川合氏の自伝のなかでは、ミステリー作家の仁木悦子(1928〜1986)について触れている。カリエスの後遺症のなかで、独学で文学を志した人だ。江戸川乱歩の支持を受けた作家に川合氏が注目したのは当然あろう。フリー百科事典による仁木悦子の業績はつぎのようなものである。
『幼時に胸椎カリエスを発病し、歩行不能になる。児童文学を書くが、1957年に推理小説『猫は知っていた』で江戸川乱歩賞を受賞。明快で爽やかな作風で、戦後女流推理作家の先駆けとなった。1981年には「赤い猫」で日本推理作家協会賞。夫は歌人、翻訳家の後藤安彦』
『4歳のときに胸椎カリエスを発病し、発見が遅れたために両足が麻痺し、歩行不能になる。それ以来寝たきりの生活となった。学校へは行かず、独力で学んだ。終戦までに兄が戦死、母も死ぬ。戦後は次兄の家族と住み、このころから童話を書き始める』
『やがて姉の影響でハヤカワ・ミステリなどの推理小説を読み、自らも長編「猫は知っていた」を書いた。河出書房新社が『探偵小説名作全集』の別巻として公募した推理小説コンクールに応募したが、入選発表を前に河出書房の経営が行き詰まり刊行中止になった。これが第3回江戸川乱歩賞に回され、受賞した。このとき選考委員であった江戸川乱歩の選評から、「日本のクリスティー」と呼ばれるようになった。作者の境遇が世間の注目を集め、推理小説ブームの一角を担った』

 自伝では、川合氏の勤めていた会社の同僚が、知人と共同で印刷会社を起業する話が記されている。
 この結果、経営が不振で知人の社長は突然、姿をくらましてしまったという。残った川合氏が負債を抱えた会社の経営者となり経営を立て直すことになる。わたしは、川合氏からよく思いで話として聞かされたものだ。
 これらは昭和三十年代に入って、池田勇人総理の国民所得倍増論などの高度成長政策が成功した時代のことになる。川合氏の自伝にはこうした時代との関連が記されていない。この辺が、わたしには不思議におもわれる。
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(承前)<川合清二氏の自伝的作品「続・あやつり人形」から>
 そのあと清二ははじめて母親に願い事をした。入ったばかりの印刷所をやめて、家でガリ版の下請けをしながら、小説を書きたい、あと一年か二年頑張れば何とかなると思うから、といったのだ。同じカリエスの病気を持つ仁木悦子氏が乱歩賞を取ったというニュースも刺激になった。
 97a46684.jpg(在りし日の川合氏)
 母の加寿子は反対した。しっかりと経済的な基盤ができてから、趣味として小説を書けばよいという。せっかくガリ版を覚えたのに、下請けでは不安定だという意見は、たしかに当たっていた。
「大体あなたはまだそれほど上手でもないのに、下請けで注文なぞこないですよ」
 これまでに何日か、小説を書くために休んだことまでバレてとんだ薮蛇に終わった。

 小説家に変身はできなかったが、このことが知れてから“天”の会の中では清二は一目置かれるようになった。
 しかし、小説を書く時間は減る一方だった。三枚や五枚の切れ切れのものを書く時間しかない。
 仕事の時間以外に“天”の会に割く時間が馬鹿にならなくなったのだ。池上の家から石神井公園の若杉さんの家や、池のほとりの集会場所まで一時間半はかかる。休みの一日がつぶれるのだ。ほかに知りあった友達と神田であったりして、肝心の書くための時間はどんどん減っていく。
 仕事のほうもだんだん難しくなった。
 夏のあいだ涌井さんの義弟という人物が年中訪ねてくる。このひとは同じ軽印刷業者だが、涌井さんより山っけがおおい。
「にいさん。これからは零細な業者は立ち行かなくなっていくだろう。一緒になって、株式会社を作ろうじゃないか」
「お前、そんなことをいっても、共同で何かをやってうまくいったためしはないぞ」
 涌井さんは乗り気ではなかったが、最後は中澤さんに説得されてしまった。資本家に涌井さんの知り合いの写真館の館主を持ってきて、着々と準備が進んだ。
 お互いの従業員はすべて引きとって新会社に吸収するという。もっとも涌井さんの方は他人と言えば清二ひとりだったが。
 新しい会社の登記やそのほかの手続きや場所の見学などにまで清二も付あわされた。涌井さんとしてはごたごたしているときに、放っておいては仲間はずれにされたと清二が僻むといけないと思ったのかも知れない。
 神田神保町に人生劇場という映画館がある。そのすぐ横の路地を入ったところにあるビルの二階だった。印刷機や和文タイプの機械を運びこみ、真新しい机に清二はガリ版のやすりを並べた。中澤さんの引き連れたメンバーが六人、涌井さん夫婦に清二と二人の親戚関係の人間が入って、ちょうど十一人ほどの総勢であった。
 居酒屋の二階で気勢をあげて、新会社の発足を祝した。
 ビールやウイスキーをしこたま飲まされて、また新しい体験を清二はした。アルコールに酔って浮遊状態になる体験である。
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