人はなぜ自然を大切にしようとするのか

―山縣邸問題に関しての一考察<宮川香山の生き方に学ぶ>

 

つい最近、NHKで宮川香山の特集番組が放映された。

 

番組は宮川香山最後の作品『渡蟹水盤』を中心にすえて、作者の徹底した完璧なまでのその写実性の本質に迫ろうとする。

 

日本の美術界に、かつてこのような陶芸作家がいたとは。私の目はテレビの画面に釘付けになった。番組は、あくまでも、宮川香山自身そのものが動植物とひとつになってしまったようなその写実の本質を見極めようと、映像をこれでもかこれでもかと駆使し続ける。まるで苦しみに身をよじらせもがいているようだ。見ている自分も画面といっしょに身をよじらせる。

 

画面を見ていて不安が一瞬よぎる。さて、この番組を見ている多くの視聴者は、この作家宮川香山に何を見ることになるのだろうかという疑念である。番組がその優れた写実を強調すればするほど、宮川香山の本質から離れてしまうことになるという、私の心の奥深くから出てくる叫びが私をとらえる。

 

宮川香山のもつ写実性は、いわゆる写真のもつ写実とはまったく異なるものなのだ。描く作者がいて、対象物を客観的に第三者として精密に描こうとする態度とはまったく異なるのだ。宮川作品は対象とひとつとなるコラボレーションの世界なのだ。番組を見ながら私は確信を持った。一言で言えば、宮川香山が目指すのは、自然のなかの動植物との同化、一体化そのものなのだ。神が万物を創造したとき、人に動植物を治めるように命じた、その原始の感性の復元そのものなのだ。

 

宮川香山はその復元におのれの能力のすべてを注ぎ込む。その成果が宮川香山最後の作品『渡蟹水盤』に見事に表現されているのである。

 

人間の歴史を振り返るとき、多くの人が宮川香山と同じことをやろうとしてきたのであるが、宮川香山によってそれが奇跡的にやり遂げえられたというだけである。

 

宮川香山と成城の自然。一見なんの関係もないように思われるかもしれないが、実は大きな関係を持つのである。私たちは豊かな自然環境の中にあってはじめて生きとし生けるものと一体となることができるのである。これは人間の本能なのだ。

 

宮川香山がいかに自然を愛し、大切にしたか。彼の残した作品を見ればわかることである。そのことを理解せずには、宮川香山作品は理解できないのである。

 

新宿から電車で15分のところに成城のように自然にめぐまれたところはない。これはほんとうに奇跡的なことなのだ。もし、いまここに宮川香山本人がいたなら同じことを言うであろう。

 

山縣邸こそは、成城の自然を守るべき最後の砦となるといっても過言ではないと、私は心から思う。  (成城紗蘭 記)