月末の計算やら、中間テストの復習やら、おまけにVITALsの最終チェックも同時進行しているうちに、期末テストが到来し、だが身は一つしかないため、てんてこ舞いをアニメで動かしたような状態になっていた。パーマンのコピーロボットはどこかに売っていないのだろうか?

おまけに1913年~1920年の日本社会の状態を説明していた本の数冊がどこかに行ってしまい、なんとか探し当てたのだが、今度はどこに書いてあったのかを探すのに時間がまたかかってしまった。

その内容を覚えてはいたけど、やはり細かいことはきちんと確認しなければならない。誤字脱字程度ならいいが、致命的なミスはやっぱりやばいからだ。

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さて、先日、公立中学の期末テストも終了し、VITALsも2年生範囲全部と3年生範囲前半をアップできて、「日本はなぜあのような無謀な戦争に突入したのか」をようやっと再開できる。待っている人は極少数だが、やりぬくぞ、という気概だけはある。

特に1913年~1920年までの「日本の歩んだ道」はほぼそのまま、1930年~1940年への下敷きとなる。歴史は連続しているのだから当然だ。だから慎重に進めたい。

高校の教科書の「この1913年ぐらいから日本は対中国に対して強硬姿勢を取るようになった」というさらりとした記述が問題だ。実はこの「なぜ日本は無謀な~」の連続ブログは、高校生ややるきのある中学生のために作っている。だから山川出版社の教科書を下敷きにしているので、チェックは欠かせないのだ。
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私がなぜそうなったのか疑問を持ったのが、高校生だった記憶がある。当時の教科書には理由が書いていなかった。不親切な教科書だな、とぶつぶつ文句を言い、仕方がないから付属の資料集などを調べたのだが、そこにもなかった。で「???」となってしまったのである。

まああれは昔の教科書だったからだ、現在の教科書なら大丈夫だろうと思い、読んでみると、やはり理由がない。資料集にもなかった。コナン君ではないが「あれれれ~」だ。
しかしそこで諦める私ではない。
探し当てた書籍が筒井清忠氏の中公新書「戦前日本のポピュリズム ー日米戦争への道ー」だ。
その第2章45~46ページには、具体的には、日中対立の原因となる暴力事件が3つ記載されていた。

①1913年8月 漢口(かんこう)事件
日本陸軍の少尉ら2名が漢口の停車場で暴行・監禁を受けた事件。日本側は厳しい処分と陳謝を要求し、中国が謝罪し責任者を処分した。

②1913年8月 兗州(えんしゅう)事件
日本陸軍の大尉が兗州から山東省の済南に向かう列車内で逮捕され、兗州の兵営に4日間監禁された。これも日本側は厳しい処分と陳謝を要求し、中国が謝罪し責任者を処分した。

③1913年9月 第1次南京事件
南京内に入場した袁世凱の中国政府軍=北軍兵士が国旗を掲げて領事館に避難中の日本人を襲撃し、日本人3名死亡、34軒の商品や家財が略奪されて、国旗が毀損される事件が起きた。これも最終的には、中国が謝罪し責任者を処分、64万ドル分の賠償を支払っている。なお事件の翌日9月6日に東京で、外務省政務局長が3人の対中強硬派に襲われて刺殺されているのも、第1次南京事件の余波とされる。

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3つの事件の背景には1911年に起きた辛亥革命と、その2年後の1913年の第2革命がある。1911年の辛亥革命は孫文が袁世凱に追放されて失敗、懲りずに孫文一派の革命派=南軍が第2革命を起こしたがまた失敗して、孫文らは日本に亡命した。これは教科書にも書いてある。書いていないのは、この時日本の参謀本部や中国大陸に駐留していた日本軍は南軍を応援していたことだ。

正確には応援というより、中国が分裂しているほうが日本には利益=安心がある、さらに北軍の本拠地の位置からして、彼らが強くなると、日本が日露戦争で得た満州とモンゴル地域の利権、いわゆる「満蒙権益」が脅威にさらされる恐れがある、が本心だろう。歴史的にも中国に統一政権ができると矛先は、朝鮮から日本に伸びてくる。白村江の戦いも元寇もだ。そして中国対策は日本にとって、ず~と問題の源泉だからだ。

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しかし日本政府としては、内密な手は打っておくだろうが、公然と南軍の味方をしたり、北軍の不利益になる政策を取るわけはいかない。内政不干渉は近代国家の原則だから当たり前だ。それに中国からの輸入は当時で全輸入額の40%以上も占めていたし、特に海南島から採掘される鉄鉱石は良質で、戦艦や巡洋艦の国産を目指していたから欠かせなかった。

北軍と南軍のどっちが政権を取るのかわからない段階で、不仲になる原因をまくわけにはいかないだろう。中国に対しては「不偏不党の政策」を主導していた。しかしこれは事実上「北軍=袁世凱の応援」と取られた。なにしろ軍事的に優勢で、革命派=孫文派は、弱かったからだ、これが第1次南京事件の余波で外務省政務局長が刺殺された理由でもある。彼は「不偏不党政策」の強力な主導者でもあった。しかし日本人のインテリや「熱血派」は日本に留学したことのある孫文の知り合いが多いから、彼を応援をしていたし、孫文の方が袁世凱より「民主的」だと思っていた。

また袁世凱は軍閥の頭目だから嫌われる、というのは余り理由にはならない。例えば2代前の明王朝の創始者朱元璋は、強盗団=紅巾族の一味だった。元王朝の創始者フビライ・ハンはありていに言ってしまえば、侵略者のボスだ。漢王朝の創始者劉邦は肺県の下役人に過ぎなかった。中華帝国の支配者は、出自がどどんなものでも「勝てば官軍」だ。そのへんに詳しい明治の人間が気にするわけがない。彼らの注目点はただ一つ、「新政権は日本にとって得か損か」、これしかない。

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このブログを始める時に指摘したが「統帥権の独立=政治と軍事の分裂」がやはりここにも顕現してきたのだ。だがまだこの時期、1913年~1920年ぐらいはなんとかなっていた。山県や政友会などが協力して、政治優先の立場を崩さなかったからだ。山県も中国(当時は清王朝)が、ポーツマス条約に参加しようとしていたことや、ロシアの地位の低下=中国の地位向上と考えている態度に不快感を覚えてはいたが、ここは我慢と捉えていた。

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少しややこしくなってきたので、ポイントを整理する。まず「中国」の領土的範囲だ。
現在の中国東北部で、日本が日露戦争後に権益を持つ「満蒙地域≒満州」は「中国」ではない、という認識は、当時は当然のものだった。中国東北部は中華帝国の支配者である清朝=ヌルハチを祖とする女真族=満州族の土地だった。満州族が万里の長城を超えて、1600年代中ごろに明朝中華帝国を滅ぼし(ただし非常にスムーズに、そして割合穏やかな手段で)、清朝中華帝国が成立し、1911年に辛亥革命で滅亡する。つまり中国東北部は中華帝国固有の領土ではなく、万里の長城より南が中華帝国=中国の領土と認識されていた。

だから満州は日露戦争の戦場になったけれども、「中国」はその隣国に過ぎず、貿易の対象にしてもなんの問題にもならない、むしろ日本と「中国」が経済的に提携・発展すれば、欧米の先進諸国に対応できる、と考えたのが、原敬などの政友会主流の考えであり、清朝滅亡後の「中華帝国=中国」の真の後継者争いをしているのが、北軍の袁世凱と南軍の孫文一派の革命派である、さてどちらに決まるのか、それまでは見物だ~と日本政府は考えていた。

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しかし当時の唯一のメディアである新聞は、先ほど起きた3つの事件をてこにして、「中国脅威論」を煽る事、煽る事、甚だしいものがあった。このままでは満蒙権益が危ないぞ、と。「十万の碧血を如何せん」とは日比谷焼き討ち事件の前日に行われた「国民大会」のスローガンだったが、それからその論調も「二十億の巨財と十万の同胞が屍山血河の悲惨きわまる努力によりてようやく勝ち得た満蒙を捨ててよいのか」と勇ましい。

どちらが卵で鶏かは不明だが、国内では大衆という政治を動かす新しい力が徐々に増大し、政府に「対中国強硬姿勢」を要求する。我々は一致団結して強国ロシアに「勝利」し「一等国」になった、という意識がでてきたことが大きい。大衆の意見をあまり無視できなくなってきた政府は、徐々にぐらつき始める。
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ちなみに現代では悪名高い教育勅語も、この時代の日本人から「古くなった」とか「素朴すぎる」とか「もっと国際意識を盛り込もう」という改定論や果ては廃止論まで出てきたぐらいだ。すごい「過激」な意見で、現在の左翼など可愛いものだし、右翼の人はどう思うのだろか。ホントなんでもかんでも、政治的なものはまさに時代の産物だなと感じる。

そういう大衆の動きを、政界・政党・政治は無視できなくなってきたのが、1913年ぐらいの日本だった。

まさにこの動きは「ポピュリズム=大衆迎合主義」だ。
ポピュリズムには科学軽視の傾向がある、とはイタリアの新鋭作家 パオロ・ジョルダーニの言葉だが、科学軽視とは、歴史軽視であり、経済軽視ともなる。明治の元勲や当時70才~60才ぐらいの老人たち、その元勲たちの薫陶を直接に受けた彼らの教えを受けている者たちにとっては、中国は「史記」「春秋」「論語」などの漢籍から様々な知識を日本に与えてくれた「偉大な国」であり尊敬の対象だった。

だから中国とは穏便に付き合いたいと考えていた。
しかし老人たちの思いと、当時台頭してきた「新日本人の政治家」たちとは、ずれが始まってきた。
特に加藤高明という外交官出身の政治家で、後に首相になる人物がキーマンになる。

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コロナ禍には言いたいこと・書きたいことがいっぱいありますが、まずは年末=冬期講習と亡父の十三回忌を乗り切るために頑張りたいです。後もう一回投稿できるかもしれません。
しかし、急に寒くなってきましたので、皆様も体調管理にご注意ください。

では今日はこのへんで失礼します。

m(_ _)m