The mouri's private garden with japanese maple 86 @岡山・後楽園 taken by Satoshi 104 DSC00347 DSC00251

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「わたし」の「しあわせ」とはなんぞや

それは、自分が誰なのかを感じられること
“じぶん”を通じて、誰かの顔が晴れること
“これ”のために“今日”があったのだと感じられること※1

“じぶん”の問いがあって、
そこからつながる仲間がいること

※1 運命論だけでなく、フローの意味でも


しあわせとはなんぞや

をプラットフォームに、
自己変容から、地域・世界変容へ。
3つの実験的問題解決プロジェクトを進めています。 あと2つの詳細はのちほど


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2016年03月01日

「しあわせとはなんぞや」を結晶化する

久しぶりにブログを書いていて、自分の思いを表現することにちょっとどきどきしています。

今は2016年。

2012年から更新することができずにいました。
この記事に気づいてくださるみなさんもそうではないかと思いますが、ダイナミックな変化が私のもとにやってきて、その日その日を暮らすのに精いっぱいで、外に向けて表現できる言葉を失っていました。
それでもこのブログは大事な場所で、大切な交流が起こる場所として、ずっと胸にありました。
書くこと、そして読んでいただいてフィードバックをいただくことで、自分に気づくことができた場所だと思っています。

大事に育ててきたこのブログに区切りをつけようと思います。


しあわせとはなんぞや。

しあわせって何だろうと疑問に思い、始めたこのブログで、書くこと、みなさまとの交流を通じて私が気づかせてもらった幸せとは何だったのでしょうか。

それは、
私やあなたのありのままの姿に気づいていること。
私たちの交流があること。
ちょっと難しいチャレンジに取り組んで夢中になっていること。
そうしたことが自然に起こるためのポイントに気づいていること。

こうしたことではないかと思っています。

そして、「それを実際に生きる」こと。



ブログの締めくくりにはどうしてもこのことに触れたかったので、2012年からの4年弱という長いブランクが生まれてしまいました。

今ようやく言葉として結晶化できて、ほっとしています。


どれだけの方が、今このブログを思い出してくださるかな。

8年間(と4年弱)に渡り、ブログに訪れて、読んでくださり、フィードバックをいただき、たくさんの心温まる交流をありがとうございました。

「あのとき」という時間を軽々と超えて、今に蘇ってくる交流がたくさんあります。それは今も私の隣に、私の体の中にあります。


いつかまた、

時間を経て変化した私たちとして、

変わらないままの私たちとして、

そして、それらすべてが宿っている、ありのままの私たちとして、


またお目にかかりましょう。


そのときが楽しみです。





2016年3月1日

「しあわせとはなんぞや」 執筆者




  
Posted by sekikonkon at 21:12Comments(0)TrackBack(0)


2012年08月25日

ぐるりと回って、息を吹き返したもの

もう必要ないかもしれないと思っていた、心理学大事典を開いた。
大事典というとたいそう立派なもののように響くが、読み物事典なのである。
何千何万とあるだろう心理学の図書を読むのは至難の技だが、それらをうまくまとめてその奥に誘ってくれるの読み物。
だから読んでいておもしろい。
気づきがある。

これを購入した当時は、フロイト用語を覚えようとにらめっこし、いろんな障がいの特徴を覚えようと想像力を働かせていた。
が、いっこうに身体に入ってこない。
覚えたと思っても、頭の中でまたばらばらにほどけていく。
多分それらの考え方が合っていなかったのだろう。

今は、大辞典のメインの部分を読み飛ばし、巻末近くのテーマが面白くて仕方ない。
ユング、個性化の過程、芸術や宗教の関連、踊り、演劇、変性意識など。
どれも昔は読んでも意味がわからなかったものばかり。
それらが身体の中でどんどんつながっていく。

時が移りゆくということは、こういうことかと思う。
「過去の遺物」が息を吹き返した。
これで一生懸命買った昔の自分も報われる。
でも一番報われるのは、読み手を失っていたこの事典。
長い間放置していてごめんね。
そう思いながら、天(小口の上)につもった細かなほこりをふきとった。

あと息を吹き返したといえば、コミュニケーションの方法がある。
最近はいろんな場面で文字でのやりとりが増えた。
もともと突然時間を中断される電話は苦手だったし、テキストメッセージは時間を選ばずに便利で効率的だと思っていた。

だけど本当にそれだけだろうか。
時間を選ばないのは大きな長所だけど、文字でのやりとりが長くなるにつれて、
感情が固形になり、電子機器に触れる時間が増えて身体が固まることがわかってきた。
パソコンの大きな画面を開いた瞬間に、何を思っていたかが無機的なものに変化する感覚を覚えたことはないだろうか。
携帯のより小さい画面に変えて文字入力をしても、知らず知らずのうちに何か大事なことを削っている。

最近、これはいけないと感じている。
目を見て話すこと。時間を合わせること。
極力パソコンに向かう時間を抑え、手書きにするなど工夫をしている。
パソコンに向かう時間は、それらを携えて、あくまで事務作業なのだと感じている。

思い返してみれば、子どもと会う仕事をしていたときは、どれだけ感情や身体がダイナミックに動いていたことだろう。
昨日はあんな様子だったけれど、今日はどうだろう。そんな続きがある。
心の機微は会ってわかるものなのだ。
表情や雰囲気が語るものがある。
文字にそれらを含ませるのには、根本的に限界がある。
うつむいた沈黙が多くを語ることがある。
表情が輝く瞬間がある。

そういう心の細やかな動きを、河合隼雄さんのエッセイを読んでいて思い出した。
それを感じているのが、血が脈打つ感覚ではなかったか。

文字でのやりとりへの過信。

声を聞き、目で見、体で感じながらコミュニケーションをする。

昔は当たり前に大事にしていたことだった。

バランスが傾きかけていたことに気づいた今、そんな反省と気づきの道を歩いている。

うまく使い分けたいものです、はい。



  
Posted by sekikonkon at 01:19Comments(0)TrackBack(0)


2012年07月12日

まとまる声と個々の声

a94b4489.jpgコミュニティーオーガナイズより。

「グループ内のダイアログを越えて、力と資源を手にするために、コミュニティーを展開するのと同じくらい、個々の声を共有していくことに焦点をあてるのです」

プロセスワークと重なる気がして、大事なことだなと思う。
もっとも、プロセスワークでは、力を手にするんじゃなくて、気づきを得るのが大事なんだろうけど。

自分の中から"声"を見つけるのも、特にダイナミックに場や感情が動くときは大変なのに、
グループとなるとさらにどうなるんだろうと思う。

そうだよなぁと感動しつつ、これを実現するために、心血注ぐんだよなぁと思っております。
話し方、在り方、起こっていることに気づき続ける。

声を寄せあって合意を作り出したり、
意図しない合意や場の雰囲気から個人の声を見つけたり、
そういう双方向の動きが役立つのかな。


ちょっと思ったことでした。
  
Posted by sekikonkon at 17:12Comments(0)TrackBack(0)


2012年07月10日

"そっとしゃべったっていいんですよ;)!" -「カバンの中を開けてみる」

"そっとしゃべったっていいんですよ ;)!"

「内向的な人の持つ力」


この動画を見たことありますか?
どう感じますか?
どう思いましたか?

私は偶然テレビで見ましたが、私はもしかするとこんなタイプなのかもしれない、と思いました。
いつも本がキャリーケースに入っているし、中学生のころ、頑張ってはしゃいでいたときもありました。
これに気づいたとき、なぜかすごくほっとしました。

もしかすると心の奥底では、自分のこうした気質に気づいていたのかもしれない。
だけど、そんな自分を表現したり、そのままでいるのが怖かったのだろうと思います。

でもたくさんの助けを借りてきて、もうそういうのは終わりにしようと思います。

「大きな変化というのは、コミュニティが全体でひとつとなってできるものです」
これは多分多様性に開かれていて、共存しているという意味だと思います。
("deep democracy of open forums")

私はこれをお茶碗を洗う時や庭仕事をするとき、いつもの川沿いの道を歩く時に、最近よく思い出しています。

この数年は、何者でもない自分でいようとしていて、心理学の世界を出て、
アート(創造性へのアクセスの仕方)や自然(知恵の宝庫)、
経済(世の中の仕組み)、
東洋と西洋の考え方や見方の違い、
年配の人の知恵、街づくりといった世界を旅していました。

心の中にモンスターがいたから、その道は簡単じゃなくて、落ち込んだりもしました。
リスクをおっていたから、何度も何度も「この道でいいだろうか?」と自問自答しました。

でも今はそんな道を受け入れ始めていて、いろんな人と話せてうれしいし、
世界にはいろんな見方や真実があるんだとわかりかけています。

だから今からは、自分自身になろうと思います。
自分の本質をしっかり使っていくことが大事なんだと思います。
それが社会に貢献する方法ではないかと思うのです。

私もオーケー、あなたもオーケー。

心を開いて、そっとしゃべってみる。

そんなことを思っています。


  
Posted by sekikonkon at 17:23Comments(0)TrackBack(0)


2012年05月17日

声をかける

野菜をかついで信号が青になるのを待っていたときのこと。

自転車を押すおばあさんが、私に話しかけた。
「ここの信号は長いねぇ」

私「ほんと、長いですねぇ」

日傘をさしかけようかなと思ったけど、
びっくりさせても悪いので、そのまま時がすぎる。

するとおばあさんがまた独り言のように言う。
「今日は暑いねぇ」

私「ほんと、暑いですねぇ。今日は暑くなりそうですね。」

すると信号が青になった。

一緒に横断歩道を渡って、「今朝は寒かったねぇ、こたつもストーブもなおしたからさみしいねぇ」と話をした。

いつもよりゆっくり歩いて、日傘をさしかけた。

おばあさんの笑顔に私は元気をもらっていた。

横断歩道を渡り終えて、「さようなら」と別れた。

気分がぽっと温かくなっていた。


それから私は歩きながら思った。

一言。一言声をかける勇気が大事なんだ。

応答がないかもしれないけど、一言声をかけること。

年を重ねると、そういうふわりとした関わりがうまくなれるのかな。


0番線(駅前広場建設)のワークショップで、建築家の方が、
「駅をハードだけでなく、ソフトもよくしたい。
駅に説明板があるだけでなくて、声かけがある、とか。
そういう駅になればなぁと思っています。
それにはみなさんのお力が必要なんです。」

そう話していたことを思い出した。

私は小さな小さな街にいて、
ときどき今日のおばあさんと話したみたいに、
思わぬ出会いに元気をもらったり、励まされたことがある。

それは私だけではないはずで、実際にそんな記事を読んだことがある。
>>こちら

ロンドンという街は、大都市でありながら、
思わぬ出会いに話の花が咲くことがしょっちゅうだった。

それはすなわち、希望、だった。

どんなに憂鬱な気分でも、外に出て歩けば、誰かに会えるかもしれない、という希望。

そんな気持ちのいいことがよく起こる街にどうしたらできるのかな、と思う。

まず私は、一言発する勇気かな。

笑顔と、オープンな心。


ご近所さんに、
「ワイルドストロベリーがたくさんあるけど、もうありますか?」って聞いてみようかな。


追記’;年代を超えて女性同士で集まれるってどうなんだろう。
70代のおばあさんや、40代の女性に出会うことが多くて、
いろんなことを教えていただいている。

べったりする必要はないし、
磁場になるものは、身ひとつでできるものがいいなと思う。
まずは私も発信しなきゃね。

例えば、これまで見た中だったら、コーラスとか?(ギャレスの影響だ…!)

庭とか?


悪魔は孤独な人につくというけれど、本当にそうだと思う。

あなたが必要です、私はここにいて楽しい、
そう思える関係性があれば、いいなと思うのだけど、どうしよう?

場所は菜香亭とか、知っている人だったら住み開きもできるかなと思うんだけどな。

  
Posted by sekikonkon at 20:15Comments(0)TrackBack(0)