「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

祥一族の波濤の航路=第三章(19)国民党政権 墨微

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 一九四九年、蒋介石が中国共産党に敗れた。.国民党の中央政府が台北へ乗り込んできた。当時五十万人の軍隊や政府要員、家族ら百万人が台湾へ入り、経済事情が悪化した。インフレも.拍車をかけ、ついに四万円の旧台湾円を一元の新台湾元として再発行した。対外的には、共産党に台湾を武力解放するぞと脅迫され、国民党政府は戒厳令を布告した。以.来、人々は恐怖の日々を送ろうとしていた。
「署に来て下さい、訊きたい事がありますので」
 一九五一年十二月十六日、警察の人が政に言った。行ったところ、そのまま拘束されてしまった。
 モルヒネ不法使用の嫌疑で逮捕送検されたのである。
 祥が政.の身を案じ、早速弁護士を頼みに行った。塩酸モルヒネは、内政部へ麻酔薬品用途として登録してある事、法によつて配給されている事、治療目的用である事など、違法性のない事をよく説明した。政は台中省立病院で尿検査をさせられても、麻薬が出なかったという証言で、痛み止めの目的で注射をしていた事が裏付けられた。本人は麻薬中毒者ではないことが立証され、台中地方法院の検査官に不起訴処分書を渡され釈放された。それでも政は三日問の拘留所生活を経験した。
 「政治は建前のために人を犠牲にする。身を守るには、政治にかかわりあうな。名もない庶民で充分だ」と政はよく言うのであった。
 政治結社だけでなく、宣伝、広告なども嫌がった。
 「医者として、その商品の愛用者であることを一言、お口添え願いませんか、病院の宣伝になりますよ」ラジォ放送局が、彼に頼んできたが、いくら口説いても、彼は頭をたてに振らなかった。
 「患者を利用して宣伝することは、医者でなく、商売人になることだ」と。
 宗教などに興味がなく、苦しい時の神頼みもしない。
 「キリストもお釈迦様も自分の祖先ではないので、拝むことはしない」と無神論者の政である。
 政は質素な生活を好み、二着以上の着物は持たない。宴会に出るにも、何時も同じ背広を身に着けていた。本人は、「どっちにするか迷ってしまうので、面倒だ」という。
 祥は、何年も同じ服を着ている政に愛情を込め、ブランド品の洋服を買って上げた。
 それでも政は「返品しなさい」と迷惑な顔で言った。
「特別な安物だから着て下さい」と祥が嘘を言ってまですすめた。
「ん」と頷くが、新しくもらった洋服を、何年もそのまま箪笥に置いてしまう。.

核兵器    山崎夏代(特集・ウクライナ2022)

IMG_20220701_0001_1<詩誌「いのちの駕籠」第51号。本号より転載させていただいたものです。>
        核兵器
 日本も核武装するべきだと、かまびすしい声が聞こえる。あるいは、アメリカの核を日本に配備してもらえと。峙々刻々とテレビで伝えられる戦場の惨状、国民が息を飲んで見つめるこのときこそ、核兵器導入のチャンスと、声を上げる人閾のいることに、私は戦陳を覚える。
 核兵器が抑止力〔このことばはいんちきだと、わたしは思っているのだが)になるのか。ほんとうに、戦争、繋力、殺職、破壊、躁踊などなどに対する抑止になるのだろうか.、戦争当事国の大統領は言った。先手必勝だ、と。
 その意味するところは、核兵器の使用であろう。先手で相手国の核兵器装備場を、核攻撃してしまう。
 それは、核兵器を手にする国家代表たちすべてが思っていることだろう。先手で、相手国を攻撃する。すれば、攻撃された国は、自国の核兵器と攻撃してきた核兵器とふたつ爆発によって凄まじい状況に追い込まれるはずだ。先手必勝の意味である。核のボタンを手にしたものは、つねに相乎の出方、勤き.をねらい見つめている。先手を取らせてはいけない。
 一秒の遅れも許されない。その緊張は抑止力ではない、牽制しあってはいても、常に攻撃用意の状態である。抑止などという生易しいものではない。ぎりぎりの臨界にたっ.てあいての動きを見つめているのである。
 そのような核兵器のボタンを安心してゆだねることのできる人間が.この世にいるのだろうか。

 核をわたしたちの国に持ち込んではいけないもうひとつの理由もこの戦争報道は見せてくれた。.
 原子力発電所さえ、容易に核兵器そのものに変わり得るという事実である。
 侵略者の国は、相手国の原子力発電所を攻撃した原子力発電所が脆くも占領された。私たちが経験してきた爆発と放射能汚染の凄まじさを、利用しようというのである.兵器ではない、核そのものの脅威。
 兵器のかたちをとらなくとも、核そのものの、存在が、状況によってはわたしたちを恐怖に陥れる。
 わたしはこれまで、原子力利堀の問題は使用後の核物質をどう処理していくかという、純粋に技術の問題だと思っていた。けれども、違った。核物質があるという,そのことが、それこそが、聞題なのだ.。

 テレビでまざまざと同時進行で蒐せつけてくるこの戦争の後、核武装の論議はいよいよわたしたちの国に沸き起こることだろう。わたしたちは核兵器を配備することではなく、核を廃絶することにしか、入間の生きていくすべはないのだということを,肝に銘じておきたい。

 かの大統領は、先手必勝と言ったが、先手によって,時的に必勝して、破壊し尽くされた後の放射能物質に汚染された世界で、勝者はどのように生きていくのだろう。.
 .核兵器による勝者は悪魔以外にはない.国破れて山河あり、城春にして草木深しと詩人は歌っ.たが、核戦争のあとには山も川も城もないひとも獣も,鳥も草木も、なにもかにもなくなるのだ。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(17)

 若杉夫人の同人雑誌「雲」の発行の意図を説明を受け、当時のわたしは自己存在への自覚として、孤独性への自負と同時に、それと反対の自己否定、自己嫌悪の感情に悩まされていた,そのニヒリズムの克服の方向性のヒントとなったのである。
 これに対し、川合氏の若杉夫妻との交流では.次に記すような状況にあつた。ここには、すでに新潮社や講談社の発行する読物雑誌に作品を出してる職業作家・若杉大作氏と親しい人々のことは、全く知らなかったのである。
    ☆
  川井清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から
 二度目に若杉家を訪ねたとき、初めて作家の若杉大作氏に会うことができた。
「いや.雑誌の締切りに追われていてね。今朝やっと片ずけたところなんだよ」
  大作氏は丸顔の童顔で,いつもニコニコしていた。歳は五十代前半といっ.たところだろうか。
「うち.の上さんがこんなことを始めて.俺は実は迷惑なんだよ。で、よけいなことはするなと言ったんだが、聞かないんだ。.俺も原稿が売れなかったころ.ずいぶん迷惑をかけているからな.あまり強くも言えないんだ」
  そして,おいそうだよな.と、同意を求めた.
「先生は恐妻家なんですね」
  高須と前田がこもごも.言った。前田は東大の学生とかで,オートバイに乗ってきている、若杉さんはご主人の顔を嬉しそうにのぞきこみ、そうなのよ,、と言つた。
「まあ,そういうわけで.こいつの言うことを聞いて皆でやってみてくれ。小説技法の疑問なんかには、俺もたまには協力して応えてやるから」
 「天の会」は上々の滑り出しにみえた。
 月に.回,石神井公園の三宝寺池のほとりにある 力という茶屋で開かれた集会では参加者が廊下にまではみ出す盛渥であっ.た。
 清二は印刷やにいるというので,さっそくその方面のことを尋ねられたが働きだしたばかりで判るはずがなかった。
 原稿用紙の書き方から始まって,小説とは,随筆とは,詩とは、俳句とは、短歌とは、集会の度にくり返しいろいろな解説や説明があっ.た。総合文芸誌とは実に幅の広いものだと感心したが.一方で困ったことになったな、と思ったのも事実である。清二は小説以外にはあまり関心がない。
 清二は自分は小説が書きたいこと、現在宝石社の推理小説の懸賞募集に応募中であることを話した。
 さいわい、控えが取ってあっ.たので若杉大作先生にみてもらったところ激賞されたので,清一.はすっ.かり舞い上がってしまった.
「これは良いところまでいくだろう.もしかすると……」と保証されたのである。
一月の末になって,室石社から雑誌が送られてきた。「新人25人集」とある。清二の作品が活字になっていた。しかし、まだこれは第一段階で.このなかから当選作品が決まることを清二は知っていた。
 嬉しくはあったが、飛び上がるほどではなかった。
 実際一日干秋の思いで待ったのはそれからのつぎの知らせである。一,月が終わり、二月が過ぎても何の通知もなかった.
 三月末に発売される四月号に結果は発表されていた。
 当選は竹村直伸氏の、”風の便り"、佳作に笹沢佐保氏が人っていた。喰い入るように選評を読むと、清の作品は一口に言って面白みに欠けるという評.だった。.
 ただ、四人の選者のうち江戸川乱歩氏だけが、この作品には創意<オリジナリティ>が見られるとして点を入れてくれていた.。一点も入ってない作品も多かったのである。

事ありげな春の夕暮(心の姿の研究)ー3ー石川啄木

  事ありげな春の夕暮

遠い国には戦いくさがあり……
海には難破船の上の酒宴さかもり……

質屋の店には蒼あをざめた女が立ち、
燈光あかりにそむいてはなをかむ。
其処そこを出て来れば、路次の口に
情夫まぶの背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布さいふを出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲つかれがある。

遠い国には沢山たくさんの人が死に……
また政庁に推寄おしよせる女壮士をんなさうしのさけび声……
海には信天翁あはうどりの疫病
あ、大工だいくの家では洋燈らんぷが落ち、
大工の妻が跳とび上る。

祥一族の波濤の航路=第三章(18)続「二二八事件」 墨微

 翌日、警察がまた来た。各病院に向けて銃傷犯の治療を命じる当番表を配りに来たのであった。病院の患者だけでも忙しいのに、政は、警察署の指定された時間に逮捕された銃傷犯の治療で何回も署へ往診に行った。
 日本から持ってきたペニシリンは、銃傷犯の治療にも使った.そのため在庫は尽きそうになった。ペニシリンは、苦い粉の結晶で、蒸留水で溶かして注射する。当時では、広範囲な細菌感染の治療新薬として効果的であった.
「おじいちゃんは、咳と痰が二、三日続いて止まりません。今朝、震えが来て、三十九度の熱を出しました」
「急性気管支炎のようだね、注射をしてやろう」
 ある時、受診して来た重症の老人に、政が予めペニシリンテストをしてから注射したところが、症状は一向軽減せず、一週間後、肺炎の併発で亡くなってしまった。
「病院の注射で病状が悪化したのだ。賠償してくれ、さもなければ、死人の棺を病院に運ぶぞ」家族が、慰謝料をせびりに来た。
 一番の特効薬を使って、ベストを尽くしたのだ。治せなかった事をとても残念です」と、政は応対するしかなかった。
 家族はそれ以上強硬な行動をとらなかった。医療紛争で棺が病院の前に置かれる事は珍しくない時代だった。
「どうして効かなかったんだろう」政は頭をひねった。
 ところが、薬局から仕入れたペニシリンを舐めて判ったのだ。「苦味がない。贋薬だ」。その後政は二度とペニシリンを使わない事にした。
 モルヒネ、コデインなどの鎮痛剤、麻薬として使えるアヘンは、ケシの実から精製されたものである.終戦後一般には禁止品であるが、禁断症状で苦しんでいる中毒患者には、医者の処方により、アヘンの投与ができる。街には中毒患者の弱みに付け込むアヘンの闇販売人がうようよ散在していた。病院の近く、河で注射器を洗う中毒患者をしばしば見かける。警察局は麻薬の取締まりに、よく中毒患者をオトリに使い、病院の麻薬の不法使用を摘発していた。
 『二二八事件』で台湾人にあった植民地時代の『漢人意識』は『台湾入意識』となって甦った。日本人に続く外省人の統治に、台湾人は何時になったら継子のような立場から.逃れられる
のだろうと、祥は嘆いた。
 『二二八事件』以後国民党は、共産党々員を殲滅する目的を掲げた。軍、警察、政府に存在する特務機関は、逮捕、暗殺を繰り広げていた。密告、冤罪なども多い.夜空が魚の腹のように白らむ頃、投獄された容疑者が、裁判もしないままに連れだされ、死刑に処される『白色テロ』があった。

目黒川沿いにある朝のラジオ体操  江素瑛

KIMG0104 八年前左手の肘転倒脱臼のため 毎朝戸越公園のラジオ体操を行けなくなった 
 あっという間に八年経った今 体重増加する一方に体力減るばっかり三高になりそう そろそろなにかが手打たないと
 朝の散歩に気付いた目黒川沿いのラジオ体操 目覚めるのは五時ごろ 六時半から始まって体操は十分に間に合う 
 その前植こみ水やりの世話  自生の山葡萄が実になってり 種から育てた朝顔に蕾がなろうと
ベビーラッシュのペットのベター グッピーなどのエサやりなど 魚の世話 
KIMG0116 猛暑の日 家から小径を生前の母はいつもベンチに腰掛ける大崎公園を いつも列を長く並ぶ豆漿の店を 
 いつもガラス窓から覗いた不動産屋の老主人 猫五六匹に囲まれ 低いテーブルに足かけては 上半身裸で朝の新聞を広げ眺める
 朝ののびのびとした羨ましい時間を
 大崎光の滝公園からやまもと橋を渡り 小さな公園 橋の下五反田船着場 五反田ふれあい水邊広場船着場 
KIMG0106 (1) 六時になるとパラパラ人影が集まってきた マスクをする人 しない人 しない人もマスクのひもを手に付ける 
 マスクは身の回り品になっている世なのだ こんなに蒸し暑い日にはマスクにも忘れない 
 最初は体がついていけない 八年は筋肉と骨組みを固くし 跳べないし曲げられない 思うようにならない 
 八年間が体をこんなに重くしたと 8キロも増えたら8キロのお米を抱えることだ 
 東京都は4万人以上のコロナ感染あった 四年目なのに 予防接種が進む一方感染の数も進む 
 絶えず株の異変がウイルス戦争に加勢 ゆくえ不明だ 
 目黒川が静かに流れ 犬の散歩に来た人たちは犬の交流会が賑わい 犬は犬同士 三密のコロナ禍にはお構いなし
KIMG0121 餌を持って犬と付き合い人 おやつを狙って興奮状態の犬たち
 ラジオ体操の音楽が流れ 口ずさんで歌う人  
 「ラジオ体操の歌」. 藤浦洸作詞・藤山一郎作曲.
 新しい朝が来た  希望の朝だ 喜びに胸を開け 大あおげ ラジオの声に ….
 青空に頭を上げ 白い雲が悠々と 一瞬にしてそびえるビルが雲について動くように目眩
 三十分足らずの体操とても満足できないが 体は少しなじんでくる 
KIMG0105(1) 昔の雰囲気が蘇る 戸越公園の池 亀が植え込みに上がって土堀産卵 その孵化を見張っているカラス 
 池の鯉 サギ 鷹飼う人 100くらいの人体動く―――
 ねむっている骨格筋 動きによるほぐしていく ただ重いなあ 8キロのお米を抱えながらだよ 
 汗だくだく帰り道 知り合いと思った人から
「私は携帯扇風機があります これ上げまするよ」とスーパーでよく使う小さな保冷剤を渡さされた。
(2022 7 27)

祥一族の波濤の航路=第三章(17)「二二八事件」 墨微

 日本は台湾を植民地にした当初、松方内閣は台湾を南アジアへ発展する拠点として活用すべきであるとしていた。植民地建設の成果を上げてきた日本は、戦争の影響で内地は物質不足になっている。
 台湾住民の中に、こんな不安な噂が広がっていた….。もし日本が戦争に勝ったとしても、疲弊した日本人は、物産豊饒、開発された台湾へ移住する。そして台湾人を南洋、ブイリピン、マレシーアへ追いやり、開墾させるであろう。
 日本は敗れた。が、台湾人が自分の土地から離れなくて済むと喜んだのも束の間である。
 中国国民党が台湾を接収、行政、資産を全面収管。官僚の横暴、汚職腐敗、インフレの波及がひどく、民衆の失望、不満が高まっていた。
 一九四七年二月二十七日台北市内、警察での寡婦の闇煙草摘発をめぐって紛争が起きた。集まった群衆の前に警官は婦人を銃床で殴った。「この山豚め!,.山へ帰れ!.」
 それを見ていた群衆が反発し、騒ぎになった、彼等を解散させようとした警官が威嚇発砲をしたの
である。これで民衆一人を死なせた。
 翌二十八日、専売局長官公署に押し掛けた民衆のデモ隊に、衛兵が機関銃で掃射した。これで民衆の怒りに火がついてしまった。
 「二二八事件」の勃発であった。台北放送局を占拠した群衆は、ラジオ放送で抗議行動の総決起を呼び掛けた。台北に続き、台南と台中の『本省人』(台湾に住んでいる人)民衆も立ち上がり、『外省人』(国民党が連れてきた人)をリンチするなどの抗議暴動が広がった。
 この『省籍摩擦』即ち、『本省人』と『外省人』のいざこざは、その後台湾住民との間にしこりとなって紛争の尾を長く引くことになった。
 祥は長女映子を出産したばかりであった。
 銃声の中、慌ただしい足音がし、血まみれの銃傷者が、中西医院に担がれて来た。
「先生、お願いします、お願いします」
 黙って頷いた政は、余計な事を聞かず、素早く手当てをした。一行を去らせると、血の付いた繃帯、布などをベットの下に詰め込み、隠した。と、すぐそこに、銃を付けた警官が来た。
「銃で打たれたような人が来ていませんかね?」
「いえ、来ていません」と、政は顔色ひとつ変えずに、言い切った。
 警官は政にけげんな目で睨みつけたが、やがてかかとを蹴って、くるりと向きを変えて出て行った。

「操り人形」という自伝を残した男(1)ー(16)

    ☆

 わたしが若杉夫人の家に訪れた時は、夫人がひとり応接間で応対してくれた。
 この出会いは,川合氏の場台とは内容のニュアンスが違っていた.。.
 若杉夫人は.未成年で丸刈り頭のわたしが幼く見えたらしく、その後いつまでも子供扱いされることになった。.
 若杉夫人は、無名人の雑誌と銘打った「天」(川合氏が手記で名づけていたもの。実際は「雲」という)もので、文宇の小さい薄いガリ版の冊子のような本を見せてくれた.。今で.言えば新書版の大きさである..。
 手にとって見ると、女.性の戦後の生活の苫労話が掲載されていた。どれも短く、その場で斜め読みで知る内容を知ることができた。
 詩のことばかりを考えていたわたしは、おそらく「こういう生活的なものもあるのですね」とかを述べたかどうかしたのであろう。当時の戦後の高度成長の始まりの頃は、農村から都会へ働きに出てくる若者で溢れていた。「若い根っこの会」とか、歌声喫茶など、若い男女が交際場を求めてくる団体がほとんどであった。自分は、詩の理解する会を求めて、「文学会」という名の付く会をさがした。見つけても、「朔太郎の詩を手本にしています、とか言っても、何それ? 朔太郎って誰?」とかいう有様だった。それで、同年代では、話が通じない。孤独を深めていった時期だった。.
 そんな時期に、若杉夫人は、あとあとになっても、忘れることのできない話をしてくれたのである。.
「あのね。日本人は敗戦ですべてを失ったでしょう。その後の家庭を支えるために、どれだけ家庭の主婦たちが,苦労したか、あなたは子供でわからないでしょう。飢えをしのぐため、それはそれは、恥も外聞もなく.みんな必死で生きてきたのー。それがね、ここにきてやっと衣食住がなんとかなって、ほっとできる時代になったの。するとね、そうした女性たちは,いままでの生活のための生活はなんであったのか、と心が空っぽになってしまったのね。いろいろな苦労話を誰かに知ってほしいのよ。そこでは私は彼女たちに、いままでの苦労を手記にすることで、空っぽになった心を鎮魂させ、空虚さから脱出してもらおうとしているの」
「苦しみから抜け出したあとは、.心が空っぽになるんですか」
「そうよ、それが空虚さなの。目標が見えなくなって、すべてが虚しくなるの。心が乱れて苦しくなるのよ。でも,不思議なことに、それを書いて表現.することで解消されるのね。だから日本の戦後を苦労して生きてきた女性のたちのために、こうした同人雑誌を発行することを始めたの一ー」
 夫人.の言葉の背後に、無気力になって茫然とする多くの女性の存在を見ることができた。その頃、わたしはたまたまそのような人間的特性にある関心をもつていた。
「書くことで.虚しさが消えるおれも、それで詩を書いているのかな」
 人間は労苦から解放されると、心が空しくなる。心の空虚さが書くことで埋められる。若杉夫人との会話で、彼女の意思である「自己表現.の場を提供することによって,無気力に苦しむ人々を救済し
たいー」という精神をわたしは強く感じた。

起きるな (心の姿の研究)ー2ー石川啄木

 起きるな

西日をうけて熱くなった
埃ほこりだらけの窓の硝子がらすよりも
まだ味気ない生命いのちがある。
正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる

まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
その上に蚤が這はひあがる。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静夕ぐれの来るまで。

何処かで艶めいた女の笑ひ声

祥一族の波濤の航路=第三章(15)合作新村  墨微

 合作新村
 政情の混乱が治まり、すこしずつ緊張感から解放され、町は落ち着きをとりもどしていた。昔ながらの静寂がよみがえり、日が山々の彼方を去ると、田舎の黄昏がゆっくりと広がっていく。
 楓樹脚の大屋敷では、政が、寝台二つを置いた客部屋を診察室にし、聴診器を患者の胸に当てている。豊原市に開業の場所を求めたが、何処も高くて手が出せない.、取りあえず、親戚近隣の患者を相手に、自宅での診療が始まった。しかし暇であった。患者を待つ一日の長いこと。
「また.日が終わったか、今日は一人も診察に来なかった」政は深い溜息をついた。
 九時以後、いつものように門番が外郭のドアを閉める。その次の日、患者に苦情を言われたのだった。
「昨夜二時頃、急に腹痛になり、下痢をしてしまった。見て貰おうと思ったら、ドアが閉まっていましたね。おかげで、一晩中辛い思いをしましたわ。どうしてくれるんです」
 こんな所では、経営が成り立たない。政は一ケ月後、都会の台中の市府路に、中西医院を開いた。保証金は明子のものであった。
 政権変遷の際、貨幣の価値が変ったので、祥の持参金がだんだん目減りしてきた。獅は祥に土地を買っておきなさいと勧めた。
 祥は持参金で父宝の土地を買おうと思った。が、終戦前後のことで、景気が悪い。おまけに宝の土地が次々と徴収されてしまい、そのことを考えると祥は宝に言いそびれた。.獅は、彼女の持参金を三. 男安の医大進学のために大分使ってしまった。開業時、内装工事を友人に頼み、鎮痛薬アスピリン一ポンドを持ってきて、薬棚に備えたが、それだけで四千円の持参金がなくなってしまった。
 朱姉夫婦は、祥の大学時代に東京の渋谷に転居していた。彼らが残した旧医院の診察机、診察ベット、薬品棚、薬品、血圧計、象牙の聴診器などが『天外天』の倉庫にあった。政は、それを再利用した。
「この看板は、なんです? 診察時間が短かすぎますよ。二十四時間にしなさい。病人は時間を選ばないでしよう。医者は患者の立場を考えないとだめですね」そう忠告したのは政の大雅公学校の先生である。
 やむを得ず、診察時間を無制限にした。
 商店街という好条件もあって、日本から沢山薬を持って帰った噂が広がり、ここでは盛況であった。評判は遠い親戚まで伝わった。すると、それぞれ金の要る事情をもって、知り合いの誰かがくる。
「雑貨屋につけがあるんだ。少し融通してくれよ」
 また獅までが店の付けや四男浜の学費、その他いろんな借金証書などで浜を奔らせ、証人をするように政に頼んで来る。
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