埼玉の石油王の朝一コラム

その日朝一番に感じたことを淡々と綴っていきます。

「おらしょ」をめぐる長崎旅行の番外編を多少面白く書こうかと思っていたのですが、その前に同様に隠れキリシタンの勉強と思って、巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙―サイレンス―」を観てしまい、感想を書きたくてたまらなくなったので、そちらを優先させてもらいます(笑)


ちなみに、さすが(?)ドキュメンタリー映画、封切り1ヶ月で早くも今週がラストの映画館が増えてきましたので、観覧はお早めに。以下ネタバレ含みますので、未鑑賞の方はご注意下さい。
また、一部感想は筆者の推論を含み、時代考証などを正確に反映していない可能性があります。



映画の原作は、遠藤周作の名作「沈黙」です。
恥ずかしながら、私はいまだに原作を読んだことがないのですが、監督のマーティン・スコセッシ氏は28年前にこの作品と出会い、ずっと映画化の構想を温めてきたようです。

本作は、キリスト教が人々の救いになると信じる宣教師が棄教(キリスト教を捨てること)に直面した時の苦悩を描いたものであり、潜伏キリシタン(用語は前回ブログを参照)の悲惨な運命と相まって、人間の心情の揺らめきが細やかに描かれている所に最大の魅力があるのは、映画を鑑賞した人の多くが持つ感想でしょう。

私もその点については異論がないですが、別の視点から非常に興味深いことを発見したので、その点をお伝えします。

1.日本人的官僚主義
作中、潜伏キリシタンを取り締まる役人がこんなことを言うシーンが何度もあります。

「踏絵は形式だけ踏めばよい。心がこもって無くても良い。踏みさえすればお前は自由だ、お辞儀より簡単であろう」
「こんな暑い日に炎天下でこっちも大変なのだ。お互い早く楽になりたいであろう」
「こちらも仕事で仕方なくやっているのだ。お前が何を信仰しようと私にはどうでも良いことだ」

場面を観ないとちょっとイメージが湧かないかもしれませんが、下級役人が踏絵を踏ませる場面で百姓に言ったり、イッセー尾形さん演じる井上筑後守などの偉い人も扇子で仰ぎながら面倒くさそうに、潜伏キリシタンや主人公のアンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴ神父にこのようなことを言ったりするのです。

もちろん、映画なので時代考証よりも誇張されている部分はあるかもしれません。
でも、なんでこんなセリフが何度も出てくるのでしょうか?日本人の宗教に対する無知、無関心を誇張するため?
もちろんそういう意図もあったかもしれません。ただ、別の場面で井上筑後守がロドリゴ神父に
「そなたは日本の仏教のことを何も分かっていない」
という発言をしており、表層的な日本人像を描いただけではないように思います。

一つの考察として、このようなことが当時日常茶飯事だったのではないでしょうか。

潜伏キリシタンの弾圧というと、拷問や処刑などの苛烈な描写ばかりに注目が集まりますし、実際そういうことは行われていたのでしょうが、実は当時の取り締まりは、普段はそこまで劇画チックではなかったのではないかと考えるのです。

たとえば牢番役とキリシタンの囚人が「どこの村出身か?」などと雑談しているシーンは印象的でしたが、一般的に考えても、役人や奉行所では他の仕事もあるでしょうし、潜伏キリシタンの取り締まりばかりに時間をかけられないでしょう。
それに今のように犯罪者保護の精神がなかったとは言え、極刑である死刑や拷問などを多数の人に行うのはそれなりに労力やコストがかかりますし、役人自身の心理的負担も大きかったと思われます。

浅野忠信さん演じる通訳の武士が、潜伏キリシタンを海に放り込んで拷問する場面で
「何回見ても嫌なものだ」
とロドリゴ神父に言うのですが、これは案外本音であったように思います。
(現在、死刑執行の際には3人が同時にボタンを押すことで罪悪感を薄めるそうですが、人間の心情は時代が変わってもそう変わらないと思います。また戦国時代から既に数十年が経ち、武士も人を斬ることに徐々に抵抗を持ち始めた時期だったのではないかと思います)

またやや突飛な話ですが、「死刑にし過ぎて人口が減ると年貢収入に影響する」という経済的な理由もあったのではないかと考えます。

当時、九州地方に多かった外様(とざま)大名(関ヶ原の戦いで徳川家の敵方についた人たち)にとって、幕府から課された参勤交代(藩と江戸を定期的に往復すること)のコストは馬鹿にならなかったと考えられます。それが狙いでもあったのですが、九州などの辺境地の外様大名に遠路はるばる江戸を往復させることで、藩財政を困窮させて反乱ができないような統制システムを幕府は作っていたのです。

そうすると、(よほど嗜虐思考を持つ藩主でない限り)百姓から反感を買ったり、処刑者が増えて人口が減ることは年貢収入減少など藩の財政にとってマイナスになると考えるはずです。
一方、禁教令を取り締まらないなど幕府からの命令に逆らうことは、外様大名にとっては即お取り潰しの危機に直面する。

そうなると必然的に「形式だけでも踏絵を踏ませて、取り締まったことにしておきたい」という思考が働くのではないでしょうか。

ここに日本人の官僚的思考の端緒が見られるように感じ、大変興味深いのです。



やや話がそれますが、私の知り合いからこんな話を聞いたことがあります。

ある人が車で追突事故を起こしました。幸い相手のケガは大したことなかったのですが、人身事故ということで警察で取調べを受けます。
警察官は面倒くさそうに
「なんで事故ったの?よそ見してたの?」
と聞いてきたので、彼は正直に
「いや、疲れてて眠くてウトウトしてました」
と答えたそうです。すると警察官はさらに面倒な顔になって
「あのさ~、よそ見してたんじゃないの?ウトウトしてたって調書に書いちゃうよ?」
と言ってきましたが、正直者の彼は
「いや、僕は疲れてました。ウトウトしてたので、よそ見はしてないです」
と押し通しました。
そして翌日以降、何日も取り締まりを受け、最終的に警察官から
「過労運転で起訴されれば、免許取り消し(免停よりも重い)だから」
と脅されたそうです。

裏事情を話しておくと、単なるよそ見運転であれば、ぶつかった瞬間にどういう行動を取ったか(「ちょっとカーナビ見てて気づいたらぶつかってました」等)を調書に記載すればいいだけなのに、居眠り運転だと「どこから眠気があったのか」を記録と記憶に基づいて記載し、かつその裏付け捜査(「眠気が襲ったのでコーヒーを買った」と証言すればそのコーヒー購入の証拠を突き止めるなど)をする必要があり、捜査官にとって大変な作業が増えるのです。
加えて、過労運転の疑いがあれば、よそ見運転(安全運転義務違反)よりも処罰が重いことから慎重な捜査が求められますし、証拠不十分で不起訴処分になったとすればそれを決裁した上司の責任問題にも発展するでしょう。

日本の形式(文書)を重んじる文化の象徴とも言える話ですが、これって潜伏キリシタンの取り締まりに酷似していると思いませんか?

「とにかく形式だけでいいから踏めよ!こっちもお前を処刑するとか面倒なんだよ!」
「いや、私は神への忠誠心がありますから。殺したければどうぞ」

実はこんなやり取りが、禁教下の当時の日本で結構行われていたのではないか。
それはひとえに、現代の官僚主義に通じる形式主義が当時から横行していたことの証左でもあるのですが、その根源が仮に参勤交代や年貢などの「経済的理由」にあるとしたら、それが「信仰」と本当に相容れなかったのかどうか考えるのは一つの興味深い考察であるように思います。

長崎旅行で黒島に行ったのですが、この島の潜伏キリシタンに対して地元の寺院の黙認もあったそうですが、取り締まりは形式的だった(踏絵を踏ませるだけ)ようです。ある意味お互いの経済合理性を取り、役人とwin win(give and take)の関係になったとも言え、潜伏キリシタンの一つの特性として挙げられるように思います。(ここはもう少し考察が必要かもしれません…)

だいぶ長くなってしまいました(^^;)
続きは後半で…

今日も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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千原英喜 混声合唱のための おらしょ を歌うことをきっかけに、長崎に取材旅行に行って来ましたが、今回で最後のレポートになります。現代まで続くカクレキリシタンの文化が及ぼした影響と千原先生の「おらしょ」を歌う/聴くにあたっての考え方を整理してみました。
なお、一部に筆者個人の見解、推論を含んでいます。なるべく客観的な記述を心がけておりますが、必ずしも学術的に確立された意見ではないので、その点ご了承の上お読み下さい。(特定の宗教に強い信念をお持ちで、他の見解を受け入れることに抵抗のある方は読まれないことをおすすめします)

6.カクレキリシタンとカトリック教徒



前回のブログでカトリック教徒に復活する人がいる一方で潜伏キリシタン時代の文化を捨てずに守ってきた人たち(カクレキリシタン)がいると説明しました。
では、カクレキリシタンとして独自の文化を守り続けてきた人々とカトリック教徒の人達は、どういう関係性を築いて今日まで来たのでしょうか? 
これに関して、現地のとあるカトリック教徒の方から興味深い話を聞きました。
その人曰く「自分たちカトリック教徒は禁教令解禁以降、洗礼を受けて正式なキリスト教徒として認められた。だが、カクレキリシタンの人達は古い風習に拘り、カトリックに復活できなかったのだ」と。
そしてまた別の人は「教会の掃除やお祈りなどに不真面目な信者を「カクレ」と揶揄することがある」とも言っていました。

もちろんこれは一部の人達だけなのかも知れません。でも、キリスト教は基本的には唯一の神を信じるものであること、カトリックは古来より厳格な教義のもと、ヨーロッパ諸国の植民地政策の手段の一つとしても利用されてきたことなどを考えれば、カクレキリシタンを同じキリスト教徒ではなく、「他の」宗教とみなす(そしてそれが侮蔑、対峙の対象となる)人がいてもおかしくはないでしょう。
(お断り:そのような対応を批判しているわけではありません。一つの客観的推論として申し上げているに過ぎず、カトリック等に対して宗教的な否定を試みているわけではないので、誤解なきようにお願いします) 

勿論、生月島などではカトリックの教会がかつての殉教地に建設される一方、カクレキリシタン文化も残っているので、共存している地域もある(あった)はずです。 ただ、現在はカクレキリシタンの文化は生月島や五島列島などごく限られた辺境部に残るに過ぎないことを考えると、真の意味での「共存共栄」とはならず、多くの地域ではカトリックや仏教に取って代わられた、もしくは細々と続けられたものの、過疎化等により自然消滅してしまったと考えるのが自然ではないかと思います。

 江戸時代の禁教の歴史の中、「潜伏キリシタン」だった人たちは、抑圧の日々をたくましい組織力で切り抜けてきました。そして明治時代にようやくその軛(くびき)から開放されたのも束の間、カトリック教徒になれなかった人たちは、多数派のカトリック教徒や仏教徒など他の宗教から時に差別や抑圧を受けながら「カクレキリシタン」というレッテルを貼られて細々と活動を続けざるを得なかった。

私は「隠れキリシタン」という言葉に、江戸時代の抑圧の歴史と、明治以降の喪失の歴史、二つの歴史を感じるのです。
一般に隠れキリシタンというと、前者の抑圧の歴史、しかもその中でも「迫害の悲惨な歴史だけ」を取り上げる場合が多いでしょう。
だが、本当にそれだけなのでしょうか?

抑圧の中にあってもたくましく生きてきた、雑草のような組織力
禁教令解禁以降のカトリック教徒にとっては輝かしい復活の日々も、カクレキリシタンにとっては自らの信じてきたものが徐々に薄れていく、 ある種の喪失を感じる日々
そういった多面的な性質も隠れキリシタン(敢えて漢字で表記します)にはあったのではないか。
長崎への旅行を経て、今はそんな気持ちになっています。

翻って、千原先生のおらしょを読むとき、そこには決して隠れキリシタンの悲劇的な側面だけが表されていないことに気づきます。 時に舟歌や子守唄など、土着の風習を取り入れながら、また時に「正統派」のキリスト教としてのグレゴリオ聖歌などを取り入れながら、時代や場所、登場人物それらが複雑に絡み合って楽曲が構成されています。
それでは最後に、千原英喜 混声合唱のための おらしょを包括的に振り返りながら、幾つかのヒントとなるような点を解説して、このブログを締めくくりたいと思います。

7.混声合唱のための「おらしょ」 [ 千原英喜 ]

第一楽章
冒頭、どこからか聞こえて来る「Alleluia」の響き。これがラテン語で表記されていることの意味などを考えてみると面白いかもしれません。

そしてその後に朗々とテナー先行で歌われるのは五島ハイヤ節。
解説にもある通り、ハイヤ節は元々熊本県天草地方(1637年の天草・島原一揆が起こった地)の酒盛歌(牛深ハイヤ節)が起源と言われています。そしてそれが色々な港や島々を転々とする船乗りによって歌い継がれてきたことなどにどこか暗喩めいたものを感じます。
第三楽章にも出てきますが、「儂が様」という歌詞。英訳では「Our Lord」となっていますが、長崎地方の潜伏キリシタンは、殉教地などに「●●様」とつけて崇拝する風習があったそうです。もちろん歌詞の本来の意味は海神様を祀ってのことだとは思いますが…
「おらしょ」にまつわる歌詞が全く出てこない一方、酒盛唄をモチーフにしているはずなのに、どこか寂しげな曲調の舟唄で物語が幕を開けます。

047生月島の史跡
【生月島の史跡 ダンジク様、サンバブロー様】

第二楽章
解説には「幻視」という言い方がされています。
Kyrie, eleisonを意味するおらしょの歌詞が歌われる冒頭に続き、祭りのような曲調の「ぐるりよざ」、そしてラテン語の「gloriosa」。解釈は様々だと思いますが、私には色々な時代の色々な人達の歌声が耳に響いてくるようでした。
隠れキリシタンとは全く関係ないのですが、私はこの「ぐるりよざ」を聴いたとき、何故か幕末の「ええじゃないか運動」を思い起こしました。
142オラショ
【アメマリヤを歌ったおらしょ。このように書物に残されたのは明治以降と言われています。(平戸キリシタン資料館所蔵)】

中盤から始まる長い口上の「けれんど(Credo)」。その熱狂的な曲調には潜伏キリシタンのどのような思いが込められているのでしょうか…

150けれんど(Credo)
【けれんどの歌詞(平戸キリシタン資料館所蔵)】

第三楽章
長崎行きの前までは、私はこの第三楽章の曲調を理解出来ませんでした。でも今は、この第三楽章はやはり千原英喜 混声合唱のための おらしょの締めくくりに相応しい曲だと思っています。

冒頭の「オロロン」。解説では子守歌に共通するあやし言葉とのことですが、その他北海道地方に生息する海鳥を「オロロン鳥」と言ったり、海鳴りを想起させる擬音語でもあります。
そしてこの楽曲で唯一の固有名詞である「獅子」が出てきます。
獅子町、そして名前的につながりがあると思われる根獅子浜(ねしこはま)は平戸島の西岸、本州の最西端と言っても良い場所に位置しています。
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【獅子、根獅子浜の位置(赤丸部) 出典:google map】

長年の地殻変動により、岩肌がむき出しの地形が鋭い急斜面の崖を作っており、私が訪れた時は天候も不安定で、海からの強い風が本当に「オロロン」と鳴る叫び声のように聞こえました。

平戸島の西岸、獅子や根獅子近辺はカクレキリシタンの文化を色濃く残していましたが、地形的な問題もあってか、人の往来も少なく貧しい地域だったようです。明治開国後も
「獅子、根獅子、高越(地名、高声とかけている)あげてもの言うな、飯良が来たら口ゃ堤(地名、噤むとかけている)」
と言われて差別されていたようで
(出典:
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/chihara.html
根獅子では10年ほど前に集落としてカクレキリシタン文化を継承することを取りやめてしまいました。

そんな寒村に江戸時代は多くの潜伏キリシタンが弾圧を受けながらも生き続け、明治以降徐々に廃れていくカクレキリシタン文化を目の当たりにしながら、細々と暮らしている人々が歌い継ぐ「泣き歌」。
その気持ちを推し量ることは難しいですが、「仏の前でね ひとつ歌えば 供養になる」という歌詞に私は例えようもない哀愁を感じるのです。
104獅子町付近より
【獅子町付近。県道19号線より】

そして、突如テナーソロで始まる「ダンジク様の歌」と「サンジュワン様の歌」。

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【出典:生月島島の館】

ダンジクとは暖竹と書き、生月島の地名で竹林が覆い茂った場所と言われています。
禁教時代に弾圧を逃れてこの地に隠れ住んでいた(五島に逃げる途中だったとの説もあり)親子3人が、子供が見つかってしまい(逃げる途中で子供が捕らわれたとの説もあり)、見捨てることが出来ず3人とも処刑されたという悲しい伝説があります。
そんな今は苦しい「涙の谷」だが先には「パライゾの寺」が、必ず天国があるだろうと祈る家族3人の気持ちは如何ばかりだったか…

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【ダンジク様の史跡 出典:http://itsumi.citykobe.jp/201208nagasaki/03/index.html

そして、サンジュワン様の歌は世界遺産候補の登録史跡にもなっている、生月島の東にある「中江ノ島様の歌」とも言われています。ここは禁教時代に生月島の潜伏キリシタンを処刑する島だったそうで、ジュアン坂本左衛門とジュアン次郎右衛門などが代表的な殉教者であることから、「サン(聖)ジュワン様」と呼ばれています。

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【生月島の殉教史跡。青丸がダンジク様、赤丸がサンジュワン(中江ノ島)様(生月島島の館所蔵)】

ジュアン坂本左衛門と共に処刑されたダミアン田口は、自らが処刑される島に向かう舟の漕手となることを役人に申し出たそうです。その時、舟の上から島の風景を見て、
「なんて美しい島なのだろう」
そう感じながら、この歌を歌ったと語り継がれています。
切り立った崖(高き岩)から流れ落ちる水(泉水)。
その風景の先に彼は何を見ていたのでしょうか…
現在も中江ノ島は、生月島のカクレキリシタンの方々の聖地として、お水取りなどの行事が行われています。

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【中江ノ島(出典:http://oratio.jp/p_resource/nakaenoshima)】

そんな潜伏キリシタンの伝説を慟哭のように歌い継いだ後、舞台は再び獅子町の民謡に戻ります。

「獅子はよいところ」という穏やかな語り口調に皆さんはどんなことを感じるでしょうか。

そしてどこからか聞こえてくるAlleluiaの響き…

ある種の静謐の中で曲は終わりを迎えます。

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曲の意味する所やそれを解釈するのは全て指揮者、歌い手、そして聴き手である皆さんに委ねられています。千原先生自身もその解説の中で、「宗教的背景に固執することなく、自由闊達な精神での演唱を目指して」もらいたいと語られています。
このブログの目的は、この楽曲に関する統一的な解釈を押し付けることではなく、皆さんがこの曲を歌い、聴くにあたってのヒントとなるような事実をご紹介することでした。

是非、皆さんが心に抱いた「おらしょ」の響きを、決して一面的でなく多層的な音として紡がれることを祈っています。


旅の終わり、私が降り立った根獅子浜の海岸には強い海風が吹きすさんでいました。
風に耐えながら遠くの島々を眺めていると、ふと一筋の光が差し込んできたのです。
それはまるで遠い地からここまでやって来た私を優しく包み込んでくれるようでした。
106獅子町付近より
 
最後までお読み頂き、ありがとうございました。機会があれば、番外編としてその他旅行の写真を掲載したいと思います。
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千原英喜 混声合唱のための おらしょ を歌うことをきっかけに、長崎に取材旅行に行って来ましたが、いよいよレポートも第5弾、現代までつながっている隠れキリシタンの謎に迫ります。

5.もう一つの隠れキリシタン



1865年に大浦天主堂で歴史的な信徒発見があって以降、多くの潜伏キリシタンが洗礼を受けて本当のキリシタンであるカトリック教徒に復活しました。
この「復活」という所がミソなのですが、長崎では多くのカトリック教徒が、「キリスト教に復活した」という言い方をしています。私が訪ねた黒島にも「信仰復活之地」と呼ばれる記念碑がありますが、これはキリスト教の宣教師により潜伏キリシタンが洗礼を受けた記念に建てられたそうです。

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【信仰復活之地 記念碑(黒島)】

この「復活」という言葉、キリスト教でいうところのイエス・キリストが処刑された後三日目に復活したことになぞらえているのかも知れませんが、私はもう一つ別の意味として、長い年月を経てようやく本当のカトリック教徒に戻れたのだという意識があるのではないかと思うのです。
「2世紀もの長い間、自分たちは神父不在の中で弾圧を受けながら、仏教徒の真似をするような「ニセモノ」の信仰をしてきた。キリスト教が解禁になり、ようやく我々は「本物の」キリスト教徒として活動できる」
そう思った人は多かったのではないでしょうか。復活という言葉には、2世紀にわたり、潜伏キリシタンという「ニセモノのキリスト教徒」に屈せざるを得なかった彼らの苦渋の日々が体現されているように感じます。

それでは、何故今もって潜伏キリシタン時代のおらしょが歌い継がれているのでしょうか? それを「ニセモノ」とするなら、カトリック教徒へと復活した後、早々に廃れてしまってよいはずです。
ここが文化というものの非常に面白い所なのですが、実は潜伏キリシタンの中にはおらしょなどの文化を捨てられなかった人や集落があったらしいのです。
前回述べたように、潜伏キリシタンの信仰形態は時代を経るに従って日本古来の文化(仏教や神道)に近いものになっていきました。 また集落によっては、ご先祖様の位牌の横に御神体を並べて置く人達もいたと述べました。 彼らからすると、そういう風習はもはや「キリスト教の風習」ではなく、先祖代々伝わる「潜伏キリシタンとしての風習」そのものになってしまっていたのです。
しかも2世紀の間にキリスト教としての典礼文や祭祀本来の意味はどんどんと薄れていき、どういう意味なのかも分からず典礼文とはかけ離れた仏教のお経のようなおらしょを祈ったり、キリスト教徒が行うようなミサとは全く異なる祭祀を執り行ったりしていました。

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【オテンペンシャ 古い時代のキリスト教徒が苦行に使う鞭(語源=penitencia(改悛))として日本に持ち込まれたものが、長い年月を経て祓いなど祭事に使われる道具に転化した。これを御神体として崇める集落もある】

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【おらしょを祈る現代の風景。和服で祭事を執り行っている点も特徴の一つ】

そこに急に、カトリックの神父がやってきて「皆さんに、本物のキリスト教徒として洗礼を授けます」と言われたところで、そう簡単に受け入れられない人もいたはずです。特にカトリックは厳格な教義ですから、潜伏キリシタン時代に信仰していた御神体などは「ニセモノ」として全て破棄するように強制したはずです。
そうなると、人によってはこれまで信仰してきたものを全て捨てることに抵抗を感じることもあったでしょう。 必然的にカトリックの洗礼を受けるより、今までの潜伏キリシタン時代の風習を続けたいと思う人がいてもおかしくはありません。

やや卑近な例ですが、子供の頃からカレーライスが好きだった人に急にインド人がやってきて、「あなたの食べているのは本当のインドカリーではない」と言って、以後インドカリーを食べることを強制されたら、しかもそのインドカリーを食べたら最後、これから先は日本のカレーライスを食べられないとなったらどうでしょうか。 たとえインド人が勧めるカリーが本場の雰囲気だったとしても、日本のカレーライスを食べ続けることを選択する人も少なからずいるのではないでしょうか?

禁教令が解けて以降、各地でカトリックへと「復活」を遂げる人がいる中で、潜伏キリシタンのそれまでの風習を続けることを選んだ人達のことを指して「隠れキリシタン」と称する場合があります。 これが第1回のブログで申し上げた「隠れキリシタンには2つの意味がある」ことの真意です。
そして、文献などによっては「カクレキリシタン」「かくれきりしたん」など、「隠」という漢字を使わない場合があります。(千原先生も「カクレキリシタン」という言い方をされています)
禁教令解禁以降、形式上は隠れる必要がなくなったため「カクレキリシタン」「かくれきりしたん」など漢字を使わずに表現しているのかもしれません。私もそれに倣い、このブログでは「カクレキリシタン」という表記を取らせて頂きます。

彼らが潜伏キリシタン時代の文化を捨てられなかったのは主に3つの理由があったと言われています。 一つは繰り返し申し上げているように、「潜伏キリシタン時代の文化が集落に根付いており、今さら新しいカトリックの文化を取り入れる気持ちにならなかった(特にムラ社会の中では一人だけカトリックになるなどの対応は難しかった)」こと。
それから第一の理由と関連しますが、「カトリックの定めに従い、位牌や御神体を捨てざるを得ないことが罰当たりだと思ったこと」があるようです。 こういう理由を聞くと、潜伏キリシタン時代の風習が文化として深くその地域に根付いていたことがよくわかりますね。
そしてやはり「キリスト教徒だと告白することが怖かった」という理由もあったようです。 約2世紀もの間、迫害され常に隠れてきた人達のDNAというのは簡単に変えることは難しかったのでしょう。歴史の悲哀を感じざるを得ません。

これが1549年に日本にキリスト教が伝来して以降のキリスト教布教と迫害、そして潜伏キリシタンが生まれ、禁教令解禁以降、カトリックの復活と別のカクレキリシタンが生まれることになった歴史のほぼ全貌です。異説もありますが、歴史学的にもこれに近い説が形成されていると認識しています。
参考までにこれまで述べてきた歴史を簡単に時系列にまとめましたので、ご覧下さい。

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【平戸地方のキリシタンの分布図。地域によってカトリック、カクレキリシタンなど特徴があるのが分かる】

ここまで、日本におけるキリスト教の歴史を、私の旅行での経験も交えて振り返ってきました。
次回、一旦このシリーズの締めくくり的な記事を書くつもりですが、それは「隠れキリシタン」という言葉の持つ意味と解釈についてです。
私は、このブログの第1回で「隠れキリシタンの物語」は「キリスト教を信じることを禁じられてきた人たちの悲しい物語」という解釈だけか?と皆さんに問いかけました。

次回、一応の最終回では、この問いかけに対する私なりの解答をお示ししようと思います。
それはおそらく、千原先生の「おらしょ」を歌うにあたっての、一つの参考になるのではないかと思っています。

今回のブログの考察も踏まえた内容になると思いますので、皆さんも今一度、私からの問いかけについて思いを巡らせてみて下さい。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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