小説「仮装人物」の梢葉子、モデルである山田順子の存在について、秋声は彼女への弁護的な視点を加えて、その特性のすべてを作中に描きだしている。
 彼女の男性遍歴について、世間の評判は良くない。だが、それは時代の見方による。前にも述べたが、地方の裕福な家庭で不自由なく育ち、メディアの発達によって、都市文化の動向を身近にした時、自己表現に意欲的な彼女が、地方に埋もれることを望まないのは、当然であったろう。
 順子の自伝的小説「流るるままに」には、次ぎのような部分がある。
『自己を開く、自己に合った運命の鍵を拾い当て得ずに懊々として生涯を終わる多くの人も有る。かかる人こそなんという哀れさ、不幸さであろう。(中略)しかし、機会は何時か屹度来る』
 時代を越えて、今にも通じる普遍的な欲望がここにある。この自分の人生に華やかなドラマの彩りを添えてみたいという欲望は、現代においても見られる根源的欲望である。現在、でも流行作家あるいは、芥川賞作家になることで、立身出世を果たした、という意識の作家は多いのではないだろうか。
 それにしても、結婚して小樽に行き二児をもうけ、さらに三人目が八か月という身重をもって、女流作家として売り込むため、亭主を連れて秋声を訪ねるという行動力には、驚きではあるが……。実に「翔んでる女性」だった。
 その後、離婚したあとも男遍歴が続く。それは生活をしながら、自分のロマンを実現するため美貌を武器とした遍歴であった。秋声の「仮装人物」には、母を亡くした庸三の幼い娘を可愛がり、懐かれる様子が描かれている。彼女は必ずしも好色や淫乱の女ではなかった。好色なのは、彼女の周り男達で、彼女は強かにそれを利用した。官能的な行動の奥には、違った生活をしたい、何かの中心になりたい。自分に注目をさせておきたいという欲望に動かされていた。どの男も彼女の主体性を奪うことは出来なかった。それは相手が秋声であっても同じである。自分を支援する力があるかどうか、男を選ぶにあったっては『いつも用心深く、抜け目がない』と秋声は作中に記している。
小説の最終は『そして其の時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』
となっている。しかし、順子をめぐる事件の回想と、物語を創る過程には、失われた順子との時が甦り、作者の晩年の空虚さを大きく埋め立てたに違いない。
 それは、常に冷徹さを装う彼の筆遣いが延々と順子の生態を書き記していることに証明されている(彼女との関係の本質は、自ら繰り返し明快に語っているにもかかわらず、である)。
 十四の章で、(ここで彼とあるのは庸三のこと)『恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修業と世の中へ押し出してもらうことが彼女の兼々の願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔もその瞬間消えてのも当然だったが……』とあるように、その後も機会あることに、そのことに触れる。
 葉子の功利的な態度への恨みを漂わせた物言いにも受け取れるこの表現は、庸三、つまり仮装人物の意識である。
 その意識を自虐的に描くことで、秋声は『真実』の表現に到達したという構図に読める。
 執拗にこれにこだわる秋声は、「物の見方によっては、真実は様々であるから、自分はそれを書くだけである」という、従来の態度保留から一歩踏み込んでいる。葉子の心を失ったことと、文壇的名声を失った気持ちの二重奏。その真実の程はわからないが、本心は後者の方に比重があったような気がしないでもない。
 もし、そうだとしたら、この作品で第一回菊池寛賞を受賞したのは、本望であったかも知れない。