――さて、本当にそうなのだろうか? かつてテオドール・W・アドルノは「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と主張して物議をかもしたが、もし彼に表題の問いを投げかけたとしたら、果たしてどのような反応を示すだろうか。
アドルノの主張の核心は、私見ではあるが、圧倒的な「事実」の存在の前にはいかなるレトリックも無力である、という部分に求められるのではないかと思う。実際、先の震災の後、我々はCMで流れ続けた女性詩人のフレーズをはじめとして、詩やそれに類する数多くの言葉の氾濫を目の当たりにするはめになったが、そのどれもが例えばYou Tubeに投稿された襲いくる津波や瓦礫の山が有する一瞬の「事実」の重みに比べれば、どうしても空疎な仮象に映ってしまう。
それはなぜなのか。答えは案外、明瞭だ。我々が積み上げる何千、何万にも及ぶ言葉の羅列には、何かを隠蔽したいという無意識の働きが作用しているからである。アドルノが拘泥するのも、まさにこの部分だ。世界には、明らかに我々が目をそむけ続けてきた多くの消失点がある。アウシュビッツや震災は、そうした「目をそむけ続けてきたもの」を時ならずして我々の眼前に不意につきつける。
だから、最初の問いに戻りたい。「震災以降、AVを語ることは野蛮か」と。この問いの有する不謹慎さや――もっと言えば不気味さは、「我々が如何ともしがたく人間である現実」への根本的な不快感に端を発している。3月11日、あの瞬間、AVを観ていた人が皆無だったとは思えない。セックスをしていた人が皆無だったとは思えない。排便をしていた人が皆無なわけはないであろう。
――やはりこれは不謹慎な文章だろうか。高橋源一郎の最新作、『恋する原発』(講談社)は、露悪的なまでにこうした「我々が目をそむけ続けてきたもの」を描き続ける。「大震災チャリティーAVを作ろうと奮闘する男たちの愛と冒険と魂の物語(本書オビより)」であるところの本作は、しかしその文中に一体いくつ、「まんこ」と「ちんぽ」という単語が使われているのだろうか。恐らくフランス書院文庫の書き手ですら(いや、プロである彼らであればなおさら、であろう)、このような「無粋な」表現は用いない。物語の最後、9月11日(この日付が何を意味するかは想像の通り)、福島第一原発前特設会場にて、一万組を集めた野外集団セックスが催され、そこには「オザワイチロウ」や「アサハラショウコウ」、さらにはマイケル・ジャクソンや尾崎豊などの死者たちも参加している。
書いている私もクラクラしてくるのだが、そこに展開される光景は、前述の通り、避けがたく「人間」でしかありえない我々の写像そのものである。直視しえぬほどに醜く、不謹慎なまでに恥辱にまみれた人間という存在。しかし、あらゆる修辞をはぎとった生身の人間の姿を通じてしか、震災以降、もはや我々は「物語」を表出しえないのではないか。あるいは、そうした回路を経由しない「物語」は――アドルノの言葉を借りれば、野蛮であると判じざるをえないのではないか。高橋源一郎は、あたかもそのように訴えているかのようでもある。
小説は、「震災文学論」という断章をはさむ形で構成されている。川上弘美や石牟礼道子の作品を参照軸として、文学の言葉が担うべき追悼のあり方について論じたこの一章には、下ネタやおふざけの要素は一切ない。それだけに、ネット上では、この部分こそ当該作品の本体なのではないか――あるいは逆に本作における最大の蛇足である、と評価が真二つに分かれているようだ。私の印象では、何やら作家の「照れ」の表れのようにも思える。しかし、仮にこの異質さが作品全体の均衡を崩しているのだとすると、震災以降の文学は、もはやこうした不安定さの上にしか成り立ちえないということなのかもしれない。
アドルノの主張の核心は、私見ではあるが、圧倒的な「事実」の存在の前にはいかなるレトリックも無力である、という部分に求められるのではないかと思う。実際、先の震災の後、我々はCMで流れ続けた女性詩人のフレーズをはじめとして、詩やそれに類する数多くの言葉の氾濫を目の当たりにするはめになったが、そのどれもが例えばYou Tubeに投稿された襲いくる津波や瓦礫の山が有する一瞬の「事実」の重みに比べれば、どうしても空疎な仮象に映ってしまう。
それはなぜなのか。答えは案外、明瞭だ。我々が積み上げる何千、何万にも及ぶ言葉の羅列には、何かを隠蔽したいという無意識の働きが作用しているからである。アドルノが拘泥するのも、まさにこの部分だ。世界には、明らかに我々が目をそむけ続けてきた多くの消失点がある。アウシュビッツや震災は、そうした「目をそむけ続けてきたもの」を時ならずして我々の眼前に不意につきつける。
だから、最初の問いに戻りたい。「震災以降、AVを語ることは野蛮か」と。この問いの有する不謹慎さや――もっと言えば不気味さは、「我々が如何ともしがたく人間である現実」への根本的な不快感に端を発している。3月11日、あの瞬間、AVを観ていた人が皆無だったとは思えない。セックスをしていた人が皆無だったとは思えない。排便をしていた人が皆無なわけはないであろう。
――やはりこれは不謹慎な文章だろうか。高橋源一郎の最新作、『恋する原発』(講談社)は、露悪的なまでにこうした「我々が目をそむけ続けてきたもの」を描き続ける。「大震災チャリティーAVを作ろうと奮闘する男たちの愛と冒険と魂の物語(本書オビより)」であるところの本作は、しかしその文中に一体いくつ、「まんこ」と「ちんぽ」という単語が使われているのだろうか。恐らくフランス書院文庫の書き手ですら(いや、プロである彼らであればなおさら、であろう)、このような「無粋な」表現は用いない。物語の最後、9月11日(この日付が何を意味するかは想像の通り)、福島第一原発前特設会場にて、一万組を集めた野外集団セックスが催され、そこには「オザワイチロウ」や「アサハラショウコウ」、さらにはマイケル・ジャクソンや尾崎豊などの死者たちも参加している。
書いている私もクラクラしてくるのだが、そこに展開される光景は、前述の通り、避けがたく「人間」でしかありえない我々の写像そのものである。直視しえぬほどに醜く、不謹慎なまでに恥辱にまみれた人間という存在。しかし、あらゆる修辞をはぎとった生身の人間の姿を通じてしか、震災以降、もはや我々は「物語」を表出しえないのではないか。あるいは、そうした回路を経由しない「物語」は――アドルノの言葉を借りれば、野蛮であると判じざるをえないのではないか。高橋源一郎は、あたかもそのように訴えているかのようでもある。
小説は、「震災文学論」という断章をはさむ形で構成されている。川上弘美や石牟礼道子の作品を参照軸として、文学の言葉が担うべき追悼のあり方について論じたこの一章には、下ネタやおふざけの要素は一切ない。それだけに、ネット上では、この部分こそ当該作品の本体なのではないか――あるいは逆に本作における最大の蛇足である、と評価が真二つに分かれているようだ。私の印象では、何やら作家の「照れ」の表れのようにも思える。しかし、仮にこの異質さが作品全体の均衡を崩しているのだとすると、震災以降の文学は、もはやこうした不安定さの上にしか成り立ちえないということなのかもしれない。
テレで書くのは日本人の悪いくせで、直球勝負であれば、文学の様式は問わないでいいと思う。喜劇は良いが冷やかしはやめたがいい。
皮肉もユーモアも良いが、ダジャレはやめたが良い。学も芸も良いが冷かしでは文学ではない。