埴谷雄高の人生は、結核にかかって変化した。「結核の最大の収穫はニヒリズムです。結核が、どうしても死を考えさせるわけですね。その先は何か。少年時代は非常に簡単に結論を出してしまうんです、とにかく無ですね。何をしてもしょうがないじゃないかと思い、注射を打ちに行くといって映画を観に行ったりする。」(「埴谷雄高 生命・宇宙・人類」、角川春樹事務所)。

 『そしてスティルネルの「唯一者とその所有」に出会った。これが思想的な影響としては決定的ですね。スティネルの「エゴイスト」は普通のエゴイストと意味が全然違って、「創造的虚無」というのかな、虚無の中に浮いているエゴであって、この「唯一者」のエゴを、国家も宗教も人類も理想も、あらゆるものが支配できない。という考え方ですね。それが結核のぼくにぴったり入ってきて重なってしまった』(同書)。ニヒリズムから、スティルネル的アナーキズムへ移行したという。

 自らの学生時代をこう語る。
「そのころの学校は、60年安保時代と似ていて、非常の左翼的です。しかもぼくが入った日大は、方々の高等学校を追い出された左翼がたくさんいた。このような環境ですから、クラスの中でマルキシズムの研究会をやっているんです」(同書)
 そこで誘われてマルクス主義思想に関心をもった。
――スティルネルにとっての幽霊の最大なるものは国家で、ぼくの中にもその意識がたえずありました。ところが研究会でレーニンを読むと、アナーキストは国家そのものを即座に解体してしまうが、われわれは国家がなくなるまでの間に過渡期の国家を持つ、と言っている。で、本当に過渡期の国家というものはあり得るのかと思って、ぼくは珍しく勉強を始めた。その時に、レーニンの『国家と革命』のタイトルを引っ繰り返して『革命と国家』という論文を書きました。これはプルードンの『貧困の哲学』がマルクスの『哲学の貧困』になったのとちょっと似た関係ですけど。レーニンはうまいこと言ってるんですよ。『国歌と革命』のいっとうしまいに、「あと党の大会を二回ほどやれば国家は死滅する。われわれの孫は死滅した国家をみるだろう」と言っている。その論証の仕方は非常に精密で、思索は飛躍的に奔放で、しかも説得的なんですね。――(同書)。

 埴谷雄高は、その理論に打ち負かされて、マルクス主義思想に傾倒することになった。思索の世界の論理的合理性から、現実の政治活動の現場に赴いたのである。しかし、私はマルクスやレーニンの国家死滅説(眠り込むともいう)というものは、いわゆる夢、ロマンとしてのユートピア説の域を出ていないのではないか、と思う。

 夢はいつか叶う可能性がある。しかし、それはいつのことかはわからない。社会の変革には時間のかかるものと、早いものとの二種類がある。変革が実現しない段階でのビジョンはロマンである。宗教でいえば仏陀やキリストの思想は、当初はともかく、男女平等と階級差別を否定した。しかし、インドのカースト制やその他の国々の男女差別、人種差別はまだ存在する。それでも、そのビジョン向けた変革は続くであろう。

 これと同じに、国家の死滅というビジョンは、ひとつのロマンの段階である。そういう意味で、埴谷雄高はロマンチストであった。マルクスの国家死滅ビジョンは、もともと、羊を連れて国境を越える遊牧民の伝統を背負った思想の反映のような気がしないでもない。マルクス主義は遊牧民の神ヤハウェを源流とするキリスト教と表裏一体の思想をもっているようだ。

 いずれにしても、人間の社会的関係のもとは、人間の自己中心的本質をどう制度的にどう調整するかというところにある。そこに、人間の意識転換の必要性を予感した時に、埴谷雄高は「AはAである」「俺は俺である」という発想に人間社会の限界性を観たのではないか。そこに「自同律の不快」を感じたと読むことができる。そのことによって、小説「死霊」では、人間思弁の限界から脱出し、同時に自己存在観をニヒリズムから脱出させようと試みたように思える。(完)