「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(13)

.IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
 トラック島でのあらましを要約します。
 着任した島は、半年ほど前に、米軍機動部隊の急襲で為す術もなく航空機二七〇機,艦船四三隻を失っていました.邦入の女性,慰安婦らはすでに帰国させていました。サイパンの日本軍が壊滅した時点で、トラック諸島への補給が絶たれていたのです。
 そんな島で兜太は施設部の工員の二〇〇人を率います。ところがこの工員たちは、日本で食えずに南方にやってきた無頼な連中でした。そんな島の様子を兜太はこう語っています。

「(工員たち)は、先住民カナカ族の娘を暴行し、仕返しに蕃刀で斬殺される事件が続いた。男色が「気に広が
り、若い男を取り合う殺傷沙汰が相次いだ。気に食わないと上司を殺し.自害する工員も出た。私は詩.心のある西沢実陸軍少尉と陸海軍合同の句会を主宰した。『皆を句会で慰めてくれ』と上官に言われていたからだ..」と。(『存在者金子兜太』談)

 そんなある日のこと,兜太が何遍も書き、かならず講演で話す事件がおこります。
 要約しますとこんな事件です。
  武器庫の補給も途絶えたので、工作部が手榴弾を試作した。その実験を兵隊ではなく、兵隊以下の扱いの工員にやらせることになった。その実験で、実験役の工員が起爆のために手榴弾を鉄塊に当てた瞬間、爆発した。体が宙に浮き、落ちた。右腕が吹っ飛び、背中の肉は運河のようにえぐれた。
するとその工員を大きな工員が背中に担ぎ上げて駆けだした。工員の一団も「わっしょい、わっしょい」と伴走した.兜太も一緒に走ってニキロ先の病院に担ぎ込んだがすでに死んでいた。
  普段は身勝手な工員も仲間を本能的に救おうとした。人間の芯は善だ,その入間をいたずらに殺す戦争は悪だ.そう確信した兜太は、この事件を機に戦争を僧むようになった、といいます。
  更に食料が欠乏し、フグやトカゲを食べて病死したり餓死する者が統出します。毎日、五〜六人の餓死者がでた。兜太の部隊では二百人中、五十〜六十人が死んだ。全員が生死の境にいた、と言います。
  そんな中で、四五年に日本は敗戦します。翌年、兜太は米軍捕虜として、春島の米航空基地建設に従事させられます。ところがトラック島での体験を詳述した『あの夏、兵士だったた私』によりますと、「米箪の海兵隊員はとにかく明るい連中が多い。捕虜生活はとても楽しかつた。」などと、述べています。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
      ☆
 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

さびしく孤独なソーシャルディスタンス(8)個性の宿命

IMG_2470IMG_2481IMG_2487<多摩川の下流域の河川j敷には、ソ―シャルデスタンスをとった人たちがあちらこちらにいる。ハトやカラスは、対岸の川崎側につながっている電線に密に止まって遊ぶ。川崎側の青いテントはホームレス小屋であろう。>
IMG_2484IMG_2486IMG_2528<多摩川の河川敷には、コロナウイルスの出現で、外出してもマスクをしたうえで、人混みはさけて運動やストレッチトレーニングをする人達が見える。>
  川の土手から河川敷を眺めると、意外に多様に人たちがそこにいることがわかる。乳母車から降ろされた幼児。子供用自転車にのる女の子、ランニングする若者たち。グループで歩く主婦らしき人達、初老の男性。おそらく、都会の中心では、あまり気付かないような人達だ。
  自分は、彼らの姿を観ると安心する。それは、人間の社会的な存在感が満足させられるからであろう。人類的な仲間意識が根底に生まれるからであろう。
  同時に、年代も異なり、走ることもできなくなった自分が、その人々と、類的に仲間であるが、個人として具体的な同調性をもたない漠然とした感情にすぎないことを意識する。
  それが個人それぞれの個性とぶつかり合いうのでる。人はそれぞう唯一無二の個人的な存在である。そこれだから、人間社会で共通項を見い出そうとする。仲間を作って、安心しようとするのだ。
  しかし、いくらそうしても、個々の個性ある自分自身であるかぎり、孤独から逃れられない。それに耐えられず、自分自身であることをやめて、他人と同じであろうとする。
  社会的な関係では、そのためには、異質なものの存在が必要である。「同期の桜」が成立するためには、同期でない桜の存在が必要なのだ。社会的な生活意識では、なにかに所属していないと、不安が消えず困るのである。
  しかし、現実にコロナウィルスの恐怖によって、死を意識すると、かなりのことがどうでもよいことであり、いきることの大切さを思う。これは、死がすべての関係性を奪ってしまうと思うからであろう。死を忘れている時の想念というのは、幻想としての形であることが見える。
  現実はただ生きてゆくことだけが、至上命令である。社会的に有名人でない自分を、充分生かされてきたと肯定できる。気持ちが静まるのである。これまでに静寂を失った時間を過ごしてきた自分を回顧するだけである。

猟奇歌-7-      夢野久作

111005 010
*     *     *

死に度い心と死なれぬ心と
互ひちがひに
落ち葉踏みゆく/\

埋められた死骸はつひに見付からず
砂山をかし
青空をかし

知らぬ存ぜぬ一点張りで
行くうちに可笑しくつて
空笑ひが出た

海にもぐつて
赤と緑の岩かげに吾が心臓の
音をきいてゐる

此の顔はよも
犯人に見えまいと
鏡のぞいてたしかめてみる

毒茸がひとり
茶色の粉を吹く
何事もよく暮るゝ秋の日

詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(12)

IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
 トラック島に赴任するまでに創った戦争にかかわる俳句で私が抽出したのが資料一頁目の二句です。
 かまつかに吾れくろぐうと征かむとす  「生長」
 
入隊を前に父と千葉県白浜にゆく   五句より

 秋禰(かや)の父子に日の出の栄満ち来  「生長」

 一句目の「かまつか」というのは、鎌柄、葉鶏頭のことです。葉鶏頭のまっ赤は戦争を、.「くろぐろ」は戦争に征かんとする兜太の不安を象徴しております。
 二句目は、この出征が父予とも「日の出の栄満ち来」ですから、出征を肯定的に詠んでいることがわかります。
 この当時の心境を『金子兜太句集』のあとがきに兜太はこう述べています。

「私は戦争便乗あるいは謁歌の教説には体質的にといってよいくらいに反撥感を覚えていたが、そのくせどこか
で民族防衛のために止むなしとおもい、戦闘には参加してみたいなどとおもっていたのである。」

 戦争に征くまでの俳句は、感性のおもむくままで、自分を支えるものとしての俳句は、まだ,なっていない時期です。ただ感性の曖昧さがあるだけだったと、後に述懐しております。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
      ☆
 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

闇の絵巻(分載-2)梶井基次郎

 こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。彼らは私のいるのも知らないで話し出した。
「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
 私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。その間にはごく稀にしか電燈がついていなかった。今でもその数が数えられるように思うくらいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出たところにあった。夏はそれに虫がたくさん集まって来ていた。一匹の青蛙がいつもそこにいた。電燈の真下の電柱にいつもぴったりと身をつけているのである。しばらく見ていると、その青蛙はきまったように後足を変なふうに曲げて、背中を掻かく模をした。電燈から落ちて来る小虫がひっつくのかもしれない。いかにも五月蠅そうにそれをやるのである。私はよくそれを眺めて立ち留っていた。いつも夜更ふけでいかにも静かな眺めであった。
 しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞がっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
 下流の方を眺めると、溪が瀬をなして轟々と激していた。瀬の色は闇のなかでも白い。それはまた尻っぽのように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆくのである。溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があって、白い煙が切り立った山の闇を匍登っていた。その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。
 橋を渡ると道は溪たにに沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。この闇のなかでは何も考えない。それは行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾配のためである。これは肉体に課せられた仕事を意味している。目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。
 街道はそこから右へ曲がっている。溪沿いに大きな椎の木がある。その木の闇はいたって巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟どうくつのように見える。梟ふくろうの声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字あざがあって、そこから射して来る光が、道の上に押し被った竹藪を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山のなかの所どころに簇立っている竹藪。彼らは闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。

さびしく孤独なソーシャルディスタンス(7)魂の声

IMG_2561 IMG_2566IMG_2569<多摩川大橋から下流の河川敷を歩くと、川で独り舟遊びをする人を見た。おそらく対岸の川崎のひとであろう。>
 コロナウイルスの出現で、外出してもマスクをしたうえで、人混みはさけなければならない。外出を自粛を要請されたら、従うのが日本の習慣である。それは法律ではないので、守らないからと言って、裁判にかけられたり、罰金をとられたりしない。
IMG_2571IMG_2572IMG_2577<川岸の草むらに埋もれて釣りをする人、濁流にのまれて曲がったままの樹木、実が成っているのは、クルミのようなもの。川流れに強い植物が根つくらしい。>
  ところが自粛警察とかいう社会人たちが、そうした政府の要請に従わない人たちに、嫌がらせをしたり、権力者の気分で排除するそうである。
それにくらべ、アメリカではいま、マスクやソウシャルディスタンスを拒否する人々がデモを行っている。まさしく、これはアメリカ的であり、人間性のもつ自由に対する強い執着を感じさせる。まさに、自然な欲望である。そうした現象を自由への魂の発露ともいえるであろう。
  もともと、アメリカ人は英国での宗教対立から、新天地アメリカに自由の魂を生かすために移住してきた。その意味には、自分勝手にするということも含まれる。それらの欲望は、社会構成と秩序とは、関係がない。
  自然界に生きる存在としての人間的な欲望である。
  アメリカの詩人・ホットマンは「草の葉」の冒頭のこう記す。
ー−さあ、とわたしの「魂」が言った。
   わたしの「肉体」のために歌を書こう、(わたしたちひとつものだ)、
   もしもわたしが死んでから目に見えぬ姿で地上にもどり、
   あるいは、遠く遥かなのちの世に、べつの天体の住民となって、
   (大地の土壌、樹木、風、激浪のしらべに合わせつつ)、
   どこかの仲間たちの群れを相手に、ふたたび歌い始める折でもあれば、
   いつも嬉しげに微笑をたたえて歌いつづけ、
   いつもなお永遠にその歌をわがものとしておけるようーーーさらばまず、
   ことのはじめに、
   「魂」と「肉体」のために歌いつつ、その歌にわが名をしるす。
   (杉本喬、鍋島能弘、酒本雅之・訳ー岩波文庫)

  わかりやすい言葉で、人間の特性が心や魂にあることを、謳い上げる。存在していることの心の躍動や悲哀をすべて描く。しかも詩人だからこその魂の表現である。

詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(11)

IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
 本題に入ります。
 まず「兜太の戦争体験について」を兜太の戦争俳句に則しながら話し、次いで「運動体の兜太」を.最後に「存在者・兜太について」の順序で話してゆきます。
【兜太の戦争体験について】
 これから私は「戦争俳句」という言葉を使いますが、反戦・非戦俳句、戦意昂揚俳句などをひっくるめて、広く戦争にかかわる俳句を言います。

 兜太の父親は医師で、かつ伊昔紅という俳号をもつ秩父の有力俳人でした。ですから家はいつも俳人たちの喧騒の場であったようです。それを見ていた母親は兜太に俳人にだけはなるな、と日ごろ言っていたようですが、門前の小僧の兜太には早くから俳旬の薗が感染していたようなのです。
 水戸高校で、先輩に俳句を勧められ、「白梅や老子無心の旅に住む」などという老成した句をつくります。以来、兜太は俳句から離れられない生涯を送ることになります。
 一九四一年、東大の経済学部を繰り上げ卒業し.日銀へ入行しますが、三日いただけで海軍経理学校に短期現役士官として入校し、海軍主計中尉に任官します。大卒のままだと一般兵士として動員されるので、将校の肩書きが欲しかったのでしょう。そして本人の希望もあって、超危険といわれていた赤道に近いトラック島・夏島の第四海軍施設部に赴任します。

 トラック島は現在のミクロネシア連邦チュ:ク州の州都だそうで、その地勢は、回覧の1頁目をご覧ください。
 サイパン、グアムの南、ニューギニアの北に位置します。島は七曜諸島と四季諸島からなる環礁で、兜太は四季諸島の夏島、春島と関わります。「四季諸島」とか「夏島・春島」などと,辞句めいたのんびりした名前ですが、地獄の一丁目だったのです。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
      ☆
 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

闇の絵巻(分載-1)梶井基次郎

 最近東京を騒がした有名な強盗が捕つかまって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄せんりつを禁じることができなかった。
 闇やみ! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在あるかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。
 闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽かな安息に変化してしまう。
 深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大な闇と一如になってしまった――それがこの感情なのだろうか。
 私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が、夜になると黒ぐろとした畏怖に変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形な姿を空に現わした。夜の外出には提灯を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要らない夜ということを意味するのだ。――こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一階梯である。
 私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰って来た。

詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(10)

IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>
(兜太とは「海程」の)退会で兜太との縁が切れたと思っていましたが、五年後、突然に、ビクターからビデオ俳句百年記念(一九九〇年)「映像による現代俳句の盤界』第六巻「加藤楸邨・金子兜太」というビデオが発売されることになって、ビデオに添付する俳人兜太の解説を依頼してきました。
  これは兜太にとってはじめてのビデオ映像だったでしょうし,兜太の師の加藤楸邨と一緒の大事なものですし、楸邨の解説は奥さんの加藤知世子ですから、なぜ別れた無名の私に依頼してきたかわからないまま、私は「衆のこころに生きる俳譜師」という題で兜太を推挽するプロフィールを書きました。

  それから歳月は巡って、兜太九十五歳の夏、兜太らによる、俳壇を超えた反戦の合唱が高まっているのがうれしくなった私は、私の反戦俳句を何句か書き連ねた暑中見舞いのはがきを送ったところ、すぐに兜太から「なつかしい、なつかしい、あんたの仕事は陰ながらずっと注視してきた」という返事がきました。
  それから矢次ぎ早に三度ほど互いの健闘を励まし合う往復書簡が交わされました。
  そして私の地元の川口市で行なわれた憲法九条の会での兜太の講演会で、ほぼ三十年ぶりに再会することになわました。
  講演会では兜太は車椅子姿で現れました。すっかり爺さんになっていました。講演の後、やあ.やあ言いあいながら.一緒に写真を撮りました。
  それから半年ほどして兜太の健康状態がおもわしくない、認知症もでているという「海程」の友入の声が届くようになりました。そして卦報です。
  永別するために再会した気分でしたが、兜太にどうにか聞に合ったとの思いも強くしました。
  以上が兜太と私の出会いと別れです。

  ちなみに,私どもの退会後「海程」はどうなったかといいますと、同人時代の精鋭路線から拡大路線に切り替えます。
  そして兜太は亡くなる前年に、翌年をもって「海程」を終刊させる,「海程」の名も残さない、兜太一代かぎりを宣言します。そして翌年.「海程」の最終7月号、通巻五四四号が出るのですが、兜太の他界にあって.「追悼・金子兜太主宰」特集となってしまったのです。
  「海程」を名乗れなくなった同人たちは、仕方なく、「海原」という同人誌を立ち上げて新しい船出をいたします。
ーー(2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)
      ☆
 原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(一九九〇〜二〇一四)の同人であった。二〇〇一年一二月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念
■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

さびしく孤独なソーシャルディスタンス(6)欲望の必要性

IMG_2226IMG_2227<多摩川の川岸から土手を上がると、道路の向こう側に二子玉川から流れてきている傍流の丸子川がある。何事もないようにというか、車道に車があわただしく通り、信号機がある。そこを渡ると古代古墳遺跡のある多摩川台公園がある。>
IMG_1483IMG_1500IMG_1492<宝来公園の入口と園内池の鴨。多摩川亀甲山古墳の並びに宝来古墳という大きな古墳があって、そこを向こう側にまわると、田園調布の街並みがあり、そこに宝来公園がある。>
  ひとたび多摩川の土手を上がれば、整然とした静かな街並みがある。パンデミックでさえなければ、じつに平凡な、道路と家の風景に過ぎない。
  しかし、ひとたびこの街に住む芸術家が、思い入れ深い絵筆で色と線をもって、青い空と樹の緑をもって、輝かしい風景画にするであろう。
 パンデミックの現在、ノーベル賞を受賞したカミユの「ペスト」が売れているそうだ。自分はサルトルよりはカミユを読んでいる。蔵書は転居の時に処分してしまったので、今は持っていない。だが、その冒頭部分の雰囲気は記憶している。
 まず、ある街の人々の生活。ある夫婦や恋人たちが愛を交し合い、労働者は酒場で騒ぎ、ギャンブルに興じているであろうと、俯瞰的に描く。全体に、ペストが知らないうちに、日常に食い込み、人々を脅かす存在になる。それに対する、人間的な抵抗の精神を描いたので、意味的には忍び寄るファシズムに、抵抗できる人、できない人がいることを示したようなところがある、そんなに分かり易くは書いていない。現代のコロナ感染に何か役に立つことは書かれていないと思う。
   ただ、カミユは人が虚無を内部に抱えて生きる存在であることを、どの作品にも示している。理由がなくても、生きなければならない存在であることへの自意識は、いつも忘れなかった作家だったように思う。そこから人が心を持ち、魂を持つということが、意思を生み出す存在であること浮き彫りにする。社会的には「異邦人」である。
   生きる理由がないので、人は欲望を作り出す。コマーシャルが効果的なのは、思いつかなかった欲望を教えてくれるからだろう。
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