1914年は世界にとって、そして人類にとって第1次世界大戦という初の最大災厄の始まりだ。
しかし1914年の日本のことを考える前に、ワンクッションとして1900年以前から1914年にいたるまでの世界のこと、特に科学技術関係を調べてみたい。

20世紀末から今世紀にかけて、日本人のノーベル賞受賞者がたくさん出て喜ばしい限りだ。しかしあれは地道な基礎研究の継続があってこそのもので、「儲かるからこれだ!」という近視眼的な計画ではああいう大きなものは獲得できない。

今の日本の大学教育は完全な近視眼的な価値に従って行われているので、今後は受賞者の数も減っていくだろうし、最悪受賞者0人ということが何年も続くだろうなと、私は考えている。

--------------------------------------------------------

基礎研究の継続は、国家が平和あるいは紛争に巻き込まれていないことと、国内で秩序が保たれていることが大前提だ。平和と秩序がなければ予算も人間も回せない。20世紀末~今世紀初頭の受賞者数がたくさん出たのは、戦後70年間の平和が最大の理由だ。逆に言えば、日本が前の戦争での科学技術力で負けたのは、予算不足もあるがそれ以上に。開戦までの平和の時期が短かったことと、途中で日中戦争を始めてしまったことが原因と言える。

では前世紀の基礎研究で、世界的に一番効いたのは何かと言えば、原子爆弾ではなく、モータリゼーション、つまり自動車の発明⇒実用化⇒大衆化、車によって強化されたエンジンを搭載した航空機の発明⇒実用の2本柱と言い切っても良い。さらにはそれにともなう産業の活性化だ。

まずはガソリン・カーの歴史をおさらいしてみたい。ガソリン・カーの歴史はそのまま航空機の歴史につながることも重要だ。すっごく速い自動車に羽をつければ空を飛ぶかもしれない、という憧れからきた奇天烈な発想が生まれたと私は睨んでいる。ふざけていて、幼稚で突飛で安易な発想や妄想は暇で、平和で、リラックスしている時にこそ出るからだ。「良いアイデアは風呂と雪隠で生まれる」というではないか。

-----------------------------------------------

現代の我々は何の疑問も持たないが、エンジンを搭載したままその車が動くというのは、最初は不可能であり得ないことであった。エンジンというと「ワットの蒸気機関」を想起するが、あのタイプは固定されて、しかも水が必要だから水辺にあることが前提で、動かすことはできない。エンジンを搭載した機械が動くのは1802年の蒸気機関車からで、実用的になったのは1814年のジョージ・スチーブンソンのロケット号からと言われている。

自動車の発明・発展・実用化が、産業革命の発祥地 イギリスでないのも、さきほど述べたごっつい蒸気機関を設置することが、ドイツやフランスでは難しかったからだ。両国はより小型で、できれば石炭に頼らない内燃機関の完成を望んだ。

-----------------------------------------------

そして「必要は発明の母」の通り、シリンダー=気筒と呼ばれる鉄の筒の中に空気を送り込んで、ピストンを動かす方法が1800年にスウェーデン人でアメリカに帰化したジョン・エリクソンによって発表され、フランス人技術者エレティンヌ・ルノアールは1860年に「気筒内爆発式エンジン」を完成⇒実用化し、工場で使うようになった。

同時にシリンダー=気筒内で爆発させるのに一番適したものが、重油を精製した時にほぼ最初にできるガソリンであることがわかった。それまでガソリンはすぐ引火するヤバいものだったから、なんと捨てていたのである。慌ててガソリンを捨てないようにしたが、次はそのガソリンを貯めておく容器の開発と、さらに高性能で大量に収穫するガソリンの精製技術も発展した。この場合「必要は発明の母」ではなく「発明は必要の父」と言える。

-------------------------------------------------

エレティンヌ・ルノアールは1862年から1863年にかけて、ガスエンジンを搭載した三輪車も作り、パリから郊外のポン県まで約3kmの走行にも成功したのが、初の自動車運転の記録とされている。それから約20年後、近代的で実用に耐える自動車は1885年・明治18年にドイツでカール・ベンツによって完成した、と通説は言う。日本では内閣制度の発足、3年前に日銀が設立されてこの年に初の日本銀行券発行、福澤諭吉の「脱亜論」や坪内逍遥の「小説神髄」の発表の年で、1889年の大日本帝国憲法発布の4年前でもある。

世界を見れば、西欧諸国は植民地を次々に広げ、1885年には悪名高い「アフリカ分割会議」が開かれ、アフリカはヨーロッパの列強に良いように分割されて、部族や原住民の意志に関係なく「まっすぐな国境線」が引かれた年であり、スエズ運河を建設・完成したフランスの技術者レセップスがパナマ運河の建設に起工したのもこのころだった。つまり世界は徐々に狭くなり出してきて、「第1次グローバリゼーション」の到来であり「スピード時代」の幕開けでもあった。

-----------------------------------------

さっき「1895年」としたが、カール・ベンツとゴットフリート・ダイムラーが特許を出した翌年の1886年だ、とする異説もある。野次馬にはどちらでも良いことだが、とにかくそこいらの年から「自動車の発明と改良ラッシュ」が始まり、合計で3000種類から4000種類とも言われている。またフランスでも自動車の発明・改良が相継いだ。現在のルノーの原形はこの時にできた。イギリスは一歩も二歩も自動車開発から遅れてしまったのだ。

動く蒸気機関の発明から約70年経過して、今度は蒸気ではない方法、ガソリンを燃やす内燃機関の発明⇒実用化の段階に来た。さきほど「日本では、終戦から70年の間平和だったから、ノーベル賞の受賞が増えた」事実と重なるものがある。奇妙奇天烈な思い付き≒妄想や憧れが、実用的なものになるのには人類の頭脳では70年~100年かかるようだ。

-------------------------------------------------------------

ここからは進化が速く、タイヤとブレーキも発達し、1894年には「パリ・ルーアン自動車レース」が開催された。そして1903年までパリを起点とする「パリ~●間自動車レース」がほぼ毎年行われて、自動車の性能はどんどんアップしていったのである。1905年にはターボチャージャーの特許が申請されたし、変則のギアチェンジや、滑らかなクラッチシステムもこのころには導入されていた。

当時は自動車としての実用化にはいたらなかったが、AT車、つまりノークラッチのオートマティック車の原型まであった。時間が前後するが1869年ぐらいから1900年にかけて、それが軍事用としては、重砲の牽引車や、第1次世界大戦で登場した戦車になり、同時に「働く車」の流れとして、耕運機=トラクター、排土機=ショベルカー、それらに履帯=キャタピラーが付き、1920年代にはそのトラクターの前面に排土板をつけたブルドーザーが完成した。これによって人力から機械力による道路建設や陣地整備が可能になった。技術はこういう「派生してできたもの」のすそ野が広いほど、さらに発展していくのだ。

---------------------------------------------------

ちなみに日本もブルドーザーを研究していたが、実用化以前に全くのパワー不足で、エンジン自体も不調だった。民間では、1936年に成立した満州帝国のインフラ整備に輸入したブルドーザーを使ったが、値段が高価すぎて「日本では無理」と思ったらしく、人力に逆戻りしてしまったし、軍関係者がそれに目を付けたという事実は見当たらない。

日本本土では、1940年にアメリカのキャタピラー社から10台ほどを輸入している。また1941年のウエーク島の戦いでもブルドーザーを鹵獲しているが、アメリカ兵の捕虜が10人程度で、ブルドーザーを使ってかなり広い飛行場をあっと言う間に整備したのを見て、「この戦争は負けだな」と思ったという。こういうところが「貧乏の悲しさ」だ。

-----------------------------------------------

現在の日本の工業社会は、トヨタや日産、日野、スズキなどを頂点とする自動車業界を根幹にして、さまざまな産業が派生して、成長してきたことは疑いがない。競争社会だからもちろん敗者もいるが、競争してきたからこそ、進化があった。そして「すそ野の広い」工業社会は、色々な需要を生み、雇用を生む。工場群のそばの一膳飯屋にさえも、「需要」をもたらし、「雇用」を生む。

雇用を生むと言うことは、国民所得も増える⇒可処分所得も増える⇒経済が活性化する⇒税収アップという正のスパイラルを生み出す。戦後の高度経済成長は、戦災復興の面ももちろんあったが、この波に乗ったのだ。

しかし1914年~1940年の日本では重工業社会は、ほぼ軍事産業に限られていた。軍事産業は機密・秘密の世界で、知識が共有できない。知識が共有できないと発展はないし、知識を独占していた産業も、そのままでは衰退する。

今まで見てきたように、特に進歩の激しいこのような時代では、あっと言う間に知識も技術も古びたものになる。あるいは乗り遅れたら、追いつくのはものすごく大変だ。不幸にも1914年~1940年の日本はこのような世界に生きていた。この時期の日本の経済発展がいまいちだった理由を、このブルドーザー問題一つでも示している、とするのは言い過ぎだろうか?

--------------------------------------------------

さて、西欧で開発中の自動車は、時速100kmを超えるのは当たり前になっていて、時速130㎞に達した車も出現した。「次は時速200㎞だが、それが可能でも、ドライバーが危険だ」と警告されていた。レース中の事故も増えて死人も出る。それでもレース熱は収まらない。またレースが「パリ~●間自動車レース」が多い理由は、ナポレオンがヨーロッパ内の道路をきちんと建設していたからだ。

エンジンができると、次は電気系統の発達だ。1893年に、フェルディナント・ポルシェという18才の青年がオーストリア=ハンガリー帝国の帝国技術学校を卒業して、ウィーンにある電気会社に電気技師として就職し、同時にウィーン工科大学でも学んだ。1897年には電気自動車も作り、電気式前駆動の馬車まで作った。この技術は1990年代から盛んになった電気自動車の開発研究の土台にもなっている。

-------------------------------------------------------

1905年にはオーストリアのアウストロ・ダイムラー社が、技術屋として名が売れ出したフェルディナント・ポルシェを、重役兼技術職で迎え入れた。彼は自分が作ったシステム、ガソリンエンジンで発電⇒ハブモーターで駆動するシステムを組み入れた純ガソリン車を開発し、レースでも優勝したりした。現在でもバッテリーを充電する方法は2つで、1つは直接コンセントから充電、もう1つはエンジンが同時に磁気発電モーターを動かしそこから充電する。そして気筒内で点火=イグ二ションするには、バッテリーを使うが、それとほぼ同じシステムができあがったわけだ。それらは陸軍の重砲の牽引車に使われるほど、十分なパワーを持っていた。もちろん軍事用に使うだけでなく、ウィーン市バス用のエンジンも開発している。

オーストリア=ハンガリー帝国第2の都市・ブダペスト(現在はハンガリーの首都)には、1896年に開業した地下鉄もあり、世界でロンドンに次いで2番目(だったと思う)、電気運転の地下鉄としては世界初で、完全に電気を使いこなしていた。地下鉄なのは、冬が寒すぎて凍結するから、というのも理由の一つだ。日本に初めて本格的な地下鉄が開業したのは1927年だから、発電・送電事情も日本はまだまだだな、とわかる。

-----------------------------------------------------

地上を自動車が走り回るようになると、今度は最後の憧れの対象、空へと目が移る。
ついに1903年、ライト兄弟が人類初の有動力飛行機による59秒の飛行に成功した。彼らは1904年~1905年には、30分間の39㎞の飛行に成功し、より強化したエンジンで1908年に公開飛行を行い、その時には8の字飛行も見せた。1903年の初飛行の時は、胴体に操縦士が寝そべるスタイルだったが、もうこのころには、椅子に座って操縦する現在と同じ形に進化していた。また1903年の初飛行時、エンジンは68㎏まで小型化され、1908年にはさらに小型化したが、30馬力=約23kwまで強化されていた。たった5年でもの凄い進歩だ。

これらが、20年後~30年後の1930年代初頭には、1000馬力台=750kwが当たり前になり、単純計算では時速300kmを出せる。さらにより強力なエンジンを搭載した飛行機は地上を滑走、自力で離陸するようになる。有名な零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦は最高時速が540kmだ(ったと思う)。ちなみに1馬力は75キログラムの物を毎秒1メートル動かす力。これは1頭の馬が出せる力のことで、単純には0.75kw=1馬力、逆にすると1kWは1.3馬力。人類の貪欲さは限界がない。

------------------------------------------------

同時期、ヨーロッパのオーストリアでも、フェルディナント・ポルシェが航空エンジンの開発を1907年に開始、1910年には完成した。1912年には後のフォルクスワーゲン用エンジンの遠い先祖にあたる空冷水平対抗4気筒航空機用エンジンを開発する。オーストリアは当時、まだ1機も飛行機は持っていなかったが、1913年には200機以上を所有する。もちろん他の西欧諸国も負けてはいない。「新しい戦争形式」の第1次世界大戦まであと一歩だ。

---------------------------------------------------

そのころアメリカは自動車開発において、完全に出遅れていた。1897年には全米での保有台数は90台、1900年になっても約4000台だった。しかしアメリカも、ものすごい勢いで巻き返しを図る。

=====================================

亡父の十三回忌を乗り切ったのはいいんですが、少し風邪をひいてしまいました。
早く治そうと思います。

さて、日本人にはコロナウィルスはあまり効かない、つまり弱毒であることは、インフルエンザと比べると、ここ数か月の間が示す数字が、はっきり示していると私は考えています。まあ、これは前から周囲には発言していたことですけど。とは言っても病気は病気、罹患しない方が良いに決まっています。それでもここまで極端に恐れるのは「過ぎたるは~」の典型的行為でしょう。

なのに「コロナは危ない!」という論調は止まりません。あるいは、賢いはずの医療従事者からも「コロナは日本人には危なくない」という言葉は出てこないです。
これは何故なのでしょうか?

「コロナは危ない!」ということにしておけば、得をする人がどこかにいるのだろうな~としか思えなくなってきたのです。一体誰なのか? 非常に興味があります。

ただそろそろ、多くの人が「世界はともかく、日本では大した事ないやんか」と気が付き始めているようで、人出も元に戻りつつあります。これでいいと思います。いくらお偉いさんが「危ない!」と叫んでも笛吹けど踊らず、では威厳や権威が崩れ出すでしょう。早めに「プライドを捨てた撤退作戦」を練った方がいい。

もっとも個人的には、「法的根拠もないから自粛要請は無意味だ」「補償もないのにこれ以上休んでられるか」の声が大きくなったら、いつまで数字の根拠を持たない「コロナは怖い!」という脅かしが通用するのか、見ものだな~と思っています。

今年は色々ありました。
来年も色々あるのでしょう。

とりあえず、今日は、そして今年はここまでにします。
まだまだ続きそうです。
では皆様、楽しいクリスマスと、穏やかな年末と、良い新年をお迎えください。

m(_ _)m