一九四二年に満州で生まれました。翌々年に母とともに帰国しました。
名古屋郊外の安国寺という寺で四年生まで育ちました。
外狩で検索すると外狩素心庵がヒットするはずです。父の祖父で美術評論家です。寺の住職でしたが東京で活躍した人です。お祖父さん子の父も東京で育ちました。
母も大沢家の三女で東京人です。寺は私の祖父の雅章が住職を守りました。私が雅巳・妹が章子です。祖父が亡くなり祖母と母とで父の復員を待ちました。
復員後の父は住職にならず。町の中学教師になりました。田舎暮らしが不服でした。東北学院の教職に有りつき家族で仙台に移りました。郊外の県営集宅に住みました。
学者肌の父は戦争での挫折が不満で周囲に当たりつけていました。家族にもぶつけます。学力の無い私は中卒で家を出されました。勉学より遊びを優先して勘当されました。
素肌にされ殴られ蹴られ、屋外にまで追い回されました。夜中に母に衣服を貰い、以来家を出ました。
家は弟が守り通しました。父は最後まで家族と和解せず頑固に死んでゆきました。折箱店での丁稚奉公・時計職人見習い・眼鏡店の小僧。仙台での三年間は惨めな日々でした。
朝日新聞配達店の奨学店員の新聞広告に問い合わせ川崎に来たのは十八歳のときでした。首都圏では銭湯店員・臨時工・日雇い労働者・組立工と転職を続け何とか自立してきました。
夜間高校も無事卒業し二十一歳で國學院大學二部に入学しました。前途に夢を抱きました。
しかし、クラス委員になり学生自治会に関わり転落の人生が始まりました。
革マル派の拠点校です。一九六四年の日韓条約反対闘争を皮切りに学生運動に飛び込みました。黒田寛一の演説に陶酔したり、警察署に拘置されたり、退学になったり、何でもありの日々でした。
二十四歳からは真面目な勤労者になろうとしました。しかし、今度は労組作りに関わりました。大田区での労働運動の日々は充実していました。セガ社での労組書記長時代は輝いていました。
■関連情報=「作家・外狩雅巳のひろば」
名古屋郊外の安国寺という寺で四年生まで育ちました。
外狩で検索すると外狩素心庵がヒットするはずです。父の祖父で美術評論家です。寺の住職でしたが東京で活躍した人です。お祖父さん子の父も東京で育ちました。
母も大沢家の三女で東京人です。寺は私の祖父の雅章が住職を守りました。私が雅巳・妹が章子です。祖父が亡くなり祖母と母とで父の復員を待ちました。
復員後の父は住職にならず。町の中学教師になりました。田舎暮らしが不服でした。東北学院の教職に有りつき家族で仙台に移りました。郊外の県営集宅に住みました。
学者肌の父は戦争での挫折が不満で周囲に当たりつけていました。家族にもぶつけます。学力の無い私は中卒で家を出されました。勉学より遊びを優先して勘当されました。
素肌にされ殴られ蹴られ、屋外にまで追い回されました。夜中に母に衣服を貰い、以来家を出ました。
家は弟が守り通しました。父は最後まで家族と和解せず頑固に死んでゆきました。折箱店での丁稚奉公・時計職人見習い・眼鏡店の小僧。仙台での三年間は惨めな日々でした。
朝日新聞配達店の奨学店員の新聞広告に問い合わせ川崎に来たのは十八歳のときでした。首都圏では銭湯店員・臨時工・日雇い労働者・組立工と転職を続け何とか自立してきました。
夜間高校も無事卒業し二十一歳で國學院大學二部に入学しました。前途に夢を抱きました。
しかし、クラス委員になり学生自治会に関わり転落の人生が始まりました。
革マル派の拠点校です。一九六四年の日韓条約反対闘争を皮切りに学生運動に飛び込みました。黒田寛一の演説に陶酔したり、警察署に拘置されたり、退学になったり、何でもありの日々でした。
二十四歳からは真面目な勤労者になろうとしました。しかし、今度は労組作りに関わりました。大田区での労働運動の日々は充実していました。セガ社での労組書記長時代は輝いていました。
■関連情報=「作家・外狩雅巳のひろば」