パソコンでメールの画面を見ていたまろみが、くら子さん、これ見てくださいと手招きをした。
テーブルで講座修了者の一人に手紙を書いていたくら子は、まろみのパソコンを覗き込んだ。
「なになに?
講座のお問い合わせかな」
メールには、この十年間で三十七回も引っ越しを繰り返している弟のことが心配だという、妹からの相談メールだった。
といっても、弟は五八歳、姉は六二歳である。
メールによると、売れない小説家の弟は、書くことに没頭するために、洗濯や掃除、片付けなどの家事を放棄している。
大学を卒業し、エンジニアとして働いていた頃は妻や子もいたが、愛想を尽かして十五年も前に出て行ったきり、音信不通。
引っ越しを繰り返すのは、ゴミを溜めて、どうしようもなくなると次のアパートに移るからである。
北斎みたいな人ねえと、くら子は思わずつぶやいた。
「え? 奥さん?」
わたしの滑舌が悪いから、通じないのかしらねえと、くら子は、あ、え、う、と、口を大きく開けた。
ほんと、くら子さんは単純なんだから、とまろみは腕組して見ていた。
「ところで、ホクさんって誰ですか」
くら子は背伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。
「浮世絵師の葛飾北斎、いわゆる奇人で、名前を変えることおよそ三十回、引越しは九十回以上だって。
作品はあまたあれど、有名なのは『冨嶽三十六景』とか…」
「赤い富士さんとか、波がどどーっていうやつですね」
くら子はうなずいた。
「北斎はそんなに引っ越ししてたんですか」
「らしいわね」
「それなら、この小説家志望の人も北斎みたいになれるかも?」
「さあどうでしょ。
それにこれはゴミ屋敷とは違って、確信犯だから」
「確信犯?」
「ゴミ屋敷の人は、あれもこれも抱え込むけど、本人はゴミだと思っていない…たぶん。
だけど、この人はゴミを捨てるのが面倒なだけでしょう。
それで、溜まったら次のところへ引っ越すだけ」
まろみは再びパソコンに向かい、ふむふむとメールの続きを読んだ。
「メールによると、このお姉さんは、花屋とフラワーアレンジの教室を経営しておられるようで、忙しいから、弟さんのところには月に一回くらいしか行けないそうです」
「ゴミを片付けたいのなら、不用品処理の業者に頼めばいいけど、弟さんの性格や行動を変えるのは無理ね。
本人にその気がなければ、変わらないでしょう。
だから、わたしたちにできることはなさそう」
「それならそうと、くら子さんが返信して下さいよ。
わたしはうまく書けませんから」
わかりましたと、くら子はパソコンに向かった。
返信をして、ほっとしたくら子に、まろみが訊いた。
「どうしてそんなに、引っ越しができるのでしょうね。
だって、家を借りるにも、家賃以外にいろいろものいりでしょう。
そんな費用を考えたら、お掃除してくれる人とかを雇った方が安上がりのような気がしますけど」
確かにと、くら子も考え込んだ。
一週間後、事務所に来客があった。
メールで、ゴミを放置して引っ越しを繰り返している弟の相談をしてきた山本マリンだった。
「メールでお返事をいただいて、わかってはいるのですけど、それでも、何とかならないかと思いまして、藁にもすがる思いでうかがいました」
くら子はマリンに椅子をすすめた。
薄いオレンジ色の麻のスーツを着たマリンはとても還暦を過ぎたようには見えなかった。
「両親が早くに亡くなったもので、わたしが親代わりのようなもので、面倒を見てきたのですが…」
「しかし、どうしてゴミを捨てないのですか」
「それが、どうやら、分別が面倒なようです」
「はあ、確かに面倒だとは思いますが…それが本当の理由なのでしょうか」
くら子はマリンの様子をうかがった。
「松竹梅さん、いえ、くら子さんに嘘はつけませんね」
そこへ、まろみが冷たい煎茶を運んできた。
どうぞと勧めると、マリンはいただきますと一息に飲み干し、ああ、おいしかったとグラスを置いた。
まろみもくら子の隣に座ってマリンの話を待っていた。
笑わないでくださいねと前置きして、マリンは姿勢をただした。
「実は、天狗のお告げだそうです」
くら子はぷっと吹き出し、まろみは口をあんぐり開けていた。
すいませんと、あわてて笑いをかみ殺したくら子は、次の言葉を待った。
だから言いたくなかったのに、マリンは下を向いて、空のグラスを握りしめた。
「弟さんはどこで天狗に会われたのですか」
くら子のまじめな問いに、マリンはグラスを置いてにっこりして答えた。
「高野山です」
「いつ頃のことですか」
「ある文芸誌の新人賞に応募して、最終選考で落ちた時に、落ち込んで、一人で山に行った時です」
なるほどと、くら子は頷いた。
「それで、どんなお告げだったのですか」
マリンは躊躇なく話し始めた。
「弟は自信満々だった最終選考に落ちて、自分には才能がない、小説家になるために会社も辞めたのにと、自暴自棄の状態でした。
山中をさまよっているうちに、道に迷い、夜になったそうです。
死に場所を探すようなつもりだったのかもしれませんが、そこで、疲れ果てて、岩陰でうとうとしていました。
そこで、はっと気がつくと、目の前に背丈が二メートルもあるような天狗が現われたそうです。
怖くてものも言えず、震えていると天狗が大声であっはっはと笑ったのだそうです。
どうして、笑われるのかわからないし、相変わらず体の震えが止まらない。
そんな弟の様子を見て天狗は、たかが、一回、賞を取れないくらいで、おたおたするなと言ったそうです」
くら子とまろみは、いつの間にかマリンの話に引き込まれていた。
「しかし、わたしは、会社も辞めてしまったし…」
弟がぐずぐず泣き言を言うと、それが、どうしたと、天狗は面白がっている。
「わたしは人間の屑です。まるでゴミみたいなもんです」
「ほう、お前はゴミか」と、天狗は顎に手をやって考え込んだ。
「それなら、ここで野垂れ死んで、土に還れ。
そうすれば、世の中のゴミにもならず、山の獣も餌ができて喜ぶだろう」
「そ、そんな…」
ふふふと天狗は笑った。
「お前はゴミをバカにしたが、ゴミは元からゴミではないのだ。
それにゴミを作るのは人間だけだ。
お前の望みをかなえたければ、ゴミを捨てるな。
よいな」
言い終わるや、白い霧が立って天狗は消えてしまった。
「こういうわけで、弟はゴミを捨てられないのです。
かといって、生きている以上ゴミは溜まる。
だから、次々に引っ越して…」
くら子は、はぁーと気の抜けた返事をした。
「それで、くら子さんはどうすれば良いと思われますか」
マリンは、天狗と、ゴミを捨てなければ願いがかなうという弟の話を信じている。
しかし、それは弟の妄想の世界ではないだろうか。
いやいや、そんな事を云えば、マリンは逆上するだろう。
ここは穏便にいくしかないようだ。
「どうすれば、ゴミを捨てても良くなるのですか」と、くら子が訊いた。
「そりゃあ、弟が小説で賞を取って、一人前の小説家になったら…」
その可能性は、まろみがノーベル賞を取るくらいではないかとくら子は思った。
「弟さんがゴミを捨てるのはダメで、他の人なら良いのですか」
はい、とマリンは笑顔で答えた。
おかしな話だが、本人は真剣なのだから仕方がない。
「それではビジネスホテルで長期滞在をされたらいかがですか。
掃除もしてくれますし、ゴミも捨ててくれます。
ほら、流行作家でホテルに缶詰めとかいう話もあるようですし、食事もルームサービスで、創作に専念するとか…」
まあ、その手がありましたかと、マリンは明るい顔で、こちらにご相談した甲斐がありましたわ、弟が賞を取ったら必ずお知らせしますと足取りも軽く、帰って行った。
ほんとに天狗なんているんですかねえと、グラスを片付けながらまろみは考え込んでいる。
もしかしたら、あの人が天狗だったりして…。
そうかもしれないと言いながら、くら子はゴミを出すのは人間だけだという天狗の言葉を考えていた。
猿も犬も猫も、バーゲンで違う柄の毛皮を買ったりしない。
電気製品も使わない。
そのうち、人間はゴミに埋もれてしまうかも…。
「こわい話ねえ」
くら子のつぶやきに、まろみは天狗くらいへっちゃらですと答えていた。
29章 終了
テーブルで講座修了者の一人に手紙を書いていたくら子は、まろみのパソコンを覗き込んだ。
「なになに?
講座のお問い合わせかな」
メールには、この十年間で三十七回も引っ越しを繰り返している弟のことが心配だという、妹からの相談メールだった。
といっても、弟は五八歳、姉は六二歳である。
メールによると、売れない小説家の弟は、書くことに没頭するために、洗濯や掃除、片付けなどの家事を放棄している。
大学を卒業し、エンジニアとして働いていた頃は妻や子もいたが、愛想を尽かして十五年も前に出て行ったきり、音信不通。
引っ越しを繰り返すのは、ゴミを溜めて、どうしようもなくなると次のアパートに移るからである。
北斎みたいな人ねえと、くら子は思わずつぶやいた。
「え? 奥さん?」
わたしの滑舌が悪いから、通じないのかしらねえと、くら子は、あ、え、う、と、口を大きく開けた。
ほんと、くら子さんは単純なんだから、とまろみは腕組して見ていた。
「ところで、ホクさんって誰ですか」
くら子は背伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。
「浮世絵師の葛飾北斎、いわゆる奇人で、名前を変えることおよそ三十回、引越しは九十回以上だって。
作品はあまたあれど、有名なのは『冨嶽三十六景』とか…」
「赤い富士さんとか、波がどどーっていうやつですね」
くら子はうなずいた。
「北斎はそんなに引っ越ししてたんですか」
「らしいわね」
「それなら、この小説家志望の人も北斎みたいになれるかも?」
「さあどうでしょ。
それにこれはゴミ屋敷とは違って、確信犯だから」
「確信犯?」
「ゴミ屋敷の人は、あれもこれも抱え込むけど、本人はゴミだと思っていない…たぶん。
だけど、この人はゴミを捨てるのが面倒なだけでしょう。
それで、溜まったら次のところへ引っ越すだけ」
まろみは再びパソコンに向かい、ふむふむとメールの続きを読んだ。
「メールによると、このお姉さんは、花屋とフラワーアレンジの教室を経営しておられるようで、忙しいから、弟さんのところには月に一回くらいしか行けないそうです」
「ゴミを片付けたいのなら、不用品処理の業者に頼めばいいけど、弟さんの性格や行動を変えるのは無理ね。
本人にその気がなければ、変わらないでしょう。
だから、わたしたちにできることはなさそう」
「それならそうと、くら子さんが返信して下さいよ。
わたしはうまく書けませんから」
わかりましたと、くら子はパソコンに向かった。
返信をして、ほっとしたくら子に、まろみが訊いた。
「どうしてそんなに、引っ越しができるのでしょうね。
だって、家を借りるにも、家賃以外にいろいろものいりでしょう。
そんな費用を考えたら、お掃除してくれる人とかを雇った方が安上がりのような気がしますけど」
確かにと、くら子も考え込んだ。
一週間後、事務所に来客があった。
メールで、ゴミを放置して引っ越しを繰り返している弟の相談をしてきた山本マリンだった。
「メールでお返事をいただいて、わかってはいるのですけど、それでも、何とかならないかと思いまして、藁にもすがる思いでうかがいました」
くら子はマリンに椅子をすすめた。
薄いオレンジ色の麻のスーツを着たマリンはとても還暦を過ぎたようには見えなかった。
「両親が早くに亡くなったもので、わたしが親代わりのようなもので、面倒を見てきたのですが…」
「しかし、どうしてゴミを捨てないのですか」
「それが、どうやら、分別が面倒なようです」
「はあ、確かに面倒だとは思いますが…それが本当の理由なのでしょうか」
くら子はマリンの様子をうかがった。
「松竹梅さん、いえ、くら子さんに嘘はつけませんね」
そこへ、まろみが冷たい煎茶を運んできた。
どうぞと勧めると、マリンはいただきますと一息に飲み干し、ああ、おいしかったとグラスを置いた。
まろみもくら子の隣に座ってマリンの話を待っていた。
笑わないでくださいねと前置きして、マリンは姿勢をただした。
「実は、天狗のお告げだそうです」
くら子はぷっと吹き出し、まろみは口をあんぐり開けていた。
すいませんと、あわてて笑いをかみ殺したくら子は、次の言葉を待った。
だから言いたくなかったのに、マリンは下を向いて、空のグラスを握りしめた。
「弟さんはどこで天狗に会われたのですか」
くら子のまじめな問いに、マリンはグラスを置いてにっこりして答えた。
「高野山です」
「いつ頃のことですか」
「ある文芸誌の新人賞に応募して、最終選考で落ちた時に、落ち込んで、一人で山に行った時です」
なるほどと、くら子は頷いた。
「それで、どんなお告げだったのですか」
マリンは躊躇なく話し始めた。
「弟は自信満々だった最終選考に落ちて、自分には才能がない、小説家になるために会社も辞めたのにと、自暴自棄の状態でした。
山中をさまよっているうちに、道に迷い、夜になったそうです。
死に場所を探すようなつもりだったのかもしれませんが、そこで、疲れ果てて、岩陰でうとうとしていました。
そこで、はっと気がつくと、目の前に背丈が二メートルもあるような天狗が現われたそうです。
怖くてものも言えず、震えていると天狗が大声であっはっはと笑ったのだそうです。
どうして、笑われるのかわからないし、相変わらず体の震えが止まらない。
そんな弟の様子を見て天狗は、たかが、一回、賞を取れないくらいで、おたおたするなと言ったそうです」
くら子とまろみは、いつの間にかマリンの話に引き込まれていた。
「しかし、わたしは、会社も辞めてしまったし…」
弟がぐずぐず泣き言を言うと、それが、どうしたと、天狗は面白がっている。
「わたしは人間の屑です。まるでゴミみたいなもんです」
「ほう、お前はゴミか」と、天狗は顎に手をやって考え込んだ。
「それなら、ここで野垂れ死んで、土に還れ。
そうすれば、世の中のゴミにもならず、山の獣も餌ができて喜ぶだろう」
「そ、そんな…」
ふふふと天狗は笑った。
「お前はゴミをバカにしたが、ゴミは元からゴミではないのだ。
それにゴミを作るのは人間だけだ。
お前の望みをかなえたければ、ゴミを捨てるな。
よいな」
言い終わるや、白い霧が立って天狗は消えてしまった。
「こういうわけで、弟はゴミを捨てられないのです。
かといって、生きている以上ゴミは溜まる。
だから、次々に引っ越して…」
くら子は、はぁーと気の抜けた返事をした。
「それで、くら子さんはどうすれば良いと思われますか」
マリンは、天狗と、ゴミを捨てなければ願いがかなうという弟の話を信じている。
しかし、それは弟の妄想の世界ではないだろうか。
いやいや、そんな事を云えば、マリンは逆上するだろう。
ここは穏便にいくしかないようだ。
「どうすれば、ゴミを捨てても良くなるのですか」と、くら子が訊いた。
「そりゃあ、弟が小説で賞を取って、一人前の小説家になったら…」
その可能性は、まろみがノーベル賞を取るくらいではないかとくら子は思った。
「弟さんがゴミを捨てるのはダメで、他の人なら良いのですか」
はい、とマリンは笑顔で答えた。
おかしな話だが、本人は真剣なのだから仕方がない。
「それではビジネスホテルで長期滞在をされたらいかがですか。
掃除もしてくれますし、ゴミも捨ててくれます。
ほら、流行作家でホテルに缶詰めとかいう話もあるようですし、食事もルームサービスで、創作に専念するとか…」
まあ、その手がありましたかと、マリンは明るい顔で、こちらにご相談した甲斐がありましたわ、弟が賞を取ったら必ずお知らせしますと足取りも軽く、帰って行った。
ほんとに天狗なんているんですかねえと、グラスを片付けながらまろみは考え込んでいる。
もしかしたら、あの人が天狗だったりして…。
そうかもしれないと言いながら、くら子はゴミを出すのは人間だけだという天狗の言葉を考えていた。
猿も犬も猫も、バーゲンで違う柄の毛皮を買ったりしない。
電気製品も使わない。
そのうち、人間はゴミに埋もれてしまうかも…。
「こわい話ねえ」
くら子のつぶやきに、まろみは天狗くらいへっちゃらですと答えていた。
29章 終了