くら子は高校時代の部活のOG会に一〇年ぶりに参加した。
日曜の昼間、中華料理屋の二階で一八人が集まった。
今回の幹事は一学年上の山岸先輩で、どうしても出て来いと言われたからだった。
学生時代の部活の先輩後輩の関係はいくつになっても、変わらない。
先輩は先輩で、理屈抜きに逆らえない。だから仕方なく参加した。
円卓について、見回しても、誰が誰かわからなかった。
同学年の友人たちとは今でも連絡を取り合っているが、皆、欠席だった。
親の介護だとか、子供の受験だとか、うまい言い訳を考えたらしい。
後ろから肩を叩かれて振り返ると、丸い顔があった。
「くら子、元気そうね」
あの、と名前が出て来ないくら子に、「大和田美知よ。二つ上のミッチーよ。
思い出した?」
え、ミッチー先輩? こんなに太ってたかしら。背丈は昔と変わらないけど、厚みは倍になっているのでは?
「今回は幹事がヤマちゃんだから、くら子を引っ張って来てって頼んどいたのよ」
なんで、という言葉を呑みこんだくら子にお構いなく、美知は隣に座った。
幹事の挨拶と、元顧問の先生が入院中で参加できないことが告げられ、食事会が始まった。
くら子の左隣は空席で、どうやら山岸が、誰もそこには座るなと釘を刺したらしい。
女が一八人も集まった食事会というものがどれほど…であるかは、参加してみないとわからない。
前菜が終わり、ふかひれスープ、エビと貝柱のXO醤炒めと、コースが進んでも、美知は要件を切り出さず、小皿に山盛りのエビと貝柱をあっという間に平らげた。
これだけ食べれば、体重も増えるはずだと思いながら、くら子は美知のグラスに桂花陳酒を注ぎ、様子をうかがった。
食べながらも、美知はメニューカードになにやら書き込みをしている。
「先輩、何を書いてらっしゃるんですか」
「あ、くら子は知らなかったわね。わたし、今、料理研究家なの。
お店の食べ歩きの記事も投稿しているから、そのためにメモをしているの」
とても会話にはならなかった。
仕方ないから食べることに専念しようと、くら子は北京ダック用の皮に味噌をぬり始めた。
「ところで、くら子、この後、予定はある?」
いえ、べつに、今日は休みですからと、くら子が言い終わらないうちに、美知は、じゃあいいわねと、ひとりで決めてしまった。
何がいいんだろう、ミッチー先輩はあい変わらずだなと思いながら、料理研究家とはいえ、これは食べすぎじゃないの、と思った。
デザートは別腹というが、さすがにもう食べられない。
くら子が手をつけていないマンゴープリンを見て、美知は食べないの、と訊いた。
「これ以上食べると、スカートのホックが吹っ飛びますから」
「くら子は修行が足りないわね。こういう時にはね、ウエストはゴム入りの洋服を着てくるものよ」と、美知はプリーツスカートのウエストを引っ張って見せた。
三駅離れた仕事場へ着くまでの間、美知は、くら子の仕事についてあれこれ質問した。
くら子にも訊きたいことはたくさんあったが、質問に答えるのが精いっぱいで、口をはさむ隙はなかった。
美知の仕事場は、駅前商店街のはずれにある五階建てのマンションだった。
エレベーターで三階に上がり、三〇二号室の前に立つと、美知が眉間にしわを寄せて、くら子、覚悟はいい? と訊いた。
おぼろげながら事態を把握しつつあったくら子は、うなずいた。
玄関から奥の部屋までの廊下にも、床に物が積み上げてあり、かろうじて空いたすき間を飛び石を飛ぶように進んだ。
先輩は毎日こんな飛び石をしているのだろうか。いや、慣れると体が勝手に反応するのかもしれない。
リビングも、本棚や二人掛けのソファーがあるが、そこにも本やファイルや切り抜き、請求書などが散乱し、ミルフィーヌパイのように、層をなしていた。
「ご覧の通りよ。もう何が何だか分からない状態なの。レシピを探そうと思っても、どこに紛れ込んだかわからない。
探しているうちに、どんどん時間がたって。それでも、見つかればいいほうで、見つからないことも多いの。
そこで、また図書館に行ったり、本を買ったりしての、悪循環。そろそろアシスタントを雇いたいと思っているけど、片付けないと仕事もしてもらえないし…」
美知は声をあげて泣き出した。
高校一年生だったくら子にとって、三年生の美知は大人に見え、ただただ怖い先輩であり、声をあげて泣く姿など見たことも無かった。
「仕事をしている時間より、物を探している時間のほうが長いのではないですか」
そうなのよと、ようやく落ち着いた美知は顔をあげて答えた。
「パソコンは使っておられます?」
「ノートパソコンがどこかに埋まっているの」
「箱がたくさんありますけど、中身は本ですか」
「ううん、食器とか台所用品。
年に一度は海外に行って、向うの料理の勉強をしたり、本や台所用品を買ってくるの」
先輩もそれなりに努力をしている。ただ食べているだけではない、それは重要なことだ。
「海外で買ってきたものが全部、箱の中ですか」
美知はおずおずとうなずいた。中華料理を食べていた時の勢いはまったくなかった。
「食器はある程度あれば足りるのではないですか」
「実は、『ミッチーのぐるぐるクッキング』というブログを作ろうと思ってね。それにはレシピと料理の写真を載せるから、色々食器がいるでしょう。だから…」
言い訳するように美知は続けた。
「ぐるぐるクッキングの構想は五年前からあってね。
ぐるはグルメのグルで、レシピだってたくさんあるし、食器もそろえたの。
それで、ブログにレシピを掲載して、本を出して、テレビに出演して、有名になって…」
だんだん声が小さくなった。
五年前に料理のブログを開設していたら、それこそ、今頃はテレビに出ていたかもしれない。
あくまで、かもしれないだが…五年の月日がどれほどの意味を持つのか先輩は理解しているのだろうか。
しかし、この状態でよく何年も仕事をしていたものだと、妙な感心をした。
仕事柄、たくさんのお宅を訪れたが、これほど紙類が多いのは、某大学の教授以来だ。
「片付けようと思われたきっかけは何ですか」
くら子の仕事にも関わることなので、そのことに、一番興味が湧いた。
「ペルー料理のレシピがいるの」
「この中にあるのですか」
「そうなの。1週間後に『アンデスの夕べ』という催しがあって、フォルクローレの演奏とペルー料理の試食会があるの」
「もしかして…」
「そう、その、もしかよ。だから、くら子に来てもらったの」
急に愛想笑いをしながら美知は続けた。
「前からなんとかしなきゃって思ってたのよ。
この前も女性雑誌の『片付けられない女特集』を読んだの。
そこには、床に物がいっぱいあるのはカオスを表していると書いてあったのよ。
このカオスは経済状態にまで影響を及ぼすから、お金が入ってこないのよ。仕事がうまくいかないのはこのせいだなと…」
仕事がうまくいかないのを、床に物が置いてあるせいにするとは…。
「それまでは片付けようとは思われなかったのですか」
きつい調子にならないように気をつけたつもりだったが、美知は明らかにむっとした様子だ。
「失礼ね。毎日のように思ってたわよ。
だけど、どこから片づければよいかわからなくて。
だって、紙の山を移動しようにも空間はないし、切り抜きは捨てられないし…」
「ところで、先輩はなぜわたしに?」
「始めは、あかの他人の方がいいと思ったのよ。恥をかくのは一時のことだから。
だけど、よく考えてみると、その人が『家政婦は見た』みたいに、誰かにしゃべって、それが週刊誌に載るなんてこともありうるでしょ」
それは週刊誌のネタになるほどの有名人になった時の話だろう。
今のところそんな心配は皆無だ。
胸の内とは反対に、くら子は、そうですねと相槌をうった。
「山岸から、くら子の仕事のことは聞いていたの。
だからね、くら子なら秘密を守ってくれるし、安くしてくれるでしょ」
美知は甘えるような声音だったが、却ってすごみがあった。
「先輩でなくても、仕事をしたお宅のことを、あれこれ吹聴することは一切ありませんから」
そんなこと、わかってるわよと、美知はくら子の腕を叩いた。
力は衰えてないし、性格も変わらない、あざにならなきゃいいけどと、ブラウスの上から腕をさすりながら、これからどうするか思案した。
「それでは、明日から、かかりましょうか」
「なんで? 今すぐ取りかかってもらえると思ったのに」
美知のこめかみの血管がぴくぴくしている。
「ミッチー先輩、それは無理です。片づけに当たって、準備もありますし、見積書も出しますので」
「見積書?」
料理研究家に、見積書は存在しないのだろうか。
それとも、これは先輩後輩のサービスだと思っているのだろうか。
仕事をしている人間には、予定があるということを想像できないのだろうか。
「そうです。まさか、先輩は無料でなんて、考えておられませんよね」
「そ、そこまでは、考えてないけど…」
しどろもどろの口調は、言葉とは反対の意思を表している。
「ところで、キッチンはどうなっていますか」
キッチンも、わずかなスペースしか空いておらず、鍋や食器が積まれていた。
ここで、まともな料理ができるのかというくら子の思いを読んだかのように、美知は、わたしはプロだからねと胸をはった。
レストランの厨房を見たことがないのですかという言葉が、喉まで出かかったが、かろうじて抑えた。
やはり、知り合いに対しては、感情が出てしまう。
整理をして欲しいというクライアントなら、なんでもないことが、先輩に対しては批判的になってしまう。
親子、夫婦で片付けについてもめたり、トラブルになるのは、こういう場合が多いのだろう。
他人なら客観的にみられるのに、身内や知り合いだとついつい、非難したり、自分の価値観を押し付けてしまう。
深呼吸をして、仕事を依頼してきたクライアントの一人だと、気持ちを切り替えることにした。わたしもプロだ。
「バスルームはどうなってます」
「くら子、トイレに行きたいの」
「もう、違いますよ。スペースがあるかどうか見たいのです」
「ここではシャワーを浴びるくらいで、ほとんど使ってないの」
やっと、空きスペースが見つかったと、くら子はほっとした。
次は、いつもバッグに入れて持ち歩いているスケールで部屋の寸法を測った。
美知は、レシピを探すのに、なんでこんな事をしなきゃあならないのと、ぶつぶつ言いながら、くら子の指示に従って、寸法をメモした。
何も無ければ簡単な作業だが、紙や本の山を崩さないようにかき分けて、測っていくのは、思ったより手間がかかった。
じっくり紙類を見ると、DM(ダイレクトメール)や新聞の折り込みも多いようだ。
くら子は昨夜、ラジオで聞いた話を思い出した。
アメリカでは、日本以上にDMがたくさん送られるらしく、一生の間に送られてくるDMの量は、八カ月分くらいの膨大なごみの量になるそうだ。
量に恐れをなしていては、この仕事はできない。それに、ミッチー先輩はどうにもならなくて、切羽つまってわたしを呼んだのだから。できるだけのことはしなくては。
「それでは、明日、おうかがいしますので」
「くら子、頼むわね」と、美知はくら子の手を握った。
握力も昔と変わらないんだなあと思いながら、くら子はマンションをあとにした。
とりあえず、必要なものを用意しておこうと、くら子が事務所に戻ると、まろみが仕事をしていた。
「今日は休みなのに、どうしたの」
「くら子さんこそ、同窓会じゃあなかったんですか」
「同窓会もあったけど、その後がね」
「はあ?」
「二つ上の、先輩の仕事場を片づけることになってね。それも、明日から」
「そりゃまあ、急なことで」
「まろみちゃんは、どうして」
「いや、明日朝一番で、打ち合わせに行く水野さんの資料で、足りないものがあったから」
「そうだった、よろしくね。あ、そうそう、予備に置いてあるボックスファイルと、コンテナボックスを使うから」
「なんでまた、そんなに急いでるのですか」
「一週間後の『アンデスの夕べ』のせいよ」
「話がまったく見えないのですが」
くら子は、先輩の美知が料理研究家で、一週間後の『アンデスの夕べ』でペルー料理を作るために、埋もれたレシピを探さなければならないことを話した。
「ネットで調べられないのですか」
「現地の人に習ったんだって。とにかく、何をするにも、片付けないとどうにもならないのよ」
「アンデスの埋もれたレシピ…なんて、神秘的。それにロマンティック。ハリソン・フォード主演だったらもっと良いのに」
「励ましのお言葉、ありがとう」
翌朝、マンションを訪れたくら子は、ハリソン・フォードでなく、美知の寝不足のむくんだ顔と対面した。
「ミッチー先輩、キッチンタイマーはありますか」
「どこかにあると思うけど…」
ふむ、やはりとひとりごちて、くら子はカバンからタイマーを取り出した。
「なんなのよ、それ、卵でもゆでるつもり?」
「残念でした。これで時間を計りながらやります」
お好きなようにと、美知は肩をすくめた。
「まず、一番の目的はレシピを探すことですね」
くら子は念を押した。
「でも、片づけながらでないと、レシピは見つからない」
美知はこっくりとうなずいた。
「それではまず、リビングのこの部分のスペースを畳2枚分くらい空けます」
「でも、ここのものはどうするのよ」
「バスルームです」
「なんで、わざわざそんなことしなきゃあならないのよ」
「本当は、もっと近くにスペースがあれば能率は上がるのですが、ぜいたくをいってられません。とにかく取り掛かりましょう」
くら子は用意していたカセットのボタンを押した。
漫画の[巨人の星]のテーマが流れた。
美知は一瞬ポカンと口をあけ、その後、涙を流して笑い転げた。
「昔、先輩はこの歌を聴くと元気が出るって、替え歌にして歌ってたじゃあないですか」
「くら子、よくそんなこと覚えてたわね」
「一緒に無理やり歌わされたのだから、忘れられませんよ。
とにかく、この曲を聴くと先輩はやる気が出ると思って。
それでは、先輩は、右側の山、わたしは左側、時間は十五分。どちらが早く終わるかです」
美知は学生時代から、負けず嫌いだったので、くら子と競うことになると、急に眼の色が変わり、どさっと抱えて、風呂場に持ち込んだ。
タイマーのぴぴぴという音が鳴る一〇秒前に、三畳ほどのフローリングが見えるようになった。
(2部に続く―)
日曜の昼間、中華料理屋の二階で一八人が集まった。
今回の幹事は一学年上の山岸先輩で、どうしても出て来いと言われたからだった。
学生時代の部活の先輩後輩の関係はいくつになっても、変わらない。
先輩は先輩で、理屈抜きに逆らえない。だから仕方なく参加した。
円卓について、見回しても、誰が誰かわからなかった。
同学年の友人たちとは今でも連絡を取り合っているが、皆、欠席だった。
親の介護だとか、子供の受験だとか、うまい言い訳を考えたらしい。
後ろから肩を叩かれて振り返ると、丸い顔があった。
「くら子、元気そうね」
あの、と名前が出て来ないくら子に、「大和田美知よ。二つ上のミッチーよ。
思い出した?」
え、ミッチー先輩? こんなに太ってたかしら。背丈は昔と変わらないけど、厚みは倍になっているのでは?
「今回は幹事がヤマちゃんだから、くら子を引っ張って来てって頼んどいたのよ」
なんで、という言葉を呑みこんだくら子にお構いなく、美知は隣に座った。
幹事の挨拶と、元顧問の先生が入院中で参加できないことが告げられ、食事会が始まった。
くら子の左隣は空席で、どうやら山岸が、誰もそこには座るなと釘を刺したらしい。
女が一八人も集まった食事会というものがどれほど…であるかは、参加してみないとわからない。
前菜が終わり、ふかひれスープ、エビと貝柱のXO醤炒めと、コースが進んでも、美知は要件を切り出さず、小皿に山盛りのエビと貝柱をあっという間に平らげた。
これだけ食べれば、体重も増えるはずだと思いながら、くら子は美知のグラスに桂花陳酒を注ぎ、様子をうかがった。
食べながらも、美知はメニューカードになにやら書き込みをしている。
「先輩、何を書いてらっしゃるんですか」
「あ、くら子は知らなかったわね。わたし、今、料理研究家なの。
お店の食べ歩きの記事も投稿しているから、そのためにメモをしているの」
とても会話にはならなかった。
仕方ないから食べることに専念しようと、くら子は北京ダック用の皮に味噌をぬり始めた。
「ところで、くら子、この後、予定はある?」
いえ、べつに、今日は休みですからと、くら子が言い終わらないうちに、美知は、じゃあいいわねと、ひとりで決めてしまった。
何がいいんだろう、ミッチー先輩はあい変わらずだなと思いながら、料理研究家とはいえ、これは食べすぎじゃないの、と思った。
デザートは別腹というが、さすがにもう食べられない。
くら子が手をつけていないマンゴープリンを見て、美知は食べないの、と訊いた。
「これ以上食べると、スカートのホックが吹っ飛びますから」
「くら子は修行が足りないわね。こういう時にはね、ウエストはゴム入りの洋服を着てくるものよ」と、美知はプリーツスカートのウエストを引っ張って見せた。
三駅離れた仕事場へ着くまでの間、美知は、くら子の仕事についてあれこれ質問した。
くら子にも訊きたいことはたくさんあったが、質問に答えるのが精いっぱいで、口をはさむ隙はなかった。
美知の仕事場は、駅前商店街のはずれにある五階建てのマンションだった。
エレベーターで三階に上がり、三〇二号室の前に立つと、美知が眉間にしわを寄せて、くら子、覚悟はいい? と訊いた。
おぼろげながら事態を把握しつつあったくら子は、うなずいた。
玄関から奥の部屋までの廊下にも、床に物が積み上げてあり、かろうじて空いたすき間を飛び石を飛ぶように進んだ。
先輩は毎日こんな飛び石をしているのだろうか。いや、慣れると体が勝手に反応するのかもしれない。
リビングも、本棚や二人掛けのソファーがあるが、そこにも本やファイルや切り抜き、請求書などが散乱し、ミルフィーヌパイのように、層をなしていた。
「ご覧の通りよ。もう何が何だか分からない状態なの。レシピを探そうと思っても、どこに紛れ込んだかわからない。
探しているうちに、どんどん時間がたって。それでも、見つかればいいほうで、見つからないことも多いの。
そこで、また図書館に行ったり、本を買ったりしての、悪循環。そろそろアシスタントを雇いたいと思っているけど、片付けないと仕事もしてもらえないし…」
美知は声をあげて泣き出した。
高校一年生だったくら子にとって、三年生の美知は大人に見え、ただただ怖い先輩であり、声をあげて泣く姿など見たことも無かった。
「仕事をしている時間より、物を探している時間のほうが長いのではないですか」
そうなのよと、ようやく落ち着いた美知は顔をあげて答えた。
「パソコンは使っておられます?」
「ノートパソコンがどこかに埋まっているの」
「箱がたくさんありますけど、中身は本ですか」
「ううん、食器とか台所用品。
年に一度は海外に行って、向うの料理の勉強をしたり、本や台所用品を買ってくるの」
先輩もそれなりに努力をしている。ただ食べているだけではない、それは重要なことだ。
「海外で買ってきたものが全部、箱の中ですか」
美知はおずおずとうなずいた。中華料理を食べていた時の勢いはまったくなかった。
「食器はある程度あれば足りるのではないですか」
「実は、『ミッチーのぐるぐるクッキング』というブログを作ろうと思ってね。それにはレシピと料理の写真を載せるから、色々食器がいるでしょう。だから…」
言い訳するように美知は続けた。
「ぐるぐるクッキングの構想は五年前からあってね。
ぐるはグルメのグルで、レシピだってたくさんあるし、食器もそろえたの。
それで、ブログにレシピを掲載して、本を出して、テレビに出演して、有名になって…」
だんだん声が小さくなった。
五年前に料理のブログを開設していたら、それこそ、今頃はテレビに出ていたかもしれない。
あくまで、かもしれないだが…五年の月日がどれほどの意味を持つのか先輩は理解しているのだろうか。
しかし、この状態でよく何年も仕事をしていたものだと、妙な感心をした。
仕事柄、たくさんのお宅を訪れたが、これほど紙類が多いのは、某大学の教授以来だ。
「片付けようと思われたきっかけは何ですか」
くら子の仕事にも関わることなので、そのことに、一番興味が湧いた。
「ペルー料理のレシピがいるの」
「この中にあるのですか」
「そうなの。1週間後に『アンデスの夕べ』という催しがあって、フォルクローレの演奏とペルー料理の試食会があるの」
「もしかして…」
「そう、その、もしかよ。だから、くら子に来てもらったの」
急に愛想笑いをしながら美知は続けた。
「前からなんとかしなきゃって思ってたのよ。
この前も女性雑誌の『片付けられない女特集』を読んだの。
そこには、床に物がいっぱいあるのはカオスを表していると書いてあったのよ。
このカオスは経済状態にまで影響を及ぼすから、お金が入ってこないのよ。仕事がうまくいかないのはこのせいだなと…」
仕事がうまくいかないのを、床に物が置いてあるせいにするとは…。
「それまでは片付けようとは思われなかったのですか」
きつい調子にならないように気をつけたつもりだったが、美知は明らかにむっとした様子だ。
「失礼ね。毎日のように思ってたわよ。
だけど、どこから片づければよいかわからなくて。
だって、紙の山を移動しようにも空間はないし、切り抜きは捨てられないし…」
「ところで、先輩はなぜわたしに?」
「始めは、あかの他人の方がいいと思ったのよ。恥をかくのは一時のことだから。
だけど、よく考えてみると、その人が『家政婦は見た』みたいに、誰かにしゃべって、それが週刊誌に載るなんてこともありうるでしょ」
それは週刊誌のネタになるほどの有名人になった時の話だろう。
今のところそんな心配は皆無だ。
胸の内とは反対に、くら子は、そうですねと相槌をうった。
「山岸から、くら子の仕事のことは聞いていたの。
だからね、くら子なら秘密を守ってくれるし、安くしてくれるでしょ」
美知は甘えるような声音だったが、却ってすごみがあった。
「先輩でなくても、仕事をしたお宅のことを、あれこれ吹聴することは一切ありませんから」
そんなこと、わかってるわよと、美知はくら子の腕を叩いた。
力は衰えてないし、性格も変わらない、あざにならなきゃいいけどと、ブラウスの上から腕をさすりながら、これからどうするか思案した。
「それでは、明日から、かかりましょうか」
「なんで? 今すぐ取りかかってもらえると思ったのに」
美知のこめかみの血管がぴくぴくしている。
「ミッチー先輩、それは無理です。片づけに当たって、準備もありますし、見積書も出しますので」
「見積書?」
料理研究家に、見積書は存在しないのだろうか。
それとも、これは先輩後輩のサービスだと思っているのだろうか。
仕事をしている人間には、予定があるということを想像できないのだろうか。
「そうです。まさか、先輩は無料でなんて、考えておられませんよね」
「そ、そこまでは、考えてないけど…」
しどろもどろの口調は、言葉とは反対の意思を表している。
「ところで、キッチンはどうなっていますか」
キッチンも、わずかなスペースしか空いておらず、鍋や食器が積まれていた。
ここで、まともな料理ができるのかというくら子の思いを読んだかのように、美知は、わたしはプロだからねと胸をはった。
レストランの厨房を見たことがないのですかという言葉が、喉まで出かかったが、かろうじて抑えた。
やはり、知り合いに対しては、感情が出てしまう。
整理をして欲しいというクライアントなら、なんでもないことが、先輩に対しては批判的になってしまう。
親子、夫婦で片付けについてもめたり、トラブルになるのは、こういう場合が多いのだろう。
他人なら客観的にみられるのに、身内や知り合いだとついつい、非難したり、自分の価値観を押し付けてしまう。
深呼吸をして、仕事を依頼してきたクライアントの一人だと、気持ちを切り替えることにした。わたしもプロだ。
「バスルームはどうなってます」
「くら子、トイレに行きたいの」
「もう、違いますよ。スペースがあるかどうか見たいのです」
「ここではシャワーを浴びるくらいで、ほとんど使ってないの」
やっと、空きスペースが見つかったと、くら子はほっとした。
次は、いつもバッグに入れて持ち歩いているスケールで部屋の寸法を測った。
美知は、レシピを探すのに、なんでこんな事をしなきゃあならないのと、ぶつぶつ言いながら、くら子の指示に従って、寸法をメモした。
何も無ければ簡単な作業だが、紙や本の山を崩さないようにかき分けて、測っていくのは、思ったより手間がかかった。
じっくり紙類を見ると、DM(ダイレクトメール)や新聞の折り込みも多いようだ。
くら子は昨夜、ラジオで聞いた話を思い出した。
アメリカでは、日本以上にDMがたくさん送られるらしく、一生の間に送られてくるDMの量は、八カ月分くらいの膨大なごみの量になるそうだ。
量に恐れをなしていては、この仕事はできない。それに、ミッチー先輩はどうにもならなくて、切羽つまってわたしを呼んだのだから。できるだけのことはしなくては。
「それでは、明日、おうかがいしますので」
「くら子、頼むわね」と、美知はくら子の手を握った。
握力も昔と変わらないんだなあと思いながら、くら子はマンションをあとにした。
とりあえず、必要なものを用意しておこうと、くら子が事務所に戻ると、まろみが仕事をしていた。
「今日は休みなのに、どうしたの」
「くら子さんこそ、同窓会じゃあなかったんですか」
「同窓会もあったけど、その後がね」
「はあ?」
「二つ上の、先輩の仕事場を片づけることになってね。それも、明日から」
「そりゃまあ、急なことで」
「まろみちゃんは、どうして」
「いや、明日朝一番で、打ち合わせに行く水野さんの資料で、足りないものがあったから」
「そうだった、よろしくね。あ、そうそう、予備に置いてあるボックスファイルと、コンテナボックスを使うから」
「なんでまた、そんなに急いでるのですか」
「一週間後の『アンデスの夕べ』のせいよ」
「話がまったく見えないのですが」
くら子は、先輩の美知が料理研究家で、一週間後の『アンデスの夕べ』でペルー料理を作るために、埋もれたレシピを探さなければならないことを話した。
「ネットで調べられないのですか」
「現地の人に習ったんだって。とにかく、何をするにも、片付けないとどうにもならないのよ」
「アンデスの埋もれたレシピ…なんて、神秘的。それにロマンティック。ハリソン・フォード主演だったらもっと良いのに」
「励ましのお言葉、ありがとう」
翌朝、マンションを訪れたくら子は、ハリソン・フォードでなく、美知の寝不足のむくんだ顔と対面した。
「ミッチー先輩、キッチンタイマーはありますか」
「どこかにあると思うけど…」
ふむ、やはりとひとりごちて、くら子はカバンからタイマーを取り出した。
「なんなのよ、それ、卵でもゆでるつもり?」
「残念でした。これで時間を計りながらやります」
お好きなようにと、美知は肩をすくめた。
「まず、一番の目的はレシピを探すことですね」
くら子は念を押した。
「でも、片づけながらでないと、レシピは見つからない」
美知はこっくりとうなずいた。
「それではまず、リビングのこの部分のスペースを畳2枚分くらい空けます」
「でも、ここのものはどうするのよ」
「バスルームです」
「なんで、わざわざそんなことしなきゃあならないのよ」
「本当は、もっと近くにスペースがあれば能率は上がるのですが、ぜいたくをいってられません。とにかく取り掛かりましょう」
くら子は用意していたカセットのボタンを押した。
漫画の[巨人の星]のテーマが流れた。
美知は一瞬ポカンと口をあけ、その後、涙を流して笑い転げた。
「昔、先輩はこの歌を聴くと元気が出るって、替え歌にして歌ってたじゃあないですか」
「くら子、よくそんなこと覚えてたわね」
「一緒に無理やり歌わされたのだから、忘れられませんよ。
とにかく、この曲を聴くと先輩はやる気が出ると思って。
それでは、先輩は、右側の山、わたしは左側、時間は十五分。どちらが早く終わるかです」
美知は学生時代から、負けず嫌いだったので、くら子と競うことになると、急に眼の色が変わり、どさっと抱えて、風呂場に持ち込んだ。
タイマーのぴぴぴという音が鳴る一〇秒前に、三畳ほどのフローリングが見えるようになった。
(2部に続く―)