小説 「老前整理」  わくわく片付け講座

人生を変えたい、暮らしを変えたい、整理整頓、片付けたい、すっきりしたいと思っている中高年に向けて。【くらしかる】プロデュース http://kurasikaru.com

著書 『老前整理』 『老前整理実践ノート』(徳間書店)

31章 ほっとけ!(3)

 明夫はジャージにジャンバーをひっかけて財布と携帯をポケットに入れた。

君子はそんなかっこうでと言いかけてやめた。

どうせあれこれ言ったところで、聞くような人ではない。

不毛な言い争いにはくたびれた。

 明夫は息子のマンションに行くのは何年ぶりか思い出せなかった。

たぶん、独身寮から引っ越した時以来だ。

車の中では会話も音楽もなかった。

マンションのホールで管理人に君子はおはようございますと挨拶をした。

段ボールの箱を抱えた明夫は軽く頭を下げた。

管理人が明夫を無視して、そうそう、奥さん、息子さんに荷物が届いていますよと声をかけた。

「いつも、お世話になります。

いただいていきます」

君子はにこやかに答えた。

31章 ほっとけ!(2)

「それに息子のマションに行くのに、なんでそんな恰好をしてるんだ」

「それって、やきもちとか? ハハ、恵一のマンションに出入りするのに、汚い恰好をしてたら、恵一が笑われるでしょう」

「芸能人じゃあるまいし、だれもそんなこと気にしてないさ」

「あなた、ご近所の噂をバカにしたらとんでもないことになるのよ」

「とんでもないこととはどんなことだ、言ってみろ」

「そんなこといちいち説明しなきゃわかんないのですか、これだから男はわかっていないのよ」

明夫はウウㇺとうなり、腕を組んで考え込んだ。

本当に息子のところへ行ってるかどうか怪しいもんだ。

「時間がないんですから、ここでぐだぐだ言うのはやめてくださいよ」

息子のいないマンションに行くのに、なぜこんなに時間を気にするんだ?

「おれも行く」

31章 ほっとけ!(1)

 朝から宅配便とは、こんなもの誰が頼んだのかと見れば妻だ。

明夫は玄関の大きな段ボールを前にため息をついた。

そこへ、珍しく念入りに化粧をした妻の君子が2階から降りてきた。

「間に合ってよかった」

「何だよこれは」

「衣装ケース。恵一のところへ持っていくんですよ」

「恵一が頼んだのか」

「いえ、わたしです」

「あのな、40過ぎた息子のマンションなんか掃除するな」

「だって、あの子は仕事が忙しいから…」

寒中お見舞い申し上げます

2012年も年が明けたと思っていたら

もう大寒も過ぎ

商売繁盛の十日戎も終わり

あれあれです

小説もそろそろ再開しようかなと思っています

今年は口ばっかりにならないように

目次


◆1章 「わくわく片付け講座」ごあいさつ
K社の松竹梅くら子から、講座についてのご説明 

◆2章 片付かないから離婚?
足の踏み場もない家で、単身赴任から帰った夫が…

◆3章 思い出はアルバムの中に
老人ホームに入居するのに、荷物を減らして、思い出を整理する方法は?

◆4章 フランチャイズ?
なんと、パクリの「らくらく片付け講座」出現?

◆5章 三度目の正直
整理がなかなかうまくいかず、自分の人生に向き合うのが苦しくて、挫折を… 

◆6章 カミングアウト!
理解してもらえないし、本当のことを言えなかったけど、決心しました

◆7章 鉄男が消えた?
なんでそんなものを集めるの?貯め込むの?夫婦の危機です

◆8章 近頃べっぴん!
「わくわく片付け講座」では、人生を考え、自分の顔も考えます

◆9章 遺品整理と招待状
遺品整理をしてわかったこと、その先の人生にどんな変化が

◆10章 エンディングセミナー
平均寿命が延びたということは、考えなくてはいけないことがいろいろ

◆11章 ショックで声が出ない!
遺産相続には、ドラマがあります

◆12章 きっかけは松花堂弁当
とんでもないケチだと思っていたのに、実は大きな夢が

◆13章 風水と部屋の片づけ
風水師のアドバイスから… 

◆14章 レシピが見つからない!?
片付けられない料理研究家の話

◆15章 人生の棚おろし
アラ還夫婦の妻は卒婚を考えているが、夫は起業するという

◆16章 リバウンド
「わくわく片づけ講座」に参加して一度は片付いても、また…

◆17章 ローゼン(老前)整理
くら子がハイになって、なんと流行語大賞をとるというが

◆18章 きっかけはぎっくり腰
ぎっくり腰になったおひとりさまは、餓死の危機!  

◆19章 開かずの押し入れ
祖父の遺言で開けるなとされた押入れには・・・

◆20章 わくわく同窓会
「わくわく片づけ講座」卒業生の同窓会は盛り上がって…

◆21章 息子の部屋に忍び込む?
母親から息子のマンションの部屋に忍び込んで片づけてほしいという依頼が意外な展開に…

◆22章 これでいいのか委員会
[これでいいのか委員会]を作りたいという女性が登場,この委員会の目的は?…

◆23章 減築で新しい住まいを
増築ではなく、家を狭くする“減築”を希望する夫婦が相談に現れた…

◆24章 男やもめに花を咲かそう!
男やもめに果たして花は咲くのか? それともウジが湧く?・・・

◆25章 死ぬまで元気ぃー?
いたずらのような大量のファックスが事務所に送られて…

◆26章 片付けとダイエットの関係
さて、どのような関係があるのでしょう?…

◆27章 アドバイザー講座
なかなか開講できなかったアドバイザ―講座を開設することに、男性のアドバイザ―が増えるかと思いきや、スパイに保険金殺人と、とんでもないことに…

◆28章 インド・サリー・カレー
林住期の生き方もいろいろ 

◆29章 三十七回の引っ越し
10年で37回も、なぜ引っ越さねばならないの?

◆30章 玄関の柴犬
散歩も餌もいらない番犬がいます

◆番外編 『サンタクロースのお告げ』
熟女二人の老前整理の行方は?



長々と読みにくい!

桜も散り、季節の移り変わりを実感する毎日です。

小説なのに、まとまっていないので、読みにくいというご意見をあちこちからいただき

もっともだ! ということで、ようやく各章をまとめました。

近々、目次も作ろうと思っています。

新しい章も構想中ですので、また読んでいただければ幸いです。

餡も無いと

番外編 『サンタクロースのお告げ』


「わたしたちは死んだらどうなるのだろうね」

はぁ? 麻子は箸を置いて彰美を見た。

ランチにふさわしい話題ではないだろう。

そういうところが彰美らしい。

 彰美は『花見弁当』の飾りのパセリまできれいに平らげていた。

「どういう意味?」

「麻子もわたしもおひとりさまでしょ。

死んだらわたしたちの家財道具は誰が片付けるの?」

 ううむ、ひときれ残った筍の木の芽和えを麻子はつかみそこねた。

「この前、テレビで『無縁死』の特集をやっててね。

あれを見て考えたのよ。身辺の整理をしておくことも必要だって。

いつかしなくちゃと思ってたけど、先延ばしにしてはいけないなと思って」

「わたしも見たけど、そこまでは考えなかった。

暇だからそんな事を考えるのじゃない?」

彰美は湯呑みを手にして、飴色のほうじ茶を覗き込んでいる。

まるで、そこに自分の未来が映っているように。

デザートのさくら餅を食べながらも、この話題は続いた。

「麻子のひとり息子はあてになる?」

ならない、と麻子はきっぱり答えた。

「今、どこにいるの」

「たぶん、インドだと思うけど…」

「連絡はないの?」

ない、と麻子は窓の外の葉桜に目をやった。

「だったら同じね」

 新庄彰美は独身で、二十年以上勤めていた小さな建築会社は、昨年倒産した。

定年まであと数カ月だった。

 西園寺麻子は十年前の離婚以来、ホームヘルパーをしている。

二人は高校の同級生だが、卒業後の交流はなかった。

再び付き合うようになったのは、五年前。

偶然、デパートの地下で弁当を買っていた時に目が合い、あっと声をあげた。

 それ以来、月に一度はランチを共にしている。

 麻子は、そういえばと話し出した。

「ヘルパーで通っているお宅でね、息子さんがお母さんの押入れの荷物を勝手に処分しちゃったのよ。

それ以来、そのお母さん、というか八十五歳のおばあちゃんなんだけれど、わたしたちが行っても、何か持って行かれやしないかと監視してるの。

いやになっちゃう」

「確かに、自分のモノを勝手に処分されたら、腹が立つし、疑心暗鬼になるわね」

「ガラクタでも?」

「そう、ガラクタでもね。

ところで、ここのさくら餅の塩加減は絶妙だわ」

 負けじとさくら餅を口に入れた麻子は、ああ、おいしいと目をつぶり、甘い幸福をかみしめた。

「ところで、彰美の家は片付いてるの?」

「ノー、片付いてないから、どうしようかと思ったのよ。

サンタは何もしてくれないし、働く女には洋服と食べることくらいしか楽しみがなかったもの。

バーゲンといえば、ボーナス払いのカードを握りしめて、突撃してた」

「そうねえ、わたしも離婚した時にかなり処分したけど、その後は、捨てるってことをほとんどしなかった」

「だから、もしポックリいったら、後にガラクタの山が残るでしょ。

昔の手紙なんかが出てきて、他人に読まれるのは嫌じゃない」

「えーっ、昔の手紙って、ひょっとしてラブレター?」

麻子が身を乗り出した。

「男からの手紙と写真は、別れた時に焼き捨てることにしているの」

あら、まあと、麻子は急須から彰美の湯飲みに茶を注いだ。

「そりゃ、ガラクタを見られるのは嫌だけど、その先はどうなるの?」

その先ってなによと言いながら、彰美は物欲しそうに空の菓子皿を見つめている。

「その先は、お墓でしょ」

ああ、その事といいながら、彰美はメニューを手にした。

「甘いものは、ぜんざいにわらび餅、花見団子におはぎね」

「どうして『花見弁当』のデザートに花見団子がついてないの?」

麻子の疑問に、えへんと、彰美は咳払いをした。

「決まってるじゃない、さくら餅なら一つで恰好がつくけど、花見団子が一本では貧弱でしょう。

二本つけると赤字になるのよ」

「なんだか違うような気がするけど…」

 追加注文した花見団子は二本ずつ皿に載っていた。

それを見て彰美は、ほらねという顔をした。

「お墓の問題はいいのよ」と彰美は話を蒸し返した。

「どう、いいの?」

「樹木葬にしてもらうの。だから、お墓はいらない」

「ジュモクソーって」

「木の下に埋めてもらって、土に返るの。お参りもお供えも要らないし、すっきりしていいじゃない。

麻子は息子がいるんだから、お墓でもなんでも作ってもらいなさい」

「いやよ。あのバカ息子が墓参りなんかする訳がない。

それより、あっちの方がどこかで野垂れ死んでるかもしれない」

とすると、あてにならないわねえと、彰美はさくら色の団子にかぶりついた。

「死ぬ話だとか、お墓だとか…もしかして、彰美、自殺しようと思ってるんじゃないでしょうね」

麻子は声を潜めた。

「会社が倒産して退職金ももらえず、老後の資金がなくなったから悲観のあまり…なーんて」

彰美はアハハと笑い、一蹴した。

「あのねえ、お金があっても無くても、総理大臣でも有名女優でも、みんないつかは死ぬの。

これだけは公平なのよね。だ、か、ら、神サマが決めた寿命をまっとうしなくちゃ」

 神様? 彰美は変な新興宗教にでもはまっているのではないか。

だから突然こんなことを言い出したのだ。

やばい! 麻子はさりげなく訊いた。

「神様って、どこの神様?」

「決まってるじゃない、わたしの神サマ」

ポカンとしている麻子に彰美は付け加えた。

 子供の頃に祖母から繰り返し聞かされた話について。

人間にはひとりひとりに神サマがついていて、見守ってくださっている。

八百万の神サマというのは、それくらいたくさんの神サマがいるということで、何があっても神サマがついているのだから、くよくよせずにしっかりやりなさい。

彰美はこれを幼心に刷り込まれた。

だから、自分の神サマを信じているのだと締め括った。

「神様がついているのに、退職金がもらえなかったのはどうして?」

麻子が矛盾を突くと、彰美はふふんと鼻で笑った。

「禍福は糾える縄の如しというでしょ。

山も谷もあるから人生で、神サマが何でもしてくれると思うのが間違いなのよ」

 それじゃあと言いかけて麻子は口をつぐんだ。

触らぬ神に祟りなしというではないか。

 二本目の団子を食べ終えた彰美が上目使いに言った。

「一緒に、団塊世代向けの片付け講座に行かない?」

 こうして、二人は『老前整理』の講座に参加した。

 講師の杉田照代は、テレビでよく見かける「片付けのカリスマ」と違い、普通のおばさんという感じだった。

自己紹介で、杉田は長年専業主婦をしていたけれど、片付けが苦手で、ゴミ屋敷寸前になったので、講座に参加し、半年かかって溜めこんだ物を処分したら、すっきりした。

モノが減ると、そうじも楽になり、気分が変わった。

ちょうど、夫も定年になり、家にいるので、今度は自分が外に出て働きたい。

そこで、声を潜めて、三度三度食事の支度をするのも面倒ですからねと笑い。

そんなことより、人の役に立ちたいと思い、講師養成の講座を受けて講師になったと締めくくった。 

受講者の多くが、杉田の家もゴミ屋敷寸前だったという話に親近感を持った。

講座は「ラクダで砂漠を旅するとしたら、リュックに何を詰めるか」という質問から始まった。

 リュック一つなら、貴重品と身の回りのものかしら、あと、水と食料少々、アルバムはかさばるから入れられないしと、あれこれ考えていた麻子は隣の彰美を見た。

 彰美はマンションの権利書と有り金全部、それに猫の餌と書いていた。

麻子が小声で、なんで猫の餌なのよと訊くと、自分の食べるものはどうにかなるけど、猫の餌は災害時には手に入らないからだそうだ。

「猫はトランクに入れないの?」

「もうひとつのリュックに入れて背負うから」

勝手にしなさいという言葉を麻子は呑み込んだ。

 次の質問は、「アラジンの魔法のランプで、三つの願いをかなえてもらえるとしたら、どんな願いをするか」だった。

 考え込んでいる麻子の手は止まったままだが、彰美のペンはするすると動いている。

「今度は何を書いたの?」

「サンタの寿命がわたしと同じになること。

懸賞で猫の餌が二十年分当たる事。

あと、執事のロボットが欲しい」

 猫の餌にロボット? と麻子は絶句した。

受講者の多くが、杉田の家もゴミ屋敷寸前だったという話に親近感を持った。

講座は「ラクダで砂漠を旅するとしたら、リュックに何を詰めるか」という質問から始まった。

 リュック一つなら、貴重品と身の回りのものかしら、あと、水と食料少々、アルバムはかさばるから入れられないしと、あれこれ考えていた麻子は隣の彰美を見た。

 彰美はマンションの権利書と有り金全部、それに猫の餌と書いていた。

麻子が小声で、なんで猫の餌なのよと訊くと、自分の食べるものはどうにかなるけど、猫の餌は災害時には手に入らないからだそうだ。

「猫はトランクに入れないの?」

「もうひとつのリュックに入れて背負うから」

勝手にしなさいという言葉を麻子は呑み込んだ。

 次の質問は、「アラジンの魔法のランプで、三つの願いをかなえてもらえるとしたら、どんな願いをするか」だった。

 考え込んでいる麻子の手は止まったままだが、彰美のペンはするすると動いている。

ロボットのほうはそう遠くない未来には可能かもしれない。

しかし、考えてみれば、どちらもお金があれば買えるのではないか。


「どうして、わざわざ懸賞に当たらなきゃならないの。

お金があれば、百年分の餌だって買えるわよ」

 彰美はダメダメと首を振った。

「持ち慣れないお金を持ったら、ろくなことにならないの。

そういうことが人生を誤る元なのよ。

会ったこともないイトコやハトコが現れるのもごめんだし、現物支給が一番確実。

ほら、お相撲さんだって、優勝したら牛一頭とかもらってるでしょ。

あれ、あれ」

 堅実なのか、バカなのか、麻子のものさしと彰美のものさしが違うことはよくわかった。

ちなみに、サンタというのは彰美の猫の通称で、正式にはサンタクロースというそうだ。

麻子にとってはサンタでもサタンでもかまわないのだが、彰美はかまうらしい。

 もうひとつ付け加えると、サンタクロースという名前はクリスマスに生まれたからでも、クリスマスに拾ったからでもない。

そんな風に思うのは彰美という人間を知らないからだ。

夏の夜に公園のベンチの下でみゃあみゃあ泣いていた子猫を拾い、家でミルクをやっている時に、ラジオでかかっていた曲が、なぜか『サンタが街にやってきた』だからである。

 杉田講師の次の質問は「今、一番大事なモノは何ですか」だった。

 麻子は始め、お金と書いたが、消して、命(健康)と書いた。彰美がサンタと書いているのは見なくてもわかった。(絵まで描いている)

 彰美も麻子も、いらないモノを片づけるのに、なんでこんなことを考えなければならないのか、訳がわからなかった。

受講者の気持ちを察したように、杉田は笑顔を浮かべた。

「サスペンスドラマで『片付ける』というのは、じゃまな者を取りのぞく。

つまり、殺すことですが。これはドラマの中の話ですね。

そこで、この講座の『片付ける』は、置かれている物や散乱している物を収納したり、捨てたりすることの他に、物事を処理・解決する。

つまり決着をつけるというのがあります。

この講座が団塊の世代向けだというのは、何十年という生活で溜まったモノに決着をつけないと片付かないからです。

決着をつけるためには、今、自分に何が必要か、これからどういう生活をしたいかを考えないと前には進めません」

「確かに、いいこと言うわねぇ、この先生。

片付けないといけない人間関係もあるしなぁ」

彰美の遠慮のない声にまわりでクスクス笑いが起こり、麻子が恐縮した。

「ちょっと、彰美、もう少し静かにしないと…」

「人の口に戸は立てられない」

それは違うでしょうとつぶやきながら、麻子はクククと笑った。

 杉田の話は続いている。

「もったいないというのが一番の大敵です。

もったいないと何十年もしまいこまれた食器や日用品が押入れに眠っていませんか。

婚礼の引き出物や祝い返しの毛布や花瓶が、のし紙のついたままではありませんか」

杉田は、手元のメモを見て続けた。

「わたしの場合は、娘が二人おりまして、嫁に行く時に持たせてやろうという親心で、それこそ、納戸いっぱいに貰いものを詰め込んでありました。

そして、いざ、娘が結婚という時になると、二人とも、こんなダサいものイラナイと、インターネットで好みの食器や日用品を夫のカードで注文し、さっさと出て行きました。

当座は、頭にきましたが、時間がたつと娘たちの言うことはもっともだと思いました。

だって、気にいったモノならわたしが使っていたはずですから。

それがきっかけで、不要なモノをなんとかしたいとこの講座に参加しました。

使わないモノを全部、町内のバザーに出してスッキリしたら、なんであんなにモノを抱え込んでいたのだろうと不思議に思いました。

皆さんに考えていただきたいのは『使う』と『使える』の違いです。

使えるけれど使わないのであれば、意味がありません。

例えば、花瓶は花を活けるためにつくられた。

それなのに、箱にしまったままでは、花瓶の生まれた使命は果たせないのです。

現代は環境やリサイクルが問題になっていますが、こういうしまいこまれたモノも使いたいという人のところへ回れば、使命が果たせるのではないでしょうか」

先生、質問があるのですが、と彰美が手を挙げた。

「花瓶に使命があるのなら、人間にも使命があるのでしょうか」

え、そんな難しいことを訊かれても…そんなことは習ってないので…わ、わかりませんと声を震わせ、杉田は両手で顔を覆って部屋を飛び出した。

あーあ、またやったと、麻子は頭を抱えた。

彰美はなんで? という顔をしている。

 アシスタントだと思っていた久留米和子が代わりに前に立った。

「申し訳ありません。

杉田先生は講師になられて今日が初めての講義で、予想外の質問にお答えできず取り乱してしまいました。

この後はわたくしが続けさせていただきますがよろしいでしょうか」

ほとんどが肯き、あえて反対する者はなかった。

どうやら、久留米は杉田のサポートをするために来ていたらしい。

「杉田先生は花瓶を活かすという意味で、使命という言葉を使われました。

しかし、人間の使命となると、わたくしも宗教学者にお尋ねしたいくらいです。

彰美さんはどうお考えですか」

えっ、わたし? と彰美は自分を指差した。

「わたしは花瓶に使命があるのなら、人間にも使命があるのかなあと、ふと思っただけで、深い意味はありません。

杉田先生をいじめるつもりはなかったのですが、すいません」

彰美はぺこりと頭を下げた。

「ある方が、『自分は何のために生れて来たのかを考えるために生きている』とおっしゃってましたが、これはおひとりおひとりに考えていただく問題のようですね」

 一番前に座っている土井好美が、後ろを振り向き、彰美の顔をじろりと見て、前に向き直り、発言した。

「そんなことを考える『変わり者』は少ないと思います。

それより、片付けの講義を続けてください」

変わり者だって、と彰美は肩をすくめ、麻子は、なかなか鋭いと思った。

「それでは、軌道修正しまして、講座を続けます。

『もったいない』の続きからですが、これはモノを取っておく魔法の呪文のようなものです。

それでは、食べ物はどうでしょう。

好美さん、冷蔵庫の隅でキュウリが腐っていればどうしますか」

当然のように、捨てますと好美は答え、久留米はうなずいた。

「では次に、冷蔵庫が壊れたら、恵さんはどうしますか、そのまま置いておきますか」

「買い替えますよ。

もうすぐ夏になるから冷蔵庫なしでは暮らせません」

これはみんなが納得する答えだ。

「ありがとうございます。このように捨てる時期がはっきりわかるものはいいのですが、そうでないものが溜まっていきます。

これを人生の垢とか余分な脂肪と例える方もあります」

 ちょっと、待って下さいと、また好美が口をはさんだ。

「垢とか脂肪というのは言い過ぎではないでしょうか。

それに、わたしは『捨てる』ということに抵抗があるし、『もったいない』と思うことが美徳として育てられたのです」

久留米は杉田と違って冷静だ。

「はい、捨てるという言葉に抵抗のある方もおられるようですが、その方は、処分する、手放す、別れを告げる、バイバイするなど、お好きな言葉を使ってください。

これは感情の問題です。

ただ、客観的にみると、どれも同じ作業なのです。

違いますか、好美さん」

有無を言わせぬ口調に、不承不承、わかりましたと好美は答えた。

 講義は進み、久留米はパワーポイントで写真を使って、具体的な片づけ方の手順を示した。
「最後に、これからどういう生き方をしたいか、そこが明確にならなければ、要不要の選択も、決断もできません。

それから『いつか』というのは、いつまでたっても『いつか』で、永遠にいつかです。

ただし、ここで、決断しなさいというのではなく、この講座はあくまで考える機会を提供しただけで、あとは皆さん次第です。

半年かかる方もあれば、一年かかる方もあるかもしれません。

なぜなら、人間には欲があるので、長年に亘って溜め込んだモノをそう簡単には手放せないからです。

この執着を引っぺがすのに時間がかかります。

つまり、モノの整理は頭の整理です。

そして、断言しますが、モノがすっきり片付いた時には、皆さんの人生にも新しい道が開けるでしょう」

 誰かが、占い師みたいとつぶやき、まばらな拍手と共に講座が終わった。

 駅への道で彰美と麻子は吸い込まれるように喫茶店に入り、ケーキセットを注文して、隅の席に腰を下ろした。

「あの、オバサン、帰りもわたしのことをにらんでたわ」

彰美がいうオバサンとは、彰美を「変わり者」と呼んだ土井好美のことである。

麻子には同年代に見えるが、彰美にとってはオバサンなのだ。

彰美はどうやら、見た目ではなく、その人の考え方でオバサンかそうでないかを決めているらしい。

「彰美が、人間には使命があるか、なんて変なことを訊くからよ」

「だって、ホントにそう思ったんだもの」

「それよりわたしは、古い洋服や、変な鍋や、おまけにもらったものを捨てようと思った」

「変な鍋ってどんな鍋?」

「ジンギスカン。

姪が北海道で式を挙げた時にもらったの。

重いのなんのって、これが金塊だったらと思ったけど…このあたりに羊はうろうろしてないから、一度も使ってないわ」

「ゴミを持って帰ったわけね。

よくあることだ。

それで、おまけは?」

「化粧品についてきたポーチとかスカーフとか、何かを買うとついてきたモノ」

「うちの引き出しにも詰まってる」

二人のなんとかしないといけない、という思いは、お待たせしましたという声と共に現れたチーズケーキにかき消された。

「前にね、宅急便の荷物を受け取ってる間に、サンタがドアから出て行ったことがあったの。

わたしは気がつかなかったんだけど、その宅急便の人と一緒にエレベーターに乗ってお出かけしちゃったのよ」

二ヶ月後、二人はいつもの店で待ち合わせた。

 ごめん、遅くなって、と息を切らせて彰美が現れた。

「紫陽花弁当を注文しといたから、それでいいよね」

いいよと、彰美もバッグを置いて定位置についた。

「なんだか、うれしそうねぇ。

次の仕事が決まったの?」

まあねと、彰美がにやりとした途端に、麻子の背中に悪寒が走った。

いやな予感がする。

「麻子、決めたわ」

「えっ、今、紫陽花弁当を注文したばかりじゃない」

「違うわよ。これからの仕事よ」

 はぁと生返事をした麻子にとって彰美の頭の中はブラックボックスだ。

もしかしたら、本人にとってもそうかもしれない。

「動物探偵をする」

もう一度言ってと、麻子はまじまじと彰美の顔を見た。

「だから、どうぶつたんてい」彰美はゆっくり繰り返した。

それはナニ? 

なぜ、そうなるの?
 
彰美はトントンと指の腹でテーブルを叩いて、顔を上げた。

「ほら、この前一緒に受けた『老前整理』の講座で、自分に大切なモノは何かを考えたでしょう。

そこでわたしはサンタだと思った」

確かに、大切なモノの項に猫の顔が描いてあった。

「それに、あのオバサンに睨まれた『人間の使命』の話」

なんと、彰美がまじめにそんなことを考えていたとは、お釈迦様でもご存じねぇーと、見得を切りたいところだ。

猫が逃げたのをお出かけというか?

「気がついて二時間ほど近所を必死で探しまわったら、マンションの裏の公園の茂みでメス猫といちゃついてたのよ。あいつ」

麻子の呆れた顔に、彰美はどんと拳でテーブルを叩いた。

「わたしは猫取りに取られて、三味線にされてるんじゃないかと気が気じゃなかったんだから」

確かに子供の頃にそんな話を聞いた記憶があるが、今どき「猫捨て」はあっても「猫取り」はないだろう。

だが、そんな事をいえば彰美はムキになって反論するに決まっている。

「大変だったわね」

「その時にね、自分の愛する動物が行方不明になった人の気持ちがよぉく、わかったの」

口ではなるほどねと言いながら、麻子は、この話はどこへ行くのだろう。

彰美の頭にカーナビならぬ、脳ナビをつけたら行き先が分かるのにと、ぼんやり考えていた。

「これって、サンタクロースのお告げだと思わない?」

猫のサンタクロース? サンタクロースの猫? ああ、ややこしい。

本物のサンタクロースは子供たちにプレゼントを配るのであって「お告げ」はしないだろう。

こういう発想をする人間に、ものの道理を説いてなんになる? 

熱を帯びた彰美の話はまだ続く。

「ほら、逃げてった杉田先生の、モノを整理するのに『使う』と『使える』は違うという話があったでしょう。

人間も同じだと思ったの。

わたしはまだ働ける。
「この前、ハローワークに行ったけど、若い子がうじゃうじゃいてね。

あの子たちに仕事がないのに、わたしに仕事がある訳ないでしょう」

そりゃあ、もっともだ。

今は能力よりもなによりも、まず年齢でシャットアウト。

だからわたしはヘルパーをしているのだ。

と、麻子は声を大にして言いたかった。

「隠居するには早いし、折角お金を払って講座に参加したのだから、部屋の片付けをしようと思ったの。

サイズの合わない洋服や、二度と履かないハイヒールを捨てたらすっきりしてね。

ゴミ袋を山ほど積み上げた。

そして、ゴミの日に一度に出すと、管理人がうるさいから、少しずつ出してようやく片付いたら、ひと部屋空になった。

すごいでしょ。

一部屋分ゴミだったなんて」

自慢することではないだろうと思いつつ、麻子はうなずいた。

「それでね、窓をぱーっと開けて、大の字になって寝たら気持ちがよくて、うとうとしたの。

すると、すると、すごい夢を見たのよ。

夢の中で、なんと、サンタクロースの格好をしたサンタが携帯電話で『こちら動物探偵事務所です』って応えてるのよ」

今年の猛暑は脳に影響するのかもしれないと思っている麻子に、彰美は自信たっぷりに訊いた。

つまり使える。

だけど、雇ってくれる会社がないから、使われない。

だから、自分で自分を使うことにしたの。

わかった?」

「それで、動物探偵か、仕事になるの?」

なるようにするのがわたしの腕よ、と彰美は右腕で力瘤を作る真似をした。

お金も無いのにという麻子のつぶやきに彰美は真顔で答えた。

「ゴミを処分して空いた部屋を『A&A動物探偵事務所』にするの。

資本はこのたくましい、か、ら、だ、よ」

彰美はブラウスの上から薄い胸を叩いた。

今日はいつもより気合が入っているからパフォーマンスが多いのねと感心しつつ、麻子はフーンと、気のない返事をした。

「そこで、麻子を副所長に任命します」

「は? わ、わたしを」

はい、そうです。

だから彰美と麻子でA&Aでしょと、彰美はすましている。

「わたしのお給料は?」

「もちろん、行方不明のプードルやダックスフンドを探して、たっぷり稼いでもらいます」

「い、や、だ」

あ、お弁当が来た、この話は食べてからねと彰美はウインクした。
 

三ヶ月後。

夜明け前の神社に怪しい人影。

落ち葉をかきわけながら、黒装束の女は虫取り網と懐中電灯を右手に握り、「ヘラクレス」と呼ばれているカブトムシの写真を左手に、御神木の周りをうろついている。

 近所の人の通報を受け、現場で職務質問をした警官にこの女は、西園寺麻子と名乗った。

30章 玄関の柴犬

暑中お見舞い申し上げます。

くら子様、お変わりありませんでしょうか。

「わくわく片づけ講座」を受講してはや三月。

ようやく、モノが減ったと実感できるようになりました。

このように自宅はある程度片付いたので、次は義父のところがなんとかならないかと思いました。

義母が五年前に逝き、一人暮らしの義父は幸いなことに元気で、合唱団や将棋クラブに通っています。

花を育てるのも好きで、通販で種や球根を取り寄せて植えています。

先日、行ってみると、玄関に柴犬がいます。

といっても、置物ですが、センサーで、近寄ると吠えるのです。

義父に言わせると、春ごろに洗面所の窓のガラスを割られたことがあったそうです。

幸い、泥棒が侵入した形跡はなかったようですが、そこで、柴犬を置くことにしたそうです。

確かに、生きている犬を飼うのは散歩も必要ですし、八十を越えた義父にとっては置物のほうが良いと思います。

 ここまでは良かったのですが、家に入ると、オウムや猫や動物の置物があちこちにあります。

廊下には亀の親子までいました。

センサーで鳴くのもあれば、話しかけると応えるものもあります。

(亀の親子は鳴かずに、のそのそ動きます)

ショックでした。

義父はこんなに寂しかったのだと思いました。

 事情を聞いてみると、種や球根の通販のカタログに動物の置物も載っていて、かわいいのでついつい買ってしまったそうです。

捨てろともいえず、また、一緒に暮らそうとも言い出せず、出された麦茶がやけに苦く感じました。

くら子さんが講座の中で、自分の家を片付けるより、親の家を片付ける方が大変だとおっしゃっていた意味がやっとわかりました。

また、無理に片付けるなとおっしゃっていましたので、そのままにしています。

しかし、このままでいいのかという思いがついてまわります。

そこで、お手紙を書くことにしました。

アドバイスをいただければ幸いです。

付け加えると、義母の荷物もまだ片付いていません。

よろしくお願いします。

七月二十日                         
大南君江



大南君江さま

 お葉書ありがとうございました。

猛暑の続く今日この頃、お元気でお過ごしとのこと、何よりです。

講座を受講いただいて、もう三カ月が過ぎたのですね。

ご自宅が片付いたのは良かったですが、お義父様のことでお悩みとのこと、お察し申し上げます。

 アドバイスを、ということでしたが、このような場合、これという決め手はありません。

ご本人のお考えもありますし、時期にもよります。

また、思い出を大切にされている場合もあります。

難しいこととは思いますが、ゆっくり時間をかけてお話をされ、少しずつ片付けを手伝われるのがよいかと思います。

できれば、思い入れの少ないものから始められるのが無難かと思います。

これも、人により様々ですので、一概に言えません。

ただ、片付けましょうとおっしゃるのではなく、そのモノがどうして大切なのか、捨てられないのかを聞かれることだと思います。

そうすれば、たぶん、若い時代の話や思い出を話されると思います。

同じことを何度も繰り返される場合もあるでしょう。

しかし、その話はもう聞きましたとおっしゃらずに、聞いてあげて下さい。

できれば、ご主人もご一緒に。

 急がず、それこそ亀のように少しずつとしか申し上げられません。

お役に立つアドバイスにならず、申し訳ありません。

それでは、暑さの折、お身体ご自愛くださいませ。

松竹梅くら子






1年で終わるつもりが、とうとう30章まできてしまいました。

区切りも良いし、これで、小説「老前整理 わくわく片付け講座」の幕を引かせていただきます。

ありがとうございました。

29章 三十七回の引っ越し

 パソコンでメールの画面を見ていたまろみが、くら子さん、これ見てくださいと手招きをした。

テーブルで講座修了者の一人に手紙を書いていたくら子は、まろみのパソコンを覗き込んだ。

「なになに? 

講座のお問い合わせかな」

 メールには、この十年間で三十七回も引っ越しを繰り返している弟のことが心配だという、妹からの相談メールだった。

 といっても、弟は五八歳、姉は六二歳である。

メールによると、売れない小説家の弟は、書くことに没頭するために、洗濯や掃除、片付けなどの家事を放棄している。

大学を卒業し、エンジニアとして働いていた頃は妻や子もいたが、愛想を尽かして十五年も前に出て行ったきり、音信不通。

引っ越しを繰り返すのは、ゴミを溜めて、どうしようもなくなると次のアパートに移るからである。

北斎みたいな人ねえと、くら子は思わずつぶやいた。

「え? 奥さん?」

わたしの滑舌が悪いから、通じないのかしらねえと、くら子は、あ、え、う、と、口を大きく開けた。

 ほんと、くら子さんは単純なんだから、とまろみは腕組して見ていた。

「ところで、ホクさんって誰ですか」

くら子は背伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。

「浮世絵師の葛飾北斎、いわゆる奇人で、名前を変えることおよそ三十回、引越しは九十回以上だって。

作品はあまたあれど、有名なのは『冨嶽三十六景』とか…」

「赤い富士さんとか、波がどどーっていうやつですね」

くら子はうなずいた。

「北斎はそんなに引っ越ししてたんですか」

「らしいわね」

「それなら、この小説家志望の人も北斎みたいになれるかも?」

「さあどうでしょ。

それにこれはゴミ屋敷とは違って、確信犯だから」

「確信犯?」

「ゴミ屋敷の人は、あれもこれも抱え込むけど、本人はゴミだと思っていない…たぶん。

だけど、この人はゴミを捨てるのが面倒なだけでしょう。

それで、溜まったら次のところへ引っ越すだけ」

 まろみは再びパソコンに向かい、ふむふむとメールの続きを読んだ。

「メールによると、このお姉さんは、花屋とフラワーアレンジの教室を経営しておられるようで、忙しいから、弟さんのところには月に一回くらいしか行けないそうです」

「ゴミを片付けたいのなら、不用品処理の業者に頼めばいいけど、弟さんの性格や行動を変えるのは無理ね。

本人にその気がなければ、変わらないでしょう。

だから、わたしたちにできることはなさそう」

「それならそうと、くら子さんが返信して下さいよ。

わたしはうまく書けませんから」

わかりましたと、くら子はパソコンに向かった。

 返信をして、ほっとしたくら子に、まろみが訊いた。

「どうしてそんなに、引っ越しができるのでしょうね。

だって、家を借りるにも、家賃以外にいろいろものいりでしょう。

そんな費用を考えたら、お掃除してくれる人とかを雇った方が安上がりのような気がしますけど」

確かにと、くら子も考え込んだ。

一週間後、事務所に来客があった。

メールで、ゴミを放置して引っ越しを繰り返している弟の相談をしてきた山本マリンだった。

「メールでお返事をいただいて、わかってはいるのですけど、それでも、何とかならないかと思いまして、藁にもすがる思いでうかがいました」

 くら子はマリンに椅子をすすめた。

薄いオレンジ色の麻のスーツを着たマリンはとても還暦を過ぎたようには見えなかった。

「両親が早くに亡くなったもので、わたしが親代わりのようなもので、面倒を見てきたのですが…」

「しかし、どうしてゴミを捨てないのですか」

「それが、どうやら、分別が面倒なようです」

「はあ、確かに面倒だとは思いますが…それが本当の理由なのでしょうか」

くら子はマリンの様子をうかがった。

「松竹梅さん、いえ、くら子さんに嘘はつけませんね」

そこへ、まろみが冷たい煎茶を運んできた。

どうぞと勧めると、マリンはいただきますと一息に飲み干し、ああ、おいしかったとグラスを置いた。

まろみもくら子の隣に座ってマリンの話を待っていた。

笑わないでくださいねと前置きして、マリンは姿勢をただした。

「実は、天狗のお告げだそうです」

くら子はぷっと吹き出し、まろみは口をあんぐり開けていた。

すいませんと、あわてて笑いをかみ殺したくら子は、次の言葉を待った。

だから言いたくなかったのに、マリンは下を向いて、空のグラスを握りしめた。

「弟さんはどこで天狗に会われたのですか」

くら子のまじめな問いに、マリンはグラスを置いてにっこりして答えた。

「高野山です」

「いつ頃のことですか」

「ある文芸誌の新人賞に応募して、最終選考で落ちた時に、落ち込んで、一人で山に行った時です」

なるほどと、くら子は頷いた。

「それで、どんなお告げだったのですか」

マリンは躊躇なく話し始めた。

「弟は自信満々だった最終選考に落ちて、自分には才能がない、小説家になるために会社も辞めたのにと、自暴自棄の状態でした。

山中をさまよっているうちに、道に迷い、夜になったそうです。

死に場所を探すようなつもりだったのかもしれませんが、そこで、疲れ果てて、岩陰でうとうとしていました。

そこで、はっと気がつくと、目の前に背丈が二メートルもあるような天狗が現われたそうです。

怖くてものも言えず、震えていると天狗が大声であっはっはと笑ったのだそうです。

どうして、笑われるのかわからないし、相変わらず体の震えが止まらない。

そんな弟の様子を見て天狗は、たかが、一回、賞を取れないくらいで、おたおたするなと言ったそうです」

くら子とまろみは、いつの間にかマリンの話に引き込まれていた。

「しかし、わたしは、会社も辞めてしまったし…」

弟がぐずぐず泣き言を言うと、それが、どうしたと、天狗は面白がっている。

「わたしは人間の屑です。まるでゴミみたいなもんです」

「ほう、お前はゴミか」と、天狗は顎に手をやって考え込んだ。

「それなら、ここで野垂れ死んで、土に還れ。

そうすれば、世の中のゴミにもならず、山の獣も餌ができて喜ぶだろう」

「そ、そんな…」

ふふふと天狗は笑った。

「お前はゴミをバカにしたが、ゴミは元からゴミではないのだ。

それにゴミを作るのは人間だけだ。

お前の望みをかなえたければ、ゴミを捨てるな。

よいな」

言い終わるや、白い霧が立って天狗は消えてしまった。

「こういうわけで、弟はゴミを捨てられないのです。

かといって、生きている以上ゴミは溜まる。

だから、次々に引っ越して…」

くら子は、はぁーと気の抜けた返事をした。

「それで、くら子さんはどうすれば良いと思われますか」

マリンは、天狗と、ゴミを捨てなければ願いがかなうという弟の話を信じている。

しかし、それは弟の妄想の世界ではないだろうか。

いやいや、そんな事を云えば、マリンは逆上するだろう。

ここは穏便にいくしかないようだ。

「どうすれば、ゴミを捨てても良くなるのですか」と、くら子が訊いた。

「そりゃあ、弟が小説で賞を取って、一人前の小説家になったら…」

その可能性は、まろみがノーベル賞を取るくらいではないかとくら子は思った。

「弟さんがゴミを捨てるのはダメで、他の人なら良いのですか」

はい、とマリンは笑顔で答えた。

おかしな話だが、本人は真剣なのだから仕方がない。

「それではビジネスホテルで長期滞在をされたらいかがですか。

掃除もしてくれますし、ゴミも捨ててくれます。

ほら、流行作家でホテルに缶詰めとかいう話もあるようですし、食事もルームサービスで、創作に専念するとか…」

まあ、その手がありましたかと、マリンは明るい顔で、こちらにご相談した甲斐がありましたわ、弟が賞を取ったら必ずお知らせしますと足取りも軽く、帰って行った。

 ほんとに天狗なんているんですかねえと、グラスを片付けながらまろみは考え込んでいる。

もしかしたら、あの人が天狗だったりして…。

 そうかもしれないと言いながら、くら子はゴミを出すのは人間だけだという天狗の言葉を考えていた。

猿も犬も猫も、バーゲンで違う柄の毛皮を買ったりしない。

電気製品も使わない。

そのうち、人間はゴミに埋もれてしまうかも…。

「こわい話ねえ」

くら子のつぶやきに、まろみは天狗くらいへっちゃらですと答えていた。

29章 終了

28章 インド・サリー・カレー

事件(27章)からようやく、いつもの日常にもどり、くら子とまろみは、平凡な毎日のありがたみを痛感した。

そして、K社の知名度だけは上がった。

ホームページのアクセス数もひと二ケタ違うほどの数になり、その分、問い合わせや、迷惑メールも増えた。

明日の「わくわく片付け講座」も事件後、初めての開催である。

こわごわ講座の募集をすると、定員は一日で埋まった。

二人は良くも悪くも、マスコミの力を思い知らされた。

「キャンセル待ちが出るなんて、初めてですねぇ」

感激して、まろみの頬は紅潮している。

「あと二、三カ月のことよ」

「人のうわさも七五日っていうやつですか」

「よく知ってるじゃない」

バカにしないでくださいと言いながら、鼻歌交じりでまろみは講座の資料を確認した。

 翌日、会場の準備をしながら、まろみは窓から青い空を見上げた。

「どうしたの、まろみちゃん?」

「いえ、こうしてまた講座ができてうれしいなと思って」

「あら、まあ、まろみちゃんでもそんなことを考えるのね」

それはないと思いますと言いながら、まろみは受付に座った。

受付のまろみが、講座で配る資料を並べていると、あの、と声をかけられた。

顔を上げると、三つ編みの髪を背中に垂らし、玉虫色に光るサリーをまとった女性がいた。

といっても、顔つきは日本人である。

だからといって、必ずしも日本語が通じるとは限らない。

この施設で、インド舞踊の講座はあったかしら? 今のは、あの? それともハロー? と迷いつつ、まろみは、なんでしょうと答えた。

「受付は一時半からと書いてありましたが、迷ってはいけないと思って早めに出たら、早過ぎまして、まだ十分早いのですが…」

日本語でほっとしたのと同時に、まろみはあわてて、立ち上がり、失礼しました。

「わくわく片づけ講座」にお越しですか? と訊いた。

「はい、そうです。正宗初実です」

まろみは名簿の一番上の名前を確認した。

「もう、準備はできていますので、どうぞ」と部屋に案内した。

 受付に戻ったまろみは、初実の受講申込書を見た。

受講の動機は、インドに行って色々考えて、シンプルな暮らしをしたいと思うようになりました、と書いてある。

 二時になり、くら子のあいさつと共に「わくわく片付け講座」が始まった。

 参加者の自己紹介になるのをまろみは待ちかねていた。

サリーを着た玉虫色の女性に興味があったからである。

 初実は自分の番になると立ち上がった。

すらりとした立ち姿が凛として美しく、まろみはステキとつぶやいた。

「正宗初実です。

あたくしがこの講座の参加したのは、モノを一掃したいと思ったからです。

実は、夫は、某外食チェーンの会長です」

えっ、どこのお店? という声がひそひそと交わされ、「サリーを着た変わり者」を見る目から、羨望へとまなざしは変化した。

「あたくしはこの二十年余り、常に『会長の奥さん』と呼ばれてきました。

それが、我慢できなくなったのです。

元々、わたしたちは貧乏でした。

結婚二年目に夫の父親の経営する工場がつぶれ、二人でリヤカーに生まれたばかりの赤ん坊と、野菜や干物を載せて行商から始めたのです」

そういえば、週刊誌でそんな話を読んだことがあるとささやく者がいた。

「行商から、店を持ち、それがこぎれいなレストランになり、全国にチェーン店を持つまでになりました。

しかし、あたくしと夫の距離はそれに比例して離れて行きました。

子供も独立して、あたくしにはすることがなくなったので、死ぬまでに行きたいと思っていたインドに行きました。

ガンジス河で沐浴し、アシュラムと呼ばれる道場で一日座って瞑想をしました」

「そこで、気付いたのです。

このサリーを着ていますと、とても心地よいことに。

それに一枚の布ですから畳んでも場所をとりませんし、寒ければ上にカーディガンやオーバーを羽織るだけで一年中着られる。

スカートの丈や流行に惑わされる事も無い。

体型が変わっても大丈夫。

そして、食事も毎日カレーでしたが、これが、おくらのカレーや、豆のカレーなどヴァリエーションが豊富で飽きません。

野菜中心で健康的な上、便秘も解消しました」

 この「便秘も解消」というキーワードを秘かにインプットした者は多かった。

「それに、今夜のおかずはとあれこれ悩まなくても、カレーに旬の野菜を入れれば良いのです。

つまり、サリーとカレーであたくしの人生は一変しました」

だんだん熱を帯びてきた初実に、参加者はあっけにとられた。

「日本に帰って、サリーを着たあたくしの姿を見た夫は、脳みそが暑さにやられたのか、そんなかっこうで外に出るなと言いました。

そして、カレーを作ると、病人じゃあるまいし、こんなどろどろしたものが食べられるかと、皿をひっくり返しました。

夫には愛人が二人います。

一人は元秘書で、もう一人はクラブのママです」

 あらら、あっけにとられてまろみはつぶやいた。

くら子は成り行きを黙って見ていた。

「そんな夫との距離はますます開きました。

インドで瞑想してわかったのです。

宝石をじゃらじゃらつけて着飾ったあたくしをほめてくださるのは、夫の機嫌を取るためのおためごかしだったということが。

そんなこともわからず、喜んでいた自分が馬鹿みたいです。

そこで、自立して一人で暮らしたいと思うようになりました。

夫は二人の彼女に面倒を見てもらえば良いのです。

インドでの発見を無駄にしたくないと思いついたのが、やはりサリーとカレーです。

店を借りて、半分はカレーを食べてもらうレストラン、あとの半分でサリーを売ります。

店の者は全員サリーを着て、もちろん、着つけの教室もします。

お好みのサリーを着て写真が撮れるコーナーも作りたい。

夢はどんどんふくらみます。

そこで、資金が必要ですが、夫の会社の株を少々持っていますので、それをもとに、あとは、腕時計や宝石を売ろうと思っています。

洋服はリサイクルショップに出します。

そのために、三つのクローゼットを整理する方法を学ぶためにこの講座に参りました」

 腰をおろしかけた初実は、そうそう、とまた立ち上がった。

「お店をオープンするのに、働いて下さる方を募集しています。

若い子はハンバーガー屋さんで『いらっしゃいませ〜』と誰彼なしに云ってればよいのです。

あたくしたち熟女は人生経験がありますから、きちんと、おひとりおひとりに接して応対できるのが強みですから」

ようやく終わったかと思ったら、まだ続きがあった。

「もちろん、素敵なサリーを着てお仕事をしていただきます」

あの、初実さんに質問していいですか、と高山孝子がくら子に訊いた。

予想外に自己紹介が長く、講義が始められないが、ここまできたら下手に遮るより、流れに任せようとくら子はうなずいた。

「お店のオープンはいつ頃ですか」

「改装や準備がありますので、オープンは三ヶ月後です」

「わたしもサリーを着てみたいのですが、まだ手に入らないのでしょうか」

「あたくしの家にお越しいただけたら、ご用意できますよ。

それに、カレーも召し上がっていただきましょう」

 講座が始まっても、受講者はくら子の話に身が入らなかった。

理由は、皆、初実が孝子に提案した「サリー体験とカレーの試食、プラス、豪邸訪問」に気もそぞろだった。

熱心なのは初実だけだった。

くら子は、洋服などの要不要を決める時に、家族、友人ではなく、信頼のおける第三者にサポートしてもらうと、決断しやすいと話した。

なぜなら、第三者がいることによって、一歩下がって、他人の目を通して自分の持ち物を見られるからである。

例えば、十年も前に買ったコートがあるとする。

夫にそんな古いもの捨てればいいのにと言われると、高かったし、もったいないと答えてしまう。

娘に、お母さん、そのコート、もうボタンが止まらないでしょうと言われると、うるさいわねえ、これから痩せるのよと答えてしまう。

しかし、あかの他人に、これからそのコートを着る機会はありますかと尋ねられると、そうですね、ないですねと落ち着いて答えが出せる。

この話をすると、初実が手を挙げた。

「あの、その第三者を、先生がうちに来てしてもらえませんか。

もちろん、お仕事として。

そうすれば、ひとりでイジイジ片付けるより、すっぱり決断できて、お店のことに早く取りかかれます」

 くら子は少し考えて、わかりましたと答えた。

高山孝子がおずおずと言った。

「厚かましいのですが、その時に、わたしも参加させていただくのはダメでしょうか。

お邪魔はしませんので…見学ということで」

初実は、躊躇なく、いいですよと答えた。

あの、わたしも、わたしもの声が続き、とうとう全員が参加することになった。

 地図を手に、くら子とまろみは豪邸の並ぶ住宅街を正宗邸に向かった。

インターホンで名前を告げると、ギーッと大きな鉄の門が開いた。

 中年の女性にリビングに通されると、講座に参加した全員が来ていた。

三十畳はあるかと思われる部屋のあちこちにソファーが置いてあり、四、五人がグループになって座り、チャイを飲んでいた。

 こんにちはという声がこだまし、皆、盛り上がっているようだ。

まろみがバッグを置こうとして、サイドテーブルの上のガラスのランプに肘が当たった。

ランプの傘が揺れたので、くら子が慌てて傘を押さえた。

「大丈夫ですよ、少し当たっただけだから」

「これが割れたら、まろみちゃんは初実さんのお店で二、三年ただ働きしなくちゃならないわよ」

うそ、とまろみは目を丸くした。

「これはラリックだと思うから」

「ラリってるんですか?」

紺の更紗のサリー姿で初実が戸口に現れたので、くら子は、この話はまた後でと立ち上がった。

 案内された二階の和室も宴会ができそうな広さだったが、そこには色とりどりのドレスや、きものが部屋いっぱいに広げられていた。

くら子とまろみの後に続いた者たちから、キャーッとか、わァーッとか、すごいと息をのむ者もいた。

「これ全部初実さんの衣装ですか」

思わず、まろみが訊いた。

「そうなのよ、ほとんど一度しか手を通していないの。

デパートを儲けさせただけだったわ」

くら子はざっと見て回った。

「まず、こちらのパーティー用のドレスから見て行きましょうか。

それと、不要なモノを入れる箱がいりますね」

それなら、ここに用意してあるの、と初実が押入れを開けると畳んだ段ボールの箱が積まれていた。

 まろみが段ボールを組み立てている間に、くら子は訊いた。

「娘さんか、お嫁さんに譲られるということは?」

「娘はいないし、嫁はあたくしより十センチは背が高くて、ウエストも十センチ大きいの、たぶん。

それに仲がいいとは言えない姑のものなど欲しくもないでしょう。

嫁はあたくしのことを趣味が悪いと思っているのよ」

肩をすくめて苦笑する初実に、くら子は頷き、孔雀色の大胆なデザインに、裾まわりは銀のスパンコールがちりばめられたドレスの前に立った。

「今後、このドレスをお召しになる予定は?」

「全然、ないの。

もう、退屈なパーティには行かない、だから、このあたりのドレスは全部いりません。

どなたか、欲しい方があれば差し上げますけど」

ギャラリーのように、初実とくら子を取り巻いている中から「はい」と手が挙がった。

隣の女が、あなたには入らないわよと、ドレスと本人を見比べた。

「わたしじゃないですよ。

娘が近々結婚するのでお色直しにどうかと思って…」

「身長は?」

先ほどの勢いはしぼみ、手を挙げた女は無理ですねえとうなだれた。

最近のコはみんな栄養がいいから、背が高いのよねえと誰かがつぶやいた。

段ボールの箱に次々とドレスが詰め込まれていく。

とりあえず、まとめておきましょうと、くら子は次に移った。

こちらは、シャネルスーツにツイードのスーツ、卵色のシルクの光沢のある柔らかいスーツなどだった。

「こんなに肩パッドの入ったものを着てたのねぇ。

それに、スカートの丈で時代がわかるわ」

初実のつぶやきに、そういえば、首相夫人がミニスカートをはいて話題になった事があったわねぇとか、景気とスカートの丈が比例すると言ってた時代もあったと、ギャラリーは好き勝手なことを話し合っている。

スーツも箱におさまった。

次はブラウスとスカート、パンツと進んだ。

ブランド物のスカーフと、ストールは大騒動になった。

皆が、飛びついたのだ。

結局、希望者の多いものはじゃんけんになった。

白いカシミアのストールには八万円の値札がついたままだった。

「初実さん、このストール、まだ値札がついていますけど、いいのですか」

一人が、糸でぶら下がっているデパートの値札を見つけた。

初実はちらと眼をやり、それはだめよ、やめといたほうがいいと、ストールを手に取って広げた。

「ほら、虫に食われた穴があいているでしょう。

買ったままで忘れていたら、こんな穴があいていた」

まろみは、頭の中で八万円のストール、ストールが八万円、穴があいても八万円…と繰り返し、ため息をついた。

くら子はたとう紙の上に広げられた和服を確認していた。

「きものもよろしいのですか。

喪服もありますが」

「ええ、もちろん。

いくらなんでもサリーで葬儀に行くのは無理だけど、舅、姑も見送りましたし、夫を見送る時には洋装にします」

 さらっと、夫を見送ると言った初実の言葉に、女たちは、初実さんはそこまで考え、覚悟の上で衣類を処分しておられるのだと、わが身を振り返った。
 
バッグの山の処へ行くと、栗原敦美が訊いた。

「これ、新品じゃないですか」

布袋の中には黒いケリーバッグがあった。

「夫が海外に出張した時のおみやげよ。

たぶん、元秘書の彼女に頼まれて、ついでにわたしの分も買ったのだと思うわ。

つまり、良心の呵責の塊ね。

だから、わざと使わなかったのよ」

「これ質屋さんに持って行くと、いい値段で売れますよ」

敦美の隣の女が、こらこらとたしなめたが、初実は微笑んだ。

「質屋さん? なつかしいわねえ。

昔はよく行ったのよ」

えっと、驚いた女たちは初実を見つめた。

「貧乏してた頃だけど、米櫃が空になって、お金もないし、育ち盛りの子供に食べさせなきゃならないから、母が嫁入りの時に持たせてくれた着物を質屋に持って行ったのよ。

子供たちには、第七銀行に行くって言ってたのよ。

あの頃は貧乏だったけど、楽しかった」

 壁際にずらりと並んだ段ボール箱を見て、くら子は初実に訊いた。

「本当は、ご自身で、全部処分すると決めておられたのではないですか」

初実は、そうねえ、でも、誰かに背中を押して欲しかったのよと、とにっこりした。

「そこで、くら子さんに相談なのだけれど、これをどう処分するかなの」

なぞなぞを出す子どものような初実の問いに、くら子は初実をじっと見た。

「それも、決めておられるのでは?」

「ふふふ、ばれたか。

実は、オークションを開きたいと思っているの、少しでも収益が上がれば、インドのストリートチルドレンのための基金に寄付しようと思って」

少し離れたところで、耳をダンボにして聞いていたまろみが寄ってきて、ダイアナ妃みたいですねえと言った途端に、周囲がしんとなった。

空気が変わったのを感じたまろみが、そわそわと周りを見回し、なんか、変なこと言いました? と、くら子に救いを求めた。

「あれは遺品のオークションだった」

まろみは左手でぽんと額を叩いて、初実さん、す、すいませんと、頭を下げた。

「いいのよ、まろみさん。

死んでから、他人に自分のモノを託すより、自分で処分する方がどれほどすっきりするか…」

初実の言葉で、まろみはほっと胸をなでおろした。

「それで、オークションなのだけれど、場所は夫のレストランの休みの日に借りきろうと思っているの。

もちろん、お料理は食べ放題でサービスする。

店のコックさんに手伝ってもらってビュッフェスタイルにするわね。

それと、お手伝いして下さる方があれば…」

はい、はい、手伝いますとにぎやかに声が上がった。

「あの〜、初実さん、オークションを仕切る人はいるのでしょうか」

原口元女がおずおずと訊いた。

「それが、まだなのよ。

誰でもできるってわけでもないみたいだし、くら子さんにご相談しようかと思ってたことなの」

「私ではダメでしょうか」

「えっ、元女さん、ご経験がおありなの?」

「いえ、経験はないのですが、わたし、娘時代に、浪曲師に弟子入りしてたもので…才能がないとわかって辞めましたけど」

初実とくら子は顔を見合わせた途端に、元女の声が弾けた。

「なにがなにしてなんとやらぁー、このケリーバッグは新品でぇー、さるお宅のお屋敷に眠っておりました。

さて、皆さま、このケリーバッグは、かのモナコ王妃グレース・ケリーが妊娠中にお腹を隠すのに使った写真が公開されてぇー、奇しくもこの名がつきましたぁー」

 元女の声は屋敷中に響くかと思われるほどだった。

初実はくら子を見て、無言でうなずいた。

「決まりだわね。元女さん」とくら子は笑顔で、元女に握手を求めた。

キャー、うれしいと元女は両手でくら子の手を握り返した。

 こうして、二ヶ月後にはレストランでオークションが開催された。

くら子が指示したわけではなく、講座の受講者たちが初実を中心にして「実行委員会」を立ち上げた。

委員会のメンバーの行動力は素晴らしく、チラシや招待状を作り、町内会やカルチャーセンターの仲間などに配った。

 当日のタイムスケジュールから、料理のメニュー、サービスに至るまで、細かな神経が配られた。

 オークション会場のレストランからの帰り道、まろみは興奮していた。

「くら子さん、わたしのサリー姿はどうでした?」

「なかなかよかったわよ」
そうでしょう、わたしもそう思うんですよねと、まろみは小鼻をふくらました。

「あとひとつ足りなかったのは…」

なんですか、額の赤い点ですか? とまろみはせっかちに訊いた。

「は、な、わ」

「へ? そりゃひどい、牛じゃないんですから」とまろみは、バッグを振り回した。

「それさえあれば、まろみちゃんは間違いなくインド人に見えるわよ」

「わたしはインド人になりたいのじゃなく、サリーを着て初実さんのようにカッコよくなりたかったのです」

「その割に、あっちのテーブル、こっちのテーブルでカレーを食べてたじゃない」

「あ、あれは、試食ですから。初実さんのお店のメニューにどれがいいか、モニターしてたんです」

「それにしても、オークションは大成功だったわね。

売り上げも百万を超えたし、お店の宣伝もできたし、あれだけの女性たちの口コミが広がるとすごいわよ」

「そうですね。サリーもカレーも大人気でした。

しかし、オークションのほうは元の値段を考えると…」

「モノって、そういうものなのよ」

「そういえば、景気良く、バッグや洋服を競り落としていた女の人がいましたねえ」

「ああ、葛城さんね、あの人はパフォーマンスよ」

「は? パフォーマンス? ってどういう意味ですか」

「元参議院の議員さんなのよ。

ストリートチルドレンに寄付するために協力していますっていう『ふり』かも…」

「選挙のためですか」

たぶんねと、くら子は口をつぐんだ。

「ところで、オープニングのあいさつで初実さんが云ってた『りんじゅうき』って、なんですか? 」

「ううむ、立ち話ですむ話でもないから、お茶でも飲みながらにしましょうか」

近くの喫茶店で、くら子はまろみに説明した。

古代インドでは人生を四つの時期に区切るそうで、「学生期」(がくしょうき)は生まれてから二四歳くらいまで。

「家住期」(かじゅうき)は二五歳から四九歳、「林住期」(りんじゅうき)は五十歳から七四歳、「遊行期」(ゆぎょうき)は七五歳から九十歳とされている。

学生期で学び、家住期で働き、家庭を作り、子育てを終える。

そして、人生のクライマックスである林住期で自分が本当にやりたかったことを改めて問いかける時期だとされている。

「初実さんは林住期になったから、自分のやりたいことを思い切りやろうとしておられるのですね」

「たぶん。

それに、今までのしがらみも清算されるのかもしれない」

「夫は愛人のところだし…次は離婚かもしれませんね」

「さあ、それは…夫婦のことは、他人にはわからないものだから」

 くら子は冷たい抹茶オーレを飲みながら、クロゼットのモノがなくなった広い家で、初実はどうしているのだろうかと思った。

 まろみは、隣の男性が広げている夕刊の小さな見出しに、あっと声を上げた。

くら子も気がついた。

初実の夫の会社の株主総会で、株主から、業績は昨年の二割ダウンで、危機的状況なのに会長の報酬が二億とは高すぎると紛糾した。

会長である初実の夫、隆泰の写真も大きく載っている。

「マスコミに取り上げられると大変だわねえ」と、くら子は、初実のことを再び考えた。

 半月後、初実から届いたオークションの招待状をくら子はしげしげとながめた。

オークションは三日後だった。

横から覗き込んだまろみが、えらく急な話ですねと、不思議そうにつぶやいた。

「今度は家具や美術品から、家まで売ってしまうみたい」


「ひぇー、あのお屋敷までですか」

まろみは後ろにひっくり返りそうなほど、のけぞった。

くら子はうなずいた。

「しかし、あの家だって、初実さんの一存で処分できるのですか?」

「そりゃあ、ご夫婦で相談なさったんじゃないの」

「なんせ、年収二億ですものね。

また、新しい家を建てるとか…」

「そういう話にはならないような気がする」

 急いで処分しなければならないのには事情があるに決まっている。

大きな屋敷に豪華な家具や美術品。

それをバタバタと処分する理由とは…? 

くら子の思いはまろみに通じず、オークションの日は「わくわく片づけ講座」があるから、見に行けないとしきりに残念がっている。

どうやら、居間に飾ってあった、バラの花で縁取ったロートアイアンの鏡が気になっているらしい。

 オークションが終わった翌日の新聞で、初実の夫の会社の粉飾決算が書きたてられた。

新聞を手に、くら子はこれだったのねとためいきをついた。

 まろみに、出勤が少し遅れるとメールを入れて、くら子は初実の家に向かったが、インターホンを押しても応答がなかった。

もしかしたらと、近日開店予定の店は、扉が開いていた。

 おそるおそるのぞくと、初老の男が段ボールの荷物を運び、初実は、それは、こっち、あれはそこ、と椅子に座って指示をしていた。

怪訝な顔をしているくら子に、初実があら、くら子さん、おはようと声をかけた。

「おはようございます」と答えたくら子は、頭にタオルを巻いて荷物を運んでいる男の顔を見た。

どこかで見たような気がする。

そうだ、新聞だ。

初実が紹介した。

「うちの居候よ」

えっ、とくら子は訊き返した。

「借金抱えて、行くところがないからね」

しかし…愛人は? という言葉は口に出せず、戸惑うくら子に初実は云い放った。

「金の切れ目が縁の切れ目だって」

くら子は、はあと、あいまいに応えた。

「あたしたち、今、六畳二間のアパートに住んでいるのよ。

ふふふ、昔に戻ったみたいで、おそうじも家政婦さんに頼まないで済むし、気楽な暮らし」

初実はさばさばした口調で、林住期のわたしたちにとって、これで良かったと思ってるのよと微笑んだ。

「お店はもうすぐ開店ですか」

「ええ、夫はカレーのメニューを充実させるって張り切ってるの。

オープンの時にはまろみさんと来てくださいね」

もちろんですと答えて、くら子は店を後にした。

 事務所に戻ると、まろみがふくれていた。

「どうしてわたしも連れて行ってもらえなかったのですか」

「事情がわからなかったし、そうそう事務所を留守にする訳にはいかないでしょう。

オープンの時には二人で行きましょう」

やったと、まろみは指を鳴らした。

 くら子が、初実は夫とアパートに移ったことを話すとまろみはしょぼんとして声を落とした。

「まるで天国から地獄ですね。

あんなお屋敷の奥様が…気の毒に」

「でも、初実さんは今の方が幸せそうよ」

まろみは信じられないというように、ぱちぱちとまばたきをした。

「強がっておられるのではないですか」

「それがそうでもないのよねえ」

「ふむ、わたしはまだ修行が足りないのでしょうか」

「さあ、今度初実さんに訊いてみたら?」

そうしますと、まろみは神妙にパソコンに向かった。

28章 終了

27章 アドバイザー講座(5部)

 くら子とまろみはHデパートのネクタイ売り場に出かけた。

ロマンスクレイの紳士に、戦国武将の兜をデザインした柄のネクタイを勧めていた正美はくら子を見て、あっと声をもらした。

紳士は何事かと振り向いたが、正美は、いえ、知り合いなものでとごまかして、下を向いた。

紳士は、やはり、兜は派手すぎるから、いつものレジメンタルでと、ストライプのネクタイを手に取った。

 かしこまりましたと、正美はネクタイを手にレジへ向かう途中、くら子にささやいた。

「三十分したら休憩なので、ティールームで…」

ティルームは女性客でにぎわっていた。

「売り場はすいているのに、ここはいっぱいですねえ」

まろみは、案内を待たずに奥に進み、くら子を手招きした。

 メニューを手にしたまろみは、目が飛び出している。

「コ、コ、コーヒーが、せ、千五百円。

二人で三千円、ここはどこ?」

声が大きいと、苦笑しながらくら子はまろみをたしなめた。

だってと、まろみは後の言葉が続かない。

「女は度胸。ここのティールームは高いので有名なのよ。

それより、正美さんも、わかったみたいね」

「あの、これは会社の仕事ですから、必要経費にしてもらえるのでしょうか」

「その心配はいいの、それより正美さんのことに集中して」

くら子の言葉にまろみはほっとした。

財布には千円札一枚しか入っていないのだ。

 正美が現われたのは、四十分後だった。

三杯目のコーヒーを前にして、くら子は正面から正美の目をとらえた。

 頬には汗か涙の跡があり、それを白粉で隠そうとしているが、急いだせいかむらになっている。

 正美は、時間がないので、手短にお願いしますと浅く腰かけた。

「それでは、単刀直入に申し上げます。

どうしてお姉さんの和美さんになりすまして講座に参加されたのですか」

ゴクンと喉が鳴ったが、正美は口を開かない。

まろみもじっと正美を見つめている。

ウエイトレスが運んできた水を飲もうとする正美の手が震えている。

「姉になりすまして講座に参加したことが、犯罪でしょうか」

いいえと、くら子は答えた。

「ただ、どうしてそんな事をしなければならなかったのか、お尋ねしたいと思いまして」

「そ、それは…ある人に頼まれて…」

「たぶん、そうだと思います。

その方を信頼しておられますか」

 正美は目をつぶってうなずいた。

わかってはいても、現実を認めたくないのだろうとくら子は思った。

「わかりました。

これ以上何を申し上げても無駄ですね」

くら子はきっぱりと言った。

 正美は無言で立ち上がり、それではと言いかけて、くら子に視線を戻した。

「どうして私が姉の和美になりすましているとわかったのですか」

「…左手の傷がなかったから」

 ああ、和美の左手には…テーブルに両手をついて体を支えた正美はうなだれた。

正美さんと声をかけようとしたくら子を振り払い、正美は踝を返して出て行った。

「これでよかったのですか?」

まろみの問いにくら子は、肩をすくめた。

「正美さんも子供じゃないし、ご自分の考えで行動されるでしょう。

今回の問題は、正美さんが和美さんになりすましたことでしょ。

誰かがどこかでリサイクルショップを開くというのは、また、別の問題だから」

「しかし、恵比寿さんや健さんの商売が…」

「商売敵が現われるのは当たり前。

そんな事でつぶれるくらいならとっくにつぶれているわよ」

「今日はいやに強気ですね」

「コーヒーを五杯も飲んだから…」

「千五百円、割る五だから、一杯三百円か、それなら元はとっているかも」

 事務所に戻ったくら子は古書店「ぽんぽん堂」の恵比寿に電話をした。

事情を聞いた恵比寿は、「ひきとりや」の健さんにも連絡しておく、また何かあったら知らせてくれるようにと結んだ。

「正美さんは、もう講座には出てこないでしょうねえ」

くら子は、たぶんと答えたものの、何事も起こらなければいいがと思った。

 半月後、まろみが三十分遅刻をして事務所に飛び込んできた。

「また、二日酔い?」

「ち、違いますよ。テレビのニュースで、ま、ま、ま」

はいはい落ち着いてと、くら子はまろみに水を持ってきた。

肩で息をしながら、まろみは一気に水を飲み干した。

それでと、くら子は向かいの椅子に座った。

「ま、正美さんが、あの、バツ四の男とドライブに行って、崖から落ちたらしいです」

くら子の顔が青ざめた。

「詳しいことはわからないのですが、正美さんは助からなかったようで」

「というと…」

「男は助かったようです」

 苦い沈黙が漂った。

 事務所にテレビがないので、くら子とまろみは近所の喫茶店に行った。

マスターに頼んで、チャンネルをワイドショーに替えてもらった。

画面は、崖の上から谷底のつぶれた車を映している。

キャスターはスピードの出しすぎの事故か、心中かわからないと言っている。

おしぼりを握りしめてくら子は、画面のキャスターに向かい、心中の訳ないでしょとつぶやいた。

まろみも珍しくじっと画面を見つめている。

 くわしいことはわからないまま、番組は別の話題に移った。

事務所に戻ると、廊下で恵比寿が待っていた。

「えらいことになったなあ」

立ち話もできないからと、くら子は鍵を開けて恵比寿を中に入れた。

「あの、わたしたちが原因でしょうか?」

おずおずとまろみが、訊いた。

「いや、そんなはずはないよ。

不動産屋の話によると、岸田は店の手付金を打ったらしいから、改装してオープンするつもりだったんじゃないかな」

「単なる事故には思えないのですけれど」

くら子の言葉に恵比寿はうなずいた。

「正美さんも騙された口かもな」

恵比寿のため息にくら子もやるかたない表情で黙り込んだ。

あれ、ノックの音がしませんでした? とまろみがドアを見た。

恵比寿とくら子が首をかしげると、まろみは勢いよく立ち上がった。

ドアを開けたまろみは、あわわ、ゆ、幽霊と、ドアを指差したまま、壁に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。

くら子が、まろみちゃんと、慌ててかけよった。

恵比寿が半開きのドアを開けると、廊下に青い顔をした女がぼんやり立っていた。

青白くむくんだ顔は素顔で、ブラウスのボタンを段違いにかけ、ジーンズの足元は、素足にスリッパだった。

とにかく、中に入ってくださいと恵比寿が女の手を引き、抱えるようにしてソファーに座らせた。

まろみは腰が抜けたらしく、立ち上がれず、あわあわ言っている。

「おい、まろみちゃんは大丈夫かい?」

恵比寿は振り返ってくら子に訊いた。

しばらくじっとしてなさいねと、くら子はまろみの腕を軽く叩いた。

「大丈夫、びっくりしただけですよ。それより、こちらの方が先決です」
 
 くら子は、冷たい水の入ったグラスを女の前に置いた。

女は冷たい水を、ブラウスにこぼれるのも気にせず飲みほした。

グラスを握ったままうつむいている女に、恵比寿は訊いた。

「あなたは…正美さん?」

女は、うなだれたまま力なくうなずいた。

「事故のことはご存知ですね?」

恵比寿の問いに正美は、わっと声をあげてテーブルに突っ伏せた。

この場面を見逃すものかと、まろみが四つん這いで床をはってソファーまでたどりつき、くら子と恵比寿がよっこらしょと抱えあげて座らせた。

まろみは、正美に足があるのか、テーブルの下を見て確かめている。

くら子は小声でまろみに、幽霊じゃあないわよとささやいた。

 二杯目の水を飲み終えた正美は、ようやく落ち着いた。

「なにからお話ししていいのか…」

正美の声は震えている。

恵比寿が事故のことはいつ知りました? と訊いた。

「今朝のテレビで…」

「ニュースでは貴女が車に乗っていたことになっていましたが…」

正美は唇を震わせて、違うのですと答えるのがやっとだった。

「それでは、車に乗っていた女性は?」

「そ、それが、あの、『アドバイザー講座』に参加していた人なんです」

 くら子とまろみはぎょっとして顔を見合わせた。

「だ、誰なんですかー」

腰をさすりながらまろみが上ずった声をあげた。

「それが、お名前は忘れましたが、おばあさんにきものをもらってNPOをクビになった人です」

竜崎貴美香のことだと思ったが、くら子は口に出さなかった。

「それでは、どうして、正美さんが事故にあった事になっているのですか」

くら子の問いに、正美はぽつぽつと語りだした。

 正美は、岸田とドライブに出かけた。

高速のサービスエリアでトイレに行き、車に戻ると助手席に女が座っていた。

それも「アドバイサー講座」に参加していた女だった。

正美は、これはどういうことかと岸田をなじった。

岸田は後ろに乗れと言い、正美が仕方なく乗ると、車は走り出した。

女は後ろを向いて、これは「わくわく片付け講座」なのよと答えた。

「どういう意味ですか」

正美が訊くと、女は、鼻で笑った。

「だから、邪魔な女を片付けるのよ、わくわくするわ」

「そんな、岸田さん、これはどういうことですか」

岸田は黙ったままで、女の高笑いだけが車内に響いた。

「知らぬが仏とはこのことね。おバカさん! 

自分が保険に入っているとも知らないで」

おい、余計なことを言うなと、岸田が女をにらみつけた。

「ほ、保険って、どういうことですか、岸田さん」

正美はすがるような思いで岸田に問いかけた。

女は、まだわからないのと、せせら笑った。

「わたしたち結婚するって…だから」

「あたしがいるのに、するわけないでしょ。

あんたの保険金で、あたしたちが商売するのよ」

正美は頭の中で、騙されたことを認めたくない自分と、この二人に「片づけられる」自分を考えていた。

車のロックは外せそうにない。

「気分が悪い、吐きそうだわ」

「フフフ、もうすぐ、それもなくなるわよ」

正美は体を折り曲げて、喉に指を突っ込み、声を上げた。

「おいおい、これは新車なんだぜ、それを汚されては…」

岸田が路肩に寄せて車を止めた。

車を出た途端に正美は、助けてぇー、誘拐、拉致ですぅーと大声で叫びながら走り出した。

岸田は追いかけようとしたが、間に合わず、慌てて車に飛び乗り、走り去った。

正美がとぼとぼと歩いているところにトラックが止まり、乗せてくれた。

バッグは車の中で、無一文だった。

体を引きずるようにしてマンションに帰った正美は、玄関に足を踏み入れた途端に崩れ、そのまま眠ってしまった。

朝、玄関で寒さに目を覚まして、夢を見ているのかと思ったが、汗まみれの体と汚れた服をみると、現実だということがわかった。

シャワーを浴びながら、昨日のことを思い返した。

バスローブ姿で、オレンジジュースを片手にテレビをつけると、事故のことが報道されていた。

 なぜ、昨日、あのまま警察に行かなかったのか。

ぼんやり考えていると、二ュースキャスターの口から自分の名前が読み上げられ、飛び上がった。

車はガードレールを突き破り、崖から転落、炎上して黒い塊になっていた。

 正美はテレビの前で茫然としていた。

携帯電話も車と共に燃えただろう。

姉の和美にこんなことを話せない。

警察に行くのもためらわれた。

そこで、くら子とまろみのことを思い出した。

 えらいことになったなあと、恵比寿は正美から目をそらした。

「とにかく、警察へ行って事情を話した方が良いのではないですか」

くら子の提案に、正美はかぶりを振った。

「いずれにしろ、事故に遭ったのが正美さんでないことを知らせなくては」と、くら子は恵比寿に目くばせをした。

やれやれという顔で、恵比寿が立ち上がった。

 二人が出て行くと、まろみがしゃべりだした。

「わたしも一度、警察の事情聴取とやらに立ち会いたかったのに」

「なに、言ってるのよ。

幽霊だと思って、腰を抜かしたくせに。

しかし、本当に腰が抜けるってあるのねえ、初めて見たわ」

「冗談じゃありませんよ。

それより、正美さんはどうなるのでしょう」

「さあ、彼女の話だけでは詳しいことはわからない。

とにかく生きていることは確かだから…」

 仕事を終えて、事務所のドアに鍵を掛けようとしたくら子に、まろみが、また幽霊ですとささやいた。

 恵比寿が昼間とは別人のような顔で立っていた。

「お疲れさまでした」とくら子が声をかけても、恵比寿は硬い表情を崩さなかった。

「話がある」

事務所に戻ろうかと、ドアを開けようとしたくら子を制し、恵比寿は飲まないとやってられないと言った。

 居酒屋の座敷の隅で、恵比寿は黙ってジョッキのビールを飲んだ。

くら子とまろみも、いつもと様子の違う恵比寿に、緊張していた。

恵比寿は一杯目を飲み干すと、ひとごこちがついたように、ふーっと息を継いだ。

「あれ、二人は飲まないの?」

いつもの恵比寿に戻っていた。

「恵比寿さんが何も言ってくれないから、飲めないんです」

まろみが口をとがらせた。

「悪い悪い、いや、どうぞ、一杯やってください。

話はそれから」

 恵比寿は二杯目を頼んだ。

「実はね、えらいことになってる」

ようやくビールを口にしたまろみの目の周りが赤くなり、目がきらきらと輝いている。

「正美さんは殺されそうになって逃げたんでしょ」

「そうなんだが…」

「危機一髪でしたね。

ドラマのヒロインみたい。

しかし、保険金殺人だなんて、新聞やテレビのドラマの中だけだと思っていたけど、自分の知っている人が殺されそうになるなんて」

まろみはこれで事件が解決したと思っているようだ。

なんだか、しっくりこないのよねと、くら子は、ジョッキを置いて恵比寿をじっと見た。

「実は…車のブレーキに細工がしてあったそうだ」

まさかと、くら子は手で口を押さえた。

「そうなんだ」

「えっ、どういうことなのですか。

なんですか? 

わたしにも教えてくださいよ」

まろみは恵比寿とくら子にきょろきょろと目を走らせた。

「警察はブレーキに細工をしたのは正美さんだと疑ってる」

まろみがブワァーと、ビールを吹き出した。

おいおい、これだから困るんだよなあと言いながら、恵比寿はおしぼりで背広の袖を拭いている。

くら子もほんとうにねえと相槌を打ちながら、枝豆の鉢を移動させた。

 事件の真相が次々に明るみに出ると、くら子とまろみは茫然とした。

重傷を負いながらも持ちこたえた岸田が証言をしたからだった。

デパートのネクタイ売り場で正美を引っかけたつもりの岸田が、実は引っかけられていたのである。

 お互いに本性を隠して、結婚話はとんとん拍子に進んだ。

事業に失敗していた岸田に、リサイクルショップの話を持ち出したのは正美だった。

そして、友人が保険会社に勤めているが、契約が取れなくて困っているから二人分の契約が取れれば助かると、お互いを受取人にして契約を結んだ。

 リサイクルショップの件に関しては、自らが表に出ず、岸田がすべて進めていることにした。

色々調べてみると、リサイクルショップ「ひきとりや」、古書店「ぽんぽん堂」そして、そのグループともいえる輪に「わくわく片付け講座」が含まれていることを知った。

 偶然と言うべきか、幸いと言うべきか、姉の和美が以前その講座に参加したことを知った正美はそれを利用して和美になりすまし、「アドバイザー講座」に参加した。

ついでにその講座も潰してしまおうという計画だった。

どうやって潰すかが問題で、講座に参加していた竜崎貴美香を利用することにした。

 傾聴ボランティアの訪問先で着物を受け取った貴美香に、着物を買い取ってくれる処を紹介する、また、仕事がなければ、そこで働かないかと持ちかけたのだった。

 ここまではうまくいったが、くら子とまろみに偽者だと気づかれた正美は焦って計画を変更した。

元々岸田に愛情があったわけでなく、金目当てに近づいたのであり、リサイクルショップもどうでもよかった。

そこで、一石二鳥と、ドライブと称して岸田と貴美香を誘い出し、車のブレーキに細工をして二人が事故にあったと見せかけ、自分が被害者になりすました。

 二か月後、恵比寿とくら子、まろみの三人は、この前と同じ居酒屋にいた。

あれから、恵比寿もくら子たちもテレビのレポーターや雑誌の記者に追いかけられた。

正美が貴美香と知り合ったのが「アドバイザー講座」だったからで、警察に行くのに付き添ったのが恵比寿だったからである。

お陰で、「わくわく片付け講座」は開けず、不愉快なことは山ほどあった。

 まろみがしみじみ言った。

「しかし、正美さんが一番の黒幕だったとは思いもしませんでした」

まろみの正直な感想に、恵比寿とくら子もうなずいた。

「ほんとになあ、K社に来た時には、まさしく被害者のようだった。

三人ともすっかりだまされたわけだ」

焼き鳥の串を片手に恵比寿はしみじみ言った。

まろみはうり二つの和美のことを思い出した。

「先日、お姉さんの和美さんが事務所に来られたんです」

恵比寿は、空いている手でジョッキを手にして、あの人も大変だっただろう。

それで、と訊いた。

「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでしたって」

ううむと、恵比寿はうなり、ご迷惑なんてものじゃぁなかったなとつぶやいた。

「わたしが和美さんに電話をかけた時に、正美さんのことを話していれば、こんなことにはならなかったのかもしれませんと言ったんです」

彼女はなんと? と恵比寿は先を促した。

「どちらにしろ、結果は同じだったでしょうって」

 妹の正美は子供のころから嘘をつくのがうまかった。

それもただの嘘ではなく、気に入らない相手を陥れる悪意の嘘だった。

普通なら嘘をついていることにどこかでやましさを感じるものだが、罪悪感はまったくなかった。

同じDNAを持ち、同じ環境で育った双子なのに、どうしてこうも違うのかと和美は不思議でならなかったそうだ。

「姉妹でもわからないのだから、我々がわかるはずもないな」

自嘲気味の恵比寿の言葉に、二人は頷いた。

「それで、いつから講座を再開するの?」

「来月からのつもりですけど、人が集まるかどうか…」

くら子の重い口調にまろみが付け加えた。

「世間では、『わくわく片付け講座』を、邪魔になった夫を始末する講座だと噂してます」

「ほう、それじゃあ、参加者は増えるだろうな」

 苦笑と共に、くら子は一つ残っていた疑問を口にした。

「どうして陸奥慶子さんは講座の受講者にスパイがいるってわかったのかしら」

まろみが当然のように答えた。

「そりゃあ、動物探偵だから、鼻がきくんですよ」

27章終了

27章 アドバイザー講座(4部)

「職業ではなく、TPOに応じて、自分を演出するという意味でね」

「ある時は黒服の未亡人で、またある時は、真っ赤なワンピースで彼氏とカラオケ?」

「それで、警察に逮捕される?」

「そんなことはないですけど、講座に来た人たちを騙しています」

「それでは、質問です。

まろみちゃんは騙された?」

「いいえ、あっ、青になった」

 花の終わった桜並木を横目に見ながら、再び歩き始めた二人は足を速めた。

「たぶん、皆、わかっていると思います。

いや、大山さんは例外かな」

「わかっていて、わからないふりをしている場合もあるし」

「どうしてそんなことするんですか」

「相手を傷つけないために、もしくは自分にとってどうでもいいことだから、あるいは、その方が自分に都合がいいから、かもしれない」

「最後のは下心ってやつだったりして」

「さあ、どうでしょう。

ほんとうのところはわからないわね。

でも、わたしたちだって、講座の主催者の顔と、事務所で豆大福を食べている時の顔は違うでしょ」

「そりゃそうですけど、誰だってそうじゃないですか」

「そこなのよ。

誰だっていくつかの顔を持っていて、その差が大きいか小さいかの違いだけかもしれない」

でも…と、まろみは黙り込み、くら子はあらら、と立ち止まった。

 いつの間にか二人は事務所の前を通り過ぎていた。

アンケートを見ていたくら子がアハハと笑いだし、お茶を入れていたまろみがすっ飛んできた。

「どうしたんですかぁ」

これを見てちょうだいと、くら子はアンケートを差し出した。

「なになに、この講座にスパイがまぎれこんでいます。

注意してください。

詳しいことはいえません。

なんですか、これ?」

「さあ、なんでしょう」

「書いたのはもしかして…やっぱり、元動物探偵の陸奥慶子さんですね。

人間の探偵まで始めたのでしょうか」

「わかりませーん」

「スパイって誰のことでしょうか」

「まろみちゃんも好きねぇ。

ところで、お茶はどうなったの?」

あ、忘れてましたと、まろみはお茶を取りに戻った。

 さくら餅と煎茶を載せた盆をまろみはそっとテーブルにおろした。

「前にも、『わくわく片付け講座』の真似をした『らくらく片付け講座』がありましたよね。

あれはどうなったのでしょう」

 くら子はさくら餅にかぶりついていた。

「スパイですよ、スパイ! 

さくら餅を食べている場合ではないと思います」

まろみは腰に手を当てて、くら子をにらんだ。

「そう、じゃあ、まろみちゃんの分もわたしがいただき」

くら子が手を伸ばすと、まろみが制した。

「これは、わたしの分ですから」

「そんなにカリカリしないで、座ってさくら餅をどうぞ」

 まろみはさくら餅にかぶりついた。

湯呑にお茶を注ぎたしながら、くら子がしみじみもらした。

「やっぱり、さくら餅は道明寺でなくてはねえ」

くら子のつぶやきにまろみが返した。

ドードージ?

「どうみょうじ、さくら餅は関東と関西では違うのよ」

まろみの口には素早く二つ目のさくら餅が押し込まれていた。

 ゆっくりとお茶を飲んだくら子はまろみに向き直った。

「それで、さっきの話だけど」

「ドードージですか」

「その話はもういいのよ」

「わたしには、よくありませんよ。

気になります」

 仕方なく、くら子は関西のさくら餅はもち米から作った道明寺粉でつくられており、関東の、餡をうす焼きの皮でクレープのように包んだ長命寺餅との違いを説明した。

「すっきりした?」

くら子の問いに、まろみはこくんとうなずいた。

「それで、スパイの話だけれど、慶子さんの勘違いではないかしら?」

「火のない所に、煙は立たないと言いますよ」

 湯呑みを見つめて、まろみは眉をひそめた。

「ジエームス・ボンドでも現れたらうれしいけど。

それも、ショーン・コネリーでね」

くら子はにっこりした。

「くら子さん、冗談ではないです。

でも、わたしならティモシー・ダルトンを推します」

「趣味が違って良かったわ。

この話は慶子さんに詳しいことを聞いてから考えましょう」

はいと不承不承答えたまろみは湯呑みを片付け始めた。

「それより、問題はチラシよ」

えっ、なんの話でしょうと、まろみが立ち止まった。

「ほら、『わくわく片付け講座』のチラシが郵便受けに入っていたって」

「そういえば、そんな話がありましたねえ」

「誰が入れたの?」

「サンタクロース、エンジェル、妖精、エイリアン、モモタロー、なんてことないですね」

なんでエイリアンやモモタローなのよと言いながら、くら子はくくくと笑いをかみ殺した。

「別に誰でもいいんじゃないですか。宣伝してくれてるのだから」

スパイの話と違い、まろみは楽観的だ。

「そうはいかないわよ。

誰だかわからない人がK社のチラシをまいてるなんて、気持悪いじゃない」

くら子の勢いに押されてまろみが黙り込んだので、くら子はしょうがないわねとつぶやいた。

 スパイとともに、チラシも棚上げになった。

 三日後、古書店「ぽんぽん堂」の恵比寿が事務所を訪れた。

「まろみちゃんの好物を買ってきたぞ」

 ありがとうございますと袋を受け取りながら、ぴくぴくとまろみの鼻が動いた。

「この匂いは柏餅」

「ほお、すごいな。

だてに大きな鼻をつけているわけではないなあ」

「それどういう意味ですか。

大きな鼻って、わたしは象ですか」

「失敬、言葉のあやです」

むくれたまろみに構わず、恵比寿は事務所を見まわした。

「くら子さんは?」

「外出中です。

もうそろそろ帰ってくると思いますが…」

それじゃあ待たせてもらおうと、恵比寿がどんと腰を下ろすと、ソファーがギギギときしんだ。

柏餅の袋を大事そうに抱えたまろみが、壊さないでくださいねと釘を刺し、台所へ行った。

 煎茶の用意をしてまろみが戻ると、恵比寿は珍しく神妙に座っていた。

「ははーん、恵比寿さん、なにか、くら子さんに頼みごとでしょ」

いや、そういうことではないのだけれどと、恵比寿は口を濁した。

この柏餅はそのためだと、まろみは断言した。

「おい、おい、まろみちゃん、おれだってたまには手土産ぐらい…」

そこへ、ただいまーとくら子が帰ってきた。

「あら、恵比寿さんいらっしゃい」

「くら子さんが帰ってくれて良かった。

今、まろみちゃんにいじめられてたところでね」

「ははーん、なにかしでかしたんだ」

「おいおい、くら子さんまで、同じことを言うなよ」

それで、お話というのを聞きましょう。

バッグを置いてくら子は恵比寿の正面に座った。

「実は…『ひきとりや』の健さんとね、いろいろ話し合って…」

 まろみもくら子の横に座った。

「うちも健さんの所も、景気が良くないから、チラシをまくことにしたんだよ」

先が続かない恵比寿に、それでと、腕を組んだくら子は先を促した。

「ええと、我々は、K社の仕事に賛同しているし…協力したいと思ってね…」

 くら子には恵比寿の話が見えてきた。

「新聞の折り込みだと、けっこうな金がかかるし、例の柔道部の後輩に、ほら、ポスティングっていうのかな、郵便受けにチラシを入れるやつ、あれをアルバイトで頼んだんだ」

それで、とくら子は笑いをかみ殺して、促した。

いやその、恵比寿は頭をかいた。

「正直に白状した方がいいですよ」

まろみにも事情がわかったようだ。

「健さんと話をしてて、二枚配るも三枚配るも同じだから、ついでにK社の講座の案内もコピーして配ったわけでぇ」

「なるほど」

「健さんにこの事をくら子さんに連絡しとくように言われたんだけど。

急に蔵書を売りたいって話が来て、それがまた、掘り出しものだったというか…悪かった」

恵比寿は申し訳なさそうに頭を下げた。

「お陰で、気味の悪い思いをしました」

「そりゃそうだな、うん」

恵比寿は顎に手をやって、にやりとした。

「だけど、気味が悪いほど反響があったってわけだな。

問い合わせや反響がなければ、わからなかったはずだから」

「恵比寿さんって、見かけによらず、頭いいんですね」と、まろみが口をはさんだ。

「見かけによらずとはどういう意味だ」

恵比寿は低い声で訊いた。

しゃらんとして、まろみはそういう意味ですと答えた。

「二人とも子供みたいな真似はやめてちょうだい。

それより、お陰で、受講者が増えたことは確かです」

そうだろ、な、と恵比寿はまろみを無視して、くら子に笑顔を向けた。

「ま、その話はこれで終わりにして、もうひとつあるんだ」

 恵比寿の話では、昔、「かたづけや」の小渕のところで働いていた男が、リサイクルショップを開くといって、場所を探しているらしい。

その男は、一時流行った写真の現像の店を開くといって「かたづけや」を辞めたがつぶれ、その後、コンビニを開店したが、これもつぶれ、また、元のリサイクルの仕事をしようという気になったらしい。

「健さんの商売敵ができるっていうことですか」

まろみの問いに、恵比寿はうちにとってもそうなんだと応えた。

「洋服から家具、骨董、古書まで、なんでもやるそうだ」

「そんなに失敗ばかりしているのに、よくそれだけの資金がありますねぇ」

そこなんだよ、くら子さんと、恵比寿は膝を叩いた。

「バツ四の男といえば見当がつくだろう」

 二人はこっくりうなずいた。

「そいつは、健さんやうちがK社とつながりがあることを知って、講座にもぐりこんでるみたいなんだ。

おれたちの商売どころか、同じような講座を開くと吹聴しているらしい。

つまり、我々のグループの仕事をそっくりいただこうという寸法なのさ」

すぐ頭に血が上るまろみは、許せない! と、こぶしを握りしめた。

「恵比寿さん、この情報はどこから?」

くら子は冷静だった。

「幼なじみの不動産屋が教えてくれたんだよ」

わかったーと、まろみは声をあげた。

久しぶりに頭上に灯りがともったようだ。

「おい、まろみちゃん、急にどうしたんだよ」と恵比寿が体を引いた。

「スパイですよ。スパイ」

恵比寿はあたりを見回してスパイがいるのかと、声を潜めた。

苦笑しながらくら子は、講座のアンケートでスパイがいると書いた人がいたことを説明した。

「そいつは誰なんだ?」

「書いた人ですか、それともスパイ?」

スパイ、スパイと、梅干を呑み込んだように恵比寿は連呼した。

くら子が口を開く前に、まろみが元動物探偵とまくしたてた。

なんだ、そりゃ、恵比寿は気が抜けたように肘かけにもたれた。

「だから、元動物探偵が、スパイがいるって。

ただ、誰かは書いていないんです」

「電話して訊けばいいじゃないか。

スパイは誰ですかって」

「そうはいきませんよ。

それが真実かどうかわからないのに」

確かになぁと恵比寿は腕を組んだ。

 コチコチと時計の刻む音だけが響いた。

くら子は、恵比寿の前の空の湯飲みに気がついた。

「まろみちゃん、お茶を淹れなおしてくれる?」

「そうそう、お持たせの柏餅を忘れてました」

「これは大事件だな」

しみじみつぶやく恵比寿に、どうしてですかとくら子は尋ねた。

「まろみちゃんが柏餅を忘れるなんて、ありえなーい」

そうですねえとくら子も相槌をうった。

 柏餅を手にしながら、まろみは訊いた。

「バツ四ということは四回も結婚してるんですよね」

恵比寿は当たり前だろという顔で、まろみを見た。

「四回も結婚する人がいるのに、わたしは一回もできない。

これは、どこが違うのですか?」

突然のまろみの剣幕に、恵比寿は柏餅をのどに詰まらせた。

 ゆっくりとお茶を飲んで落ち着いた恵比寿は、まろみに諭すように言った。

「人生をまじめに生きてたら、四回も結婚できないはずだがね」

「そうなんですか」まろみは真剣だ。

「だって、この男は結婚詐欺なんだぜ、まろみちゃん、だまされたいの?」

「ううむ、ものすごくいい男だったら、騙されたふりをして、騙してやりたい」

「ミイラ取りがミイラになったりして…こういうのが危ないんだよな」

 くら子は二人の会話を聞きながら考えていた。

 今回の講座に、そんな男がいただろうかと、一人ひとりを思い浮かべていた。

 恵比寿は携帯に電話が入り、急用ができたと、あたふたと帰った。

後姿を見送りながら、まろみがつぶやいた。

「恵比寿さんもチラシのことを早く言ってくれればよかったんですけどね」

「まあ、あの通り、忙しい人だからね」

なんだか、気が抜けましたと、まろみはソファーに横になった。

「くら子さん、バツ四の男って、誰なのでしょう」

「さあ、わからないわねえ。

人は見かけによらないというから」

「一番怪しいのは、ハウスクリーニングの社長だと思うのですけど」

くら子は、机に片肘をついて、受講申込書を見ている。

「テレビのサスペンスドラマなら、大した役でもないのに大物俳優が演じていたら、間違いなく犯人なんですけど」

そうねえと、くら子は生返事をした。

「ミステリーでは、一番犯人らしくない人が犯人なんですよねえ」

まろみは天井を見上げて、ああだこうだと、ひとりでしゃべっている。

「くら子さん、聞いてます?」

「ああ、何か言った?」

聞いてなかったんでしょうとまろみは立ち上がり、くら子の後ろから書類をのぞき込んだ。

「まさか、元警官で、白菜の漬物を漬けてる坂根さんを疑ってるんじゃないでしょうね」

さあ、どうでしょうと、くら子は次の申込書を見た。

「炭焼きのコーケンさんは、元営業マンだから、女性を口説くのは得意かも?」

「口がうまいからもてるとはかぎらないし、成績のいい営業マンはそれほどしゃべらないって聞いてるけどね」

そうなんですかと言いながら、まろみは椅子を持ってきて、くら子の隣に腰を下ろした。

「梅森さんは、女性の前に出るとしゃべれなくなるタイプだと思います」

自信を持ってまろみが答えた。

「あら、よくわかるわねえ」

「そりゃあ、わたしだって、だてに女をやってるわけではありません」

おみそれしましたと、くら子はまろみに向いて頭を下げた。

はずみでファイルの上の紙が床に散らばった。

あららと紙を拾い集めて、くら子は一番上の紙に目を落としてハッとした。

まろみの目はくら子の表情を見逃さなかった。

「なにかわかりました?」

くら子はウウムと唸って、ため息をついた。

「人を疑うって、いやなものね」

「でも、敵はひきょうな手を使って…」

「ちょっと待って、話を整理してみましょう」

くら子は椅子に座りなおした。

「陸奥慶子さんが、アンケートにスパイがいると書いた。

これは根拠がはっきりしない」

「ガセネタってことですか」

まろみはどこでそんな言葉を覚えたのだろうと思いながら、くら子は続けた。

「恵比寿さんが、リサイクルの店を作ろうとしている人の話をして、『アドバイザー講座』に参加しているかもしれないと言った」

「話がつながったじゃないですか」

「それは、わたしたちの想像でしょ」

「こんな偶然はないと思います。

くら子さんは真実を知りたくないのでしょう」

くら子はゆっくりとうなずいた。

「でも、このままではよくないと思います」

くら子はじっと考え込んで、まろみに向き直った。

「実は、ひとり、思い当たる人がいるの」

「誰ですか? あとは、大山さんくらいしか…」

「男性じゃあないの」

えーっ、とまろみは椅子から転げ落ちそうになった。

「ま、まさか、女装してたんですか?」

くら子はまろみの想像力に思わず噴き出した。

「そうじゃあないのよ。ワークショップの時に、ある人の左手の甲には子供の頃に自転車で転んで、田んぼに落ちた時に付いたという大きな傷があったの」

そんな人いましたかねえと、まろみは額に皺を寄せて考えた。

「本人も気にして、右手を重ねてらしたから、わからなかったと思うわ」

それならどうしてと、まろみは首をかしげた。

「たまたま化粧室で並んで手を洗っている時に、目がいったの。

そしたら、その方が実はと話してくださったのよ」

「だれ、だれ、だれなんですか?」

「宮本和美さん」

「えーっ、あの、主婦の宮本さんですか?」

「わたしもまさかと思って、ワークショップの時の申込書を出してみたら、筆跡が違うの」

「どういうことでしょうか」

「わたしにもわからないけど、ひとつ試してみようか?」

二人はいたずらを相談する子供のように頭を寄せて、ひそひそと話し合った。

 まろみは和美の連絡先の番号に電話をした。

「もしもし、宮本様のお宅ですか、K社の松坂まろみですが」

「まあ、まろみさん、ごぶさたしています。

相変わらずお元気そうな声ですね」

ごぶさた、と聞いて、まろみはくら子と打ち合わせ通りに訊いた。

「無事、片付けは終わりました?」

なかなか進まなくてと笑い声が帰ってきた。

アドバイザ―講座で宮本和美と名乗る女は、母親の遺品整理の話をした。

しかし、この話が本当かどうかわからない。

また、下手にその話を持ち出すわけにはいかない。

まろみは電話をスピーカーに切り替えて、くら子にも聞こえるようにした。

「そうですか、次回の『アドバイザー講座』のご案内をしようかと思ったのですが」

「とんでもない。

人前に立つなんて、大それたことを考えてはいませんよ」

「そうですか、残念ですね。

そういえば和美さん、三日前にHデパートの地下でお見かけしたような気がするんですけど」

「三日前? 人違いじゃないですか、わたしは最近デパートなんて行ってませんから」

「でも、ほんとに、そっくりでしたよ。他人のそら似でしょうか」

「ああ、わかった。

それはたぶん、妹の正美です。

Hデパートのネクタイ売り場に勤めているんです」

えっと、まろみは口ごもった。

Hデパートは出まかせなのに、話がおかしな方向に転がっていく。

「妹といっても、わたしたち双子なんです。

この前、珍しく妹がうちに遊びに来たので、『わくわく片付け講座』の話をしたのですよ」

くら子がメモに“もっと聞く”と書いた。

まろみが、もっと聞くとつぶやいたので、和美が、ええ? と訊き返した。

「いや、その。

ミッションが、クッションで…い、妹さんはデパートに長くお勤めですか?」

「ええ、今は主任だそうです。

わたしはね、殿方相手の職場だから、早くいい人を見つけなさいと言い続けてきたのに」

トノガタ? まろみの疑問に、くら子が、“男”と書いた。

「ああ、なるほど、ネクタイ売り場でしたよね」

「そうなの。

でも、妹は面食いだから、好みがうるさいのよ」

麺食い? ラーメン? 讃岐うどん? それとも、ジャージャー麺? まろみの頭の中でメニューが回っている。

くら子は笑いを噛み殺しながら、“イケメン”と書いた。

メモを見て、まろみは小さくうなずいた。

「イケメン…ですか?」

ほっほっほと和美は笑って、今の人はそう云うのねぇと応えた。

くら子はもう一度、“男”を指差し、“デパ地下のアベック”と書いた。

アベック? まろみは首をかしげてつぶやいた。

「デパ地下のアベック…」

答えは向こうから返ってきた。

「ああ、やっぱり、正美は岸田さんとご一緒だったのね。

素敵な紳士だったでしょう?」

くら子が声を出さずに、「はい」と言えと、口を動かしている。

「はい」まろみは答えた。

「アベックで、地下の食品売り場で、お買い物…うふふ。

年下らしいけど、ようやく、正美にも遅い春が来たのかもしれない」

和美の声は弾んでいた。

これ以上の長話はまずいと思い、くら子はまろみの携帯電話を鳴らした。

「あ、和美さん、すいません。

携帯に電話が入って、これで、失礼しまーす」

 まろみは受話器を置いて、くら子とハイタッチをした。

「探偵をするのも楽じゃあないですね。

冷や汗をかきました」

「ごくろうさま、まろみちゃんもやるじゃない。

大したものよ」

くら子はこの時とばかり、まろみを持ち上げた。

いやあ、それほどでもないですけど、と言いながら、まろみは髪に手をやってまんざらでもないようだ。

「もしかしたら、女優なんて仕事もありかな? スカウトされたりして…キャッ、どうしよう」

はあ? 長生きするわねと、くら子は胸の内でつぶやいた。

「それで、ワトソン、次の手は?」

まろみは、シャーロック・ホームズのつもりらしい。

「現場よ、現場」

くら子は机の上の書類を片付けた。

「なーるほど、犯人は現場に戻るっていいますから。

ところで、現場ってどこですか?」

「Hデパート。

これから乗り込むわよ」

くら子はバッグをつかんで立ち上がった。

「えっ、冷蔵庫に葛まんじゅうがあるんですけど」

「葛まんじゅうは逃げやしないわよ」

「正美さんも逃げないと思いますけど」

ウウムと唸って、くら子はバッグを置いた。

27章 アドバイザー講座(3部)

 合図のチリリンが鳴る前に、未世は話を終えた。

 次は、坂根光男だった。

「自分は、この二十年、ものを捨てたことがありませんでした」

うそぉー、そんなバカなという声がささやかれた。

 坂根は四角い銀縁のメガネの端を指で押し上げて、その人差し指を目の前で左右に振った。

「うそではありません。

二十年会社に、いえ、実は、警察に勤めていましたが、両親が交通事故であっけなく逝ってしまい、その後は、残された小さな畑で晴耕雨読の生活です。

生ごみは土に返して堆肥にしますし、そんなに簡単にものを捨ててはいけないと思っていました。

壊れた電気製品も納屋にしまってあったし、両親のモノも全部そのままでした。

ところが、本がいけない。

本棚どころか、階段、廊下は言うに及ばず、台所にまであふれてしまい、とうとう床が抜けました」

 坂根は情けなそうな顔で、またメガネを持ち上げた。

「大工さんに来てもらうと、これだけの本を収納できるようにするためには、土台からやり直さなければいけない。

つまり、家を建て直さなければ無理だと言われました」

 坂根は口をゆがめて苦しそうに心情を語った。

「大工さんに、ところで、坂根さん、この古本とガラクタのために家を建て直すのと、本を処分して床を直すのと、どちらにしますかと訊かれました。

わたしはこのことで、胃潰瘍になるほど悩みました。

そして、決心したのです。

愛しい本を処分しようと。

ところが、何から手をつけていいかわからないし、途方に暮れていると、様子を見に来た大工さんが、これに行ってはどうかとチラシをくれました。

それがこの講座のものでした」

 そこで、と坂根の声は大きくなった。

「本を処分することは、わたしにとって、とてもつらいことでした。

まるで、血や肉を持って行かれるような気がして、心が悲鳴をあげそうでした。

しかし、男が一度決めたからにはと思い直したのです。

ところが、くら子さんの紹介で、ぽんぽん堂の恵比寿さんに本を持って行ってもらうと、さびしくなるどころか、妙にすっきりして、気持ちがよいのです。

はじめは、半信半疑でしたが、少しずつ片付けているうちに、捨てることが楽しくなって、加速度的にものが減って、納屋のがらくたもなくなりました。

がらんとした納屋で何かできないかと考えて、古い樽に畑の白菜を漬けることにしました」

「亡くなった母は白菜の漬物が得意で、昆布やリンゴの皮など、色々と工夫して入れてたのを思い出して、作ってみたのです。

これを大工さんにお礼に差し上げると、おいしいとほめられたので、あちこちに持って行くと、また、うまい、うまいで評判になりまして、今は本を読む代わりに漬物を漬けています。

実は、老眼が進んで、小さな文字の本を読むのもつらくなってきたので、ははは」

 坂根は目を細めた。

「自分にこんな新しい道が開けるとは思いもしませんでした。

新聞によると、これから男のおひとりさまや無縁死が増えるそうですね。

それで、わたしのような人間も多いのかもしれないと思い、何かお役に立てればと思った次第です。以上」

 拍手と共に、白菜の漬物が食べたいという声が起こり、坂根は来週持って来ますと、はにかんで応えた。

「次回は弁当箱に、ご飯を詰めてこようかなぁ」

まろみのつぶやきに、くら子は呆れた。

 次は、宮本和美だった。

「なんだか皆さんすごい方ばかりで、ふつーの主婦のわたしが参加して良かったのかと思っています。

それに皆さんのようにうまくしゃべれないし」

和美は、困ったような顔をして、唇を結んだ。

「でも、わたしのようなものでも、講師のお仕事ができるようになれば…」

声が震えて、先が続かなかった。

元アナウンサーの、串本あずさが助け船を出した。

「誰でも同じですよ。

わたしも始めは、人前でしゃべるのがこわかったんですよ」

ほんとに? と、和美はあずさをすがるような目で見た。

あずさは、こっくりとうなずいた。

「きっと、自己紹介があると、練習してきたのですけど、頭が真っ白になって」

車いすの町田栄津がもう一度、はじめからやってみたら? と提案した。

くら子もうなずいたので、和美は目をつぶって深呼吸をし、一礼してから自己紹介を始めた。

「わたしが『わくわく片付け講座』に参加したのは、母の遺品整理をして、娘にこんな思いをさせたくないと思ったからです。

だから、今のうちに身の回りを片付けようと思いました。

短大を卒業し、三年勤めて夫と職場結婚をしてから、ずっと主婦業でした。

娘たちも嫁にいき、ほっとしたところに鳥取の母が倒れ、遠距離介護が始まりました。

父はわたしが高校の時に亡くなり、女手一つで妹とわたしを育ててくれました。

だから、離れてはいても、できるだけのことをしたいと思い、高速バスで介護に通いました。

しかし、二年で母も逝き。

その後が大変でした。

田舎の古い家で、坂根さんのところと同じように、何もかも取ってありました。

わたしの三輪車からフラフープ、だっこちゃんのしぼんだ人形までありました。

あれって子供のころに流行ってたんですよね」

まあ、懐かしいという声に重なるように、わたしも遊んだという弾んだ声があがった。

「良かった。

やはり同世代の方々には通じるんですね」

和美が微笑むと、頬にくっきり二つのえくぼが浮かんだ。

はじめの緊張はどこへやらで、宮本和美は自己紹介を終え、拍手に包まれて頬を染めた。

次は、竜崎貴美香だった。

「わたしは、あるNPOに参加して、傾聴ボランティアを始めたのですが、三ヶ月でクビになりましたぁ〜」

貴美香は手刀で自分の首に手を当ててのけぞった。

深刻そうな話なのだが、貴美香のコミカルな動きに、笑いが起こった。

「なぜクビになったかといえば、訪問先のおばあちゃんに着物をもらったからですぅ。

物欲しげにしたり、ちょうだいちょうだいといった訳ではありませーん。

おばあちゃんが、何度も何度も、この着物を持って帰って着てちょうだいとおっしゃるのですぅ。

あんまり、何度も言われて、断るのも辛くなって、それではと、いただきました。

NPOでは、ものをもらっちゃいけないと言われてたんですけどね。

おばあちゃんがこんなに言うんだから、ま、いいかと思って。

ところがぁー」

貴美香は頭をぐるっと回して足を踏み出し、両手を広げ、歌舞伎のように見得をきった。

「よっ、竜崎や」と、コーケンこと佐伯弘憲が声をかけた。

笑顔で片手をあげて貴美香はコーケンに、ありがとさんと応え、姿勢を戻した。

「着物をもらってから、そのおうちに行く度に、あの着物はどうしたかとおばあちゃんが訊くんです。

何度も何度も。

でもね、ボケてるわけではないんですよ。

頭はしっかりしてました。

その上、ご近所に、高価な着物をボランティアさんにあげたと吹聴して回って。

そんな風に言われるとは思ってもみなかったし、うっとおしくなって、着物を返そうと思ったら、そのことがNPOの理事の耳に入って、ボランティアの風上にも置けないって、ジ・エンド」

貴美香は涙をぬぐう真似をして、ひどい話でしょうと訴えた。

うんうんとうなずくものもあれば、首をかしげる者もいた。

「そりゃあ、規則に反して、おばあちゃんに着物をもらったけど、その方がおばあちゃんが喜ぶと思ったからなんです。

それで、わかったのは、人間は年をとると、すごーくものに執着するようになる。

だから、一度人にあげたものでも、惜しくてたまらなくなるんです」

 反論しますと、司法書士の村上弘江が手を挙げた。

「確かに、そういうケースもあると思いますが、人にもよります。

先日、わたしに遺言書の作成を依頼された方は、八十八歳の女性でした。

子どもさんに先立たれて身寄りがないので、遺産はすべて、ある団体に寄付してほしいということでした。

そういう人もいますので、お年寄り全体を非難するような言い方は慎んでいただきたいと思います」

有無を言わさぬ口調だった。

そんなこといわれてもぉと、貴美香はふてくされた。

ヴィクトリア女王を気取る仙波克枝は、真剣に訊いた。

「それで、そのおばあちゃんの高価な着物はどうなったのでしょうか」

は? 着物ですか、と貴美香は首をかしげた。

「もちろん、そのままうちにありますよ」

 持ち時間終了のチリリンが鳴った。

「どうしておばあちゃんに着物を返さなかったのですか」

克枝は合図などお構いなしに詰問した。

「そりゃあ、NPOをクビになったから…」

貴美香は天井を向いて答えた。

大山が手を挙げた。

「着物より、ケイチョーってなんですか。

こちとら、慶長というと、徳川時代の慶長小判の慶長しか知りませんが、小判は関係なさそうだし…」

腕を組んで、大山は額に皺を寄せた。

「えーっ、わたしは慶弔って、よろこびごとやとむらいのことだと思ってたので、ボランティアで、なにをするのかと思ってました」

元動物探偵の陸奥慶子も知らなかったようだ。

まあまあと、有料老人ホームで相談員をしている栄津が割って入った。

「傾聴というのは、傾は傾ける、聴は耳へんの聴くという字を書きます」

くら子が立ちあがって、ホワイトボードに傾聴と書いた。

「くら子さん、ありがとうございます。

ええと、それで、意味はですね、相手の話にじっくり耳を傾けること。

高齢者の方は、話し相手がなかったりすることも多いので、そういう方のお話を聞くことです。

そうですね貴美香さん」

貴美香はこっくりうなずいた。

「聞くだけ? そんなボランティアがあるのですか」

経理一筋の梅森も思わず発言した。

 貴美香が答える前に、栄津がそうです。

ただ、と言葉を濁した。

 微妙な空気を察した元アナウンサーの串本あずさが、次の方が待っておられるのではないでしょうかとくら子を見た。

貴美香がボランティアをクビになったということはわかったが、なぜ、この講座に参加したのかはわからなかった。

しかし、確かにあずさの言う通り、順番を待つ身にすれば、つらいであろう。

人前でしゃべることが苦手な人や、自己紹介が嫌いな人は、前の人が早く終わらないかとじりじりし、他の人の話を聞くにも身が入らないだろう。

「そうですね。傾聴の話はまた改めてということで」

くら子は次の、明田輝を促した。

「姓は明るい田んぼの明田です。名前は…」

明田はホワイトボードに“明田輝”と書いた。

「これを見ると、明日輝くになるのですが、あきらと読みます」

「祖父がふざけた名前を付けてくれたもので、子供時代はからかわれましたが、仕事をするようになると一度で覚えてもらえるいい名前で、縁起がいいともいわれ、気に入っています」

グレイの背広に、えんじの地に白い水玉のネクタイを締めた明田はよく通る低い声で続けた。

「仕事は、脱サラして、ハウスクリーニングの会社を経営しています。

というと聞こえはいいですが、お掃除おばちゃんを派遣している小さな会社です」

 村上弘江が、おばちゃん? と、明田をにらみつけた。

いや、失礼、と明田は軽く手を挙げた。

「すばらしい熟女たちですな」

この発言で女性陣の目はますます厳しくなった。

「それで、まあ、熟女たちに頑張っていただいているのですが、皆さん忙しいのか、いわゆる汚部屋なるものが出現しまして、これは掃除以前の問題でありまして、お掃除おば…いえ、女性たちも困っております。

物をどけないと掃除ができないのですが、それがもう。

いやはや、なんとも想像を絶する状態でして、そこで、考えた末、汚部屋のコンサルタントを養成しようと思いましたが、ノウハウがないので、わたしがこちらで勉強して、教育をしようと思っている次第です」

 まろみがくら子にささやいた。

「明田さんの受講の動機には、そんなこと書いてありましたっけ?」

くら子は無言で首を振った。

 明田は、自分が社長としていかに努力しているか、どれほどパートの人たちに気を使っているかをとうとうと話した。

終了の合図のチリリンが鳴ると、明田はあとひとこと、と早口でまくしたてた。

「わたしは、わが社を日本一の会社にしたいと思って、一生懸命頑張る所存です」

「勝手に頑張れば」と、村上弘江が吐き捨てるようにひとりごちた。

「女性をたくさん使っていると、井戸端会議でいろいろ言われるもので、耳さとくなりましてな」

明田はにやにやしながら村上を見た。

「では、はっきり申し上げます。

わたくしの経験から言わせてもらえば、女性をバカにしている経営者で成功した人を見たことはありません」

なに!明田の表情が一瞬にして変わった。

「お前は自分が何さまだと思ってるんだ」

「あんたこそ、何さまよ」

険悪な空気が漂ったその時、明田の携帯が鳴りだした。

 講座を終えて、後片付けをしながら、まろみがくら子に訊いた。

「明田さんの着メロがウケてましたけど、鉄人なんとかって、なんですか」

手を止めて、くら子は笑いながら答えた。

「鉄人二八号よ。

昔流行った漫画の主題歌。

ビルの街にガオ〜ではじまるの」

「はぁ、鉄人ですか」

「料理の鉄人じゃないわよ。

鉄でできたロボットで、鉄人二八号」

 明田の着メロに、ささくれだった雰囲気が変わり、皆がなつかしいと微笑んだ。

当の明田は、携帯切るのを忘れてた、ちょっと失礼と、あたふたしながら部屋を出て行った。

明田にきつい言葉を投げつけた村上も、あの人、かわいいとこあるじゃないと、頬を緩めた。

 大山と坂根は、鉄人二八号のロボットを持っていたと胸を張った。

梅森とコーケンは、漫画で読んでいたと負けん気をみせた。

「わたしはバービーやタミ―ちゃんで、遊びました」

貴美香の言葉に、女性たちは、妹がうらやましかったとか、田舎にはなかったとか、話題には事欠かなかった。

 明田が席に戻った時には、次の自己紹介が和やかに始まっていた。

「ほんと、あの時は、ジェネレーションギャップを感じました」

まろみは情けなそうにくら子を見た。

「それは、生まれてなかったのだから、仕方がないわよ」

「でも、明田さんと村上さんのにらみ合いはこわかったです。

つかみあいのケンカになるんじゃないかと思いましたが、鉄人二八号に助けられましたね」

ハハハ、お陰で無事終了いたしましたと、くら子は最後の椅子を片付けた。

「しかし、皆さんすごいエネルギーですよね。

部屋が熱気でムンムンしてました」

バッグを肩にかけて、まろみはがらんとした部屋を見回した。

「そうねえ、それくらいでないと、講師はできないわね」

 エレベーターの中で、まろみは訊いた。

「全員が講師になれると思いますか」

「それはわからない。

もちろん、資質もあるけれど、結局はやる気かなあ」

「そういえば、宮本和美さんは自信がなさそうでしたね」

「話し方は、たいてい練習すればなんとかなるし、うまくしゃべれればいいというものでもないのよ」

「ただ、皆さんには強みがある」

「なーるほど」

 基本的に、「わくわく片づけ講座」に参加する人は、片付かない人である。

講座に参加して考え、悩みながら、モノの要不要を考え、行動した人たちである。

 これは一つの成功体験になる。

例えば、近所の散歩しかしていなかった人が、標高千メートルの、あの山に登りたいと思い、準備をして少しずつ登っていく。

途中で休憩したり、ため息をつくことがあっても、頂上にたどり着けば、目の前には今までに見た事のない新しい風景が広がる。

この感動と風景を誰かに伝えたいと思った時に、アドバイザ―講座への道が開けるのかもしれない。

また、片付けたいと言いながら、挫折したり、進まないのは、片付けを目的にしているからかもしれない。

目的と目標の違いについて考えてみると、例えば、本に載っているおいしいケーキが食べたいと思った時に、材料を買って準備をしてケーキを作る。

この場合、ケーキを作るのが目的ではなく食べるのが目的で、そのためにレシピ通りのおいしいケーキを作ることが目標になる。

 くら子とまろみは、事務所への帰り道、今日の講座を振り返った。

「ほんと、多彩な人たちが集まってくださったわね」

「そうですね、動物探偵には笑いましたけど。

そうそう、あのヴィクトリア女王は喰わせ者ですよ。

夫の喪中だからという黒ずくめの衣装も嘘っぱち」

まろみの声が高くなった。

「もしかしたら、克枝さんは女優さんなのかも」

はあ? と、まろみは気の抜けた声をもらした。

「そんなこと言ってませんでしたよ。

あの人なら真っ先に言いそうじゃないですか」

赤信号で立ち止まったくら子は、パソコンのバッグを置いてまろみを見た。

27章 アドバイザー講座(2部)

「それで、どうなったの?」という皆の無言の声に、くら子も笑いながら、慶子に続きを促した。

「それで、夫に、片付け方を習って、それを仕事にすればお金になるし、一挙両得だと言ったんです。

すると、夫はそれならすぐに行けというんですよ。

あんなにゲンキンな男とは思いもしませんでした。

だから、わたしは、夫を見返してやるために講師になって、バンバン稼いで、夫に、仕事もせずに家にいるなら家事をやれと言ってやりたいのです。

だから、がんばります。

おわり」

 大きな拍手に、慶子は赤くなって照れた。

くら子は自己紹介で、後に続く者のために付け加えた。

「誤解されないように申しておきますが、これは自己紹介であって、告白大会ではありませんので」

 何人かが、もっともだと首を縦に振り、何人かは笑いをかみ殺した。

「個人的なことを何もかも話す必要はありません。

かといって、何を話すかは皆さんの自由ですので、ご自分をアピールする場だと思ってください。

それから、講師になってバンバン稼げるかどうかは保証できません。

これは皆さんの活動次第です。

アドバイザー講座を受けたから、何もしなくても講座が開けるということはありませんし、日々、お互いに成長していけるように願っております」

 五番目は桑野光代だった。

「わたしはおひとりさまで、長年、某住宅メーカーでインテリアコーディネーターをしてきました。

しかし、経営が悪化し、社長が変わると組織も様変わりして、いわゆる肩たたきというか、仕事を回してもらえなくなり、退職しました。

フリーで仕事をしようかとも考えましたが、このご時世ですし、アラ還のわたしには、もうそんなエネルギーは残っていないと思いました。

職安、というと古いですね。

ええと、ハローワークに通いながら、もう一度、これからの生き方を考えようと思った時に、「基礎講座」のチラシがポストに入っていたので、冷やかしで参加してみる気になりました。

 はじめ、自分はインテリアの専門家だから、他の方々とは違うというプライドが邪魔をして、打ち解けられませんでした。

何百件という家の収納のプランニングをしましたし、素人と一緒に、今さら、片づけを習う? なんていう気持ちもありました。

 会場は、静まり返った。

「それに、白状すると、たかが片付けじゃないですか。

それなのに、こんな講座をして、どういう人間がしているのか見てやろうという、ひねくれたな好奇心が大きかったと思います。

だから、いつも一番後ろの席で腕を組んで、そんな事、言われなくても知ってるわよと、バカにして、冷やかに見ていました。

「基礎講座」でわかったのは、モノの片づけ方の前に、心の片づけをするというか、頭の整理なのだと思いました。

そして、ワークショップで、専門的な知識より、もっと、自分のことを考える講座なのだと気付き、また、皆さんが問題を抱えながらも前向きに進もうとしておられる姿勢に、わたしも、新しい仕事にもう一度挑戦してみたいと思いました」

光代は八重歯を見せて、微笑んだ。

「これって、ミイラ取りがミイラになったということですかねえ」

光代の問いに、数人がそうだそうだと応え、拍手と共に光代は一番前の席に戻った。

六番目は、司法書士の村上弘江だった。

「わたくしは、もう二十年ほど、この地域で司法書士をしております。

最近は、成年後見の依頼が多く、走り回っております。

先日も、うるさい訪問販売につきまとわれているおばあちゃんと一緒に、警察に行きました。

業者がおばあちゃんにいやがらせをするんです。

夜中に植木鉢を割ったり、そりゃあ、もう悪質で」

 村上は早口で、高齢者の被害の話をどんどん喋り続ける。

K社のどの講座でも、講座のはじめに受講者は、名札に名前を書く。

この時、各自が呼ばれたい名前を書くことになっている。

ニックネームでも、屋号でも、俳号でもよいが、呼ばれても自分だと気づかない名前はやめてもらうように呼びかけている。

なんでも良いとはいえ、男性はほとんど姓を書き、女性は名前を書く。

村上のように女性で姓を書くのは、長年仕事でそう呼ばれ、プライベートと区別しているからだろう。

 それまでの勢いと違い、村上の声が小さくなったのは、自分の片付かない話を始めたからだった。

司法書士の受験仲間二人と事務所を立ち上げたが、銀行や不動産関係の仕事を中心とする二人と、個人を相手に仕事をしたいと思っていた村上ではうまくいかなかった。  

 三年後、二人と別れて、自宅のマンションで仕事をすることにした。

これは、村上がバツ一で、一人暮らしだからできたことである。

こうして、仕事の書類がリビング、ダイニングを占領するようになっていった。

パートで事務の手伝いをしてくれている女性が、ある日、村上に宣言した。

これでは仕事ができません! 

しかし、業者に頼んで、大事な書類を人目にさらすわけにはいかない。

ということで、自分で片づけるのはどうすればよいか悩み、インターネットで「わくわく片づけ講座」を知り、参加したのである。

成年後見をしている高齢者が、多くのモノを持っていることは承知していたが、ここで、村上は成年後見のついでに、荷物のアドバイスもしてみようと考えたのである。

 茶色のスーツに白いブラウスの村上が自己紹介を終えようとしたところへ、おずおずと手が挙がった。

「あの、セ‐ネンコーケンって、なんでしょうか」

質問したのは、佐伯弘憲だった。

席へ戻りかけていた村上がくら子に同意を得て、壇上に戻った。

くわしく説明すると長くなりますので、簡単にしておきますと前置きして、村上はホワイトボードに「成年後見制度」と書いた。

「認知症などの判断力が不十分な方のために、不動産や預貯金の管理、また身の回りの世話や、介護についての契約などを本人に代わって支援する法的な制度です。

新聞などにも最近はよく取り上げられております。

詳しいことはきちんとお調べいただいた方がよいかと思います」

紋切り型の村上の説明に、佐伯がありがとうございましたと軽く頭を下げた。

 七番手は仙波克枝だった。

「わたしは五年前に愛する夫を亡くしまして、悲しみのあまり、遺品の整理ができなかったもので、基礎講座、ワークショップを受講しました。

そこで、ようやく過去と決別し、夫が天国で安らかに眠っている、もうこの世にはいない、わたしの呼びかけに応えてくれないのだと納得できました。

そこで、夫のモノは子どもたちも欲しがりませんので、何もかもすべて処分しました」

 桑野光代は、それは、まあ…と思わず手で口をふさいだ。

思い切りがいいと言えばいいが、そこまではやり過ぎではないかと内心考えている者も少なくなかった。

 克枝はまるで喪服のような黒いスーツで、首に一連の真珠をしている。

葬式の帰りだといってもおかしくない格好だった。

「来月の十五日が夫の祥月命日ですので、それまでは喪に服し、それからは自分の人生を生きようと思っています」

そこまでしなくても、とつぶやいた元動物探偵の陸奥慶子を克枝はキッとにらんで、すぐに視線をそらせた。

 男性は喪服の女性に弱いというが、男たちはおおむね克枝に同情的で、五年も夫の喪に服した貞女だと感心していた。

 女たちは冷めていた。

五年も夫のことを想い、嘆き、悲しんでいた女が、その夫のモノを何もかも処分するなんておかしい。

それに、いくら愛し合った夫婦でも、残された妻には、日々の生活があるのだから、亡くなった夫のことばかり考えてはいられないはずだ。

どうもうさんくさい、これが大方の女たちの見方だった。

 まろみはくら子にそっとささやいた。

あのう、克枝さんを見たことがあるんですけど。

くら子は、人差し指を立てて、あ・と・で、と遮った。

 女たちの冷ややかな視線を感じたのか、克枝は続けた。

「五年も喪服を着ているのをおかしいと思っておられる方もあるようですが。

確かに、ご近所の方でもそう、おっしゃる方もあります。

でも…わたし…」

 克枝は白いスワトーのハンカチで目をおさえた。

 まろみの、時間ですの声と共に、チリリンが鳴ると、皆がほっとした。

男たちは女の涙に弱いから。

女たちは見え透いた芝居にうんざりしていた。

 克枝は目尻を押さえて首をかしげ、ため息をついた。

「時間になりましたが、これだけは言わせてもらいます。

夫の喪に服すのは妻として当たり前のことです。

あの、イギリスのヴィクトリア女王様は、愛するアルバート公が無くなってから、ご自分が亡くなるまで何十年も喪に服しておられました。

わたしはヴィクトリア女王様をお手本に生きてきたのです。

これでおわかりいただけたでしょう」

 ヴィクトリア女王様? それは誰? 今の英国はエリザベス女王だろう。

いったい何の話? この人、頭がおかしいのじゃないの。

誰も克枝の話を理解していなかった。

 克枝の話は十九世紀のヴィクトリア時代後期のことで、この時代は社会規範を重んじた、つまり、建前の時代ともされ、死者を忘れない、あるいは忘れないふりをすることが重要なこととされていた。

 克枝はヴィクトリア女王のように胸を張って、席に戻った。

隣の大山が、いやあ、ごりっぱでしたよと声をかけた。

 まろみは我慢できずにくら子にささやいた。

この前、カラオケボックスで克枝さんを見かけたんです。

真っ赤なワンピースで、若い男の人と二人連れでした。

まろみちゃん、今はダメよと、くら子はまろみの口に蓋をした。

 次は車いすに乗った町田栄津だった。

「はじめに、わたしが車いすに乗っている理由をお話ししておきます。

なぜかと言えば、皆さん、悪意がなくても、必ず、どうして? どこが悪いの? と訊かれますので、ここでお話ししておけば、十何回もお話しする手間が省けますので…」

 膝に手を置いて栄津はゆっくり話し始めた。

「こう見えても、娘時代はお転婆でオートバイに乗っておりましたが、事故で下半身が動かなくなりました。

とはいえ、頭は人並みですし、腕の力もありますので、皆さんが想像されるほど不自由な生活はしていないと思います。

今日も自分で車を運転してきました。

これで、わたしの車いすのことはご理解いただけたでしょうか」

 ほとんどが黙ってうなずいていた。

「高校を卒業して、母の勧めで看護師の学校に入学し、三年間看護師をしましたが、仕事はきついし、病人や年寄り相手の仕事にいやけがさして辞め、モデルになりました。

といっても、デパートのチラシや、広告のモデルですけど、ちやほやされて楽しかった。

その後、オーディションを受けて、東京のモデルクラブに移ることになり、地元の友達と離れるので最後のツーリングに出かけて事故に遭いました。

夢はこなごなになって、また病院へ逆戻り。

それもベッドの上です。

そして、自分が患者になって、ようやく看護師の仕事がどういうものかわかったけれど、遅かった。

その後、何年も家に閉じこもり、死ぬことばかり考えていました。

 ある日、以前勤めていた病院の婦長さんがみえて、今は、有料老人ホームで働いているけれど、あなたも来ないかと誘われました。

看護師はできないけれど、相談員ならできるでしょって」

 栄津は、うつむき加減の顔を上げた。

「はじめは、婦長がみじめな私をからかいに来たのかと思いました。

退職して何年もたっているのに、覚えていてくれる人がいるなんて信じられませんでした。

婦長、いえ、元婦長と素直に接することができるまでに一年かかりました。

次の問題は、福祉の知識です。

看護師として、医療の知識はありましたが、福祉関係の知識はなかったので、通信教育で勉強をして、それから、ようやく、今のホームで働けるようになりました。

最後に、この講座を受講した理由です。

うちのホームでは、入所するのに何年かお待ちいただかないといけないので、その間に、荷物の整理をしてもらいたいと思ったからです。

単に、入所するのに荷物を減らして下さいと言っても難しいので、私が未来の入所者に「わくわく片づけ講座」のようなセミナーをしたいと思って参加しました。

よろしくお願いします」

 大きな拍手が起こり、栄津は照れながら、ぺこりと頭を下げた。

 少人数の講座でもあるし、通路はゆったりしているので、栄津はスムーズに席に戻った。

 次は、佐伯弘憲だった。

ホワイトボードに大きく自分の名前を書いて一礼した。

「名前はさえき、ひろかねです。

しかし、子どもの頃からコーケン、コーケンと呼ばれておりまして、今ではイチローと同じように、ただのコーケンですので、そう読んでいただきたいと思います。

それで、先ほどのように、セーネンコーケンといわれますと、自分が青年かと思ってしまいまして」

言いながらコーケンは照れくさそうに、ひげの伸びかけた顎に手をやった。

「そのセーネンコーケンが新聞に良く出てるということでしたが、わたしは新聞を読まないし、テレビも見ないもので、近頃のことはなにもわからない、浦島太郎状態です。

つまらない質問をしましてすみません」

 一同に、この男は何者だろうという興味が湧いた。

 日に焼けた顔に贅肉のなさそうなひきしまった体。ゴルフをしているようにも見えないし、農業とか建築現場だろうか。

皆が勝手な想像をしていた。

「なぜ、浦島太郎かといえば、竜宮城に行っていた訳ではないのですが、電波の飛ばない山の中で炭焼きをしていたからです。

息子が山の中で、両親は街中に住んでという、普通とは逆のパターンでして。

長年、親不孝をしていたのですが、母は腰が曲がり、くの字になって歩いているし、父も右に傾いてひょこひょこと、今にも転びそうで、久しぶりに親の姿を見て愕然としました」

 それが片付け講座とどうつながるのだろうという疑問に応えるようにコーケンは続けた。

「もともと、大手の広告代理店で営業をしていたのですが、バブルの時代に、あまりにもじゃぶじゃぶと金が使えるので。

もちろん、交際費です。

得意先の接待やなんだかやで、毎夜飲み歩いて、ホステスからもちやほやされて、舞い上がり、お決まりの浮気。

これで、離婚して、気がついた時には、バブルははじけて、わたし自身もはじけてしまいました」

 人の不幸は蜜の味というが、浮気や離婚という話に、皆の耳がダンボになった。

「ようやく軌道に乗った炭焼きの仕事も大切ですが、親はもっと大切です。

そこで、山と街の暮らしを半々にしようと思ったのですが、両親の家の中は大変なことになっていました。

腰が曲がった母の手の届く範囲にモノを置こうとするので、床からソファの上から、モノだらけで、足の踏み場もないほどでした。

父も足元がおぼつかない状態なので、重いものも持てませんし、片付けもできない状態でした」

 コーケンは、ゆっくり息を吸って、吐いた。

「一人になり、モノも処分して、リュック一つで炭焼きの小屋で暮らしていた私にとっては、ショックでした。

かといって、何かを捨てようとすると、父や母が待ったをかけるのです」

 コーケンは苦笑しながら続けた。

「わたしが子供の頃の、かき氷をする機械まで取ってあるんです。

そんなもの、誰が使います? 

一事が万事で、わたしがモノを捨てようとしていることがわかっているので、両親はわたしを交代で見張るようになりました」

 母親と二人で暮らしている梅森は、思い当たることがあるのか、ごくりと唾をのみこんでいる。

「とにかく、両親はわたしを一人にしないんですよ。

わたしはなんとかすきを狙って、押入れのモノを捨てようとするんですが、敵もさるもので、わたしがごみ袋に突っ込んでこっそり捨てたものを、また、黙って拾ってきましてねえ」

まろみが時間です〜と、合図のちりりんを振ると、コーケンは、この続きはまた改めてと、さっさと席に戻った。

拍手はコーケンの話のように、途中で浮いてしまった。

それで、どうなったの? と続きが聞きたいのに、盛り上がったところで、肩すかしを喰わされたようだ。

 くら子は、コーケンが、元広告会社にいただけに、うまい演出だと思った。

いいところで、続きは次回にと引っ張るところは、テレビの連続ドラマのようである。

しかし、このまま、次の人が話をするのはやりにくいだろう。

 くら子は立ち上がって、ここで、休憩にしましょうと宣言した。

 まろみが水で喉を潤し、ふぅと息をついた。

「なんだか、濃い〜人たちばかりですねえ。

圧倒されました」

「そうねえ、個性豊かで、エネルギーがあふれているみたいね。

だいたい、何かする時に一期生の人と言うのは、優秀でエネルギッシュな人が集まると言われているから」

「なぜでしょう」

「新しいということは、前例がないということでしょ。

当然、リスクもあるのに、それでもチャレンジしてみようという人たちは、やっぱりバイタリティがないとね」

「確かに、それでは二期生は?」

「だいたいパワーが落ちるわね。

だって、一期生は人の通ったことのない道を進もうとする人たちで、二期生は安全だと確認してその足跡をたどるのだから」

「なーるほど」

まろみはこくんとうなずいた。

「だから、期待しているのよ」

「そうですね。ユニークな人ばかりですし…でも、あのヴィクトリア女王様は大うそつきですよ」

 まあまあ、落ち着いてとくら子はまろみの腕をぽんと叩き、自己紹介を再開しましょうと立ち上がった。

「松本未世です。

区役所に勤めていましたが、昨年退職しました。

嘱託で残る話もあったのですが、もう、充分だと思いすっぱりやめました。

実は夫も同様で、職場は違いましたが、一緒に辞めました。

二人で新しいことをしたいと思いました。

わたしたち夫婦は、自分で言うのもなんですが、片付けは得意です。

というか、モノを持たない主義ですので、片付ける必要がないというか…例えば、うちの冷蔵庫にはビールしか入っていません。

夏には特別にスイカが入りますが、夫の好物なので、へへへ」

 村上弘江は、くの字の眉を吊り上げて、信じられないとつぶやいた。

村上の言葉が聞こえたのか、未世は苦笑して続けた。

「皆さん、そうおっしゃいます。

でも、これはわたしたちが結婚した時に決めたことです。

朝は近くの喫茶店へ行って二人で新聞を読みながらモーニングを食べます。

昼は食堂、夜は近所の居酒屋です。

だから、家で料理もしないし、買い物の必要も無い。

冷蔵庫もビールだけ。

休みの日は二人でリュックを背負って山に登ります。

子供も作らないと決めていました。

このようなシンプルな生活を送ってきましたので、掃除も楽でした」

 今の時代ならこのような夫婦がいてもおかしくない。

しかし、三十年以上も前から料理はしない、食事は外食、洗濯や掃除の家事は分担という暮らしを聞いて、恐れ入ったという顔が多かった。

 未世はそのような反応には慣れているので、無視した。

「昼間も家にいるようになって、近所のおばあちゃんのうちに回覧板を持って行くと、まあ、モノの多いこと。

というより、何があるのかわからないほどで、保険証を探すのを手伝って欲しいと言われて驚きました。

定年まではご近所とのつきあいもほとんどなかったのですが、これはえらいことだと思いました。

まさか、自分の町内にゴミ屋敷予備軍がこんなにあるとは思いませんでした」

くら子は「ひきとりや」の健さんの話を思い出していた。

おじいさんが以前手放した箪笥や棚を返せと言ってきたと。

やはり、片付けは早めにしなければ手遅れになってしまう。

 未世もこのことに気づいたようだ。

「退職して、二人で山小屋で暮らそうかと思っていたのですが、まだ元気なうちに、自分たちにできることがあるのではないかと思うようになりました。

二人で考えているところに、【わくわく片付け講座】のチラシがポストに入っていました」

 くら子とまろみは、また顔を見合わせた。

チラシの謎は深まるばかりだ。

「片付けが得意なわたしたちにとって、お金を出して片付けを習うということが不思議だったのですが、片付けられないということはどういうことなのかを知るために参加しました。

この話をすると、意外なことに、友人知人が皆、興味があるというのです。

緊急の問題ではないけれど、気にはなっているという人がほとんどでした。

そこで、わたしは片付けの伝道師になることに決めました。

よろしくお願いします」

27章 アドバイザー講座(1部)

まろみは案内を送ってから一週間で届いた申込書をまとめて、くら子に渡した。

カリキュラムの変更に伴い、アドバイザー講座を新設したが、応募があるだろうかと危ぶんでいた二人の不安は解消した。

「こんなに反響があるとは思いませんでした」とまろみは踊り出しそうである。

 新しいカリキュラムでは、講座が二段階になっている。

知識と考え方を中心とした二時間の「基礎講座」。

やり方さえ分かれば、あとは自分ですいすいできる! という人はここで、卒業である。

 やり方はわかったけど、さて行動に移すのは腰が重い。

何から手をつければいいのか、あと一歩が踏み出せない人のためには一日のワークショップ。

ここでは、一人ひとりが実習をしながら、なぜ行動に移せないのか、自分に合った片付け方を考えてもらう。

 アドバイザー講座は、「わくわく片付け講座」のワークショップ卒業生対象で、基礎講座の講師を養成する講座である。

 ワークショップ卒業生としているのは、自分が抱えていた問題を解決した人にこそ、その経験を伝えて欲しいと思うからである。

そうねえと、ハガキの名前と受講動機を見ながら、くら子は「わくわく片付け講座」の卒業生の顔を思い浮かべた。

 一番多かったのは、不要な物を片付けて、どれだけすっきりしたか、暮らしが変わったか、自分の経験を人に伝えたいというもの。

また、これはゴミ屋敷の問題と共に、いずれ社会問題になるから、少しでも世の中に貢献したいという視点もあれば、単純に“教える”という立場に魅力を感じた人もいた。

 くら子は以前から、講師の養成を考えていたが、なかなか実行されなかった。

そこへ、現在は撫子ホームを経営しているさくら(12章、きっかけは松花堂弁当)から、メールで“さっさとやりなさい”と檄が飛んだ。

 そこで、さくらにお尻を蹴飛ばされるような形で、アドバイザーを養成することになったのである。

さくら曰く、二人がいくら「わくわく片づけ講座」で頑張っても、砂漠に五百ミリのペットボトルで水をまくようなものよ。

それより、五百ミリでいいから、まく人を増やしなさい。

確かにそうだ。

くら子も頭ではわかっていたものの、行動に移せないでいた。

 二人が驚いたのは、男性が三分の一を占めたことだった。

今までの講座でこんなことはなかった。

カリキュラムの変更で、似合う色のパーソナルカラーやメイクが別講座になったことと、最近問題になっているゴミ屋敷や、テレビで取り上げられた無縁死の問題が、男たちの重い腰を上げさせたらしい。

 アドバイザー講座で学び、モノを減らすことや自らの体験を伝え、社会に貢献するということも動機になったのかもしれない。

定年で仕事を離れた男たちが、突然地域のコミュニティに飛び込んだり、ボランティアをするというのはハードルが高い。

かといって、行く所もなく家にいるとぬれ落ち葉といわれ、妻と共に出かけようとすると、友達と遊びに行くからついてくるなと邪険にされる。

しかし、わくわく片付け講座の講師となれば、やりがいがあり、生きがいになり、会社という組織で肩書と共に働いてきた男たちの自尊心をくすぐるのだろう。

講師と言っても、収入はわずかなものだが、人の役に立つというのがエネルギーになるのかもしれない。

 男性の講師が増えれば、男性の受講者も増えるだろうし、男たちのネットワークが広がれば、ゴミ屋敷の予防にもなるかもしれない。

さくらはこのことも見通していたのだろうかと思いながらくら子はぼんやり窓に目をやった。

 リサイクルショップ「ひきとりや」の健さんこと小渕賢治がビルの前にいる。

(2章、片付かないから離婚に登場)

窓を開けて、くら子は、健さん、うちに用ですかと声をかけた。

 小渕は手土産の豆大福をまろみに渡した。

「近くに用があったものだから…」

あい変わらず、高倉健を崇拝している健さんは、言葉も少ない。

 最近のリサイクル事情を聞こうと思ったくら子に、小渕は、実は困ったことがあってと首に手をやった。

 八二歳の男性が、三年前に手放した車箪笥や茶棚を返せというのである。

骨董品として価値があるというほどのものでもなかったので、たいした値段はつかなかった。

むしろ、小渕はゴミで出せばお金を取られるのだから、わずかでも金が入れば恩の字で、人助けだと思っていた。

「どうやら、ボケがはじまったみたいなんだ。

うちが勝手に持って行ったと近所で吹聴してるらしい」

「もちろん、物はもうないのでしょう?」

小渕は頷いた。

「ご家族は?」

「八王子に息子がいるらしいけど、ほとんど寄りつかないみたいで、ひとり暮らし」

「難しいケースですね」

 重苦しい空気を破って、まろみがお茶を運んできた。

「お持たせの豆大福でーす」

まろみも座って豆大福を頬張りながら、訊いた。

「おじいさんにお友達とか、親しい人はいないのですか」

「それがねえ、昔は市議会の議長だったそうで、人に頭を下げたりできない人だから…」

小渕の答えに二人は納得した。

自分の役職や仕事に対しての敬意を勘違いして、己が偉いと思い込んでしまう。

また、せっかくの人の厚意を素直に受け取れず、孤立して、意固地になっていく。

このタイプは男性に多い。

小渕の口はますます重くなった。

「どうやら、河原でモノを拾って来てるみたいなんだ」

キャー、ゴミ屋敷! とまろみが素っ頓狂な声をあげた。

これこれと、くら子はまろみをたしなめた。

「それで、家の中はどうなってるのですか」

「誰も家に入れないから、よくわからないけれど、たぶん…」

「それで、そのおじいさんは、誰に健さんが箪笥を盗ったと言ってるのですか」

「近所の交番のおまわりさん」

まろみは肩をすくめて、「Oh, No!」とつぶやいた。

「それで、健さんは警察から事情聴取ですか?」

「まあ、向こうも承知してるみたいで、確認の電話で済んだけど」

 小渕の話によると、今までにも、店に品物を持って来た時は、いくらでも引き取ってもらえればありがたいと言ってたくせに、後から、あれはもっと価値ある品だったから返してくれと言う人はいた。

しかし、今回は話が違う。

それに、小渕は「ひきとりや」が中傷されることより、その老爺のことを案じているのである。

かといって、余計なおせっかいはしたくない。

くら子は妥当な線を提案した。

「町内会の会長さんとか、民生委員の方とか、そういう方からご家族に連絡してもらうとか」

小渕がその手はもう試したと首を振った。

くら子はこれもダメかとひとりごちた。

「くら子さん、難しい顔をしてないで、小渕さんが持ってきてくださった豆大福をいただいたらどうですか」

まろみは二つ目にとりかかっている。

そうねえと苦笑しながら、くら子は菓子鉢の豆大福を手にした。

 小渕はがぶりと茶を飲んだ。

灯りが点ったようにくら子の顔が突然輝いた。

「確か、NPOで、ゴミ屋敷のサポートをしているところがあったはず」

小渕は本当かという顔でくら子を見た。

 資料を手に、くら子が応接コーナーに戻ると小渕が豆大福を食べていた。

「まあ、健さんは甘いものが嫌いじゃなかったのですか」

驚くくら子に、健さんも、豆大福の威力に気がついたそうですと、まろみがうれしそうに三つ目にかぶりついていた。 

 小渕がくら子が紹介したNPOに相談してみるということで、話は終わった。

「健さんもいい人ですねえ、あかの他人のおじいさんの事でそこまでするなんて」

「その方が亡くなったお父さんに似てらっしゃるらしいのよ」

「顔が? 似てるんですか」

「顔とかじゃなくて、明治の男と言うか、頑固で人を頼ることができない人だったらしいわ」

なーるほど、健さんらしいと納得して、まろみは仕事の続きをするためにパソコンに向かった。

 くら子は改めて、アドバイザー講座の重要性を考えた。

以前、「インターネット茶屋」の御堂夫妻に男性向けの片付け講座の企画を依頼されたが、実行できなかった。(24章、男やもめに花を咲かそう!)

 講座のカリキュラムを変更したことで、女性だけでなく、男性も受講してもらえるようになった。

 アドバイザー講座を卒業した人たちには、ぜひ、同じような悩みを抱えている人たちに体験を分かち合うことで、輪を広げて欲しいと思った。

講座の初日は秋晴れの良い天気で、幸先のよいスタートだと思われた。

 アドバイザ―講座は計一八時間で、三日に及ぶ。

くら子はワークショップの卒業生がどれくらい参加してくれるか心配だったが、予想を上回る数だった。

なぜ心配だったかといえば、ただワークショップを修了したのではアドバイザー講座の受講はできないからだ。

自分自身が暮らしや生き方を考え、片づけを済ませないと、アドバイザーとして自信を持って受講者に体験を話すことができないからである。

 この講座では、基礎講座についてはもちろんだが、講師としての基礎的な知識、マナー、講座の開き方など実務的なことも含まれている。

 講師経験のない人も、ある人も、教えてやるという、上から目線でなく、片づけを経験した先輩としての立場で語ってもらうスタイルである。

 机上の空論?! より、ひとつの体験! それがねらいである。

また、アドバイザーがいきいきと活躍する姿が、ひとつのモデルになれば、後に続く人も増えるだろう。

そういう意味でも、第一回のアドバイザ―講座は重要である。

くら子は身のひきしまる思いだった。

定員十五名に十六名の応募があった。

一名くらいは当日のキャンセルがあるかと思い、十六名に受講票を送ったが、全員出席だった。

この世代の人々は概ねまじめである。

また、申し込みも、はがきかファックスなので、手書きである。

自分で手間暇かけて申し込むのと、ネットで申し込むのとでは明らかに違いがある。

 インターネットが普及しつつある今、ネットで申し込みの講座が多い。

しかし、ネットで簡単に申し込む人は連絡もせずに休んだり、ひどいのは申し込んだことさえ忘れていたりする。

 ある講座では三十名の募集に四十五名の申し込みがあり、四十名に受講通知を出し、五名はキャンセル待ちだった。

それにも関わらず、出席は二十二名である。

欠席の連絡も当日朝の一名だけ。

これではキャンセル待ちの人に連絡もできない。

こういうことが現実に起こっている。

今回の受講者は五名が男性である。

くら子がなるほどと思ったのは、五名のうち四名がネクタイを締め、残り一名はノーネクタイだが、ジャケットにワイシャツである。

つまり、全員仕事モードで、社員研修という感じだろうか。

女性はと言えば、これは様々で、スーツ姿は二人。

セーターが五人、カーディガンが二人、トックリのセーターにベストが二人だった。

アドバイザ―として基礎講座で人前に立つには、当然、自己紹介から始まる。

ということで、くら子は一人ずつ、ホワイトボードの前で自己紹介をしてもらうことにした。

 時間は一人三分である。

三分といえば短い気もするが、きちんとしゃべろうと思うと、結構長い。

ここでは、上手に喋れることよりも、人前でしゃべることの難しさを体験してもらうことが重要だと思っている

 自己紹介一番手の大山義明は、朝礼で話すように、慣れた口調で経歴を語った。

京都の私大の工学部を卒業し、三年前まで勤めていた会社は社員五百人の工作機械の工場で、湾岸の埋立地にあり、最後は工場長だった。

工場では当然、工具の配置や整理整頓は率先して行っていたが、自宅の片付けとなるとまったくだった。

定年後、一人暮らしになって途方に暮れていたところに、「わくわく片づけ講座」のことを知った。

この不景気で再就職のあてもなく、時間だけはあるので冷やかし半分で参加したら、工場と同じように、必要なものを必要なところに置き、収納するものは取り出しやすいところに入れ、不用なものは処分すると、基本は同じだということがわかった。

そこで、と言いかけたところで、くら子が三分ですとストップをかけた。

「これからがいいところなのですが」と大山は残念そうだ。

「そのいいところを話していただくのが自己紹介では大切なことですね。

皆さんは、大山さんのお話の続きを聞きたいですか」

ハイと答えたり、うなずいたりで、皆が続きを待っているのがうかがわれた。

実はと、薄い後頭部に手をやって、大山は天井に目をやり、唇をかみしめた。

「定年した途端に、妻が離婚したいと言い出しまして、いや、お恥ずかしい」

口ごもった大山に、一番前の席の光田寛一が気にすることはないですよと声をかけた。

大山はありがとうございますと光田に軽く頭を下げ、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して額の汗を拭いた。

「わたしにはなんで離婚しなきゃならないのか、さっぱりわからなかったのですが…。

妻は、そのわからないところが問題なのだと、離婚届を置いてさっさと出ていきました」

 会場には気まずい雰囲気が流れた。

「最初は頭にきて、酒を飲んだりしましたが、しょせん夫婦は他人なのだし、お互いに理解できないのなら、別れた方が良かったんだと思うようになりました。

未練がないと言えば嘘になりますが…」

 そんなことまで言わなくていいのにという空気をよそに、大山は続けた。

「昼間から酒を飲んで、家の中もぐちゃぐちゃでカビが生えそうになって。

なんとかしなきゃあなあと思っている時に、基礎講座のチラシが郵便受けに入っていたもので…」

 くら子とまろみは顔を見合わせた。

それは、おかしい。

チラシのポスティングを業者に依頼したことはないし、新聞に折り込み広告を入れたことも無い。

だから郵便受けにチラシが勝手に入るはずがないのである。

大山の熱弁は続いている。

基礎講座でカビが生えそうな家の中はある程度まで片付いたが、すっきりとまではいかなかった。

また、基礎講座で知り合った人たちとの会話も楽しく、ワークショップも受けることにした。

正直なところ、他にこれといってすることもないし、アドバイザーになるのも悪くはないなと考えていたからである。

「女房が、いや、元妻がいなくなって良かったなと思うことは、家の中でタバコが吸えるようになったことです。

以前は、受動喫煙だとか、たばこのにおいがカーテンに移るとか、灰が飛ぶとか、いろいろうるさく言われておりましたが、今はのびのびです」

大山の言葉はから元気に聞こえるが、本人は気付いていなかった。

 くら子がチリリンとベルを鳴らした。

えっ、まだ、終わっていないのですがと、大山はくら子を見た。

「次の方も、じりじりして待っておられるので、交代していただきましょう」

大山はしぶしぶ席に戻った。

 二番手の串本あずさは、元アナウンサーで、シャネルタイプの薄いブルーのスーツを着て、落ち着いた声で話しだした。

 マイクを使わなくても、声が通り、聞きやすい。

 やっぱり腹式呼吸でしょうかねえと、まろみはうっとりして聞いている。

「ここ十年ほど朗読のボランティアをしてきました。

二人の息子もようやく独立して、家の中を片付けようと思った時に『わくわく片づけ講座』のことを友人から聞き、参加しました。

家がすっきりしたので、お友達をお呼びしたら、片づけ方を教えて欲しいと言われて驚きました。

こちらの基礎講座に参加するようにお勧めしたのですが、知らない方と一緒では気が進まないということで、それならわたしがアドバイザーになって自宅で講座を開けたらいいなと思い、参加しました」

“あずさマジック”にかかったように、皆、うなずいている。

 くら子は、話術の巧みさもあるが、大部分はあずさの人柄だと思った。

元アナウンサーでなくても、話し方のうまい人、声のよい人はいるが、それだけでは人は動かされない。

不思議なもので、いくら表面を取り繕っても、人前で話をすれば人間性が透けて見える。

「できれば、サロンのようなものにしたいと思っています。

片づけ講座と共に、料理やお菓子、ネイルの教室を予定しています」

 女性の何人かの受講者は、自分にもサロンが出来るかしらと、胸算用を始めていた。

 あずさが時間通りに自己紹介を終えると、梅森清次郎の番になった。

 梅森は、ええーっと、と言ったきり、唇をなめて言葉が出ない。

まろみが、助っ人に出ましょうかと、くら子の耳元でささやいた。

 まろみを制して、くら子が梅森の横に立った。

「梅森さんのお宅は片付きましたか」

ハイと応えて、梅森はぽつりぽつりと母親との生活を語り始めた。

「母と二人暮らしです。

母は足が悪くて…うちは、父の遺品もそのままだし、ものがいっぱいでどうすればいいかわからなくて…新聞と一緒に講座のチラシが入っていたので。

母が、ここに行って、片づけ方を習って、家を片づけてくれ。

そうでないと死ぬにも死に切れないと云うもので…」

 新聞にチラシ? くら子は驚きを隠して、仕方なく来られましたか? と訊いた。

 梅森はうううと低い声で唸った。

「そ、そうではないのですが、どういう講座かよくわからなかったし、それに…ええと」

梅森の顔がみるみる赤くなった。

「女性向けの講座だと思われたのでは? 」

梅森はほっとしたように、こくりとうなずいた。

「お宅は片付きましたか」

「すっきりして、母が気持ち良くなった。

これで安心して冥途にいけると言ってます」

「お母様のお加減は悪いのですか」

「いえ、それが…ガラクタを捨てたら、元気になって、あれこれうるさく言うようになりました」

「なるほど、それで?」

「母が、清次郎は片付けに向いているから、アドバイザの講座に行って、勉強して来いというもので」

 申し込みの書類によると、梅森は六十二歳である。

 梅森の言葉が途切れた。

「梅森さん、一度、深呼吸をして、肩の力を抜いてください」

会場はしんとして、がんばれという声もあり、梅森も大きく深呼吸をした。

何人かが、我がことのように、同じように深呼吸をしているのが肩の上下でうかがわれた。

「し、仕事は…長年、印刷会社で経理をしていましたが、パソコンで…素人でも名刺や印刷物ができるようになり、三年前に倒産しました。

それ以来、無職です」

「お母様はどうして片付けに向いているとおっしゃったのですか」

くら子の問いに、梅森は、はにかみながら答えた。

「片付けの方法がわかると、楽しくなったからです。

どこに何をどういう風に置くと、使いやすいか、片付けやすいかを考えるのが面白くて、棚を吊ったり、家具の配置を変えたりもしました。

母は、それで喜びました」

 まろみがチリリンとベルを鳴らした途端、席に戻ろうとした梅森に拍手が起こった。

信じられないという顔で、梅森は深く頭を下げた。

 四番目の陸奥慶子は物おじしない性格だった。

「わたしは、長年専業主婦をしていました。

夫が定年になって、今度はわたしが働く番だと思いました。

とはいっても、手に職もありませんし、何をしたらよいかわからない、だけど、少しは世の中のお役に立つことをしたいと思いまして、ある仕事を考えたのです。

なんだと思われますか」

慶子が受講者をゆっくり見まわした。

自分の番が終わった大山は自信満々で答えた。

「このアドバイザーの仕事でしょう」

「違うんです」

慶子は一呼吸置いて、皆の反応を楽しんでいた。

「実は、動物探偵をしようと思ったのです」

何だ、そりゃという声があがった。

「いなくなったペットを探す探偵ですよ。

シャーロック・ホームズみたいな」

あはははや、おほほという笑い声が起こった。

ホームズがペット探しをするかねえというつぶやきもあった。

「皆さん笑いますけど、わたしは真剣だったんです。

それで、行方不明のペットを探しますというチラシを作って、スーパーの伝言板に張ってもらいました」

「依頼はあったのですか」と一番前に座っている桑野光代が思わず訊いた。

「ありました。それも次々と」

 それなら、なぜここにいるのかという疑問に応えるように慶子は続けた。

「依頼はたくさんあるけれど、行方不明のペットを一匹も見つけられなかったのです。

だから、お金ももらえなかった」

 話しながら、慶子はうなだれた。

これには皆、吹き出した。

梅森も口を開けて笑っている。

「そうなんです。

人間なら、行方不明でも、知り合いとか、いろいろ探す手立てがあるようですが、動物はしゃべってくれませんからねえ。

わたしが警察犬みたいに鼻がきいたら少しは違ったのかもしれませんが、犬や猫の写真を持ってうろうろしても、名乗り出てくれませんでした」

会場は大爆笑で、涙を流している者もいた。

「それで夫が、犬猫を探しまわるより、家の中を片付けろと怒りました。

わたしはカッとなって、自分も家にいるんだから自分で片付けなさいよと言うと、そんなことできるかと言うんです。

どう思います? 

大山さんや梅森さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですよ」

大山は、おほんとうれしそうに咳払いをした。

「わたしはもともと片付けが苦手なので、それなら、片付け講座を受けるから、金を出せというと、なんで片付けを習いに行かなきゃならないんだと申します。

これだから女は困るとか、世の中のことをわかってないとか、ほんと、石頭なんだから」

 ここで、はい時間ですとチリリンが鳴った。

26章 片付けとダイエットの関係

 友人と、ランチの約束をしていたまろみは駅への道を急いだ。

携帯電話を忘れて、途中で引き返し、遅くなったのである。

二十分遅れるとメールを送ったら、“了解”と返事が来た。

 日曜の繁華街は人が多く、待ち合わせのデパートの前も人だかりがしていた。

きょろきょろと探したが、見つからないので、電話をかけた。

 近くで呼び出し音が鳴って、お互いが二メートルほどの距離にいることがわかった。

十年ぶりに会った友人は別人のようだった。

道ですれちがってもわからなかっただろう。

「久しぶり、まろみは変わらないわねえ」

「元子? うそぉー、きれいになった!」

まろみは元子の上から下まで視線を走らせた。

「ありがとう。

さあ、久しぶりにランチに行きましょ」

今日はイタリアンが食べたいと、元子はまろみを引っ張って、足早に歩き始めた。

 生ハムとメロンの前菜に二種類のパスタ、デザートはカプチーノとパンナコッタを注文した。

からすみのパスタと、菜の花と蛍イカのパスタを分け合いながら、まろみは一番気になっていたことを訊いた。

「どうやって、やせたの?」

「簡単よ。毎日何を食べたか記録して、栄養のバランスや量を調整したの。

もちろん運動もしたけど」

「それで、やせられるの?」

「わたしが、その証拠でしょ」

元子はつんと顎を上げた。

「まあ、そうだけど、何か特別な秘密があるのかと思ってさ」

まろみはフォークにパスタをぐるぐる巻きつけながらも、疑っている。

「体質で、どうしてもやせられない人はいると思うけど、それを別にしたら、基本的には、本人が本当にやせたいかどうかだと思う。

といっても、今の若い子たちみたいなガリガリのモデル体型はいただけないわね」

 ふーんと、まろみはパスタを口に運んだ。

「エステで脂肪を取ってもらうとか、そういう手もあるんじゃないの?」

「そういう人もいるけど、自分が努力しないでやせると、元の木阿弥」

「わたしもね、いろいろ、なんとかダイエットの本を読んだことがあるけど…」

「そういう人が多いけど、読むだけじゃあダメなのよ。

だって、料理の本を何冊読んでも、作らなければ食べられないし、料理の腕はあがらない、でしょ」

「確かに、ところで、洋服は全部新しいのを買ったの?」

 まあねと、元子は口ごもって、時計を見た。

 ごめん、まろみ、もう行かなくちゃと元子は手を合わせた。

「えっ、どうして?」

「彼と映画を見に行く約束があって…デザートまで食べられると思ってたけど…」

せっかく久しぶりで会えたのに、というまろみに、デザートは全部あげると、元子は食事代を置いて出て行った。

遅刻したから自分が悪いけど、やっぱり、友達より男なのねと、まろみは二人分のデザートを黙々と平らげた。

やせたのは彼のせい? それとも、やせたからカレシができた? どちらが先? それが問題だと思いながら、まろみはスプーンを置いた。

 翌朝、まろみが一五分遅刻で出勤すると、珍しく応接コーナーに来客の気配があった。

邪魔をしないほうがよいと判断して、まろみはパソコンに向かった。

ドアの隙間から漏れてくる声によると、相談は、何冊も整理や片づけの本を読んだが片付かないということだった。

まろみは昨日の元子との会話を思い出した。

ダイエットの本をたくさん読んでもやせられないと言ったのは自分だ。

結局、ダイエットと整理や片づけの言葉を置き換えれば同じことなのだ。

「わくわく片づけ講座」でもくら子が、魔法の杖はないのだから、すっきりしたいと思ったら、自分が決断し、動かないと片付きませんよと言っているではないか。

それに、続けることが大切だとも。

耳にタコができるほど聞いていたはずなのにと考えながら、無意識に机の脚をつま先で蹴った。

イタタという声に、くら子が応接コーナーから飛び出してきた。

「どうしたの? 何かあった?」

「いえ、なんでも、ありません」

なんだか、大きな音がしたけどねえと、くら子はちらりとまろみを見た。

「ネズミじゃないですか?」と、まろみはとぼけた。

二人の会話は来客にも聞こえ、キャッと悲鳴が上がった。

 くら子は来客にまろみを紹介した。

交換した名刺の肩書きは小学校の校長だった。

弁天珠美は欽輪小学校に勤めている。

珠美が相談に来たのは、生徒たちに片づけの話をして欲しいという依頼だった。

「今の小学校はいろいろ大変でして、学級崩壊に父兄の対応、給食費の回収、ストレスを抱えた先生が休職と、きりがなくて…おかげでうちは家庭崩壊の寸前で、恥ずかしながら家の中も大混乱なんです」

苦笑しながら、珠美は、片づけられない子供が多いので、わかりやすく話をしてもらいたいと言った。

これは子どもの問題というよりも、親が片づけをしないので、子どもに片づけろというのが無理な話で、本当なら親をなんとかしないと…と口を濁した。

「今、流行りの出前授業ですか」

まろみの声が半オクターブ上がった。

「はい、そうです。

わたしも自分の家のことがあるし、いろいろ本を読んだのですが…これがどうにもねえ。

それに、外部の大人の方にお話ししていただくのは、子どもたちにとっても刺激になりますし、片づけ方とお仕事の話もしていただけたらありがたいです」

「いつも中高年の女性向けの講座をしていますので、小学生相手というのは…」

渋るくら子に、珠美は大丈夫ですと請け合った。

「ところで、このビルにはネズミがいるのですか」

「いえ、さっきのは頭の黒いネズミです」

まろみは横を向いて舌を出した。

ああ、なるほどと納得して、珠美は上機嫌で事務所を後にした。

「さすがに校長先生ね、ネズミは嫌いらしいけど、ここ一番の押しが強い。

それに、片付けるのにまず本を読むというのも…」

そういえばと、まろみは昨日の元子との会話を思い出した。

 手帳に欽輪小学校の予定を書き込んでいるくら子に向かって、忘れないうちにとばかりに、まろみは宣言した。

「くら子さん、わたしは真理を発見しました」

それはそれはと、くら子は面白そうにまろみを見て、コーヒーでも飲みながらゆっくり聞きましょうと台所に向かった。

片付けとダイエットは同じなのですと、まろみはコーヒーには手をつけず、真剣だ。

「なるほど、どういうところが?」

「本を読んだだけでは変わらない。

知識だけでは頭でっかちで、行動が伴わないとダメだということです」

「確かに、整理や片付けの本が次から次へとたくさん出版されるけど、本を読むだけだは状況は変わらない。

ダイエットはそれ以上にたくさんの本が出ているわね」

そうでしょうとまろみは身を乗り出した。

次は?と、くら子はカップの茶色い液体を覗き込んで訊いた。

「一度に結果を出そうとすると失敗する」

くら子は頷いた。

「それに、下手をするとリバウンドがくる」

「これで三つ」

「継続することが大切で、万人向けの方法はないし、魔法の杖も無い」

お見事とくら子は手を叩いた。

えへんと、まろみは胸を張ってコーヒーを口にした。

「真理を発見したのだから、小学校の件はまろみちゃんにお願いしようかしら」

げほげほとむせたまろみに、冗談よとくら子は背中を叩いた。

一ヶ月後、四年生の教室でくら子は黒板に名前を書いて自己紹介をした。

次に、教室のまん中の机を四つくっつけるように子どもたちに促した。

なにが始まるのかと思いながら、子どもたちは集まった。

くら子は持ってきた大きめのトランプを机の上にふりまいた。

「それではゲームをします。

赤の組と黒の組と二人ずつ代表を選んでください」

始めは譲りあい、がやがや言いながら四人が決まった。

くら子は隣にいた髪の長い女の子にタイマーを渡し、もう一人には記録係を命じた。

「それでは、この中から、それぞれ二枚ずつ七のトランプを探してください。

時間を測ってもらいます。

他の人は手を出さないでね」

赤組は十五秒、黒組は十七秒だった。

こうして何回か繰り返した。

 次にカードを赤のダイヤとハート、黒のクローバーとスペードに分け、取りやすいように並べてくださいと四人に言った。

まわりではがやがやと騒がしいが、相談しながらどちらもエースからキングまで順番にカードを並べた。

「それでは、七を取ってください」

四人は迷わずカードに手を出した。

「何秒ですか?」

「一秒です」

「それでは七のカードを戻してください」

四人は迷わず、元の場所にカードを戻した。

「今、七を戻してもらったけど、どこに戻すか、すぐにわかったかな?」

わかったという素直な声と、バカにしてるのかという不審な顔が入り混じった。

「おばさんの仕事は、今のことを大人の人に教えてるのです」

「えーっ、大人でも、トランプのできない人がいるの?」

「今は、トランプで実験してもらったけど、たとえば、これが教科書や鉛筆だったらどうなるかな? 

ぐちゃぐちゃになってると、探すのに十五秒かかる。

きれいに並んで、場所が決まってると一秒で探せたし、すぐ元のところに戻せるね。

この元の所に戻すというのが、一番難しいかもしれない。

それでは質問です、忘れ物をしたい人は手を挙げて―」

くら子はゆっくりと見回して、誰もいないようですねと念を押した。

 校長の珠美がいつの間にか、くら子の後ろでにこにこしながら聴いている。

 五〇分の出前授業を終えたくら子は、校長室に案内された。

謝金を受け取り、領収書にサインをしているくら子に向かって、珠美がしみじみ言った。

「片付けというのは、子どものころから習慣にするのが一番ですね」

唇に笑みを浮かべたくら子が顔をあげると、珠美はデスクのカギのかかった引き出しを開け、小さな缶を取り出した。

 珠美がそっと蓋をあけると鮮やかな色が溢れた。

マカロン!と声を上げたくら子に珠美はおひとつどうぞと差し出した。

「わたしは、イライラした時に、これを一つつまむのです。

職員に八つ当たりするより、わたしが太るほうがましですからね」

 それでは、いただきますとくら子はオレンジ色のマカロンを口に入れた。

 珠美は、あと半年で定年退職をしたら、書家として作品を発表したいと思っていると、突然、個人的なことを話し始めた。

 珠美の実家は裕福で、子どもの頃から身の回りのことはすべてお手伝いさん任せの生活で、珠美はピアノや書道、日本舞踊と習い事に忙しかった。

 親の反対を押し切って職場の同僚と結婚したが、家事は全然できず、料理は学校の帰りにデパートで総菜を買って帰った。

共働きを承知していた夫は料理をしない妻に不満を言うことも無く、家事を分担してくれた。

一人娘が結婚をして出て行き、夫婦二人の生活になったが、珠美が校長になったことから夫婦の間にひびが入った。

もちろん、勤め先は違ったが、夫は教頭のままだった。

そして、夫は同じ学校の女性教師と不倫をし、それが発覚して退職の末、家を出て行った。

 話を聞きながら、くら子はなぜ、珠美がこのような話を、しかも校長室でするのか不思議だった。

くら子の戸惑いを感じた珠美はこんな話を聞かせてごめんなさいねと詫びた。

「わたしにはこういう話ができる友達がいないのです。

前に、家庭崩壊寸前だって言いましたけど、もう崩壊してるんです。

毎日虚勢を張って校長先生を演じてるだけで、身も心もぼろぼろ。

ストレスと比例して食べる量も増えて、体重が十キロも増えて、着られる洋服がなくなって。

今日の子供たちじゃあないけれど、積み重なった洋服の中から着られる洋服を探している生活です。

子供たちのためと言いながら、これはわたしのための出前授業だったようです」

「一度、ゆっくり休みを取られてはいかがですか」

「そうですね、そうしたいのは山々ですが、あと半年ですから…」

くら子は、それまでに、体を壊してしまうのではないかとは思ったが、口をつぐんだ。

「半年たったら、『わくわく片付け講座』を受講させていただきます」

「わかりました、お待ちしております」

半年後、事務所に珠美が現れた。

「その節はお世話になりまして」

珠美は別人かと思うほどだった。

やせて腰がスッキリし、以前は白髪が半ばだった髪も染めていた。

「ダイエットをなさったのですか」

くら子の問いに、珠美はくくくと口に手を当てた。

「くら子さんのせいですよ」

えっ、そんなとくら子が口ごもると、珠美はうふふと楽しそうだ。

 まろみもお茶を出して、くら子の隣に座った。

 くら子の出前授業の後、担任の先生が風邪で休んだ時には珠美が授業をすることにして、
くら子のように、トランプを使って子どもたちと片付けゲームをした。

 その時に、生徒の一人が訊いた。

「トランプはなぜこんなにたくさんあるの?」

「足りないとゲームができないから」

他の生徒が答えた。

そうかなあという声が起こった。
そこで、良い機会だと、珠美は生徒たちと考えた。

例えば、トランプは1から13まで必要だろうか。1から8でも7並べや神経衰弱はできる。

絵札のハートとスペードだけでもできる。

実際にやって見ると、あっけないほどゲームは早く終わる。

驚いたのは、トランプをしたことがないという生徒がかなりいたことだった。

そして、カードが少ないと早く終わるけれど、面白くない、つまらないと、子どもたちは正直に口にした。

 この後、珠美は気がついた。

カードがたくさんあるというのは選択肢が多いということだ。

子供たちには未来が広がっている。だから、いろいろなカードが必要だ。

しかし、半年後に退職する自分の未来にどれだけの選択肢があるのか、たくさんのカードはいらない。

年を取ったら、カードを減らすことを考えなければならない。

整理や片付けの本にも、捨てること、減らすことが書いてあったが、頭では理解できても、行動にはつながらなかった。

これは、モノの問題だけではない、仕事もそうなのではないか。

なんでも首を突っ込むのではなく、校長としてするべきことだけをすればいいのではないか。

教頭に任せられることは、任せればよいのではないか。

 頭の整理をしなくてはと考えた珠美は三日の休暇を取って、温泉に行った。

環境を変え、温泉につかり、散策し、これからのことを考えた。

 こうして、珠美は残りの半年を乗り切り、退職したのだった。

 まろみが我慢しきれず訊いた。

「ダイエットされたのですよね」

「ええ、食べた物を記録しはじめたら、どれだけ甘いものを食べていたか、スーパーのお弁当にどれだけ油が使われているか、びっくりしましたよ」

 まろみは続けた。

「運動はされました?」

「運動とは言えませんけど、毎朝、学校まで五十分歩きました」

 珠美は冷めたお茶を飲んで続けた。

「このダイエットのお陰で、記録するということが重要だと思い、次に、どのカードを捨てるかを書きだして、次に捨てたモノを記録しました」

それでどうでしたか、とくら子は先を促した。

「サイズの合わない洋服から始まって、学校の古い資料、名簿など書きだして、休みの日に片付けていきました」

「すっきりしましたか?」

「ええ、自分でも意外でしたけど、まるで長年苦しんでいた便秘が解消したみたい」

その気持ちよくわかりますというまろみの言葉に女三人で笑った。

「そこで、今日うかがったのは『わくわく片付け講座』の申し込みをしたいと思いまして」

「もう必要ないと思いますけれど」くら子は笑顔で応えた。

「モノは減りましたけれど、これからの暮らしをもう一度考えたいし、それに…」

くら子は続きを待った。

「友達ができるのではないかと思いまして」

「書道のお仲間がいらっしゃるのではないですか」

珠美は首を振った。

「上下関係の厳しい世界ですし、展覧会で賞を取ろうという人たちの集まりでは、皆、ライバルなんです」

「なるほど、校長先生ではなく、弁天珠美さんとしてのお友達ですね」

ええ、ええ、そうなんですと珠美はくら子の手を握った。

 珠美が帰ると、まろみは机に向かった。

「どうしたの、まろみちゃん」

くら子の問いに、まろみは振り向いて答えた。

「今朝、食べた物を記録してるんです」

「なるほど、ダイエット開始ね。

それでは、三時のおやつは、わたし一人で豆大福をいただきます」

まろみはいやいやと首を振った。

「ダイエットと言っても、豆はからだにいいし、バランスが大切ですから、大丈夫です」

 豆大福を頬ばりながら、まろみは珠美の言葉を思い出した。

「珠美さんも、校長先生という肩書が重かったのでしょうね」

「確かに、そうね、比較的男女の差は少ない世界だと言っても、女性の校長というのは、わたしたちが想像する以上に大変で、孤独だったでしょうから」

まろみは、珠美のストレスは仕事のことだけで、夫の不倫や離婚のことを知らない。

「ところで、来週の『わくわく片付け講座』のテキストの準備は終わっているでしょうね」

いえ、今…はい、すぐしますと、まろみはもうひとつ豆大福を手にして出ていった。

 わたしたちの仕事も、まんざら捨てたものじゃないと思いながら、くら子はまろみの後ろ姿を見送った。

26章終了

25章 死ぬまで元気ぃー?(2部)

「くら子さんの講座のことを話したのは姉だけど、きっかけは、会員の方の井戸端会議なの」

 会員の一人が、メンフィス行きのトランク選びの話から、ある女優の話をした。

それは、テレビで還暦を過ぎた女優が、この世とおさらばする時には、身の回りの品はトランク一つくらいにしておきたいと発言したことに始まる。

 このことで、賛成派と、なにもそこまで派と、後のことなど知らない派の三つに分かれた。

 賛成派はもちろん、トランク一つまで荷物を減らすことを良しとした。

なにもそこまで派は、現在の荷物を減らすことを考えればそれでよいのではないかという意見だった。

後のことなど知らない派は、自分がいなくなったら誰かが何とかするだろうから、そんな心配はしないのだそうだ。

この派は家族と同居が多く、賛成派は一人暮らしが多かった。

「そんな事から、片付けなくちゃという話になったの。

そこで、くら子の事を思い出して。

わたしの友人にこういう講座をしている人がいますって紹介したのだけれど…」

「お陰さまで、ナイアガラの滝のようなファックスが来ました」

くら子の皮肉はマキには通じない。

「とにかく、いい機会だと思うのよね。

メイクやパーソナルカラーの講座もあるんでしょ。

会員の人たちも楽しみにしているから、よろしくね」

 手土産にと、ケイから手渡された風呂敷包みにスコーンが入っていた。

 事務所に戻ると、まろみが電話の最中だった。

 くら子が出かけた後、SGCの会員からの問い合わせの電話が続いたそうだ。

「講座の日程が決まったら、ケイさんが、会員の方たちに連絡してくれるそうだから」

まろみは、それを早く言ってほしかったと口をとがらせた。

「ケイさんからお土産をもらってきたのだけれど…」

くら子はまろみの前で風呂敷包みをぶらぶらさせた。

途端に、まろみの表情が真剣になり、鼻の穴をぴくぴくとふくらませた。

「これはケーキかクッキーのにおい」

「スコーンでーす」

くら子が言い終わらないうちに、まろみは風呂敷包みをひったくって、台所に行ってしまった。

 三ヶ月後。

SGCの会員向けの『わくわく片づけ講座』を開催するにあたり、くら子はケイに相談した。

事前にアンケートをとってもらい、「トランクひとつ派」「なにもそこまで派」「後のことは知らない派」を調べた。

 名簿を見ながら、まろみが計算し、報告した。

「トランク派」が一割、「そこまで派」が七割、「知らない派」が二割です。
 スコーンにかぶりついているまろみの前で、アールグレイの紅茶を飲みながら、くら子はSGCのメンフィス旅行から始まった、トランクひとつの話をした。

「なるほど、冥土の旅にはトランクひとつですか」

「ふむ、言い得て妙だけど…」

くら子は、カップを置いて、タイ焼きとスコーンを消化せねばと立ち上がった。

え、タイ焼き? そんなものはどこにもなかったと、まろみはまたふくれた。

「まろみちゃん、最近疲れてるみたいね」

「はい、いろいろと忙しいもので」

「マキさんがもう一人くらいエルビスのツアーに参加できるっておっしゃってたけど」

「えっ、もしかして出張扱いですか?」

「もちろん、自費です」

あーあ、やっぱりと、まろみは最後のスコーンにかぶりついた。

「くら子さん、ひとつわからないのですが」、まろみが首をかしげた

「知らない派は、別に片づけなんて気にしてないのに、なぜこの講座に参加するのですか」

「これはわたしの推測だけど、第一に、皆が参加するから参加したい。

半分は井戸端会議みたいなものだし」

「いないと、どんな悪口を言われるかわからない! というやつですか」

「それは極端な話だけど。

第二に、片づけは気にしないと言いながらも、どこかで気になっている」

「確かに、そうかもしれませんね」

「それに、そんなことを考えたこともなかった人が、『トランク一つ』の話で、意識が変わるかもしれないしね。

そこで、この三つの派を各グループに振り分けてちょうだい」

「了解」

 SGCの会員向け「わくわく片付け講座」は、朝十時から夕方五時までの一日講座である。

七、八人で一つのグループになり、実習などをすることになる。

 午前中は、メイクやパーソナルカラーで、なりたい自分のイメージを決める。

講座で一番盛り上がるのはこの時間である。

 お互いに批評しながら、眉を描いたり頬紅を塗るのは、男性にはわからない楽しみであろう。

また、シンプルライフを標榜し、いつも素ッピンを売り物にしている女性も、皆に、こんな機会に遊んでみたらと誘われ、薄いメイクをすると顔色が良くなり、若く見えると言われてまんざらでもない様子である。

 パーソナルカラーで、似合う色を診断されると、これでたんすのこやしも、似合わないとわかったから思い切って処分できるという声が多かった。

 「後は知らない派」の河内未冬は、似合わない服は置いておけば誰かが着るだろうから、処分することはないでしょうにねと、隣の村井敦子に話しかけた。

「誰かって、誰ですか?」

敦子の問いに未冬はびっくりした。

「そりゃあ…家族がいるから…娘とか」

「娘さんと洋服のサイズは同じですか」

「娘はわたしより背が高いから…体重はわたしの方があるけど」

それでは、無理ですねと言う敦子の言葉に未冬はむきになった。

「まあ、娘はダメでも、妹がいるから、体型は似たようなものだし」

「洋服の好みは似ていますか」

「違うわよ。

妹は長年公務員だったから…」

 テーブルの他の五人も静かになり、二人の会話に注目した。

「だったら、誰も未冬さんの洋服を着る人はいないのでは…」

未冬の声が高くなった。

「な、難民に寄付するとか、いろいろあるじゃないの」

「誰がいつ難民に寄付するのですか」

それはと、未冬は黙り込んで下を向いた。

「そんなにいじめなくても、いいんじゃないの」

初世が言葉をはさむと、幸恵がいじめてるわけじゃないでしょと敦子をかばった。

「だって、未冬さんが洋服を溜めこんで、山ほどのゴミを残してあの世に行ったって、家族が困るだけで、わたしたちには関係ないのだから」

初世は取りなしているつもりだったが、逆効果で、未冬の顔色が変わった。

「初世さん、わたしの洋服がゴミばっかりだというの」

いえ、なにもそんなことは、ねえ、皆さんと、おろおろしながら同意を求めたが、無駄だった。

「今はゴミでなくても、いずれゴミになるということよ」

幸恵の強い口調に、未冬は鼻をすすっている。

「とにかく、今日は、片付けのお勉強に来たのだから、最後まで先生のお話を聞いたらどうかしら。

それに、まだ皆さんメイクの途中で、眉の形が整っていませんよ」

年長の輝美の言葉に、六人はいそいそと鏡を手にした。

「しかし、ホテルの宴会場で講座をすると、豪華なランチが食べられて幸せです」

まろみが、目の前の幕の内弁当を前に、舌なめずりした。

「そうねえ、百人が入る会場で、食事の提供ができるところと言うとホテルしかないでしょうねぇ。

これも会費に含まれているから」

 二人は会員とは別のテーブルに座っていた。

ケイは食事がいきわたっているかどうか見て回っており、マキはどこかのテーブルで話しこんでいる。

まろみは箸の先の人参を見ながら、ささやいた。

「こんな梅の形に切った人参を久しぶりに見ました」

「そうねえ、和食は味だけでなく、目で見て美しいのも重要な要素だから。

ぜいたくと言えばぜいたくだけど…」

 二人がのんきに人参の話をしている頃、未冬のテーブルではまたしてもゴミ問題が蒸し返されていた。

「さっきの話ですけど、わたしの洋服がゴミなら、敦子さんや幸恵さんの洋服はゴミじゃないのですか」

敦子が答えようとするのを制して、幸恵がほっときなさいと言った。

「ほっときなさいとはどういうことよ」

未冬は箸を置いて立ち上がった。

「今は食事の時間です」

幸恵は未冬を無視して箸を動かした。

「わたしの洋服がゴミと言われたままでは、食事ものどに通らない」

「それなら、食べなきゃいいのよ。

ダイエットになっていいかも。ふふん」

「わかりました」と未冬は口をへの字に結んだ。

未冬と幸恵の間には輝美が居心地悪そうに座っている。

きょろきょろした後、未冬は弁当に手をかけた。

はっとした輝美が止めようとして手を出したのが、まずかった。

幸恵のところへ行く前に躓いて、輝美の頭に料理がぶちまけられた。

うわっ、キャッ、えーっ、そんな、さまざまな声があがり、未冬はぼうぜんとして突っ立っている。

輝美が頭を振ると、小さな梅干しと高野豆腐が床に飛んだ。

 ケイが素早く行動した。

「輝美さん、化粧室に行きましょう。

くら子さんは未冬さんをティールームにお連れしてください。

他の方々はお食事を続けてくださいね」

 ざわつく会場内に、マキがマイクで、お静かに、食事の後にはコーヒーか紅茶が出ますと案内した。

 カフェでロイヤルミルクティーにブラウンシュガーを三つ入れて、スプーンでゆっくりかき回している未冬は目に涙を浮かべていた。

くら子もコーヒーを飲みながら、未冬の言葉を待った。

店内にはピアノの曲が流れていた。

「輝美さんに、あんなことをしてしまって、わたし…」

「なにがあったのですか」

 未冬は自分の洋服がゴミだと言われて腹が立ってかっとしたことを話した。

「洋服はわたしにとって大切な物です。それを…」

 未冬の母は洋裁が得意で、ワンピースやコートまで仕立ててくれた。

未冬に似合う襟の形やラインはいつも他人にほめられた。

母が亡くなっても、洋服を買う時は、その形にこだわった。

「わたしは、今でも洋服で母とつながっているのです」

「幸恵さんは、そのようなご事情をご存じでなかったでしょうね」

未冬はこくりと頷き、涙を流し、しゃくりあげながらつぶやいた。

「こんなことをして、もう、この会には参加できなくなりますね」

「そんなことはありませんよ。

輝美さんもわかってくださると思いますよ」

そうでしょうかと、未冬は上目遣いにくら子を見た。

「事情が分かれば、みなさんもわかってくださると思いますよ。

この講座でパーソナルカラーを取り入れているのは、一つには洋服の処分をしやすくすることなのです。

女性はなかなか洋服を処分できないので、似合う色が分かれば、似合わない色の洋服に別れを告げやすくなるかと思いまして。

二つ目は、今後の洋服選びのご参考という意味ですが」

「そこが問題なのです」

くら子は、未冬が“自分の似合う色”に不満なのかと思った。

ごそごそとバッグの中から“自分の似合う色”のカラーサンプルを取り出し未冬は、

小豆色のジャケットに重ねた。

「ほら、この色と私が着ている服と、ほとんど同じ色でしょう」


確かにそうだ。

「洋服のデザインもですが、色も、私に似合う色はこの色とこの色という風に、母は教えてくれていたのです」

「だから似合う色の洋服しか着ておられないということですね」

「そうです。だから、余計、捨てられない」

くら子は腕を組んで考え込んだ。

「未冬さん、お母さまが残されたのは洋服でしょうか。

それとも、未冬さんの個性を大切にしなさいということでしょうか」

くら子の言葉は未冬には意外だったらしく、切れ長の目を見開いた。

「個性?」

「そうです。未冬さんらしさを引き出すには、この色で、このラインと考えておられたのでしょうね」

「わたしらしさ?」

くら子は頷いた。

未冬の母が残したのは洋服ではなく、輝いて生きて欲しいと願う母の思いだったのではないだろうか。

冷めた紅茶を飲みほして、未冬は胸を張った。

「もう一度、ゆっくり考えてみます。それに輝美さんや…幸恵さんにも…謝ります」

二人がテーブルに戻ると、輝美も笑顔で席についていた。

「おかえりなさい」

思いがけない幸恵の言葉に未冬の声が震えた。

「輝美さん、みなさん、ごめんなさい」

 午後の講座はなごやかに進んだ。

三時のコーヒータイムに、未冬は立ち上がって、テーブルの一人ひとりの顔を見て、ありがとうございましたと頭を下げた。

「なにもしてませんけど、なんのお礼ですか」

敦子が訊いた。

「いえ、いいんです。

お礼が言いたかっただけなので」

未冬の笑顔に皆は顔を見合わせた。

 母が教えてくれたのは、自分らしく輝いて生きることであって、洋服を貯めこむことではなかったのだと気付かせてくれた感謝の気持ちだった。

トランク一つとはいかないまでも、母の思い出というモノに執着するのではなく、これからの自分に目を向けたいと思った。

「ところで、幸恵さんはトランク一つに何を詰めるのですか」

突然の問いに幸恵は躊躇せずに答えた。

「思い出と感謝」

皆の手が止まった。

「わたし、癌なのよ」

ごめんなさい。そんな事とは…と未冬は絶句した。

幸恵は手を振った。

「いいのよ。気にしないでください。

早いか遅いかの違いだから」

 未冬は今日のこと、幸恵のことを忘れないでおこうと思った。

25章 終了

 

25章 死ぬまで元気ぃー?(1部)

 深夜のK社の事務所で、赤いランプの灯った旧式のファックスがカタカタと巻紙のように大量に紙を掃き出している。

 朝、事務所のドアを開けて、あかりのスイッチを押したくら子は、目の前の光景に立ちすくんだ。

床に白い紙が広がっている。

一瞬、泥棒かと思い後ずさりしたが、他に異常はないので、恐る恐る近寄って見るとファックスの紙だった。

 しゃがみ込んで紙を巻いていると、まろみがおはようございまーすと能天気に現れた。

「くら子さん、なにしてるんですか」

「大量のファックスが来たみたいで、この通りよ」

くら子は顔をしかめた。

「もしかして、いたずらとか、いやがらせ? 悪質ですねえ」

それがそうでもないみたいと、くら子は手元の紙に目をやった。

 ファックスは紙がなくなった印の、黄色いランプがチカチカしている。

「どういうことですか」

まろみも紙を集めた。

「それが、『SGC』って、知ってる?」

「さあ、聞いたことないですね。

しっかり、がっぽり、貯金する集まりとか…シニアゴールドクラブ、これだとカード会社にありそうだけど。

シングルガールクラブ、セクシーギャルクラブなーんて、ちょっといかがわしいけど、ありそうな…イヒヒ」

「あのね、セクシーギャルが来る訳ないでしょ。

全部、次回の『わくわく片付け講座』の申し込みなのよ。」

「ほんとだ、会員番号まで書いてある」

「でも、どこの会員かはわからない。

ざっと見ただけで五〇人は超えてるでしょう」

まろみは立ち上がり、FAXの操作盤の蓋をあけた。

「紙がなくなってます。

紙を入れたら、まだまだ来るかもしれません。

どうします?」

「とにかく、紙を入れてみて」

 ファックスに紙をセットしながら、まろみはまだ考えている。

「鮭に、胡麻に、ちりめんじゃこで、SGC」

「はあ? 今度は何なの」

「ふりかけ愛好会なら、こうなります」

なるほどと言いながら、くら子は連なった申込書を一枚一枚はさみで切り離していった。

まろみがファックスの蓋を閉めた途端に、ピーと鳴り、またズズズと紙をはきだした。

「あれぇー、どれだけ来るんでしょ」

「新記録をどれだけ更新するか見ものねえ」

くら子はファックスを見て、面白そうに腕を組んだ。

「しかし、くら子さん、これでは…」

「別に、天地がひっくり返った訳ではないのだから心配することないわよ。

それよりファックスの紙はまだあったかしら」

「買い置きはこれで終わりです」

「小学校の前のブンブン堂で買って来てくれる?」

まろみが事務所を飛び出してから、くら子は申込書を一枚ずつ見ていった。

「やっぱり」

 まろみが事務所に戻った時、くら子は電話中だった。

ファックスはまだせっせと動いている。

「このファックスも新しいのに換えれば、床が紙だらけになることないのに、こういうところがケチなんだから…」

電話が終わったくら子は、まろみをじろりとにらんだ。

「ちゃんと、聞こえてるわよ。

古いからといってまだ使えるものを捨てるわけにはいかないでしょう」

はいはい、と答えるまろみに、ハイは一回でいいの、というくら子の声が飛ぶ。

まろみが調子に乗って訊いた。

「ところで、この超常現象はどこから来たのですか?」

「これは、超常現象でも、心霊現象でも、シンクロニシティでも、悪魔や妖怪の仕業でもありません」

くら子は断言した。

 まろみは、宇宙人や不思議なことが大好きなので、がっかりしたようだ。

くら子は朝からの騒ぎでばたばたしたから、コーヒーでも淹れましょうと台所に移動した。

まろみもひとりでは落ち着かないらしく、付いて来た。

「興奮したら、血糖値が下がったみたいで、甘いものが欲しくなりました」と、まろみはクッキーの缶を抱えている。

なんだか、よくわからない理屈だけれど気持ちはわかると、くら子はマグカップにコーヒーを注いだ。

 まろみはチョコチップクッキーをかじりながら訊いた。

「それで、このナイアガラの滝のようなファックスはなんなのですか」

 ナイアガラとはオーバーねえと、くら子は笑ってコーヒーを一口飲んだ。

 くら子の古い友人のマキ・G・ロブが数年前から家事評論家として活躍している。

中高年の女性に向けての講演活動をしていくうちに、ファンクラブができ、それが発展してSGCという団体になった。

活動は、インドのアシュラムへヨガの修行に行ったり、フィレンツェマラソンに参加したり、トルコ料理を味わう旅をしたりである。

「その、マキなんとかさんって、外人ですか」

「大阪生まれの大阪育ちの日本人よ。

イギリスの人と結婚して、十年くらい向こうにいたみたい」

「家事評論家ってよくわからないのですが」

「勝手に肩書をつけたんじゃないの。

よく知らないけど」

「なんだか冷たい言い方。

はは〜ん、その人が嫌いなんだ」

「嫌いな人とは友達にならないわよ。

嫌いな人は単なる知り合いと言います」

「それで、それで、SGCは?」

まろみは身を乗り出した。

くら子は笑いをかみ殺しながら答えた。

「死ぬまで元気クラブだって」

「…? クラブ活動ですか、変なの」

「要するに、“ピンピンコロリ”」

はあ? ピンコロリンですかと言いながら、まろみはこっそり三つ目のクッキーを手にしていた。

「まろみちゃんは知らなかった? 

死ぬ前までピンピンしてて、コロッと逝きたい願望」

「うちのおばあちゃんがお参りしている“ぽっくりさん”みたいなものですかねえ」

「それはお地蔵さんとかでしょ。

この人たちは、自力で頑張ってるみたいよ」

 まろみは四つ目のクッキーに手を伸ばしたところを、くら子に押さえられた。

「糖分取り過ぎ」

ばれましたーと頭をかきながら、まろみはファックスに目を向けた。

「アッ、止まってる」

ほんとだと、くら子はまた波を打っている紙をかき集めた。

まろみはくるっと椅子を回転させて、それで、どうしてこの人たちが申し込んだのですかと訊いた。

「マキさんが、SGCの新年会で紹介したらしいの」

 申込書を確認しながら、くら子は、会員の平均年齢は五十台後半と見当をつけた。

「でも、家事評論家のファンクラブがなぜSGCなんですか」

「マキさんは手抜き家事の提唱者なの、それで時間を作っていろんなものを見たり食べたり、心の栄養になるような体験をしましょう。

楽して死ぬまで元気でがんばろう、っていうのがコンセプトらしいのよ」

「なんとなく、ファンになるのがわかるような…」

「マキさんの話によると、不要な物がたくさんあるから、家が狭くなって、掃除も手間がかかるし家事も増える。

そこでうちの『わくわく片付け講座』を紹介してくれたわけ」

「しかし、マキさんの影響力はすごいですね」

「そうねえ、最近はカリスマらしいから。

それに、会員の人たちも内心、荷物を減らしたい、身軽になりたいと思ってらしたのじゃあないかしら。

そこへマキさんが、ぽんとひと押し、スイッチを押したものだから、ドッカーン」

「今度の会場には入りきれませんよ」

「マキさんに連絡をして、日程を改めて連絡することにしたわ。

事前に話をしてくれれば良かったのだけれど」

「お話はなかったのですよね」

「そう、あの人は段取りとか、根回しとかとは無縁の人だから」

「ひぇー。そんな人が、家事評論家なのですか」

「妹さんがマネージメントをしているから、本人は言いたい放題なのよ。

そういう規格外れの人だから、日本ではうまく生きられないと言って、イギリスに行ったのだけれど、時代が変わって、そんな彼女に魅力を感じる人が大勢いるらしい」

「それでは、次回の講座はいつも通りですね」

「ええ、明日にでもマキさんのところに行って、SGCの件は相談してくるから」

 翌日の午後、くら子はマキのマンションを訪れた。

インターホンで名乗ると、どうぞと、一階玄関ホールの大きなドアが開いた。

一八階でエレベーターを降りると、ゴールドのジャンプスーツを着たきらきらのマキが立っていた。

宇宙人みたい。

 あいさつもそこそこに、くら子は訊いた。

「マキさん、その衣装は?」

「これ? 来月、皆でエルビスに会いにメンフィスのグレイスランドへ行くから、その時のための衣装の仮縫い中」

 ジャンプスーツの袖を振ると、長いフリンジが揺れ、まばゆさが増した。

 ゴージャスで飾り立てたリビングを想像していたくら子は、目を見張った。

 和室で床の間があり、窓には障子がはまり、家具と言えば座卓と、茶棚だけだった。

フリンジを翻しながらマキは座布団を勧めた。

「びっくりした?」

マキは楽しそうだ。

「ええ、予想外でした」

「イギリスの生活でわかったのは、昔の日本の畳の生活がいかに素晴らしいかということ。

この部屋だと、お掃除も、ささっとはたきをかけて、箒でぱぱっと掃くだけだし」

 今の時代に、はたきや箒のある家がどれだけあるのか。

くら子には新しい畳のにおいが懐かしく感じられた。

「確かに、気持ち良さそうですね…」

「くら子の言いたいことはわかるわよ。

年を取ったら椅子やベッドの生活が楽だってことは、でもね、十年後二十年後に備えるより、今を大切にしたいのよ。

膝が痛くなって和室がつらくなったら模様替えをするか、もっと狭い部屋に引っ越すわよ。

ロンドンでずっと椅子の生活をしていて、どれだけ畳に寝転がって手足を伸ばしたいと思ったことか」

確かに、そのお気持ちはよくわかりますとくら子は答えた。

くら子さん、こんにちはと、お盆を手に、マキの妹のケイが現れた。

「また、姉さんのくだらない屁理屈を聞かされてるんでしょ。

あれこれ言ってるけど、畳の部屋が恋しくなっただけよ。

そのうち飽きるから」

 マキはフンと横を向いた。

こういうところは昔と変わらない。

ケイとくら子は顔を見合わせて笑った。

 番茶の横には鯛焼きが添えられていた。

マキはむしゃむしゃと頭から鯛焼きにかぶりついた。

「それで、SGCの人たちがどどっとファックスを送ったんだって」

くら子は尻尾から鯛焼きをかじりながら、そうですと答えた。

ケイも鯛焼きの頭をかじりながら、姉さんまた何かやったのとマキをにらんだ。

くら子は、姉妹というのは、性格は全く違うのに、鯛焼きの食べ方は似るものなのかと思った。

「それで、今日うかがったのはSGCの『わくわく片付け講座』の件ですけど」

「ああ、それ、くら子の都合のいい日に決めて、ケイに連絡してくれたらいいから」

「はい、わたしの方で会場その他のセッティングをしますから」

ケイはくら子に頷いた。

「わかりました。改めてご連絡します」

「ねえねえ、くら子もエルビスに会いにメンフィスへ行かない?」

手をひらひらさせて、とんでもないとくら子は断った。

ケイは、うふふと笑っている。

「しかし、マキさんが家事評論家とは驚きました」

「そうでしょ。

妹のわたしが言うのもなんだけど、こんなに家事をしない人も珍しいのに」

「だから、いいんじゃない。

いかに手を抜くか。

それだけを考えてきたんだから。

たまたま友人の編集者にそのことを話したら、こうなったってわけよ」

「世の中わからないものですねえ」

「ほんとほんと、だから人生は面白いのよ」

 ゆっくりと番茶を飲みながら、くら子は床の間の掛け軸に目をやった。

黒々とした大きな勢いのある字で「一日一生」と書かれていた。

くら子の視線に気づいてマキは訊いた。

「あれも、わたしらしくない?」

「いえ、そういう意味ではありませんが、『一日一生』が“死ぬまで元気”とつながっているのかなと思ったもので」

「アタリよ。

くら子はあい変らず冴えてる。

わたしもいろいろ考えたわけよ」

 マキの「一日一生」は、一日で一生が終わっても悔いのない日を過ごしたいという思いからだった。

きっかけは学生時代の恩師の死。

大学時代、友人もできず、成績も悪くて落ちこぼれていたマキを理解し、個性を大切にしなさいと励ましてくれた人だった。

七〇を過ぎ、大学の名誉教授となった恩師は楽しそうにマキに話した。

「わたしの頭の中には、論文のアイデアがあと十くらいあるので、のんびり隠居をしてはいられません」

しかし、元気そうに見えた恩師はその一週間後、心蔵発作で亡くなった。

論文は恩師と共に消え、世に問われることはなかった。

マキにはそれが残念だった。

そして、“いつか“という言葉を使うのはやめようと思った。

恩師も寿命がわかっていれば、行動が違っていたかもしれない。

やろうと思っていることは、すぐに着手しよう、今を生きようと誓った。

 両親を早く亡くしたマキにとって、恩師が親代わりだったのだろう。

しんみりとしたくら子に向かってマキは微笑んだ。

「くら子、人生で一番難しいことは何かわかる?」

「さあ、なんでしょう」

「死に方よ。

これは自分では決められない。

それに誰にも教えられない」

くら子は考え込んだ。

「生き方指南は古来の賢人・偉人の教えから、今流の生き方まで山ほどあるけど、死に方を教えるものはないのよ。

自殺は問題外だからね」

死に方ですかと考え込むくら子に、ケイが、また始まったという顔で湯呑みを片付け始めた。

「だって、死んで帰ってきた人はいないのだもの。

臨死体験でお花畑を見た人はたくさんいても、川向こうにまで行った人はいないのよ」

それはそうですけどと、くら子は腕を組んだ。

「SGCは“死ぬまで元気”が合言葉だけれど、これは気持ちの問題なのよ。

会員の中には胃が三分の一しかない人もいるし、持病を抱えた人もいる。

だからこそ、今を生きよう、今を大切にしようと思っているわけ」

戸惑うくら子に、紅茶の用意をしてきたケイが助け船を出した。

「くら子さん、姉さんの話をまじめに考えちゃだめよ。

頭がおかしくなってしまうから、いいかげんに聞き流しとけばいいわよ」

 ケイはこの話題に蓋をして、紅茶と共にスコーンを勧めた。

 ほかほかのスコーンにイチゴジャムを塗ると、イギリスのアフタヌーンティのような気分になれる。

目の前のプレスリーもどきのゴールドのジャンプスーツを着たマキと、死に方を論じるマキ、どちらもマキだ。

そして、スコーンがとびきりおいしいのも現実。

「ところで、プレスリーはまだ生きているんですか」

マキはうっとスコーンを喉に詰め、ケイはぷっと吹き出した。

 三人で顔を見合わせて思い切り笑った。

「姉さんたら、どうでもいいことばかりで、肝心のことはお話してないでしょ」

 ケイの言葉にくら子は、まだ何かあるのかと訝った。

24章 男やもめに花を咲かそう!(2部)

 ベランダで美知が「巨人の星」を口ずさみながら金属バットで布団を叩いていた。

「ミッチー先輩!」三度目にようやく美知は気付いた。

「あら、くら子、どうしたの? 怖い顔して」

「どうして勝手に人の家に上がり込んで、こんな騒ぎを起こしているのですか」

「騒ぎって何のこと? カビが生えそうな万年床を干しているのよ。

これでは体に悪いでしょ」

「だからー、そういう問題ではなくてですねえ。

ご本人の許可も無く、こんなことして、いいと思ってるんですか」

「許可? それなら、この前の飲み会の時に、いいって言ってたわよ」

美知は、どうだと言わんばかりにバットを片手で振り回した。

「鴨田さん、酔ってたんじゃないですか」

 多少はねと言いながら、また美知は布団叩きに戻った。

 他の部屋ではゴミ袋を持った女が、ビールの空き缶、弁当の空き箱、柿の種やスルメの残骸などを拾って歩いている。

 もう一人は、洗面所のかごに、汚れた洗濯物をほうりこんでいる。

隣の洗濯機もぐぐぐと動いている。

 健太郎とくら子は鴨田にコートを着せて、近くの喫茶店へ連れ出した。

 ブラックのコーヒーを飲んで、鴨田は少し落ち着いた。

「鴨田さんは美知さんになにか頼まれました?」

鴨田はとんでもないと首を振って、顔をゆがめた。二日酔いがまだ残っているらしい。

「でも、美知さんは鴨田さんが了解されたと言ってましたけど」

「そんなことは…そういえば、飲み会の時に、あのでっかい料理の先生が隣に来て、わたしでよければお手伝いさせていただきますわと言ったから、ありがとうございますと答えたけど…あれか?」

それだなと健太郎は、鴨田のモーニングセットのトーストを頬ばりながらにやっとした。

「料理のことかと思ったんだよ」

「もう手遅れですね。でも、帰ったら、おうちはかなりきれいになっていると思いますよ」

「確かに、そうだ。すっきりして、却って良かったんじゃないか。

ほんと、お前のところはウジが湧きそうな有様だったからな」

 鴨田は黙り込んで、残ったトーストに手を出した。

 いやがる鴨田を引っ張るようにして家に戻ると、ベランダいっぱいに洗濯物がはためいていた。

 健太郎に押されて鴨田はむぐぐとうめき、恐る恐る玄関を開けた。

室内には「ひょっこりひょうたん島」のテーマが流れていた。

 トントンと包丁の音のする台所へ行ってみると、三人が食事の支度をしていた。

食器を並べていた美知が、あら、おかえりなさいと微笑んだ。

 鴨田と健太郎は顔を見合わせている。

くら子は、先輩、お話がありますと、美知をリビングへ連れ出した。

「鴨田さんは、こんなこと頼んでないそうですけど」

「口に出して言いにくかったんじゃあないの」

「そんな訳ないでしょ。もう、呆れてモノも言えませんよ」

「それなら、黙っといたら」

しかしねぇと言いかけたくら子を美知は遮った。

大丈夫よ、うまくやるからとウインクして、美知はくら子に背を向けた。

こんな時の美知は何を言っても無駄だ。

仕方なく、くら子が家の中を見て回ると、確かに、ものが片付いていた。

ゴミや洗濯物の山がなくなり、新聞や週刊誌はきちんと積み重ねて紐で縛ってあった。

掃除機もかけたようだ。

 台所では昼食の支度が整い、鴨田と女たちが食事をするところだった。

「悪いけど、お二人の分は用意してないからね」

 鴨田は一転して、女性に囲まれうれしそうで、二人には目もくれない。

くら子と健太郎はすごすごと鴨田邸をあとにした。

「鴨田の奴、女性に囲まれてハーレム状態だなあ」

にやにやとうらやましそうだ。

くら子はぷっと吹き出した。

「ほんと、喫茶店ではあんなに不機嫌だったのに」

「あの時は驚きの方が大きかったのかもしれないなあ」

「そりゃあそうですねえ、二日酔いで寝てるところをたたき起こされて、『巨人の星』で布団をバンバンですから」

「帰って見ると、ゴミも洗濯物もないし、流しの汚れた食器もきれいに片付いている。

怒るより、感激したんじゃないかな。

ほんとはどうにかしないといけないと思っていたけど、自分ではどうにもならなかったんだから」

「そのうえ、温かい食事にハーレム!」

 事務所に戻ったくら子をまろみは興味津々の目で迎えた。

「美知さんたちの突撃はどうなりました?」

「それが、もう大変、鴨田さんとミッチー先輩がもめてね。

ミッチー先輩がバットを振り回して場外乱闘になって、血がドバーッで、救急車を呼ぶ騒ぎで大変だったのよ」

くら子は、額にしわを寄せてためいきをついた。

 まろみはうなだれて、わたしがもっと早く…と、椅子にへたり込んだ。

くら子は知らん顔をしてバッグから豆大福の包みを取り出した。

 おたふく堂の包装紙を見た途端に、まろみはキッとしてくら子をにらんだ。

「うそでしょ」

「はい、そうで〜す。

場外乱闘なんてありませんでした」

「もう、くら子さんたら人が悪い。

今度はわたしがヘッドロックをかけますよ」

 くわばらくわばらと言いながら、くら子はお茶の用意を始めた。

 豆大福を頬張りながら、まろみに午前中の出来事を話した。

「男の料理研究会」でロマンティックな“化学反応”が起こるかもしれないと思っていたが、くら子が投じたのはビタミン剤でなく、劇薬だったらしい。

 劇薬は使い方を誤れば毒になる。

今回は幸いうまくいったが、次はどうなるかわからない。

「鴨田さんは結局、喜んでたんですよね。

さすが美知さんだ」

「なにがさすがよ。

鴨田さんが二日酔いだったからね。

そうでなければ、ほんとに血の雨が降ってたかも。

そう考えると冷や汗が出るわ」

 玄関から、突然、こんちは〜という声がしたので、二人は飛び上がった。

 あの声は…と二人は顔を見合わせた。

「豆大福のにおいがする」と美知はくんくんと鼻を鳴らし、二人の横に立っていた。

豆大福のにおいを感知できるのは美知だけだろうと、くら子もまろみも呆れた。

「くら子、今日はごくろうさん。

それで、相談なのだけど。

その前に、お茶と豆大福をいただきましょう。

ねっ、鴨田さん」

 えっ、と二人が首を傾けると、美知の大きな体の後ろから、頭をかきながら、どうもと鴨田が姿を現した。

 応接コーナーに案内し、くら子は二人を見比べた。

どうなってるの?

「ほら、鴨田さん、豆大福も食べないと」

「いや、甘いものはダメなので、美知さんどうぞ」

 それじゃあ、遠慮なくと、美知は鴨田の皿に手を伸ばした。

「それでは、お話を伺いましょうか」

口の周りに白い粉をつけた美知は、鴨田さんからどうぞとお茶を手にした。

「いや、あの、その、やっぱり美知さんからお願いします」

「いえ、こういうことは、やはり、男性から…」

なんだなんだ、これは。

まさか、まさか…いやな予感がする。

「譲りあってても埒があきませんよ」

 それでは、わたしからと美知が乗り出した。

「鴨田さんが、とっても喜んでくださってね。

それで、他の男やもめの人たちにわたしたちがお手伝いできたらと思って」

 鴨田は頷いている。

本当なのだろうか。

くら子には朝の、頭を抱えた鴨田の姿が蘇った。

 えへんと咳払いをして、鴨田は顎に手をやり、話し始めた。

「くら子さん、僕も始めは驚き、頭にきましたが、きれいになった部屋を見回して、ようやくわかりました。

できない事は人に助けを求めればいいってね。

こんな簡単なことがなかなかできなくて、男の涸券に関わると思ってました」

「それでね、くら子、わたしたち“リビング・エンジェル”になろうと思って」

まろみが“エンジェル?”と、肩をすくめた。

美知の話はどこへいくのかわからない。

 鴨田の話によると、ニューヨークで始まった、ガーディアン・エンジェルスをもじったそうだ。

ガーディアン・エンジェルスは犯罪防止や環境美化などメンバーがパトロールして、見て見ぬふりをしないというのがモットーらしい。

鴨田と美知は、男やもめの部屋がゴミ屋敷になったり、荒んでいくのをなんとかしたいのだそうだ。

「そこで、くら子に相談なのだけれど、K社に『リビング・エンジェル部』を作って、鴨田さんを部長にしてもらえないかと…」

 くら子が口を開く前に、まろみが答えた。ダメです。

 美知はなんでよと、まろみをにらみつけた。

くら子も同感だった。

「K社で『リビング・エンジェル部』を運営していく力がないからです」

「そんなことないでしょ。

活動はわたしたちがするのだから」

「活動はされても、最終的な責任はK社が負うことになります」

そりゃあそうだけど、と美知は鴨田を見た。

くら子は続けた。

「これはボランティアですか、ビジネスですか」

「ボランティアだけど…軌道に乗ったら」

「ボランティアだって、活動資金も場所も必要でしょう」

「だから、この事務所を使わせてもらって、『わくわく片付け講座』でもPRもしてもらって…」

 お話にならないと思い、一呼吸おいて、くら子は鴨田を見た。

「鴨田さんはどうお考えなのですか」

「いや、その、そう言われればそうですね。

なんだか舞い上がってしまって」

 “部長”というのが、鴨田をその気にさせたキーワードだろうか。

「これって、人のふんどしで相撲を取ろうって話じゃないですか」

まろみのことばに、美知は反論した。

「あんたたち、ふんどしなんてしてないじゃないよ」

 美知の目がぎらぎらして、まろみに飛びかかりそうになってので、くら子は落ち着いてくださいとなだめた。

「それはものの例えです。

とにかく、思い付きだけであれこれ言われても困ります」

「そう、わかったわよ。

くら子は協力してくれないってことね」

「それから、今回のように勝手に突撃しないでください。

『男の料理研究会』の方たちにも、勝手にPRしないでくださいね」

 美知火山が真っ赤になって噴火した。

「せっかく人のためになると思っているのに、どうして邪魔ばかりするのよ」

「美知さん、くら子さんの言うとおり、我々は先を急ぎ過ぎたみたいです」

 鴨田も説得しようとしたが、美知は聞く耳を持たず、飛び出して行った。

 まろみが追いかけようとしたのを、鴨田が制して、出て行った。

 開け放されたドアを見つめてくら子がつぶやいた。

「あの二人はどうなってるの?」

「わっかりませ〜ん」

 一週間後、鴨田が御堂夫妻と共に事務所を訪れ、頭を下げた。

御堂健太郎も、ほんとに人騒がせな奴でと詫び、妻の翔子は二人の保護者のようだ。

「それで、“リビング・エンジェル”はどうなりました」

健太郎に肘でつつかれて、鴨田は渋々答えた。

「まず、僕がカウンセリングの勉強をすることになりました」

「それは良いかもしれませんね」

くら子の言葉に、まろみの頭の上に、いつもの? マークが浮かんだ。

 翔子は笑いながら付け加えた。

 男やもめの片付けを手伝うためには、美知のように、突然押し掛けて片付けるのではうまくいくはずがない。

そうなったのにはそれなりの理由があるし、他人に干渉されるのは真っ平ごめんだと思っている。

鴨田がそうだったからだ。

つまり、カチカチに凍っている。

この状態を解凍するには時間をかけてゆっくりほぐしていく必要がある。

この解凍の技術を学ぶためにカウンセリングの勉強をするのである。

この役は女性よりも、同じ男やもめの鴨田が適任だろうということになった。

「なるほど、鴨田さんが解凍係で、その後がエンジェルの出番なのですね」

「あの、僕にそんなことできるのでしょうか」

鴨田は自信がなさそうだ。

「それは鴨田さん自身の取り組み方の問題ですけれど、ピア・カウンセリングというのもあるんですよ」

 ピア・カウンセリングとは、同じ境遇にある仲間同士でしか理解しえないことを語り、互いに支持し合うカウンセリングのことである。

なるほどねえ、それならいけるんじゃないかと健太郎が鴨田の肩を叩いた。

「お話に夢中になって、お茶が冷めましたね。

入れ替えましょう」

 くら子の言葉に、まろみがソファーから腰を上げると、鴨田が遮った。

「いえ、僕は猫舌ですから、このほうが」

ごくりと茶を飲んで、ふーっと息をついた。

「あら、わたしもすっかり忘れてました」と翔子が紙袋を差し出した。

「キャー、花咲堂のラスク! 紅茶を入れてきます」と、まろみはとあたふたとキッチンへ向かった。

「それで、ミッチー先輩はどうなりました」

くら子が一番気になっていたことを訊いた。

健太郎と翔子の目も鴨田に注がれた。

鴨田はもじもじと居心地が悪そうだ。

「いや、あの、その、いろいろと話し合いまして。

彼女は素直でやさしい人ですから…」

カノジョ? 素直でやさしい? 人違いじゃないのと思いつつ、くら子は鴨田の次の言葉を待った。

健太郎が、似合いのカップルかもと冷やかすと、鴨田は真っ赤になった。

 冗談のつもりだったが、もしかしてと三人はぎょっとして顔を見合わせた。

「僕たち、共通点がありまして…“ひょっこりひょうたん島”が…」

「さっぱりわからんけど、ちゃんと話せよ」と健太郎がじれた。

「美知さんが片付けに来てくれた時に、“ひょっこりひょうたん島”の曲をかけてくれて。

僕はプリンちゃんが大好きだったのですが、彼女は博士のファンだったそうで…」

なぜか、“ひょっこりひょうたん島“の話になると、鴨田は饒舌だった。

 翔子は呆れて、口をはさんだ。

「リビング・エンジェルの具体的な話をしないと、くら子さんたちもお忙しいのですから」

 そうですねと、鴨田は計画を話した。

 鴨田がゴミ屋敷寸前の男やもめたちに接触し、カウンセリングをして、その後、美知たちが片付けをするという段取りのようだ。

一応、鴨田が代表者ということになっているが、鴨田をおだてて動かしているのは美知のようだ。

「でも、どこの誰がゴミ屋敷寸前なのか、どうしてわかるのですか」と、まろみが訊いた。

「チラシを配って、通報してもらうのです」

 通報? 使命手配でもあるまいし、個人情報が叫ばれる昨今、そんなことが可能だろうかとくら子は考えた。

健太郎も同じことを考えたようだ。

「それはダメだよ。

近所の人に通報されたと知ったら、ますますへそを曲げるぞ。

うちの『インターネット茶屋』に来る人や、『男の料理研究会』でチラシを配ればいいだろう」

翔子もそのほうがいいと頷いた。

 三人が帰った後、まろみがくら子に訊いた。

「ところで、あの、ひょっこりプリンってなんですか」

「えーっ、まろみちゃん知らなかったの」

まろみは、ぜーんぜんと首を振った。

「珍しいわね。

いつもなら、ひょっこりプリンってなんですかって、すぐ訊くのに」

「わたしは、KYではありません」

おや、それは失礼しましたと笑いながら、くら子は、NHKテレビで放映していた人形劇の

「ひょっこりひょうたん島」とプリンちゃんについて話した。

「鴨田さんと美知さんは、それでつながっているんですか」

「らしいわね、いつまで続くやら。

それより、来週の『わくわく片付け講座』のテキストの準備はどうなった?」

これからですと、まろみはパソコンに向かった。

 三ヶ月後。

まろみが外出先から、息を切らして帰ってきた。

「どうしたの、そんなにあわてて」

くら子は何かトラブルでもあったのかと思った。

 机に両手をついて、まろみはちょっと待ってくださいと息を整えた。

「美知さんが…」

「事故にでもあったの?」

くら子の顔色が変わった。

「違うんです。鴨田さんと腕を組んで歩いていたんです」

 くら子はめまいがしそうだった。

また、トラブルになりそうな予感がする。

「それがね、鴨田さんが、美知さんにがっちり捕まえられているという感じで、なかなか見ものでした」

「声をかけなかったの」

「そんな、恐ろしいこと、しませんよ」

くら子が首をかしげるとまろみは真顔で答えた。

「シマウマに飛びついて、押さえ込んでいるライオンに声をかけるようなものです」

  その頃、鴨田と美知はファミリーレストランにいた。

鴨田がシートに座ると、美知は向かいに座らず、隣に腰をすべらした。

思わず、鴨田は窓際に寄ったが、それ以上動けなかった。

美知は上機嫌で、レアチーズケーキセットを二つ注文した。

「鴨田さん、今後のことですが…」

「今後? 僕は上級コースに進もうと思っています」

 鴨田はカウンセリングの初級コースを終え、次のコースに進もうと考えていた。

まあ、いやだと美知は口を押さえ、横目で鴨田を恥ずかしそうに見た。

「わたしたちの今後のことですよ」

「わたしたち?」鴨田はぎょっとして美知をまじまじと見た。

アイラインを塗ったまつ毛がバチバチと音を立てているようだ。

 鴨田にもようやく事態が呑み込めた。

「わたしたちはパートナーだって言ったでしょ」

鴨田は体を斜めにして美知から距離を置こうとした。

「それは、リビング・エンジェルの話で、ビジネスだから…」

ビジネス〜? と言った途端に、美知の顔が真っ赤になってふくらんだ。

鴨田が何も言えず、口をパクパクしていると、美知は急に猫なで声になった。

「それで?」

 鴨田の話を聞き終わった後、美知は“消えて”と出口を指差した。

 携帯で緊急事態だとファミレスに呼び出されたくら子は、ひとりでマンゴープリンパフェを食べている美知を見つけた。

「もう、緊急事態なのに、のんびりパフェを食べているのですか。信じられない」

 注文を取りに来たウエイトレスにコーヒーと答えて、くら子は腰を下ろした。

「緊急事態なのだから、しょうがないじゃない」

むすっとして美知は答えた。

「何が起こったのですか」

「わたしは『男の料理研究会』の講師を辞めます」

「なるほど、それをなぜわたしに言うのですか」

「他の人に言いたくないから」

子供のようにサクランボの軸を持って振りまわしながら、美知はつんと顎を上げた。

「辞めるのは勝手ですけど、断るのならきちんと自分で翔子さんたちに話さないと」

「だって、あの三人は鴨田の仲間だから」

「はは〜ん、先輩はふられたんだ」

「わたしが二股男に引導を渡したのよ。

あいつはわたしにはパートナーだとか何だとか言いながら、カウンセリングの教室で知り合った女に熱をあげているのよ」

そういえば、最近の鴨田は着るものもこぎれいになって、コロンの香りが漂っていた。

美知の影響かと思っていたが、相手が違ったようだ。

 スプーンで生クリームをすくいながら、美知は悔しそうに、わたしはトレンディな女なのにとつぶやいた。

 トレンディ? どこが? と思いつつ、くら子はハッとした。

最近、新聞をにぎわしている結婚詐欺の女は、料理がうまくて、ぽっちゃり型で、一見普通の…。

それで、美知も勘違いをして、鴨田に突撃したのだ。

逆立ちしても美知に結婚詐欺は無理だ。

詐欺に引っかかるカモの可能性はないとはいえないが。

鴨田にカモにされなくて良かったとか、まろみなら云いそうだが。

「ミッチー先輩、鴨田さんだけが男じゃないですよ」

美知は、スプーンを持つ手を止めて、ぎっとくら子をにらんだ。

「わたしは男やもめの救世主だから、一人の男だけにかまってられないわ」

「そうですよ。

先輩を待っている人が世の中にいっぱいいますから、ね」

そうだ、そうなのよと美知はドンとこぶしでテーブルを叩いた。

「鴨田なんかあてにせずに、くら子のところで働くわ」

おっと、そうきたか、ここで計略に乗ってはいけないとくら子は力説した。

「いえいえ、先輩は料理教室にエネルギーを注ぐべきです。

才能を無駄にしてはいけません。

『ミッチーの男やもめレシピ』をブログで発表してはいかがですか」

「そうね、ブログのことを忘れていたわ。

そうと決まったら、『インターネット茶屋』のパソコンおじさんに相談しなくちゃ。

くら子、お勘定よろしく」

 美知はそそくさと出て行った。 

あの人たちには話したくないと言ったくせに、この変わりようはどうだ。

これなら“失恋の痛手”というのも吹き飛んでしまったのだろう。

ケーキセット2つに、ぜんざいセット、焼き芋ワッフル、ブルーベリーのクレープ、マンゴープリンパフェ、コーヒー、ほんとにこれだけ食べたの? 

わたしのお財布を救済して欲しいと思いながら、くら子は店を出た。

 事務所に戻ると、まろみが心配していた。

くら子が、美知の緊急事態は、山ほどのデザートを平らげて解消したみたいと話すと、まろみは相変わらずですねえと面白がった。

「冗談じゃないわよ。
お陰でわたしのお財布は空っぽ」

「情けは人のためならず、でしたね」とまろみはくら子の肩を叩いた。

あらら、まろみちゃんに一本取られたと、くら子は額を叩いた。

「もうあの人たちのことは勝手にしてもらいましょう。

鴨田さんもカウンセリングに行って元気になったみたいだし、『男の料理研究会』には、おひとりさまの男たちが集まっているもの」

「鴨田さんも、美知さん以外のリビングエンジェルとはうまくいってるみたいですから」

ほんとに? くら子は初耳だった。

「鴨田さんがカウンセリングの実験台に選んだ男子大学生の処へ、リビングエンジェルが片付けに行ったそうです」

「そこに、ミッチー先輩は入ってなかったの?」

くふふとまろみは笑った。

「美知さんの仕事場を片付けたのは、わたしたちではないですか」

確かに、美知の部屋はすさまじかった。

「美知さんは、大音量で音楽を流してハッパをかけるだけで、なにもしないそうです」

そういえば、鴨田のところでも、ずっと布団を叩いていた。

それだけだったのか。

「要するに、美知さんは『男の料理研究会』に専念してもらうのが、皆の幸福みたいです」

「それじゃあ、今日の出来事で、納まるとこに納まったわけだ。

今夜は厄落としにぱーっといきましょうか」

「鴨鍋なんてどうです」まろみはにやっとした。

鴨はもうごめんよとくら子は身震いした。

「それでは、ちゃんこ鍋にして元気を出しましょう」

 くら子のいいわねえという声に重なって、後ろで甲高い声がした。

「ありがとう。

まろみちゃんがごちそうしてくれるなんてうれしいわ」

キャー、美知さんだ!

はてさて、男やもめに花は咲いたのでしょうか???
 
 24章終了

24章 男やもめに花を咲かそう!(1部)

 K社の事務所に四人が訪れた。

半年前に「わくわく片付け講座」を受講した御堂翔子と、夫の健太郎。

御堂夫婦と「インターネット茶屋」を経営している神童実と田嶋雄二だった。
(15章「人生の棚卸」に登場)

 女性の訪問者が多い応接コーナーに三人の男性が座ると、急に部屋が狭くなったように感じる。

 条件反射のように名刺を差し出した男たちを、翔子が苦笑しながら紹介した。

「今日は、付添で来ました。

三人で行けばいいって言ったんですけど、どうしても一緒に来いというもので…小学生じゃあるまいしねぇ」

 三人の名刺をテーブルに並べて、くら子は改まって訊いた。

「ええと、『インターネット茶屋』はうまくいっているということで、翔子さんからお聞きしていましたけど、お揃いでお越しいただいたのはどういうご用件でしょうか」

 御堂健太郎が、おほんと咳払いをしてからおずおずと言った。

「実は、男性向けの片付け講座開催のお願いと、もうひとつの企画にお知恵を拝借できないかと思いまして」

「男性向けの片付け講座ですか。

また、どうして?」

 野球帽を手にしている神童が、それはわたしが説明しますと続けた。

「松竹梅さん、いえ、くら子さんでしたね。

女性を名前でお呼びするのは何だか照れ臭くて…そんな話はさておきまして、実はわたしたちの共通の友人の鴨田のことなんですが」

 鴨田敬三は長年務めた繊維会社を定年退職し、現在無職である。

妻を五年前に亡くし、娘は北海道へ嫁に行き、一人暮らしだ。

暇なもので、毎日「インターネット茶屋」に来て一日中パソコンに向かっている。

家にはちゃんとパソコンがあるのだが、なぜ、そうなったのかといえば、帰りたくないからである。

妻が亡くなってから掃除をしたことがなく、妻の遺品の整理もしていない、というより、辛くてできないのである。

そして自らがゴミ屋敷と呼ぶほどになってしまった。

 そんな自分が情けなく、女々しい気がして、外を出歩いている。

弁当を買いに行った帰りに、偶然、「インターネット茶屋」をのぞき、二十年ぶりの再会となった。

「他にも、似たような人がいまして、『男やもめにウジが湧く』の言葉通り、カビやキノコの生えた家に住んでいるようです。

しかし、こういう輩に限って、片意地で人に助けてもらうのを拒むもので…我々も手が出せない状態なのです」

 くら子が男性向きの片付け講座を開かなかったのは、女性と男性では片づけの考え方も、状況も違うからだった。

神童の話のように、男性の場合は社会からも孤立している場合が多く、また、このような講座に参加しようという発想も無かった。

友人や家族からの援助さえ拒む人を無理やり引っ張りだすことはできないと思っていたからだ。

「少し、考えさせてもらえませんか」

くら子は気軽に引き受けられることではないと思った。

 神童は頷いて、ではもう一つと、次の相談に移った。

同じように、ひとり暮らしの男性向けの料理教室を兼ねた食事会を開きたいとのことだった。

「男性向けの料理教室なら、最近は色々あると思いますが」

くら子は首をかしげた。

 田嶋がじれたように付け加えた。

「いや、料理が中心ではなくて、人と話をしながら食べることが目的なんです。

ついでに簡単な料理も覚えられれば一石二鳥」

「つまり、コミュニケーションの場ですか」

三人はそうですそうですと、声を合わせた。

「鴨田もそうですが、朝昼はパンやカップラーメンで、夜はスーパーで弁当や総菜を買って帰るようなのですが…」

「実は、今の店の隣の酒屋が廃業の危機でして…」

 くら子の驚いた顔に、御堂健太郎がこのご時世でして、ビールや酒が売れないそうですと答えた。

 椅子が足りなくて、隅で折りたたみ椅子に座っているまろみが素っ頓狂な声をあげた。

「お酒もビールも売れなくて、酒屋さんは何を売っているんですか」

 健太郎がこちらの話の責任者らしい。

「それが、都会で出回っていない小さな酒蔵のうまい焼酎だそうです。

そういう焼酎は量販店やスーパーでは売ってませんから」

 そういえば、昔の御用聞きのように、酒屋がビールや醤油を配達することも無くなった。

今はスーパーや量販店、果てはコンビニで何もかも買えるのである。

「それで、隣の店は焼酎だけ売るカウンターを残して、あとは食堂というか、料理教室というか、そういうものにならないかと思ってご相談にうかがった次第でして」

翔子がしびれを切らした。

「ほんとに、じれったいわね。

くら子さん、確か、お友達に料理研究家がいるとまろみさんからうかがっていましたので、その方に料理の指導をお願いできないかということと、お店の改装を考えて欲しいということなんです」

「ご紹介はしますが、引き受けてもらえるかどうか」

くら子は美知が世界の料理や介護職の料理教室を開きたいと言っていたのを思い出した。

「そういえば、まろみちゃんはミッチー先輩の料理教室の生徒になるって言ってなかった?」

「はい、そうなんですけど、どうも企画倒れのようで…お料理はうまいんですけどねえ」

まろみは残念そうだ。

「それならいけるかもね」とくら子はニッと笑った。

 健太郎が身を乗り出して、「やもめ食堂」というのはどうでしょうと提案した。

それはストレートすぎるとか、似たような名前の映画があったとか、口々に好き勝手なことを言い出した。

 くら子が立ちあがって一同を見まわした。

「わかりました、では問題を整理しましょう。

ちょっと待ってくださいね」

まろみも手伝って事務所の隅からキャスター付きのホワイトボードを引っ張り出した。

「この企画は料理教室ですか、それとも食堂ですか?」

三人の男たちは顔を見合わせた。

食堂だよな、そうそう、食堂だけど、料理もするんだ。

 くら子はホワイトボードに大きく○○食堂と書いた。

「それでは、これは『男やもめプロジェクト』ですね」

くら子の言葉に、男たちは背筋をすっと伸ばした。

長年のサラリーマン時代の経験で、『プロジェクト』という言葉に反応するらしい。

これは良い兆候だ。

「ではまず、なぜこのプロジェクトが必要なのでしょう」

神童が手を挙げた。

どうやら『プロジェクト』から、昔の会議の習慣が蘇ったらしい。

「鴨田をはじめとした、ひとり暮らしの男性に活気を取り戻して欲しいからです」

田嶋がそうなんだよなあ、ほんと、しょぼくれちゃってとつぶやいた。

翔子が手を挙げた。

「それに、食生活に問題があります。

カップラーメンやお弁当では野菜が足りませんよ。

今は良くても、食生活の問題は三年後、五年後に体の異変に現れると思います」

「刺激のない生活を送っていると、早くボケるって聞きましたよ」

まろみの何気ないひとことに一同は黙り込んだ。

「それでは、活気を取り戻すにはどうすればよいでしょうか」

そりゃあ、生きがいとか世の中の役に立つことですよと、自身の経験から翔子は答えた。

「ロマンスがあれば、いっぺんに元気になりますよ」

まろみの願望に、健太郎が思わず、それもいいなあと呟いたので、翔子ににらまれた。

くら子は苦笑して、ロマンスに年齢は関係ないですからねと、続けた。

「このプロジェクトは皆さんが運営なさるのですか、それとも酒屋さんが?」

「我々です。酒屋のご夫婦に家賃を払ってスペースを借りる形にできればと思っていますが」

くら子はホワイトボードに検討する点を書いていった。

集客、宣伝方法、利用料、会員制? 日程、時間帯、回数、運営スタッフ、組織、男性限定? 予算、設備投資、収益性…。

 男たちは手帳にメモを始めた。

「このあたりのことは具体的に詰めないといけませんね」と健太郎が頭をかいた。

「そうですねえ、『インターネット茶屋』と同じように、事業計画が必要かもしれません」

 カフェや雑貨の店を開きたいという女性の多くは夢を語るのに忙しく「事業計画」というと黙り込むが、長年会社で予算や売り上げの計画を立ててきた男性には、抵抗がないようだ。

 四人が宿題を抱えて帰った後、くら子もまろみもソファーにへたり込んだ。

「男やもめお助け隊みたいですね」

 まろみのつぶやきにくら子は苦笑した。

「お友達の鴨田さんや、元気のない男性陣にハッパをかけたいんでしょうね」

「なんでおひとりさまの女性は元気で、男性は元気がないのでしょうか」

「よくわからないけど、男性は仕事中心で、ご近所とか、友達とか、会社以外の付き合いがないからかもしれないし…女性より根がシャイなのかもしれない」

「シャイ?」まろみは首をかしげた。

「内気だとか、恥ずかしがりってことかな」

「でも、会社でバリバリ仕事をしてきた人たちでしょう」

「会社で部長だとかなんだとか、肩書を演じるのはできるけど、一人の人間としてどういう役をすればいいのかわからないのかも」

「そんなもんですかねえ」

「本当のところは本人にしかわからないんじゃない。

いや、本人もわからないから戸惑っているのかも」

「ところで、翔子さんのお土産のお菓子があるんですけど、お出しするのを忘れていました」

「まあ、それを早く言ってよね」

 まろみが白い箱を開けると、オレンジの香りがふわっと広がった。

「おいしそう。紅茶を入れますね」

 オレンジの酸味と程よい甘さのふんわりしたスフレは極上だった。

「これ、翔子さんの手作りみたいですね」

フォークを入れると柔らかい生地がきれいに切れる。

「きっと『インターネット茶屋』でお茶と一緒に出してるのよ。

さすがだわね」

「ほんと、翔子さんは貫禄が出てきましたねぇ」

 お菓子は食べるもので、作ることなど考えもしない二人は感心しながらオレンジスフレを平らげた。

 事務所のドアが開き、こんちは〜と大きな声がした。

うわっ、ミッチー先輩だ。くら子はまろみに目を向けた。

「いや、あの、美知さんから近くに来ているってメールをもらったので、事務所に来ませんかと返信…して」

まろみは肩をすくめた。

「それなら、ちょうどいいわね、やもめプロジェクトの話をしてみましょう」

 ソファーに座った美知は、何を食べたの? と訊いた。

「ほんと、先輩の鼻はごまかせませんね。オレンジスフレです。

まろみちゃん、一切れお持ちして」

 くら子の言葉を待つまでもなく、まろみはお茶の用意を始めていた。

 美知はくら子の学生時代の部活の先輩で、料理研究家である。
(14章、レシピが見つからない!? 登場)

 料理教室の話をすると、美知は興奮し、大きな体を揺らした。

「いいーじゃなぁい。

ところで、男やもめって幾つぐらい?」

「そうですねえ、五十代から六十代というところでしょうか」

 くら子は実際より十歳ほどサバをよんだ。

美知はキャットフードを前にした猫のように喉を鳴らした。

「いえ、まだ、決まったわけではないのですが、こういう企画があるということでご相談を…」

「くら子に頼まれたら、いやとは言えないでしょ」

嘘ばっかりと思いながら、くら子はそうですねと答えた。

 お待たせしましたと、まろみがオレンジスフレを持って現れた。

 美知の腹がキューと鳴った。

スフレは、三口で片付いた。

「スフレって、簡単そうで、うまく膨らますのにこつがいるのよね。

これ手作りでしょ。

二人が作ったとは思わないけど、レシピくれない?」

くら子は聞こえないふりをした。

「ところで先輩、『ミッチーのぐるぐるクッキング』はどうなりました?」
 
『ミッチーのぐるぐるクッキング』とは、美知が五年前から企画している料理ブログである。

美知の頭の中では、ブログでファンができ、有名になり、料理本の出版、テレビ出演とサクセスストーリーが出来上がっているが、未だに何も実現していない。

「それがさあ、料理の写真がうまく撮れないの。

案外難しいのねぇ。

パスタは伸びたきし麺みたいに見えるし、シチューはどかっと固まってるみたいで…」

 まろみがぷっと吹き出した。

デジカメの時代とはいえ、料理の写真を撮るのは難しい。

料理専門の写真家がいるくらいで、そのあたりをわかっていないところが美知らしい。

「そうそう、介護食の料理教室はどうなりました」

 それがねえと、ますます美知の歯切れが悪くなった。

「教室のチラシを作って募集したんだけど、介護をしている人は忙しくて料理教室に来れないみたいなの」

 なるほどとくら子はうなずいた。

「だから、主婦向けのお菓子の教室にしようかと…くら子はどう思う?」

 ううむ、難しいですねとくら子は答えた。

内心、今の時代は有名パティシエでもない限り、人は集まらないだろうと思ったからだ。 

 そうよねえ、わたしもそう思うと、美知は珍しく弱気だった。

「だから、男やもめの料理教室で頑張ればいいじゃないですか」

まろみが美知を呼んだのはこういうことだったのかとくら子は納得した。

「わかったわ、くら子。

わたしの料理教室がうまくいかないのは、このためだったのよ」

 美知は立ち上がって、両手を天へ突き出した。

はあ? また、何を言い出すやら、なんでも自分の都合の良いように考える性格は変わらないものだとくら子は呆れ、美知を見上げた。

「神様が、わたしに使命を与えられたのよ。

男やもめを救いなさいって。

だから、ガンバル」

まろみはにやにやと高みの見物だ。

「はいそうですか。

使命ですか、それはそれは。

本決まりになったらお知らせしますので、それまでお待ちください」

「なに言ってるの。

そうと決まったら、レシピの準備をしなくちゃ、忙しくなるわねぇ。

それで、さっきのスフレは残ってないの?」

もう、ありませんときっぱり答えたくら子に、あ、そう、それじゃあ帰るわと、美知は大きなバッグを肩にかけて上機嫌で帰って行った。

美知さんって、ほんと乗りやすいんだからと、まろみはけらけら笑っている。

「責任とってもらうからね」

くら子の言葉にまろみは震えあがった。

「いや、その、なんとかなるんじゃあないですか。ははは」

 こうして、男やもめ料理教室の話は進んでいった。

「インターネット茶屋」の四人は精力的に活動を始めた。

翔子は商店街の八百屋、魚屋、乾物屋などを廻り、食材の仕入れなどを通しての協賛を依頼した。

 豆腐屋の店主が商店街の会長で、それならいっそ、町内のコミュニケーションの場にしてはどうかということになった。

 男やもめだけでなく、高齢者や子供の料理教室など、皆で作って、皆で食べようとか、地域の食材にも目を向けたらよいのでないか。

おばんざいや漬物をおばあちゃんに習いたい、年末には餅つきはどうかなどと、アイデアはどんどん広がった。

 翔子たちはこんなにトントン拍子に進んで大丈夫かと不安になった。

しかし、商店街の店主たちも、大型スーパーに客を奪われ、何とかしなければと思いつつも、手をこまねいている状態だったから渡りに船だったようだ。

 くら子やまろみも企画に参加し、「男やもめプロジェクト」は「青空商店街プロジェクト」に変貌していった。

 三ヶ月後、翔子がK社を訪れた。

「くら子さん、この度はいろいろとお世話になりまして」

「いえいえ、これからどうなるか楽しみにしています」

 まろみがお茶の用意をしてくら子の隣に腰をおろした。

「これ、翔子さんのお持たせで〜す。

商店街で企画した青空饅頭だそうです」

 白い牛皮の饅頭に、「青空」という焼き印が押されていた。

つまりふつうの饅頭である。

翔子が、いろいろがんばってるんですけどねえと苦笑した。

「料理教室はどうなりましたか」

「男やもめという名前は人聞きが悪いということで、『男の料理研究会』になりました」

「なるほど、それで、人は集まりそうですか」

くら子の問いに翔子は力強く答えた。

「それが、奥さんを介護しておられる男性とか、一人暮らしの大学生の応募がありまして、満席になりました」

「それは良かった。

ところで、ミッチー先輩は好き勝手なことを言ってませんか?」

くら子は一番気になっていたことを訊いた。

とんでもないと、翔子は手を振って、とても熱心で皆喜んでいますと応えた。

まろみもほっとしたようだ。

「料理教室のオープンには見に来てくださいね」

 二人はもちろんと声を揃えた。

 朝十時から「男の料理研究会」が始まった。

 四つの調理台に各四人ずつ計十六人が緊張した面持ちで座っている。

年齢は十八歳から七十二歳まで。

エプロンも借りものらしい花柄から、黒い腰に巻くタイプの物までさまざまで、頭も白い三角巾から赤いバンダナ、風呂敷ではないかと思われる鳳凰柄のものまであり、カラフルだった。

 講師の美知はピンクの割烹着で、頭に同じピンクの三角巾。

部屋の隅で翔子たちと折りたたみ椅子に座っているくら子とまろみは同じことを考えていた。

給食のおばさんみたい! 

割烹着と三角巾のピンクはカラーコーディネートなのか?

 美知が笑顔で献立の説明を始めた。

「今日は、塩サバで焼き魚、ごぼうと人参のピリ辛きんぴらと、ほうれんそうの胡麻よごしに豆腐とわかめの味噌汁を作ります」
 
美知は商店街の役員の店の品物で献立を考えたようだ。

なかなかやるじゃん。

「鴨田さんはどちらですか?」

 くら子はこの教室を開くきっかけになった、男やもめのことを訊いた。
 
翔子は下を向いて、クククと笑いながら、頭に紫の風呂敷とささやいた。

 鴨田は一番前に座り、熱心にメモを取っていた。

 手順の説明のあと、グループで簡単な自己紹介をし、分担を決めた。

魚係、きんぴら係、ごまよごし係、味噌汁係である。

 魚係はサバの切り身を焼く、きんぴら係はピーラーでササガキを作る。

包丁を使うと時間がかかるので、便利な調理器具はどんどん使うことになっている。

 手が空いたら、互いに手伝いながら、調理は進んでいく。

ほうれんそうをゆですぎたとか、サバが真黒になったとか、塩辛いかなあと味噌汁の味見をしたり、わいわいと楽しそうだ。

 美知は各グループを廻り、丁寧にアドバイスをして、赤い頬が輝いて見える。

調理が終わり、別室の食堂へ料理を運んだ。

 四人が六人分の料理を作るので、二人分ずつ、計八人分の料理が余分に作られた。

この八人分は予約制で、毎回、希望者が試食に参加できるようになっている。

今回は商店街の役員が顔をそろえた。

 食堂でがやがやと食事会が始まり、ご飯のお代りをする者、これならうちでも作れると胸を張る者、次は刺身に挑戦したいと言い出す者まで現れた。

 まろみは、わたしも試食したかったと恨めしそうだ。

そこへ、翔子がお二人の分はこちらにお弁当が用意してありますからと声をかけた。

 隣の「インターネット茶屋」喫茶コーナーでくら子とまろみは弁当を広げた。

「これ、料理教室と同じじゃないですか」

まろみの嬉しそうな声に、お茶を持ってきた翔子がうなずいた。

「美知さんが、くら子さんや私たちにも同じメニューをごちそうしたいと、作って来てくださったんですよ」

美知さん、やさしい! とまろみは箸を持った。

くら子も、美知の気使いがうれしかった。

 食事を終えた三人のところへ、翔子の夫の健太郎がコーヒーを運んできた。

「くら子さん、これ、次回の料理教室のチラシです」

 献立は、むかご飯に豆腐のハンバーグ、鶏とかぼちゃの煮物に茶碗蒸しだった。

まろみが、えーっとのけぞって、翔子と健太郎を見た。

 二人のけげんそうな顔に、まろみはだってぇと、むかご飯を指差した。

「むかごめしがどうかしたの?」くら子の問いに、まろみはもう一度チラシを見た。

「ひゃー、ムカデではないのですか」

 まろみの勘違いに三人はソファーが揺れるほど笑った。

 腹をおさえながら、翔子が説明した。

“むかご”はヤマイモのつるの実のようなもので、大きさはパチンコ玉くらい。

茶色い実でイモのほくっとした旨みがあるそうだ。これは商店街の八百屋のお勧めの食材らしい。

「わたしは、ムカデが白いごはんの中に足を伸ばしてウヨウヨいるのを想像してぞっとしました」

 三人はまろみの描写に、あー、気持ち悪いと身震いした。

「ところで、今日始まったばかりですが、料理教室の評判はいかがですか」

くら子の問いに、健太郎がうれしそうに応えた。

「問い合わせが多くて、うれしい悲鳴を上げてます」

それがね、くら子さんと、翔子は続けた。

「肉屋の奥さんのお陰で、次回の試食の申し込みが満席になりました」

 商店街で“うまい”と評判のコロッケを揚げている房子が、毎回コロッケを二つ買う女性に声をかけたのだそうだ。

まろみの頭の上に、大きな? が浮かんでいた。

「つまり、ひとり暮らしの熟年女性に声をかけたのよ」

 翔子の説明では不十分なようだ。

「どうしてひとり暮らしってわかるのですか」

 肉屋はコロッケを買いに来る人の家族構成まですべて知っているのか、それとも超能力か、まろみには納得がいかなかった。

「コロッケ二つでわかるのよ」

「なんでコロッケ二つなんですか、一つならひとり暮らしだってわかりますけど…」

「家族がいれば、晩のおかずに二つではとても足りないでしょう」

 若いまろみちゃんにはわからないだろうけど、と翔子は続けた。

「わたしたちの世代はね、肉屋のコロッケを一つでは買えないの。

最低でも二つ買わないとお店にわるいというか、みっともないというか…そんな風に育てられたのよ」 

まろみは腕を組んで、考え込んだ。

「そういえば、うちの母は、手紙を書くとき、一枚しか書いてないのに、白い紙をもう一枚つけてくるんですよね」

「わたしも母から、一枚ものの紙は縁起が悪いとか、先方に失礼だとか言われて育ったから、手紙は二枚以上にしているわ。

それも関係あるのかしらねえ」

 まろみと翔子の会話をよそに、くら子は、ひとり暮らしの女性を試食会に参加してもらうアイデアは表彰状ものだと思った。

 男性もそうだが、ひとり暮らしをしていると、人とたわいのない会話をしながら楽しく食事をする機会が少ない。

また、女性の場合は、ひとりで店に入って食事をすることも気後れして難しい。

(最近の若い女性は変わってきたようだが…)

 女性の同席は男性たちにも良い影響を及ぼすだろう。

男ばかりの食事より、にぎやかになるだろうし、料理を作る励みにもなるかもしれない。

女性たちにとっても良い機会である。

そのうえ、いろいろな“化学反応”が起きれば、万々歳である。

「くら子さん、なにをひとりでニヤニヤしてるんですか」

 まろみの問いに、くら子は、一石三鳥の話、と答えた。

「男の料理研究会」は、五回、十回と回を重ね、地元の新聞社の取材を受けたことが元で、あちこちから“商店街起こし”の視察団まで来るようになった。

 くら子は事務所で白い紙に鉛筆で「男性の片付け講座」と書いて??? と付け加えた。

翔子たちに企画を考えると約束したものの、そのままになっていた。

 そこへ「インターネット茶屋」の御堂健太郎が荒い息をして飛び込んできた。

「くら子さん、鴨田が、なんだかえらいことになったので、すぐ来て欲しいと言ってます」

「なにがあったんですか」

「それが、よくわからなくて、とにかく来てくれの一点張りです」

 背中で、あらら、本当にやっちゃったんだという声がして、くら子は振り向いた。

「それ、どういうこと?」

 目を吊り上げたくら子に、まろみは後ずさりをした。

「いや、その、美知さんと、試食会に参加した女性たちが、なんとかの会を作ったそうで、我々は男やもめにウジが湧くのを黙って見てはいられないとか…言ってました」

「なんで、そのことを言ってくれなかったのよ〜」

「冗談だと思ったから、まさか、ほんとに突撃するとは…」

「突撃って、まさか」

 壁まで追い詰められたまろみの声は消え入りそうだ。

「はい、その、まさかだと思います」

健太郎とくら子が鴨田の家に駆けつけると、玄関の上がり框に鴨田が頭を抱えて座っていた。

紺色のスエットの上下に、寝ぐせのついた髪をみると、寝ているところをたたき起こされたのだろう。

二階のベランダからは布団を叩く音がする。

履き物の数からみれば、女性は四人のようだ。

健太郎がしゃがんで鴨田の肩をゆすった。

「おい、鴨田、大丈夫か」

「揺するなよ。大丈夫も何も…俺は二日酔いなんだ」

 二階から大音量の「巨人の星」のテーマが流れてくる。

 くら子は迷わず、廊下の突き当たりの階段を上った。

23章 減築で新しい住まいを(2部)

 遺産相続などというのは、本人の取り方によっては不愉快な話題である。

また、荷物を整理するにあたって、家族や友人・知人に譲る、オークションに出す、寄付、捨てるなどの選択肢がある。

これほどの品々は財産とみなされるだろうし、相続の問題も抜きにしては考えられない。

「いえ、くら子さん、お気使いなく。

わたくしどもは、相続の問題も考えております。

『子孫に美田を残すな』とかいう言葉がありますでしょ。

うちは美田というほどのものではありませんけれど、必要以上の物を息子たちに残す気はありませんの。

それに、相続税で煩わせたくもありませんし、弁護士さんにご相談して、きちんとしておくつもりです」

「なるほど、それでは、まず、お部屋ごとに分けて考えましょう。

書斎と、図書室の物は全部美術館に持って行かれると考えてもよろしいですか」

「はい、けっこうです」

「それから、二階の息子さんたちのお部屋の荷物はどうされますか」

 二階の息子たちの二部屋は机やベッドがそのままで、本や衣類なども学生時代のものが残っていた。

「あれは息子たちに、引き取るなり、処分するなりさせます。

子供の頃からの写真も山ほどあるのですが、いらないって言うのです。

主人がカメラに凝って子供たちの写真をたくさん撮ったのに、がっかりです」

 ゆかりの口調はいかにも残念という感じだった。

「そういう方が多いですよ。

親御さんは成長の記録だからとたくさんの写真を残しておられますが、子供さんは過去よりも未来に目が向くようで、さっぱりしたものです」

「ワードローブはどうされますか」

 クククとゆかりは楽しそうに笑った。

「それが、パーティードレスは還暦で歌手デビューした友達に譲ります。

体型はあまり変わらないし、彼女はわたしより五センチほど背が低いのだけれど、ヒールを履いて舞台に立つとはりきっていますから」

 そうそう、コンサートの案内があったはずと、ゆかりは席を立った。

「くら子さん、これでは別にわたしたちが出る幕はなさそうな気がするんですけど」

まろみは訳がわからないという顔をした。。

「そうねえ、まあ、今日は最後までお話を聞きましょう」

 コンサートの案内を受け取って、くら子は話を戻した。

「あとのワードローブはどうされますか」

「ええ、そうねえ、正直なところ、ほとんどいらないと思ってるのよ」

 実はと、ゆかりは話し始めた。

夫の隆志が去年胃癌の手術をした。

幸い発見が早かったので、今のところ問題はないが、それを機に、二人でこれからの暮らしについて考えた。

これまでのように年に何回も海外に出張するのは無理だし、そろそろ引退する潮時ではないか。

そして、何かの形で社会の役に立ち、生きがいになるようなことが二人でできればと考えた末に、さくらの勧めもあり、美術館の開設を決断した。

「実は、夫の手術の時に、わたしは神様に約束したの。

転移がありませんように、夫の命さえ助かれば、もう何もいりませんって」

 下を向いたゆかりの手は震えていた。

「いえ、どこかの宗教というわけではないの。

うちには神棚もお仏壇もないのよ。

それなのに、神様に祈り、願い、約束した。

だからこそ、守らなければいけないと思っているの。

夫婦っておかしなもので、夫も病床で、今、わたしを残しては死ねないから、助けてくださいと祈ったそうなの」

 くら子とまろみは何も言えなかった。

「だから、頭の中では整理がついていたの。

でも、行動できなかった。

わかっていることと、それを実行できるということは別でしょう?」

 くら子はにやっとした。

「わたしも、頭ではわかっていても、行動に移せない事がたくさんあります」

まあ、くら子さんもと、ゆかりは顔をほころばせた。

「でしたら、わたしたちがぐずぐずしていたのもわかっていただけるわね。

そんなわたしたちを見て、さくらさんが、くら子さんに相談しなさいとおっしゃったの。

そうすれば、前へ進めるでしょうって」

 くら子はなんと答えて良いのかわからなかった。

「よく言うでしょ。

お墓の中まで財産は持って行けないって。

わたしもそう思っているのよ。

それに、年を取るにつれて身軽になる方がいいってね。

洋服も少しならあれこれ迷わなくていいし、管理も楽でしょう。

わかっていても、欲というか、執着というか、いろいろあるのよねえ」

「それが、当り前だと思います」

「でもね、阪神大震災で家が全壊になった友人は、すべてを失くして、当座は悲しかったそうだけど、時がたつにつれて、さっぱりしたって思うようになったそうなの。

家も小じんまりしたマンションを借りて、気楽に暮らせるのが一番だって。

今では月に二、三回山登りを楽しんでおられるみたい」

 ゆかりは立ち上がって、バンザイをするように背を伸ばした。

「これで、なんだかすっきりしたわ。

ところで、そろそろお腹がすきません?」

「い、いえ、お茶やお菓子をたくさんいただきましたので」

まろみもこっくりとうなずいた。

「そんな、遠慮なさらなくてもいいのよ。

お二人が健啖家だということはさくらさんから聞いていますから」

 はあ、なんでもご存じでとくら子とまろみは恐縮した。

 ダイニングでふーふーと鍋焼きうどんを三人で食べながら、まろみが訊いた。

「ゆかりさんもジュエリーのお仕事をなさっていたのですか」

「ええ、わたしはデザインの方だけど。

実はミラノにジュエリーのデザインの勉強に行ってたのよ。

そこで、知り合ったというか…」

「へーえ、ミラノで恋が芽生えたのですか」

 箸を持つ手を止めて、ゆかりは首を振った。

「ミラノの小さな食堂で、焼きナスの作り方を聞いていた変な日本人が夫だったの」

「はぁー、焼きナスですか…」

「まろみさん、日本の焼きナスとは違うのよ。

賀茂なすのような丸いナスをオーブンで真黒になるくらい焼いて、オリーブオイルとお酢を混ぜたものに漬けこむの。

熱いうちも、冷めてもおいしいのよ。

そうそう、夫のことね」

 婚活中のまろみはロマンスの話が大好きだ。

「わたしは当時貧乏学生で、その安くておいしい店の常連だったの。

お店のおばさんが変な日本人に、あの娘も日本人だって紹介してくれて、少し話をしただけで、さような」

「ミラノを案内するとか、食事のお誘いはなかったのですか」

「なかったの。

夫は翌朝、商談でジュネーブに飛ぶ予定だったから。

もう会うことはないと思ってた」

 まろみはアナゴの載ったレンゲを持ったまま、まくしたてた。

「ここで終わりませんよね。

それだったら、ご夫婦にはなってはおられない」

 そうねえとゆかりは微笑んだ。

「それで、どうなったんですか。

『めぐり逢い』ですか」

くら子が苦笑して、付け加えた。

「まろみちゃんは『めぐり逢い』って昔の映画みたいな出会いに憧れてるんです」

「そういえば、そういう映画もあったわねえ」

それで、それでとまろみは落ち着かない。

「二年後に、わたしがデザインしたジュエリーが賞をとって、授賞式に夫が来てたのよ」

「キャー、ロマンチック」

まろみの目には星が輝いているようだ。

「それが、そうでもないの。

当時、夫には奥さんがいてね」

そんなあと、まろみは肩を落とした。

「でもやっぱり、赤い糸が繋がっていたのですよね」

「そうみたい。

奥様とは別居状態だったのだけれど、すんなり結婚という訳にはいかなかったわ」

「しゅ、修羅場があったとか」

「まろみちゃん、いい加減にしなさい」

「だって、くら子さん、この先がいいとこなんですよ。

このままだと、今夜は眠れないです」

「まろみさんって、楽しい方ねえ。

そこまで言われては…お話ししない訳にはいきませんね」

 隆志の妻は、老舗の宝石店の一人娘だった。

知り合いの紹介の見合い結婚で、養子ではないものの、隆志は次期経営者として期待された。

 研究者として長年過ごした隆志にとって、宝石の美しさよりも帳簿の数字にしか注意を払わない仕事に疑問があった。

しかし、自分の立場や責任を自覚していた隆志は、昼間は会社で慣れない営業部長の職をこなし、夜や休みの日は宝石の研究に没頭した。

 妻はそんな夫に不満を抱き、出歩くようになった。

妻から妊娠したと聞かされた時も隆志は驚かなかった。

自分の子供でないことはわかっていたが、妻を顧みなかった罰が下ったのだと思い、愛のない結婚をした自らの愚かさを悔いた。

 相手が誰だかわからないうちは、隆志も平静を装っていられた。

子供の父親が、隆志の大学時代のテニス仲間だとわかった時は動揺し、ますます研究に没頭するようになった。

しかし、妻には何も言わなかった。

この態度に妻は逆上した。

なぜ、怒らないのかと。

 身勝手な言い分だが、妻の言うことももっともである。

愛していれば、怒り、嘆き、苦しんだだろう。

しかし、隆志にはもうどうでもいいことだった。

そして、妻の罵倒を背に家を出た。

 一週間後、妻には離婚届を、会社には退職願を郵送し、イギリスへと旅立った。

 留学時代の友人のつてで、隆志は美術品のオークションの仕事を手伝うことになった。

半年後にジュエリーデザインの授賞パーティでゆかりと再会した。

 はじめは、ジュエリーの話、それから徐々に、お互いの生き方、考え方に共通点を認め、ミラノやロンドンで逢瀬を重ねた。

隆志は離婚が成立していると思い込んでいた。

しかし、ある日、日本から子供が生まれたというエアメールが届いた。

 妻は離婚届を出していなかった。

子供の父親が必要だったからである。

今と違い、DNAで親子鑑定をするなど考えられなかった時代で、戸籍上の父親は隆志だった。

 驚いて日本に戻った隆志に、妻は離婚しない、子供を父なし子にするのかとなじった。

妻は隆志が妻の不貞を言い立てる男ではない事を計算していた。

周囲は、身重の妻と仕事を放り出してイギリスに行ってしまった無責任で身勝手な男だと見ていた。

なす術もなく、隆志はロンドンに戻った。

「もぉー、とんでもない奥さんですね」

まろみはうどんを食べるのも忘れて、自分のことのように憤慨している。

「ほんと、まろみちゃんって面白いわねえ」

 まろみに促されて、ゆかりは続けた。

 一年後、隆志のもとへ離婚届を提出したという弁護士からの手紙が届いた。

ほっとした隆志が弁護士に連絡を取ると、どうやら妻に再婚相手が現れて、結婚したいので離婚届を出したらしかった。

「どこまで勝手な人なのでしょう。ほんとにアッタマにくる」

地団駄踏みそうなまろみにゆかりは、もう昔のことよ。とかわした。

 離婚が成立した隆志はゆかりと結婚し、日本に戻ったが仕事はできなかった。

宝石業界に力を持っていた元妻の父親の差し金で、雇ってくれる企業はなかった。

仕方なく二人はまたロンドンへ戻った。

その頃、ゆかりが妊娠した。

 隆志は決断した。

貯金をはたいて、「イブニング・エメラルド」と呼ばれている、高価なペリドートのネックレスを購入した。

「それは、ゆかりさんへのプレゼントですか」

くら子の問いに、ゆかりはとんでもない、親子三人の生活のためよと答えた。

「オーヘンリーのような『賢者の贈り物』ではないですよね」

ゆかりはふふふと笑った。

「夫は賢者ではなかったし、わたしも長い髪ではなかった」

 ケンちゃんの贈り物? とまろみがつぶやくのに構わず、くら子は続きを促した。

 隆志はネックレスを持って、某大使館の大使夫人を訪ねた。

 一ヶ月後の大使館主催のパーティの時に、このネックレスをつけませんか? と。

売ろうとしたのではない、貸そうとしたのである。

買えばとても高価なものだが、一夜借りるだけなら、負担も小さい。

そして、夫人の虚栄心も満たされる。 

今でいうならば、高級宝石のレンタルを始めたのである。

 また、隆志にはオークションの仕事をしていた時に関わった人脈があり、このレンタルの話が口コミで広がった。

 一年後、隆志の手元のネックレスは三つになっていた。

「なーるほど、あったまイ―ご主人ですね」まろみは感心した。

「こうして、二年後に二人目の子供ができた時に、子供には日本で教育を受けさせたいと帰国したの」

 ゆかりの口調から、これでハッピーエンドにならないことがわかった。

「世間はそう甘くなかったし、前妻の父親は娘を捨てた男を許さなかった」

「でも、ほんとは自分の娘が不倫をして他の男の子供を産んだのでしょう。そんなバカオヤジ」

まろみはがぶりとお茶を飲んだ。

「そうねえ、でも父親は真実を知らされていなかったから…」

 二人は日本に住み、宝石のレンタルを続けた。

そのため、隆志は一年の半分を海外で過ごした。

 五年後に、知人の勧めで、今のようにマンションの一室で予約をされたお客様のみに宝石の販売をするようになった。

それも、はじめはほとんどが外国の大使夫人だった。

「今でもバカオヤジは邪魔をしているんですか?」

「それがね、彼女が再婚した相手は、元銀行マンだった。

会社を継いで、バブルの頃に不動産に手を出してマンションやビルをたくさん所有していたらしいけど…」

「不良債権になった」

くら子に、ゆかりはその通りと頷いた。

「やっぱり、バカオヤジに天罰が下ったんですねぇ」

「わたしたちには、もう関係なかったのよ。

その頃には仕事も軌道に乗っていたし、違う世界の人だったから、だけど…」

 今は幸せそうで、豊かに暮らしているけれど、それが簡単に手に入ったものではないのがくら子とまろみにもよくわかった。

そして、ゆかりの、だけど、という言葉。

「夫が苦しんだのは、息子のことなの…」

 今は立派に成人している二人の息子に何があったのだろうか。

難病? いじめ?  …と考えると、さすがのまろみも口に出しては訊けなかった。

 黙り込んだ二人に、ゆかりはうちの息子じゃなくてね、と言葉を濁した。

ハッとしたくら子にゆかりの口角が上がった。

「もしかして、戸籍上の息子さんですか?」

「ある日、中学生の男の子が訪ねてきたの。

元銀行マンを実の父親だと思っていたらしいけれど、親戚の不注意な言葉に疑問を持って、両親の血液型を調べたとか…」

「その年ごろって、そういうことが気になるのですよね。

わたしなんかよく、いたずらすると、お前は橋の下で拾ってきた子だと言われました」

「まろみちゃんのことはどうでもいいの」

 どうでもいいって、どういうことですかとぼやくまろみを無視してくら子は続けた。

「本当のことをおっしゃったのですか」

「言えなかった」

 隆志は少年をリビングで待たせ、書斎で前妻に連絡を取って、どうするかを話し合った。

 もちろん、前妻は実の父親のことを話さないでくれと言った。

それではまた、嘘を重ねることになる。

かといって、母親の浮気を告げれば、どうなるだろう。

この子は母親からも離れてしまうのではないか。

多感な少年に嘘をつきたくはない。

しかし、本当のことを話せば、どれほど傷つくだろう。

そして、この場はそれで済んでも、真実を知った時、彼は大人を信じられなくなるのではないか。

 額のニキビを隠すように前髪をおろした学生服の少年は、ゆかりに出されたオレンジジュースにも手を出さず、ソファーの端にかしこまって座っていた。

「お待たせして悪かったね」

 隆志は微笑んだ。

「あなたは僕の本当のお父さんですか」

 少年の直截な問いかけと、膝の上で握りしめた両の拳が痛々しかった。

 隆志は答えられなかった。

 それまで息をつめていた少年が、ふーっと大きく息を吸って隆志をまっすぐに見た。

「血液型を教えてください」

この問いが何を意味するかお互いに理解していた。

「O型です」

 少年は顎を上げ、ゆっくりと目をつぶった。

歯を食いしばり、ありがとうございましたと、震える声で隆志に軽く頭を下げた。

 帰ろうとした少年に隆志は、待ちなさいと肩に手を置いた。

その瞬間、少年は崩れた。

悲鳴に近い号泣が部屋を満たした。

 泣き疲れ、ジュースを口にした少年に隆志は訊いた。

「ところで、お腹はすいてないかな?」

 いいえと答えた少年の腹の虫がキュルルと鳴った。

「今夜、うちはカレ―なんだが、君は嫌いじゃないよね?」

 こくんとうなずいた少年の肩を抱き、食卓に導いた。

 二人の息子がスプーンを振りまわして待っていた。

 お父さんの知り合いの息子さんだよと紹介した。

「今日は父さんがカレーを作ったからおいしいよ。

玉ねぎを三時間も炒めて作るんだ」

長男が得意そうに言った。

「そうなんだ、うちは母さんより父さんの方が料理がうまいんだけど、出張が多いからね。

でもこの話は母さんには内緒だよ」

次男が付け加えた。

「なにが内緒ですって」ゆかりが皿の載った盆を持って立っていた。

「いや、今日はカレーで嬉しいなって話だよ、母さん」

ほんとかしらと笑いながら、ゆかりはカレーの皿を配った。

 グラスに入った白い飲み物はヨーグルトの入ったラッシーだと教えられた。

少年にとって、甘酢っぱいラッシーも、粘りのないサラサラのカレーライスも、父親が料理をするということも、何もかもが驚きだった。

大きな寸胴鍋いっぱいのカレーが食べざかりの三人の腹におさまった。

「お母さんには電話をしておくから、今夜はもう遅いし、泊っていきなさい」

 少年は隆志の誘いがうれしく、こっくりとうなずいた。

 子ども部屋にもう一つ布団を敷いた。

少年が一度二段ベッドに寝てみたかったと言ったので、長男が布団に寝ることになった。

ゆかりが部屋の灯りを消しても、三人は修学旅行のように、遅くまでひそひそと話し合っていた。

 翌朝、朝食のおにぎりを頬ばりながら長男が隆志に訊いた。

「父さん、健太はこれからも遊びに来ていいよね」

 少年は拒否されるだろうと下を向いていた。

次男も援護射撃をした。

「健太兄ちゃんは、一人っ子だから、家に帰ってもつまんないんだよ。

僕たちだったら、一緒にサッカーやキャッチボールもできるしさ、いいでしょ、お父さん」

「おまえたちは友達になったのか?」

「違うよ、兄弟の杯を交わしたんだ」

長男はニッと父親を見た。

次男もふんふんそうだという顔をしている。

なにぃ〜? と、隆志は目をむいた。

健太は照れ臭そうにもじもじと下を向いて、落ち着かない。

「だって、この前、映画でやってたもの」

「あのなあ、杯を交わすというのはどういうことかわかっているのか」

「知ってるよ。コーラで乾杯したんだ、なっ」

長男は得意そうだ。

「だから、健太兄ちゃんがこれからも遊びに来てもいいでしょ」

次男が父親に甘えるようにねだった。

「お前たちの希望はわかった。

健太君のお母さんに相談してみる」

 隆志はこれ以上前妻と関わりを持ちたくないと思ったが、健太のことを考えると、いやとは言えなかった。

前妻は息子のことに興味がなく、息子の行動には干渉しない、勝手にすればいいと言い放った。

その言い方は何だと、腹が立ったが、健太のためにはその方が良いだろうと腹の虫をおさえて、電話を切った。

 思春期の子供たちのつきあいなど気まぐれで、すぐに忘れてしまうだろうと思っていた隆志の予想ははずれた。

 健太が進学した高校に、翌年長男が入学し、同じテニス部でダブルスを組み、インターハイに出場した。

 夏休みや連休になると、宮前家の息子は三人になった。

冬のスキーや屋久島へも五人で行った。

事情を知らない人は、宮島家には三人の息子がいると思っていた。

 ゆかりの長い話はここで終わった。

「どうして血のつながりのない人にそこまでしてあげたのですか」

まろみにはとても理解ができなかった。

「どうしてでしょうねえ、わたしたちにもよくわからないけれど、みんな彼が好きだったし、気が付いたら、いつもうちの食卓に座っていたという感じ…ご縁かしらねえ」

「今、この方はどうしておられますか」

まろみと違い、くら子はゆかりがここまでの話をする理由がわからなかった。

 うふふとゆかりは肩をすくめて笑った。

「実はね、うちの減築の設計をしてくれる三井君がその人なの」

ポカンと口を開けているまろみの隣で、くら子はうなずいた。

「彼とわたしたちの関係や、どのような暮らしをしてきたか、また、どんな思いで荷物の整理をしようとしているかをわかった上で、お願いしたいと思ったから」

 これは家族の物語で、これからまた新しい物語が始まるのだとくら子は感じた。

 ピンポーン!とチャイムが鳴り、ゆかりがインターホンで話している。

「お客様でしたら、わたくしたちはもう失礼しますので」

 くら子とまろみは腰を上げた。

 こんばんは〜と大声で食堂に入ってきたのはさくらだった。

キャッとまろみが両手で顔をおおった。

「なによ、まろみちゃん、わたしは幽霊じゃないわよ」

「幽霊より怖いです」まろみの頼りない声。

「取って喰おうという訳じゃあないんだから。

それに、あんたは、あまりおいしそうでも無いからね」

おいしくない? どういう意味よとまろみは考え込んでいる。

 くら子もご無沙汰しておりますとあいさつをした。

「宮前物語は聞いた?」

 さくらに前置きはない。

「はい、うかがいました」

「それじゃあ、よろしくね」

「承知しました」

「夕食は済んだようだけど、まだ豆大福は入るかしら?」

さくらから身を引いていたまろみが乗り出した。

「入ります! 入ります! 甘いものは別腹です」

あんたに訊いてるんじゃあないんだけどねえ、と苦笑いをしながらさくらは古びたエコバッグの中から豆大福の包みを出した。

 お茶を飲みながら、さくらはまろみを見た。

「ところで、三井君って、二枚目なんだよ。佐田啓二みたいでね」

二つ目の豆大福に手を伸ばそうとしていたまろみの手が止まった。

佐田啓二ってダレ?

 まろみの頭の中はクリスタルのように透けて見えるので、さくらは続けた。

「ほら、よくテレビに出てる中井なんとかのお父さんだよ」

「ナカイ? テレビ? もしかしてあの中居クン、キャッ」

 くら子が、それは違うと言いかけたのをさくらがそっと制し、バチンと、アイラインで二倍の大きさになった目でウインクした。

「打ち合わせには、わたしも参加させてもらえるでしょうね」

まろみの上半身は踊るように揺れている。

「あたりまえじゃない」

くら子はさくらに合わせることにした。

 ゆかりは呆れて様子見の構え。

「ところで、宮前邸の減築はいつから始まるの?」

さくらの切り替えは早い。

くら子はゆかりを見た。

「うちはすぐにでもけっこうです。美術館へ運ぶものは決まっていますから」

「それじゃあ、早速、三井君と相談して日程を決めてちょうだいね」

「わかりました」

 よろしくお願いしますとゆかりに見送られて、宮前家を後にしたくら子は、夜空を見上げた。

 まろみは、ナカイ君の歌を口ずさんでいる。

 宮前家の笑顔と涙が詰まった家や荷物を整理して、新しい家を造ることは、新しい歴史作りに関わることになる。

何も知らなければ、単なる荷物の片づけと減築で終わっていただろう。

だからこそ、ゆかりは三井のことも含めてすべてを話してくれた。

 信頼されたことがうれしく、また、責任も感じた。

さくらがわざわざ訪れたのも、よろしく頼むということなのだろう。

「あっ、星が流れた」

まろみも空を見上げた。

「早く言ってくださいよ、くら子さん。流れ星にお願いするんですから」

「間に合わないわよ」

そうですねえ、獅子座流星群ですかねぇと、まろみは額に手をかざした。

「あれはもっと遅い時間じゃあなかったの」

そうでしたかと、まろみは次の流れ星を待っている。

 角を曲がると、まろみ西を指差して、ぶつぶつと呟いた

 まろみは流れ星だと思って願い事をしているが、動きが遅い。

人工衛星ではないかと思ったが、くら子も宮前家の減築がうまくいくようにと願った。

 流れ星と共に長い一日が終わった。

23章終了

23章 減築で新しい住まいを(1部)

 事務所のホワイトボードにマジックで予定を書きこみながら、くら子は言った。

「まろみちゃん、明日の二時に、戸田さくらさんのご紹介でお客さんが見えるから、よろしくね」

「戸田さくらさんて、遺産はメダカ基金に残すって言って、結局老人ホームを作った、あのさくらさんですか」(12章、きっかけは松花堂弁当)

「そう、あのさくらさん」

まろみは一度さくらに、あなたの言葉使いはなっていないと叱られたことがあり、苦手なのだ。

「さくらさんはお仕事の都合で来られないそうで、お知り合いのご夫婦がみえるそうよ」

「よかった〜。さくらさんの前に出ると、しゃべれなくなるんです。

また、変な日本語使ってないかと緊張するから」

そんなに気にしなくてもいいのにと、くら子はマジックを置いた。

「それで、どんなご相談なんですか」

まろみが、くるりと椅子を回転させて、くら子を見上げた。

「さあ、くわしいことはご本人から聞いてくださいということで、なにもうかがってないの」

 翌日の午後、宮前夫妻が事務所を訪れた。

ロマンスグレイという言葉がぴったりの夫は一見してブランド物とわかるダークスーツで、妻は真っ赤なカシミヤのアンサンブルに真珠のネックレスという熟年夫婦。

「戸田さくらさんのお知り合いということですが」とくら子は訊いた。

夫婦で一瞬顔を見合わせた後、妻のゆかりが答えた。

「はい、夫は宝石店を経営しておりまして、さくらさんはうちのお得意さまなんです」

「まあ、そうだったんですか。それで、ご相談というのは?」

今度は夫の隆志が答えた。

「今の家を減築したいと思いまして、そのために荷物の片づけをお願いしたい。

これがひとつ。もうひとつは、減築のアドバイスをしていただけたらと」

 まろみがお茶を出して、くら子の隣に座った。

「減築とはどの程度のことをお考えですか」

「二階建てを平屋にしようと思っています」

 宮前夫婦には息子が二人いるが、どちらも宝石店を継ぐ気はなく、長男は東京の医大を卒業して教授の娘と結婚し、世田谷に家を建てた。

次男は公務員で現在福岡にいるが、転勤族なので親元に戻ることはないだろうということだった。

隆志は続けた。

「それで、減築のことですが、長男の高校時代の友達の三井君が設計事務所をしてまして、依頼はしたのですが、彼はビルが専門で住宅を手掛けたことがないらしくて、くら子さんにアドバイスをお願いできたらと、こうしてうかがった次第です」

「わたしでお役に立つことでしたら、お手伝いしますが、建築士の方はそれでよろしいのですか」

普通、建築士は外部の者に、設計に口出しされることを好まない。

ゆかりは口に手を当てて、おほほほと、さもおかしそうに笑った。

「三井君たら、独身だし、料理もしたことがないんですよ。

息子に言わせると、三井のマンションはホテルみたいなもんで、寝に帰るだけだって言ってましたの。

彼には悪いけど、そんな人が作ったキッチンは、見栄えは良くても使いづらいに決まっています」

 くら子の、さもありなんという顔を見て、ゆかりは調子づき膝を乗り出した。

「実は、わたしのお友達がね、ある有名な建築家に設計を依頼して建てた家はもう、ひどいもんです。

いえ、見かけはいいんですのよ。

雑誌にも紹介されました。

でも、使いづらくて。

そこの奥様左利きなんですよ」

「右利きと左利きでは使い勝手が違いますからね」

 ゆかりは、くら子の答えに、わが意を得たりという顔で夫をちらっと見た。

「そうなんですよ。建築家は自分の作品を作りたかったようで…だから一千万もするドイツのシステムキッチンを入れたのにどうにも使えなくて、仕方なく、キッチンを作りなおそうとしたんです。

ところが、その建築家が、自分の作品をぶち壊すなと怒鳴りこんできて、大騒ぎで警察まで呼ぶ始末でしたの。

それで、そのご夫婦は心労でまいってしまい、もう耐えられないと言って、新築の家を売って引っ越されたのです。

夫は、雑誌に紹介されているような先生にお願いしたかったみたいなんですけど」

 ねえ、あなたと、ゆかりは夫を横目に見て、続けた。

「だから、わたしは偉い先生に依頼するのに反対したんです。

それで、三井君なら、こちらも言いたいことが言えますし…。

それに、わたしたち、年をとってもあの家で暮らしたいと思っていますので、バリアフリーのこともありますし…」

 隆志が手にしていた湯呑み茶碗を置いて、腕時計を見た。

「ゆかり、このへんでもういいだろう。

今日はご挨拶ということでうかがったのだから。あまり長居をしてはご迷惑だろう」


 その日は一日中、事務所に香水の残り香が漂っていた。

 翌日、まろみはインターネットで「減築」を検索した。

話には聞いていたが、具体的に減築するという話は初めてだったからだ。

かなりの企業が「減築」を宣伝文句にしている。

「ふ〜ん、けっこう減築しているんだ」

 まろみのひとりごとに、くら子が、何が? と訊いた。

「いえ、昨日の宮前夫妻の減築のことで、初めてだったから」

「そうねえ、まだ一般的ではないわね。

でも、これから増えると思うわよ」

「そうでしょうか?」

「だって、今の高齢社会を考えると、これからますます老人世帯が増えていくのよ。

頑張って子供たちのためにと思って建てた家に、子供たちは戻ってこない。

夫婦二人では広すぎる。

だけど、長年のご近所の付き合いとか友人もあるから、引っ越しはいや。

それに、家もそろそろ古くなって修理の必要がある。

どうせなら、減築するほうが、耐震性も高められたり、冷暖房費だって減らせるでしょう」

「それに、そうじも楽ですしね」

「本音の部分では、それが一番だったりしてね」

突然、まろみはパンと手を打って、チャーンス! と声を張り上げた。

「なによ、びっくりさせないでちょうだい」

 椅子から転げ落ちそうになったくら子に、まろみがもったいぶって言った。

「だって、減築するには当然荷物を減らす必要がある。

そこで登場するのが『わくわく片付け講座』と『お片付けサービス』ですよね〜」

「優秀なスタッフがいてくれて、涙が出そう」と、くら子は目をぬぐう真似をして下を向いた。

「うそばっかり、ホントは笑ってるでしょ」

まろみが腕を組んでくら子に向き直った。

クククという小さな笑いが次第に大きくなり、くら子は目に涙を浮かべていた。

 十日後、くら子とまろみは宮前邸に向かった。 

高い石塀と樹木に囲まれた豪邸を見上げて、まろみがあんぐりと口を開けた。

「どうしたの?」

くら子の問いに、まろみの声は上ずっていた。

「やっぱり、宝石屋さんってもうかるんですね。

こんなお屋敷、初めてみました」

「さくらさんのお話だと、普通の宝石店ではないらしいわよ」

「宝石店は仮の姿で、実は密輸をしているギャングの親分とか」と、まろみはきょろきょろあたりを見回した。

 ばかねえと、くら子はまろみの腕を軽く叩いた。

「お店といっても、会員しか入れないらしいの。

ウインドウがあるようなお店を構えているのではなくて、高級マンションの一室で一日に一人か二人のお客様に宝石をお見せするらしいわ」

「そんなので、商売になるんですか」

「なるからこんなお屋敷に住めるんじゃないの? 

お得意様はいわゆるハイソサエティの方々らしいわ。

だから扱っている宝石もそこらのお店と桁が違うみたい。

マンションが買えるくらい値段の指輪やネックレスを、これいただくわって、ぽんと買うんだって」

「アンビリーバボー」

まろみは大げさに両手を広げた。

「信じなくてもいいけど、世の中にはわたしたちの知らない世界がたくさんあるってことよ。

それより、わたしたちは仕事をしましょう」

 インターホンで名乗ると、どうぞという声がして、ぎぃーっと門があいた。
 
 宮前ゆかりは、二人を笑顔で迎えた。

 玄関には大きなクリスタルの花瓶からあふれるほどのカサブランカが活けられ、強い香りを放っていた。

 応接間までの長い廊下の壁にはギャラリーのように絵がかかっていた。

 シャガール、マチス、ピカソ、クレーと、美術館でしかお目にかかれないような画家のリトグラフやデッサンの小品が並んでいた。

 案内された応接間の天井にはクリスタルのシャンデリアが輝き、床には絹の絨毯が敷かれ、白い革張りのソファーが中央に半円を描いて置かれていた。

 壁には大きな暖炉があり、反対の壁は一面天井までの収納で、ガラスの扉の中には、アンティークのオルゴールやビスクドール、マイセンの磁器の人形などが飾られていた。

 ソファーを勧められて腰をおろしても二人は落ち着かなかった。

 お茶の用意をしてますのでと、ゆかりが姿を消した途端に、まろみがきょろきょろと見回した。

「ここは美術館みたいですね。

泥棒が入ったらどうするのでしょう」

 くら子も同じようなことを考えていたので、苦笑して答えた。

「これだけのおうちだから、セキュリティは万全でしょう。

それに保険もかけてあるだろうし、まろみちゃんが心配しなくても大丈夫よ」

 まろみがサイドテーブルの上の白い胡蝶蘭が本物かどうか調べていると、ゆかりが優雅な象嵌を施したワゴンを押してきたので、あわてて座りなおし、膝の上に手を置いた。

「ごめんなさい。今日はお手伝いの人がお休みなもので」

 ゆかりはソファーに合わせた楕円形のガラスのテーブルに慣れた手つきでティ―ポットやカップを並べ、最後に砂時計を置いた。

 皿に乗ったウィーンのケーキ、クグロフを見て、まろみがごくんとつばを飲み込んだので、くら子に肘でつつかれ、わかってますとうなずいた。

 スピーカーは見えないが、室内には会話の邪魔にならない程度の静かな音楽が流れている。

「さくらさんから、お二人が甘いものがお好きだとうかがってますのよ」

 砂時計の砂が全部落ちたのを見て、ゆかりが楽しそうに、紅茶を注ぐ。

「さあ、どうぞ。クグロフがお口に合いますかどうか」

「合います。合います」というまろみのつぶやきに、ゆかりは微笑んだ。

「先日は肝心のお話ができなかったもので、ごめんなさい。

それに、一度家の様子も見ていただきたかったものですから。

さあ、冷めないうちにどうぞ、お話はその後で」

 サロンのお茶会とはこういう雰囲気なのだろうかと、くら子はダージリンの紅茶を味わった。

確か、クグロフはマリー・アントワネットの好物だと聞いたけれど、と優雅なサロンを思い浮かべながらバターたっぷりのケーキを口にし、うっとりした。

 おいしいお菓子と紅茶の至福の時間を終え、くら子とまろみはビジネスモードに切り替えるために、カップを脇に寄せ、手帳を広げた。

「減築して平屋にされるということですが、設計はどの程度すすんでいるでしょうか」

くら子の問いに、ゆかりは手を振って応えた。

「まだ、まっ白です。

それで、これからくら子さんたちに加わっていただいて、三井君と話をしたいと思っています」

「そうですか。

まだ他のお部屋を拝見しておりませんが、高価な美術品のコレクションをしておられるようですが」

「ええ、この部屋にあるのは一部です」

 くら子とまろみはぎょっとして顔を見合わせた。

「ほとんどは二階にありまして、一部屋をコレクションの部屋にしております。

あと、図書室には、外国の本や石ころがたくさんあります」

  石ころ? とまろみがつぶやいた。

「あら、ごめんなさい。

主人に言わせると貴重な本や鉱物だそうですが、わたしにはただの汚い石ころにしか見えないものですから」

 ほほほと笑いながら、ゆかりは続けた。

「主人はK大学を卒業後、ケンブリッジに留学し、美学や美術史を学ぶうちにジュエリーに興味を持ったそうです。

日本でジュエリーが美術館で見られるようになったのは最近のことですけど、欧米では長い歴史がありますからね」

 ゆかりは、まろみの耳の小さなルビーのピアスに目を留めた。

「まろみさんは、かわいいピアスをしておられるけれど、日本でも古墳時代に素敵なピアスをしていたのをご存じ?」

え〜、そんな昔にですかと、まろみは首をかしげた。

「そうなのよ、信じられないでしょうけど、五、六世紀の頃にはハート型の耳飾り、今でいえばピアスがあったのよ。

それも男性がつけていた」

「クールですねえ」

クール? というゆかりの疑問にくら子が補足した。

「わたしもよくわからないのですが、かっこいいということらしいです」

なるほどねえという表情で、ゆかりは続けた。

「おほん、まろみちゃんのいうクールな耳飾りは七世紀ごろまでで、その後、流行するのは第二次世界大戦後なのです」

 二人はゆかりの話に引きこまれた。

 グランドファーザーズ・クロックが時を告げ、くら子はハッとした。

ゆかりも気がついた。

「あら、ごめんなさい、わたしったら、余計なことばかりお話しして」

「いえ、とんでもない。消えたネックレスの話はこの次にお聞きしたいです」

 ビジネスモードに戻って、くら子は訊いた。

 「一応確認のためにお尋ねしますが、これだけのお屋敷で、貴重な美術品などをたくさんお持ちです。

二階建てが平屋になるということは、単純に考えて空間が半分になることですから、持ち物もそれ相応に減らしていただくことになりますが、よろしいのでしょうか」

「ええ、その点は二人で話し合いました。

夫が長年かかって集めたものですし、わたしもそれなりの愛着があります。

それを簡単に手放す気にはなれませんので、小さな美術館を開設して、そこで一般の方に公開できればと思っております。

残念ながら、息子たちは夫の仕事を継ぐ気はありませんので、店は同業の方にお譲りして、美術館で、先ほどお二人にお話したようなジュエリーのお話ができればねえ」

「さっきのは予行演習ですか?」

まろみの無邪気な問いに、ゆかりは楽しそうに笑い声をあげた。

「それで、美術館の方はどちらに?」

「それがね、さくらさんのお知り合いが古い洋館に住んでおられたのだけれど、ひとり暮らしが無理になったから、さくらさんのホームに入居されたの。

それで、残ったお屋敷をどうするかということで、さくらさんからご相談があってね。

わたしたちも美術館なんて考えたことも無かったのだけれど、これは元々さくらさんのアイデアなのよ。

くら子さんならおわかりでしょう?」

「ええ、さくらさんはアイデアウーマンですから」

くら子とまろみは、屋敷を案内された。

 図書室の二面の壁は天井までの棚で、一面には本がぎっしりと並んでいた。

本のほとんどは外国の本で、ハガキ大の大きさの本から、革表紙の大きな箱のような本まであった。

窓際には大きな机が置かれ、二台の顕微鏡と、四角い機械が載っていた。

もう一方の壁にはたくさんの箱が納まっていた。

 くら子は子供のころに見た、羽を広げた蝶々がピンで留められていた木製の標本の箱のように見えた。

「こちらは鉱物や化石なんです」と、ゆかりは、箱の一つを棚から抜いて、机に置いた。

木箱にはガラスがはまっており、きちんと区切られた中には石が並んでいた。

薄い緑の石にはフローライト―スイス、ピンクの石にはロードナイト―マダガスカルと几帳面な字で書かれた小さな紙が添えられていた。

「これ全部石なんですか?」

丸い目をさらに丸くしてまろみが訊いた。

ゆかりは肩をすくめて、たぶん、と答えた。

まろみは、熱心に棚の箱の中をのぞいていた。

「ここにアメシストという、ごつごつした塊があるんですけど、あのアメジストですか?」

「そうよ。確か二月の誕生石だったと思うけど。

ギリシャ語で『酔わない』という意味で、昔は、酔い止めのお守りとして使われていたそうだけど」

まろみの、わたしもアメジストの酔い止めが欲しいなあという声に、くら子がこれこれとストップをかけた。

 次に案内されたのは書斎だった。

こちらは二面の壁が収納庫で、図書室と同じように窓際に机があり、その横に三台のスチールのファイルボックスや大きなワゴンが置かれていた。

 鍵のかかった収納庫の中は、大小の引き出しが並んでいた。

 ゆかりは引き出しの一つを抜いて、光のあたる窓際に持って行った。

黒いビロードの内張りをされた引き出しには、光を受けて輝く二個のブローチがあった。

左側には、三尾の金色のタツノオトシゴのまわりに、水の泡に模した丸い部分に白いオパールがはめ込まれた、まるで水中のような様子を表しているブローチ。

右側には、緑の羽根のトンボで、頭の部分は人間の女性の上半身がかたどられている。

 これはどちらも、ルネ・ラリックの作品です、と説明するゆかりの言葉は二人の耳には入らなかった。

くら子はふーっとため息をついて、隣のまろみを見ると、じっとタツノオトシゴを見つめている。

「まろみちゃん、よだれが垂れてる」

えっと、まろみは口の手を当てた。

冗談よ、とまろみの肩を叩き、くら子はゆかりに向き直った。

「美術館になれば、こういうすばらしい作品がわたしたちにも拝見できるようになるのですね」

「ええ、さくらさんが、個人のコレクションとして眠らせておくより、公開すべきだとおっしゃってね」

「わたしもそう思います」

 二階の夫婦のクロゼットは小さなマンションが一つ入るくらいの大きさだった。

ゆかりがドアを開けて二人を通した。

洋服のコーナーが一番大きく、端の扉を開けると、パーティー用のスパンコールのついた黒いイブニングから、まるでこの人は芸能人かと思うようなシックで美しいドレスが並んでいた。

それを見た途端、きゃー、とまろみは踊りだしそうな勢いである。

「外国で大使館のパーティやレセプションに出席するのに必要なんですよ。

それに、ジュエリーの仕事をしている以上、それなりのものを身につけなければおかしいでしょ。

というのは、表向きで、わたし自身がおしゃれが好きで、着飾るのが楽しかったのよ」

 ゆかりは、次々と扉を開けていく。

「ここは帽子のスペース、実用的でないものもあるけれど、これもわたしの趣味」

百以上はあると思われる色とりどりの帽子の箱にくら子は思わず訊いた。

「これは全部海外で誂えられたのですか」

「ほとんどがそうねえ。

日本も十年くらい前はオーダーのおしゃれな帽子を作ってくれるところがあったけど、職人さんが年を取ったのと、帽子をかぶる人が減って、お店が消えていったのはとても残念」

「でも、最近若い人向けの帽子のお店ができていますよ。

ねえ、くらこさん」

「ええ、でもちょっと違うのよね」

 ゆかりが一つの箱を開けると、ラベンダー色の薄紙の中から黒い花が現れた。

大きなコサージュという感じで、オ―ガンジーとサテンの花弁を囲むようにレースが取り巻いている。

「まろみさん、これは、トークとかヘッドドレスとよばれているのだけれど、素敵でしょ」

「わ、わかりました。

こんな、お、お帽子は売ってません」

 バッグや靴が、整然と並べられた棚を前にして、くら子は、美術館へ移すものと、屋敷に残すものを分けることが第一の仕事だと思った。

そして、念のために訊いた。

「あの、他にもコレクションをお持ちですか?」

「あとは、食器だけです」

くら子は平静を保とうとしたが、声はほんの少し震えていた。

「どちらにありますか」

「ダイニングの横の小部屋に、海外で買ってきた食器がありますの」

「リビングの棚とは、もちろん別ですね」

「ええ、外国からのお客様をもてなす時には、その方のお国の食器を使うのが良いかなと思いまして」

「何カ国くらいの食器があるのですか」

「さあ、数えたことがないから…」

 くら子の普段の仕事なら、ざっと家の中を拝見して、荷物の量を確認し、段取りを決めるのだが、今回はまるで勝手が違い、美術館のツアーのようだと思った。

しかし、こういう経験は度々できるものではないので、ゆかりのペースに合わせていこうと思った。

「ひとりでしゃべって、のどが渇いたので、少しお待ちいただけます?」

 ゆかりが席を外している間に、まろみも手洗いに立ち、興奮して戻ってきた。

「くら子さん、ここのおトイレはうちのリビングくらいの広さがありますよ」

 二人で、トイレのタイルの話をしているところへ、ゆかりが長手盆に日本茶の用意をして現れた。

「おいしい宇治の新茶をいただいたので、ご一緒にと思って」
 
 添えられているのは厚切りの羊羹。

一目で老舗の和菓子屋のものとわかる。

 まろみがくら子にそっとささやいた。

「羊羹って、こんなに厚く切るものなのでしょうか。

わたし、カルチャーショックです」

「ほんとに、びっくりすることばかりね」

 ゆかりがゆっくりと小さな茶器に新茶を注ぎ、錫の茶托にのせて二人に勧めた。

「紅茶やコーヒーも美味しいけれど、この頃は日本のお茶が一番だと思うようになって…年のせいかしらね」

「わたしたちも日本茶は大好きです。

ねえ、まろみちゃん」

まろみはニッと笑って、はい、羊羹はもっと好きですと応えた。

 ダイニングに隣接した部屋の食器棚のガラス扉の中には、大量の食器が収納されていた。

 ウェッジウッド、マイセン、ジノリなどの洋食器に、繊細なカットが施されたバカラのグラス、クリストフルのカトラリー。

中華料理のセットに、和食器も山ほどあった。

引き出しには白から始まって赤、緑、オレンジなどのテーブルクロスとナプキンがアイロンをかけられて出番を待っているのだろう。

 くら子は個人の住宅でこれほどの食器を目にしたのは初めてだった。

「あの、ゆかりさん、減築しても、外国のお客様のおもてなしをされるのですか」

「いいえ、食器は二ピースくらい残して、後は息子の嫁たちが欲しいと言えば譲ろうと思っています」

 まろみはガラスの向こうのジノリのカップをのぞきこんだ。

「あの、これ、ジオ・ポンティのデザインじゃないですか」

よくご存じねとゆかりは驚いた。

 まろみの趣味は、ミステリーの読書と食べ歩きに加え、デパートの食器売場をのぞくことである。

「本物を見るのでは初めてです」とまろみは興奮している。

 どうやら、これらの食器もかなりの価値あるコレクションである。

「お好きな方には価値があっても、料理や食器に興味のない人にとっては、ただのガラクタだから…長男の嫁は眼科の開業医で、次男の嫁も公務員なの。

二人ともお料理はあまり好きではないみたい」

ゆかりの言葉には、さびしさがにじんでいた。

「今、アガサ・クリスティーの『葬儀を終えて』を読んでるんですけど、遺産相続でスポードのデザートセットを誰がもらうかでもめていましたけどぉ」

 まろみの目は輝いている。

 これは遺産相続の話である。

欧米では高価な食器や銀器は相続の対象となる。

これらはもちろん、棚に飾っておく美術品ではなく、日常、もしくはハレの日に使う食器であり、家族の思い出もそこに重なる。

また、このような洋食器のメーカーは何十年も同じ柄を作り続けているので、皿が一枚割れれば、同じ柄を買い足すことができる。

だからこそ、子から孫へと使い続けることができるのである。

「まろみちゃん」と、くら子はたしなめた。

22章 これでいいのか委員会

「まろみちゃん、明日からの『わくわく片付け講座』の資料は用意できた?」

「はい、大丈夫です。

今回の参加者にもなかなかユニークな人がおられるようです」

まろみがにやりとした。

「なによ、その笑いは、気持ち悪いわねえ」

くら子はぶるぶるっと肩をすくめ、いやな予感がするとつぶやいた。

「くら子さんはお掃除ロボットを見たことあります?」

「ないけど、それがどうかしたの」

「お掃除ロボットを使いたいから、講座に参加される方があります。

さて、なぜでしょう」

ううむ、とくら子は口をつぐんだ。

「ヒント、お掃除ロボットは、お掃除はしてくれますが、片づけはしてくれません」

わかったとくら子は手を打った。

「お掃除するには床にものがあるとダメなのよ」

「ピンポ〜ン。この方はお掃除が大嫌いだそうです。

そこで、お掃除ロボットを買ったのですが、動けないそうです」

「なるほど、お掃除ロボットにお片付けサービスをつけたら売れるかもね」

「さすが、経営者。

言うことが違いますね。

しかし、このロボットすごいみたいですよ。

留守の間にお掃除して、ひとりで充電してしまうらしいですから」

「うちにも欲しくなるわね。

講座でお掃除ロボットを売りたいと言われると困るけど、そうでなければ問題ないし…他には?」

「もう一人面白い人がいます。『これでいいのか委員会』を作りたいそうです」

「えっ、何の委員会?」

「それがよくわからないんです」

「よくわからないって?」

まろみは申込書を確認した。

「これでいいのか委員会を作りたいので、としか書いてありません」

「何がこれでいいのかが問題のようね」

「明日が楽しみですねえ」

まろみのうれしそうな顔に、くら子はためいきをついた。

 翌日、「わくわく片付け講座」はくら子のあいさつの後、いつものように参加者の自己紹介になった。

 お掃除ロボットを使いたいという主婦の話に、興味を持った者が少なくなかった。

そして、どこに行けば売っているのか、いくらかという質問まで飛び出した。

 部屋の隅でロボットの話を聞きながら、くら子とまろみはやっぱりねと顔を見合わせた。

 ロボットで盛り上がったところで、なごやかに三人の自己紹介が終わり、おもむろに立ち上がったのが権藤鈴子だった。

「権藤鈴子です。友人からはリンちゃんと呼ばれています。

ですから、皆さんもリンちゃんと呼んでください」

 まろみが肘でくら子をつついて、あの人ですよ。

何とか委員会はとささやいた。

「わたしは二年前まで中学で英語を教えていました。

退職して、半年前にイギリスのチュートンへ旅をし、念願だった『ジェーン・オースティン記念館』に行きました。

実は大学の卒論のテーマがジェーン・オースティンの『エマ』だったからです。

そして、その後、ジェーンの足跡をたどる旅で、一ヶ月ほど友人の知り合いの家にホームステイをさせていただきました。

そこで気がついたのです。

イギリス人の暮らしと今の日本人の暮らしの違いを。

帰国して、自分がこのままでいいのかと思うと居てもたってもいられなくなりまして、日本人への問題提起というと大げさですが、これでいいのかと思うことをいろいろ考える研究会を作ろうと思いました。

会員は今のところわたし一人ですが、賛同してくださる方は是非会員になってください」

 ジェーンなんとかだとか、訳のわからない事を言って、あの人は勧誘のために来たのかしらという周囲の疑惑の目に応えて、鈴子は続けた。

「わたしがこれでいいのかと思うことの一つに、物を持ちすぎるということがあります。

 イギリス人はモノを大切にします。

毎年洋服を買い替えるなどということはなく、穴の開いたセーターでも平気です。

家電製品も壊れるまで大切に使います。

このようなシンプルな暮らしをわたしもしたいと思ったのですが、悲しいかな、片付け方がわからない。

そこで、この講座に参加しました。

よろしくお願いします。

あ、研究会の名前は“これでいいのか委員会”です。詳しいことは講座の後に、個人的にお尋ねください」

「さすがに元学校の先生、しゃべるのはお手の物、だけど、委員会はいいんかい?」

と、まろみがくら子を見た。

 冗談言ってる場合じゃないでしょうと、くら子がじろりとにらんだので、まろみは肩をすくめた。

「政治や宗教の勧誘とか、販売行為はお断りしているけど…とにかく後でお話しを聞きましょう」

 講座が終わって、帰ろうとする鈴子をくら子が呼び止めた。

「あの、リンさん、少しお話したいのですが」

「はい、『これでいいのか委員会』のことですね、すいません、調子に乗ってしゃべりすぎました。

人前で話すのが久しぶりで、嬉しかったものですから」

 そこに、受講者の三人が、鈴子の話を聞きたいと残った。 

 六人がテーブルを囲んで座り、鈴子が話を始めた。

「それでは『これでいいのか委員会』について、お話しします。

別にたいそうなことを考えている訳ではないんです。

自己紹介でお話ししたように、イギリス人の暮らしぶりを見て、いろいろ考えたもので、それを誰かに話したかったんです。

だけど、同居人は猫二匹だけだもので、話し相手もいないし、わたしと同じような考え方をしている方があれば、お友達になれればいいなと思ったんです」

 鈴子はペットボトルの水を一口飲んで、続けた。

「二〇代に結婚しましたが、五年たっても子供ができなくて、昔の“嫁して三、いえ、五年、子無きは去れ”です。

その後はひとりで教師をしながら生きてきました。

友人もいますが、孫のいないわたしが、他人の孫の話を聞いてもちっとも面白くない。

友人の幸せが羨ましいとか、妬ましいのではなくて、興味がないのです。

嫁や、親の介護の愚痴はもっと聞きたくありません。

ただ、自分のこれからの生き方とか、暮らしについて話し合える友人が欲しかったのです」

 テーブルの上に手を組んで聞いていた、間野光代がうなずいて返した。

「リンさんのお気持ち、よくわかります。

わたしも、夫はいますが子供がいないので、子供や孫の話にはうんざりしてきました。

たまになら良いのですが、話題がそれしかないと、話をしていてもつまらなくて。

あと、タレントの話とか…それが悪いとは言いませんが、わたしにはどうでもよいことなので。

それより、年金や環境の問題とか、どういう風に年を取っていくのかについて興味があるのですが…」

 おほんと咳払いをした後、津母川ゆめが発言した。

「え〜、わたしは、孫の写真を携帯の待ち受け画面にしている“ババ馬鹿”ですけどっ」

 二つ折りの携帯電話を開いて、どうだ、とばかりに孫の写真をアピールした。

いや、あの、そんな、と恐縮して鈴子と光代が口ごもっていると、ゆめがにっこりした。

「わたしも自分の孫はかわいいけど、よその孫のことは知りませんよ。

それに近頃の母親ときたら…これも、余計なお世話ね。

とにかく、わたしがこれでいいのかと思うのは、日本人にもったいないという気持ちがなくなったこと。

買う時はポイポイ買って、捨てるのもポイポイでしょ。

片付けるというのは、単に捨てればいいということではないでしょう。

わたしはこの『わくわく片付け講座』に参加しましたけど、ただ、捨てることだけを馬鹿のひとつ覚えのように言うのなら、文句を言うつもりですよ」

 最後はくら子へ向けての言葉だった。

 くら子が、それはと言いかけたのを室田郁子が遮った。

どうやら、皆しゃべりたくてうずうずしていたようだ。

「わたしは三〇代のころ、銀行勤めの夫の転勤で三年間イギリスに暮らしました。

当時のわたしは、イギリス人はケチで頑固だとしか思わなかったのですが、帰国して、時がたつにつれて、その良さがわかってきたような気がします。

そういえば、一番の思い出は、キューカンバサンドイッチでした」

 郁子は、思い出したようにフフフと笑った。

「あれはわたしも驚きました」と鈴子が相槌を打つと、ゆめが、イギリス人は九官鳥を食べるの?と、目をむいた。

 まろみも黙っていられず、七面鳥は知ってましたけど九官鳥まで食べるとは、信じられない!と言ったので、二人は爆笑の渦に包まれた。

何がおかしいのですかとまろみがむっとすると、ゆめもそうですよ、失礼なと笑い転げている四人をにらんだ。

 鈴子が笑いをこらえて説明した。

「キュウカンバーは、九官鳥じゃあなくて、キュウリなんです」

 キュウリ?と、ゆめとまろみは同時に言った。

「それを早く言ってくれなくちゃあ、ねえ、ゆめさん」

 まろみは仲間がいることで、強気だった。

「そうですよ。ほんとに…でも、キュウリのサンドイッチねえ」

 郁子はイギリスでの体験を披露した。

 隣人に食事に誘われ、イギリスの家庭料理がふるまわれるのかと胸躍らせ、夫婦でドレスアップをして、隣家のドアをノックした。

そこで、出て来たのは、パンにバターを塗って、きゅうりの薄切りをはさんだサンドイッチだけだった。

「どうしてきゅうりのサンドイッチだけなの?」と、ゆめが不思議そうに訊いた。

「一番のごちそうは会話で、料理は二の次なんです」

 どんどん話が横道にそれていくのを感じたくら子が発言した。

「鈴子さんのお話では、『これでいいのか委員会』は、まだ構想の段階ではないかと思いますが…」

 ええ、そうなんですと、鈴子が申し訳なさそうに答えた。

「そんなことないわよ。

これで四人の会員ができたじゃない。

活動はこれからよ」

 ゆめがバンと両手でテーブルを押さえて立ち上がった。

 わたしも何かしたいと思っていますと、郁子が立ち上がり、続いて、わたしもと、光代がゆっくり立ち上がった。

 茫然としている鈴子を両脇から引っ張り上げて立たせると、ゆめが音頭をとった。

「それでは『これでいいのか委員会』発足を祝って、一本締めでお手を拝借」

 四人が意気揚々と帰った後、椅子を片付けながら、あれでよかったんですかねえとまろみが訊いた。

「さあ、でも、わたしたちがあれこれ言う筋合いのことではないみたい」

 そうですねと、まろみは最後の椅子を片づけた。

 「これでいいのか委員会」は秘かに進行していたようで、二ヶ月後に四人がK社の事務所を訪れた。

 お持たせのアップルパイにダージリンの紅茶を添えて出すと、皆、顔がほころんだ。

 年長の津母川ゆめが、姿勢を正し、それでは、と話を始めた。

「本日、こちらにお伺いしたのは、ご相談がありまして…」

 くら子とまろみは顔を見合わせた。

「四人でいろいろ考えた結果、わたしたちはモノを大切にしたいと思っているので、リサイクルをしたいんです。

だから、業者の方をご紹介していただけないかと」

 リサイクルですか、と黙り込んだくら子に光代が、応えた。

「普通のリサイクルではないんです。

いらないから捨てるんじゃなくて、使わないけれど、愛着があって捨てられないようなものを、使ってくれる人にお渡しするのです」

 システムとしては、モノを出す方が登録料として千円出して登録する。

受け取る方は、こういうものが欲しいという登録をしておく。

これは無料である。

登録者の中でマッチングしそうなものを委員会がとりもつ。

登録はインターネット上でできるようにし、写真も添付する。

基本的に、近隣を対象としているので、パソコンが使えない人のために、光代の従妹が経営している喫茶店に掲示板と、登録アルバムを置き、そこで見てもらう。

「お話はなんとなくわかりましたけど、それだけのことを四人でされるのですか」とくら子が訊いた。

 ゆめがあわててアップルパイを口に運び、フォークを持った手を振った。

「とんでもない、パソコンや配送の手伝いは宿六たち、いえ、今風に言えば、ぬれ落ち葉にさせるんですよ」
 
ゆめさんたら口が悪いんだからと、苦笑しながら郁子が説明した。

「パソコンはうちの夫が担当します。銀行を定年退職して、今は嘱託で週三日しか働いておりませんから、ちょうどいいんです。

ゆめさんと光代さんのおつれあいも退職して家におられるので、配送その他を手伝ってくださるそうです。

それと、うちの夫は、ゆくゆくは社団法人にすれば良いのではないかと申しておりまして…」

社団法人!とまろみが素っ頓狂な声をあげた。

「まろみさん、時代は変わったのよ。

今では、一般社団法人という形なら、NPOと同じくらい簡単にできるんですって」

「理事長はわたしがなる予定です」と、ゆめが誇らしげに胸を張った。

「社団法人はさておき、もう少し詳しくお話ししないとわからないですよね」と鈴子があとを引き取った。

 登録して半年たっても、マッチングが成功しない場合は、リサイクルショップに引き取ってもらう。

もし、引き取れないようなものであれば、その時点で処分する。

このシステムであれば、リサイクル品を置くスペースもいらないし、登録した人間も、もらい手が半年経っても現れず、リサイクルショップも引き取れないと分かれば、あきらめもつくし、処分できる。

『わくわく片付け講座』で、何を残し、何を処分するかを学んだが、頭ではわかっていても、なかなか踏ん切りがつかないことが多い。

このシステムなら、うまくいくのではないかと四人で考えた。

 それに、時間をもてあましている男たちに働いてもらうのは、予想外なことに、本人たちが乗り気だった。

定年後の時間を、どう使うか、本人たちも頭を悩ましていたからだ。

囲碁、将棋といった趣味でもあれば良いが、今さら一から習ってまではという気はないし、スポーツジムや図書館で時間をつぶすのにも限度がある。

それに、良くも悪くも、年齢や元の肩書が邪魔になる。

ところが、妻の頼みで仕方なく手伝ってやるという形にすれば、男の面目もたつし、内心は、必要とされていることに新たな生きがいを感じている。

例え、妻たちが後ろで、しめしめとほくそ笑んでいたとしても。

「正直なところ、そこまで、お話が進んでいるとは思いませんでした」

 くら子の言葉に、まろみもうなずいた。

「なんだか、とんとん拍子に話が進んで、こうなったんです」

 光代がうれしそうに付け加えた。

「そこで、くら子さんにリサイクルショップを紹介してほしいのです。

わたしたちのしようとしていることは、古物商のような免許がいるのかどうかとか、仕組みについても教えていただける方でないと。

こういうことをするのは、まったくの初めてなので、まずはリサイクルショップで修行をしたいのです」

「わかりました。

引き受けてもらえるかどうか、お約束はできませんが、一度リサイクルショップの『ひきとり屋』さんに話をしてみます」

 ありがとうございます。よろしくお願いしますと頭を下げて、四人は賑やかに帰って行った。

「なんだか嵐が来て、まわりのものを吹き飛ばして、過ぎ去ったみたいな気分」

まろみがぼそりと言った。

「ほんと、あのエネルギーはどこから来るのでしょうね」

「そりゃあ、自家発電ですよ」

くら子さん、載ってますよと、まろみが地域のミニコミ誌を広げた。

 見出しは、「もったいない倶楽部」活動開始!

 アンティークの応接セットに座った四人の写真が紙面を飾っていた。

「本気だったんですね。

あっ、四人は『わくわく片付け講座』で知り合って、意気投合し、この事業を始めたと書いてありますよ」とまろみが興奮した。

「あら、まあ、それはそれは」

「鈴子さんの『これでいいのか委員会』から始まったんですよね」

「そう、鈴子さんが自己紹介の時に、この話をしなかったら、『もったいない倶楽部』もなかったでしょうねえ」 

「偶然ではなく、必然ってやつですか?」

「さあ、どうでしょう。

でも、出会いのきっかけの場になったことは、うれしいわね」

「出会いの場、ですか」

 まろみの頭の中には、出会いの場といえば、合コンしかなかった。

くら子にはまろみの考えていることがわかった。

「男と女の出会いがすべてじゃないわよ。

共感できる人との出会いも大切なことだと思う。

特に今のような世の中では」

「はあ、それもいいですけど、わたしは、まず、合コンで素敵な人とめぐり会いたいです」

「そういえば、昔の映画で『めぐり逢い』というのがあったわ。

デボラ・カーとケーリー・グラントの主演でよかったのよ」

「どうせなら、映画館で素敵な人とロマンティックな映画を見たいですよ」

「それもそうね、がんばってちょうだい」

「本気で言ってないでしょう」

「わかった?」

 まろみも思わず吹き出して、事務所に笑いが広がった。

22章終了

21章 息子の部屋に忍び込む?

 くら子が外出先から戻ると、ドアの前でまろみが待っていた。

「どうしたの? まろみちゃん。

立たされ坊主みたいじゃない」

 くら子の袖を引っ張って、まろみは廊下へ出た。

「それが、くら子さん、お客さんなんですけど…」

「中で話せない事?」

「この前『わくわく片付け講座』を受講した島袋勝子さんのお友達なんですけど…」

「じれったいわねえ、な〜に?」

「息子さんの部屋を片付けて欲しいそうです」

「それのどこが問題なの」

「だって、息子さんに内緒でマンションに忍び込むって」

「それはだめでしょう」

「何回も説明したんですけど、とうとう怒り出して、湯呑みを投げつけられて、責任者を出しなさいって」

「まだ、いらっしゃるんでしょ」

 まろみはドアを見て、唇をかみしめた。

自己紹介を済ませ、それでは、お話しを聞きましょうと、くら子はソファーに腰を下ろした。

 美崎七海子はハンカチを握りしめ、くら子をにらみつけた。

「息子さんのお部屋の片づけだそうですが」

七海子はぶっきらぼうに、そうですと答えた。

「どうして息子さんのお部屋を片付けたいと思われたのですか」

「母親なら当たり前でしょうが」

「息子さんはおいくつですか」

四三ですと答えた七海子の声は心なしか小さくなった。

「息子さんは片付けを希望しておられるのでしょうか」

「きれいなほうがいいに決まってます」

「それはそうかもしれませんが、息子さんのお部屋ですから、息子さんがどう思っておられるかが問題です」

「息子は残業や出張で殆どいないんです、だからわたしが…」

「お母様のお気持ちはわかりましたが、一度、息子さんとお話をさせていただけませんか」

「だから、言ってるでしょ。息子は忙しいんです」と七海子は声を荒げた。

「お電話でお話しするくらいなら、お時間をいただけるのではないですか」と、くら子は微笑んだ。

「もう、わからない人ねえ、ダメだって言ってるでしょ」

 七海子は茶卓を取って、ばんばんとテーブルに打ち付けた。

「七海子さん、甘いものはお嫌いですか」

手を止めて、一瞬考え込んだ七海子は、いいえと答えた。

「まろみちゃん、お抹茶の用意と羊羹をお願いします」

 ポットと、お盆に薄茶を立てる用意をしたまろみは恐る恐る応接コーナーに入った。

 くら子の茶筅さばきを見て、七海子の手が止まった。

「それではだめよ。貸してごらんなさい」

 用意した三つの抹茶茶碗に七海子はお茶をたてていった。

 羊羹を持ってきたまろみもくら子の横に座った。

 シャカシャカという音が静かな事務所に響く。

 どうぞと、くら子の前に茶碗が置かれた。

 いただきますと口をつけたくら子が、ああ、おいしいと漏らしたひと言に、七海子はにっこりした。

 黒文字で羊羹を口に運ぶくら子に、茶碗を両手で包みこんだ七海子がごめんなさいと言った。

「何がですか?」

「あなたたちに八つ当たりをして」

「わたしたちは気にしていませんよ。ねえ、まろみちゃん」

「はい、大丈夫です。湯呑みが飛んできたのもうまくよけられましたし」

「コントロールが悪かったわね。腕が鈍ったみたい」

 まろみがぷっと吹き出し、それを見て七海子も笑った。

 落ち着いた七海子はゆっくりと話し出した。

「実は、息子がわたしにマンションに来るなと言まして、わたしが預かっていた鍵を取り上げたんです」

「それはまた、どうして」くら子は訊いた。

「週に一度、部屋の掃除をしに行っていたのですが…息子あての宅配便の中身を見たり、いろいろしたもので」

「いろいろとは?」

「つきあっている女性がいるようなので、その人がどういう人か興信所を使って調べました」

 まろみは、そりゃあ息子さんが怒るのも無理はないと思った。

「バツイチの二人の子持ちで、スーパーでパートをしている人なんです。

親が申すのもなんですが、息子は一流大学を出て、一部上場企業に勤めております。

それも初婚です。

それなのに、なんで、子持ちのバツイチ女とつきあわなければいけないのでしょうか。


だから、わたしがその女に会って、息子と別れて欲しいと言いました。

いくらでも若いお嬢さんをもらうことができるのに…。

その女は、わたしたちのことはわたしたちで決めますと言いました。

そして、息子が余計なことはするなと怒って、わたしからマンションの鍵を取り上げ、携帯電話の番号も変えてしまいました。

会社に電話してもわたしからの電話には出ないのです」

「立ち入ったことを伺いますが、子供さんはおひとりで?」

「そうです。

ひとり息子で、主人は…主人は…」

 七海子はぽろぽろと涙を流し嗚咽した。

 七海子の夫は、定年になった翌日に、夫としての責任は果たしたので、離婚したいと言い、家を出た。

七海子は離婚届に意地でも印を押さないと宣言した。 

熟年離婚といえば、妻からの申し出が多いが、この場合は違った。

夫は現在、元部下だった女性とマンションで暮らしている。

夫もひとり息子で、長年同居していた義父母の介護をして看取ったのは七海子である。

介護からも解放されて、ようやく夫婦二人ののんびりした時間を持てると思っていたのに、夢は崩れ去った。

 くら子は、七海子が息子に執着したのも無理はないと思った。

長年家事と介護に明け暮れてきたのに、ねぎらいの言葉もなく、夫は出て行った。

きっと数え切れないほどの修羅場があったのであろう。

広い家にひとり残された七海子にはすることがなくなり、エネルギーは息子に向けられた。

夫婦の問題は他人にどちらが悪いといえるものではないし、また口をはさむことでもない。

何と言えばいいかと逡巡しているくら子におかまいなしに、まろみが口を開いた。

「七海子さんも彼氏を見つければいいんです」

まろみちゃんと言いかけて、くら子は口をつぐんだ。

「今、なんとおっしゃいましたの?」と腫れた赤い目で七海子はまろみに訊いた。

 突然、バッグの中をごそごそとかき回し、紫のフレームの遠近両用めがねを取りだした七海子は、鼻の上にめがねを載せ、顎を突き出してまじまじとまろみの顔を見た。

「だから〜、息子さんのことはほっといて、七海子さんも恋人を作ればいいんです」

まろみは事もなげに云い放ち、にっこりした。

「コ・イ・ビ・ト」

七海子はヒンドゥ語でも聞かされたような顔をしている。

「まろみちゃんは、七海子さんがまだお若いから、もう一度やり直されてはどうかと…」

くら子が補足すると、七海子はもう一度繰り返した。コイビト。

 “ムスコ”というキーワードしかなかった七海子の脳に、“コイビト・カレシ”という言葉がしっかりインプットされたのが二人にはわかった。

 果たして、まろみの提案が吉と出るか凶と出るか、くら子は複雑な思いで七海子を見つめた。

 七海子は握りしめた両手を見つめてじっと考え込んでいる。

事務所の時計の音だけがこちこちと時を刻み、窓からの白い光が七海子の横顔を照らした。

突然、顔をあげた七海子はきっぱりと言った。

「勝子さんが参加された『わくわく片付け講座』の案内を見せてもらえますか」

 ほっとした二人は顔を見合わせた。

「まろみちゃん、講座のチラシを持ってきて」

は、はいと、まろみは慌てて立ち上がった。

講座の案内をじっと見つめていた七海子は訊いた。

「あの、このパーソナルカラーやメイクは具体的に、どの色が似合うとか、メイクの仕方とかを教えていただけるのですね」

「はい、ですから、一度にたくさんの方には受講していただけませんが」

「こちらを紹介してくださった勝子さんも、アドバイスを受けられたのですね」

はい、そうですとくら子は頷いた。

 七海子はまた、唇を結んでじっと考え込んだ。

「実は、夫の荷物もそのままですし、義父母の荷物も片付いていませんの。

これを機会に、片付けようと思いますので、そのために『わくわく片付け講座』を受けたいと思います」

「わかりました。

申込書をお渡しします。

それで、息子さんの件は…」

「ああ、そうでした。まろみさんに言われたように、あんなバカ息子は、ほっときます」

 ホホホホと屈託なく笑う七海子の顔から、先ほどの険は消えていた。

 七海子を見送ると、くら子とまろみは、あ〜疲れたと、ソファにへたりこんだ。

「まろみちゃんがコイビトなんて言うから、冷や汗かいたわよ」

「わたしも言ってから、しまったと思ったんです。

また、茶碗が飛ぶんじゃないかと」

くら子は抹茶茶碗がUFOのように飛ぶところを想像して、ふふふと笑った。

「頭のいい方だから、冷静になったら、息子さんを自分の思い通りにはできないってわかったのかも」

「これで一件落着でしょうか」

「そうなって欲しいものだわ」

 七海子は『わくわく片付け講座』を受講しながら、正式に夫、孝雄との離婚を決め、残っていた孝雄の荷物を全部マンションへ送りつけた。

 荷物を送られた孝雄は仕方なく、マンションに収まらない荷物をトランクルームに預けた。

 次に七海子は義父母の2トントラック2台分の遺品を夫に送った。

箪笥からアルバム・衣類まで、片方しかなくなった足袋さえも、何一つ処分することなく箱に詰め込んだ結果がこれである。

また、七海子は後からもめては困るということで、引っ越し業者に全ての遺品のリストを作らせるという念の入れようだった。

 離婚の条件として夫名義の家を七海子の名義にしたので、七海子は夫が引き取るのは当然のことだと主張した。

 困った孝雄は、知り合いの会社の倉庫に両親の遺品を預けた。

 この中には、梱包された仏壇と両親の位牌も含まれていたことを孝雄は知らなかったし、仏壇のことなど顧みもしなかった。

七海子がすっきりした家で暮らし始めたところへ、義父の妹の昌代が近くに寄ったから、兄さんにお線香をあげたいと訪れた。

離婚の話を聞かされた昌代は驚き、兄の仏壇がなくなったことに真っ赤になって怒った。

「あんたたちが離婚するのは勝手だけど、何も仏壇まで…」

「わたしはもう美崎家の人間ではありませんので、美崎家のお仏壇は孝雄さんに守ってもらわないと」

「そりゃあそうだけど…遺品だって、形見分けもしてもらってないしねえ。

わたしは大島紬と翡翠の帯止めをもらうはずだったんだけど…ちっとも連絡がなかったものだから」

 実の兄に介護が必要な時には近寄りもしなかったくせに、七海子は昌代の勝手な言い分に腹が立った。

「何もかも孝雄さんに送りましたから、あちらにあると思いますので、お好きなものをお持ちになればよろしいかと」

 つっけんどんな七海子の言葉に昌代は勢いを失った。

「ところで、お仏壇の中のあれはどうしたの?」

「はあ?なんでしょう」

「だから、あれよ。兄さんから聞いてないの?」

「何のお話だかよくわかりませんが」

「もう、しらばっくれて、兄さんの株券よ」

「そんなもの見たことありませんよ」

「お仏壇の引き出しの奥の、隠し引き出しに入ってたの!」

 昌代が孝雄に電話すると、仏壇まであの荷物に入ってるとは知らなかったと、あわてて倉庫に急いだ。

 昌代と七海子も、倉庫に放置されていると聞き、タクシーで向かった。

 孝雄の顔を見るなり、昌代が怒鳴った。

「孝雄ちゃん、あんた若い女に血迷って、ご先祖の仏壇をこんなところにうっちゃって、罰があたるよ。

ほんとに、わたしの目の黒いうちにこんなことが…兄さんやご先祖様に申し訳ない」

「いや、それは。マンションに荷物を置くスペースがなくて…まさか仏壇まで…」

孝雄はうらみがましい目で七海子を見た。

「そんな、離婚した私がお仏壇を守っていける訳ないじゃないですか」

「夫婦喧嘩はあとにして、お仏壇を探さなくては」と昌代が仲に入った。

  もう、夫婦じゃありませんと顔をそむけて、七海子も遺品の山に目をやった。

 倉庫の二人の警備員の力を借りて、ようやく仏壇を探し当てた三人の息は上がっていた。

  ほんとに、わたしまでなんでこんなことしなきゃいけないのかとぼやく昌代の横で、わたしだってと七海子が孝雄をにらみつけた。

「おばさん、ほんとに株券が入ってたんですね」と孝雄が念を押した。

「いや、わたしは見たことはないけど、法事の時に兄さんが酔っ払って口をすべらしたのよ」

 仏壇の引き出しの奥の隠し引き出しには、古びた小さな桐の箱が入っていた。

「株券じゃない」

額の汗をふきながら、孝雄は桐箱を手に取り、そっと開けた。

黄ばんだ真綿に包まれた干からびた茶色い塊。

「俺のへその緒だ」

 昌代と七海子はへなへなとその場にへたりこんだ。

「一体なんだって親父はこんなものを…」

 七海子が、アハハハと甲高い笑い声をあげた。

 株券じゃなかったのねと昌代が力なく仏壇の暗い穴をのぞきこんだ。

「おばさんが余計なことを言うから…」

 孝雄の非難にちょっと待ってと、昌代は壁にすがり、どっこいしょと立ち上がった。

 腕を組んで考え込んだ昌代がわかったと手を打った。

「なにがわかったんですか」

  ふてくされている孝雄に昌代は説いた。

「へその緒は兄さんたちの一番大事な物だったのよ」

 えっという顔で昌代を見る孝雄に、昌代は諭すように言葉を継いだ。

「孝雄ちゃんが一番大事な宝物だったのよ。

へその緒はその証。

兄さんたちはなかなか子供ができなくて、結婚して一〇年、二人とも諦めていた頃に授かったのがあんたよ。

そして、美崎の血をつないでくれる跡取りだから。

そんな親の気持ちも知らずに…」

 黙って聞いていた七海子も、わたしもそう思うと口を添えた。

 袖で目をぬぐった孝雄は、お仏壇は持って帰りますと仏壇に向かって手を合わせた。

「そうしてちょうだい。それからこの遺品の山はどうするの?」

「これもわたしがきちんと片付けます」

「あ、そう、それで、義姉さんの大島紬とヒスイの帯止めは形見分けにわたしにちょうだいね」

「なんでもお好きなものをどうぞ」と答えた孝雄は七海子の前に進んだ。

「七海子も長い間親父とおふくろの面倒を見てくれたのだから、欲しいものがあれば…いや…すまなかった」

  孝雄は深々と頭を下げた。

「わたしはそのひとことで充分です」

21章 終了

20章 わくわく同窓会

 Mホテル宴会場

「本日はお忙しい所、同窓会にお越しいただきありがとうございました。

皆さまのお元気そうなお顔を拝見し、うれしく思っております。

また、このような会が持てましたのも、講座の卒業生の淀川清香さんが、企画や幹事をしてくださったお陰です。

ありがとうございました。

今日は皆さんおうちのことは忘れて、思い切り楽しんでいただければ幸いです。

えー、あいさつは短い方が良いと申しますので、これくらいにして、司会をかって出てくださった花園くららさんにマイクをお渡しします」

 マゼンタ色のスーツを着たくららがくら子の隣に並び、頭を下げた。

「こんにちは、皆さんその後、お部屋は片付いてますか?」と、会場を見まわした。

 ハーイという元気な声に続いて、ダメでーすという声に、どっと笑いが広がった。

「実は、わたしも大きな声では言えませんが、また、クロゼットがいっぱいになりまして、えらいことになっております」と肩をすくめた。

「それというのも、風水の先生に今年は黄色い洋服を着ると良いことがあると言われまして、根が素直なものですから黄色い服を買いまして、毎日カナリヤのごとく羽ばたいておりましたが、タクシーに乗ったら後ろから追突されるし、夜道を歩けばバッグをひったくられるしで、ろくなことがありません。

そこで、違う風水の先生のところへ行きましたら、このマゼンタ色がいいと言われまして、クロゼットにカナリアの死がいがいっぱいになっております」

「他の人なら作り話かと思うけど、くららさんなら、ほんとの話ですねえ」と、まろみは、椅子から転げ落ちそうなほど笑い転げた。

 大輪の牡丹のようなくららは、本領を発揮し、会場は爆笑の連続だった。

「それでは、そろそろ皆さん、ひとりずつ、自己紹介と近況報告をお願いします」

 ベージュのジャケットに黒のパンツをはいた高島蛍が、トップバッターは嫌だなあと言いながらゆっくりと立ち上がった。

「こんにちは、高島蛍です。

昨年「わくわく片付け講座」を卒業しました。

わたしが講座に参加したのは、もちろん、片付けが下手だからですが、それは親のせいだと思っていました。

恥ずかしながら、両親は二人ともだらしのない人で、いつも家の中はひっくり返っていました。

ですから、子供のころから、朝、学校へ行くのに、体操服がない、リコーダーはどこへ行ったと大騒ぎして、遅刻をしていました。

友達の家に遊びに行った時に、床にものがないのを見て、驚いたことが印象に残っています。

わたしはそのまま大人になり、あい変らず、片付かない部屋で暮らし、これは、親がきちんと片付け方を教えてくれなかったからだと思い込み、コンプレックスを抱いていました。

結婚して主婦になっても、片付けができないのは変わらなかったのですが、夫が正反対の片付け魔で、とにかく、きれいにしておかないと気のすまない人でした。

結婚当初はそれでも良かったのですが、一年たつと、お互いに我慢ができなくなったのです。

夫はわたしのだらしなさに。

わたしは夫の神経質なほどのきれい好きに」

「なんだか蛍さんの身の上話みたいになってますけど、いいんでしょうかね」と、まろみがくら子を見た。

「くららさんにお任せしましょう」

 蛍の話は続く。

「一年で離婚したわたしは、ぼろぼろでした。

それも、これも、ちゃんと整理や片付けのしつけをしてくれなかった親の責任だと思っていました。

結婚に失敗したのも、仕事がうまくいかないのも、何もかも人のせいにしていました。

でも、どこかでこれじゃあいけないと思っていたので、思い切って『わくわく片付け講座』に参加して、なぜ片付けられないのかを考えました。

そうしたら、わたしが片付け方を知ろうとしなかったのだ、という簡単なことに、遅まきながら気がつきました。

これでわたしの人生は、変わりました。

こうして胸を張って同窓会に参加することができ、ほんとうに良かったと思っています」

 拍手が起こり、頬を染め、戸惑いながらも蛍は一礼して腰を下ろした。

「長いお話しありがとうございました〜」くららの言葉に、嫌味な感じはなかった。

「でも、この調子でいくと、食事が始められなくなり、今夜はホテルにお泊りになりますので、手短にお願いしまーす」

 自己紹介が終わり、乾杯をすることになった。

「乾杯の音頭は、この会を企画してくださった淀川清香さんにお願いいたします」

と、くららが清香を指名した。

「えっ、そんな、わたしは裏方ですから…だめです」

「ぐだぐだ言ってると、皆、ビールが飲めないって暴動が起こるわよ」

「ぼ、暴動が起こっては困りますので、それでは…皆さまのご健勝と、お部屋が片付くことを祈って、かんぱーい!」

 乾杯と元気な声が上がり、拍手をして、皆席に着いた。

「熟女が五〇人余りも集まって乾杯するってのは、迫力ありますね」

まろみがくら子にささやいた。

「飲まないうちからみんなごきげんみたい。

盛り上がりそうで良かった。

同窓会に集まってもらえるかどうかわからなかったし、心配だったけど」

「そりゃあ来ますよ。

結婚式でもない限り、おしゃれしてホテルでお食事なんて機会は、なかなかありませんから。

それに…」と、まろみはにんまりした。

「何よ、気味悪いわね」

「ここのウェイターはイケメン揃いで有名なんですって」

「えっ、そうなの?」とくら子はあたりを見回した。

テーブルに次々とスープが供されていくが、サービスはタキシードの男性ばかりで、女性はいない。

確かにスタイルの良い若者ばかりだ。

「くららさんが幹事の清香さんに、絶対このホテルでなきゃだめよって言ったそうです」

「恐れ入谷の鬼子母神か」

「はあ?」

なんでもないわよとくら子は笑った。

「まあ、コンソメだわ。

ポタージュとかパンプキンスープはごまかしやすいけど、コンソメは手を抜けないのよね」と、“にわか料理評論家”は会場にたくさんいるようだ。

 コースが進み、デザートは五種のケーキから選べるといわれると、ほとんどが二個、三個と希望した。

 次々に皿に盛られるケーキを見てくら子が、バイキングの方が良かったのかもとひとりごちた。

耳ざといまろみは手を振った。

「バイキングにイケメンのサービスはつきません」

 うなずきあった二人にくららの声が飛び込んできた。

「皆さま、お料理は満足していただけましたか?」

はーいという返事が返る。

「それでは、わくわくエンターテーメントの時間です。

皆さんこの日のために準備をしてこられました。

トップバッターは西乃園キヨさんです。どうぞ〜」

 舞台で、大正琴の演奏が始まった。

パントマイム、コーラス、南京玉すだれ、落語、フラダンス、オカリナ演奏と催しは続くが、所詮素人なので、失敗してもご愛敬。

 会場は盛り上がり、手拍子、足拍子にやじが混じる。

「しかし、皆さん芸達者というか、すごいわねえ」

「なんだか、お正月のかくし芸大会みたいですね。

わたしたちも何かやれって云われなくて良かったです」

「右に同じく」

 宴会が終わると、皆口々に、一年に一回ではなく、半年に一回にして、また会いましょうと帰って行った。

 残っていた淀川清香にくら子とまろみは、お疲れ様でしたと声をかけた。

「無事終わってほっとしました」

「皆さん楽しそうでしたね」

 くら子の言葉に清香はうなずき、次の同窓会の実行委員会ができたと告げた。

「講座を卒業すると、みんなさびしくなるみたいです。

だから、こうして、気兼ねなく集まって楽しめる場ができて良かったと思っています。

それもこれも、くら子さんとまろみさんのお陰です」

「とんでもない、清香さんが企画してくださったからです。

ありがとうございました」

「半年に一度は準備が大変なので、一年に一度にしようと思っています」

「それを聞いてほっとしました」

20章終了

19章 開かずの押入れ

 くら子は老人センターでの講座の打ち合わせを終え、事務所に戻り、何か変わったことはなかった? と訊いた。

 留守番のまろみはメモを見ながら答えた。

「去年お部屋の片付けにうかがった明石さんから、お電話があって…」

「また片付けの依頼かしら」

「それがね、ホラーみたいです」と、まろみはぶるぶると肩を震わせた。

「ほら? ほら吹きのほら?」

「違いますよ。ホラー映画のホラー。それとも、怪談かなあ」

「まろみちゃん、ミステリーの読みすぎじゃないの」

「違いますよ。明石さんはまじめにおっしゃいました」

「喉が渇いたから、お茶を一杯飲んでから、ゆっくり聞くわね。

まろみちゃんも飲む?」

「はい、いただきます」

 台所でお茶を入れているくら子の背に、豆大福が来ました〜という声がかかった。

「えっ、何が来たって?」

くら子は振り向いた。

おれは豆大福か、と言いながら、古書店ぽんぽん堂の恵比寿がくら子に豆大福の包みを渡した。

「それでは、豆大福を食べながら、まろみちゃんのホラーの話を聞きましょう」

 熱い煎茶と豆大福を配り、くら子が改まった。

「それでは、そのホラーの話を聞きましょう」

いや、まず食べてからとまろみが豆大福にかぶりついた。

そうだそうだと、恵比寿も豆大福を手にした。

「明石さんがおっしゃるには、実家におじいちゃんがひとりで住んでおられた離れがあって、そこに誰も開けてはならぬという押入れがあったそうです。

おじいちゃんは、遺言で、自分が死んでもこの押入れは開けるなということで、何十年もそのままで、家族も忘れていたようです」

「それで、開かずの押入れってわけね。それなら今さら…」

「今度、離れを取り壊すことになって…」

「開けてみりゃあいいんじゃないの」恵比寿がこともなげに言った。

「それが、開けると祟りがあるとか、遺言を守らないのかとか、江戸時代のお宝が眠っているとか、いろいろ親族もうるさいようで」

「それなら、うちより、お祓いでもしてもらって、遺品整理の方にお願いした方が…」

「でも、明石さんが、是非K社にお願いしたいということなんです」

「だから、押入れを開けて、中を見ればいいんだろ。

簡単なことじゃないか」

  恵比寿さんは簡単なことだって言いますけど、どうなのでしょうねえと、くら子は考え込んだ。

「もしかして、骸骨が眠っているとか…」まろみが声を潜めた。

「面白そうじゃない。

骸骨が出るかお宝が出るか、おれも一緒に行くよ。

だから、仕事引き受けなさいよ」

 恵比寿に押し切られる形で、明石家の「開かずの押入れ」の片付けを引き受けることになった。

 主がなく何十年も放置されていた離れ屋は、廃屋のようになっていた。

「くら子さん、面倒なことをお願いしてごめんなさいね」と明石須磨子は頭を下げた。

「いえ、一間の押入れの片付けですから、それほど手間はかからないと思います」

 中に入ると、じっとりとしたカビ臭いにおいが漂った。

「時々、風を通してはいるんですけど…」

 後についてきた、恵比寿とまろみは顔を見合わせた。

室内には家財道具も無く、ひっそりとしていた。 

問題の押入れは、床の間の横にあった。

「ここなんです。

祖父が大きな南京錠をかけていたので、誰も開けられませんでした」

まろみが、南京錠なら壊せばいいのにと、つぶやいた。

「そうなのよ、まろみさん。

でも、皆、気持ち悪くて、祖父の遺言を良いことに、放っておいたの。

昨日、錠前屋さんに頼んで、はずしてもらいました」

「もしもの時にと、バールを持ってきたんですが、必要なさそうですね」と、恵比寿は道具箱を畳に置いた。

 くら子はまず、現状写真を撮りますと断って、まだ開いていない押入れと部屋の様子をカメラに収めた。

 押し入れを開ける役目は恵比寿が引き受けた。

取っ手に手をかけたが、湿気で襖と敷居の木部が反っているのか、動かない。

まろみも横で手伝ったが、動く気配はなかった。

見かねた須磨子は、たたき壊してもらって結構ですと恵比寿にうなずいた。

「恵比寿さん、押入れの中には傷をつけないように気を付けてください」

合点承知と、恵比寿がバールで叩き、戸を持ち上げると、はずれた。

 四人の目の前に洞穴のような黒い闇が広がったような気がした。

 眼を凝らして良く見ると、黒漆の一閑張りの箱がびっしりと納められていた。

 すごい! と、遠巻きにしていたまろみが近付いた。

「これは別注で、この押入れにきれいに収まるように作られたんだなあ」と整然と積み上げられている箱に感嘆した。

 須磨子はますます不安そうである。

 くら子はまた写真を撮った。

 四人とも、早く中身を見たいような、何が入っているのかを見るのがこわいような、相反する気持ちを抱いていた。

「わざわざ職人に作らせるほどのものが入っているのでしょうね。

収納のお手本みたいにきれいに納まっているわ」と、余分なすき間がないことをくら子は確かめた。

「国宝級の御宝かもしれんな」

恵比寿の言葉に、須磨子はごくりと唾を呑んだ。

「まろみちゃん、貴重品が入っているかもしれないから、布を敷いてちょうだい。

その上で、ひとつ開けてみましょう」

 三人は白い手袋をはめた。漆の表面にべたべたと指紋を付けない配慮だ。

恵比寿がそっと箱をひとつおろし、白い布の上に置いた。

三人は箱の回りを囲むように膝をついて、覗き込むかっこうになった。

恵比寿は正座をして、よろしいですかと須磨子に訊いた。

は、はい、お願いしますと須磨子も姿勢を正した。

八つの目が箱に注がれた。

恵比寿がゆっくりと蓋をあげると、黄ばんだ大学ノートがびっしり詰まっていた。

「あー、良かった。日記が入っていたのですね。日記なら見られたくないでしょうね」と、まろみが口を切った。

 くら子は、日記なら自分で処分することもできただろし、焼き捨てるようにと遺言することもできたのではないかと思った。

恵比寿の中を見ても良いかという問いに、須磨子はゆっくりとうなずいた。

一冊を手に取り恵比寿は、頁をめくっていった。

ノートは万年筆で書かれた文字で埋められていた。

くら子もまろみも覗き込んだが、流れるような文字、つまり、達筆すぎるので読めなかった。

「これは日記じゃないな」

「日記でなければ…」須磨子は不安そうだ。

「まだ、よくわからないのだが…」恵比寿は口を濁した。

二冊目、三冊目と頁を繰った。

「他の箱も見た方が良いでしょうか」とくら子が訊いた。

ううむ、と恵比寿は腕を組んだ。。

「何が書いてあるのですか、恵比寿さん、連続殺人鬼の記録とか」と、じれったそうに、まろみが大学ノートの一冊を手に取った。

連続殺人ですって、と須磨子は声を震わせた。

「須磨子さん、まろみちゃんの言うことを気になさらないでくださいね。

近頃ミステリー小説に凝ってるもんで。

恵比寿さん何とか言ってくださいよ」

「他の箱も見てみようか」

ひとりが一つずつ箱を抱えて下ろした。

順番に箱を開けた。

三つには大学ノートが入っていた。

最後の一つを開けると、恵比寿がやっぱりと息を呑んだ。

「なーんだ、古い本じゃないですか」と、まろみはがっかりしたというように恵比寿を見た。

須磨子はほっと胸をなでおろした。

「それが…」恵比寿の歯切れの悪さに、くら子がハッとした。

恵比寿はうなずいた。

「なんだか怪しい。二人は何かを隠している」

「何が怪しいのですか。この本が何か…」須磨子もわからない。

仕方ないなと、恵比寿は応えた。

「実は…春画です」

須磨子もまろみも意味がわからず、きょとんとしていた。

弱ったなあと頭をかきながら、恵比寿は顔を赤くして、枕絵ですと言いなおした。

「あの、もしかして、それは…」

須磨子は気を失った。

 くら子は、ぐったりした須磨子を抱え、まろみちゃん、母屋でお水をもらって来て、とまろみを追い出した。

「こうなることがわかってたから、お祖父さんは押入れを開けるなと遺言したのだろうな」

「そんな、のんきに」

「勘違いしちゃあいけないよ。

これは犯罪でもなんでもないのだから。

それにこれほどのコレクションは滅多にお目にかかれない」

「それはそうですけど、須磨子さんにはショックですよ」

「とにかく、須磨子さんが落ち着いたら、話をしてみよう」

須磨子が水を飲んで落ち着いたところで、恵比寿がくら子に目くばせをした。

「須磨子さん、びっくりなさったのもわかりますが、これでお祖父さまの人格が貶められるということではないのですよ」

「しかし、くら子さん、こんな秘密が」と須磨子は押入れに目を向けた。

「誤解されるのを予想されていたのだと思います」

「かといって、捨てるに忍びなかったんじゃないかな」と恵比寿が付け加えた。

「でも、これってエロ本じゃあないですか」とまろみが反論した。

「エロ本とする人もいれば、芸術と捉える人もいる。

それにお祖父さんは、単なる趣味ではなく、研究をしておられたんだ。

ノートを見てわかったよ」と恵比寿は講釈を始めた。

 浮世絵が芸術として認められるようになったのは、例のごとく海外だったこと。

モネやゴッホが浮世絵に影響を受け、ジャポニズムと呼ばれて広がりをみせた。

それも、きちんとした形ではなく、日本から輸出した焼き物の包装紙に使われていたものがきっかけだったという話もある。

また、鈴木春信や北斎など浮世絵師は皆、枕絵を描いていた。

それが当時は当たり前だったし、娘が嫁入りする時に持たせたという話もある。

 おとなしく話を聞いていたまろみは、素っ頓狂な声をあげた。

「これって、もしかしたら、すごいお宝なんですか」

「貴重といえば、非常に貴重だよ。

戦争で空襲もあったし、学問的な本ならまだしも、こういうものを大事に取っておく人はいなかっただろうから」

まろみはじろりと恵比寿を見た。

「まさか、恵比寿さんが引き取るというのではないでしょうね」

「いや、うちは扱ってない、これは、研究者に寄付したほうがいいと思う」

「あの、そんなことができるのでしょうか」と、須磨子がおずおずと訊いた。

「喜んで受け取ってくれるでしょう。

これは江戸の風俗資料でもありますからね。

昔は美術界でも春画の研究者はつまはじきだったようですが、今は時代が変わりつつあります」

開かずの押入れの中身はT大学の教授が喜んでもらいうけた。

須磨子も、大学の先生が必要とされる資料ならばおかしなものではないと納得したようだった。

 後日、須磨子からお礼のしるしと、宅配便で缶ビールが一箱届いた。

 これは、恵比寿さんに届けないといけないわねと、二人が話しているところに恵比寿が現れた。

「噂をすればなんとやら」とまろみがおどけた。

「なに? また、ろくでもないこと言ってたな」

「違いますよ。

須磨子さんから缶ビールが届いたから」

「ということは、須磨子さんもわかってくれたようだな。

気になってたから事務所をのぞいてみたんだが」

  くら子は笑いをかみ殺しながら、恵比寿さんのお陰ですと頭を下げた。

「ほんとは、骸骨を期待してたくせに」

  まろみちゃんにはかなわないなと、恵比寿は拳を額にあてた。

「ところで、恵比寿さん、あの大学の先生って本物ですか」

 恵比寿はくら子から目をそらした。

「あ、いや、その、あいつは友達で、大学の万年研究員なんだ。

名刺はそこの研究室の教授のもの」

「やっぱり」とくら子とまろみは声を揃えた。

「善意のうそってやつ、丸く収まったから良しとしようじゃないか、ねえ、まろみちゃん」

「また、そんなこと言って」

「しかし、なんだな、押入れの中に秘密を隠しておくのは考えものだな」

「恵比寿さんちの押入れだったら、何が入っていても驚きませんよ。

ねえ、くら子さん」

 事務所に明るい笑いが広がった。

19章終了

18章 きっかけは、ぎっくり腰

 まろみの“夢のお告げ”から一週間後。

「くら子さん、例のローゼン(老前)整理ブログの準備は進んでいますか」

「なんとか、少しずつね。

概要さえきちんと作れば、枝葉はその時に付け加えれば良いし…日名子さんには早く開設してくださいと、せっつかれているけど」

「言うだけなら、誰でもできる!」と、まろみは声を張り上げた。

「ふむ、わたしなら『言うは易く、行うは難し』だと言うけど」

「ジェネレーションギャップですね。はっはっは」

なぜか、まろみは上機嫌である。

「それより、まろみちゃん、来週からの『わくわく片付け講座』の申込書はまとめてくれた?」

「はい、年齢は三八歳から七八歳まで。

受講の動機は、ものを片付けたいのが一番多くて。

娘夫婦と同居のためマンションに引っ越すので、一戸建ての荷物を片付けたい、という方が一名。

変わりダネでは、ぎっくり腰というのがあります」

「どういうこと?」

「それが、“ぎっくり腰”としか書いてないのです。

片付けようとして、物を持ち上げたら、ぎっくり腰になったということですかね」

「それなら、病院へ行くでしょう」

「ぎっくり腰になったから、片付けて欲しいとか…」

「それなら、講座に参加するより、片付けの依頼だし、講座が始まったら、意味がわかるでしょう」

 受講の動機に、「ぎっくり腰」と書いた献策多津代は、講座の初めの自己紹介で、八ヶ月前に繊維商社を定年退職し、現在は休職中で、のんびりしているとのことだった。

 多津代は二ケ月前に、ベランダのガジュマルの植木鉢を動かそうとしてぎっくり腰になった。

それだけならまだしも、よろけた拍子に右足首をくじいた。

あまりの痛さにすぐには動けず、三〇分ほどして、這うようにしてベッドに倒れこんだ。

気がつくと、足首が倍くらいにはれ上がって、ゾウの足のようになっていた。

冷蔵庫まで四つん這いでたどりつき、氷で足首を冷やした。

病院へ行けば良いのはわかっているが、まともに歩けそうもない。

かといって、救急車を呼ぶほどでもないので、とりあえず横になっていることにした。

勤めている頃なら、明日の仕事の心配をするところだが、退職してその心配をしないで済むのがありがたかった。

その夜はカップラーメンとスナック菓子食べた。

次の日も、病状は変わらず、テレビを見て、非常食の乾パンや缶詰を食べた。

たまたま、ぎっくり腰になった日に、買い物に行くつもりで、冷蔵庫に食料がなかったのである。

勤めている時は、週に一度大量に食料を買い込んでいた。

仕事を辞めてからは、毎日散歩がてらスーパーへ行くので、チラシの安売り広告を見て、その日の献立を決めていた。

つまり、その日に食べるものだけしか買っていなかった。

マンションの隣人たちとは、近所付き合いが煩わしいと思っていたので、あいさつをする程度の付き合いしかなかった。

三日目になると、さすがに不安になった。

そして、三日の間、一度も電話は鳴らなかった。

会社に勤めていれば、同僚から電話やメールが入っただろうが、退職するとパタッと止まる。

これも、不安に拍車をかけた。

このまま、誰にも気づかれずに餓死するのではないだろうかと思った。

ようやく、出前を頼めばよいと気が付き、ピザを頼んだ。

 ピザを頼むなど、多津代には初めての経験だった。

両親と暮らしている頃には、来客のために寿司やラーメンの出前を頼むことはあった。

四〇になった年に今のマンションを手に入れ、ひとり暮らしになった。

ひとり分の寿司や出前を頼むのは気が引け、また、来客もなかったので、出前や宅配という考えが浮かばなかったのである。

ピザばかりでは飽きるし、三人前の寿司、ラーメンと餃子など店屋物が続くと、野菜や煮物、焼き魚に豆腐の味噌汁など、普通の食事が恋しくなる。

 多津代は、自分の友達の少なさに驚いた。

会社に勤めている時は、後輩と飲みに行ったり、映画を見たりと、遊ぶのに困らなかった。

しかし、今は、どこからも誘いの言葉がないし、倒れていても誰も、知らない。

学生時代の友人ともご無沙汰で、こんな時だけ来てくれとも頼みにくい。

携帯のアドレス帳にはこんなに名前があるのに、誰にも助けを求められない。

 頼めないのはご無沙汰ばかりではなかった。

部屋の中が足の踏み場もないほど散らかっているのである。

食料を買ってきてと頼んでも、玄関で“はい、さようなら“という訳にはいかないし、たぶん料理もすると言ってくれるだろう。

そうすると…このありさまだ。

 腰が痛くて物を持ったり、運ぶなどとてもできないので片付かない。

退職して、整理整頓をして心地良い部屋にしようとは思いつつ、“そのうちに”で日がたった。

 自分の「見栄」が助けを求められない原因だとは分かっていても、どうにもならなかった。

 そして、ようやく考え付いたのが、なんでも屋に食料や弁当を買ってきてもらうのである。

これなら、家の中の惨状を見られない。

 多津代がタクシーで病院へ行ったのはぎっくり腰から五日後だった。

医師にどうしてもっと早く来なかったのかと訊かれたが、歩けなかったのでと答えた。

 病院からタクシーでスーパーへ行き、食品や日用品を買って、タクシーでマンションへもどった。

荷物はタクシーの運転手が部屋の前まで運んでくれた。

 部屋の惨状はますますひどくなり、憂鬱になった。

 仕事も無い、友達も無い、汚部屋にひとり。

ソファーに横になり天井を見つめていると、涙があふれてきた。

これからどうすればいいのか。

 地震にでもなれば、家の中がひっくり返っていても当たり前なのに。

 そんなことを考えるとおかしくなって、涙を流しながら笑った。

笑うと腰が痛いので、また涙が出た。

 涙が枯れるとお腹がすくのはなぜだろうと思いながら、おそるおそる台所に立った。

 飯を炊き、味噌汁をつくり、スーパーで買ったヒラメの刺身といんげんの胡麻よごしを皿に盛った。

 普通の食事がなぜこんなにおいしいのかと思った。

 久しぶりにシャワーを浴びると、生き返ったような気になり、その夜はぐっすり眠った。

 多津代は次の日もぼんやりと一日を過ごした。

こんなはずではなかったのに、なぜこうなったのか。

困った時に相談できる友人もいない。

ということは、そういう友人をつくらなかったから、というか、つくれなかったから。

不倫の相手は友達にはなれないし、時がたてば赤の他人である。

人間はひとりでは生きていけないと言うけれど、わたしは今ひとりなのだと思った。

今まで、なぜそのことに気付かなかったのだろう。

いや、気付きたくなかったのだろうか。

そして、これからもひとりで生きていくのか。

どうすればいいのか、何も考えられず、ぼーっとテレビを見ていた。

お宅拝見番組で、若い女性のお笑いタレントの家をレポーターが見て回る。

大きなマンションではないが、きちんと片付いている。

多津代は、わたしだって、テレビが取材に来るなら、これくらいきれいに片づけるのにと思った。

そこでハッと気がついた。

ほんとに自分は取材が来るなら片付けられるのだろうか。

 会社でファイリングは得意だった。

社内ではきれい好きできっちりした人と思われていた。

なのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ。

今までに、あのタレントのマンションほどきれいに片づけたことがあっただろうか。

いつも、やればできると思いながらやらなかったのではないか。

会社ではできたのに、家ではできないのはなぜか…思い当たるのは人の目だった。

会社ではだらしのない人に見られたくない。

能率よく働き、仕事ができるように見られたい。

家では誰にも見られない。

つまりわたしは人の目がなくては片付けられないのだろうか。

その夜は悶々として過ごした。

 夜眠れなかったので、十一時まで朝寝をして、トーストとコーヒーの食事を済ませた多津代は、またぼんやりとテレビを見ていた。

テレビを見たいというより、静かでエアコンの音しかしない部屋にいるのがいやだったからだ。

ペットフ―ドのコマーシャルを見ながら、こんな時、犬か猫でもペットがいれば、気を紛らわしてくれるかもしれないのにと思ったが、このマンションはペット禁止だったことを思い出した。

 このまま年を取ったらどうなるのだろうと考えるだけでおぞましい気がした。

でも、なんとかしなければいけない、今なら間に合う。

 もう一度、友達を作ろう。

人の呼べる部屋にしよう。

ぎっくり腰と捻挫が治ったら、部屋を片付けよう。

気持ちは前向きになったが、長年溜めこんだ諸々のどこから手をつけて良いかわからない。

会社のファイリングができたのは、講習を受けたからではないかと気がついて、片付け方がわからないのだから、片付け講座に行けば良いのではないか。

パソコンで検索して、「わくわく片付け講座」を見つけた。

こうして、多津代は講座に参加したのだった。

 講座の中で、「これからどういう暮らしがしたいか」について悩み、自分の年表を書いて、学生時代の記憶が蘇った。

 高校時代は美術部で絵を描き、芸大に進みたいと思ったが、絵を描いて食べていけるほどの才能がないことはわかっていたし、親にも反対され諦めた。

それ以来、筆を持つことはなかった。

 今さら画家になりたいとは思わないが、絵を描くことにもう一度挑戦してみたい。

インターネットで調べてみると、通信教育で芸術大学に入学できることがわかり、これだと思った。

今は物置になっている部屋をアトリエにしよう。

絵を描くのに、会社員時代に着ていたしゃれた洋服は必要ない。

もう一度、学生に戻ってデッサンからやり直してみよう。

それから先のことは、その時考えればいい。

 一瞬にして、自分に必用なものと不要なものがわかった。

不要なものを捨てると、多津代の部屋はきれいに片付き、アトリエができた。

また、講座に参加したことで同じようなひとり暮らしの友人もできた。

お互いに片付かない時は手伝おうという約束もした。

 マンションの窓から見える夕陽がとてもきれいに見えた。

18章 終了

17章 ローゼン(老前)整理

一〇分遅刻だと思いながら二日酔いの頭で事務所のドアを開けたまろみに、オハヨーという、くら子の元気な声が響いた。

「すいません。昨夜は友達と調子に乗って飲みすぎました」

くら子は熱い番茶と、梅干を載せた皿をまろみに渡した。

梅干は和歌山の受講者が送ってくれた果肉たっぷりの極上品である。

「くら子さんは朝から元気ですねえ」と、まろみが珍しいものでも見るようにささやいた。

「昨日お風呂で思いついたの!」

「また、どんなとんでもないことを考えたんですか」

「本を書こうと思っているけど、タイトルが決まったの」

右手でこめかみを押さえながら、まろみは熱い番茶をゆっくり飲んでいる。

「はあ? まだ、本の影も形もないのに、タイトルですか」

「そうよ、ネーミングが重要なのよ」

くら子の目がきらきらと輝いているのが、まろみにはまぶしかった。

それで、と梅干で口をすぼめているまろみにはおかまいなく、くら子はまくしたてた。

老前整理よ、ろ・う・ぜ・ん・せ・い・り」

ローゼンセイリ?」

「老いる前の整理で老前整理よ。

前から生前整理というのは、どうもピンとこなかったけど、言葉が見つからなくて、仕方なく使っていたのはまろみちゃんも知ってるでしょ。

これからは老前整理よ。

なんでこんな簡単な言葉を思いつかなかったのかしらねえ」

 まろみの頭はまだ休止状態である。

流行語大賞になったらどうしよう? 

今年は無理としても、来年には…」

「あの、くら子さん、それは、まだちょっと。

わたし頭がガンガンしてきました」

「ガンガンでもドンドンでもいいわよ。

こういう言葉は、一番初めに活字にした人が言葉を作ったことになるのかしら、それとも、ホームページやブログに書くと記録に残るのかしら…誰に訊いたらわかるのだろう? 今日は二〇〇九年八月一九日で〜す」

「いったい、何を食べたらそんなにハイになるのですか。

豆大福でもここまでは…」

「まろみちゃんが二日酔いだからそう思うのよ。

これはK社の未来がかかっているのだから、重大問題。

五〇歳から始めたい老前整理”とか、“元気な人の老前整理”とか、まだまだあるわねえ」

 まろみの頭の中ではドラムが鳴りだした。

「老前は漢字が解りやすいかしら。

それとも、カタカナでローゼンのほうがイメージが良いかしらねえ。

ローゼンはローズ、バラの花につながるかしら、それとも外国語のローゼンなんとかみたいな高級感があるかしら。

どう思う? まろみちゃん」

「どうもこうも、わかりません!」

 どこかで聞いたオルゴールが鳴っている。

重い目を開けると、デジタルの時計は一〇一二と表示している。

あの音はゴミの回収車の音だ。

しまった、寝過した。

 まろみは布団をはねのけ、もう一度時計を見た。

窓の外は明るい。

くら子に電話をかけて謝ると、しかたないわねえと笑って、今日は外へ出る予定もないし、ちゃんと朝ご飯を食べて、お化粧をしてきなさいねと言った。

 以前、朝寝坊をした時、顔も洗わず、寝ぐせのついたで頭で出社したので、あまりみっともないことはするなということだろう。

 電車に乗ると、空いていた。

たまにはこんな風にのんびり座って会社に行くのもいいもんだと思った。

窓の外の景色を見ながら、なんで目覚ましが鳴らなかったのかと考えているうちに、あれは夢だったのかと気がついた。

 なぜだかハイになって、流行語大賞がどうとか言っていたが、あんなくら子さんは初めてだった。

 それにしても妙にリアルな夢だったが…。

くら子さんは、確か、「ローゼンセイリ」と連呼していた。

昨年の暮れごろに、本を出したいと言ってたけれど、わたしの潜在意識に残っていたのだろうか。

それにしても、ローゼンセイリはどこから来たのだろう。

もしかしたら、夢のお告げかも…。

 まろみが事務所に入ると、応接コーナーでくら子と女性の話し声が聞こえた。

「まろみちゃん、来たの?」

 はい、と応接コーナーに顔を出すと、M出版の醍醐日名子が来客だった。

日名子も昨年の「わくわく片付け講座」受講者である。

「日名子さんは、本の出版のことで来てくださったのよ」

「えっ、まさか、くら子さんが出したいと言ってた、あれですか」

 日名子の、まろみちゃんは変わらないわねえという言葉に、まろみは、寝癖を直してきて良かったと思った。

「最近、新聞の読者欄でも自分や家族の身辺整理についての投書が増えているらしくてね。

日名子さんの会社でも、こういう時代だから、アラ還向けに生前整理についての本を出そうということになったらしいの」

「くら子さんが書くのですか?」

 日名子は頷いた。

 まろみの肌に鳥肌が立った・

「あの、それで、本のタイトルは?」

 昨夜の夢を思い出しながら、まろみは日名子に恐る恐る訊いた。

「それがまだ決まってないの。

生前整理という言葉は使いにくいなと思ってるのだけど。

くら子さんはどう思われますか」

 ウウムとくら子も首をかしげた。
 
 実はと、まろみが昨夜の夢の“老前整理”の話をすると、二人はソファーを叩き、涙を浮かべて笑い転げた。

「さすが、まろみちゃんね、流行語大賞まで飛躍するところがただ者ではないわ。

こうなったら、夢のお告げを信じて、老前整理にしましょうか。

これが正夢で、流行語大賞が取れるくらい本が売れたら、K社も弊社もえらいことになりますよ。

老前をカタカナにするかどうかは、帰って相談してみます。

くら子さんもそれで良いですか」

「はい、けっこうです。

まろみちゃん、流行語大賞の授賞式には二人で行きましょう」

「もう、くら子さんったら、すぐ乗るんだから」

「くら子さん、本についての企画では、もうひとつお話ししなければならないことがあるんです」

 三人で盛り上がったあとだけに、日名子は言い出しかねていた。

「はい、なんでしょう。今日は四月一日ではないですよね」

 苦笑しながら、日名子は話し始めた。
  
 日名子の会社では、本にする前に実験的に、ブログで発表したいというのである。

そうすれば、少しずつでも読んでくれる人が増えるだろうということと、無料のPRになるからである。

 くら子が考え込んでいると、まろみが、それでは話が違うという風に食ってかかった。

「ブログっていうことは、毎日書かないといけないんじゃないですか」

「い、いえ、毎日でなくても良いです。できれば、毎日がありがたいのですが。

これは、実験なんですよ」

「実験? くら子さんはモルモット? 

誰かの携帯小説が売れたもんだから、甘いことを考えているんじゃないですか。

それで、ブログが、うまくいかなかったら、本の出版は取りやめとか」

 日名子は大げさに手を振って、そんなことはありませんと否定した。

「でも、ブログで発表すれば、誰も本を買わなくなるじゃあないですか。

そんなの困りますよ」

「まろみさん、ブログを見る世代と、ほら、さっきの“老前整理”を考える人たちは、違う層です」

「それなら、意味ないじゃないですか」

「これは、本を買う “アラ還”世代以上の人たちの息子や娘に読んでもらうのです。

遺品整理は大変だから、親御さんが元気なうちに、ご自分で生前整理、いえ、老前整理をしといてもらいましょうという、“アラ還”の子供たちへのナビゲーションとプロモーションなんです」

 まろみはうっと息をのんだ。

「うちの会社は小さな会社ですし、ベストセラーを出したこともありませんが、良心的な仕事をしているつもりです。

ただ、新聞にくら子さんの新刊の広告を出す余裕もありませんし、売ると言ってもルートは限られています。

だけど、ブログなら無料で長期的にPRができます」

 二人の会話を黙って聞いていたくら子が、静かに、わかりましたと応えた。

「えっ、ほんとですか?」

「ただし、どの程度書けるかわかりませんよ。

それに、読んでくれる人がいるかもどうか・・・」

「はじめは不安でしょうからハンドルネームで書いてください。

時期を見てK社の名前を出してくだされば、会社のPRにもなると思いますよ。

ついでに、うちの会社から出版予定があることも書いてくださいね」

 日名子さんも抜け目がないんだからと、まろみがひとりごちた。

「とにかく、ダメで元々だから、やってみましょう」

 くら子の言葉に、あ〜良かったと、日名子はソファにへたりこんだ。

 それではよろしくお願いしますと、日名子が笑顔で帰ると、今度はまろみがソファーにへたり込んだ。

「なんだか、この1時間は怒涛のようで疲れました」

「有意義な時間でした」と、くら子は空になった来客用の茶わんを片付けた。

「くら子さん、ほんとに、ブログの話、大丈夫ですか? 

いや、誤解しないでくださいね。

内容の心配ではなくて、ブログを書く時間があるのかと思って」

「そんなの簡単よ。

まろみちゃんが頑張ってくれれば、その分、わたしにも時間ができるでしょ」

 まろみの目が点になった。

「わかりました。K社の未来は私の肩にかかっているということですね」

「はい、そうです」

「そんなに簡単に言わないで下さいよ〜」

「何もわざわざ難しく考える必要はないでしょう? 

とにかく、できることをひとつずつやればいいのよ。

これも整理・整頓と同じでしょ」

「そうですね。手が八本あるわけじゃなし。

おまけに頭はひとつだから」

「ブログのことは、さっきも言ったようにダメ元でいいのよ。

うまくいかなくても、K社としてリスクはないのだから」

「リスク? 確かに、失うものはないですね」

「そうよ。無駄になるのは私の時間だけだけど、それも、思考のトレーニングだと思えばプラスにはなってもマイナスにはならない」

「さすが、転んでも徒(ただ)では起きないくら子さんだ」

「それって、あまり人聞きが良くないけど…」

「そうですか。ほめてるつもりですけど、細かいことは気にしないでください」

「そうそう、日名子さんのお持たせのチーズケーキがあるのよ。いかが?」

「もちろんいただきます。脳を働かせるには、甘いものが必要なんです」

17章終了

16章 リバウンド

「わくわく片付け講座」を受講すると、全員が問題を解決できるとは限らない。

 また、一度は部屋が片付いた、すっきりしたといっても、二ヶ月、三ヶ月たつと、また元に戻ってしまったという場合もある。

 ダイエットでは、一時的に体重を減らしても、その後また元に戻ったり、反動でダイエット前より太ることをリバウンドと呼んでいる。

 整理や片付けにも、このリバウンドがある。

 K社では、講座を卒業した方々にアフターフォローも兼ねて、講座終了後三ヶ月たつと往復はがきを出している。

 受講後、スムーズに片付き、その後もうまくいっている場合は二重丸。

 受講後はうまくいったが、その後、また戻ってしまったという人は、丸の中に三角、受講後の片付けそのものがうまくいかないという人は?マークを記入することになっている。

 書きたい人は近況を書いてもらうが、基本的に、返事は記号と名前のみとしている。
  
 返信が来ない人は?だろうとK社では考えている。

 返って来たハガキを前にして、まろみが名簿をチェックしている。

「くら子さん、今回は二重丸が六〇パーセントで、リバウンドが三〇パーセント、後の一〇パーセントが?です」

「だいたい、そんなものかなあ。それでは、手分けして電話をしてみましょう」

 二人は二重丸の人には電話をしない。

 丸に三角のリバウンドの人と?の講座を受けてもどうにもならなかったという人だけである。

「くら子さん、高井百合さんは、講座の後、お姑さんが手首を骨折されて、それどころじゃあなかったそうです」

「そりゃ、大変だわ」

うまくいかなかった人たちや、明らかにリバウンドで、元に戻ってしまった人たちに、電話で話を聞く。

 この時、くら子とまろみは責めるような言葉は使わないようにしている。

もともと、「わくわく片付け講座」に参加したということは、片付かないからである。

そして、“片付けられない”というのは、誰かに責められなくても、心の底に負い目となって沈んでいる。

 子供のころから、母親にあなたは片付けが下手だと言われ続けた人。

 夫に、家事もまともにできないのかと言われた人。

 姑に、だらしない嫁だと嫌味を言われた人。

 友人や兄弟姉妹の何気ないひとことで傷ついた人。

 片付けるということはそういう傷を癒す行為でもある。

 だから、一度でうまくいかなかったからといって責められない。

講座を受講しても片付かず、返信の葉書に?としてもらうのは、バツを書いて欲しくないからである。

これで終わりではなく、まだまだ可能性があるという意味で?と書いてもらっている。

「まろみちゃん、黒田容子さんは、ハガキを出すのを忘れておられたそうで、二重丸だって」

「良かった。これで?が一つ減って、二重丸が一つ増えてと」

 名簿を確認しているまろみの横に立って、くら子は肩に手を置いた。

「容子さんはとっても上機嫌でした。さて、なぜでしょう」

「片付いてすっきりしたからじゃあないのですか」

「それもありますが、もうひとつ。

押し入れを片づけたら、本の間からへそくりが出て来ました。

そこで、来週はご夫婦で二泊三日の温泉旅行だよ〜ん」

「いいなあ、うらやましい。片付ける人には福来るですね。

温泉なんて、ここ何年も行ってませんよ」

「ほんとねえ、温泉に入って命の洗濯もよいわね」

 二人が温泉で盛り上がっているところに電話がかかってきた。

「お葉書をいただいた牛窪みどりですが、ご相談がありまして、これから事務所にうかがっても良いですか」

 電話を保留にしてまろみが訊いた。

「くら子さん、牛窪みどりさんがこれから相談に来たいとおっしゃってますけど、どうします?」

「牛窪さんから返信は来てたの?」

 まろみが首を振ると、くら子は受話器を受け取った。

「ご無沙汰しております。みどりさん、これからお越しになりますか。はい、お待ちしております」

 その節はお世話になりまして、と現れた牛窪みどりは三ヶ月前より心なしかふっくらしていた。

くら子は応接コーナーに案内し、その後、いかがですかと切り出した。

「それが…」

まろみが水出し煎茶と葛饅頭も持ってきたので、まずはどうぞと勧めた。

「くら子さんの好物は豆大福なんですけど、夏は葛饅頭に変わるんですよ。みどりさんも召し上がってください」

 甘いものは人の心をほっこりさせるとくら子は思っている。

これは自分が食べたいので、言い訳でもあるが。

 白いハンカチを膝に広げ、みどりはゆっくりと煎茶を飲み、葛饅頭を口に入れ、にっこりした。

「冷たい葛饅頭はおいしいですね。久しぶりにいただきました」

 そろそろいいかと、くら子は訊いた。

「片付きませんか?」

「はい。片付けたいのに体がだるくて動かないんです。

頭と体がつながっていないみたいで。

ほんとに、気持ちはあるんです。

すっきりしたいと思っています。

でも、どこから手をつけていいのやら、動けないし。

夫や妹は単なるぐうたらだって言うんです。

それで、ますます落ち込んで、動けないのです」

「みどりさん、どこかお悪いところは?」

「年に一回は人間ドックで調べてもらっていますが、体重が増えてメタボ予備軍だということ以外、特にこれといって。

風邪をひいたのも何年前かというくらいです」

「それでは…暑くもないのに、顔がほてって、急に汗が噴き出るということはありませんか」

「そういえば、何時間も冷房の中にいるのに、突然汗が噴き出ることが何回かありました」


「もしかしたら、更年期で、体調が良くないのかもしれませんね」

 みどりは、アッという顔をした。

「ちょうど、体が変化する時期なのかもしれません。本当に体調が悪いようでしたら、お医者様にご相談されればと思います。

今までにも、更年期でやる気が出ないとか、片付けられないという方がありました。

そういう時は、無理をなさらない事です。

そして、ご自分を責めない事。

でないと、ますますイライラして落ち込みます」

「確かに、落ち込みまして…どうしようもなくて、こちらにご相談にうかがったのです」

「弊社で片付けのお手伝いをさせていただくこともできますし、体調が良くなってから片付けられても良いと思います。

一番よくないのは、できないできないと思うことです」

「はあ、しかし、やっぱり気になります」

「それでは、特別な秘訣をお教えします」

「それでは良いですか。わたしの言うとおりに唱えてください。

『片付かなくても死にやしない、片付かなくても死にやしない、片付かなくても死にやしない』 

はいどうぞ」

 みどりは一瞬ポカンとして、あはははと笑いだした。

「そういうことです。体調が良くなられたら片付けられれば良いのです。

また、それでも今できることと思われるなら、今日はこの小さい引き出しひとつとか、棚を一段かたづけるとか、小さな事を一日ひとつずつにしてください」

 まだ、笑い過ぎて涙を浮かべているみどりはうなずいた。

「とにかく、気になさらない事です。

それに、妻が片付けをしないといけないという決まりはありませからね。

あとは、気分転換に何かなさるのをお勧めします」

「実はフラダンスを習いたいと思っているのです」

「それは面白そうですね。体を動かすことも良いですから」

「くら子さんもご一緒にいかがです?」

「いや、わたしは、とても、そんな」

 なに照れてるのですかとまろみに冷やかされ、くら子は、忙しいものでとごまかした。

 くら子はや踊りと名のつくものが苦手である。

盆踊りからジャズダンスまで、考えただけで身震いがする。

走ったり、飛んだりという運動は人並みにできたが、踊りとなると、手と足が別々の生き物のようにぎこちなくなるのである。

まして、フラダンスなど考えただけでも、凍結状態だ。

 そんなくら子を見て、みどりは、くら子さんにも苦手なことがあるのですね、ほほほほと、上機嫌で帰って行った。

 くら子さんのフラダンスを見てみたいものですねと、まろみが冷やかすので、くら子は知らん顔をして電話をすることにした。

次は、リバウンドの真鍋玲子さんだからと、ファイルを用意した。

 玲子は元気そうな声だった。

一度は片付けたので、洋服や押入れの余分なものは処分し、片付いたが、その後、リビングやキッチンは、使ったものが出しっぱなしになっていて、またまた混乱状態だとのことだった。

「ご自分でそのことがわかっておられたら、大丈夫ですよ。

最近忙しかったのではないですか」

「そうなんです。実はマンションの自治会の役員を押しつけられまして、書類だとか、コピーだとか、紙が山ほどやってきたんです」

くら子は笑いをこらえながら続けた。

「紙がやってきたんですか。それは大変ですね。

必要な書類はファイルされて、不要なものはその場ですぐ処分していかれると良いかもしれませんね」

「そうですね。なんだかばたばたして、ゆっくり考える暇がなかったのですが、前の時と同じように、ひとつひとつすればよいのですね」

「はい、どの程度の紙の量かわかりませんが、多いのであれば、ファイルをいれるボックスを購入されて、そこへファイルを放り込むようにすれば、テーブルやソファーの上に紙がいっぱいということにはならないと思います」

「まあ、まるでうちをご覧になったみたいですね」

「いえいえ、だいたいパターンがありますので。

テーブルやソファーがふさがると、次は床に紙が散乱するようになります。

そこまでいくと、倍くらいのエネルギーが必要になりますので、今の段階で片付けられればと思いますが」

「わかりました。やってみます。うまくいけば、二重丸の葉書を送りますので」

「お待ちしております」

 講座の中でリバウンドや対応策についての説明もしてあるので、どうしてリバウンドになったかということは概ね理解してもらっているようだ。

何十年も積み重ねてきた人間の習慣は、そう簡単には変えられるものではないので、過程のひとつと考えれば、そう落ち込むこともないのだが、頭ではわかっていても、落ち込む人は多い。

 まろみは三田ふくみと小一時間も電話で話をしている。

「変わろうか?」と書いて、メモを渡すとまろみは首を振った。

電話が終わったのはそれから二〇分後だった。

「どうだったの?」

「それが、リバウンドで、また物があちこちに散らばって、ご本人曰く、うつ状態だそうです。

どうやら、バーゲンで物を買いすぎたみたいですよ。

気が付いたら、洋服に靴にバッグの箱や袋がいっぱいだそうです」

「ストレスかしらね」

「そうみたいです。

嫁姑の問題で、なんとなくですけど、息子さんのお嫁さんに張り合ってるみたいです。

でも、ずっと話を聞いているうちにだんだん落ち着いてこられて、衝動買いして馬鹿みたいだったわっておっしゃってましたから」

「それなら、大丈夫みたいね」
 
 時には、講座を受けたのに、自分では片付かないので何とかして欲しいと、片付けの依頼をする人もいる。

 その場合は、K社の仕事として依頼を受ける。

(第2章 「片付かないから離婚」のように。)

 村雨治枝も?の“片付かない組”の一人で、電話をすると、ちっとも片付かないので見に来て欲しいとのことだった。

 くら子とまろみが玄関に入った途端にコーヒーの良い香りがした。

リビングのソファーに腰を下ろした二人は、整然とした部屋を見回して、どこが片付いてないのだろうかと思った。

 コーヒーにジンジャークッキーを添えた盆を運んできた治枝は、ご覧の通りなんですと肩をすくめた。

「あの、片付いていないお部屋はどこでしょうか」

「えっ、いやだ、くら子さん、冗談はよしてくださいよ。

ちっとも片付いてないでしょう」

「いえ、このお部屋なら、普通、片付いているといいますけど、ねえ、まろみちゃん」

「はい、そう思いますけど。

もしかして、押入れに山ほど物が突っ込んであって、襖を開けると、ドドっ―と物が落っこちて来て、キャー!とか…」

 治枝はにこりともせず、応えた。

「押し入れやクロゼットにもそんなに物はありません。

もともと、それほど物持ちではないので。

一番多いのは本なんです。

一人暮らしですし、この前の地震のニュースを見て、本棚が倒れたり、本が飛びだしたりしては怖いと思いましたので、かなり処分しました」

 くら子とまろみは顔を見合わせた。

確かに、片付く、片付かないは主観の問題でもあり、判断するのはその部屋で暮らしている本人である。

他人から見れば片付いていないのに、本人は片付いている、という思い込みは時にあるが、これはその逆である。

 治枝は額に皺を寄せて、深刻な顔をしている。

「わたしは片付いているというのは、美しいということだと思うのです。

ところがこの部屋は、ものは少ないけれど、美しくないでしょう」

 確かに、オレンジ色とピンクのチェック柄のソファー。

ブルーと黒の太い縦ストライプのカーテン。

センターテーブルは濃いメープル材、テレビのおさまっているリビングボードは彫り物が入ったクラシック調のオーク材。

テレビ用のパーソナルチェアは小豆色のレザー貼り。

インテリアという意味では統一感がなくアンバランスである。

しかし、面と向かってセンスが悪いとは言えないので、ふたりは黙り込んだ。

「くら子さんもまろみさんもインテリアコーディネーターですよね。なんとか考えてもらえませんか」

「わかりました。では、インテリアのプランをご提案しますので」

 くら子とまろみは、バッグに常備しているスケール(メジャー)で室内や家具の寸法を測った。

「それでは、インテリアのイメージはどういう感じがお望みですか」と、くら子が治枝に訊いた。

「それが、自分でもよくわかないのです。だから、こんな部屋になってしまって…」

「例えば、自然で落ち着いた部屋とか、暖かでゆったりした感じとか、かわいい感じとか」

 治枝は考え込んだ後、ごめんなさい、イメージが頭に浮かばないのですと申し訳なさそうに首を振った。

 そこで、くら子はまず、「わくわく片付け講座」で考えた、どういう暮らしがしたいかを思い出すことから始まって、好きな色は何色かや、処分する家具、予算まで、様々な質問をした。

「ご要望はだいたい伺いましたので、いくつかプランを作って、どういう部屋になるかわかりやすいようにパース、いえ、絵を描いて来ますので、それをご覧になって決めていただければ」

 治枝のマンションを後にした途端に、まろみが口を開いた。

「まさか、こんな展開になるとは思ってもみませんでした」

「そうねえ、ほんとにお部屋はきちっと片付いていたんだけれど、整理整頓は終わっても物足りない。

次は美しく心地よい部屋にと思われたのでしょうね」

「バージョンアップですか。案外、治枝さんのような方は多いかもしれませんよ」

「そうねえ、『わくわく片付け講座』でインテリアやカラーの話も少しはしているけど、もっと具体的なことまで考えてもらえるようにした方が良いのかしら、検討してみましょう」

 一週間後、インテリアのプランを持って、くら子とまろみは治枝のマンションを訪れた。

「いかがでしょうか。サーモンピンクがお好きだということなので、カーテンとソファーはサーモンピンクで、他の家具はパイン材で統一すると、自然で明るい感じになって、お部屋も広く見えると思いますが」

 くら子は説明しながらパースを見せ、カーテンの生地サンプルを並べた。

「まあ、こんなに変わるのですか。素敵ですね。

カーテンも目立たない地模様の花柄になっていますね」

「はい、アクセントカラーとしては、クッションにオレンジや黄色を少し使われても良いかと思いますが」

「そんなクッションはどこに売っているのかしら。どうしましょう」

 まろみが、ネットで調べればと言いかけて、口をつぐんだ。

この家にはパソコンがないことに気がついたからだ。

 パソコンで検索すれば、すぐに見つかるものも、パソコンと無縁な暮らしをしている人には、どこに買いに行けば良いかわからないし、探しまわる時間と労力はかなりのものになるだろう。

「ご要望があれば、わたくしの方で手配いたしますが」

「お願いします。これで、やっとわたしの部屋も片付きます。そうそう、今日はくら子さんのお好きな豆大福を用意しましたから」

 恐れ入りますと言いながら、まろみをちらっと見ると、まろみは知らん顔をしている。

あの顔は、「くら子さんの好物は豆大福なんですよ」としゃべった顔だ。

「治枝さんのところも、きれいになって良かったですね。

あとは伯方賀永さんだけが、連絡取れないんです」

 くら子が電話をすると、賀永が出た。

「あら、くら子さん、お久しぶりです…姪の結婚式で五日程ハワイに行ってたのよ。

それが、できちゃった婚でバタバタと決まって」

「それは、おめでとうございます。

ところで、お葉書ではリバウンドということでしたが、その後も片付いていませんか」

「今ねえ、ひっくり返っているわよ。アハハ。

ハワイへ行くのにスーツケースやら、昔の水着だとかなんとか引っ張り出して…その上に、今はお土産が散らかっている」

「一度は片付いたという事ですよね」

「ええ、きれいに片付きましたよ。

それがね、片付け始めると面白くなって、ジグソーパズルみたいに、このすき間にはこれって、空いてるスペースにきっちり詰め込んだのよ。

それで、きれいに片付いた、やった〜!って感じで、喜んでたのだけれど。

それも一週間ほどかな。

ぎちぎちのきちきちに詰め込んだし、どこに何を入れたかがわからなくなって、物を探すのにまた取りださなきゃいけなくなって、ジグソーパズル崩壊なの」

「ジグソーパズルのように、きっちり詰め込もうとされると、そうなるかもしれませんね」

「そうなのよ。入れる時はすっと入ったのに、一度出したら入らなくなったりでね。昔の結婚指環みたいなもんよ」

「ふむ、昔の結婚指環とは、言い得て妙な表現ですね」

「くら子さんって、やっぱりおかしな人ねえ。

そんな事に感心してる場合じゃないでしょう。

問題は、リ・バ・ウ・ン・ド」

「そうでした。

収納は八割くらいにしておいてください。

一〇〇パーセント詰め込むと、おっしゃるように、ジグソーパズル崩壊になります。

それから、しまう場所は、使う場所に近い処にまとめてしまってくださいね…最後に、賀永さんは、なんでも完璧にしようとされるようですが、完璧ではなく、ほどほどにしておいてください」

「その、ほどほどが難しいのだけれど」

「う〜ん、それではわたしも…六八センチのウエストにぴったり六八センチのスカートをはけば、寸法は合っていますが、動き易いでしょうか」

「きついわね。それに食事をしたらホックが飛んでしまうかも」

「そういうことです。ウエストも片付けも、ある程度、ゆとりが必要なんです」

 電話を切ったくら子に、まろみがごくろうさまでしたと、お茶を持って来た。

「ウエスト六八センチって誰のことです?」

「さあ、誰でしょう」

「賀永さんのウエストはどう見ても、八〇センチはありますよ」

「だから六八センチと言ったのよ」

「恐れ入りました」

16章終了

15章 人生の棚おろし(2部)


 夕食を終えると、翔子は食卓の上で、年表の空白を埋めていった。

友人たちの中には、親の介護の問題を抱えている者も多いが、翔子は三人姉妹の末っ子で、二人の姉が両親を看取ってくれた。

夫の博之の両親は有料老人ホームに入居し、今のところ元気に暮らしている。

 還暦というのは、確かにひとつの区切りだと思う。

独身で公務員を定年退職した友人は、ニュージーランドに移住すると、準備を進めている。

いわゆる熟年離婚をした友人は、離婚当初はすっきりしたと言っていたが、その後、連絡が取れなくなった。

離婚したからといって、バラ色の人生が開けるわけでもないのだろう。

 風呂から上がった博之が、話があるといい、ビールとグラスを二つ持ってきた。

いつもはプロ野球のナイターを見ながら一人で飲んでいるのに、珍しいこともあるものだと思いながら、翔子は食卓の上の書類を片づけた。

「枝豆?」と訊くと、博之はうなずいた。

 三〇年以上も一緒に暮らしていると、余計な言葉は使わなくなる。

はたして、それが良いことなのか…。

 枝豆の皿を置いて、ビールを一口飲み、翔子は、それで、と先を促した。

「実は、商売をしたいと思っているんだが」

 翔子は夫が再就職の口を探している者とばかり思っていた。

 勤めていた会社の斡旋で、月に一度はキャリアコンサルタントに再就職の相談に行っていたのではないか。それがなぜ、商売なのだ。

 翔子が黙っていると、博之は自分のグラスにビールを注いで、飲みほした。

「退職金を使いたいんだ」

 何を言い出すかと思ったら、突然商売とは、いったいこの人は何を考えているのだろう。

「今まで黙っていたのは悪かった。とにかく話を聞いて欲しい。

商売といっても、インターネットカフェなんだ」

 胸の怒りをおさえて、翔子は訊いた。

「なんですか、それ」

「若者がよく行ってる喫茶店でインターネットができる処さ」

「確か、駅前にもあったんじゃないんですか」

「あるけど、俺たちがつくりたいのは…」

 おれたち? と、翔子はその言葉を聞き逃さなかった。

「その、俺たちというのは、誰のことですか」

「いや、あの、高校時代のバンド仲間の神童と田嶋だよ」

「神童さんや田嶋さんには相談できても、わたしにはひと言の相談もなかったのですね」

「いや、その、反対されると思って」


 翔子は、腹が立った時、いらいらした時は洗濯をすることにしている。

今では珍しい二槽式の洗濯機でザーザー水を流すのが気持ち良い。

全自動でいつの間にか洗濯が終わっていたというのではつまらない。

洗ったという満足感が残らないからである。

 水の中で渦を巻き、互いに絡まっている洗濯物を見ながら、なぜこんなことになったのか。

退職金を商売に注ぎ込んで失敗したらどうなるのだろう。

夫は二人の老後のことを考えているのだろうか。

定年になってから、田舎で農業とか、蕎麦屋やラーメン屋をするという話はよく聞くが、皆が皆成功しているわけではないはずである。

成功話の何倍もの失敗した人たちがいるはずだ。

そして、一番の問題は、なぜ妻である自分にまず相談しなかったのかだ。

夫婦が共有しているのは、家と子どもだけなのか、積み上げてきたつもりの時間や信頼と絆はどこへいったのだろう。

それとも、もともと、そんなものはなかったのか。

退職金は夫が長年働いた報酬である。

しかし、夫が朝から晩まで仕事をするために、子育てをし、食事や掃除、洗濯をしてきたのはわたしではないか。

それなのに…。


 ここは冷静に考えなければならない。

博之は、妻の予想通りの反応に、だから言いたくなかったんだと二本目のビールの栓を抜いた。

翔子は夫婦喧嘩をした後や、気に入らないことがあると、決まって、洗濯をした。

汚れものがない時は、ベッドのシーツから座布団カバ−まで、かき集めて洗濯機を回した。

博之は、今の時代に再就職の口は見込めないこと。

このまま年金をもらえる年齢になるまでぶらぶらしているわけにはいかないことをなぜ妻は理解してくれないのか、わからなかった。

 翔子は和室に布団を敷いて横になった。

いびきをかく夫の横ではなく、ひとりで眠りたかった。

退職金、離婚、卒婚、ひとり暮らし、海外にいる娘と息子、病気の不安、経済問題、インターネットカフェ? 若者たちがたむろして、24時間営業だったのではないか、素人が初めてうまくいく仕事なのか、と考えているうちに、眠りに落ちた。

 朝からまた、洗濯機の音が聞こえる。博之は音をたてないようにして家を出た。

 翔子が朝ごはんの支度をしようと台所に立つと、食卓の上に博之がパソコンで作ったらしいチラシが置かれていた。

「インターネット茶屋」という見出しが目に入り、手に取ると、高齢者向けの喫茶店でインテーネットができる店とあった。

パソコンを使ったことのない人には、使い方を教えますと書いてある。

地図を見ると、商店街の時計屋のあったところだ。

二年くらい前に後継者がいないからと、老夫婦が店を閉めて、以来シャッターがおりていた。

 チラシではオープンは三ヶ月後になっている。

もう、何もかも決まっていたのだ。

退職金の半分をもらって、離婚する。

という選択肢もあるが、そうすると、この計画はダメになってしまうのだろうか。

神童と田嶋の妻は男たちの企みを承知しているのだろうか。

今まで、夫のいいなりになってきた結果がこれなのだろうか。

そういえば「わくわく片付け講座」での後の喫茶店で布美さんが、

「うちのは一回り上だから、すっかりじいさんって感じで、碁会所に行く以外、どこへも行かず、ごろごろしてて、わたしが出かけようとすると、どこへ行くって、うるさいったりゃありゃしない。

ボランティアでも、町内の世話役でも、なんでもいいから何かして欲しいのよ」とこぼしていた。

 このまま何もせずに年を取って…いやだいやだ。

夫婦で山登りをしたり、旅行に行ったりはどうだろうか。

退職金と年金暮らしで、そんな生活ができるだろうか。

そもそも、夫と旅行に行って楽しいのだろうか。

考えれば考えるほど、わからなくなる。

 神部雅恵からの電話で、翔子は近くの甘味屋に出かけた。

「近くまできたものだから、お茶でもどうかと思って」

「一人でむしゃくしゃしてたから、ちょうどよかった」

抹茶セットを頼むと、翔子の口から夫の身勝手な話がほとばしった。

 抹茶大福を口に運びながら、雅恵は翔子の話を聞いていた。

 話し終えると、ふーっと息をはいて、翔子は、雅恵さんはどう思います? と尋ねた。

「問題は退職金を使って商売を始めるのに、ひとことの相談もなかったことよね」

「まあ、それだけじゃあないですけど…」

「その一、退職金を半分もらって離婚する」

「離婚は考えてません」

「それではどうしたいの?」

「それがわからないから、相談してるんです」

「商売をすることに反対なの?」

「反対ではないですけど、失敗したら…」

「どうして失敗すると思うの?」

「だって、素人が突然商売したって、無理でしょう」

「内容は詳しく訊いたの?」

「いえ、退職金を使うと言うので腹が立って、口もきいてません」

「とにかく、きちんと話をしてみたら。聞いてみないことにはわからないし。

面白い話なら、翔子さんも手伝えばいいのよ」

「えっ、わたしが?」

「そう、きちんとお給料をもらってね」

「そんなこと考えてもみませんでした」

「だったら、考えてみたら? 家に閉じこもっているより、カフェで働くなんて、いいんじゃない?」

「考えてみます」

 翔子は、お年寄り相手の喫茶店なら、お抹茶やお煎茶をメニューに入れれば喜ばれるかもしれないし、自分にも働けるかもしれない。

 雅恵のいうように、博之の話をきちんと聞いてから、結論を出しても遅くはないと、家路を急いだ。

 家に帰ると博之が家にいたので、チラシを出して、詳しい話を訊いた。

 博之たち三人は“シニア情報生活アドバイザー”の資格を取って、インターネットカフェという形で高齢者にパソコンを教えるつもりである。

しかし、それだけでは商売としては成り立たないので、インターネットやメールを覚えた高齢者に、パソコンを売る。

ただ売るのではなく、接続、セッティングも全部して、カフェと同じ状態で使えるようにする。

また、高齢者がパソコンで困った時には、訪問して手助けをするアフターサービスを充実させる。

パソコンは、田嶋が働いていた会社の取引先から仕入れる。

家賃は商店街の再開発事業で半額の補助が出る。

軌道に乗るまで人を雇う余裕はないが、はじめは三人でできることをする。

また、地域の公共施設で高齢者向けのパソコン教室も開催する。

翔子にはよくわからなかったが、数字がびっしり書かれた書類もあった。 

日頃は無口な博之がとつとつと語った。

「カフェなんだから、誰がコーヒーやお茶を入れるの?」

「それは…これから、なんとかする」

「わたしが反対したら、どうするつもり? 離婚する?」

 うっと、博之は言葉に詰まった。

「ひとつ、条件があるの」

「なんだ」

「わたしを雇ってください」

 博之は、離婚という言葉よりも狼狽しているのが翔子にはおかしかった。

「雇うって、まともに働いた経験もないのに、何ができる?」

「だから、お茶やコーヒーを淹れたり、ウエイトレスになったり」

「ウ、ウエイトレス? おまえが…」

「お客様は七〇歳や八〇歳のおじいちゃまやおばあちゃまでしょ、それなら、わたしは充分若いじゃないの」

「しかし、喫茶店のことなど何も知らないだろう」

「それはあなたも同じでしょ」

 翔子はこんな風に夫と会話ができることが楽しかった。

なんだか、自分でもいろいろなことができそうな気がして、力が湧いてきた。

「オープンまであと三ヵ月あるから、その間に喫茶の学校へ行きます」

「しかし、神童と田嶋に相談してみないと…」

「どうぞ、相談してください。

この条件がだめなら離婚しますし、当然、慰謝料その他、いただけるものはすべていただきます。

そうなればお店は開業できないでしょうね」

 翔子の笑顔に博之は震えあがった。これは本気だ。

さっそく二人に相談しなくては。

 博之が出かけた途端に、翔子は力が抜けた。

 「雅恵さん、やったわよ」

 翔子は電話で雅恵に博之とのやりとりを報告した。

 「わくわく片付け講座」の資料を出して、改めて考えた。

大切なものは、“生きがい”と書いた。

自分の年表を見ると、結婚してからは夫や子供のことを考えて暮らしてきた。

もちろん、それは自分が犠牲になったわけではなく、それが生きがいであり、望んだ生活だった。

夫婦げんかもしたが、大病をすることもなく、子どもたちも成人し、夫も退職まで無事勤められたことが幸せだったのだ。

人生五〇年時代の物語でいえば、ここで、めでたしめでたしで終わるのだろう。

 これから、また新たな物語が始まる。

 いや、始めよう。

夫の手伝いでなく、スタッフの一人として責任をもって仕事をする。

還暦のウエイトレスになってもいいじゃない。

かわいいエプロンを買おう。

おいしいサンドイッチやお菓子が作れるようになりたい。

博之の計画書には、パソコンは店に何台必要だとか、一月に何台売るだとか、パソコンのことばかりで、カフェのことはろくに考えず、自動販売機でも置けば良いと思っているようだ。

これだから男は困る。

若い人はともかく、お年寄りは単にパソコンを習いに来るわけではないだろう。

また、パソコンをしなくても、おいしいお茶やお菓子、話し相手がいれば、立ち寄りたくなるだろう。

そういう場にすることこそ大切なことではないのか。

新聞の読者欄で、ひとり暮らしの高齢者が、誰とも口をきかずに家にいると気が滅入るので、人と話すために、無料パスでバスに乗って、隣に座った人としゃべるのを楽しみにしているという記事を見たことがあった。

そういう人が立ち寄ってくれる場所になれば、どんなにいいだろう。

翔子にはその情景が目に見えるようだった。

 翌日の「わくわく片付け講座」は欠席者もなく始まった。

「今日は皆さんの想像力を働かせてもらいます」と、くら子の言葉を合図に、まろみがカセットのスイッチを入れた。

 チェンバロの静かな音が部屋に流れた。

「それでは、始めましょう。皆さんは片付けたいものがあってこの講座に参加されたので、眼をつぶって片づけたいものをイメージしてください。

おうちの中に何がありますか…古い洋服、使わない電化製品、本、思い出の品、結婚式の引き出物、お土産、バーゲンで衝動買いしたもの、賞味期限切れの食品、いろいろありますね。引き出しや押し入れはどうなっていますか。

以前、片づけたいのは夫ですと言われた方がありましたが、それでもいいですよ」

「それはわたしです」というつぶやきに笑いがおこり、誰だろうと翔子がそっと目を開けると、雅恵だったので驚いた。

「次に、片付いたところを想像してください。

ものが散らかってなくて、すっきりきれいになっています。

どうですか。どんな気分ですか、気持ちがいいですか」

 翔子の頭の中には、なぜか、自宅の部屋ではなく、喫茶店で働いている自分の姿が浮かんだ。

花を飾り、コーヒーを入れたり、お菓子を運んだり、忙しく働いている。

「では眼を開けてください」 

 まろみが紙を配った。

「それでは、この紙に、片付けを終えたご自分はどういうイメージか書き出してみてください。

捨てる決断ができる。でもいいし、片づけ上手のいい女、でもいいです。

女優のだれだれみたいな素敵な女性、でもいいですよ」

 翔子は迷わず、喫茶店でいきいきと働く素敵な女性と書いた。

「この紙は冷蔵庫の扉にでも張っておいてください。

皆さんは、それを見ると、ご自分のすてきなイメージを思い出せますから」

「それでは、いよいよ具体的な整理の話に入ります」

くら子は資料を配り、チェックリストの説明をした。

「そろそろ皆さん、今のご自分に何が必要で、何が必要でないか、保留にしておくものは何かがはっきりしてきたと思います。

ご質問はありませんか」

 思い浮かぶものを書きだして、翔子は改めて、リストを見直した。

必要でない“もの”ばかり、後生大事に抱え込んで、自分自身の中味は空っぽだったのだ。

 ものは処分して身軽になり、中味を満たしたい、人生を楽しむ時期が来たのだと思った。

 くら子は整理の話を続けているが、翔子の耳には届かず、これからすることを書きだしていた。

 夫とも、もっといろいろ話し合わなければ。

これから忙しくなる。

どれだけのことができるかわからないけれど、今、踏み出さなければきっと後悔する。

妻でも母でもなく、ひとりの人間としてスタートする時が来たのだと思った。


15章おわり

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