2025年02月09日
私的随喜:最高の10年を過ごす
おはようございます。
2025年に入ってから、よりアクション。決断と行動の日々を過ごしています。
変化に富んだ今の世の中にあって、毎日を平穏に過ごす、というのは至難の業かと感じています。外的要因によって、振り回されないためにも、自身の過ごし方は常に修正し見直していく必要があります。特に五十路街道は気分だけでなく体も重くなっていく、そこを見据えたうえで、国もそうでしょうが、個人としても未来を明るいものにする努力、これが求められています。
今回、テーマに選んだのは「最高の10年を過ごす」。そのポイントのひとつが「計画ではなく衝動」、これです。これまで結構計画重視で生活を回してきました。ただ昨年の努力の甲斐あってか、基盤ができた、生きる路線その道筋を見い出だすことができた、と感じています。
性格であったり、生きる信条、過ごし方というのは一朝一夕では成り立ちません。特にこの二十年で培ってきた食生活であったり家事についての意識、この十年での体調面の健康管理や飲み巡り、さらにこの数年間での心の在り方等々、そして三十五年以上も続いているメロディー至上主義的な生き方、、、。これらすべてが総体として絡み合い、一個人として毎日を生きていく、動いていく、歩く、呼吸する、という現状。その個体が老いを受け入れつつ、どうこれからを愉しんでいくか。そのために「衝動でもって最高な毎日を過ごす」のです。
昨日も、祝い酒を受け取りに酒屋へ向かいました。晴れ晴れした空の下を歩いて酒屋に着いた時に「昼から飲みたいぞ!!!」「今だ、今だぞ!!!」と衝動が起こります。勿論、買いました。そして外の景色を眺めながら日本酒を。結構飲んで、昼寝しましたよ。って、単に「飲みたいだけじゃん!」という突っ込み、ありがとう。
さて。理想論がありつつも衝動で過ごすためには、ある一定のルールというか生活基盤、土台が必要です。そこで僕は昨晩、ひとり閣議会合で決定しました。それは「やらないSNS」です。2018年にfacebookをやめ(それ以前にmixiをやめ)、一時期LINEからも離れたことで、多大な幸福感を感じる日々を送りました。2023年4月からはスマートフォンとパソコン利用の制限、いわゆるプチ・デジタル・デトックスを始め、とうとう2025年からはスマートフォンは外出先のみでの使用を打ち立てました。なかなか、、、実現できていなかったのですが、ちょっと惰性的な投稿になっていた旧ツイッター、あんまり必要なくなってきたなと感じました。その分、自身のホームページの更新であったり、ブログ発信に注力できるのではないか? また、昨晩発案されたものとしては、スマートフォンに係るすべてのやりとり、情報収集は外出先のラウンジで行う、これはとってもシンプルでよい案です。さらに音源のネーミングもラウンジで行い、家ではレコーディング(創作制作)、作詞作曲、そのタイピングのみ行う。つまり世界ブルーに集中する。勿論、がっついて「集中するぞ!」という義務感ではなく、他にもやりたいことは多大にあるため、気が乗らなければ別のことをやればいいのです。少なくとも、整理作業やブログ発信などは、外出先でもできる→家では眼精疲労につながることはやらない→家でのスマートフォンは使用しない。これはかなり有用な施策かと思います。
他には。やはりこれまで「バールに立ち寄る感覚で」で散々書いてきた通りのプラン。つまり、外で青空の下で立って飲む。歩く。です。何故この感覚を重要視しているのかというと、結局のところ幸せというのは太陽の光を感じながら(青空の下で)、悦に浸る(酒を飲む、食事をする、散歩する、話す)ことだったりするからです。昨日、衝動的に日本酒を飲みたくなって買って飲んだのも、やはり幸せ絶頂の気分を味わいました。窓の外では青空が広がり、明るい昼から飲むなんて最高じゃないですか?
これは秘伝というか、秘儀だったのですが、僕が何故、アルゼンチン・タンゴにはまっていたのか、というのも理由がありました。生きる信条にも繋がりますが、「呼吸する」という根本的に生きることを前提したうえで、人類にとっての幸せというのは三大欲求に加えて、「話す」こと、そして「歩く」ことだと思います。そして「話す」ことの発展型が「歌う」ことであり、「歩く」ことの発展型が「踊る」ことなのです。アルゼンチン・タンゴはさらに社交場であるがゆえに会話する=「話す」こともあり、さらに踊る際の誘う緊張感、触れ合い、信頼関係、空間の中の生身、音楽を通しての呼吸など様々な要素が存在しているのです。
「歌う」ということも今後の人生において、どんどんやっていきます。それは人前でどう、という話ではありません。「歌う」そのもの。「歌う」こと自体に対して歓びを感じたいと思っています。歌の中にも呼吸があります。間合いがあります。せめぎ合いもあり、ゾーンに入ったり、そこを崩す面白みもある訳です。そうなってくると歌という音を奏でる器は僕の体そのものですから、楽器である僕の体のケアも大切になってくる。そこで大切なのが呼吸であったり、姿勢であったり、体調管理であり、心の面での充足となると、家族との絆、友との交わり、と僕いち個人=個体ながらも総体的に躍動感を持って過ごしていく。そんな今日。そして明日を過ごし、未来も、その先の未来も躍動感を持って過ごしていきたいと思います。
2025年2月9日 あおきまさと
2025年に入ってから、よりアクション。決断と行動の日々を過ごしています。
変化に富んだ今の世の中にあって、毎日を平穏に過ごす、というのは至難の業かと感じています。外的要因によって、振り回されないためにも、自身の過ごし方は常に修正し見直していく必要があります。特に五十路街道は気分だけでなく体も重くなっていく、そこを見据えたうえで、国もそうでしょうが、個人としても未来を明るいものにする努力、これが求められています。
今回、テーマに選んだのは「最高の10年を過ごす」。そのポイントのひとつが「計画ではなく衝動」、これです。これまで結構計画重視で生活を回してきました。ただ昨年の努力の甲斐あってか、基盤ができた、生きる路線その道筋を見い出だすことができた、と感じています。
性格であったり、生きる信条、過ごし方というのは一朝一夕では成り立ちません。特にこの二十年で培ってきた食生活であったり家事についての意識、この十年での体調面の健康管理や飲み巡り、さらにこの数年間での心の在り方等々、そして三十五年以上も続いているメロディー至上主義的な生き方、、、。これらすべてが総体として絡み合い、一個人として毎日を生きていく、動いていく、歩く、呼吸する、という現状。その個体が老いを受け入れつつ、どうこれからを愉しんでいくか。そのために「衝動でもって最高な毎日を過ごす」のです。
昨日も、祝い酒を受け取りに酒屋へ向かいました。晴れ晴れした空の下を歩いて酒屋に着いた時に「昼から飲みたいぞ!!!」「今だ、今だぞ!!!」と衝動が起こります。勿論、買いました。そして外の景色を眺めながら日本酒を。結構飲んで、昼寝しましたよ。って、単に「飲みたいだけじゃん!」という突っ込み、ありがとう。
さて。理想論がありつつも衝動で過ごすためには、ある一定のルールというか生活基盤、土台が必要です。そこで僕は昨晩、ひとり閣議会合で決定しました。それは「やらないSNS」です。2018年にfacebookをやめ(それ以前にmixiをやめ)、一時期LINEからも離れたことで、多大な幸福感を感じる日々を送りました。2023年4月からはスマートフォンとパソコン利用の制限、いわゆるプチ・デジタル・デトックスを始め、とうとう2025年からはスマートフォンは外出先のみでの使用を打ち立てました。なかなか、、、実現できていなかったのですが、ちょっと惰性的な投稿になっていた旧ツイッター、あんまり必要なくなってきたなと感じました。その分、自身のホームページの更新であったり、ブログ発信に注力できるのではないか? また、昨晩発案されたものとしては、スマートフォンに係るすべてのやりとり、情報収集は外出先のラウンジで行う、これはとってもシンプルでよい案です。さらに音源のネーミングもラウンジで行い、家ではレコーディング(創作制作)、作詞作曲、そのタイピングのみ行う。つまり世界ブルーに集中する。勿論、がっついて「集中するぞ!」という義務感ではなく、他にもやりたいことは多大にあるため、気が乗らなければ別のことをやればいいのです。少なくとも、整理作業やブログ発信などは、外出先でもできる→家では眼精疲労につながることはやらない→家でのスマートフォンは使用しない。これはかなり有用な施策かと思います。
他には。やはりこれまで「バールに立ち寄る感覚で」で散々書いてきた通りのプラン。つまり、外で青空の下で立って飲む。歩く。です。何故この感覚を重要視しているのかというと、結局のところ幸せというのは太陽の光を感じながら(青空の下で)、悦に浸る(酒を飲む、食事をする、散歩する、話す)ことだったりするからです。昨日、衝動的に日本酒を飲みたくなって買って飲んだのも、やはり幸せ絶頂の気分を味わいました。窓の外では青空が広がり、明るい昼から飲むなんて最高じゃないですか?
これは秘伝というか、秘儀だったのですが、僕が何故、アルゼンチン・タンゴにはまっていたのか、というのも理由がありました。生きる信条にも繋がりますが、「呼吸する」という根本的に生きることを前提したうえで、人類にとっての幸せというのは三大欲求に加えて、「話す」こと、そして「歩く」ことだと思います。そして「話す」ことの発展型が「歌う」ことであり、「歩く」ことの発展型が「踊る」ことなのです。アルゼンチン・タンゴはさらに社交場であるがゆえに会話する=「話す」こともあり、さらに踊る際の誘う緊張感、触れ合い、信頼関係、空間の中の生身、音楽を通しての呼吸など様々な要素が存在しているのです。
「歌う」ということも今後の人生において、どんどんやっていきます。それは人前でどう、という話ではありません。「歌う」そのもの。「歌う」こと自体に対して歓びを感じたいと思っています。歌の中にも呼吸があります。間合いがあります。せめぎ合いもあり、ゾーンに入ったり、そこを崩す面白みもある訳です。そうなってくると歌という音を奏でる器は僕の体そのものですから、楽器である僕の体のケアも大切になってくる。そこで大切なのが呼吸であったり、姿勢であったり、体調管理であり、心の面での充足となると、家族との絆、友との交わり、と僕いち個人=個体ながらも総体的に躍動感を持って過ごしていく。そんな今日。そして明日を過ごし、未来も、その先の未来も躍動感を持って過ごしていきたいと思います。
2025年2月9日 あおきまさと
sekai_prune at 10:37│Comments(0)│私的随喜