲同志会」⇒「憲政会」になり、最終的には昭和の2大政党の一つの「立憲民政党」に成長していく。しかし最初の立ち上げ人=桂太郎が不運だったために、民政党も不運な運命をたどるのは運命論的すぎる味方かもしれない。

もっとも明治維新=近代日本の最初そのものが、無理矢理の立ち上げで、その中身は尊王ではなく、財政的にも借金だらけ、おまけに西欧を見習い過ぎて強欲な帝国主義に染まり、絶対に友好を樹立しなければならなかった中国と韓国を敵に回してしまったように長期的な展望がなく、最終的にはそれらが原因で破滅していくわけだから、全体的な流れに逆らえなかったとも言える。

(5)短命に終わる第3次桂内閣と第1次山本権兵衛内閣の成立

さて、なんとか国会を開こうとした桂だったが、「憲政擁護運動」は広がっていき、特に日露戦争後も続く重課税に苦しむ商人や都市民衆が参加してきた。そこで開会をまず15日間の延期としたが、またこれで運動は加熱した。桂は大正天皇に頼み込んで、「内閣に協力せよ」の御触れを出してもらったが、大正天皇は即位したばかりで、先代の明治天皇に比べてあまり重みがなくて効き目がなかった。その間に、政友会の尾崎行雄と別の政党に所属していた犬養毅が協力するようになった。

ようやっと2月に国会開催になったが、その時に尾崎が議会内で有名な演説である「彼等は…忠愛を唱へ…まするが…常に玉座の蔭に隠れ…玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて、政敵を倒さんとする」を行って、やんやの喝采を浴びた。この時、党派を超えて協力することを表すために、尾崎と犬養や賛同する議員たちは、白リボンを付けていたから、「白リボン党」と呼ばれた。このまま放置すると内閣不信任案を提出されてしまうと恐れた桂は、今度は5日間の停会とした。

あれやこれやで、火に油を注いだ結果となり、とにかく第3次桂内閣は不人気大爆発、「怒った大衆」が、今度は国会議事堂を数万人で囲んで、あわや暴動寸前まで行った。ただし写真を見ると「あれ?これが国会議事堂?」と思う。当時は麹町にあった第二次仮議事堂で、外見は、3階建ての横に長いホテルみたいだからだ。現在の国会議事堂は永田町にあって、二二六事件事件が起きた1936年・昭和11年に完成した。ちなみに地鎮祭は1920年・大正9年の原内閣の時だから、完成するのに16年もかかったことになる。また政府寄りの新聞社が襲撃を受ける事件も起きた。

追い詰められた桂はそれでも衆議院を解散しようとしたが「今の情勢で解散を決行すると内乱になる」と言われて断念し、辞職した。そして、その後継には、政友会の支持を受けた第1次山本権兵衛内閣が成立した

(6)誰が一番得をしたのか
この「第1次憲政擁護運動」は日本史上初の大衆運動によって内閣が倒れた事例になった、とされている。確かにその事実は大きいが、裏の面、つまり負の影響も考えたほうが良い。
この「事件」で誰が一番得をしたのだろうか。そして一番損をしたのは誰なのだろうか。

一番得をしたのは政友会で、さらにその中にいた原敬だ。彼らは弱った政府=元老やら官僚閥に手を差し伸べて、第1次山本権兵衛内閣を成立させ、ちゃっかりと内務・大蔵・司法・農商務の重要閣僚に政友会のメンバーを送り込んでいる。内務大臣には原自身が就任し、大蔵大臣は経済や金融のプロである高橋是清がなった。現在の日本の内閣に内務大臣というのは存在しない。しかし当時は「『内務』は政府の中心、『大蔵』は政策の中心」とまで言われたぐらいの重要閣僚で、内務大臣は地方行政、警察、土木などを担当し、同時に警察の長官でもある。ちなみに初代内務大臣は例の山県有朋だ。地方利益誘導を得意とする政友会にしたら、一番欲しいポストだったわけだ。おまけに大蔵大臣まで政友会が取ったのだから「ワンツーフィニッシュ」だ。飯のタネやら、財布のひもを握った者が強くなるのは、世の常である。

2番目に損をしたのは、桂太郎が目指した「新党」で、この後、立憲同志会⇒憲政会そして立憲民正党へと発展するのに、恐らく10年ぐらいの時間をロスした。昭和の日米戦争の10年前になんとか「二大政党政治」が間に合ったのだが、未熟なまま党利党略の政争や内部闘争に明け暮れることになり、健全な発展まで至らなかったのが、痛恨の事実だろう。

で、1番損をしたのは、「普通選挙法」と「二大政党政治」の政治を実現することが10年遅れた日本国家、つまり国民ではないだろうか。確かに、13年後の1925年・大正14年に税金枠を撤廃した男子普通選挙法が成立するのだが、原敬は「普通選挙法成立は時期尚早」の考えの持ち主だったし、そもそもこの「第1次憲政擁護運動」は「冷静な国民的行動」とは言えず、新聞に煽られた大衆の感情的な怒りの爆発でしかなかった面が強い。まだまだ幼稚だったとも言える。

(7)でも成長はする

ただし、国民も今回の騒動を教訓にして、およそ10年後の1923年に行われた全国的な「普通選挙要求運動」の時は、ものすごく冷静にデモ行進をしたから、全くの無駄ではなかったと言える。当時の新聞「東京日日新聞」は「また第1次憲政擁護運動の時みたいに、暴動になるだろう、それを記事にしてやるぜ」と予想して、現場に待機していた。しかし行進を指導する団体は、あらかじめ警察とルートの連絡を取って、自主的に暴れそうな人たちを排除したり、内部で取り締まり、さらには大きな旗は禁止して行進をしたから、予想外のことに驚くと同時に「その堂々たる行列と沿道の列から湧く歓声は、素晴らしく冷静なものだった」と報道している。

ある議員は日記に「空前絶後の国民運動で、この光景を見た者全員が、その崇高性にして厳粛なる有り様に感動した」とも書いている。ちょっとナイーブ過ぎ感があるが、書いた議員は当時憲政会所属⇒のちに立憲民政党所属の衆議院議員 小泉又二郎だ。この人は刺青をしていたから「コイズミじゃなくてイレズミ議員だ」などと呼ばれていた。で、孫が81代総理大臣 小泉純一郎だ。小泉総理と言えば「痛みに耐えてがんばった、感動した!」と大相撲の表彰式で叫んだ名シーンが有名だから、血は争えない。

まあともかく、国でも国民でも、やっぱり成長するには時間がかかるらしい。しかし成長しない部分もある。それは次回からさらに、考えていきたいと思う。

続きます。

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なんとか大正デモクラシーの最初をまとめてみました。
時間が前後してわかりにくいかもしれませんが、そこは我慢していただけるとありがたいです。
ここからは政友会とライバルの立憲同志会⇒憲政党⇒立憲民政党のことについて、少し掘り下げることになりそうです。彼らがもうちょっと、しっかりしていたら良かったんですけど。

日本の大正時代1912年~1925年は、アメリカでも変革期に当たります。当時のアメリカのことも、同時進行で紹介していく予定です。

では今日はこの変で失礼します。
m(_ _)m