2007年11月03日

徳川将軍家の宗教2

前回からかなり時間が経ってしまいました。
徳川将軍家の宗教の話の続きです。

歴代将軍は、家康、家光、慶喜を例外として死後、徳川家菩提寺である芝増上寺と上野寛永寺に葬られました。
今回は、慶喜の話です。

慶喜屋敷跡慶喜は、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て謹慎生活に入り、旧徳川将軍家は田安家達が16代を継ぎ、慶喜とその一族は別家扱いとなりました。
慶喜は、静岡、後には東京で明治・大正と長い余生を送り、天寿をまっとうしました。

慶喜の墓は、東京都台東区の谷中墓地神式によって葬られました。
旧徳川将軍家と別家となったため、その菩提寺に葬られることはなかったのですが、神式によるのは慶喜の指示であったと言われています。

なぜ、仏式でなく神式だったのでしょうか。
幕末の動乱は、勤皇 Vs 佐幕の図式で語られますが、当の孝明天皇は幕府から政権を取り戻すことは全く望んでおらず、慶喜も勤皇の総本山である水戸家の出身で天皇を敬う事に関しては、将軍となってからも変わりませんでした。

また、慶喜は後に名誉回復がなされ、公爵が授けられました。
このことは慶喜に勤皇の思いをより強くさせたことは容易に想像できます。

それと幕末から吹き荒れていた廃仏毀釈運動が影響していたと思われます。
明治新政府は、神道を国教として神と仏を分離する政策をとりましたが、副作用として仏教が弾圧される結果を引き起こし、華族の墓は、仏式から神式に変更されました。

このような事情から慶喜は、将軍家菩提寺ではなく、また仏式でもないとという形で葬られたのです。
ちなみに旧将軍家を継いだ家達は、将軍家菩提寺である寛永寺に葬られています。

seisyo1 at 17:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)徳川将軍 

2007年03月18日

徳川将軍家の宗教1

今回は、徳川将軍家の宗教の話です。

大樹寺徳川家が、まだ三河の小領主だった頃、松平家の菩提寺は大樹寺でした。
大樹寺は、浄土宗の寺で家康から五代前の安城城主松平親忠が創建したといわれています。(異説あり)
このことから、松平家の「家の宗教」は浄土宗だったと言えると思います。

増上寺徳川家が関東に移封された際に、江戸にあった浄土宗の増上寺が大樹寺との関係から徳川家の菩提寺となりました。
最初に増上寺に葬られた徳川家の人間は、二代将軍・秀忠の子の長丸だったと言われています。家康が征夷大将軍に任じられる前年の慶長7(1602)年のことでした。
その後、増上寺には、秀忠家宣家継家重家慶家茂の6人の将軍が葬られました。

寛永寺また、もう一つの菩提寺である寛永寺は、天台宗の寺で家綱綱吉吉宗家治家斉家定の6人の将軍が葬られました。
寛永寺は、天海により江戸城の鬼門(北東の方角)除けの祈願所として建立されました。
天海は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだと言われており、比叡山が京都御所の鬼門除けであることを模して、寛永寺を鬼門除けとして山号を東叡山(東の比叡山)と命名したのです。

三代将軍・家光は、天海を父のように慕っており、自分の葬儀を天海創建の寛永寺で行うように命じて以来、寛永寺は祈願寺から菩提寺とされるようになりました。

このように徳川家の菩提寺は、浄土宗の芝増上寺と天台宗の上野寛永寺の2つあり、現代の感覚からすると違う宗教の寺を菩提寺とするのは不思議な感じがします。
ただ、他の大名家の例をみても江戸と国許にそれぞれ菩提寺を持っていることがむしろ、普通であり、また、宗派の違う寺を菩提寺とする例もあることから将軍家だけが例外ではないのかもしれません。

ところで歴代将軍15代のうち、増上寺にも寛永寺にも葬られていない将軍が3人います。
言うまでもなく家康は、他の将軍家とは別格で、神格化され、初め久能山に葬られた後、日光東照宮に移葬されました。
三代将軍・家光は、家康を慕う事、尋常ではなく、死後も家康のそばに眠る事を熱望したため日光山輪王寺に葬らました。

例外中の例外が15代将軍・慶喜です。
その話は、次回とします。

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seisyo1 at 22:59|PermalinkComments(1)TrackBack(0)徳川将軍 

2007年02月26日

表右筆と奥右筆

前回に引き続き、江戸幕府の右筆の話です。
もの書きとしての表右筆の職務は、将軍の御内書判物朱印状老中奉書、触書、日記、名簿などの執筆でした。
場合によっては、執筆された書き物を読み上げる事も職務の一つでした。ただし、奥右筆と違って機密に属しない類の情報を扱ったと言われています。どこまでが機密なのかは難しい問題ですが・・・。

御内書というのは、将軍のプライベートな書状で大名から将軍に対する献上物に対する礼状などに用いられ、将軍の黒印が押印されていました。
判物は、花押が書かれたものであり、所領の宛がいや安堵の場合は十万石以上か四位侍従以上の大名に用いられました。これに対して朱印状は朱印が押印されたもので十万石以下の大名に対するものです。
奉書は、将軍などの意向を奉って老中などが自分の名の下に発給する文書の事です。

次に奥右筆の職務は、勝手掛、仕置掛、隠居家督掛、縁組官位補任掛、寺社掛、証文掛、外国掛などに分かれており、例えば、老中から何かの評議を指令された場合に各担当の役職が評議して、奥右筆に廻ってきます。この評議が妥当か否か先例を調べ尽くして妥当かどうかを審査して老中に差し戻します。奥右筆の判断が老中の決定を大きく左右したようです。
また、ある役に旗本を就ける場合に、奥右筆の縁組官位補任掛が旗本の監視役である目付からの意見や風聞書を参考として意見書を作成します。いわば、事務方として決定権を有していて、よほどのことがない限りはそれが最終決定となったのです。

このように、奥右筆は非常に力のあった職務でしたが、幕末に奥右筆であった幕臣からの聞き取りによると、先例を調べることは記憶力も相当ないと勤まらない仕事であって、作業量も膨大なものであったと述べています。

奥右筆の職務は幕政全般に渡り、しかも大きな力を持っていたため、各藩では’用頼み’と称して特定の奥右筆と出入り関係を結び、江戸在住の留守居役を中心として情報収集に努めていました。当然に奥右筆の懐には、諸藩からの報酬が入り、大藩と複数の出入り関係を結んでいる奥右筆の懐は、大身の旗本以上であったと言われています。
これらの報酬は、現代の感覚で言えば賄賂そのものですが、行過ぎは、問題とされたものの当時は公然のものであったようです。

右筆に興味を持っていただけましたでしょうか?


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seisyo1 at 01:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)江戸幕府 

2007年02月24日

表右筆と奥右筆

江戸幕府には500近い役職数があったと言われています。
今日は、その中で右筆について書いてみたいと思います。

右筆(祐筆)というのは、平たく言えば書記のようなものですが、様々な事柄を文章にします。
文章にするためには、達筆というだけでは足りず、様々な物事に通じている必要があります。

古くは中国の王朝で皇帝の左右にあって、言動を記録した史官が右筆のルーツとなっていますが、徳川幕府の右筆は、慶長元年(1596)年に家康が建部昌興を右筆に起用して法令の文案を作成させたことがルーツと言われています。

五代将軍に迎えられた綱吉は、館林藩主時代からの右筆であった蜷川親煕(にながわちかひろ)を奥右筆組頭として自分のブレーンに迎え、この時から表右筆と奥右筆が分化します。
表右筆の職務は、従来どおり書記でしたが、奥右筆は、将軍や老中などの側近に仕えて機密に携わることを職務としました。言わば、要職の秘書官のようなものです。

奥右筆の”奥”とは、機密という意味あいがありますが、綱吉時代の奥右筆の江戸城内の詰所は、将軍のプライベート空間ともいえる中奥に設けられており、将軍の側近であったことがわかります。
表向に詰所のあった表右筆に対して’奥’右筆であったわけです。(綱吉以後は、詰所が表向に移動している)

次に右筆の身分についてですが、表右筆は組頭で役高300俵、平の表右筆で150俵で、定員は時代によって変遷があるものの30人(幕末80人)。
これに対して奥右筆は組頭で役高400俵、平で200俵、定員は20人でした。
いずれにしても、身分的に高くはありませんでしたが、特に奥右筆の権勢は相当のものであって、役高以外の見入りも多かったと言われています。
その理由については、次回に。


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seisyo1 at 20:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)江戸幕府 

2007年02月18日

やっぱり、関ヶ原と本能寺が面白い!

少し、古くなってしまいましたが真説 関ヶ原合戦(桐野作人・学研M文庫)、皆さん、もう読まれたでしょうか。
この本、なかなか、おもしろいです。
私は基本的には本を繰り返し読まないのですが、思い返したように既に4回くらい読みました。

桐野氏は、昔、歴史IF小説を書いていた方ですが、最近は歴史考証本の出版が多いようです。かなり研究されているという印象を持ちました。
プロの方を捕まえて、よく研究されているというのも失礼ですが、それでも、あまりにもありきたりの内容の本や難解な言い回しで書いた本人が理解しているのかと首をかしげてしまう本が多いのも事実。

上にあげた本は、関ヶ原で何が謎なのか、その謎についてどういった史料があり、どのような内容なのか。作者は、どう考えているのか。明快に示されています。

私の場合、サラリーマンのかたわら、細々と歴史ファンをやっているので、直接、史料にあたる能力も時間もないのですが、このような本はその隙間を少しだけ埋めてくれるような気がします。

ただし、その内容について、全て鵜呑みにしないのが、ど素人歴史ファンのせめてもの意地だったりしますが(^_^;)

ちなみに同じ学研M文庫から同氏の真説 本能寺というのも出版されています。
未読の方、一読の価値ありです。

真説 関ヶ原合戦

真説 本能寺

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seisyo1 at 11:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)歴史本紹介 

2007年02月12日

七度主君を変える

「武士たるもの七度、主君を変えねば武士とは言えぬ」これは、築城の名手と言われ、外様でありながら家康に重く用いられた藤堂高虎の言葉です。

江戸時代の武士は「二君に仕えず」と言われ、主君がどんな人物であっても家臣たるもの忠を尽くすことが求められたのと対照的です。これは、戦国時代が変化の時代で力のない主君の下では生きていけないという事情があったのに対して江戸時代が変化を嫌った時代であることから武士の倫理観も違っていたのです。

藤堂高虎は有名な武将ですが、同じように主君を次から次へと変えていった武将として本多政重をご存知でしょうか。
藤堂高虎の遍歴は
浅井長政 → 阿閉貞征 → 磯野員昌 → 織田信澄 → 羽柴秀長(・秀保) → 豊臣秀吉 → 徳川家康
高虎は多くの挫折をしながらも織田、豊臣、徳川と見事に転身しています。

本多政重は
徳川家康 → 大谷吉継 → 宇喜多秀家 → 福島正則 → 前田利長 → 上杉景勝 → 前田利長

こちらも見事に七度、主君を変えています。
このことだけでも、どんな人物であったのだろうと興味をひきますが、この本多政重、実は家康と一心同体と言われた本多正信の次男なのです。徳川秀忠の乳母の子を斬って徳川家を出奔、関ヶ原では西軍の主力・宇喜多隊の一翼を率いて奮戦しているのです。確かな人物像は不明ですが、一説には父や兄(正純)とは違い、武勇に秀でた武将であったと言われています。
前田家に落ち着いてからは、家老として幕府からの前田潰し政略の矢面にたって前田家を守るのに大きな功績があったと言われています。

この本多政重を題材とした小説として、安部龍太郎氏の生きて候
(上下巻)があります。小説ですから、細かい設定は著者の創作ですが、政重に興味を覚えた方は一読してみてはいかがでしょうか。

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seisyo1 at 11:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)戦国武将 

2007年01月28日

ビッピーズ人形GET!

「武士の時代」が@niftyの「今週のビッピーズ」(1/22-1/28)に選ばれてビッピーズの王冠マークもいただきました(^_^)
「武士の時代」は2000年4月に開設以来、@niftyの「今日のビッピーズ」に掲載されて勢いがつき、Yahoo!に登録され、宝島社などの雑誌にも掲載されました。
そして、@niftyのスタッフから「人気ホームページへの道」で取材を受けました。
また、この1月には念願のアクセス数1,000,000を達成しました。
ホームページ管理人として、とても貴重で励みになる経験をさせていただいています。
これも長年支えていただいた多くの訪問者の方々のおかげです。感謝感謝です。

武士の時代
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/index.htm

人気ホームページへの道
http://homepage.nifty.com/charisma/mononofu.htm

アットホームページ
http://homepage.nifty.com/

ビッピーズ人形

seisyo1 at 13:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)その他 

2006年08月15日

漢字バトン

漢字バトンという企画に参加しました。
どなたがいつ始めたものかはわかりませんが、漢字に対するイメージをホームページやブログで繋いでいこうというものです。
私は「敬天愛人」の管理人tsubuさんからバトンを受けました。

「敬天愛人」

tsubuさんから私のイメージとして、「識」という漢字を頂きました。
博識、良識、眼識の「識」とのことですが、ありがたいと言うよりは恥ずかしい思いで一杯です。
まだまだ、浅学非才の私に過分なる評価をいただき、ありがとうございました。

さて、私から見たtsubuさんのイメージを漢字一文字で表現すると、「誠」です。
tsubuさんの歴史に向かう姿勢は、誠実と言う言葉が似つかわしいと思います。
tsubuさんは西郷隆盛を中心として幕末全体を研究されている方ですが、その姿勢は単に知識の集積というものではなく知識の上に立った人に対する理解というべきもので幕末史を俯瞰する領域に立っている方だと思います。
それは、知識を集積すれば達する領域ではなく、おそらくは誠実にものを見る目と姿勢があればこそだと思うのです。

私は、徳川将軍家に興味を持って武士世界を趣味的に楽しんでいますが、ともすれば維新史を語る時にtsubuさんは薩長よりに、私は幕府よりになってしまう傾向が否定できません。
これは力点を持って勉強している分野の違いであり、ある程度は仕方のないことだと思います。
ただ、お互いの主張は分かり合える。意見は違っても考え方は理解しあう事ができて歴史の難解さよりも、むしろ歴史のおもしろさに気づかされるのです。

それでは漢字バトン、本題です。


〜阿凌佑出題した漢字に対して自分が持つイメージ。

「義」・・・人として踏むべき道筋
義理、義務などと言う言葉は強制されるイメージを持ちますが、本来は自らが信じるところに従って外してはいけない道理だと思います。

「武」・・・乱を治める力、正義を持った力
二つの矛を止めると書いて武と読みますが、単に力だけでは争いを治めることはできないと思います。
今も昔も利己主義を正義と偽った暴力が止みません。そういった暴力は武とは似て非なるものであると考えます。

「敬」・・・うやまう心
私も含めてですが、自分が自分がと主張せずにはいられない。現代人が最も思い出さなければならない心の持ちようだと思います。

⊆,凌佑鵬鵑晃斥佞鮖阿帖

「空」、「真」、「天」

B臉擇砲靴燭じ斥佞鮖阿帖

「信」・・・人は人との関係によって成長するものだと思いますが、大切な人との間にはあってほしいものです。
「優」・・・常に持っていたい心の持ちようです。自分に余裕がなければ人に優しくなれません。いつも、自分が試されます。
「歴」・・・tsubuさんと同じく、歴史は私にとってもライフワークです。歴には、次々とめぐり歩くという意味がありますが、これからも時空の訪ね歩きを楽しみたいと思います。

ご岨のことをどう思う?

漢字は、一字一字に意味を持っており見ただけでイメージが伝わります。
また、一字で異なる読み方がある不思議な文字です。

ズ埜紊砲△覆燭旅イな四字熟語を三つ教えて下さい。

「一視同仁」
努力目標です。こうありたい。

「浩然之気」
いつも胸に持っていたい。

「巧偽拙誠」
不器用の言い訳ではありません(笑)。

Ε丱肇鵑鯏呂梗型佑箸修凌佑鬟ぅ瓠璽犬垢覺岨を。

私も、お一人に限定してバトンをお渡ししたいと思います。
「戦国浪漫」のMasaさんにお願いしました。
「戦国浪漫」は説明するまでもないかもしれませんが歴史サイトの草分けであり、今もなお進化を続ける超有名サイトです。

7年余り前に「武士の時代」を開設して以来、「戦国浪漫」は目標であり、開設から今に至るまでMasaさんとは親しく交流させていただき、アドバイスもいただいています。

さて、私から見たMasaさんの漢字イメージですが「博」です。
「博文」「博学」「博覧」「博識」「博雅」の「博」です。
「戦国浪漫」のコンテンツは質・量ともに圧巻であり、その一つ一つが広く文献を勉強することはもとより実際の史跡等に何度も自分の足で訪ね歩き生み出されたものです。
ご自分の専門領域を極めながらも、歴史に対してあくまで謙虚な姿勢を私は見習いたいと思っています。

「戦国浪漫」

seisyo1 at 21:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)その他 

2006年05月31日

日本補佐役列伝4

日本補佐役列伝
著者:加来耕三
出版社:学陽書房
価格:850円

この本には、魅力的な補佐役が数多く登場する。著者の歴史分析もかなり魅力的である。
例えば、黒田官兵衛には稀代の策略家というイメージがあるが著者は事例をあげて無私無欲であったと論じる。また、石田三成が島左近を迎える事ができた理由についても独特の解釈がされている。

魅力ある補佐役30名が登場するこの本、手にとって損のない本である。


日本補佐役列伝―興亡を分ける組織人間学
加来 耕三
4313751513


seisyo1 at 23:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)歴史本紹介 

謎解き「兄弟」の日本史2

謎解き「兄弟」の日本史
著者:歴史の謎研究会
出版社:青春出版社
価格:552円

兄弟の対立、協調をテーマに歴史を紹介した本で例えば「足利尊氏と弟・直義」というように30本の章に分かれていて読みやすい。

本書の兄弟というテーマの着想はとても良いと思う。足利尊氏兄弟、源頼朝兄弟、新田義貞兄弟、武田信玄兄弟、豊臣秀吉兄弟など興味の尽きない題材は多い。惜しむらくは本書では内容に特別目新しいものがないことである。一つでもいいから新発想を盛り込んで欲しかった。

近代になって一夫一妻が確立するまで兄弟が7〜8人程度いることは珍しいことではなく、同父の兄弟を持たない徳川家康はむしろ特殊と言っていいほどである。ただし、兄弟といっても別々に育てられ、互いの顔も知らずに育つ場合も多く、右腕となる場合もあれば、自分にとって変わる存在として兄弟こそが脅威である場合も多い。

現在の感覚とは違った兄弟のあり方が垣間見える一冊である。


謎解き「兄弟」の日本史―歴史を動かした“血の絆”とは
歴史の謎研究会
4413092635


seisyo1 at 23:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)歴史本紹介 
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