友人と、ランチの約束をしていたまろみは駅への道を急いだ。

携帯電話を忘れて、途中で引き返し、遅くなったのである。

二十分遅れるとメールを送ったら、“了解”と返事が来た。

 日曜の繁華街は人が多く、待ち合わせのデパートの前も人だかりがしていた。

きょろきょろと探したが、見つからないので、電話をかけた。

 近くで呼び出し音が鳴って、お互いが二メートルほどの距離にいることがわかった。

十年ぶりに会った友人は別人のようだった。

道ですれちがってもわからなかっただろう。

「久しぶり、まろみは変わらないわねえ」

「元子? うそぉー、きれいになった!」

まろみは元子の上から下まで視線を走らせた。

「ありがとう。

さあ、久しぶりにランチに行きましょ」

今日はイタリアンが食べたいと、元子はまろみを引っ張って、足早に歩き始めた。

 生ハムとメロンの前菜に二種類のパスタ、デザートはカプチーノとパンナコッタを注文した。

からすみのパスタと、菜の花と蛍イカのパスタを分け合いながら、まろみは一番気になっていたことを訊いた。

「どうやって、やせたの?」

「簡単よ。毎日何を食べたか記録して、栄養のバランスや量を調整したの。

もちろん運動もしたけど」

「それで、やせられるの?」

「わたしが、その証拠でしょ」

元子はつんと顎を上げた。

「まあ、そうだけど、何か特別な秘密があるのかと思ってさ」

まろみはフォークにパスタをぐるぐる巻きつけながらも、疑っている。

「体質で、どうしてもやせられない人はいると思うけど、それを別にしたら、基本的には、本人が本当にやせたいかどうかだと思う。

といっても、今の若い子たちみたいなガリガリのモデル体型はいただけないわね」

 ふーんと、まろみはパスタを口に運んだ。

「エステで脂肪を取ってもらうとか、そういう手もあるんじゃないの?」

「そういう人もいるけど、自分が努力しないでやせると、元の木阿弥」

「わたしもね、いろいろ、なんとかダイエットの本を読んだことがあるけど…」

「そういう人が多いけど、読むだけじゃあダメなのよ。

だって、料理の本を何冊読んでも、作らなければ食べられないし、料理の腕はあがらない、でしょ」

「確かに、ところで、洋服は全部新しいのを買ったの?」

 まあねと、元子は口ごもって、時計を見た。

 ごめん、まろみ、もう行かなくちゃと元子は手を合わせた。

「えっ、どうして?」

「彼と映画を見に行く約束があって…デザートまで食べられると思ってたけど…」

せっかく久しぶりで会えたのに、というまろみに、デザートは全部あげると、元子は食事代を置いて出て行った。

遅刻したから自分が悪いけど、やっぱり、友達より男なのねと、まろみは二人分のデザートを黙々と平らげた。

やせたのは彼のせい? それとも、やせたからカレシができた? どちらが先? それが問題だと思いながら、まろみはスプーンを置いた。

 翌朝、まろみが一五分遅刻で出勤すると、珍しく応接コーナーに来客の気配があった。

邪魔をしないほうがよいと判断して、まろみはパソコンに向かった。

ドアの隙間から漏れてくる声によると、相談は、何冊も整理や片づけの本を読んだが片付かないということだった。

まろみは昨日の元子との会話を思い出した。

ダイエットの本をたくさん読んでもやせられないと言ったのは自分だ。

結局、ダイエットと整理や片づけの言葉を置き換えれば同じことなのだ。

「わくわく片づけ講座」でもくら子が、魔法の杖はないのだから、すっきりしたいと思ったら、自分が決断し、動かないと片付きませんよと言っているではないか。

それに、続けることが大切だとも。

耳にタコができるほど聞いていたはずなのにと考えながら、無意識に机の脚をつま先で蹴った。

イタタという声に、くら子が応接コーナーから飛び出してきた。

「どうしたの? 何かあった?」

「いえ、なんでも、ありません」

なんだか、大きな音がしたけどねえと、くら子はちらりとまろみを見た。

「ネズミじゃないですか?」と、まろみはとぼけた。

二人の会話は来客にも聞こえ、キャッと悲鳴が上がった。

 くら子は来客にまろみを紹介した。

交換した名刺の肩書きは小学校の校長だった。

弁天珠美は欽輪小学校に勤めている。

珠美が相談に来たのは、生徒たちに片づけの話をして欲しいという依頼だった。

「今の小学校はいろいろ大変でして、学級崩壊に父兄の対応、給食費の回収、ストレスを抱えた先生が休職と、きりがなくて…おかげでうちは家庭崩壊の寸前で、恥ずかしながら家の中も大混乱なんです」

苦笑しながら、珠美は、片づけられない子供が多いので、わかりやすく話をしてもらいたいと言った。

これは子どもの問題というよりも、親が片づけをしないので、子どもに片づけろというのが無理な話で、本当なら親をなんとかしないと…と口を濁した。

「今、流行りの出前授業ですか」

まろみの声が半オクターブ上がった。

「はい、そうです。

わたしも自分の家のことがあるし、いろいろ本を読んだのですが…これがどうにもねえ。

それに、外部の大人の方にお話ししていただくのは、子どもたちにとっても刺激になりますし、片づけ方とお仕事の話もしていただけたらありがたいです」

「いつも中高年の女性向けの講座をしていますので、小学生相手というのは…」

渋るくら子に、珠美は大丈夫ですと請け合った。

「ところで、このビルにはネズミがいるのですか」

「いえ、さっきのは頭の黒いネズミです」

まろみは横を向いて舌を出した。

ああ、なるほどと納得して、珠美は上機嫌で事務所を後にした。

「さすがに校長先生ね、ネズミは嫌いらしいけど、ここ一番の押しが強い。

それに、片付けるのにまず本を読むというのも…」

そういえばと、まろみは昨日の元子との会話を思い出した。

 手帳に欽輪小学校の予定を書き込んでいるくら子に向かって、忘れないうちにとばかりに、まろみは宣言した。

「くら子さん、わたしは真理を発見しました」

それはそれはと、くら子は面白そうにまろみを見て、コーヒーでも飲みながらゆっくり聞きましょうと台所に向かった。

片付けとダイエットは同じなのですと、まろみはコーヒーには手をつけず、真剣だ。

「なるほど、どういうところが?」

「本を読んだだけでは変わらない。

知識だけでは頭でっかちで、行動が伴わないとダメだということです」

「確かに、整理や片付けの本が次から次へとたくさん出版されるけど、本を読むだけだは状況は変わらない。

ダイエットはそれ以上にたくさんの本が出ているわね」

そうでしょうとまろみは身を乗り出した。

次は?と、くら子はカップの茶色い液体を覗き込んで訊いた。

「一度に結果を出そうとすると失敗する」

くら子は頷いた。

「それに、下手をするとリバウンドがくる」

「これで三つ」

「継続することが大切で、万人向けの方法はないし、魔法の杖も無い」

お見事とくら子は手を叩いた。

えへんと、まろみは胸を張ってコーヒーを口にした。

「真理を発見したのだから、小学校の件はまろみちゃんにお願いしようかしら」

げほげほとむせたまろみに、冗談よとくら子は背中を叩いた。

一ヶ月後、四年生の教室でくら子は黒板に名前を書いて自己紹介をした。

次に、教室のまん中の机を四つくっつけるように子どもたちに促した。

なにが始まるのかと思いながら、子どもたちは集まった。

くら子は持ってきた大きめのトランプを机の上にふりまいた。

「それではゲームをします。

赤の組と黒の組と二人ずつ代表を選んでください」

始めは譲りあい、がやがや言いながら四人が決まった。

くら子は隣にいた髪の長い女の子にタイマーを渡し、もう一人には記録係を命じた。

「それでは、この中から、それぞれ二枚ずつ七のトランプを探してください。

時間を測ってもらいます。

他の人は手を出さないでね」

赤組は十五秒、黒組は十七秒だった。

こうして何回か繰り返した。

 次にカードを赤のダイヤとハート、黒のクローバーとスペードに分け、取りやすいように並べてくださいと四人に言った。

まわりではがやがやと騒がしいが、相談しながらどちらもエースからキングまで順番にカードを並べた。

「それでは、七を取ってください」

四人は迷わずカードに手を出した。

「何秒ですか?」

「一秒です」

「それでは七のカードを戻してください」

四人は迷わず、元の場所にカードを戻した。

「今、七を戻してもらったけど、どこに戻すか、すぐにわかったかな?」

わかったという素直な声と、バカにしてるのかという不審な顔が入り混じった。

「おばさんの仕事は、今のことを大人の人に教えてるのです」

「えーっ、大人でも、トランプのできない人がいるの?」

「今は、トランプで実験してもらったけど、たとえば、これが教科書や鉛筆だったらどうなるかな? 

ぐちゃぐちゃになってると、探すのに十五秒かかる。

きれいに並んで、場所が決まってると一秒で探せたし、すぐ元のところに戻せるね。

この元の所に戻すというのが、一番難しいかもしれない。

それでは質問です、忘れ物をしたい人は手を挙げて―」

くら子はゆっくりと見回して、誰もいないようですねと念を押した。

 校長の珠美がいつの間にか、くら子の後ろでにこにこしながら聴いている。

 五〇分の出前授業を終えたくら子は、校長室に案内された。

謝金を受け取り、領収書にサインをしているくら子に向かって、珠美がしみじみ言った。

「片付けというのは、子どものころから習慣にするのが一番ですね」

唇に笑みを浮かべたくら子が顔をあげると、珠美はデスクのカギのかかった引き出しを開け、小さな缶を取り出した。

 珠美がそっと蓋をあけると鮮やかな色が溢れた。

マカロン!と声を上げたくら子に珠美はおひとつどうぞと差し出した。

「わたしは、イライラした時に、これを一つつまむのです。

職員に八つ当たりするより、わたしが太るほうがましですからね」

 それでは、いただきますとくら子はオレンジ色のマカロンを口に入れた。

 珠美は、あと半年で定年退職をしたら、書家として作品を発表したいと思っていると、突然、個人的なことを話し始めた。

 珠美の実家は裕福で、子どもの頃から身の回りのことはすべてお手伝いさん任せの生活で、珠美はピアノや書道、日本舞踊と習い事に忙しかった。

 親の反対を押し切って職場の同僚と結婚したが、家事は全然できず、料理は学校の帰りにデパートで総菜を買って帰った。

共働きを承知していた夫は料理をしない妻に不満を言うことも無く、家事を分担してくれた。

一人娘が結婚をして出て行き、夫婦二人の生活になったが、珠美が校長になったことから夫婦の間にひびが入った。

もちろん、勤め先は違ったが、夫は教頭のままだった。

そして、夫は同じ学校の女性教師と不倫をし、それが発覚して退職の末、家を出て行った。

 話を聞きながら、くら子はなぜ、珠美がこのような話を、しかも校長室でするのか不思議だった。

くら子の戸惑いを感じた珠美はこんな話を聞かせてごめんなさいねと詫びた。

「わたしにはこういう話ができる友達がいないのです。

前に、家庭崩壊寸前だって言いましたけど、もう崩壊してるんです。

毎日虚勢を張って校長先生を演じてるだけで、身も心もぼろぼろ。

ストレスと比例して食べる量も増えて、体重が十キロも増えて、着られる洋服がなくなって。

今日の子供たちじゃあないけれど、積み重なった洋服の中から着られる洋服を探している生活です。

子供たちのためと言いながら、これはわたしのための出前授業だったようです」

「一度、ゆっくり休みを取られてはいかがですか」

「そうですね、そうしたいのは山々ですが、あと半年ですから…」

くら子は、それまでに、体を壊してしまうのではないかとは思ったが、口をつぐんだ。

「半年たったら、『わくわく片付け講座』を受講させていただきます」

「わかりました、お待ちしております」

半年後、事務所に珠美が現れた。

「その節はお世話になりまして」

珠美は別人かと思うほどだった。

やせて腰がスッキリし、以前は白髪が半ばだった髪も染めていた。

「ダイエットをなさったのですか」

くら子の問いに、珠美はくくくと口に手を当てた。

「くら子さんのせいですよ」

えっ、そんなとくら子が口ごもると、珠美はうふふと楽しそうだ。

 まろみもお茶を出して、くら子の隣に座った。

 くら子の出前授業の後、担任の先生が風邪で休んだ時には珠美が授業をすることにして、
くら子のように、トランプを使って子どもたちと片付けゲームをした。

 その時に、生徒の一人が訊いた。

「トランプはなぜこんなにたくさんあるの?」

「足りないとゲームができないから」

他の生徒が答えた。

そうかなあという声が起こった。
そこで、良い機会だと、珠美は生徒たちと考えた。

例えば、トランプは1から13まで必要だろうか。1から8でも7並べや神経衰弱はできる。

絵札のハートとスペードだけでもできる。

実際にやって見ると、あっけないほどゲームは早く終わる。

驚いたのは、トランプをしたことがないという生徒がかなりいたことだった。

そして、カードが少ないと早く終わるけれど、面白くない、つまらないと、子どもたちは正直に口にした。

 この後、珠美は気がついた。

カードがたくさんあるというのは選択肢が多いということだ。

子供たちには未来が広がっている。だから、いろいろなカードが必要だ。

しかし、半年後に退職する自分の未来にどれだけの選択肢があるのか、たくさんのカードはいらない。

年を取ったら、カードを減らすことを考えなければならない。

整理や片付けの本にも、捨てること、減らすことが書いてあったが、頭では理解できても、行動にはつながらなかった。

これは、モノの問題だけではない、仕事もそうなのではないか。

なんでも首を突っ込むのではなく、校長としてするべきことだけをすればいいのではないか。

教頭に任せられることは、任せればよいのではないか。

 頭の整理をしなくてはと考えた珠美は三日の休暇を取って、温泉に行った。

環境を変え、温泉につかり、散策し、これからのことを考えた。

 こうして、珠美は残りの半年を乗り切り、退職したのだった。

 まろみが我慢しきれず訊いた。

「ダイエットされたのですよね」

「ええ、食べた物を記録しはじめたら、どれだけ甘いものを食べていたか、スーパーのお弁当にどれだけ油が使われているか、びっくりしましたよ」

 まろみは続けた。

「運動はされました?」

「運動とは言えませんけど、毎朝、学校まで五十分歩きました」

 珠美は冷めたお茶を飲んで続けた。

「このダイエットのお陰で、記録するということが重要だと思い、次に、どのカードを捨てるかを書きだして、次に捨てたモノを記録しました」

それでどうでしたか、とくら子は先を促した。

「サイズの合わない洋服から始まって、学校の古い資料、名簿など書きだして、休みの日に片付けていきました」

「すっきりしましたか?」

「ええ、自分でも意外でしたけど、まるで長年苦しんでいた便秘が解消したみたい」

その気持ちよくわかりますというまろみの言葉に女三人で笑った。

「そこで、今日うかがったのは『わくわく片付け講座』の申し込みをしたいと思いまして」

「もう必要ないと思いますけれど」くら子は笑顔で応えた。

「モノは減りましたけれど、これからの暮らしをもう一度考えたいし、それに…」

くら子は続きを待った。

「友達ができるのではないかと思いまして」

「書道のお仲間がいらっしゃるのではないですか」

珠美は首を振った。

「上下関係の厳しい世界ですし、展覧会で賞を取ろうという人たちの集まりでは、皆、ライバルなんです」

「なるほど、校長先生ではなく、弁天珠美さんとしてのお友達ですね」

ええ、ええ、そうなんですと珠美はくら子の手を握った。

 珠美が帰ると、まろみは机に向かった。

「どうしたの、まろみちゃん」

くら子の問いに、まろみは振り向いて答えた。

「今朝、食べた物を記録してるんです」

「なるほど、ダイエット開始ね。

それでは、三時のおやつは、わたし一人で豆大福をいただきます」

まろみはいやいやと首を振った。

「ダイエットと言っても、豆はからだにいいし、バランスが大切ですから、大丈夫です」

 豆大福を頬ばりながら、まろみは珠美の言葉を思い出した。

「珠美さんも、校長先生という肩書が重かったのでしょうね」

「確かに、そうね、比較的男女の差は少ない世界だと言っても、女性の校長というのは、わたしたちが想像する以上に大変で、孤独だったでしょうから」

まろみは、珠美のストレスは仕事のことだけで、夫の不倫や離婚のことを知らない。

「ところで、来週の『わくわく片付け講座』のテキストの準備は終わっているでしょうね」

いえ、今…はい、すぐしますと、まろみはもうひとつ豆大福を手にして出ていった。

 わたしたちの仕事も、まんざら捨てたものじゃないと思いながら、くら子はまろみの後ろ姿を見送った。

26章終了