「美しく、すっきり暮らそう、『わくわく片付け講座』のK社で〜す」
まろみのテンションの高さと対照的な、思い詰めた口調の電話だった。
「あの、2か月前の『わくわく片付け講座』に参加した西中島清実ですが、くら子さんのアドバイスをお願いしたいのですが…」
「くら子に代わりますので、少々お待ちください」
電話を保留にしてまろみがくら子に伝えた。
「講座に参加されたのならご存知でしょうが、私どもはアドバイスだけで、実際に決断されるのは西中島様ですが、それでよろしいのですか」
「はい。わかっています。実は一緒に講座に参加した北浜さんのおうちはとてもスッキリして、ご主人と離婚されましたの」
「はあ? 離婚のためのアドバイスをお望みでしたら…」
「いえ、離婚するといわれているのはワタシです…とにかく来てください住所は…」
西中島邸は駅から歩いて10分ほど。ゆるやかな上り坂が続く閑静な住宅街の一角にあった。
近頃のガーデニング熱のせいか、隣近所の庭にはヴィオラやアリッサなどカタカナの花が所狭しと咲いている。
この家には伸びた雑草や季節はずれのやせたタンポポしかなかった。
アシスタントのまろみが雨戸の閉まった2階を見上げて言った。
「わくわく片付け講座を受けてもどうにもならなかったみたいですね」
「どうにもならないから私たちを呼んだんでしょ。
講座はきっかけなのだから、自分で出来ないと思ってSOSを発信したのは正解よ。だから無駄じゃなかったわけ」
インターホンを押そうとした瞬間、玄関のドアがゆっくりと開いた。
「すみません。もうどうしていいかわからなくて」
清実は肩の落ちた茶色のジャージーの上下を着ていた。
化粧をしていない素顔には、眼の下にジャージーと同じ色のクマができている。
しかし、扉の内へ案内する気配はなく、下を向いてモジモジしている。
「お宅を拝見しないとアドバイスはできませんが」と、くら子は軽い調子で云った。
「そうですね〜。でも、あの、あんまりひどくて…どうしようもないんです。だから、恥ずかしくて」
「大丈夫。たくさんのお宅にお邪魔してきましたので、少々のことでは驚きませんよ。
エジプトのミイラでも埋まっているなら話は別ですが」
ミイラ? とつぶやき、ぷっと吹き出した清実は応えた。
「ゴキブリのミイラはたくさん埋まっていると思いますが」
一度大きく深呼吸をしてから、清実は勢いよくドアを開けた。
暗い家だった。目の前には段ボールの壁があり、箱と箱の間には30cmほどのすき間しかなかった。
まろみがヒェーと声をもらし、くら子に足を踏まれてウゥムと顔をしかめた。
玄関、廊下と、壁のすき間をクモ男のように手足を伸ばして横歩きで進み、リビングらしき部屋に出た。
まろみの頭に、この仕事は太っていてはできないのだとインプットされた。
20帖はあるだろうと思われるリビングルームも衣装ケースや段ボールの山で、あわてて片付けたらしいソファーの上だけが、かろうじてありのままの形を見せていた。
こんなものしか出せなくてと、清実はおずおずと2本の缶コーヒーを差し出した。
くら子はコーヒーを受け取り、一口飲んでから周囲を見渡して、どうしてこんなに箱があるのでしょうかと訊いた。
清実はソファーの横の白い衣装ケースの上にちょこんと座って話し始めた。
専業主婦で、家族の世話をすることが生きがいだったが、夫がブラジルに単身赴任し、続いて娘と息子が大学を卒業すると、することがなくなった。
そこで、暇をもてあましてカルチャーセンターに通い始めた。そこは女性の社交場であり、毎回同じ洋服を着ていくことはできない。
洋服に合わせたバッグや靴も欲しい。そして、もっともっとという悪循環が始まった。
夫はプロジェクトが軌道に乗るまでは帰国できないといい、結局7年間一度も帰国しなかった。
あちらに女性がいるのではないかと疑心暗鬼になればなるほど、清実はものを買い漁った。
結果がこれである。
「箱の中は全部、洋服やバッグですか」
「食器や健康器具もあると思いますが…開けて見たことがないのです」と清実はすまなそうに答えた。
「せっかくのお洋服をお召しにならないのですか」
「なんだか、何をするのも面倒くさくなって、外にも出たくないんです」
「食事の買い物はどうされていますか」
「夜に近くのコンビニでお弁当やカップラーメンを買います」
「娘さんや息子さんはどうしておられますか」
「娘はカナダに留学して、そこで知り合った人と結婚してビクトリアに住んでいます。
息子はこんなゴミ屋敷にはられないと言って、会社の寮に入っています」
「お電話で、離婚とおしゃってましたが、ご主人はまだブラジルですか」
清実は下を向いて、足もとの箱を軽く蹴った。
「いいえ、2か月前に帰国しました。今は会社の近くのマンションで暮らしています」
「どうしてマンションに?」
「主人はブラジルに行って20キロも太ったのです。だから…友達にもこんなこと話せなくて・・・」清実はわーっと泣き崩れた。
つまり、30センチのすき間が通れなくて家に入れない。これは物理的な問題だ。しかし、本当の問題はもっと別のところにある。
ひくひくとしゃくりあげながら清実は続けた。
「息子も夫も捨てろって怒鳴るんです。でもせっかく買ったのに、もったいなくて」
「その問題はひとまず置いておきましょう。ところで、お宅の建坪は何坪ですか」
「100坪です」
「今どき都会で100坪のお宅に住んでいらっしゃる方なんて多くはありませんよ」
そうでしょうかと、清実にはひとごとのようである。
「でも、その100坪に荷物がいっぱいで、倉庫になっていますね」
目を腫らした清実がこっくりとうなずいた。
「家と言うのは何のためにあるのでしょう」
「…住むためです」
「そうですね、住むということは、ただ雨露をしのぐことではなく、家族で食べたり飲んだり、くつろいだりという、暮らしの上に成り立っています」
「わくわく片付け講座に参加されたのも、ご家族と普通の生活を取り戻したいと思われたのではないですか」
「はい」小さな声だった。
「講座に参加して、どう思われましたか」
「すっきりしたいと思いました。でもできないんです。
いざ、箱を開けてみると、これはどこで買ったとか、まだ着られるのにもったいないと考えてしまって、結局また箱に戻してしまいます。
それに疲れやすくて、段ボールの箱が重たくて…」
ある精神科医は「捨てられない」というのは、ストレス過剰のシグナルでもあるとしている。片付ける気力が出ないほどエネルギーが低下しているのである。
手始めにソファーの横の箱を開けてみた。
ブランドのタグが付いた洋服が積み重なっている。サイズは46号。
これはヨーロッパサイズで、日本では17号から19号くらいのLLサイズにあたる。
シフォン地でピンクや淡いグリーンの混じった花模様の洋服を広げた。
「このワンピースは娘さんのものですか」
「いえ、私のものです…昔はもっと太っていたもので…一度、段ボールの間にはさまれて動けなくなったので、やせなくちゃと思って、1日2食にしたのです」
やはりストレス過剰は恐ろしい。
メタボの問題は別にして、モノを捨てれば広い空間で46号の服を着て楽に暮らせる。
それなのに段ボールのすき間を通るために1日2食にしてやせたという。
今では日本の9号でも入るだろう。
しかし、やせた今では46号の服は着られないという矛盾にも気が付かない。
人間は追い詰められ、混乱すると、目の前の現実が見えなくなるのである。
きっかけは人により違うだろうが、だれでもがこのような状況に陥る可能性を持っているし、それを責められない。
「せっかくやせてスマートになられたのですから、この大きな洋服は着られませんがどうしましょうか」
「捨てたほうがいいのでしょうね。でも、また太ったら…」
「太りたいですか。ダイエットをしてもなかなか痩せられない人が多いのに、せっかくスマートになられたし、おしゃれもできますよ」
「でも、もったいない」
「一番もったいないのは、着られない洋服で空間をふさいでいることではないでしょうか」
「そ、そうですね。頭ではわかっているんですが…やっぱり、ふんぎりがつかなくて」
「それで私を呼ばれたのでしょう。どうしましょうか」
清実は目をつぶり、祈るように手を組んだ。
「なんとかしてください」
まろみは携帯電話で、「ひきとりや」というリサイクルショップを経営している健さんこと、小渕賢治に連絡をした。
「すぐ来てくれるそうです」
「ではまず、46号の洋服から片付けましょう」
「ひきとりや」の小渕は助手のさくらと、庭に積み上げた箱の中身を点検し、黙々とリストを作っている。
後々もめないように、きちんと書類を作成する。
元の価格からすればタダ同然の値段だが、ごみとして処分しようとすればお金がかかるし、少しでもリサイクルできれば罪悪感も減るからである。
こうして46号の洋服から始まり、次々と箱が減っていった。
不思議なもので、一度エンジンがかかれば、それなりになんとかなる。
「ひきとりや」に引き取ってもらえないものは捨てることに決めた。
もちろん、本人がである。
K社がするのはアドバイスと業者の紹介だけで、選択と決断はご本人の仕事。
箱や衣装ケースは山ほどあったが、予想に反して中身は詰まっておらず、どうやら片付けるために次々と衣装ケースや段ボールの箱を買い足していったらしい。
これはよくあることだが、収納する中身や量の事を考えず、収納する器があれば片付くと思い、スペースも考えずに次々と衣装ケースや棚を買い込むのである。
しかしこれでは解決にはならず、ますますモノが増え、にっちもさっちもいかなくなり、途方に暮れる。
西中島邸は腕の良い大工が建てたようで、ものがなくなり、たまった綿ぼこりに掃除機をかけると、リビングに素晴らしい楢の木目のフローリングが現れた。
「こんなに広かったんですね」と清実は涙ぐんだ。
くら子が鞄から小さなガラス瓶のスプレーを出して、一吹きした。
西日のオレンジ色の光の中で、細かい霧がふわっと広がり、部屋を満たした。
「まあ、すがすがしい良い香り、何ですかこれは? 」
「ベルガモットやユーカリなど数種のアロマをブレンドしたルームスプレーです」
清実はフゥ―ッと息を吸い込んだ。
「ああ、ゆったりした気分になりますね。どこで売っているのですか」
「これはわたしが清実さんのためにブレンドしたものです」
まあ、と清実は両手を口に当て、言葉に詰まった。
「清実さんの新しい人生を祝って、この香りをプレゼントしますので使ってくださいね」
清実はぼろぼろと涙を流しながら、くら子の手を取って、ありがとう、ありがとうと何度も頭を下げた。
帰り道は疲れているにも関わらず、くら子とまろみの足どりは軽かった。
「くら子さん、やっぱり最後の儀式は効きますね」
「儀式? ああ、アロマのことね。まあ、お清めの塩みたいなものだけど」
珍しく神妙な顔でまろみが言った。
「あなたのためにブレンドしましたっていうのが、ほろりとしますよ」
だって、本当のことだからと、くら子はひとりごちた。
今では一般的になりつつあるアロマセラピ―の、アロマは芳香という意味でセラピーは療法、つまり香りの健康法である。
くら子の香りのプレゼントには二つの意味がある。
第一に、香りは嗅覚を刺激し、脳に影響を及ぼすとされている。
片付かない、整理できないというのは心理的な面も大きく、ストレスが原因の場合もある。
また、中高年の女性は大なり小なり更年期の問題を抱えている。
そこで、くら子はセラピーとはいえないまでも一人一人の情態に合わせてアロマの精油をブレンドしている。
第二は、香りが記憶とつながるからである。
例えば、電車で隣に座った人から、昔の彼氏の愛用のコロンの香りがしたら、一瞬で彼の事が脳裏に甦る…というように。
部屋を片付けたという達成感は、抱えている問題の解消にもつながっている。
しかし、数カ月すると、ダイエットのリバウンドのように元に戻る可能性もある。
そこで、この香りをかぐことで、もう一度、整理できた時の記憶をよみがえらせ、心地良い暮らしを取り戻すための「力」を生み出してもらえたらという願いがこめられている。
くら子は、これで清実の夫や息子はすっきりした家に帰ってくるだろうかと自答した。
まろみも同じことを考えているようだった。
「清実さんのご主人帰ってくるでしょうかねえ」
「それはご夫婦の問題だから」
3ヶ月後にフリーダ・カーロの[自画像]の絵葉書が来た。
「なんとまあ、ご夫婦でメキシコ旅行ですって。良かったですねえ。玄関の段ボールの壁の間を通る時はどうなることかと思いましたけど。」
まろみも気にしていたのだ。
くら子も清実の踊るような字の近況報告を見た。
清実らしい文面で「夫婦でメキシコ旅行中。毎夜、タコスにハマっています。また太りそう! 」としか書いてなかった。
フリーダ・カーロはラテン・アメリカの女性の理想像ともいわれる画家で、数々の苦難を乗り越えて自己を確立していった女性である。
これは清実の意志表明なのだろうか。
それとも、単にメキシコで買った1枚の絵葉書なのだろうか。
いや、そんなことはどうでも良い。
別居中だった夫との関係が、海外旅行をするまで回復したのならそれで良しとすればいい。
くら子は、絵葉書を清実のファイルに入れ、「終了」と書かれたボックスに収めた。
K社の業務は引っ越しやハウスクリーニングではない。
いわば、暮らしのオーガナイザーで、中高年の女性を対象に、身辺整理のお手伝いをする。
人生の折り返し点を回った女性たちに、ものの整理とともに、これからの人生、なりたい自分、今後の暮らし方や未来設計を考える機会を提供し、そのうえで、必要、不必要なものを自分で取捨選択してもらう。
いきなり未来設計をしましょうと云われても、戸惑う人も多く、不安も大きい。
そこで、仲間をつくり、ご一緒に考えましょうということで、「わくわく片付け講座」を主宰している。
また、自分では整理できないという人には今回のようにコンサルティングを行ったり、力仕事や片付けのスタッフも派遣する。
200CCのコップに1リットルの水が入らないように、いくら便利な収納グッズを使っても、スペースを広げる魔法は存在しない。
整理するということは選別し、捨てることであり、もったいないという罪悪感や思い出などのさまざまな感情と向き合いながら、決断していくことが必要になる。
アドバイスを求めながら、結局なにも捨てられない人もいる。
それはそれで、捨てられない理由、つまり心の整理がついていないので仕方がない。
その人にはまだ、整理の準備ができていないのであろう。
ただし、コンサルタント料はしっかりいただきます。
2章終了
まろみのテンションの高さと対照的な、思い詰めた口調の電話だった。
「あの、2か月前の『わくわく片付け講座』に参加した西中島清実ですが、くら子さんのアドバイスをお願いしたいのですが…」
「くら子に代わりますので、少々お待ちください」
電話を保留にしてまろみがくら子に伝えた。
「講座に参加されたのならご存知でしょうが、私どもはアドバイスだけで、実際に決断されるのは西中島様ですが、それでよろしいのですか」
「はい。わかっています。実は一緒に講座に参加した北浜さんのおうちはとてもスッキリして、ご主人と離婚されましたの」
「はあ? 離婚のためのアドバイスをお望みでしたら…」
「いえ、離婚するといわれているのはワタシです…とにかく来てください住所は…」
西中島邸は駅から歩いて10分ほど。ゆるやかな上り坂が続く閑静な住宅街の一角にあった。
近頃のガーデニング熱のせいか、隣近所の庭にはヴィオラやアリッサなどカタカナの花が所狭しと咲いている。
この家には伸びた雑草や季節はずれのやせたタンポポしかなかった。
アシスタントのまろみが雨戸の閉まった2階を見上げて言った。
「わくわく片付け講座を受けてもどうにもならなかったみたいですね」
「どうにもならないから私たちを呼んだんでしょ。
講座はきっかけなのだから、自分で出来ないと思ってSOSを発信したのは正解よ。だから無駄じゃなかったわけ」
インターホンを押そうとした瞬間、玄関のドアがゆっくりと開いた。
「すみません。もうどうしていいかわからなくて」
清実は肩の落ちた茶色のジャージーの上下を着ていた。
化粧をしていない素顔には、眼の下にジャージーと同じ色のクマができている。
しかし、扉の内へ案内する気配はなく、下を向いてモジモジしている。
「お宅を拝見しないとアドバイスはできませんが」と、くら子は軽い調子で云った。
「そうですね〜。でも、あの、あんまりひどくて…どうしようもないんです。だから、恥ずかしくて」
「大丈夫。たくさんのお宅にお邪魔してきましたので、少々のことでは驚きませんよ。
エジプトのミイラでも埋まっているなら話は別ですが」
ミイラ? とつぶやき、ぷっと吹き出した清実は応えた。
「ゴキブリのミイラはたくさん埋まっていると思いますが」
一度大きく深呼吸をしてから、清実は勢いよくドアを開けた。
暗い家だった。目の前には段ボールの壁があり、箱と箱の間には30cmほどのすき間しかなかった。
まろみがヒェーと声をもらし、くら子に足を踏まれてウゥムと顔をしかめた。
玄関、廊下と、壁のすき間をクモ男のように手足を伸ばして横歩きで進み、リビングらしき部屋に出た。
まろみの頭に、この仕事は太っていてはできないのだとインプットされた。
20帖はあるだろうと思われるリビングルームも衣装ケースや段ボールの山で、あわてて片付けたらしいソファーの上だけが、かろうじてありのままの形を見せていた。
こんなものしか出せなくてと、清実はおずおずと2本の缶コーヒーを差し出した。
くら子はコーヒーを受け取り、一口飲んでから周囲を見渡して、どうしてこんなに箱があるのでしょうかと訊いた。
清実はソファーの横の白い衣装ケースの上にちょこんと座って話し始めた。
専業主婦で、家族の世話をすることが生きがいだったが、夫がブラジルに単身赴任し、続いて娘と息子が大学を卒業すると、することがなくなった。
そこで、暇をもてあましてカルチャーセンターに通い始めた。そこは女性の社交場であり、毎回同じ洋服を着ていくことはできない。
洋服に合わせたバッグや靴も欲しい。そして、もっともっとという悪循環が始まった。
夫はプロジェクトが軌道に乗るまでは帰国できないといい、結局7年間一度も帰国しなかった。
あちらに女性がいるのではないかと疑心暗鬼になればなるほど、清実はものを買い漁った。
結果がこれである。
「箱の中は全部、洋服やバッグですか」
「食器や健康器具もあると思いますが…開けて見たことがないのです」と清実はすまなそうに答えた。
「せっかくのお洋服をお召しにならないのですか」
「なんだか、何をするのも面倒くさくなって、外にも出たくないんです」
「食事の買い物はどうされていますか」
「夜に近くのコンビニでお弁当やカップラーメンを買います」
「娘さんや息子さんはどうしておられますか」
「娘はカナダに留学して、そこで知り合った人と結婚してビクトリアに住んでいます。
息子はこんなゴミ屋敷にはられないと言って、会社の寮に入っています」
「お電話で、離婚とおしゃってましたが、ご主人はまだブラジルですか」
清実は下を向いて、足もとの箱を軽く蹴った。
「いいえ、2か月前に帰国しました。今は会社の近くのマンションで暮らしています」
「どうしてマンションに?」
「主人はブラジルに行って20キロも太ったのです。だから…友達にもこんなこと話せなくて・・・」清実はわーっと泣き崩れた。
つまり、30センチのすき間が通れなくて家に入れない。これは物理的な問題だ。しかし、本当の問題はもっと別のところにある。
ひくひくとしゃくりあげながら清実は続けた。
「息子も夫も捨てろって怒鳴るんです。でもせっかく買ったのに、もったいなくて」
「その問題はひとまず置いておきましょう。ところで、お宅の建坪は何坪ですか」
「100坪です」
「今どき都会で100坪のお宅に住んでいらっしゃる方なんて多くはありませんよ」
そうでしょうかと、清実にはひとごとのようである。
「でも、その100坪に荷物がいっぱいで、倉庫になっていますね」
目を腫らした清実がこっくりとうなずいた。
「家と言うのは何のためにあるのでしょう」
「…住むためです」
「そうですね、住むということは、ただ雨露をしのぐことではなく、家族で食べたり飲んだり、くつろいだりという、暮らしの上に成り立っています」
「わくわく片付け講座に参加されたのも、ご家族と普通の生活を取り戻したいと思われたのではないですか」
「はい」小さな声だった。
「講座に参加して、どう思われましたか」
「すっきりしたいと思いました。でもできないんです。
いざ、箱を開けてみると、これはどこで買ったとか、まだ着られるのにもったいないと考えてしまって、結局また箱に戻してしまいます。
それに疲れやすくて、段ボールの箱が重たくて…」
ある精神科医は「捨てられない」というのは、ストレス過剰のシグナルでもあるとしている。片付ける気力が出ないほどエネルギーが低下しているのである。
手始めにソファーの横の箱を開けてみた。
ブランドのタグが付いた洋服が積み重なっている。サイズは46号。
これはヨーロッパサイズで、日本では17号から19号くらいのLLサイズにあたる。
シフォン地でピンクや淡いグリーンの混じった花模様の洋服を広げた。
「このワンピースは娘さんのものですか」
「いえ、私のものです…昔はもっと太っていたもので…一度、段ボールの間にはさまれて動けなくなったので、やせなくちゃと思って、1日2食にしたのです」
やはりストレス過剰は恐ろしい。
メタボの問題は別にして、モノを捨てれば広い空間で46号の服を着て楽に暮らせる。
それなのに段ボールのすき間を通るために1日2食にしてやせたという。
今では日本の9号でも入るだろう。
しかし、やせた今では46号の服は着られないという矛盾にも気が付かない。
人間は追い詰められ、混乱すると、目の前の現実が見えなくなるのである。
きっかけは人により違うだろうが、だれでもがこのような状況に陥る可能性を持っているし、それを責められない。
「せっかくやせてスマートになられたのですから、この大きな洋服は着られませんがどうしましょうか」
「捨てたほうがいいのでしょうね。でも、また太ったら…」
「太りたいですか。ダイエットをしてもなかなか痩せられない人が多いのに、せっかくスマートになられたし、おしゃれもできますよ」
「でも、もったいない」
「一番もったいないのは、着られない洋服で空間をふさいでいることではないでしょうか」
「そ、そうですね。頭ではわかっているんですが…やっぱり、ふんぎりがつかなくて」
「それで私を呼ばれたのでしょう。どうしましょうか」
清実は目をつぶり、祈るように手を組んだ。
「なんとかしてください」
まろみは携帯電話で、「ひきとりや」というリサイクルショップを経営している健さんこと、小渕賢治に連絡をした。
「すぐ来てくれるそうです」
「ではまず、46号の洋服から片付けましょう」
「ひきとりや」の小渕は助手のさくらと、庭に積み上げた箱の中身を点検し、黙々とリストを作っている。
後々もめないように、きちんと書類を作成する。
元の価格からすればタダ同然の値段だが、ごみとして処分しようとすればお金がかかるし、少しでもリサイクルできれば罪悪感も減るからである。
こうして46号の洋服から始まり、次々と箱が減っていった。
不思議なもので、一度エンジンがかかれば、それなりになんとかなる。
「ひきとりや」に引き取ってもらえないものは捨てることに決めた。
もちろん、本人がである。
K社がするのはアドバイスと業者の紹介だけで、選択と決断はご本人の仕事。
箱や衣装ケースは山ほどあったが、予想に反して中身は詰まっておらず、どうやら片付けるために次々と衣装ケースや段ボールの箱を買い足していったらしい。
これはよくあることだが、収納する中身や量の事を考えず、収納する器があれば片付くと思い、スペースも考えずに次々と衣装ケースや棚を買い込むのである。
しかしこれでは解決にはならず、ますますモノが増え、にっちもさっちもいかなくなり、途方に暮れる。
西中島邸は腕の良い大工が建てたようで、ものがなくなり、たまった綿ぼこりに掃除機をかけると、リビングに素晴らしい楢の木目のフローリングが現れた。
「こんなに広かったんですね」と清実は涙ぐんだ。
くら子が鞄から小さなガラス瓶のスプレーを出して、一吹きした。
西日のオレンジ色の光の中で、細かい霧がふわっと広がり、部屋を満たした。
「まあ、すがすがしい良い香り、何ですかこれは? 」
「ベルガモットやユーカリなど数種のアロマをブレンドしたルームスプレーです」
清実はフゥ―ッと息を吸い込んだ。
「ああ、ゆったりした気分になりますね。どこで売っているのですか」
「これはわたしが清実さんのためにブレンドしたものです」
まあ、と清実は両手を口に当て、言葉に詰まった。
「清実さんの新しい人生を祝って、この香りをプレゼントしますので使ってくださいね」
清実はぼろぼろと涙を流しながら、くら子の手を取って、ありがとう、ありがとうと何度も頭を下げた。
帰り道は疲れているにも関わらず、くら子とまろみの足どりは軽かった。
「くら子さん、やっぱり最後の儀式は効きますね」
「儀式? ああ、アロマのことね。まあ、お清めの塩みたいなものだけど」
珍しく神妙な顔でまろみが言った。
「あなたのためにブレンドしましたっていうのが、ほろりとしますよ」
だって、本当のことだからと、くら子はひとりごちた。
今では一般的になりつつあるアロマセラピ―の、アロマは芳香という意味でセラピーは療法、つまり香りの健康法である。
くら子の香りのプレゼントには二つの意味がある。
第一に、香りは嗅覚を刺激し、脳に影響を及ぼすとされている。
片付かない、整理できないというのは心理的な面も大きく、ストレスが原因の場合もある。
また、中高年の女性は大なり小なり更年期の問題を抱えている。
そこで、くら子はセラピーとはいえないまでも一人一人の情態に合わせてアロマの精油をブレンドしている。
第二は、香りが記憶とつながるからである。
例えば、電車で隣に座った人から、昔の彼氏の愛用のコロンの香りがしたら、一瞬で彼の事が脳裏に甦る…というように。
部屋を片付けたという達成感は、抱えている問題の解消にもつながっている。
しかし、数カ月すると、ダイエットのリバウンドのように元に戻る可能性もある。
そこで、この香りをかぐことで、もう一度、整理できた時の記憶をよみがえらせ、心地良い暮らしを取り戻すための「力」を生み出してもらえたらという願いがこめられている。
くら子は、これで清実の夫や息子はすっきりした家に帰ってくるだろうかと自答した。
まろみも同じことを考えているようだった。
「清実さんのご主人帰ってくるでしょうかねえ」
「それはご夫婦の問題だから」
3ヶ月後にフリーダ・カーロの[自画像]の絵葉書が来た。
「なんとまあ、ご夫婦でメキシコ旅行ですって。良かったですねえ。玄関の段ボールの壁の間を通る時はどうなることかと思いましたけど。」
まろみも気にしていたのだ。
くら子も清実の踊るような字の近況報告を見た。
清実らしい文面で「夫婦でメキシコ旅行中。毎夜、タコスにハマっています。また太りそう! 」としか書いてなかった。
フリーダ・カーロはラテン・アメリカの女性の理想像ともいわれる画家で、数々の苦難を乗り越えて自己を確立していった女性である。
これは清実の意志表明なのだろうか。
それとも、単にメキシコで買った1枚の絵葉書なのだろうか。
いや、そんなことはどうでも良い。
別居中だった夫との関係が、海外旅行をするまで回復したのならそれで良しとすればいい。
くら子は、絵葉書を清実のファイルに入れ、「終了」と書かれたボックスに収めた。
K社の業務は引っ越しやハウスクリーニングではない。
いわば、暮らしのオーガナイザーで、中高年の女性を対象に、身辺整理のお手伝いをする。
人生の折り返し点を回った女性たちに、ものの整理とともに、これからの人生、なりたい自分、今後の暮らし方や未来設計を考える機会を提供し、そのうえで、必要、不必要なものを自分で取捨選択してもらう。
いきなり未来設計をしましょうと云われても、戸惑う人も多く、不安も大きい。
そこで、仲間をつくり、ご一緒に考えましょうということで、「わくわく片付け講座」を主宰している。
また、自分では整理できないという人には今回のようにコンサルティングを行ったり、力仕事や片付けのスタッフも派遣する。
200CCのコップに1リットルの水が入らないように、いくら便利な収納グッズを使っても、スペースを広げる魔法は存在しない。
整理するということは選別し、捨てることであり、もったいないという罪悪感や思い出などのさまざまな感情と向き合いながら、決断していくことが必要になる。
アドバイスを求めながら、結局なにも捨てられない人もいる。
それはそれで、捨てられない理由、つまり心の整理がついていないので仕方がない。
その人にはまだ、整理の準備ができていないのであろう。
ただし、コンサルタント料はしっかりいただきます。
2章終了