「詩人回廊」

日本の短編小説の特殊性について「韻律のある近代詩、日本語の制約にはばまれて、大した発展を見なかったので、小説家は叙情詩を書きたい衝動を、やむなく短編小説に移してしまった。短編の傑作と呼んでいる多くは物語的構成をほのかにもった散文詩である」三島由紀夫「美の襲撃」より。文芸同志会は「詩人回廊」に詩と小説の場をつくりました。連載小説も可能です。(編集人・伊藤昭一&北一郎)(連載を続けて読むにはタイトル上の筆者の庭をクリックします)。

2009年03月

東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』で読む日本文学の傾向と対策(5)伊藤昭一4

d7370586.jpg写真は本書でリアルな場所として描かれている「ラゾーナ川崎」のショッピングセンター。その上階から眺めた風景である。工場におけるモノの生産から、消費による商業サービスの生産性を競う時代に入った。消費がレジャーと結びつき、消費の場の異界性を求めるようになる。従来はそれを百貨店が担ってきたが、ショッピングセンターにその地位を奪われそうになっている。小説がマンガに取って代わられたように。
 まんが・コミックと小説は物語という構造をもっているところに共通性があり、そこが小説のコミック化を可能にしている。当然、歴史も時系列の物語としての側面を持つため、コミック化がされている。ただし、それは面白い物語としての歴史観である。
 小説とコミックが競合したり、合流したりし易いのは、それからどうなるの? の物語性と、これはこういうことだ、という主張性、メッセージ性である。
 その表現力では、わかりやすさや伝達スピードにおいてコミックの方が優位性をもつ。近年の小林多喜二「蟹工船」や民族意識の主張をするコミックが出現している。コミックは視覚と文字を組みあわせて、強い刺激を生み出すことができるのに対し、小説は悠長さを免れない。
 物語とキャラクターの関係では、大塚英志氏がくわしいが、そこには起承転結や序破急の構成法則がある。物語で人間の喜怒哀楽を表現する原理は、複雑ではだめで、単純性と反復が必要である。その一例は、芸能ニュースで、その根源を人間の嫉妬心に置き、すぐ感情移入できるようになっている。各界の芸能人をキャラクターにし、バッシングと賞賛の二種類のツールだけで、延々とワイドショウ番組は命脈を保っている。そこからも、コミックや小説のキャラクターの行き着くところは、ジャンルがお笑いであれ、お涙であれ、ワイドショーの芸能ニュースの水準において、その安定した将来は保証されていると思われる。
 そうした流れのなかで、純文学というジャンルは、大衆の嗜好と離れた特性を持ってきた。それは内面性の追求というものである。元来、アダム・スミスからヘーゲルやマルクスに至るレガシーな思想では、人間は自己の利益を追求する自己中心主義の存在であることを前提としているが、文学の世界では、それにロマンを付け加えて、そうした一律の原理では、まとめることのできないもの心の奥にもっているとする。人間の不可解さを追求する文学である。
 この文学には国際的な命脈があって、人間の社会性と神への信仰について、多様な解釈の余地を残したカフカ、人間が目的をもって生まれたのではなく、理由もなく投げ出され、困惑する存在として定義したサルトルの実存主義など、たんなる物語性のなかでは、表現できない人間性の表現を追求するジャンルが存在している。
 「キャラクターズ」は、おそらく、こうした流れの世界のなかで書かれたものであろう。それは九章の次の件(くだり)に表現されている。
『それは、ここで問題になっている自然主義的環境とまんが・アニメ的環境の差異、つまり純文学とライトノベルの差異には、小説の内容はいっさいなんの関係もないはずだからである。ぼくはここではるかに抽象的な話をしている。純文学に暴力とセックスを扱う小説があるように、ライトノベルにも暴力とセックスを扱う小説があるだろう(実際にある)。純文学に「私」を扱う小説があるように、ライトノベルにも「私」を扱う小説があるだろう(それがセカイ系だ)。純文学に時代と関係がない作品はあるだろう。そんなものはすべてどうでもよいのだ。問題は構造―内容―文体の組織化なのだ。だからもし桜坂が、この企画でなにか文芸誌に新しいものをもたらしたと思うのであれば、彼は、東浩紀をキャラクターっぽく描いたり、筒井文体のまねをしたりしている場合ではなく、むろん桜庭一樹とのロマンスを匂わせトラウマを告白しているふりをして喜んでいる場合ではなく、自然主義の環境からは決して生まれなかった、構造―内容―文体の新しい組織化そのものを作品で体現しなければならないのだ』
 ここにある「セカイ系」というのは、地理的な世界ではなく、個人の内面の構築したビジョンやイメージのことであろう。そこには、周囲を意識してく暮らすことへの疲れから、現実世界と遮断されたセカイを求める現代の若者の層の存在がある。
 ライトノベルには、コミックよりも細やかな表現を求める読者層の存在がある。さらに、ライトノベルから純文学のジャンルに移行する作者が存在しはじめた。では、ライトノベルと純文学の境界線はどこにあるのかというと、なかなか線引きはし難いとうのが、ライトノベルらしきもの幾つか読んだ私の感想である。
 たとえ出発がライトノベル志向であったとしても、その作品が人間心理の内面に深く迫った、優れた表現で完成度が高ければ、それは純文学として読めるであろう。
 その反対に、純文学として人間存在の心理の闇に迫ってみせようと、書いたものであろうとも、表現力において不足があれば、作者の意図を問うまでもなく、読者がライトノベルクラスと判定することもあり得るのだ。
 これは従来の伝統的な文芸同人誌によく見られる現象に似ている。
 つまり作者は、純文学として人間の本質に迫るつもりで書いたものが、表現力の不足から作文に毛の生えた程度の出来上がりであることが多々ある。それでも作者が純文学であると主張することは一向にかまわないのだが、それは純文学と作文の境界線を曖昧にするだけだ。
 そのなかで、特に戸惑うのは、作者の体験を詳しく書いた日記ともエッセイにも似ている「私」小説である。それが妙に感動的なものがある。感動的なのは、小学生の作文にもあるので、感動したから文学として優れているということにはならないのであるが……。たとえば、東京オリンピックマラソンで、入賞した円谷幸治選手の遺書「○○おいしゅうございました」は、妙に我々の胸を打つ。これを英語や仏語にしても、その美意識というものが、西欧人に伝わるのであろうか。私はそこに日本人が持っている独自に感性があると思う。
 そこで、考えるのだ。西欧的なレガシー思想やポスト・モダンなどという西欧思想のすべてが、日本というガラパグス島的文化、風土をも飲み込むような、普遍性を持ち得るのであろうか。
 日本文学の「私」の表現のなかには、こうした文化的な特性が存在していると考えるのである。(つづく)

東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』で読む日本文学の傾向と対策(4)伊藤昭一4

422e9c99.jpg  この評論では、文学の何を問題にしているのかを、ここで情報化することが一つの大きな役目がある。
 この作品では、東浩紀を象徴的なSと、現実的なRと、イメージ的なIという三つのキャラクターにわけるという作業を行っている。
 「キャラクター」というので、もう少し解かりやすい評論小説になるのかと思い込んでいたが、手の込んだやり方は長さのわりにややこしく、情報化するのが面倒である。
 私は複雑難解なものは一切理解できない「シンプル・イズ・ベスト」価値観の単純志向の頭脳の持ち主だからだ。その意味がよくわからない。そこで、この三タイプの東に関しては、考えるのは止そう。ただ、文芸評論の分野において、なぜこうした哲学的な思想と同期させるようなジャンルがあるのか、そのことを考えよう。
 ここで、東は次のような小説観を披露していることに注目する。
 小説は構造、内容、文体の層からできている。書き手もそれら三つの構造に沿った書き方をし、読み手もそれに沿って読んでいる。とろが文学者や文学研究者は、その通俗的な小説理解を批判し、従来の三構造に当てはまらない型の小説を書いているグループが存在する、というのだ。これは情報としての解釈なので、疑問を感じたら作品の九章を参照して欲しい。
 そして、この現象に対して東浩紀は、現在の小説が、従来の決まったパターンを踏襲する物語と、ゲームをする中でよく出てくる情景描写に似たリアリズム表現をする小説が出てきたというのだ。
この根拠は、この小説における以下の原文による。
 『いまの日本文学においては、いくつかの条件の変化、とりわけコンテンツ消費環境の激変(物語消費→コミュニケーション志向データーベース消費)の影響で、まさにその三層のバランスそのものがかわりつつあるのだ。評論パートがあまりにも長くなるのもなんだし、「ゲーム的リアリズムの誕生」は懇切丁寧に書きすぎたせいでむしろだれにも読めておらず、そんなおろかな読者に向けて半年以上も時間を費やしてしまったことに後悔の念しかないので捨てばち気味に要点だけ記すと、ぼくはその本では、一方ではコミュニケーション志向メディアの誕生で、構造面で単線的な物語が簡単に採用できなくなり、他方ではキャラクターのデーターベースの整備によって文体面で透明性が確保できなくなった結果、前述の自然主義プログラムそのものが一群の小説(ライトノベル)では機能しなくなっており、結果としてそこではメタ物語的構造とデーターベース的文体による新しい文学の組織化が生まれているのではないか、と主張している。その新しい環境の名前が「まんが・アニメ的リアリズム」で、新しい組織化が「ゲーム的リアリズム」だ。あとは新書を買って読んでくれ』
 読者がおろかだという説には、「オレのことだろう」と、少しばかり笑わせるものがある。ポスト・モダンに詳しい専門化にそういわれると、たしかにその気配はあるな、とそのポスト・モダン説に感心したくなる。
 これを情報処理すると、現代はスピード時代であるため、これらの定義は非常に短いスパンの観察から出ているように思える。たとえば、ポスト・モダン思想はおそらく、ヘーゲルやマルクス主義思想に代表されるような社会を発展段階史的にみる視座に対し、現代をそのように全体をまとめて見ることが不可能な、多種多様に細分化した社会になっていることから生まれた思想であろう。
 そうではあるが、一七〇五年にマンデビルは『蜂の寓話』で商売の源泉を『悪の根源という貪欲こそは、かの呪われた邪曲有害の悪徳。これが貴い罪悪である濫費に仕え、奢侈は百万の貧者に仕事を与え、忌まわしい鼻持ちならぬ傲慢が、もう百万を雇うとき、羨望さえも、そして虚栄心もまた、産業の奉仕者である』と書いている。そこには、人間の自己中心的な悪徳と欲望によって、経済社会を発展させているという本質がある。
 アダム・スミスは、自己中心の人間が市場を形成し、社会的な役割を果たす社会経済の構造を「神の見えざる手」によるとした。さらにヘーゲルやマルクスに継承されてきた視座は、それなりに論理的一貫性を失ってはい。
 〇八年から〇九年の世界経済の金融危機についても、アメリカの経済グローバル化が破綻したというメディア見解があるが、これこそ資本主義の資本活動の展開過程を示すものである。そればかりか、資本主義的活動が、まだ地球規模的に普及しておらず、まだら模様進行の段階と見ることが出来る。マルクスが資本論において明らかにした資本の論理は地球規模でまだ貫徹途中であるということだ。人類全体は、まだ資本主義の発展途上段階にいる。マルクスが間違えたのは、このような状況になると、飢えた労働者が怒って革命を起こすという想定をしたことだろう。実際は、バブルは崩壊しても、バブルでできたインフラは残るというということだ。したがって、経済拡大後、崩壊した経済規模は多少縮小するが、そのインフラを足がかりにさらに資本主義が発展するというのが正しい。これはマルクスが資本論で、当時のイギリス経済で同じデータを示しながら、解釈を違えて、パニックを革命と結びつけたことに誤りがある。40年前の私の大学の卒論はその具体的な指摘であった。社会の発展段階的変化は人の一生など乗り越えるほど、緩やかなものなのだ。
 ただ、マルクスは約百年前の人間であり、その詳細については時代の制約の発想がある。それだから百年後の資本主義社会の現状は現代人のほうが良く知っている。マルクスより私のほうが、現状分析に詳しいのである。
 科学的な原理でニュートンの引力の法則があるが、宇宙衛星を上げるのにニュートンの原理だけでは行っていないそうだ。だからニュートンの引力説は間違っているという者はいない。それと同じで、人間が自己中心であり、利己主義であるという原理は変わっていない。こういう発想を「レガシーな思想」と自分は名付ける。
 「レガシーな思想」では、人間は自己保存に最大の関心をもち、自己保存のために社会的関係に生きる存在である、という認識を重視する。

 それはともかく、文学表現は大きな時代のうねりの中にあるという見方からすると、どうであれその後の思想は、ポスト・モダンなどはさざなみのよう現象ではないのかと思う。では、このような小説概念が生まれる背景には、どのような流れが文学界にあったのか、を考えてみよう。(つづく)
【写真は、川崎ラゾーナの風景。ここは電気メーカー東芝の工場が集積していた地区であった。それが現在のショッピングとカルチャーセンターの町となった。まさに第3次産業の町に変わってしまった。それに新しさと、もの珍しさを感じるうちは、これからまだ成長する分野であることを示している】

詩小説    ある食べることの話        江 素瑛4

終戦直後に父は東京から故郷の台湾へ引き揚げた 戦火にさほど影響されなかった故郷は 稲が豊作であった 主食はもちろん米である 午後三時になると 子供達は母の作ったお八つを待ちきれないでいる 白いご飯や片栗粉にお砂糖をまぶしたものになることもが時々あった いま考えると そのとき母の面影の記憶が薄れていた 体調を崩し入院した時だったのか 忙しい父がとりあえずその砂糖御飯を作ったのだった 戦争経験のない私は 三食は白いご飯で おやつまでも砂糖入りの甘いご飯では 不満足である もっと楽しいおやつがほしかった やがて小さなパン屋が近所にオープン おやつは菓子パンに変わった 今の商店街のようなモタンなパン屋ではない 焼きたての甘い香りの メロンパン クリ―ムパン アンパン 三種類しかなかった オーブンからトレーをそのまま出し店頭におく すぐ売れ切れる人気だった 幼い頃の舌の味覚 半世紀を経た今も あいかわらず私たちの垂涎を誘う

オフィス街の雑居ビル 管理人室のガラス小窓の縁台に一匹の猫の顔が映る ぬいぐるみのようにじっとしている 窓外の私と目と鼻の距離で 猫は私の存在を気にもせず パン切れをむさぼり 人間の手で育てた猫は ネズミも喰わない 時々焼き魚を食べる 身体が肥えて 大きな目は 海のように青く冷たく 魚と言えば サシミの形しか認識できない今時の子供と焼き魚しか判らない飼い猫がある 管理室の中をのぞいて見ると そこは息つまりそうな 狭い事務室 大きな制服にすっぽりとくるまった管理人 昼食のメロンパンを頬張り インスタントみそ汁をすすり 西洋と東洋食文化を咀嚼する昭和生まれの平成人が見えた 
私は管理人室のドアをノックした 飼主の食事を邪魔したのか 猫の訝しい目は私を射た    (06 10 19)
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