2011年04月

「お隣のおやしき、山縣邸の思い出」 ―子供時代、山縣邸のお隣に住んでいた在米の福山美和子さんからのお便り


裏門の小道

 

私が成城に引っ越して来た時はまだ幼かったのですが山縣邸はそれから数年のうちに建築工事が始まったように記憶しています。 それまでは現在建物の建っている辺りは一面草原で秋になるとうるさい位虫の声が聞こえていました。 表通りに沿って杉の木が植えられており、南側の丘の上には今でも数本残っている大きな松の木が美しい姿で立っていました。 私達は野原で走りまわって遊んだり坂になっている林の中をちょっとした探検気分で探索したりしてよく遊んだのを覚えています。 山縣邸が出来上がるまでにはいったいどんな家ができるのかと両親もちょっと心配気でしたが素晴らしい邸宅が建って一安心していたようですし、子供達にとっても林の方は柵もなくそのままだったので

今まで通り遊ぶことができて喜んでいました。 ずっと後になって山縣さんの奥様に招待されて母と一緒に邸宅を訪問したことがあります。 奥様は余り大きなお家は本当はお好きではないとおっしゃって
南側に小さなお座敷のお部屋を増築されて主にそちらで過ごしておられるようでしたが、一回り応接間なども案内してくださりました。 私はまだ中学生になったばかりの頃で詳細は憶えていないのですが、何しろ絵本で見たような大きくて素晴らしいお部屋だったのを記憶しています。 そのうちの一部屋は博物館のようにガラスケースに入った貴重な品々が飾ってあり、夏目漱石直筆の書類とかいろいろな物があったように憶えています。 あの邸宅は築
50年や60
年で悪くなるようなことはないと思うので残す価値は十分あると思います。 世田谷区なり財団がミュージアムとして保存して下さることができるのならそれが一番よいのではないかと思うのですが、果たして私達の声は聞き入れてはもらえないのものでしょうか?

私は今成城に住んでいないので何の尽力もできませんが成城と自然を愛する皆様の力を信じて応援しております。










 


 

山里としての成城山縣邸周辺,この地は遺跡の宝庫,祖霊の宿る場所です



喜多見より山縣邸の森をみる

喜多見側の野川からの山縣邸遠景,今もビルの上から頭を出す高台です

山里としての成城山縣邸周辺,この地は遺跡の宝庫,祖霊の宿る場所です

H23.4.27  Isamu Nagai

国分寺崖線全域は新石器時代からの遺跡が多い地帯ですが,特に山縣邸周辺の三ツ池から砧中学校にかけての崖線一帯は,大小の古墳,横穴式墓地,住居跡,貝塚などが多数ある地帯です。最近も山縣邸付近の小田急線の拡幅工事で縄文時代の遺跡,遺物が見つかったと話題になりました。現在の砧中学校や東京都市大付属小中高の敷地は,昭和20年前半まで “砧古墳群”が存在する地域として有名でした(中型の前方後円墳が砧中学校庭に1基のみ現存)。昭和30年代の前半に地元中学校の郷土研究部に所属していた私やクラブ員は,この地に来るたびに土器の壷やその破片,石斧等を,それこそザクザクと麦畑の畝の間や湧水上下付近の窪地から,容易に得ることが出来ました。また先輩たちは,三ツ池で人骨が横たわった横穴式墓地を発掘発見し新聞社から表彰される・・・こんな土地柄でした(現在はこの発掘行為は許されませんからご注意)。とくに山縣邸付近は,長靴の踵のように周囲の崖線より突き出た土地ですので,左右や富士山への眺望も良く,古くからの山を崇める信仰を考慮すると,色々な時代の墳墓を中心とした遺跡が多数,重複重層化して埋没していると予想されます。

山縣邸のある崖線も含めた成城地域から多摩川までの平地は,古来より“キタミ”と呼ばれた地で,古くから帰化人等が生活していた地域です。成城の地に居を構えた民俗学者の柳田國男は「“キタミ”という地名は,タクミと同じ言葉で,タクミは南島の神歌(オモロ)の中に神を祀る時の踏台にする石(神聖なる降臨石)のことで,初期の武蔵野の移住民が神を迎えて祀っていた場所が,この喜多見付近ではないか」と言われていたとのことです(引用元*印,他にアイヌ語説,古代沖縄語説,古代韓国語説,ポリネシア等南洋語説など色々とあります)。時代が下がって漢字が輸入されると木田見,北見,喜多見・・・なる当て字で表示され,大正末期にその地域の一部に成城大学が移転されて,“成城“なる町名に変更された訳です。

山縣邸周辺の国分寺崖線は,この“キタミ”の里山でした。その南に多摩川まで広がっていた広大な水田の中に,亀の甲のように浮かんで見えた“喜多見村”(昭和30年代中ごろまでこの情景でした)は,喜多見藩2万石として江戸時代の初期には大名が君臨した地です(今の喜多見駅は村の西のはずれに位置します)。

山縣邸周辺の崖線は,この喜多見村の里山として長い間,大切に維持されてきました。しかも東半分の砧中学校の古墳群にかけては徳川幕府,明治になっては宮内省の直轄地“御料地”として特別に保護されてきた地域です。明暦の大火(振袖火事)直後の植林と伝えられている杉や檜の大木が林立していて,“喜多見御料林”とも呼ばれていました(数年前まで山縣邸の丘陵下に並んで立っていた杉の大木を覚えている方も多いと思います。まだ成城3丁目緑地に数本が現存)。

上記の“御料地”という名称は,さらに古い資料では御霊地と書かれています。この山縣邸周辺の崖線は,喜多見の村人にとって薪が取れる単なる里山以上の,ある種の畏怖心信仰心を持った特別の場所だったと,喜多見在の多くの古老が語っておりました。この地より各時代の小銭(賽銭)が発掘されていて,この事実を示します。(私には柳田國男のいう“神を迎えて祀っていた場所”とは,この山縣邸周辺の地であったと思えてなりません)

山縣邸周辺は村人にとって,遺跡や古墳が多数存在する“祖先の霊魂の宿る特別な土地だったのです。

成城山縣邸は,成城文化の記念の地としてだけでなく,“遺跡の宝庫の地”,“祖先の霊魂の宿る特別な場所” としても保護保存すべき土地です。

(このような土地に“姥捨山”ではあるまいし,老人ホームを建設しようとは!)

保存運動をしている成城山縣邸近隣の方々や世田谷区に,喜多見住民の1人としてエールを送ります。


*)昭和58年,“喜多見“世田谷区民族調査第3次報告 総記(鎌田久子氏 記述)


 

 

 

山縣邸の開発に思う

山縣邸の一部が老人ホームになるとのはなしがあります。はるか昔小学生のころ、土器、石斧、矢じり、勾玉などを拾った崖の上の一角に広い敷地の廃墟があり、荒れ果ててはいましたが洒落た西洋風の庭に小さな池がありました。むぎわらとんぼが沢山飛んでいたそこは、チョッとした我々の秘密基地になっていた場所です。ほんとうに静かな場所でした。小学校卒業後、いつから山縣邸になったのかは判りませんが、成城一のお屋敷の静けさはそのまま残っております。まるで三ツ池同様保護されているかのようです。成城の町にとって犯すべからざる空間の一つであろうかと思われます。古い町や村にはありがちなお話です。ですからみんなが何とはなしに大切にしているのです。山縣さんのお嬢さまが一昨年亡くなられた後、事業への活用が表面化してきたとのことですが、本来ここは営利目的で購入されたのではないと思われます。であれば天下の内外汽船、由緒ある山縣家ともあろうものが、寄付とはいかないまでも、東京都あるいは世田谷区に売却して、古代文明を尊び地域の環境保全維持に貢献しても良いのでは、と考える次第です。内外汽船を代弁代表していると言われる方が説明会の席上で、「企業は営利目的が第一」と言われておりましたが、出席されている方々は十分ご承知のことです。企業の重責を担ってこられた方々が多く出席されている席で言うべきことではないのではと、内外汽船の品位を疑います。ともあれ、鎮守様のごとく静かにあくまでも静かに、人の出入りの無かったところが、人の気配を感ぜられる場所へと変わってしまうことは、真に残念であり、漫然と周辺にて暮らしてきた我々の力不足も感ぜざるを得ません。山縣さんのお嬢さまが生前、地域の緑の保全に大変協力しておられたこともあり成城の住人としては安心していたというのが実態かと思います。内外汽船さんの再考を期待しております。

           2011年4月   成城大好き人間

第6回近隣住民説明会

砧支所成城ホールにおいて、昨日、また近隣の住民説明会があった。 今回で第6回目だ。 参加者は今までと同じく、オーナー側からはオーナーから全権を委任されているという設計会社、老人ホーム事業を運営するベネッセ、ジェネコンの安藤建設、そして住民約30名だ。

住民側から、この開発計画は容認しているわけではない、という意見が多く出された。 みなさん、本当にここの環境を守りたい一心だ。 住民エゴではない。 社会の、地域の風景資産を守りたいのだ。
熱い気持ちが伝わる。 と同時に、一石を投じることもままならないもどかしさも・・・

オーナーではなく、設計会社が主催する説明会に疑問を感じないわけにはいかない。 設計会社のかたがたはこの土地に思い入れはないし、その価値を理解されているようには見えない。
オーナーである内外汽船の山縣一弘社長から、計画をお話いただければ、受け取る側の理解も当然違うだろう。 山縣家を代表して、声を聞かせていただきたいと心から思う。 

今回は、建物に関して住民側からの要望をまとめたものを書面でオーナー側に渡した。 
しかし、計画を容認してこのようなものを渡したわけではない。 
開発計画に関する議論はさておき、歯止めがかからないことも想定して、時々刻々進む建築計画に、住民の要望を反映させたい、ということだ。

最後に住民だけになったときに、世田谷区から委嘱されて、文化財保護の立場から建物内部を視察した方から、ショッキングな言葉があった。
「・・・みなさん、きっと驚かれます。 あんなに・・立派なものを・・壊そうとしている・・・」
私は、正直、山縣邸も近くで見ればボロボロで、思うほどのものではない、との言葉が聴かれるのかと思っていた。 そんなに立派なものを、みすみす壊してしまうのですか? それも、一度も公開することなく。 
調査チームは報告書を作成し、少なくとも専門家に建物を見させるよう、内外汽船に直接働きかける、といわれている。

母屋は東京オリンピック前にできた建物だそうだから、築50年余。 そして美術館と呼ばれている建物は戦前に建てられた華族会館を、当時運輸大臣をしていた山縣家の当主が吉田茂元首相から譲られて移築した、と聞いている。


いま、わずかな望みは、山縣邸を、文化財として保存する可能性がないか、ということ。
世田谷区はかつて、山縣邸を「建物ごとほしい」と申し入れていた。 本館も華族会館を移築したものも、区の所有になれば、色々な使い方があると思うだけに、あれが解体されるのは何とも残念でらない。

解体は来週中にも始まろうとしている。 一度壊したら、二度と戻せません。 何としてでも、解体着工を延期してほしい。 どなたか、力を貸していただけないだろうか。 

中で何かが着々と進んでいる・・・

中をうかがい知ることができない山縣邸。 昨日はその正門が開いて、中に何台もの車と人間がいた。
何かが進行中だ。 車は建設関係らしい。 しかし人間はそうではないようだ。 区の関係者だ。 山縣邸を建物を解体する前に視察する、と聞いている。 その人たちは専門家なのだろうか。 何のために見ているのだろうか? 壊さないように、保存するように、という提言でもしてくれるのだろうか?  お役所の手順を踏んでいるだけなのか、それともどれだけの価値があるものなのか見ているのか、写真をとって記録を残すのか・・・いずれにしても、近隣の住民には何も知らされない。 

プロフィール

山縣邸近隣住民の会

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ