事務所のホワイトボードにマジックで予定を書きこみながら、くら子は言った。

「まろみちゃん、明日の二時に、戸田さくらさんのご紹介でお客さんが見えるから、よろしくね」

「戸田さくらさんて、遺産はメダカ基金に残すって言って、結局老人ホームを作った、あのさくらさんですか」(12章、きっかけは松花堂弁当)

「そう、あのさくらさん」

まろみは一度さくらに、あなたの言葉使いはなっていないと叱られたことがあり、苦手なのだ。

「さくらさんはお仕事の都合で来られないそうで、お知り合いのご夫婦がみえるそうよ」

「よかった〜。さくらさんの前に出ると、しゃべれなくなるんです。

また、変な日本語使ってないかと緊張するから」

そんなに気にしなくてもいいのにと、くら子はマジックを置いた。

「それで、どんなご相談なんですか」

まろみが、くるりと椅子を回転させて、くら子を見上げた。

「さあ、くわしいことはご本人から聞いてくださいということで、なにもうかがってないの」

 翌日の午後、宮前夫妻が事務所を訪れた。

ロマンスグレイという言葉がぴったりの夫は一見してブランド物とわかるダークスーツで、妻は真っ赤なカシミヤのアンサンブルに真珠のネックレスという熟年夫婦。

「戸田さくらさんのお知り合いということですが」とくら子は訊いた。

夫婦で一瞬顔を見合わせた後、妻のゆかりが答えた。

「はい、夫は宝石店を経営しておりまして、さくらさんはうちのお得意さまなんです」

「まあ、そうだったんですか。それで、ご相談というのは?」

今度は夫の隆志が答えた。

「今の家を減築したいと思いまして、そのために荷物の片づけをお願いしたい。

これがひとつ。もうひとつは、減築のアドバイスをしていただけたらと」

 まろみがお茶を出して、くら子の隣に座った。

「減築とはどの程度のことをお考えですか」

「二階建てを平屋にしようと思っています」

 宮前夫婦には息子が二人いるが、どちらも宝石店を継ぐ気はなく、長男は東京の医大を卒業して教授の娘と結婚し、世田谷に家を建てた。

次男は公務員で現在福岡にいるが、転勤族なので親元に戻ることはないだろうということだった。

隆志は続けた。

「それで、減築のことですが、長男の高校時代の友達の三井君が設計事務所をしてまして、依頼はしたのですが、彼はビルが専門で住宅を手掛けたことがないらしくて、くら子さんにアドバイスをお願いできたらと、こうしてうかがった次第です」

「わたしでお役に立つことでしたら、お手伝いしますが、建築士の方はそれでよろしいのですか」

普通、建築士は外部の者に、設計に口出しされることを好まない。

ゆかりは口に手を当てて、おほほほと、さもおかしそうに笑った。

「三井君たら、独身だし、料理もしたことがないんですよ。

息子に言わせると、三井のマンションはホテルみたいなもんで、寝に帰るだけだって言ってましたの。

彼には悪いけど、そんな人が作ったキッチンは、見栄えは良くても使いづらいに決まっています」

 くら子の、さもありなんという顔を見て、ゆかりは調子づき膝を乗り出した。

「実は、わたしのお友達がね、ある有名な建築家に設計を依頼して建てた家はもう、ひどいもんです。

いえ、見かけはいいんですのよ。

雑誌にも紹介されました。

でも、使いづらくて。

そこの奥様左利きなんですよ」

「右利きと左利きでは使い勝手が違いますからね」

 ゆかりは、くら子の答えに、わが意を得たりという顔で夫をちらっと見た。

「そうなんですよ。建築家は自分の作品を作りたかったようで…だから一千万もするドイツのシステムキッチンを入れたのにどうにも使えなくて、仕方なく、キッチンを作りなおそうとしたんです。

ところが、その建築家が、自分の作品をぶち壊すなと怒鳴りこんできて、大騒ぎで警察まで呼ぶ始末でしたの。

それで、そのご夫婦は心労でまいってしまい、もう耐えられないと言って、新築の家を売って引っ越されたのです。

夫は、雑誌に紹介されているような先生にお願いしたかったみたいなんですけど」

 ねえ、あなたと、ゆかりは夫を横目に見て、続けた。

「だから、わたしは偉い先生に依頼するのに反対したんです。

それで、三井君なら、こちらも言いたいことが言えますし…。

それに、わたしたち、年をとってもあの家で暮らしたいと思っていますので、バリアフリーのこともありますし…」

 隆志が手にしていた湯呑み茶碗を置いて、腕時計を見た。

「ゆかり、このへんでもういいだろう。

今日はご挨拶ということでうかがったのだから。あまり長居をしてはご迷惑だろう」


 その日は一日中、事務所に香水の残り香が漂っていた。

 翌日、まろみはインターネットで「減築」を検索した。

話には聞いていたが、具体的に減築するという話は初めてだったからだ。

かなりの企業が「減築」を宣伝文句にしている。

「ふ〜ん、けっこう減築しているんだ」

 まろみのひとりごとに、くら子が、何が? と訊いた。

「いえ、昨日の宮前夫妻の減築のことで、初めてだったから」

「そうねえ、まだ一般的ではないわね。

でも、これから増えると思うわよ」

「そうでしょうか?」

「だって、今の高齢社会を考えると、これからますます老人世帯が増えていくのよ。

頑張って子供たちのためにと思って建てた家に、子供たちは戻ってこない。

夫婦二人では広すぎる。

だけど、長年のご近所の付き合いとか友人もあるから、引っ越しはいや。

それに、家もそろそろ古くなって修理の必要がある。

どうせなら、減築するほうが、耐震性も高められたり、冷暖房費だって減らせるでしょう」

「それに、そうじも楽ですしね」

「本音の部分では、それが一番だったりしてね」

突然、まろみはパンと手を打って、チャーンス! と声を張り上げた。

「なによ、びっくりさせないでちょうだい」

 椅子から転げ落ちそうになったくら子に、まろみがもったいぶって言った。

「だって、減築するには当然荷物を減らす必要がある。

そこで登場するのが『わくわく片付け講座』と『お片付けサービス』ですよね〜」

「優秀なスタッフがいてくれて、涙が出そう」と、くら子は目をぬぐう真似をして下を向いた。

「うそばっかり、ホントは笑ってるでしょ」

まろみが腕を組んでくら子に向き直った。

クククという小さな笑いが次第に大きくなり、くら子は目に涙を浮かべていた。

 十日後、くら子とまろみは宮前邸に向かった。 

高い石塀と樹木に囲まれた豪邸を見上げて、まろみがあんぐりと口を開けた。

「どうしたの?」

くら子の問いに、まろみの声は上ずっていた。

「やっぱり、宝石屋さんってもうかるんですね。

こんなお屋敷、初めてみました」

「さくらさんのお話だと、普通の宝石店ではないらしいわよ」

「宝石店は仮の姿で、実は密輸をしているギャングの親分とか」と、まろみはきょろきょろあたりを見回した。

 ばかねえと、くら子はまろみの腕を軽く叩いた。

「お店といっても、会員しか入れないらしいの。

ウインドウがあるようなお店を構えているのではなくて、高級マンションの一室で一日に一人か二人のお客様に宝石をお見せするらしいわ」

「そんなので、商売になるんですか」

「なるからこんなお屋敷に住めるんじゃないの? 

お得意様はいわゆるハイソサエティの方々らしいわ。

だから扱っている宝石もそこらのお店と桁が違うみたい。

マンションが買えるくらい値段の指輪やネックレスを、これいただくわって、ぽんと買うんだって」

「アンビリーバボー」

まろみは大げさに両手を広げた。

「信じなくてもいいけど、世の中にはわたしたちの知らない世界がたくさんあるってことよ。

それより、わたしたちは仕事をしましょう」

 インターホンで名乗ると、どうぞという声がして、ぎぃーっと門があいた。
 
 宮前ゆかりは、二人を笑顔で迎えた。

 玄関には大きなクリスタルの花瓶からあふれるほどのカサブランカが活けられ、強い香りを放っていた。

 応接間までの長い廊下の壁にはギャラリーのように絵がかかっていた。

 シャガール、マチス、ピカソ、クレーと、美術館でしかお目にかかれないような画家のリトグラフやデッサンの小品が並んでいた。

 案内された応接間の天井にはクリスタルのシャンデリアが輝き、床には絹の絨毯が敷かれ、白い革張りのソファーが中央に半円を描いて置かれていた。

 壁には大きな暖炉があり、反対の壁は一面天井までの収納で、ガラスの扉の中には、アンティークのオルゴールやビスクドール、マイセンの磁器の人形などが飾られていた。

 ソファーを勧められて腰をおろしても二人は落ち着かなかった。

 お茶の用意をしてますのでと、ゆかりが姿を消した途端に、まろみがきょろきょろと見回した。

「ここは美術館みたいですね。

泥棒が入ったらどうするのでしょう」

 くら子も同じようなことを考えていたので、苦笑して答えた。

「これだけのおうちだから、セキュリティは万全でしょう。

それに保険もかけてあるだろうし、まろみちゃんが心配しなくても大丈夫よ」

 まろみがサイドテーブルの上の白い胡蝶蘭が本物かどうか調べていると、ゆかりが優雅な象嵌を施したワゴンを押してきたので、あわてて座りなおし、膝の上に手を置いた。

「ごめんなさい。今日はお手伝いの人がお休みなもので」

 ゆかりはソファーに合わせた楕円形のガラスのテーブルに慣れた手つきでティ―ポットやカップを並べ、最後に砂時計を置いた。

 皿に乗ったウィーンのケーキ、クグロフを見て、まろみがごくんとつばを飲み込んだので、くら子に肘でつつかれ、わかってますとうなずいた。

 スピーカーは見えないが、室内には会話の邪魔にならない程度の静かな音楽が流れている。

「さくらさんから、お二人が甘いものがお好きだとうかがってますのよ」

 砂時計の砂が全部落ちたのを見て、ゆかりが楽しそうに、紅茶を注ぐ。

「さあ、どうぞ。クグロフがお口に合いますかどうか」

「合います。合います」というまろみのつぶやきに、ゆかりは微笑んだ。

「先日は肝心のお話ができなかったもので、ごめんなさい。

それに、一度家の様子も見ていただきたかったものですから。

さあ、冷めないうちにどうぞ、お話はその後で」

 サロンのお茶会とはこういう雰囲気なのだろうかと、くら子はダージリンの紅茶を味わった。

確か、クグロフはマリー・アントワネットの好物だと聞いたけれど、と優雅なサロンを思い浮かべながらバターたっぷりのケーキを口にし、うっとりした。

 おいしいお菓子と紅茶の至福の時間を終え、くら子とまろみはビジネスモードに切り替えるために、カップを脇に寄せ、手帳を広げた。

「減築して平屋にされるということですが、設計はどの程度すすんでいるでしょうか」

くら子の問いに、ゆかりは手を振って応えた。

「まだ、まっ白です。

それで、これからくら子さんたちに加わっていただいて、三井君と話をしたいと思っています」

「そうですか。

まだ他のお部屋を拝見しておりませんが、高価な美術品のコレクションをしておられるようですが」

「ええ、この部屋にあるのは一部です」

 くら子とまろみはぎょっとして顔を見合わせた。

「ほとんどは二階にありまして、一部屋をコレクションの部屋にしております。

あと、図書室には、外国の本や石ころがたくさんあります」

  石ころ? とまろみがつぶやいた。

「あら、ごめんなさい。

主人に言わせると貴重な本や鉱物だそうですが、わたしにはただの汚い石ころにしか見えないものですから」

 ほほほと笑いながら、ゆかりは続けた。

「主人はK大学を卒業後、ケンブリッジに留学し、美学や美術史を学ぶうちにジュエリーに興味を持ったそうです。

日本でジュエリーが美術館で見られるようになったのは最近のことですけど、欧米では長い歴史がありますからね」

 ゆかりは、まろみの耳の小さなルビーのピアスに目を留めた。

「まろみさんは、かわいいピアスをしておられるけれど、日本でも古墳時代に素敵なピアスをしていたのをご存じ?」

え〜、そんな昔にですかと、まろみは首をかしげた。

「そうなのよ、信じられないでしょうけど、五、六世紀の頃にはハート型の耳飾り、今でいえばピアスがあったのよ。

それも男性がつけていた」

「クールですねえ」

クール? というゆかりの疑問にくら子が補足した。

「わたしもよくわからないのですが、かっこいいということらしいです」

なるほどねえという表情で、ゆかりは続けた。

「おほん、まろみちゃんのいうクールな耳飾りは七世紀ごろまでで、その後、流行するのは第二次世界大戦後なのです」

 二人はゆかりの話に引きこまれた。

 グランドファーザーズ・クロックが時を告げ、くら子はハッとした。

ゆかりも気がついた。

「あら、ごめんなさい、わたしったら、余計なことばかりお話しして」

「いえ、とんでもない。消えたネックレスの話はこの次にお聞きしたいです」

 ビジネスモードに戻って、くら子は訊いた。

 「一応確認のためにお尋ねしますが、これだけのお屋敷で、貴重な美術品などをたくさんお持ちです。

二階建てが平屋になるということは、単純に考えて空間が半分になることですから、持ち物もそれ相応に減らしていただくことになりますが、よろしいのでしょうか」

「ええ、その点は二人で話し合いました。

夫が長年かかって集めたものですし、わたしもそれなりの愛着があります。

それを簡単に手放す気にはなれませんので、小さな美術館を開設して、そこで一般の方に公開できればと思っております。

残念ながら、息子たちは夫の仕事を継ぐ気はありませんので、店は同業の方にお譲りして、美術館で、先ほどお二人にお話したようなジュエリーのお話ができればねえ」

「さっきのは予行演習ですか?」

まろみの無邪気な問いに、ゆかりは楽しそうに笑い声をあげた。

「それで、美術館の方はどちらに?」

「それがね、さくらさんのお知り合いが古い洋館に住んでおられたのだけれど、ひとり暮らしが無理になったから、さくらさんのホームに入居されたの。

それで、残ったお屋敷をどうするかということで、さくらさんからご相談があってね。

わたしたちも美術館なんて考えたことも無かったのだけれど、これは元々さくらさんのアイデアなのよ。

くら子さんならおわかりでしょう?」

「ええ、さくらさんはアイデアウーマンですから」

くら子とまろみは、屋敷を案内された。

 図書室の二面の壁は天井までの棚で、一面には本がぎっしりと並んでいた。

本のほとんどは外国の本で、ハガキ大の大きさの本から、革表紙の大きな箱のような本まであった。

窓際には大きな机が置かれ、二台の顕微鏡と、四角い機械が載っていた。

もう一方の壁にはたくさんの箱が納まっていた。

 くら子は子供のころに見た、羽を広げた蝶々がピンで留められていた木製の標本の箱のように見えた。

「こちらは鉱物や化石なんです」と、ゆかりは、箱の一つを棚から抜いて、机に置いた。

木箱にはガラスがはまっており、きちんと区切られた中には石が並んでいた。

薄い緑の石にはフローライト―スイス、ピンクの石にはロードナイト―マダガスカルと几帳面な字で書かれた小さな紙が添えられていた。

「これ全部石なんですか?」

丸い目をさらに丸くしてまろみが訊いた。

ゆかりは肩をすくめて、たぶん、と答えた。

まろみは、熱心に棚の箱の中をのぞいていた。

「ここにアメシストという、ごつごつした塊があるんですけど、あのアメジストですか?」

「そうよ。確か二月の誕生石だったと思うけど。

ギリシャ語で『酔わない』という意味で、昔は、酔い止めのお守りとして使われていたそうだけど」

まろみの、わたしもアメジストの酔い止めが欲しいなあという声に、くら子がこれこれとストップをかけた。

 次に案内されたのは書斎だった。

こちらは二面の壁が収納庫で、図書室と同じように窓際に机があり、その横に三台のスチールのファイルボックスや大きなワゴンが置かれていた。

 鍵のかかった収納庫の中は、大小の引き出しが並んでいた。

 ゆかりは引き出しの一つを抜いて、光のあたる窓際に持って行った。

黒いビロードの内張りをされた引き出しには、光を受けて輝く二個のブローチがあった。

左側には、三尾の金色のタツノオトシゴのまわりに、水の泡に模した丸い部分に白いオパールがはめ込まれた、まるで水中のような様子を表しているブローチ。

右側には、緑の羽根のトンボで、頭の部分は人間の女性の上半身がかたどられている。

 これはどちらも、ルネ・ラリックの作品です、と説明するゆかりの言葉は二人の耳には入らなかった。

くら子はふーっとため息をついて、隣のまろみを見ると、じっとタツノオトシゴを見つめている。

「まろみちゃん、よだれが垂れてる」

えっと、まろみは口の手を当てた。

冗談よ、とまろみの肩を叩き、くら子はゆかりに向き直った。

「美術館になれば、こういうすばらしい作品がわたしたちにも拝見できるようになるのですね」

「ええ、さくらさんが、個人のコレクションとして眠らせておくより、公開すべきだとおっしゃってね」

「わたしもそう思います」

 二階の夫婦のクロゼットは小さなマンションが一つ入るくらいの大きさだった。

ゆかりがドアを開けて二人を通した。

洋服のコーナーが一番大きく、端の扉を開けると、パーティー用のスパンコールのついた黒いイブニングから、まるでこの人は芸能人かと思うようなシックで美しいドレスが並んでいた。

それを見た途端、きゃー、とまろみは踊りだしそうな勢いである。

「外国で大使館のパーティやレセプションに出席するのに必要なんですよ。

それに、ジュエリーの仕事をしている以上、それなりのものを身につけなければおかしいでしょ。

というのは、表向きで、わたし自身がおしゃれが好きで、着飾るのが楽しかったのよ」

 ゆかりは、次々と扉を開けていく。

「ここは帽子のスペース、実用的でないものもあるけれど、これもわたしの趣味」

百以上はあると思われる色とりどりの帽子の箱にくら子は思わず訊いた。

「これは全部海外で誂えられたのですか」

「ほとんどがそうねえ。

日本も十年くらい前はオーダーのおしゃれな帽子を作ってくれるところがあったけど、職人さんが年を取ったのと、帽子をかぶる人が減って、お店が消えていったのはとても残念」

「でも、最近若い人向けの帽子のお店ができていますよ。

ねえ、くらこさん」

「ええ、でもちょっと違うのよね」

 ゆかりが一つの箱を開けると、ラベンダー色の薄紙の中から黒い花が現れた。

大きなコサージュという感じで、オ―ガンジーとサテンの花弁を囲むようにレースが取り巻いている。

「まろみさん、これは、トークとかヘッドドレスとよばれているのだけれど、素敵でしょ」

「わ、わかりました。

こんな、お、お帽子は売ってません」

 バッグや靴が、整然と並べられた棚を前にして、くら子は、美術館へ移すものと、屋敷に残すものを分けることが第一の仕事だと思った。

そして、念のために訊いた。

「あの、他にもコレクションをお持ちですか?」

「あとは、食器だけです」

くら子は平静を保とうとしたが、声はほんの少し震えていた。

「どちらにありますか」

「ダイニングの横の小部屋に、海外で買ってきた食器がありますの」

「リビングの棚とは、もちろん別ですね」

「ええ、外国からのお客様をもてなす時には、その方のお国の食器を使うのが良いかなと思いまして」

「何カ国くらいの食器があるのですか」

「さあ、数えたことがないから…」

 くら子の普段の仕事なら、ざっと家の中を拝見して、荷物の量を確認し、段取りを決めるのだが、今回はまるで勝手が違い、美術館のツアーのようだと思った。

しかし、こういう経験は度々できるものではないので、ゆかりのペースに合わせていこうと思った。

「ひとりでしゃべって、のどが渇いたので、少しお待ちいただけます?」

 ゆかりが席を外している間に、まろみも手洗いに立ち、興奮して戻ってきた。

「くら子さん、ここのおトイレはうちのリビングくらいの広さがありますよ」

 二人で、トイレのタイルの話をしているところへ、ゆかりが長手盆に日本茶の用意をして現れた。

「おいしい宇治の新茶をいただいたので、ご一緒にと思って」
 
 添えられているのは厚切りの羊羹。

一目で老舗の和菓子屋のものとわかる。

 まろみがくら子にそっとささやいた。

「羊羹って、こんなに厚く切るものなのでしょうか。

わたし、カルチャーショックです」

「ほんとに、びっくりすることばかりね」

 ゆかりがゆっくりと小さな茶器に新茶を注ぎ、錫の茶托にのせて二人に勧めた。

「紅茶やコーヒーも美味しいけれど、この頃は日本のお茶が一番だと思うようになって…年のせいかしらね」

「わたしたちも日本茶は大好きです。

ねえ、まろみちゃん」

まろみはニッと笑って、はい、羊羹はもっと好きですと応えた。

 ダイニングに隣接した部屋の食器棚のガラス扉の中には、大量の食器が収納されていた。

 ウェッジウッド、マイセン、ジノリなどの洋食器に、繊細なカットが施されたバカラのグラス、クリストフルのカトラリー。

中華料理のセットに、和食器も山ほどあった。

引き出しには白から始まって赤、緑、オレンジなどのテーブルクロスとナプキンがアイロンをかけられて出番を待っているのだろう。

 くら子は個人の住宅でこれほどの食器を目にしたのは初めてだった。

「あの、ゆかりさん、減築しても、外国のお客様のおもてなしをされるのですか」

「いいえ、食器は二ピースくらい残して、後は息子の嫁たちが欲しいと言えば譲ろうと思っています」

 まろみはガラスの向こうのジノリのカップをのぞきこんだ。

「あの、これ、ジオ・ポンティのデザインじゃないですか」

よくご存じねとゆかりは驚いた。

 まろみの趣味は、ミステリーの読書と食べ歩きに加え、デパートの食器売場をのぞくことである。

「本物を見るのでは初めてです」とまろみは興奮している。

 どうやら、これらの食器もかなりの価値あるコレクションである。

「お好きな方には価値があっても、料理や食器に興味のない人にとっては、ただのガラクタだから…長男の嫁は眼科の開業医で、次男の嫁も公務員なの。

二人ともお料理はあまり好きではないみたい」

ゆかりの言葉には、さびしさがにじんでいた。

「今、アガサ・クリスティーの『葬儀を終えて』を読んでるんですけど、遺産相続でスポードのデザートセットを誰がもらうかでもめていましたけどぉ」

 まろみの目は輝いている。

 これは遺産相続の話である。

欧米では高価な食器や銀器は相続の対象となる。

これらはもちろん、棚に飾っておく美術品ではなく、日常、もしくはハレの日に使う食器であり、家族の思い出もそこに重なる。

また、このような洋食器のメーカーは何十年も同じ柄を作り続けているので、皿が一枚割れれば、同じ柄を買い足すことができる。

だからこそ、子から孫へと使い続けることができるのである。

「まろみちゃん」と、くら子はたしなめた。